需要がないのに宅地でも新築の家が作られる矛盾
(新たに仕事を作り出すー家のリホームと庭のリニューアル)
人口を減らしたくないという市町村の事情と、常に新築住宅を作り売らなければならないようなビジネスモデルになっている住宅会社の事情、さらには資金の活用先を増やしたい金融機関の事情から、人口減少が明白であるにもかかわらず新築住宅は増えている。
市町村など自治体にとって人口減少は税収減や地域経済減退につながるのでなんとしても避けたいものだ。総人口が減るなかで、自分のところの人口を減らさないためには近隣の他市町村から住民を引き抜いてくることしかない。すなわち自治体間での住民の取り合いとなる。
それも市街地の中心部や周辺ですでに発生している空き地や空き家を埋めるようにすれば良いのだが、実際は前述のような理由からそれがなかなかできず、それらを放置したまま別の場所に住宅を新築させようとする。
銀行など金融機関も、低金利下で稼ぐ手段として前記の住宅会社と組むケースが出てきた。その中でも土地も資金も持たない個人に対し融資をし、住宅会社が進めるオーナー商法に積極的に協力するところも現れた。
「ローンの返済ができない」などの問題も…人口減少の日本で「新築住宅が減らない」4つの理由
その大工さんは家のリフォームの後庭もリニューアルするとして石の配置を変えたり私がいらないという花の木を切ったりした
花でも同じものをいつも見ていると飽きる。
庭でも何か同じだと飽きる。それで自分自身が新しい花を買ってきて植えた。それで足りないので何種類かの花をコメリからかっ咲かせる育てることは野菜を作るように土とかとも関係してめんどうなのである。
だから人間はあらゆることに通じることは不可能である。
私自身は庭に花を自ら植えたりしたがそれ以上変えるつもりはなかった。でも大工兼庭師が勝手に変えたのである。
それは悪いものではなかった。それなりに前とと違ったものとなりリニューアルされたのである。
それならまた金を払ってもいいと納得した。
このように庭のリニューアルでもリフォームでも前よりよくなればそれに金を払う。その人は今度は墓も作っていたので墓石が汚れているとしてそれを落とすということを言った。
確かに石が汚れて赤くなっている。だからそれも必要なのかと思った。
つまりその人は新たな仕事の需要を見つけたのである。
ただ金のない人はそんなことしなくてもいいともなるだろう。
ここで考えたことは今なかなか仕事がない時代になっている。
何か仕事と言うとき老人が増えれば病気とか介護になりその方面の需要は増えてくる。ただ仕事は需要があってこそある。でもまた新たに新た需要を作り出すことによって仕事も生まれる。
私自身庭を変えるということを少しは考えてもそんなに庭を変えようとは思っていなかった。そこに需要を自ら見出していなかったのである。
何か現在の仕事は新しく家を建てたりすることができなくなっている。少子高齢化でもあり若い人が少なければ家を建てる需要も
減少してくる。
この辺で新築の家が増加したのは原発事故の避難者が故郷に進めなくなった人たちが移住してきたからである。
だから新しい町が三つくらいできた感じになる。新興の住宅地ができたのである。
それも一段落したそれでもなぜ新しい住宅造成地ができるのかとか大東建設のアパートがまたできるのかと疑問だった
そんなに需要があるのか?
もうそんなにないのに依然として開発がなされていることがわからなかった。この記事を読んで明確に理解した
需要がないのに無理して作らねばならない理由がわかったのである。人口減少で自治体間で人の奪い合いになっているという説明である。この辺は原発事故で人が流動した。そして避難区域でわ
家は捨てられ田畑も捨てられ荒廃したのである。
でも周りの市や町に移住してそこは帰って人は増えたのである。このことは特殊なことであるが他でも起きていたことなのである。人口減少で人の奪い合いになっているということである。
需要がないのに土地造成をしてアパートを建てている。でもそうせざるを得ない理由が社会にある。
銀行でも貸付先がないから需要がないのにか金を貸して需要を作り出しているのである
現代は供給過剰社会になっている。だから空き家が増えても利用できるとしてもしない、新しい家を作りつづける。
経済理論では江戸時代でも常に大火がありそのために家が新築されるから需要が生まれて景気よくなったとなる。
戦争になれば奇妙だが家でもインフラでも破壊されるからやはり巨大な需要が生まれて景気よくなる会社も生まれる
経済にとって需要は大きな問題である。それであえて需要を作り出すため公共事業を国で作り出したケインズ理論が生まれたのである。ピラミッドの建設も需要を作り出す公共事業だったという新説もこのようにして生まれたのである。
供給と需要は密接な関係がある。供給が先か需要が先かとなると簡単に決められない、供給しても需要がなければ経済はまわらない、 百万都市の江戸は消費地として発展した
何か生産したわけではない、諸国の大名が集まる大消費地だったのである。別に何かを生産することもなかったのである
ともかく現代は供給過剰社会であり何か需要を見出すことがむずかしいにである。戦後の焼け野原だった何もなくなったから膨大な需要が生まれた。小さな店でも物がないから物を置けば売れたのである。需要に供給が追いつかなかったのである。
でも今は供給過剰社会である、これほど空き家があるのに利用されない、新しい家を建てつづけている。そうしなければならない理由がある。それは需要がなくても消費者側とは関係なく生産者側の要求でそうなっているのである。
でも少子高齢化社会では様々な新しい需要が生まれにくい、病気が増えるとか介護が増えるとかの需要が増大する、でもそれが経済成長には結びつかないのである。