2023年02月01日

ダイユーエイトの敷地にある田母神の社 (冬に見えた珍しい鳥ーマミチャジナ?)

ダイユーエイトの敷地にある田母神の社

(冬に見えた珍しい鳥ーマミチャジナ?)

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めずらしやマミチャジナイ群れ飛びて枝にゆられつしばしとまりぬ

うぐいすの二羽庭に来て飛び去れりめずらしきかな冬にこもるも

松一本御田母神の守りけり何を語るや冬のくれかな


今日は朝に鶯が二羽庭に来た、冬になると餌がともしいから鳥が餌を探してくるのかもしれない、庭の木の実などを探しにくる、外に出たら頭に白い筋が入っていて腹がモズのような色をした鳥が群れて飛んできた、これはつぐみかと見たが違っている
腹の色が違っている、でも何かと調べたらマミチャジナイとかあった
これならそうらしい、でも聞いたこともない名なのでそうなのかと見た
名前自体がなじみがないからだ、でもツグミでないとするとそうなる
鳥はなかなか見分けにくい、ゆっくり見ていられないからである
写真をとるのもむずかしい、すぐ飛び去るからである
ただ偶然カメラに写っていた、だから間違いないのかとも見た
冬の鳥は葉陰とかに隠れないので見やすいということがある、写真にとるにはいいとしてもすぐ飛び去るからむずかしいのである

ダイユーエイトの入り口に「御田母神」がある、

田母神俊夫という自衛隊の幹部の人が一時有名になったけどこの人は郡山市田村町の出身だった、ここに田母神の地名がある

田母神村: 江戸時代から明治時代中頃まで陸奥国安積郡(田村郡)にみられた村名。当初は白河藩領、寛保元年幕府領、寛延2年常陸笠間藩領、安永6年幕府領、同7年磐城平藩領、寛政3年からは常陸笠間藩領と推移


ここが笠間藩に一時なっていた、笠間焼がありそこで絵付けとかして遊んだことがある、茨城県にはあまり藩はないし城もなかった、だから観光する場がなかった
ただ焼き物から見ると笠間焼とかあるのは江戸時代からあったとなる
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田母神{田母神}の発祥地はここであり田村というとき田村の姓が近くにもありそこから移住してきた人があったためだともなる
この田村は坂之上田村麻呂にも由来している古代からのものである
南相馬市の鹿島区の大内村に坂上田村麻呂に由来する御堂がある
つまり古代から田村とは関係していたのである
それは800年代だから古いのである

いづれにしろあそこはもともと田があり田母神が祭られた、でもその由来はここではない田村町の田母神の神も人ともに移動してきたのである
そういうふうに神も移動するのである、移動するとき人がいて移動する
御神体も人とも移動するのである

いづれにしろここに田があったとき田母神様が活きていた、でもダイユーエイトができたとき田がなくなりただ社だけが残ったとなる
こういうことはいくらでもある、そもそも神田とあれば神の田でありそれが東京のど真ん中にあってももう田をイメージなどできないからである
ただ小さな社でもビルの谷間に残っている、ということはその社でも残っていれば何かを昔を語りつづけけいるのである
でもそれが何かなのかは不明にもなる、何か伝えるために残っている
今この社を守っているのは松一本だとなる
前は六号線であり車が毎日往き来してもこの社に目を留める人はいない
私はダイユーエイトができる前からこれを知っていたらその変わりようを書いた
つまり郷土史として書いたとなる






2023年02月02日

宮台氏を襲って自殺したのは引きこもり (引きこもりの危険と現代社会の問題)

宮台氏を襲って自殺したのは引きこもり
(引きこもりの危険と現代社会の問題)

宮台真司さん「(男の)年齢は、でている通りロスジェネ世代。無差別殺傷事件を起こす人が多く生まれている。容疑者がなくなったことはかなり残念。容疑者の襲撃の動機がわかるかな、というところに興味がある」
宮台さんは2022年11月、東京・八王子市の大学のキャンパスで男に切りつけられ重傷を負っていて、容疑者とみられる相模原市の無職の41歳の男が、事件からおよそ2週間後に、自宅で死亡していたことがわかった。
自殺とみられている

この犯人は引きこもりであった、家族と一緒に暮していたが別に部屋を借りて一人で暮らしていた、働かなくても暮していけていた、家族が援助していたからであ

ではなぜこんな殺傷事件までになったのか?

これが疑問である、宮台氏とのかかわりでそうなった、何か日ごろから宮台氏の発言に不満があった、思想的に反発するものがあった、それが引きこもりになってネットとかで発言していたのかもしれない、ネットウヨとかも言われた人達がいた
ただこの人がどういう発言をしてどういう思想の持主かはわからない
ただわかったことは引きこもりであり家族からも分離しても無職であった
そこで一日中何をしていたのか?なぜ宮台氏を殺したいほどになったのか?
その辺がわかりにくい、思想的に反発するものがあったからなのか?
でも相手刃物で襲うということは相当に何か宮台氏にかかわるものがあったとなる

私がこの事件に興味を持ったのはやはりこの人が引きこもりだったとういことである
そのことで自分自身の経験から前から述べてきた
ただ団塊の世代で引きこもりなどほとんどいない、ほとんどが企業戦士とかなり馬車馬のように働いた、そして高度成長時代を築いたのである
中卒も多く金の卵として都会で働いた時代である、その時代の差がある
私は特別恵まれて三流大学を出ても就職もしなかったのである
そういう人はまれだったのである、でもふりかえれば私は必ずしも引きこもりではなかった、なぜなら20代とかは底辺でも労働していたからである
そして大学は東京だったから親元を離れた生活をしていたからである
それが人間形成に良かったのである、かわいい子供には旅させろというのがわかる
親元を離れて人は一人前になる、でも社会になじめず引きこもりになったのである

こうして引きこもりの経験者だからその心情が理解できるのである
引きこもりは社会性が喪失してゆく、一人閉じこもっていると上から命令されるものもいない、別に上司にしかられることもない、ただ一人でありそうなると何か自分自身が偉いという感覚にもな実際は落ちこぼれでも誰かに雇われる使われるとかではない
自分が常に主人でいられるのである、ただ親がうるさければそれが問題とはなる
でも親が許していれば三食つきであり親は召使のようになっているからいい身分なのである、私は30歳からそうして引きこもりだったのである、それも30年間とか長いのである
だからそれをふりかえったとき異常だったとなる
ではその30年間何をしていたのか?それは自分の好きなことをしてきたのである
主に旅をしてきたことになる、それで地名に興味をもってその方面から歴史とかに興味をもったり詩歌を追及して来たのである

ただふりかえりこういう人生は危険なものでもあった、社会性が喪失して何か変な方向に向かうことになる、だからアウトサイダーとも似ている、でもそういう人は特別優れた天才とかなっていた、今はそれが普通の人でもなる普通のことになったのである
なぜなら本当に引きこもりというかニートというかそういう人達が田舎でもいる
なぜか自分はそういう人達と逢うのである、類は類を呼ぶということにもなる
そういう人を見ると何か体も貧弱であり劣っている、だから社会に適合できなかったのかと見る
一方でアウトサイダーとなると全然違っている、むしろ優れていて社会に適合できない天才が多いとなる
そしてそういう人は狂気になった、ニーチェでありヘルダーリンであれ文学の分野でそういう人がいる、そういう人達はむしろ特別優れていて社会に適合できなくなったのであるでも今の引きこもりは普通の人でありむしろ何か劣っていてそうなった人達である
ただその数が多すぎるから何なのかとなり社会問題になったのである

ただ何かアウトサイダーと似ているのである、ただこれだけ数が多いということ別な問題として引きこもりが生まれたとなる、引きこもりの効用としては社会から離脱して人と極力交わらないとういことで禅僧のようになる、沈黙業をすることになる
それは寺だったら許されるが社会ではそういうことは許されないのである
でもその効用はある、沈黙するということは自然と一体化するのにはいいのである
なぜなら大地であれ山であれ木であれ石であれ沈黙しているからである
だから自然と一体化するには沈黙をすることを学ばねばならないのである
でもそれは社会にいてはできないことである、また社会から離れて生活することは社会のことはわからなくなり危険にもなる、社会の常識から逸脱してゆくのである
だからインタ−ネットとかが生まれてネット空間だけで対話などしているとおかしくなるこの人はどういう状態でそうなったのかわからない、わかっているのは引きこもりだったということである、でもそれが危険なことは理解できる

つまり小人閑居して不善を成す・・・これなのである、また君子危うきに近寄らず・・なのである、一般的に小人はそうなる、隠者とかになり閑居することはハードルが高いのである、よほど優れた人でないとできないのである、だから若い時は社会人として働き社会的常識を身に着けた方がいいとなる、その後に引きこもりになってもそういう人はまた違ったものになるかもしれない、この人がなぜこんな犯罪を犯したのか、そしてまた自殺したのか・・・・・これは引きこもりした結果として起きたことである
それは私が経験したことで理解できるのである
これは現代的問題でもある、それだけ引きこもりが多いからである、もう一つの問題として社会に適応できないというとき社会で自分に合った職業などにつけないことがある
そんなこというのは贅沢だというのもわかる

でも現実問題として別に仕事が嫌ならやめても生活に困らなければ引きこもりになるのは当然だともなるのである、自分に合わない仕事をしてもまた精神が病んでくる
それで現代でぱうつ病が増えているのである、それは天職などにつける人が少ないからである、何か機械の歯車のようにされるのが現代社会である
私自身の仕事も流れ作業とかしかなかった、それで仕事自体に嫌悪を覚えるようになった別に自分に合った仕事があればそういうことがないのである
それは確かに甘えだともなるが別に生活できれば親でも援助してもらえるなら自然とそうなるのである

とにかく引きこもりは百万人一人くらいの天才的アウトサイダーとかは違うものである
でも似ているのである、社会から脱落したとしても別に生活できるなら社会で無理して働くこともないとういことである、いづれにしろ天職につける人などこの世にどれだけいるのか、社会に適合したとしてもただ社畜だとか自ら言っているように奴隷だと言っているように不本意なものとして働いているのが大多数にもなる社会である
そこに根本的問題がある、ただ引きこもりとはアウトサイダーとは違って何か能力的にも欠けている、体自体が何か貧弱な人が多いようにもみえる
すると力仕事ができないとういことで建築土木関係の仕事にもつけないのかとも見る
それは天才的アウトサイダーとは似ていても相当に違っているとなる

確かなことは人間は天職につける人はまれでありそんな仕事をなど与えられないのである社畜であり奴隷的仕事が多いということである、昔の職人だったらそういうことはない
自分の仕事に誇りをもっていた、だから下駄一つでも作った人の名前がついていたり
今でも近くで包丁を作っている人がいて名前がついたりしているのである
手仕事の時代はそうして自分の作ったものに誇りをもっていた、今は大量生産になればそういうことはない、みんな巨大の組織社会の部品化するのである
昔は徒弟制度などがありふそこで技を磨くだけではなく人間として教えられるものがあった,今はそういう場所がなくなった
学校は膨大な知識知識を詰め込む場所であり人間と人間が向き合うような教育はなくなった,本質的に人間を育てる場所がなくなったのである、それは社会自体の機能不全でもあるそこそこに教育というだけの問題ではない解決しないのである

そして大衆化してナチス化する、それは現代文明社会の病理的現象なのである
カルト宗教団体でもそうである、それはアウトサイダー化したものより最も社会に適合するものとして生まれたのである、なぜならその組織は軍隊化していて結局現代社会と適合するものとして生まれた、それが極端になるとナチス化するのである
そこに一切もともと宗教を追及しているものなどないのである

でも数が多いとういことは社会化して権力化するから正常として認められるのである
ということは現代文明社会事態が異常だともなる、そうして何が異常か正常かもわからないのが社会なのである、それで文明社会を極端に否定するアウトサイダーが生まれたのである、その人も異常にしろ社会も異常なのである
ただ確かなことは引きこもりとかは異常化して犯罪者にもなりやすいのである
また狂気化も異常化もしやすいのである、ただ個人も狂っているが集団組織も社会も狂っているとニーチェが言ったがまさにそうである、社会もナチスのように狂気化するし
それだけ現代文明は狂気的なものになっている、もはや誰も全体のことなど知り得るものがない、カオスでありそこで狂気が生まれる、ファシズムでも生まれる
そうなっても数が多ければそれが正しいとなり何でも通ってしまうのが現代でありナチス化するのである



金銭面では金の匙くわえて生まれてて勝ち組ぽいなのに、もったいないなあ
一度でも貧乏経験あればこんな仕上がりにはならなかったんだろうね

ひきこもりにはこうして恵まれた人がいるだろうなあ
この人は20代でも働くことなかったのかな何か苦労したこともなかったのかな
やはり人間若い時はなんであれ苦労することが大事だ家から離れることも大事だ
この人はそういうことがなかったのかなあ,貧乏の経験も大事だよな
そうすると無駄に金を使わないから

とにかくこの人の動機がなんであったのか動機が何であったのかその辺がわからないそしてなぜ死んだのかそれもわからないただ危険を感じて自殺したのか
引きこもりはこうして危険なのであるいくら恵まれていても危険なのである
もう40になったらどうにもならないともなるそして40になるのはすぐなのである人間はやはり社会的動物なのであるま普通はやっぱり社会的動物として生きることがいいのであるアウトサイダーとなるとハードルが高いのであるだから小人閑居して不善を成すになる

posted by 天華 at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年02月03日

秋の七ヶ宿街道の旅


秋の七ヶ宿街道


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七ヶ宿ものさびしかも
数匹の虫の音幽か
我が休みて聞き入りぬ
昔の街道芒なびきて暮れんとす
鏡清水姫の面影映すかな
しばし留まり夕闇に
行く人もなし
ここを去り上山へ
街の灯あわれ
その一夜の宿や
旅の思い出に残るかな

(覆う鏡清水や姫の顔)


七ヶ宿はものさびしい場所だった、今の道からはずれたところであり車もあまり通っていなかった、自転車で通って鏡清水で休む頃暮れようとしていた。
旅は車だと旅にならない、通り過ぎてゆくことになり時間的にも記憶に残らないのである。
何度も言うが記憶に残る旅をしていないと後で思い出せないので旅をしたことにもならなくなる。
旅は旅をする前の準備から始まっている、そして意外と旅は旅をした後も続いているのである。
だから車の旅だとその行程が記憶に残らないから旅になりにくいのである。ただある場所で写真撮るとかの目的があるときはいいのである。

ともかくなぜここが記憶に残っていたかというとそこがあまりにも淋しい場所になっていたからである。
車で混雑しているような場所でわ記憶に残りにくいのである
だから大都会というのは記憶に残りにくいのである
本当に七ヶ宿は寂しい場所だった何か人気もない虫の音だけが響くところだったのである。だからこそ虫の音が心に残ったのである

上山藩に蒲生氏郷の子が藩主となる
慶長9年(1604年)、陸奥会津藩主・蒲生秀行の次男として生まれ、家臣・蒲生郷治によって養育される[2]。異父弟に浅野光晟がいる。
慶長17年(1612年)、松平姓を与えられる[3]。
慶長18年(1613年)頃に元服する[注釈 1]。三春城に置かれた(『氏郷記』)[注釈 2]とも、津川城に置かれた(『会津旧事雑考』)とも伝えられている[5][注釈 3]。元和9年(1623年)7月、従四位下に叙される(『氏郷記』・『御当家紀年録』)h[7]。
寛永3年(1626年)、出羽上山藩4万石の藩主となる。この時、守役であった蒲生郷治は上山について行くことが出来ない自分の代わりに一緒に忠知を見守ってきた自分の家臣団を忠知に差し出したという(『氏郷記』)[8]

蒲生氏郷の子が上山藩の殿になった、三春と津川城とも関係していた。津川は冬の日に行った。川湊があり栄えた場所である
そこは厚い根雪に閉ざされていた。
そこに城があったというのも意外だった、こうしてたいがいの場所に実地にその場を踏んでいることで思い出してこうして紀行文でも書けるのである。

馬場址といはるここは杉ばやし時くしげりてしゃが群れ咲けり


この歌はシャガの花を歌っているがこのシャガの花は城跡に群生して他でも咲いていた。城はもともと山城から始まった、自然が要害となり守ったからである。そのあと暮らしに便利な平城になったのである。
丸森の金山城にも咲いていた。相馬の城跡にも咲いていた。
山城には咲きやすいとなる。この花は独得であり城跡に咲いているのが似合っているともなる、それも山城だといいとなる

2023年02月04日

福島6町村の復興再生計画、事業完了率10%台  (原発避難区域は復興できない)

福島6町村の復興再生計画、事業完了率10%台 
(原発避難区域は復興できない)

親の因果子に報いとなるのか、必ずカルマが人間は作るのである
外部から見ると税金の無駄だというその不満があまりにも大きい
それはやはり復興を見ていると一向に進まない、それは地元の人でも同じである
もう無理であると正直に思う第一人が帰らない帰っているのは老人だけである、ということはもう未来がないということである
立派な施設を建物を作ってもそこで働く人がいないとか学校でも地元に住んでいる、親がいないので外から通ってくるとかその数もわずかである

そもそもは少子高齢化でありそれが影響したのである
子供がいないということはもう自治体でも維持できないということである
それはやはり今の親の責任であり実際は今の老人の責任とも言えないなぜなら原発を作ったのは60代であれ70代であれその上の親が作ったのであるだから親のカルマが次世代に負わされたである
そしてまた今の親たちがその子供へカルマを負わせて負わせたのであるお

このようにカルマは受け継がれる回ってくるカルマは責任のことなのであるそれは逃れることができない
親の因果は子に報いなのである
とにかく現状を見てもとても復興できるとは思えない第一みんな外で新しい暮らしをはじめて始めており子供でもその新しい場所で生活しているからそこが故郷になっているただ老人はどうしても帰りたいその心情は痛いほどわかる
私自身も老人だからである老人は故郷で暮らした歳月が長いだから老人は例えば老木のようになりその土地に朽ちる人間も植物や生物の一種だから自然とそうなるただそれを奪ったのはが原発だったのである
その責任は実際は今の老人というだけではなくその上の親でもあったその親がカルマを作り出したのである
ただ老人が故郷に住めなくなったという原因は住めなくなったのは今の親世代にある
深刻なのは町とか村の歴史が消失するということである

ということはその住民は必ずしも今生きている人が作ったものではない父祖の先祖があり作られてきたのである
その先祖にしても江戸時代からでありさらにその前に遡るのであるそういう歴史が消失するということが何を意味しているのかよくそのことがよく理解されていないつまり先祖もそこに住めなくなるということである先祖も死んでもやはりその場に生き続けるのであるその継続が歴史なのである歴史が失われるということは何を意味しているのかそれをあまり考えない
だから因果応報となったのであるともかく莫大な金をつぎ込んでも復興できない現実問題としては原発避難区域になったところはもう維持できない南相馬市だったら移り住んでいるそれも原町鹿島相馬市新地どこかに新しく家を建てて住んでいる私の住む近くにも住宅地がありそこに四五件の新しいうちがまた立った家が建ったそれは原発避難区域から移住した人なのであるつまり原発避難区域にはもう復興する気がないのである住む気がないのである

だからこそもう住民には住む意志はない未来とはwillであり意志なのである、その意志が消失したらもう復興できない
だから外から見ても湯水のように税金を注ぎ込んでも復興できないそれはそこに住んでる人自体の問題でもあるその人たちに住む意志がないのである
そこに根本的な問題があるそれは心の問題でもありどうにもならないということであるいくら復興させてもらいたいしてもらいたいと思っても内部でも難しいとなる
どうしたらいいのかそれで飯館村などはもう村として維持できない村として
だから南相馬市と合併するべきだとなるいずれ補助金は打ち切られるからである

ただ問題は放射性廃棄物場になることは周りに影響する
何かあるとその放射性物質物質が流れ出してくる現実に飯館村でそういうことがあったからだ新田川でも山側でも放射性物質が流れ出してくるからである
そして河野放射性物質は減っていないなぜなら狭い範囲にありそこに残っているのであるもし海の方に流れだせばそういうことはなかった
放射性物質は風で海の方に流れたので海側放射線量が少なかったのである、山側は堆積したのである
いずれにしろとても復興することは難しい住民にもその意志が無くなっているでも老人は帰りたいという心情は痛いほど理解している故郷の土になりたい故郷で死にたいそれは生物として当然なのであるただそれそれすら原発は奪ったということである
その罪深さははかり知れないいくらよその土地でいい暮らしをしたとしてもその失ったものはあまりにも大きすぎたのである

posted by 天華 at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

冬深む俳句十句 (人間には共有する場が必要である)


冬深む俳句十句

(人間には共有する場が必要である)

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蝋梅や貧者を世話し家の主
街中の神社の古木に寒烏
冬の鴨身を寄せ合うや橋の下
庭の石場所を変えずに冬深む
家になお死者の生きむや冬深む
老人が老人世話す冬深む
我が一人墓を守るや冬深む
冬深む齢を重ね里に老ゆ
土地土地の生きにし場所や冬深む
大原の老木あわれ冬深む
松一本社を守り冬深む
土地土地の土とならんや冬深む
土地土地に年輪刻み冬深む
共に生く場を持ち死なむ冬深む
土地土地の古き家尋ね冬深む
老夫婦結ばれ離れず冬深む

共有す一つの場に生く冬深む

one common life
identified place
deepend winter
in my homeland

冬深むという時これは1月から2月だろう
今は2月4日でも春になったがまだまだ冬である
確かに春の兆しは出てきている蝋梅でも咲いたからである
季語としては西と東では季節感が違っている
西は早く暖かくなるみちのくはまだ冬が長い

北海道だとさらに冬は長いだから季語も違ってくる
何か冬深むというときそこに長年住んでいて一定の場所でその土地に根ずき共感して連帯を深めてゆく
それは老人にふさわしいとなる、人間はやはり一つの場所があってそこでい一体化してゆくアイデンティティ化してゆく、それが自然なのである木がに根付くように人間もそうなる。

ここで問題なのは時間軸と空間軸に人間は生きる
人間は一定の場所に生きざるを得ない
そして一定の場所で世代を受け継いで生きる時間軸で生きる木は長い時間をかけてその土地に根付く
何か冬深むというときそこに長年住んでいて一定の場所でその土地に根ずき共感して連帯を深めてゆく
それは老人にふさわしいとなる人間はやはり一つの場所があってそこで一体化してゆくアイデンティティ化してゆくそれが自然なのである木が根ずくようになる
ここで問題なのは時間軸と空間軸に人間は生きる

人間は一定の場所に生きざるを得ない
そして一定の場所で世代を受け継いで生きる時間軸で生きるきそして長い時間をかけてその土地に根付く
そういう場所が人間には必要なのである
そういう場所を奪ったのが原発だったのである
老人がそうしてなじんだ場所に住めないことは金銭的なものより精神的な衝撃が大きかったのであるでもそれもカルマであり責任は住んでいる人たちにもあったとなる

そもそもそうした精神的なものは自覚しにくいのである
それは失ってみて初めて分かるのである家族でも親子でも夫婦でも死んでみるとその貴重さが価値が分かるのである生きているときはわかりにくい感じにくいのである
だから故郷を失い家族がばらばらになった時痛切にそのことを感じたのである
いつも通る橋の下に鴨が数羽群れている身を寄せ合って群れている
それはありふれた景色であるでも俳句は写生である、ありのままを写すのである
橋というのは人間的なものなのであるそしてそこに鴨がいる
ということは鴨も人間的なものとしていることになる橋があることによってそうなったのであるつまり何でも人間化するのである動物もこうして人間化したものとして表現するのである

老夫婦となると冬深むにふさわしいとなる、でも熟年離婚が多いことにも驚くのであるもうそれも大きな損失である68とかにって離婚する人もいる
でもそもそも人間の時間は限られているそんな年になって人間関係を親密さでも信頼でも作ることは難しくなる
ただいかに男女関係でも人間が平和的にありえないということなのである常に不和が生じるのは人間の世界なのである

蝋梅が咲き始めたそれを母がいた部屋から見ているここで母は寝ていた私は介護したそれでこの部屋を百才の間とした
蝋梅という時これはやはり長寿の花かもしれない百歳まで生きれば充分であるでもその前に病気になるから人間は長生きするのも問題となるのである病気にならなければ別に長生きしてもいいのであるこの部屋から今日もウグイスを見た、その鶯が蝋梅にとまっていたのである
その取り合わせが良かった縁起が良いとなる
写真を撮れなかったがインターネットにでている、蠟梅ででてくる








2023年02月06日

白鳥の写真ー朝日が昇り満月が山に没す

白鳥の写真ー朝日が昇り満月が山に没す

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きれいに見るにはクリック拡大


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これはうそだろう、ウソという鳥など見たことがない、頭が黒いからそうだろう
確かに冬は野鳥観察にむいている
真野川の河口の方には白鳥がいつもいる


東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ

今日は今まで見たことない景色を見た
山の端に満月が出てたのである、それは6時半頃だったまだ暗いから満月が明るかった確かに朝に月を見るがこんな満月を見たことはない、マイ柿本人麿の歌はこの光景に似合っていた
朝日が雲を赤く染めて昇ってくる、雲が赤く染まる、それは陽炎(かぐろひ)ともなる、振り返ると満月が明るく山に映えて沈む
でも月傾く感覚とは違っている。
この意味は新しい太陽が昇り古いものは月のように傾き衰え消えてゆくそういう意味であるでも満月が明るいのでそういう感じはしなかった何か傾くというとき満月ではなく半月とか三日月が合っている、何か衰えて沈んでいくという感じになるからだ
でも今回はそういう感覚にはならなかった満月でも明るく輝いて沈んでいったのである
東に陽炎の見えて山に入る満月輝き冬の朝かな
これは冬の景色だが柿本人麻呂の歌は夏かもしれないでも今回の景色はそれとはそれと似ていたでも感覚的には相当に違っていた結局短歌でもしでもいろいろに鑑賞できるふそれで大阪上で見た
花の盛りに桜が散ってゆくその時夕日が赤々と輝き沈んでいったその夕日の赤さが何とも言えぬ赤さだったそれは歴史を反映したものであり自然そのものとも違っていたのであるそのことはエジプトを旅してナイル川の西に日が沈むのを見た時もそれを感じたのである
繁栄の時がありそしてその繁栄も一時であり落日となって輝き沈んでゆくそういう人間の興亡が反映したものなのである
それは太陽でもそうなのである、その色合いは説明できないものである。
写真は動くものは撮りずらい、でも必ず飛ぶ時がありシャッターチャンスを待つ、今回はそれで撮れた。

遅れじと白鳥飛ぶや陽の昇る


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ケチな人とは付き合いたくない (人の気持ちは必ず行為となって現れる)


ケチな人とは付き合いたくない

(人の気持ちは必ず行為となって現れる)

「ベタニアの香油」で、
ベタニアという村の女が高価な香油をイエスに注
ぐ場面である。女の行為は無駄使いであるととが
められるが、イエスは女を賞賛した。


これもケチと関係していたイエスに対して高価な油を使うのは贅沢だとしたのである
イエスはすでに死を予感していただからこそ油を高価な油を使うのだと使う咎められたことを許さなかった
ケチということは常に問題にされるあいつはケチくさいやつだ
そんな奴とは付き合いたくない男女関係でもそういうことがある
その女性は80何歳かの男性と付き合い相手が病気なので介護のような事もしていたでも自分自身が病気になり何の心配もしてくれなかったとして別れることになった

その男性の一人娘がいたがその人もケチだとして非難していたその一人娘はすでに孫もいるような女性であるそれなりに金はあるみたいだでもその女性が来た時でもでも世話する女性がきた時金が奪われるのではないかと警戒していたしていた
その世話する年配の女性も常に金に困っている人だっただから金が欲しいということは確かである
でもそれは本当に金がないのだからそうなるのもやむをいないとなるよくわからないが確かに100万の軽トラを買ったり今度は4万のバックが必要だとか言って買うと言っている、だから金がそんなにはないとは言えないもちろんあまるほどはない、治療代にかかるからであるでも世話する女性からするとケチに見えたそして病気になり入院したのに何のお見舞いもなく心配もしてくれなかったそのことで切れてしまったずいぶん仲がいいと見ていたがケチの問題で切れたのである

ケチという問題は意外と深刻である貧乏で苦しんだ人はどうしてもケチになるでもケチというとき別に金が持っている富裕層でもケチな人はいる金があるのだけどけれど金を有効に使わないそのことがケチなのである
また金だけではない何かちょっと人を援助することでもしないのである。その人は軽いものでも持ち上げることを嫌がっていた私のために何もしたくなかったのであるでも借金しているから金はは欲しかったでも本心は何もしたくなかったのである
そういうことは必ず行為となって現れる身振りとなっても現れるし表情にも現れるただそれも自分自身のカルマだったのであるそうされても仕方ない面が私にはあったのである

実際ケチといってもいろいろな面があるケチと節約は違う別に節約は悪いことではない、いろいろなものを電気でもも水でもエネルギーを節約することは今の時勢悪いとは言えないそうせざるを得ないからである
でもケチなのと節約は違ったケチとは何か出し惜しみする金があっても出さないまた何かできることがあってもしない
ケチとは金だけのことではないでも節約とは違う節約は悪いとはならないでもケチというときそれはその人間の性格とか人間性を問題にしているのであるケチとは本当は出せる金があっても出さない何かしてやれることがあってもしない簡単な事すらしないのである出し惜しみするのである

ただ貧乏で苦しんだ人はどうしてもケチになるそういう生活をしてきたから無駄な事には使いたくないそういう、それが習性とになっている。
私の母は大正生まれで貧乏でありその生い立ちも継母に育てられて不幸だった、何か働き詰めの一生だった、そこに何か楽しむということがなかったそのために花には興味もないから花を買ったりすると自分に対して怒っていたのである。そして庭に豆を植えていたのである。要するにこのように偏るのではなく豆も必要だが花も必要となることがいいのである、でも人間はどうしてもかたよるのである。
それもその生い立ちがそうさせたのである、継母に育てられたから親がいろいろと花のことなどを教える人だったらそうはならなかった
そこに不幸があったでもそのあとは高度成長時代を経験して豊かな生活を送ったでもその時も働き詰めであれ余裕がなく花などは無駄だと思っていたのであるただ金になることがしか追求しなかったのである

そして奇妙だったのは死ぬ頃に相当貯めた金を盗まれた、でも笑っていたのである、一円でも無駄にしなかった母が大金を盗まれてても笑っていたのである。何か認知症にもなっていた、でも金にあれほどこだわっていた人が大金を盗まれて笑っていたのにはおどろいたのである。おそらく死に間際になり欲が消失したのかもしれない
ただ人間は死ぬと金はどうでもよくなる、だから金があるときもっとよくしていたらなとあの世でくいているかもしれない、
あの世からは人はこの世にいる人にも何もできないし逆に死んだ人にも生きている人はなにもできなきなくる。
だからこそ生きているうちに良くしておけやれることはやってやれとなるのである。

こうして私は母にばかり育てられたら私もケチになっていたかもしれないもうひとりの母なる姉がいたのでそういうことにはならなかったのである姉はおおらかでありでありケチではない。でも他者には冷たいところがあった
金には厳しかったのである、一般的にみんな金金金の時代になったからそれもなかなか責めるということはできない

「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを何とも思われないのですか。妹が私の手伝いをするように言ってやってください。」
イエスは答えて言われた。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。無くてはならないものは多くはないのです。いや、一つだけです。マリヤはそのよい方を選んだのです。それを彼女から取り去ってはなりません」(ルカ10:38〜42口語訳)

なぜそういわれたのか、イエスと共にありそして話を聞くことの方が大事だったのであるなぜならその機会はもう二度とないことになったからである家事はいつでもできるでもイエスの話を聞くことは二度とできないことだったからである
それはただ家事に追われ仕事に追われ花に価値もない金にもならないどうして無駄だとすることと似ている
この世の自然の美は色々あるそれをそれを感じないそれは動物と同じである、人間はやはり動物とは違って神の作られたその美を見て感心したたえることが人間なのであるガツガツと食うだけの人は人間ではない動物になってしまうのである

ただケチというとき金だけの問題ではない相手に対して豪華なものを贈るということでもないたとえ粗末なものを送っても何か相手にしてやりたいと言う気持ちがあればそれは粗末なものでも嬉しいとなるでもそもそも相手に何もしたくないという気持ちになっていればその与えるものに何か心がこもらないのである私の私が困っているとき弁当を持ってきたがそれもいやいや持ってきた普通のコンビニの弁当であるあとはすぐ帰ってゆくだけだった
まあ仕方がないから来たというだけである何か持って行かなければならないと思い安い弁当をただ持ってきただけであるそこには何ら心がこもっていない何も持って来たくなかったのである何も贅沢なものを要求しているのではないそもそもが何もしてやりたくなかったのである心があれは手料理などをしたのものを持ってくればそれは違ったものになる

母の与える料理はたとえいいものではないにしろ母の愛情がこもっているだから外食するのとは違ったものなのである貧しくても精一杯工夫して子供に与えるそこには愛がこもっているから違っているのである
とにかく人間には常に心が関係してくるそれはやはり介護とか病気になった時苦しい時感じやすくなるのであるだから本当に相手に対して愛もないし情もなければ何もしたくない何も与えたくないただしょうがないから普通のお弁当でも買って与えるあとは何もしたくないということだったのである

脉(みゃく)をとる看護婦(かんごふ)の手の、
あたたかき日あり、
つめたく堅(かた)き日もあり

病気の時は人の微妙な心を感じるのである
自分の場合は看護師に虐待されたようなことがあったからそのことが忘れられないのである。今看護師はそもそもみんな老人を嫌っている。多すぎるからである、戦前は若人が肺病になった
だから悲惨であり同情されたということがあった。今老人が病気になっても数が多すぎてかえって早く死でくれとかなる
そういう気持ちは必ず行為となって現実化するから怖いのである。

とにかくケチなの人が家は何か事業することで成功するものだろうか相手の為に客のために与えるにしても本当は与えたくないわずかのものを与えてそれより多くのものをもらいたいということになるそういう気持ちで事業を成功するものなのだろうかもちろんそれ相応の利益を得ることはあたり前である
でもそこにやはり人間には心が関係していて心が現れてくる
こういうことはやはり相手が病気だったり弱くなったり苦しい時より感じやすくなるのであるこの人は私のためには何もしてやりたくないただ金だけは欲しいそういうことが表情にも行為にも現れるのであるただ自分の場合はそうされても仕方がないという面があっただから批判ばかりもできないということはあるただケチだということは常に人間関係で問題にされることなのである。それでやがてそういうケチな人は避けられる傾向がある

ただそこで間違えやすいのはケチと節約は違うということである節約は悪いことではないケチというときその人間自体が問題にされているだからケチというのことが常に問題になるのである
ケチというとき金があるとかないとかだけではない、気持ちの問題にもなる、金があってもケチな人はいるからだ
でも金でも余裕がないとケチになる、それは自分でもそうだったからである、

人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を入れました。「レプトン」は、「レプタ」の複数形です。レプトン銅貨は当時パレスチナに流通していたギリシヤ銅貨の中で最小のものでした。

  旧約聖書に、夫に先立たれた「やもめ」や親を失った「孤児」の保護が命じられいることは、イスラエル社会の中で、この人たちが不安定な生活基盤で生きていたことを物語っています。「みなし子・やもめ・寄留の外国人」に対する神の顧(かえり)みの愛をいいあらわす旧約のことばがあります。
  イエスは、このやもめに目をとめ、弟子たちを呼び寄せて言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から自分の持っている生活費を全部入れたからである」と言われました

この比較で貧しい人でもわずかに与えても多く与えたことになるその人はケチではないのであるでも金持ちが与える金が多いとしてもそれは持っている金からすれば少ないともなる
なけなしの金を与えた人の方が多く与えたのである
だからケチというとき金持ちでもケチな人はいるのである貧しい人でもケチでない人はいる
ケチということは必ずしも金の量では測れないのである
ただ現実の生活ではどうしても余裕がないとケチになることは仕方がないともなる、
でも人はケチな人は付き合いたくない金があってもケチな人は付き合いたくないそれは確かである

2023年02月07日

春めきて橲原と大原をめぐる (大原の歴史と前田の斎藤氏のこと)


春めきて橲原と大原をめぐる

(大原の歴史と前田の斎藤氏のこと)

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この老木に幼子と老人がいた、ただ村の子供というものでもない、なぜならここに新しく移り住んだ人の子供かもしれないからだ、今は村という感覚がないともなる
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ここの梅が開いた、墓も後継ぎがいないとかなる、橲原でも大原でもまだ田せも回復していないのが残念





一村や春光眩し石一つ
東風(こち)吹きぬ坂越え来る隣村
墓の二基跡継ぐ人あれ梅開く
老木や村の幼子と春来る


橲原に目印とあり立目石ここに動かず春の日さしぬ
大原の前田に住みし斎藤氏空き家淋しき春となりしも
病院に共にありし日遠きかな大原に眠る人そ偲びぬ
大原の柿の古木や望む山ここに根ずきて春の日さしぬ
大原の前田に古き家なりき遠田は遠く春となりしも
二本の木のますぐに墓守る街を離れし大原の冬



橲原から大原を回った、橲原は立目石が目印となる
そこから大原に向かう、その森の中の道は新しい道である
大原は深野より新しい、相馬氏が入り大原村ができた
何故なら深野には館とつく地名が二つあるからだ
これは中世の地名であり一地域の中心であった
もしかしたら大原をめぐって争いがあったのかもしれない、相馬氏が支配してゆく過程で在地の勢力と衝突した
その謎が

その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。
海老村の大工の善次が経験した怪異はやはり津波のことだったのか?

(津浪で死体を処理したー日下石のばあちゃんもショックで後で死んだ)

海老の宝蔵寺は古い、紅葉で有名になった、この伝説はなんであったのか、なぜ大工の善次が死んだのか?
この謎が解明されれば津波のこともわかるとなる
確かに中村に城が築かれるときのことであり津波がその時あった、慶長津波があったからである

これは相馬氏が中村に城を作るとき海老の大工がかかわり何かもめごとがあった
その時海老に津波があり大工が中村に今の相馬市に働かせられることを拒否したからかもしれない
ただその謎は解明できない、ただなぜ海老村と大原が関係していたのか、それは大原が深野より新しい地でありそこに相馬氏が支配することでもめたのかとなる。
大原村とか橲原村は江戸時代に開かれた村であり中世にはなかった、大原村の草分けとして前田に住んだ斎藤氏がいたのである。遠田とは前田からさらに離れた森の中の田である。日本ではこうして田を作ることで暮らすことができた。
ここにも越中などからの移民が入ってきた、それは墓をみればわかる、南無阿弥陀仏と刻まれている、そこに戒名はない、死者を供養することもない宗派なのである

ともかく今日は春だった、春光であり山が霞んでもいた
それで自転車で走り気持ち良かった
東風邪が山にも
吹くときこの辺ではどうしても原発事故を思い出すのである東風(こち)が今頃海からふくからである、その風によって放射性物質が運ばれて汚染されたからである
恨めしい風となってしまたのである

2023年02月08日

近江の紀行文(地歴を知るべき)


近江の紀行文(地歴を知るべき)


関ケ原電車に越え行く残る雪
平地に出春光眩し近江かな

高島は西にあれや東より秋の朝日の昇るを見ゆ

歴史が地歴と言う時まず地理がわからないと歴史もわからない、この地理自体理解するのがむずかしい、まず一回でもその場に立たない限り理解できない
近江に行った時高島が西であり東(あづま)が関ケ原の方向になりなぜここで東西の覇権を決する戦いが起きたのかも地理と密接に結びついている
古代の壬申の乱でもやはり東軍と西軍の争いになったからである
近江を制する者は日本を制するともなっていた、だからこそ信長がここを重視して安土城を作ったのである
また木曽義仲が今の中山道の山中深く旗揚げして京に攻め上ったのである

これは東から見た歴史である、でも九州とか中国とか瀬戸内海とかから西から見るとその歴史はまた違ったものになる、大阪が難波の都となったのは遅いのである
そしてなぜ飛鳥が都になったかというとそれも地理的なものが影響していた
大阪湾は古代は大きな湿地帯であり住むにふさわしくない場所だったのである

日本の海岸線は湿地帯が多いのである、釧路湿原のようになっていた
だから津波で驚いたのは本当に海岸が湿地帯化したことである
そういう湿地帯を埋めて田にしてきたのが日本だった、それで田下駄とはそういう湿地帯で必要になった、また日本で下駄が作られたのは雨がふると下駄が必要だったのである
ぬかるみになり下駄が必要だったのである

なぜ飛鳥が最初の都になったのかというとその前が太古では奈良は湖になっていた
そこは海のようになっていた、だから万葉集でも

天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 

巻一(二)

となっている、何か盆地になっている所はもともと湖になっていた、福島盆地でもそうらしいからでである。奈良盆地でもそうなっていたのである
さらに太古にさかのぼれば大阪湾から奈良盆地まで海が入りこんでいたともなる
そういう地理では飛鳥が高台にありそこが最初の都となったこともうなづける
つまり地理がそうさせたのである、地の利がそうさせたのである
そこから次に藤原宮が生れ奈良の平城宮が生まれたのである
ただわかりにくいのはなぜ京都が千年の都になったかである
やはり大阪の難波の方が湿地帯であり京都が盆地でありそこが都になった
そして近江が要衝の地となったのは琵琶湖があり交通の要衝になったからである

近江の不思議はヤマトタケルも伊吹山で死んでいる、近江で死んでいる
また芭蕉でも奥の細道でみちのくを旅して近江で死んでいる、風土的に近江は関ケ原を出ると何か春光がまぶしかった、関ケ原には雪が残っていても近江に出ると春らしくなったのである、何か開明的な感覚になった、そもそも近江商人とかが出ているから近江はそうした地域であり人流も活発になる地域なのである
だから信長が楽市楽座を作り自由な商売を奨励したのである

大津百町は、東海道五十三次の「宿場町」、琵琶湖水運の「港町」、三井寺(園城寺)の「門前町」という3つの町の顔を持ち、東海道最大の人口を誇る宿場町でした。その繁栄を示すのが「大津百町」という言葉です。実際、江戸時代中期には、ぴったり100の町を数え、湖と山にはさまれたコンパクトな場所に約1万5千人の人々が暮らしていたことがわかります。

近江は日本の歴史が地層のように重なっている、近江の魅力は琵琶湖があり風光明媚であり交通の要衝にもなった、近江八景がありこれはまさに魅了される、比良の暮雪というときそこは西になりいかにもふさわしい風景である
三井寺の晩鐘というのもそこで鐘のの音を聞いた、その金は相当に古いものである
その時は秋だったのである

三井寺の鐘なりひびく秋の暮

ただ春に行った時は大津は朧月であり大津は都会である,繁華な都市であり宿場町だったとなる

朧月大津の一夜京近し

大津だったら京都は近い、電車でも近い、でも京都と違うのは琵琶湖があり結構平野が開けている、それで彦根城は大きいし圧巻だったのである、その造りも雄壮な城である

天主より近江平野は刈田かな

雄壮に城の構えや冬に入る

春には蓮華が映えていた、そして三上山が見えたのである

蓮華田や三上山聳え近江かな

蓮華田があるということは都会というのではなく土臭いものがある、田舎でもある
京都には田んぼなどないからである、それでなごむということがある
ただ近江商人が生まれたようにここは大阪商人とか京都の公家とかそのつながりとして
近江商人が生まれたとなる、そういう人が出るのも地理であり歴史であったとなる
そして注意すべきはここは古代に韓国からの渡来人が住みついて技術を伝えた地域であるそれが私の住んでいる真野の地域とつながっていたのである
なぜなら栗東まで鉄を作る工人が行き来していたのである、鉄を加工する場があった
鉄そのもののとれなくても加工する技術があり真野の地域からでも工人が直接そこに通っていたのである、技術研修生ともなっていたのである
だから近江に真野という地域があり何かその真野というのは渡来系でありそれが鉄を求めてこの地域に来ていた

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌を詠んだ笠女郎が近江出身だったという説もでてきたのも具体的に鉄作りで関係していたからだとなる
そして韓国で大津の人と合ったのも奇遇だったとなる、そこで韓国を案内してもらったのである、それを感謝している
鉄作りというとき葛尾大臣でも近江八景をまねて庭を作ったいた、なぜかというと近江の女性を連れてきて結婚していたからである、それで女性が故郷をなつかしみ近江八景を模して庭を作ったのである、それにしても余りにも近江とは違った場所であった
淋しくなるのもわかる、このように近江とは繋がりがある

秋鴎百羽集いぬ浮御堂

堅田に松や秋の日浮御堂

この鴎は大阪から淀川を上り琵琶湖に来た、つまりここでも海が関係している
飛鳥でもそうだがここでも鴎がこれほど飛んできていたということは海が近くだということになる
とにかく近江の魅力は琵琶湖にあり自然が依然として映えている、京都とか大阪は家が密集して自然が映えない、自然は作られた庭にある、でもそれは本当の自然ではない、人工的な自然である、そこに庭の限界がある
なぜ東京でも大阪でも魅力がないのかというともう自然が消失している、東京などでももう江戸時代に水路があったことなどイメージすらできない、自然の地形を説明してももうイメージできないのである、だから東京には魅力がないのである
京都は違っていてもやはり家が密集しているから押し込まれような感覚になる
ただ京都は文化都市だから千年の都だから他とは違っている
その延長として近江もある

昔のひとに出逢った、依然美しかった
だがそのひとは今は湖畔の城下町の
由緒ある宿屋の御寮さんであった
ゆくりなく近江の秋の日に浪漫的なものを
失われた簪(かんざし)のように拾った
(田中冬二)

この詩のようにまさに簪を拾ったというときまさに千年の都は工房があり技が伝えられてそういうものが落ちていたともなる、つまり自然があり千年の都の京都が近いということで魅力がある

これはやはり京都が近いということで作られた詩である、簪というのがそうである
それは京都の工房で作られたものであり貴重なものである、それが近江に拾ったというとき京都に近いからそうなったのである
ただ戦前とかの風景とは近江でも琵琶湖でも違っている、やはり繁華になり詩にしたようなひなびた感じは失われている、ただ田畑があり琵琶湖があり山々があり自然の風景がなお残っているから大坂とか京都とは違っているのである
なんとかなく近江に来るとほっとするのである