2022年12月25日

原発再稼働の問題 (まず東京に原発を作るべきーそこが議論もされない)


原発再稼働の問題

(まず東京に原発を作るべきーそこが議論もされない)

電気料金があがるとかで原発は必要だと主張する、政府主導でまた原発を稼働させる
技術的にも改良したとから安全だという、そういわれても原発の被害にあった所では
ああそうですかとはならない、これだけの被害があったらもうこりごりだとなる
原発の問題を追及して来たけどそれは技術的な問題だけではなかったのである
もう政府が技術者とか御用学者とか官僚とか検察とか自衛隊とかが一体となって作られたものなのである
そしてその人たちが「安全神話」を作ったのである

実際はいろいろな不備があっても権力でごまかすことができた、その問題をないがしろにして官僚でも責任をとっていないのである、天下りした官僚は東電からもらった金を返却するべきだし財産没収しろというのもわかる
それだけの責任があったからである、でも実際はそうした責任をとっていないのである
マスコミも一体となり「安全神話」は作られたがマスコミも責任があっても何も責任はとらない、そこで利益を得るというだけだったのである

本当に一番欠けている視点は原発を東京に作れ!

そんなに安全なら電気でもたりないならその電気を一番使っているのは東京なのだから
東京に作るのが筋なのである、そして意外と東京は地形的に津波にも安全なのである
入江が奥まで入り込んでいるから海岸にじかに接して建ててある福島とかより安全なのである

でも絶対に東京には作れない!

東京では一千万人以上の人間が住んでいて政治家でもあらゆる権力が集中している
一千万人の都民が賛成などしないのである

だから東京には絶対に作れない!

だから福島に作ったのである

このことが問題だったのである

東京に作るなら賛成する、でもそれは絶対にできない、、それがおかしいのである
原発は必要だということはわかる、ならば東京に作れ、それなら賛成するとなる
それができないから原発は危険でも東京なら害にならないとして地方に作る
地方は財政的に苦しいから援助するから作ってやるとなる
でも事故になったら東京は安全であり地元は故郷に住めなくなったとなる
このことが最も矛盾しているし議論もしない、東京に作れということは議論にすらならない、それはタブーなのである
だから事故前に東京に原発を作れと言っていた評論家は正しかったとなる
でもそれは注目もされなかったのである、東京に作れるとういことこそ安全を証明するものだからである、東京都民一千万人を危険にさらすからである
でも絶対に東京には作れないのである、このことが原発の議論で欠けていたのである
東京の自分達の安全を計るが地方は犠牲になれとかでは納得できないのである

そして安全管理でも津浪が来たから事故になったのではない、技術的問題でもない
コストの問題でもあった、その時の社長はコストカッターとして社長に成りあがった人だとしている
本当は高い場所に建てる予定だった、でもわざわざ高く土盛りしたのを削って低くして
地下に電源を置いたのである、それで津波の被害にあった
地下に電源を置いたのはアメリカでは竜巻があり地下に置いていたからまねたのである
またアメリカ主導で作られたこともある、まだその時日本では原発のことを技術的に理解していないかったからだ、それで古いマーク1の原子炉をお古をアメリカから売りつけられたのである

それで湯川秀樹博士は日本ではまだ原発を作れる技術がないからまだ時期早々だと言っていた、でも無理やりに作ったのである、原発の問題は技術的な問題だけではない、モラルの欠如もあった、奢りもあった、10数メートルの津浪が来ると東電が頼んだ学者たちが警告していたのである、それも無視したのである
そこには様々な問題が指摘されていても無視したのである
それで東北電力の場合は副社長が10メートルの高さから津浪が来るとして5メートルを高く所に作った、それで破壊を津ねがれた、三陸では度々津波が来ているので危機感があったからである、女川原発ではそうしてぎりぎりで助かったのである

原発は地元であれ第一その内部も知ることができないし立ち入り禁止である
アンタッチャブルな場所になっていた、そこに危険があった、素人が立ち入りもできない場所になっていた、でも安全管理はずさんだった、配管などが老朽化して危険だとも内部の技術者が指摘していた、でもそれを上の人に言うこともできなかった
なぜなら東電の人には下請けの人は何も言えない、仕事をもらえなくなるからである
でも原発のことがすべてわからないということでもなかった
なぜなら

巻町では1995年2月5日には、計画の是非を問う自主管理住民投票[6]が行われた。これは条例に基づく町役場による実施でなく、町民有志が設立した「巻原発・住民投票を実行する会」が取りまとめたもので、原発賛成474票に対して反対9854票であった[1]。
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このような限界集落があるような所で良く反対できたと思う
素人でも危険と感じてそうできたのである、だから別に素人だからわからないから何もできないということではなかったのである

要するにアンタッチャブルになり立ち入り禁止になり住民はそこに何ら関係すらできなかったのである、でも一番被害があるのが住民なのだから住民に例えわからないにしろ説明すべきだった
でも事故を全く想定していない「安全神話」を作り事故は起きないとして受け付けなかったのである、その権力が政府から官僚から議員から検察からマスコミが一体として「安全神話」は作られたのである、そしてそれが津波で砕かれたのである
地元の人達はただ金をもらえばいいとしかなかったのも問題だった
生業を返せとか裁判して勝利したとしてももともと生業が何なのか、金にならないとしてやめたいとなっていたのである、でもやはり責任は政府と東電とか官僚にあった
「安全神話」が作られて事故が起らないとなれば事故に備えることもないとなる
実際は安全だと題目でも念仏でも安全、安全と唱えていれば安全だともなっていたのである、科学者集団でもそうなっていたのである、それは責任逃れだともなる
科学の時代にそんなことが通用するのかとなる

とにかく原発再稼働昨今の事情で容認されつつある、これも危険である

まず東京に原発を作れ!それなら容認する

でもこれは議論にもならないのである、原発を何基か東京に作れ、そうならば認めるとなる、しかしそれは絶対にできないのである
そこが原発が認められないことにもなる、安全ならできるからである

そして一度失った信用は簡単に取り戻せない!

人間個人でもそうであり会社でも国でもそうである、事故の被害にあった所ではもう信用できないのである、政府も官僚も検察でもマスコミでも信用できないのである
このことが重大なことなのである、安全だとか技術改良が進んでいるとかなんとか政府が言っても信用できないである、そもそも政府の決めることかみんな信用できるのかとなるとならない、それを原発では嫌というほど知ったからである

つまりに人間のやることに絶対はありえない、事故は絶対にないとは言えない

でも絶対に事故はないとか安全神話を作ったことが大きな罪だったのである

絶対と言えるのは神しかいないからである、人間には必ず不完全であり不備がある、それを認識するべきだったのである
それを隠してただ安全だけを言っていたのである
絶対安全だからとして安全神話を作り事故にも備えなかった、そして浪江町では一番危険な場所に津島の方に避難して被害を大きくしたのである、でも東電の社員が海側が安全だとして山の方に向かって逃げていたが引き返したのである
東電の社員は放射線がどういうものか知っていたらできた、てもそうして事故が起きたのことの備えをしなかったし知らせることもなかったのである
それは「安全神話」作っていたからである、事故は絶対に起きないものとしていたからである
それが最大の問題だったのである

posted by 天華 at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2022年12月26日

人間の評価は死後に明確になる (自転車屋の死で考えたことー金で計られない価値)


人間の評価は死後に明確になる

(自転車屋の死で考えたことー金で計られない価値)


人間は生きている時はなかなかその人の価値がわからない、生きている時の価値はたいがい金で計られる、どのくらい稼いでいるかで人を見る、金を稼げない者は価値がないとなる、でも不思議なのは一旦死ぬとこの人はいくら金を稼いだかいくら金を残したのか
一千万残した一億残した十億残したとかで価値が計られるのか?
それは遺産をもらう人によって価値があるが他の人にとってはそうはならない
遺産をもらうわけではないからである

すると何が価値になるのか?それを近くの自転車屋の死で考えた
死んでその人の価値が明らかになった、なぜならこの町では一軒しか自転車屋がなかったからである、他に頼みようがないからである
何か隣の市で聞いたら断られた、自転車を買って日ごろから修理とか頼んだりしてないと受け付けないのである、商売だからそうなる

自転車屋が近くにないことはヤマハの販売店になっていたからヤマハの電動自転車のいいものを買っていた、そのチェーンがはずれた時、直しようがなかった、それはそれを直す特殊な道具が必要になったからである、それをヤマハの本店から仕入れるほかなかったのである、前はエンジンの不具合で全部取り代えたりもした
これができるのは本店と直接交渉できるからである
このように自転車屋か近くにないと困るのである、パンクは一番困る
それだけではないタイヤで規格がありヤマハで買った場合、ヤマハからタイヤでも仕入れることがある、だから自転車屋の場合近くにないと困るのである

その自転車屋の価値は一軒しか町になかったことで価値が高くなった
何か無医村とも似ていた、医者がいない村では医者の価値は本当に高いものとなる
病気は深刻だからである、でもこの辺だとまだなんとか近くに市があり医者はいる
そこに通えばいいともなる、今医者でも地方で問題になっているのは医者自体が高齢化しているのである、近くでは90歳まで現役だった医者がいた
現実にすでに60以上とかの医者が多いだろう、そして後継者がいなくなっているのである、また医者でも自転車屋でも若い人がいいというとき技術的に進んでいても老人はついていけないし遅れるからである、それも問題なのである

前は一万五千人くらい人口があり自転車屋四件くらいあった、その頃子供が多いしそれで成り立っていた、でも一軒となりその一軒も消えたのである
これはここだけの問題ではない、いたるところで起きて来る問題である
後継者がいないということである、農業でもそうである、ただこの町では経営としては成り立っていたろう
人間の価値とか決めるのはいろいろな要素がある、ここでは町に一軒しか自転車屋なくなったことで価値があがっていたのである
そして死んだ結果その価値がさらに明確になった、みんな自転車を使っている人は困るからである、それは鉄道とかでもそうである、無人駅化して困るとかある
それは日本がこれから起きて来る現象の一つなのである、縮小化してゆく日本で起きて来る現象なのである

だから人間の価値は必ずしも金では計れない、その人が必要なものであるとき必須ものとしてあるとき価値がある、その人がいなければみんなが困るというとき価値がある
それがここで起きたのである、あの人がいなくなって困ったとなったからである
その人は病気でも懸命に仕事していた、そこにも価値があった、それは一軒しかないからそうなったのである、他に自転車屋があればそうはならなかったからである
こうして人間の価値とは必ずしも金で計れない、でもすべては金で計られる
自転車屋でも経営がここでは成り立たないとなれば生きている内でもやめることがあるからだ、民間だとそうなる、でも只見線とかは莫大な復旧費がかかったけど県でも国でも出費して復興して再開したのである

ともかく一軒だけあった自転車屋の価値は死んで明確になった
ではその死を弔うのに供養するのに金をやればいいのか多くの金を死者に与えればいいのか?

それも実際は死んだ必要がないのである、なぜなら死者は何を望むのか?

金が欲しいのか?

死んだ死者が望むものは金でもなく供物でもなくその人自身の評価である
何を生きたのか、何を与えたのか、何の役割があったのかとかある
それは家族内でもある、私の場合は姉と母には自由に生かしてくれたので今でも感謝しして供養している、このように感謝されれば価値がある
でも別に死んだら金で報えることはできない、死者が望むものは何なのか
それは死者がしていたことを認めて評価してまたその遺志を継ぐこととかなる
それは金ではないのである、一旦死ぬと人間は金で評価されないのである
死者に報えることはその人の価値を認め評価して感謝することだともなる
それで自転車屋に献げる詩を書いたのである


お悔やみに行く

今日お悔やみに行ってきた、祭壇は大きなものではなかった、だから金銭的には苦しかったのかもしれない、それで病気の治療代もかかっていたこともある
お悔やみの金は実際は残された人には必要なのである
残された妻がこれからどうなるのかはわからない、娘の孫が来て騒いでいた
その孫は東京にいるから跡は継がない、他にも東京とかに娘が嫁いでいる同世代の親がいる、後継ぎがいなくなり空家家するのである、駅前の理髪店も廃業して家が壊されていた駅前の活性化とか言っていたがそう言っていた本人が死んでしまったのである



posted by 天華 at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年12月27日

発達障害と認知症の共通性 (家族でも他者でも悪口を言う発達障害者は嫌われる)


発達障害と認知症の共通性

(家族でも他者でも悪口を言う発達障害者は嫌われる)


発達障害の人と接してその話を家族から聞いた認知症と似ている面があると思った
家族が母親でも弟でも世話しているのだがもう限界に来てその不満を言った
もう世話できないと言っていた
弟は何かと悪者にされるだけでありなんで自分が世話しているのにそうされるのかつくづく嫌になったと言っている
母親ももう世話しきれないとなったのは自らが脳梗塞になり倒れたからである
でもその世話はできない、世話は弟がしている、その一人の弟一人にすべての金銭的負担でもかかっている、そして悪者にされるだけだと嘆いていた

どういうわけか何か認知症の人と発達障害が似ていることがあると見た
というのはどっちも世話する人であれ他者のかかわりでその他者を悪く言うのである
世話する弟が悪者にされるだけだと嘆いている時そうである
感謝したりもしない、一方的に自分の言い分だけを言いそれが通らないと悪口を言うのである、極端になると警察を呼ぶとかも言っている
そして福祉でも基本的に障害者の味方をするので世話する家族でも悪者にされると嘆いていた、つまり障害者の方の言い分を聞くのである

何かそれは認知症でもそうである、家族を警察を呼ぶと騒いだのである
なんで警察なのかと不思議であった、自分が障害があることを自覚できない、相手が悪いと常に思っている、盗まれたという時も身近な人が盗んだと必ず疑い騒ぐ
他罰的なのである

自分が悪くない、相手が悪い、悪い奴をこらししめるべきだ

こういう感情になっている、一見障害者は常に虐待されているとか問題になる
でも世話する方が家族でも虐待されていることもある
その家族は50歳まで世話して母親でも脳梗塞で倒れたとかなり限界に来て今までの鬱憤をさらけだしたのかもしれない、母親を世話するでもない、世話はできない、実際は弟が世話しているからである
だから施設に入れることを考えている、つまり家族に見捨てられた状態になったのであるこれは認知症の介護と似ていた、認知症は脳と心の病になり性格まで歪んでしまったともなるからである
それは明らかに脳が異常化したのである、脳にアミロイドが蓄積されたとかで異常をきたしたのである

発達障害の原因はわからないがこれは50歳頃まで気遣いなことがあるという
これもわからないが変わった人で通っていたのかもしれない、でもその人は計算とか漢字が書けないとかあるが話すことは達者なのである、そこに異常性が感じられないのであるそして話している限りどこが異常なのかわからないのである
ただその人は自分は悪くないし世話になっているとも思っていない、身体障害者なら補助してもらえばそれでありがたいと感謝する、でも精神と脳の障害者はそういうことはないだから助けにくいのである

ただ認知症と似ていても違っている、認知症は病気になるまでは正常なのである
たいがい70以上とかから発症する、80代になり90代になりと増えて来る
でもそれは老化でも病気なのである、違うのは正常な大人として過ごした歳月が長いから大人としての常識がある、なにもかもわからなくなった訳ではないのである
いろいろあっても親切にする人のことがわかり感謝もする、私も介護していてそれがわかっていたのである、世話になっていることを自覚して感謝していたのである
そこが発達障害者とは違っている、母親が50歳まで世話していたのにそれがわからないのである、そのことが一番母親にとっては悲しいとなる、それだけ世話しても何も感じないできないとなるからである

認知症でも何か忘れたり心配すると言い訳をする、馬鹿になったとか思わない、極端に忘れることで笑われたりすると怒ったりする、ただ自分中心になる、自分が悪いとは病気だとも思わない、でも発達障害と違うのは正常な大人としてもそれも優秀だった人も多い
だから極端に脳の認識が低下したことでそれでパニックになる
そして私の家族の場合最後まで自分は優秀だったといって死んだのである
これも悲劇だった、そして認知症は必ず正気になる
どういうわけか死ぬときは必ず正気になる、これも不思議な現象である
何もわからないと思っていてもわかっている、正気になるのである
だから不思議な病気だと思う、正直なぜそうなるのかが理解できない
発達障害の原因が何なのかどうしてそうなるのか理解できない

この場合家族は匙を投げている、施設に入れるとかしている、一回は施設に入ったが出たという、施設にはいたくないと言っている、でも世話しきれないからそうするようになる素直な馬鹿ならいいが悪知恵が働くという、自分の有利なように他者の悪口を言いそれをそのまま受け取る人もいる、私もそうだった、話すことは普通だからである
何か他者を味方にしたいのだが何かと言うと悪口を言うから嫌われる
素直な馬鹿ではなく悪知恵が働く馬鹿というのがいるのも不思議である
それはある意味で悪魔的にもなるのかと思った、馬鹿に悪知恵など働かないだろう
でも確かに発達障害者は悪知恵が働く、自分を味方にしようとして他者の悪口を言っているともなる、これは相当に厄介なものだと思った

認知症の介護で四苦八苦したからある程度は理解できなるが発達障害となるとまた違ったものとなる、これは幼児期からわかるものがなりそこで適切な対応教育でもしていれば
ある程度は治るのかもしれない、ただ50歳にもなったらもう直すことはできないだろうだから家族も見捨てたということはその後は厳しいことになる、施設に入れられ監禁されたようにして暮らす他なくなるからである
つまり家族でも手に負えなくなってそうなるからである

この発達障害でも認知症でも実際はそれが病気とは認められていなかったわからなかった特に発達障害は50歳とかまで気遣いなことがあるというのも不思議である
とういうのは発達障害でも社会生活ができていたということがあるからこれも謎である
それならニートとか引きこもりも発達障害者であり発達障害者は相当数いる
それらが病気でないにしろ社会不適応者となる、その中に歴史に名を残した人もいる、
芸術家でもいる、だから発達障害とは何なのか不可解だとなる
発達障害でもある面で優秀で才能を発揮すればそれは障害でもないとなるからである
社会に適合できない人は普通にいる、自分自身がそうである、社会不適合者であり引きこもりだったともなるからである

ただ私は他者への同情があり相手の苦しみでも理解する、世話されれば感謝もする
それが発達障害者とかにはないのは何なのだろうと思う
認知症は世話されて何も感じないかとなれば違う、感謝の気持ちは大人の経験から持つのである、世話されていることがわかり愛情をもって世話する人があればそのことはわかってい感謝しているのである
それが発達障害者にないとなるとその人はなんなのだろうとなる
だから家族から捨てられることにもなる、その時その人は悲劇になる、その人も施設入ったことがあり知っている、でも家族でも悪口を常に言い、自分は悪くないとして責めている、そうなるともう誰も味方になるものがいなくなるから辛いことになる
ただ福祉ではあくまでもそうして障害者を味方して世話する家族の味方にならないというこれも何なのか良くわからない、家族全体をケアしないと障害者は治療もできないとしているからだ

【親への復讐】が生きるベースにあるので、
何をしていても、どこにいても、【親に迷惑をかける】という行動を優先します。

これの怖いところは、
お子さん本人が親への復讐を意識していない、ということです。
意識していないのに、すべての行動が親への復讐になっているんです。

あるプログラムを絶対に実行する、
人工知能のように、ひたすら親への復讐、または、誰かへの復讐、のために行動します


その発達障害の人は死んだ父親に子供の時殴られたとか必ず責めている、でも50歳までそういうのはどうかと思う、でも復讐心がありそう言っているともなる
俺がこんなふうになったのは親のためだとなる
それは別に正常な人でもそういう人はいる、親を恨んでいる子供は普通にいる
ただそれが執拗であり執念深く病的だともなる
自分は一切悪いと思わないからである、非があると思わないからである

正直発達障害は私を理解していない、ただ認知症は介護していたので理解している
そして同じような症状があるのだと聞いて理解した
認知症でも家族に物が忘れると家族が盗んだとして攻撃してくる
家族か攻撃の対象になる、悪者にされる、世話している弟がそうさせられて不満を延々と言ったことでもわかる、つまり認知症と症状が似ていることがある
いづれにしろやっかいなのが精神障害であり脳の障害なのである
身体障害なら心は通じるが心が通じないから問題なのである
そして障害者を多数殺した人は意思疎通ができないとして殺した、心が通じあえないとして殺した、でもそれは重篤な障害者である、発達障害者は話すことは普通にできる
だから重篤な人とは違う、ただやはり心が通じ合えないということがある
それが大きな問題でありそれで匙を投げてもう世話できないとなったとなる


2022年12月28日

精神障害者を持ち苦しむ家族 (発達障害者と認知症の似ていること)


精神障害者を持ち苦しむ家族

(発達障害者と認知症の似ていること)




Aさんから毎日聞かされる過去のことに対する愚痴や、めぐみさんに対する罵倒・被害妄想は、めぐみさんの子どもたちがいてもお構いなしで続いていたそうです。時には暴力を振るうようなこともあったそうで、めぐみさんは「もう限界だ、少しでいいから家族だけの時間が欲しい」と思い、引っ越しを決めたと言います。

、AさんからSNSを通して誹謗中傷を受ける日々がはじまったそうです。書かれている内容は事実無根だったそうですが、「SNSで障害のある姉を捨てた妹、いつも妹ばかりずるい、と発信するんです。どんどん投稿が増えていくと、精神障害があるからしょうがない、では片づけられない苦しい気持ちになりました」と言うめぐみさん。ある日ついにストレスで左耳が聞こえなくなってしまったのです。

精神障害者手帳を取得した現在も、両親はAさんが障害者になったことを認められず、福祉のサービスの利用を拒んでいるといいます。支援を受けてこなかった中で、両親が過剰な期待を寄せてきたのがめぐみさんでした。

「障害がある姉を家族やみんなで支えなければ、という気持ちはわかります。でも、障害者だからなんでも許されるわけではないということもわかってほしいと感じています。私の人生は姉の面倒をみるためにあるわけではないんだと、姉にも両親にもわかってほしいんですけどね」

「姉妹なんだから支え合って」と言われても…精神障害のある姉を10年支えてきためぐみさんの決断


この人と私が接した発達障害を持った家族と同じだった、兄の世話を弟がしていただが
兄の悪口を常に言っていて弟はなぜ私が世話しているのに悪く見られて責められるのかと何度も
くどいていた、精神障害者をもつ家族は家族が身内が一番苦しむのである
それは私も認知症になった姉を介護して経験しているからである

母親にしても終に自ら脳梗塞になりもう世話できないと匙を投げた、というのは弟が母親を苦しんで世話するようになんたからである、金銭的面でも援助しているから弟の言い分を聞かなければならないとなって発達障害の息子をもうめんどうみれないとなったとなる50歳までめんどうみて苦しんできたのだからそれが冷たいとはならない、限界が来たと言える
自分自身が脳梗塞になって苦しんでいても発達障害の息子は介護もできないからである
まず書類など書けないし福祉関係者の人ともまともに応対でなきい
そうなると母親も匙を投げたとなる

でもどうも精神障害者がいろいろあっても認知症の介護をしたので似ていると気づいた
発達障害者の人も家族を責める、特に弟のことを責めている、でも弟は金をだして風呂を作ってやったとか金銭的な面でも援助している、だからなぜ自分だけが悪く言われて回りでもそう見るのかとなって不満になった
母親が脳梗塞になって母親ももうめんどうみきれないとなった
一時は施設に入ってもいたが嫌だとして出た、母親が施設に入った方がいいと言ったら怒ったという、でも発達障害者の人と協調できる人はいないともみる
ただ福祉関係の人は障害者の味方になるという、だから不思議なのは認知症の人が警察を呼ぶぞというのは福祉関係とか警察が家族から責められる時守ってくれる人と見るからかもしれない、その辺はわかりにくいが認知症との共通点はある

何かそれは自分自身を防衛するためにそうているのかもしれない、障害があることでまともにあつかわれない、そのことに不満がある、そして自分自身はその障害が何なのか意識できない、だから自分は常に不当な扱いをされていると回りに訴える
それを聞く人が福祉関係者でありとがめられるのはかえって家族だともなる
認知症でも盗んだと責められるのは一番身近な家族だからである
その発達障害者も常に弟を嫌っていて盗むと言っているからである
ただ認知症のように極端な物忘れはしていない、銀行から金を下ろすことも知っている
そして金に敏い、金になることは金の計算がまともにできなくても敏いのである
欲もありその欲を金で得られるから抜け目ないという

そういうことは認知症の人もそうなのである、自分自身は悪いと思っていない、
回りの人が悪いと責めるのである、その心理はどこから来ているのか?
おそらく自分に障害があることを認めない、私は社会で一人でもまともに生活できる
誰かの世話になることもなくできる、そして自分自身に対して自分の言うことを聞かないと敵ともみなし責めてくる、それは認知症の人にもある、性格によって違ってくるにしろ何か共通していることがある、
自己防衛本能が働き他者に対して自分の言い分を拒否されると敵とみなして攻撃する
それがここでは弟なのである、そうでなくても家族が敵となり攻めてくるのである
それで世話する人がなぜ自分自身だけがここでは妹が姉の世話ばかりして他にできなくなるのか?それで遂には突き放すようになる
第一そうして世話しても感謝などないからである

そして親の認知症と違うのは親というのは子供に尽くしてきた、人によって違っていても親は子供に尽くしてきた、だから世話しなければならないという気持ちがある
私の場合は特殊な事情で特別世話になったから家を支えてくれたから恩返ししなければならないと自ずと思っていたから苦しくても世話するのは当然だと思っていた
それより自分自身しか世話する人はいなかったのである
では兄弟とか姉妹とかなると別に世話されたわけでもない、むしろ障害者が特別扱いされることもある、母親は障害者ばかりに手をかけて他の兄弟姉妹にはおろそかになる
その不満が障碍者をもった家族に常にある、ただ障害者でなくても兄弟でも姉妹でも
みんなに親が良くするわけではない、一人っ子の場合はそういうことはない
だからこそ介護になると一番良くされたかわいがられた人が介護しろとなるのである
これも当然だとなる

とにかくこうして遂に母親でも匙をなげた、するとこれから厳しいことになってゆく
回りでもそんなに悪口を言い自分の言い分を通すことを是認する人はいないからである
つまり世話になっているのだから何か悪口ばかり言って不満ばかり言っていることに対してそれを是認する人はいない、でも発達障害の本人は世話になっているとも思わないのである、だからこそ相手を攻撃して責めてくるのである
認知症にもそういうことがある、何か悪賢いということもある
外面はいいのである、最も親しい家族に対しては攻めてくるのである、つまり家族が悪くて自分は悪くないとするのである
だから福祉が味方だとなることがわかっていて家族の悪口を言う時福祉の人はそれを是認するから余計にそういうのかもしれない、だから不思議なのは警察を呼ぶぞということも認知症と共通している、警察は福祉関係者と同じであり自分の味方だと思っているからかもしれない、これは本当に謎である

精神障害とは発達障害者でも認知症でも似ていることがあると思った
でも根本的相違は認知症は別に優秀で社会に尽くした人であり家族に尽くした人でもあるでも発達障害者とか先天的精神障害者はそういうことはないだろう
幼児から世話をやかせて育った人もいる、だから親が病気になっても世話もできないのである、そうなれば親でも遂には見捨てるとなる
自分自身が介護される身になるからとてもめんどうみきれないとなったのである

ここで不幸なのは最も頼るべき親しい家族でも悪口を言い責めてきてかえって自分が損する、もし体の病気だったらそういうことはないだろう、親切に介護すればそれがわかる
だからありがたいと思う、でも精神障害者の場合はそれがわからないのである
そしていくら世話してもそれがわからずかえって責めてくる、悪口を言い自分は悪くないとする、それを福祉関係者が同調するとなる、だから罰せられるべき家族であるともなるそれで警察を呼ぶぞと言うのかもしれない、それも不思議であり謎だとなる
ただ心理的に解明すればそういうことなのかとみる
全く支離滅裂な精神病とも違う、その心理は理解できないことはないともなる

いづれにしろ発達障害が何なのかまだわからない、でも精神障害者を世話することはめんどうでありだからこ母親でも50歳の息子を自らが病気になってもうめんどうみれないと匙を投げたのである、どうしても弟に頼らざるをえないからである
その発達障害者は親の介護もできないからである、そうなれば弟に世話されるのだから
弟の言い分を聞いているほかないのである

私の場合は認知症になったとしても私は認知症になった人をたてていた
それは複雑な事情でそうなった、つまりその功績が大きいものでありいくら認知症になってもそれで捨てるわけにはいかない事情があった
だから死んでも篤く供養しつづけている、それだけ大きな功績が自分の家に尽くしたことがあったからである、でも幼児期から発達障害者になった人は50歳までただ迷惑をかける存在だったのである、そして世話しても感謝もないのである
またそもそも介護も世話することもできないのだから報いもないとなる
このことでいかに精神障害者もった親でも兄弟でも姉妹でも苦労するかわかる
それは認知症でも共通した面があるがやはり子供の時から一方的に世話するだけとなると報われることないし感謝されるたともないのだから辛いとなる
そのことは認知症で経験しているから多少は理解できなるとなる

おそらく発達障害者でも何か一芸に優れていれば社会でも認める、それで社会に適合できる、社会に役立つともなる、天才などは社会的には人間関係ではうまくいかなくても一芸に優れているからそれで認められるとなる
だから発達障害者は何か特異なことをできるようにする、そうすれば他の人も認める
そうなれば家族でもただ何もできない迷惑をかけるだけの人間とはみないともなる
もし一芸に優れていて収入もあったりしたら邪魔者扱いにもしないとなる
ただそれがみんなができるかとなるとむずかしい、社会不適合者でもかえってそういう人は特別優れた人でそうっている場合がある、天才ともなればとても普通の社会人として生きられない、平凡な生活はできないからである
ただそれはまれであり普通はニートであれ引きこもりであれそういう人ではない、ただの社会脱落者に過ぎないともなっている
第一天才自体まれにしかいないからである、それでも何かその人に自由を与えてあなたのやりたいことをやりなさいとなるとき自分のように旅ばかりして地名と地理とか風土に興味をもったようにその人なりのものを追及してそこで優れているともなり認められることはある、そもそも人間の才能とは多様でありそれを見出して伸ばせた人もまれだとなるからである


郷土史とは何かー支配者ではない庶民を語り残すこと (街一軒の自転車屋の死で考えたこと―庶民が歴史に記される時代)


郷土史とは何かー支配者ではない庶民を語り残すこと

(街一軒の自転車屋の死で考えたこと―庶民が歴史に記される時代)

●インタ−ネットで郷土史を各自追求できる時代

郷土史とは何かとなればそれは狭い地域であっても広範囲でありそれで理系も課かわてくるので私は文系であり地質学とか科学に弱いから語れないことがあった
地質学というときそもそもどうしてその土地が成立ちどういう土地なのか知ることであるそれで最初は日本全国を旅して「地名」に興味をもったことが自分自身の大きな歴史であれ郷土史であれ関心を持ったのである
どうしても学校の教科書で教えられたことは興味が持てなかった
でもだんだんと郷土史というより郷土学のようになり今は相馬新報とかなった
そこで書いているのは広範囲だからそうなった、今があり昔があり時間軸と空間軸と郷土を放送する、それはインタ−ネットができてホームページとかプログが個々人でもメデアを通さなくても発表できることになったのが大きかった

それでメデアが今までも新聞とかテレビに独占されてどれだけ力を持ったか知った
報道する力は実は大きな力を手にした、権力を手にしたことなのである
これまでは新聞であれ雑誌であれ本であれメデアをマスコミを通さなければ知らせることもできなかった、つまり報道することは権力を持っていないとできないことだったのである、だからこそマスコミは第三の権力となっていた
そこで宣伝してもらえば商品でも知れ渡り売れるとかありまた人でもマスコミに出ただけでたいした人物でなくても知れ渡り議員にもなれるとなった
それで「青島だ」とかふざけているのかそんな人でも東京都知事になったのである
それはマスコミの力でありその人の能力ではなかったのである
メデアは仲介するものでありその仲介するもものが力を持った、そのメデアに出るにはメデアの許可が必要でありそれはまた権力を持たない者は出れないし発言もできなとなっていた

でもインタ−ネットだと一応誰でも手間であれ発言はできなる、それは大きなものとならないにしろ発言はできる、ただインタ−ネットだと本当に誰も読まないということが普通に起きる、膨大な人がプログを書いているからそうなる、そこで目立つのは極少数になってしまうのである
だからいくら発言が自由になったとしても必ずしもそうはなっていないのである
膨大な数の中に重要な発言でも埋もれることが普通にある
だからネットの世界で目立つことは至難なのである

ともかくインタ−ネットの特徴としていろいろあるにしてもその人の住んでいる場所が基点となり発信する、ということは郷土史とか郷土学と密接に関係するのである
さらにその郷土の狭い範囲で基点になるのはその人が住んでいる家なのである
郷土史は家の歴史からはじまる、歴史そのものが家の歴史なのである
聖書もそうである、日本でも天皇家の歴史が歴史となっていることでもわかる
家は先祖がいて祖父ー父ーと系譜があり一軒一軒が郷土の歴史なのである
ただその中でも古い家はその土地に代々歴史を刻んでいるからそこを中心としてみる
野馬追いに出る家は歴史として保存対象にもなっていて野馬追いの場合勝手に旗印を作り行列に出れないのである、正確な歴史の再現でありハロイーンとかの馬鹿騒ぎとは違う
そもそもそれは日本の歴史とも何ら関係ないのである
祭りというとき小さな村でも代々伝えられたものがありその再現だから歴史的意味があるその歴史を伝えるために祭りがある、そこに祭りの意義がある

●郷土史はそれぞれの家から始まる

いづれにしろ郷土史は郷土学は家の歴史から始まる、私の父のことを書いたが他にもどうしてその家が成立ったのか自分の場合二代目にしろそれでも歴史なのである
只野家とかなると南北朝までさかのぼるから古い旧家だから違っている
そして意外とそれぞれ住んでいる場所が古くから人が住んでいた、この辺ではもともと農民が中心に住んでいた、だから街とかあってもそこは農家が多かったのである
町というとき宿場町でありそれも農民が参勤交代の時に臨時に侍を泊めるものとしてあった、それで双葉では長塚宿があり新山宿があったとなる
交代で村の人が接待したとなる、双葉町という地名は明治以降できた町名である

それで私の家の近くの神社に文明時代の碑がある、また法印の山伏の墓もある
ここに天明の碑があるということはここも古いとなる
まず江戸時代の碑には注目する、天明は飢饉の年でありこの辺でも何らかの影響があったでも街だと明治以降になると農民ではなく商人とか職人が移り住んだ、農民がいてもそっちの方が多いとなる、でも依然として街から二百メートルくらい離れた場所に田畑が広がりそこには農民が住んでいて農民の付き合いが代々ありよそ者は住みにくいということがある、小さな町でも外から住む場合そのことを知るべきだとなる
そもそも農民共同体としてあり街内でも農民がいて他所から来た人も住むようになった

郷土史というとき相馬藩政記があり相馬藩は代変わりしていないから外の人も参考にしている、相馬藩は六万石でもそれなりに大きい藩でありごからこそ伊達藩とも対抗できたともなる、第一相馬野馬追いの壮観を見る時そうである、なぜこれだけの行列が歴史に基づいてできるのかとなる、相馬藩は300藩あった江戸時代に60位の格があった
それなりに大きいというのでもなくても中堅の藩だったとなる

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●地歴として郷土史、郷土学

ともかく郷土史でも空間軸があり時間軸からみる、空間軸から見るのは比較的わかりやすいのは今でも空間自体は地理自体は変わっていないからである
でも地理でも福島県の地理でも簡単にわからない、地理は車とかで行ってもわからない
土地の高低差などがあり体の感覚で知らないと体得できないからである
私は自転車で相馬藩内なら回っているから体で知っているとなるそれでもわからない所がある、空間でも知るのは容易ではない、会津になったらもうわからない、山また山である二千メートルの山がひしめいているからである
また空間だと地史とも関係している、地歴というとき地理であり歴史を合体したものである、だから地史というときもそれは日本列島がどうして成立ったかまでさかのぼらばならない、とういうのは阿武隈山脈は高原は意外と古いのである
それで地盤が安定しているから放射性廃棄物を地下深く埋めておくのに向いているとか言われたのである、そういうふうに地歴を知ることが郷土史でも不可欠なのである

そして時間軸で見る時、これも重要だった、なぜなら400年前の慶長津波のことが相馬藩政記に二行だけ700人が生波(いくなみ)−津波で溺死したと記されていた
これほど重要な記録はなかった、でも学者すら知らなかったのである
これは大問題だったのである、なぜならこの辺には津波は来ないとしていたからである
だから津波のことを三陸のように警戒していなかったのである
そして相馬藩政記でも戦争のことはことこまかに記している、どこどこで戦争があり誰が死んだか誰が活躍したとかはこととこまかに記している、つまり戦国時代では庶民のことは話題にならない、支配者の侍の関心は戦さにあったからである

特に相馬氏は騎馬軍団を率いてこの地の支配者になったからそうである
土着した豪族と衝突して争いになり戦争になっていたからである
相馬藩政記の主流となるのはその戦(いくさ)のことである
庶民のことではない、だからこそ津波で700人溺死したことは大事件でも二行した記されていなかったのである
今だったら絶対にそういうことはない、いろいろ記録が映像でも残される
私自身もデジカメで写真をとってプログで放送したからである、その時はアクセスが相当あった、関心が震災や津波や原発事故でここに集まったからである
確かに福島民報や民友とか福島テレビとかでも放送した、でも個人で放送したということの意義は大きかったのである、そんなこと今までできなかったからである
それは明らかに全国の人達が見たのである

なぜ相馬藩政記で400年前の津浪の被害を二行しか記されなかったのかとなれば侍が支配者であり庶民は発言することもできないし記録にも残せなかったのである
何らか残っていいと思う、正式に紙に記さなくても伝説とかでも語りでも伝えられていいとも思う、でも紙に記すにしても紙が必要であり文字も書かなければ残らない
紙は紙漉きであり相当に貴重なものだから庶民は使えないものだったともなる
つまり記録することは金も必要だったし文字も書けなければならなかった、それがその時代に庶民にできなかった、侍にはできていたのである
ただ江戸時代の後半になると読み書きソロバンを寺子屋とかで習った
それで識字率があがった、その頃になると庶民でも記録することができたとなる
でも実際は侍が記録していたのである
もしその400年前に庶民でも記録することができたらその津波のことを記していたらそれは貴重なものになった、そして後世に伝えられて今回の津浪も警戒して被害をが少なくすんだともなる

●記録されるのは勝者であるーこれからは一庶民が歴史にその功績が記される

要するに記録することでも発言することでも現代でも放送することは権力を持たないとできないのである、そうなると庶民が直接発言するのではないから必ず歪められるし重大なのことも放送されないのである
そして狭い地域となると余計に報道できない、例えば福島県でも広いからである
地理的に広く中通りとは浜通りとは阿武隈山脈でさえぎられて地理の一体感がないのである、会津にしても地理的には隔絶した地域でありわかりにくいのである
福島県を一つの国と見ることは地理的にはむずかしい、地理的一体感がないのである

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(隠された社一つが語るもの)
http://musubu.sblo.jp/article/189970774.html

こんな所に隠されて社がありそれも相馬氏の戦勝記念の社だったのである、これでもわかるように相馬藩では相馬氏の戦(いくさ)のことを相馬藩政記でも事こまかに記しているでも津浪の被害のことは700人溺死で二行だけしか記されていなかった
だから歴史とは何かというとき支配者の歴史だとなる、それは全国規模でもそうである
一地域ですらそうなのだから日本の歴史とは支配者の歴史でありまた世界史でもそうである、アメリカは覇権国となったとき世界史はアメリカの歴史であり日本はただ悪者にされるだけだとなる、歴史とは勝者の歴史であり敗者の歴史ではないのである
ただこれからの歴史は民主主義となりプログなど誰でも発言してyoutubeでもテレビ放送もできなるようになった、その時郷土史でも興隆することになる
なぜなら郷土史は地元の人は読むにしても外部の人は余り読まない、関心かない、でも
誰でも発言できて表現できて放送できるようになることは庶民が権力を持ったことであり民主主義の促進にはなる
私がホームページからプログですでに20年とか発言している、それも今や一つの歴史ともなる

何か古い本を整理していると30年前とか買った本が多くもっと前のもありそれが何なのだろうとみる、そして著者がすでに死んでいるのも多いのである
この人も死んでいると本の著作者を見ると不思議になる、死んだ人を知るのは残された本しかない、あとは分らないのである、でもプログとかでも記録が残っていればそれも死者の残した物として参考になる、それで都築氏はプログにだけ書いて死んだのである
そのプログの記録も消していいとして著者が消したのである、するとその人の残した物は消えたともなる、これも問題だった、本だったら残り誰がが読んで参考にすることがあるそれができなくなったからである

郷土史というとき近くの自転車屋が死んだことはショックだった、そこは町に一軒しかなくなった自転車屋だったからである、それも郷土に懸命に生きた人として郷土史に刻んだ人だったとなる、それが死んでから余計に感じた、それで私は詩を献げたのである
郷土史に記される人だったとなった、相馬藩政記なら記されない、もちろん国史にも記されない、でも郷土史となると郷土に懸命に生きたものとして歴史を刻んだものとしてけ記されるとなったのである
民主主義とは平民の時代であり平民が主役になる時代である、だから庶民が歴史に記される、庶民が歴史を作るともなる時代である,そこに郷土史を郷土学の意義があるとなる
柳田国男の功績は文書だけに記されたものではない口碑で口伝いで庶民に伝えられたものを掘り起こして新たな民俗学を起こしたことである、時代によって新しい学問が起きる、脚光浴びるのも違ってくる、侍の時代は侍になるのが民主主義の時代は庶民がキ脚光をあびるとなる、ホイットマンが讃えたのは平民だった、労働する平民だったのである、ヨ−ロッパのように貴族はいなかったからである、それで皇帝も貴族もいないからリンカーンのように丸太小屋から歴史が始まったからそうなったのである
この時は大衆は存在しない、民衆が存在していたのである、それが讃えられたのである
アメリカは平民によって民衆によって作られた国なのである、でも今は格差が極端でありそれが失われたとなる
巨額な金をもった一部の人がいて支配する国になった、そこには建国時代の開拓者魂とかはなくなったのである

今年も終わりだが地震で散らかった本をまだ整理していない、障子も直していない、他でもまだ工事をしているとかあの地震の被害も大きいものだった、今年で一番印象に残ったのはあの地震だった

来年はどうなるか、いい予想はない、暗黒時代の継続になるとしている
近くの自転車屋が死んだことは年の暮でショックだった、その衝撃で新年を祝うとういこともそがれた
でも来年もがんばるほかない、コメントもできなかった、整理とか何か家事とかいろいろ忙しくて追われてできない
今まで書いたもの詩なども整理しようとしているができない、整理するだけで大変な作業になっている

では良いお年を・・・






posted by 天華 at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2022年12月30日

肥料で苦労してきた農民−農業を知らないと歴史をわからない (田舎でも農業を知らない人が増えた)


肥料で苦労してきた農民−農業を知らないと歴史をわからない

(田舎でも農業を知らない人が増えた)

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歴史道【別冊SPECIAL】そうだったのか!江戸時代の暮らし (週刊朝日ムック) ムック – 2022/12/6


業で一番大事なものは肥料である、肥料で苦労するのが農業である、そもそも農業自体の起りが森の木を焼き払って灰にしてその灰を肥料にして畑を作り野菜を作ったことに由来している、だから肥料がないと農業は成り立たない、其れでイワシが肥料になったのもそのためである、イワシは人が食べるものではなく肥料になった
そのために北海道で大量にとれたイワシが全国に肥料として売れた、それは松前から船で運ばれたのである、相馬藩でも松前まで船で行きイワシを積んできて買って肥料にしていたのである、米を売ってイワシの肥料を買っていたのである
それから肥料は落葉とかでも肥料になる、草も肥料になる

それで右田の農家の人はそれを馬車で運んでいた、橲原(じさばら)とかに山を所有していたのである、今は津波でその人が住んでいた家がなくなった
だから街内の団地のような所に住んでいる、また橲原とかに土地を持っていたからそこに家を建てた人もいるようである
小さな畑で野菜作りした人は角田まで行って鶏糞を買って肥料にしていた
その鶏糞を私の庭にも利用した、花でもやはり肥料がないと育たないのである
日本の地名で焼畑地名が多い、飯館村の佐須村の佐須は明確に焼畑地名である
そこに山津見神社がある、これは安曇族が入ってきて証拠である、安曇族は海人族であったが焼畑の技術ももっていてそこに土着したのである

肥料なくして農業はなし・・・・・・・

ロシアとウクライナで戦争があり肥料を輸入していたが入らなくなったことが世界的に影響した、日本でも影響して農産物が高くなるということがあった
肥料というとき今は化学肥料になる、それが入らないと農業が成立しないのである
農業とは肥料を作る苦労だったともなる

近くの街中の農家の婦人は人糞を取りに回っていた、それを子供の時見ている
汚いものだがそれを汚いとは見れないものだった、なぜならそれを肥料として食料としていたからである
江戸でも回りが農民であり肥料をとるために人糞を取りにきていたのである

隅田川の由来

「すみだ川」の名が登場したのは、西暦835年のこと。当時の政府の公文書に「住田河」と記されています。この「住田」が、どのように読まれていたのかは定かではありませんが、川の三角州に田を作ったという意味で「すだ」と呼ばれていたと考えられています。その後、平安時代の伊勢物語では、「すみだ川」という歌が詠まれ、すみだ川の名が全国に広まっていきました

「隅田区」の広報

地名とはこのように人間の生活に密着して名付けられる、詩的に美的にとか名付けられないのである、人間が生活するために田が必要であり米が必要だからこそその名がついたとなる


ある年に土地の半分を植え、残りの半分を休ませ地力を蓄える二圃式農業は古代世界では非常に一般的でした。ヨーロッパではこのような休閑による地力の回復の他にも、家畜の糞を藁と混ぜて発酵させてつくる厩肥(きゅうひ)が広く用いられました。 また、石灰肥料や緑肥(刈った植物を畑に混ぜ込む施肥)も行われました。

江戸時代の重要作物は関西の木綿と関東の桑(養蚕)で、品質と生産量を安定させるために多くの肥料を必要としました。当時重要だった肥料は菜種油粕と魚粕。菜種油粕は行燈の油として利用した菜種油の粕。魚粕はイワシなど採れすぎた魚の再利用法でした。

大阪では、家主は借家人の固形物の権利を持っていましたが、価値の低いとされる小便の権利は借家人が持っており、それぞれ仲買人に売ることができました。18世紀初頭では、一年の10世帯分の糞尿は、半両以上で取引されていました。

大阪では、家主は借家人の固形物の権利を持っていましたが、価値の低いとされる小便の権利は借家人が持っており、それぞれ仲買人に売ることができました。18世紀初頭では、一年の10世帯分の糞尿は、半両以上で取引されていました。

値段が高騰すると仲買人同士の喧嘩や論争も頻発し、貧農が糞尿を買えず盗みに走り罰せられるといった事件も頻発しました。

8世紀のイギリス、刃物の町シェフィールド。

この町では刃物の柄に動物の骨を利用しており、加工の時に削った骨くずが大量に生じて工場主は処理に困っていました。そんな時に誰かが骨くずを失敬して自分の畑に撒いてみたら、なんと作物がよく成った。それが噂で広がり皆が骨くずを欲しがるようになりました。こうして骨粉が誕生しました。骨粉はリン酸を多く含み、植物の生育を促す働きがあります。

 肥料の歴史"農業の始まりから化学肥料まで"
https://reki.hatenablog.com/entry/211105-Fertilizer-History



地力が失われるのでこうなった、土の栄養分が失われるから肥料を貯えさせてまた使う方法である、これも農業では肥料が大事なのように土が基本であり土を肥やさない限りできないからである
こうして農業から文明が生まれたのである、それまでは狩猟採集であり定着できないが
肥料を作る、土地を肥やすことをして定着できて農業が発展してそれを基礎にして文明が生まれたのである
骨紛とかでもそうである、何か肥料となるものを農業では常に探していたのである
今は化学肥料となり鉱物から取り出されているのである

いづれにしろ歴史とか社会を知るにはやはり農業が基本になる、農業は欠かせない食料を生産するのだからそうなる、食糧危機になるとか最近騒いでいるのでもわかる
外国から入らなくなりそうなることで不安になる
中国ではそうして飢饉になれば政権が変わる、革命になる、だから食料を供給できなくなったら人民に襲われるという恐怖が歴史的にある
14億の人間を食わせることが第一になりそれが政治にもなる
田舎だと回りが田畑だから農民が多いし農業で生活しているように見える、でも実際は今は農民は一割にもみたない、みんな会社員なのである、だから意外と農業のことが田舎でもわからなくなっている
農業でも実際にたずさわってみないと実感としてわかりにくいのである
でも肝心なこと農業がわからないとういことがある、すると農業が軽視されて跡継ぎもいなくなったとなる
浪江の電気工は原発で働いていた、だから浪江が廃墟のようになっても周りの田畑が草ぼうぼうになっても関心がなかった
何か補償金もらってみんな喜んでいると言っていた、これは明らかに農業で生活していないし実際は全体でみても少数者になったからそうなったのである、農民が八割の時代はそういうことはありえないからである
それは生死にかかわるからである、天皇が皇居で田植えしたり養蚕をしたりしているのはやはり農業中心の社会がありそれが継続して行事となっているのである

そして正月の行事でも実際は農民の行事であり正月は豊作を祈る時である、でも農民が全体の一割とかなるとそうした正月行事も
なくなってゆく、別に餅は正月に食べていたがいつでも食べられるから晴れの日はなくなったのである
ただ正月とは年が変わるというだけで何か晴れの日としての楽しみでもない、紅白歌合戦が国民みんなで見るというのもなくなりつつある、年代的に音楽でも何でも多様化しているから国民的行事とういのは消失しているのである
でも歴史をふりかえるときやはり農業が基本にあるからこれを知らないと歴史もわからないのである

御民我れ 生ける験あり 天地の 栄ゆる時に あへらく思へば  
                          海犬養岡麻呂

基本的に人間が栄えるというとき自然と切り離しはありえない、それが原発事故でわかった
生活の基本となるもの水でも土でも森でもさらに空気まで放射性物質に汚染されたら生きることもできない
住むこともできなくなったからである、科学技術文明の危険がここにあった
最近持続可能社会がSDGsが言われるのはそのためである

kitaizumi111.jpg

原町区の北泉の残された碑−ここは延命地蔵を祭っている
延命地蔵とはやはり長生きを望んだからである
正月と記されている、正月がやはり特別な日だから記されたとなる

 

2022年12月31日

流星、年の暮、冬銀河(年の暮、年終わる)


流星、年の暮、冬銀河(年の暮、年終わる)

lines trees.jpg

many lined trees
deep rooted one
stedy walking road
in winter



冬流星光芒迅速七つかな

動乱期流星光芒七つかな

流星の一つ大きく年終わる

瞬時なり冬流星の墜ちにけり

一つ一つ無益にあらじ冬銀河


冬の日の川の岸辺の桜の木育つ待つや一歩一歩歩む

この道を今日も歩みつ年暮れぬ一本一本根付く木かな

川の面に冬の日まぶし鴨の群れ相寄りにつつなごみて暮れぬ

我が姉と母しもなおも我を見む寒き日なれ熱き茶献ぐ


今年も終わる、流星は秋の季語になっている、でも冬にもみかける、今回見たのは冬である、一週間前くらいだった、冬の方が星がきれいに輝く、冬流星としたが流星で冬の季語にもなるのではないか?
動乱の時代に早死にした若い人がいる、明治維新などがそうだった
でもそこにも瞬時であれ光芒があり命が活きたとなる
街一軒の自転車屋の人も死んだ、自転車屋はこの街から無くなったのは淋しい
流星のように消えてしまったとなる
だからまだ喪の期間であり新年を祝うのをたらうこともある

冬銀河となると星となると無数の星があってもその一つ一つは無益なものがない
そもそも地球にも自然には宇宙では無益なものはない、石一つでも意味がある
でもなぜか人間は無数の人間がなぜ死ぬのかもわからない、無数の人間が無益なことにその労力をそそがれる、これが一番の謎である
戦争でも権力闘争でも何千万と死んだとかそれは何なのだろうとなる
そうなると人間の命は何なのだろうとなる

河岸の桜の木はまだ大きく育っていない、でも一歩一歩歩む、やがて大きく成長して桜が満開に咲く、でもその先が長いのである、だからもうこの年になると大きくなった桜の木は見れないとなる
残念なのは原発事故の避難区域になった所である、そこでも桜並木があり桜は咲く
でも人が消失した、残っている人は少ない、木が成長するには50年とかかかる
それだけの時間で育ったものでありそれは町の人々とともにあった
つまり桜の木で成長して満開の桜を見るには時間がかかるのである
その木でも人とともにあった、でも人が消失したときその桜の木も活きてこないとなる

ともかく人間の生は一歩一歩歩むことである、それしかない、冬だと静かに歩む
そして大地とも一体となるのである、だから冬はかえって大地の力を感じる
それで冬はふゆで増えることだったのである、冬に野菜がかえって育つことがあり冬となった、それは実地の農業から生まれた言葉だとなる

今年も災難だった、地震だけは恐怖だった、未だに家の中がかたづいていない、片づけられない、まだ家を修復していない家がある、それだけの被害だった
そもそもなぜこんなに災害が多いのか?それが疑問になる
今回は隣の原町は被害が少なかった、相馬市とか鹿島区は被害が大きかった
もう災難はごめんだとなる、平和でありたいというとき戦争がなくなってほしいとかあるても自然災害もなくなってほしいとなるがこれは防ぎようがない
地震は防ぎようがないのである、そしていつくるかわからないのである
来年はどうなるのかいい年になると予想する人はまれである
経済的にもっと悪化する、人々に余裕がなくなることも問題である

余裕がない人は困った人を助けることができない、自分のことで精一杯になるからである私が介護で苦しんでいる時来た人はみんな余裕がなかった
だからさんざんな目にあった、大金は盗まれるとかいろいろ責められたのである
それはみんな余裕がないからそうなったのである
余裕がない人はそもそも人を思うこともできない、自分自身のことで精一杯だからであるだから意外と余裕がなくなる社会は全体的に殺伐としたものになる
それが怖いのである、そうは言っても人間は希望をもって生きねばならない
どこまでも希望をもって生きねばならない、今世でだめなら来世へ神の国へ行くことで希望を持つのである、人間はなんらか希望がなければ生きられないのである

今年もプログを書き続けた、書くネタがなくなることはない、でもwin11に移行するのがめんどうである、何かめんどうなことをしたくなくなった、家事に追われているしめんどうなことをしたくないのである、でもどうにもならない、これは変える他ないからである
来年も頑張りますのでよろしく、良いお年を・・・