2022年12月08日

人生には確実に運が作用している (運も不運もカルマもめぐってゆく・・・)


人生には確実に運が作用している

(運も不運もカルマもめぐってゆく・・・)

人生は運だ ということは古今東西て言われてきた、それはなぜなのか、やはり人生を生きてみてそう感じたからだろう、それで財産でも運が作用してるとなった
fortuneは運の意味もあるからである、つまり人間は何でも努力だと思ってる、でも実際は 運の作用が大きい
私の家は小さな店を始めた、それで繁盛したのは別に商才とかあるわけでなかった
ただ場所が角にありその時戦後間もなくであり物が無くただ物が置けば売れたのであるその時車などない、だからみんな近くで買い物してたのである
だからその時代は何かを始めるには良い時代だったのある、簡単なことで店を始めることができたからである、本当に立派な店から始める必要もなかった、間に合わせもので始まったのである、それはどこでも同じだった、小さな工場でも大した機械も備えなくても注文があり人手が足りないから中卒の人たちを地方から呼んで雇ったのである
その時代はそうして 大した技術がなくても成功したとなる
それは時代の影響だったのである、今になればそういうことはもう簡単にはできない、大規模になり町の小さな商店消失したからである 
こうして時代時代によって運が作用しているのである

必ずしもその人は優れているとか優秀だとかで成功するわけでもないのである
いくら優秀でもその人が時代によって活かされるとは限らないのである
例えば江戸時代なら力があるものが優れた人となる、それで村では一人前に認められるのはくらべ石がありその石を持ち上げることができると一人前にされたのである
その時は機械もないのだから人間の力に頼っていたからである
今になれば力仕事は必要でもむしろ知能の方が大事になっている、建築でも設計する人が上になるのである
それで人間社会では必ずしも有能であっても有能にされない、そこに運の作用がある
いくら優秀であっても活かされず埋もれる人が多いのである

運と言う時私自身の家族でもそうだった、なぜかわからないがある人が死ぬと何か返って別な人が運が良くなるということもある、私の母は前の夫は事故で死んだ、それは不運だったのである、でも母は後妻に来て私を産んだのである
そして前の夫の子供 連れてきたが私の父親はよくしなかったのである
そのことで私は悪いなと思っていたのである、その兄も40歳で交通事故で死んだのであるだからこの不運は何なのだろうと思う、その理由がわからないのである
たしかなことは誰かが死ぬと誰かが良くなることがある

その女性は苦労した人である、貧乏が続いたのである、でも親しい人の妻が死んで今度はそこに言って話し相手とかになった、妻が死んだ結果そういうことができたのである
その女性は2回離婚してるのである
またその女性が私の家に来たのは私の家族がみんな死んだからである
それで私はその人に良くしているのである
別にその人が特別自分に必要だからというものでもない、たまたま家族が死んだのでそうなったのである

そのことで猫を一匹飼っていた、その時もう一匹の黒い猫が餌をやるとき 餌を奪いに来たのである、私はその猫を追い出していたのである
でも飼っていた猫は死んだ、結果的にその黒い猫 に餌をやっている
その猫はなれない、だから可愛くもないのである
それでも餌をやっている、それは一つの運命であり運だとなってしまう
つまり何らかの運が作用してそうなっている、その猫は不運だったが私が飼っていた猫が死んでいい運が回ってきたのである 
だから何か人間でも不可抗力な力が働いていてそうなるのかとなる
それが運なのである、それで金運もあり財産運もあり必ずしもその人の才能や努力だけで全てが決まらないのである、そこには運の作用があ、ただ運も不運もめぐってくるしいつまでも不運にはらない、またいつまでも運がいいともならない、それは巡って行くのである

その運は個々に時間をかけて巡って行くのであり一挙に全体に巡ることはない
一地域でもある人が金持ちになるとやはりその周りに金が巡って行く、だから その金持ちを悪いものとして拒否するとかえって金が巡ってこないということはある
金は天下の回りものなのである、金も運も一箇所にとどまらない、めぐみは巡りであり巡って行くのである、でも一挙に全体に巡っては行かない、ここに徐々に巡って行くのである
ただ逆に悪いことも巡って行く、それがカルマである、悪いこともだいだいに受け継がれることがある、親の因果が子に報いということである
ともかく優秀であっても努力しても必要でもそれで全てが人間の場合決まることはないのである、そこに運の作業があるからそうなるのである 

カルト宗教だと福運とかしきりに言うが返って実際は運が悪くなっている人達が多いのである、そういう事例を集めているのは創価に会員をとられた本山とか同じ日蓮宗でも対立している寺とか団体である、数が多ければどうしても不幸な人も多いのである
そういう団体に入るとかえって運がなくなることは確かである
人の不幸につけこんで会員を増やして団体の勢力を増大させる目的でそうしているからである、つまり人の不幸を種にして幹部達が福運を奪うことにもなるからである
なぜあれほど会員を増やすことに熱中しているかとなればそこから収入も得られからそうなる、でもそういう団体に入ると実際は不幸になる人が多いのである
ただ利権を得る、それで福運を得るのは幹部だけだともなる
寺でも宗教となるとお布施がもらえるのは福運がありますよ御利益がありますよ祈りなさい、そして献金しないさい、その福運はお金はもらいすまとなっているのである
かえって福運が御利益が奪われているのであ

それは共産主義でも同じなのである、権力を得て莫大な金を得ることになったからである運はあってもその運は作為的に人工的に作りだした運であり不公平になるのである
何か運には神の采配があるかもしれない、ただ不可解なのである
確かなことは運も不運もカルマもめぐってゆくのである、これだけは確かである
世界史で見てもある国が栄いても別な国が栄える、日本が栄えて今度は中国が栄えたとなるからである、富は金は一か所にとどまらないのである
だからどんな人でも一生のうちに運不運がありカルマでもめぐってゆく、そういうことがあるから今不運でもやがて運がめぐってくるということがある
するとそういう運がめぐってくるのを待つことが必要だとなる、ただなかなかなか待ちにくいとなる、でも何か富でも一代たげでは築けないし何事即製するものがない
一代では成果ができないが何代かで成果が出るということはある
そこで本当の成功は長い時間をかけないとありえないともなる、棚からぼた餅のようにはならないともなる

私の場合でも何か今になると自分のために家族があったともなる、父親は酒屋の丁稚であり苦労したし兄は不慮の事故で死んだとか不幸があった、また母の実家でも不幸に死んだ人がいる、母自体が不幸だった、でも私のためにそういう不幸があり私が活かされたともなる
それで私は家族に感謝しいいるのである

時代の運
家族の運
地域の運
・・・・

などがあり逆に時代の不運、家族の不運(親ガチャ)、地域の不運(原発事故)・・・
とかにもなる、人間を決めるのはいくら努力してもどうにもならないことがある
運の作用が大きいからそうなる、だから努力しても無駄だということではない
努力の上に運が加わらないとうまくいかないということである
女運が悪いとか男運が悪いとかもある、人間には様々な運が作用しているのである



2022年12月10日

風力発電のメンテナンスの仕事も危険 (風力発電もヨ−ロッパの方がすすんでいる)


風力発電のメンテナンスの仕事も危険

(風力発電もヨ−ロッパの方がすすんでいる)

windenergy1.jpg

windenergy2.jpg
写真では人が見えない、機械だけでできる仕事のように見えない
見た感じでは鉄塔に簡単なもので支えている
これはどうなっているのかわからない



風力発電設備は、メンテナンスすることが保安規程によって必要になっています。国の決まりによって、メンテナンスする回数は毎月1回以上となっており、外回りのメンテナンスと一緒に運転を停めて制御回路、主回路端子のチェック、動作チェックを、毎年1回くらいは実施することが必要です。

1年間の1,200万円の維持費・風力発電にプラスし、作るためのコスト6億円の1年間の回収コストがかかります。風力発電の場合には17年が法律で決まっている耐用年数になっているため、作るためのコストの1年間の回収コストは6億円を17年で割った約3,500万円になります。

1年目から17年目は、作るためのコストの1年間の回収コストも考えて、1年間の儲けは8,100万円の収入から1,200万円のランニングコストと3,500万円の回収コストを差し引くと
3,400万円になります。この儲けは、6億円の風力発電を作るために投資した額の5.6%にあたります
https://www.tainavi-pp.com/investment/wind/53/

再生エネの支柱は太陽光よりも風力だ。再生エネ導入が29%と進むドイツでは、うち風力は12%と太陽光6%の2倍。英国は再生エネ25%中、風力は12%と太陽光2%の6倍に上る。




この風力発電もどれだけ発電できるのか、投資額にしては見返りがあるのかとなる
メンテナンスも定期的にする、その費用もかかる、海上に作るとしても日本では海が深いから普及していないという、ヨ−ロッパではかえって30パーセントとか普及している
遠浅の海があるから設置しやすいからそうなっているという
南相馬市の鹿島区の風力発電を作るのにかかわったのはドイツだったのである
技術者と駅であったからである、また外国の技術者がドイツからでも原町火力発電所に来ていた、だからヨ−ロッパの方がドイツなどが先進国だとなる
特に風力発電はそうなっている、もともとオランダに風車がありまた風車は中東で発明されて発展した、風が吹くから風車もできた、これも風土と関係してそうなったのである
そのオランダの風車の技術が造船で利用されとかある、低地のために排水に利用された、やはり地盤に風土があり技術が発展することがある、日本だと山が多いからトンネルの技術が優れたものになったのである

ソーラーパネルでも必ずしも発電量があるわけではなく採算があっていないともいう
でも相馬市の玉野村へ行く山がまるごとソーラーパネルになる
あれは宇多川にも水が流れ込むからなんらか影響がある
景観的にも良くない、丸森の方では山がいくつかまるごとソーラーパネルになっていた
反対する人もいるが結局木材が使われない売れないということでそうなった
外材を買うからそうなった、でも円安とかなり日本の木材の方が安上がりだとなれば
売れるようになる
日本の木は山にあるから運び出すのが手間なのである、そこにコストがかかる
大陸だと平坦な土地が延々とつづいてそこが森になっている、すると運ぶには楽なのである

ただ何らか科学技術は自然破壊になる、一見自然エネルギーだからいいように見えてもそうではない、風力発電でもそうなのである、何か回りに必ず悪い影響がある
地熱発電がいいとしてもこれも温泉地にあり問題がある
人間の成すことは必ず自然を破壊になる、職業は業でありカルマなのである
農業でも焼畑は森を焼くのだからそこから自然破壊だったのである
原子力発電でもそうでありこの辺は甚大な被害を受けて住めなくなったのである
でも石炭とか使った火力発電だったらこんな被害にはならなかった
そのくらいはしかたがないとなっていた

とにかく高い所で仕事するきは怖い、高所恐怖症の人はできないとみる
怖いのは高い所で仕事して突然地震などが来たら怖い、地震の怖さはそこにある
地震は結構頻繁に起きているからである
危険な仕事がある、実際電気を送る鉄塔で感電して死んだ人がそれなりにいる
電気の仕事も危険なのである、建築関係でも高い所で仕事するから危険である
鳶職は江戸時代の火消しが由来となると燃える家の屋根に上って纏を建てるのだから
命がけだったとなる

posted by 天華 at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年12月11日

遺骨の物語 (人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)


遺骨の物語

(人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)

●兄の悲惨な人生

人間が残すものは何なのか?
死ねば灰となり骨となる、実際は骨は残らない、灰となり土となる
私の兄の骨は母の実家に埋められた
そのいきさつは兄は中卒で金の卵として集団就職した
私の家には母は後妻になり私を産んだ、兄は連れ子であり私の家には五年しかいなかったでも五年間は幼い時一緒に暮らしていた
だから「あんにゃ」と言っていたのである
でも私の父親は良くしないで母の実家で生活することになった
その時一緒にめい子がいたのだがその人は一緒に生活をしたことがないと言っているのも不可解だった、ただその非情化して育ての親のめんどうも見ず最後に「ひどい娘だわ」と私に言って死んだのである
もともと付き合いもなくなっていたのでその事情はわからない、その母親のことは私の家ではよく思っていなかったからである

でも育ての親なのだから何かあったにしろ病気なのに何の心配もしないというのは理解できなかった、だからこそ五年間一緒に暮らした兄のこともいないとなったのである
何かしら人間が記憶にとどめないという時、その人にとって存在しないものとなる
それは肉親でも起きているのである、親のことはかかわりたくない、知らないとなり
遺骨でも引き取りに来ないとなる、それだけ毒親に苦しめられた人もいる
そういうことが本当に私には理解できないのである
というのは私は特別親に良くされたからである、私は別に無職でも家で引きこもっていても何も責められることがなかったのである、そしてなぜ私が死んでも二人の親のことを思いつづけているのかとなるとやはり60歳まで長く一緒に暮らしていたことにあった
人間はいくら両親でも何でも離れて暮らすと疎遠になり情も喪失してゆくのである
だから子供の時一緒に共に暮らさなければ育てられなければ親とも認識できないのであるそれで犬でも猫でも他の動物でも子供の時に育てられると親だと思ってしまうのである

●お骨をめぐる争いーそれは金をめぐる争いだった

それで普通は子供でも成長して結婚したりすると疎遠になる、愛情でもうすれてゆくのである、去る者は日々に疎しとなるのである、そもそも離れて暮らすと相手の事情すらわからなくなる、その人は離れて全く別な人生を生きるようになるからである
その生活する場所ば違ってくるからである、それで再会したとしてもなかなか話でも通じなくなる、意思疎通ができなくなるのである
だから兄に何が起きたのかわからなくなっていた、でも交通事故で死んだというとき連絡があった、その前に離婚していて何か児童相談所から施設に入ったということでどうするのかということで連絡があった、それも何か事情がのみこめなかったのである
トラック運転手となり小さな会社に入った、その会社では死んだので遺体をひきとった
葬式もそこでしたのである、その後にもめたのである

「お骨はもってゆくな、墓は作ってやる」

こう言われたのである、それも何のことかわからなかった、私は車を持っていないので
自賠とか任意の保証のことがわからなかったのである
どうもその保険金の受け取り人になりたくてそう言ったとなる
実の母が来たので身よりがなくて来たと思っていたのである
それで乞食のようにして来たが私が雇ってやったのだと恩きせがましく言っていたのである、そう言われても私の家では兄に良くしていないから私は嫌で三日位で帰ってきたのである、本当は妻がいてもらえるものだったのである
ところが一週間前とかなのか離婚していたのである、正式に書類を書いて離婚が成立していたのである、でもまだ未成年だから私の母が後見人になった
離婚した原因は借金したとかあり住んでいる団地なのかわからないが追い出されたことにあった
それで母の所へ金をくれと来たことがあったことを思い出した、母は金をやったのである
そして兄の娘は妻の実家にひきとられた、そこには兄がいたからである
それももともと妻の実家とは付き合いがあり交流していたからである、同じ地域でありそうなったのである、私の家では静岡とかなると遠いから何が起きたのかわからなかったのである、人間はとにかくこうして離れてしまうと疎遠になる、そうして突然不幸が起きてもその事情もわからなくなるから困るのである
もし近くに住んでいればそうはならなかったのである、だから人間はいくら親でも兄弟でも離れて暮らすとそれも遠くなると何か事情がわからなくなるのである

そうして兄のお骨は母が背負ってきて母の実家の墓に埋めた、そこで五年間は暮らしたからである、そして墓から今度はお骨を取りだそうとしたら骨がなくなった土になっていたのである、でも実家の墓は長男の人が300万円をめい子にやって「墓を守ってくれ」と言って死んだのである、だから墓参りはしているのである
私は怖くなったので実家の墓参りもしていない、母の実家もまた複雑であり後妻に来た人が継母になりいじめられたのである、そしてその後妻に来た女性も昔の養老院に長く入ったいたのだが眼が見えなくなったり精神的に何かおかしくなった
そして母が様子見に行っていたが死んだ、その骨は約束していた大学病院で解剖されて
骨として自分の家にもたらされたのである
兄の墓は母親の実家から私の家の墓の隣に墓標をたててある、でもその物語を知る人もいない、娘がいたが金でしか関係ないから金が与えた時は来ていたが来なくなった
墓を作ったから10万円やるからと言っても来なかった、あとは一切連絡もない
離れていてもともと疎遠だったからではあるが一応父親だから何か思いがあるのかと見ていたがなかった、ただ親にひどい目にあった被害者という意識しかなかったかとなる
家族遺棄する人はそういう人が多いとなる

●遺骨より人間が残すのは物語(history)だった

一体ここで遺骨のことが問題になった、でも遺骨がそんなに大事なものなのか?
人間は死ぬと結局灰となり土となり何も残らないのではないか?
だからそもそも遺骨にこだわることが理解できないとなる
それで家族遺棄社会では肉親でも親ガチャで育った子供は今遺骨もひきとらないのが多いとなっている、ここに見えるのは遺骨でもそこには依然としてこの世のことがかかわり
必ずしも手厚く供養するとはなっていないのである
そこに人間の欲がうごめき遺骨でも金になるとなればそれを手段にして金をとろうともするのである、この世とはこうして恐ろしい場所である、あらゆることが人間の欲によって翻弄されるのである、カルト教団でも実際は金を収奪するためだとなるのもそうである
ここに人間の欲の恐ろしさがある、要するに骨などどうでもいいとなる
骨をひきとってもそれが金になるわけでもないからである
肉親でもそうなるとき生前に親にひどい目にあっている毒親だったら骨などはいらないとなる、でも遺産があり金が入るとなる引き取ってもいいとかなる
結局地獄の沙汰も金しだいとなっているのである
死ぬまで骨になってもでこの世の欲の対象になっているのである

そもそもお骨などもうそこに何か宿っているわけでもない、海にまくなり土にもなるから維持できない、すると何もなくなるのである、では何が人間に残るのか?
それは個々人の人生なのである、どんな人生を送ったかがその人の一生であり骨をみたってそんなことわからないのである
ふしだらな親だったら子供でもその人を大事にはしない、だからお骨でも取りにこないとなる、もちろん介護などは大変な苦労なのだからしたかくないから捨てるとなる
ただ骨をひきとったからといってそれが苦労になるともならない、でもめんどうだから市役所で処理してくださいとなる
家族遺棄社会となりそういう人達が増えているのである

でも逆に人間は死んでから大切にされることがある、妻が死んでから十年とかすぎても毎日手を合わせて供養している人もいる、他にもそういう人は結構いるのである
家族遺棄社会でもやはり死者を大事にしている人はいる、親を大事にしない人が多くなっているのは確かである、それはやはり時代なのだろう
私は特別二人の親に良くされたから死んでから余計に感謝するようになった
毎日熱いお茶を献げて遺影に向かい話しかけて感謝しているのである
それは特殊な事情があってそうなった、父親が中学の時死んでその後を姉と母が家を守って自分も育ててくれたしその後も60歳までも自由に生かさせてくれた
だから一緒に暮らした時間の長さにもよっていたのである
娘でも結婚して離れてしまうと特に遠くに行ってしまうと疎遠になってゆく、忘れてゆくでも一緒に暮らしているとそこで仲たがいがあったとしても憎んでいたとしてもやはり
愛情が通うようになっていたのである
だから死んでからも忘れられない人、愛される人が家族遺棄社会になってもいる
その親は死んでも実際残された人の中に生き続けるのである
でも毒親となればたちまち嫌なことが思い出したりフラッシュバックになり思いだしたないとなりやがて忘れられるのである

●人間が死んで語るものは何か

いづれにしろ人間は骨になり灰になる、でも実際は人間はみんな消えるわけではない、
残された人の中に生き続けているのである、そういう親とか妻とか夫とかになっている人は幸せだとなる、人間を決めるのは生前の生きざまというか子供でもどういうふうに接したかによる、それは個々に違っているから理解しにくいのである
家族でも十人十色だから理解しにくいのである
ともかく人生の最後に死んでからでもあの人はどういう人だったとか明確になり語られることになる、そして死んでもその人は骨となり灰となるだけではない、語られまた感謝される死者になればその生は無駄だっとはならない
でも親でも思い出したくないとか普通の人でもあの嫌な人が死んでせいせいしたとかなるそういう人も多いのである、近くにいた医者はみんな生きている時は常に語られていた
でも死んだら誰も語らないのである、その医者にかかった人も死んだからだとはなる
その医者は腕が良かったのだが性格的に冷たい所がありそうなったのかとなる
その一人息子も最近死んだから肉親はないないのである

そしてその住居は廃屋となっている、今年の地震で屋根瓦が壊れたが直していないのである、いい庭があるからもったいなとなる、でもそういう空家は多いからここだけのことではない、ともかく人間の一生は骨とかで語られるわけではない、それは結局灰となり土となるだげである、その人の一生を語るのはどういうふうに生きたかによる
そしてその親の子供でも親を思い出す時不快になるというときその親はもう親でないともなる、むしろ親切にしてくれた他人の方が親しい人ともなる
ただ現代は人間も一般的に薄情になっている、だから家族すら捨てる家族遺棄社会になっている、特に介護となると負担が多いためにそうなっているから必ずしも責めることもできない、親に苦しめられた人はどうしても介護することは無理だからである
つまり介護となると気持がないとできない、必ず気持が現れるからしにくいのである

この人のために何もしたくないとなるからである、だから私自身もそのことを経験した
その人は私のために箱一つも持つの嫌がっていたし入院して手術するときも側にいるのもただ座っているのも嫌がっていた、ただ金が欲しいというだけになっていた
これも自分のカルマだったが親でもそうなる、その人のために何もしたくない
とても介護となったら負担なのだからできない、でもお骨などはたいして迷惑もかけないのだから供養はできるとはなる、でもそれすら嫌がるとなる
それもその人の接し方とか生き様とかにかかわっているのである
そのために人間は骨とかがその人を語ることはないし骨などどうでもいいとも見る
それよりどういうふうに生きたとかどういうふうに接したとかが大事になる
だから親子ですらその接し方によって育て方によって他人以下にもなるのである

●事実は小説より奇なりー統計的数字化されるとhistoryは消失する

ともかく人間の一生は本当にそれぞれに事実は小説より奇なりとなる
これは全く架空の話ではない、事実そのものだからである、小説でもないのである
これは小説の題材になるとして事実なのである
つまり歴史はHISTORYでありHI-STORYでありstory(物語)なのである
人間は最後にみんななんでも物語となるのである、個々人の物語となるのである
ただ物語というとき戦争のように3百万に死んだとかあってもそういう歴史の巨大な物語でも何かぴんとこないのである、それだけの人間が死んだら語られるつづけるとしても
何か訴えるものがないのである、もちろん語られることはある、今でも陸軍二等兵だとか必ず軍隊の位を記してある、それは当時にしたら名誉の戦死とかあり誇るものだったからである、それでまた必ず村の神社にも戦争のために祈り出征したのである
 とか記されているからである、でももともと神社は戦争とはみんな関係しているわけではない、だから今になると違和感を覚えるのである、たいがい豊作を祈るものとなっていたからである
 shrain1.jpg

飯館村大倉の神社


 ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である
 ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる
 ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない
 そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ
 人間が被害においてついに自立できず、
 ただ集団であるに過ぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままで あるだろう
 死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである
 人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ
『望郷と海』(石原吉郎)

これはシベリア抑留した人が言っている、その過酷な体験を書いている
つまり人間が統計となり数となったとき個々人の物語は消失する
だから3百万人死んだとか言われてもそれだけの人間が死んでも何か伝えるのかとなると訴えるものがないのである、でも個々人が戦争の体験を語る時は感じることがある
つまり人間は数値化して数化すると生々しい体験でも消失するともなる
例えばカルト教団などでもそうである、そこは一票を得ることしか関心がなく何百万人会員がいたとしてもその個々人のことは語られないし戦争で三百万人死んだと同じである
個々人が消失してただ数だけになるのである、それが非人間的なものとなりナチスと同じようになるのである、現代の危険はあらゆるものが数で処理され数が恐怖となる
でも数を言う割には何かそこに訴えるものがない、だから三百万に死んだからといって
訴えるものがないのである
だからとにかく普通の人でも何も功績もない人でもその個々人を語るとそこに物語をhistyoryを感じるのである、人間が残すのは骨ではない、historyなのである
だから骨がどうのこうのと大事にするのが理解できないとはなる
骨が語るのは単なる成分としてカルシウムだともなるからである



個々人で記録を残すことはインタ−ネットで容易になったが・・・・

今は自伝とかでも家族のことでも別に書いて発表できる、プログなど簡単だからできる
個々の一生を語ることができる、でも今老人になっている人達は80以上とかなるとインタ−ネットなどにうといからほずかしい
ても今や庶民でもいくらでも人生を語ることができるし記録として残すことができる
今でもそうだが自伝で本を出すとかなると百万かかるとかなりできないし書店にも置けなかった
そういうものは売れないからである、そもそも書店でもなくなっている
インタ−ネットなら誰でも何でも書いて発表できるし記録として残る
でも問題はその記録も一瞬にして消えることがあり問題なのである
私がいろいろなことをこんなに気軽に書いて記録しているのは簡単だからである
確かに手間はかかる簡単だからしているのである
普通は家族のことなど書けない、有名な人なら書いて読む人もいるか普通はいない
でも記録として残せば郷土史とかの資料になることは確かである
今なら本でもアマゾンで一冊でも出せるとなっている、それをやろうとしているのだが何かめんどうになりしていない
何か手間だけは省けないのである、それで毎日記事を書くのに時間がとられる
その他家事に時間がとられてできないとなる

2022年12月12日

人間は物語を残す(history)と同時に教訓を残す (でも人間は知恵の実を食べて神のようになったとしても賢くなれなかった)


人間は物語を残す(history)と同時に教訓を残す

(でも人間は知恵の実を食べて神のようになったとしても賢くなれなかった)

●個々の体験から教訓を得る

お骨には意味がなくその人の一生が人生でありそのstoryを残すと私自身の家族の歴史から書いた、それは私的なものだから他の人は関係ないとするかもしれない
でもやはりstoryはhistoryとなったように歴史は物語でありその物語が必ず教訓を残しただからいろいろな庶民が残した諺ですら人間がこれまで生きてきた中で残されたものであり教訓となっているのである、それは時代が変わっても変わらないから活きているのである、ということは人間そものもがいくら科学技術とか社会が変わっても変わらないから活きているのである
「金の切れ目が縁の切れ目」というときでもそうである、それが今は極端にそうなっているが昔でもそういうことがあり今に活きているのである

私が経験したことを書いたが私的な家族のことに留まらない教訓として読めるともなる
深く読んでもらうと確かにそこには教訓がある、兄の不幸は私の家とかかわり私の家が責められるものだった、でもその後の兄のことが全部私の家の責任とはならないと思う
何か金使いあらく結婚してもうまくいかず借金したことで離婚になったのか、そのいきさつはわからないにしろ何かしら兄自身にも責任があったともみる
いくら不幸な生い立ちでもその人自身がその生い立ちや環境にその責任がすべてあるとは思えないのである、ただ自己責任を余りに言いすぎるのも問題である

兄は過酷な運命に生まれたことは確かである、でも境遇はみんな違ったものになる
その境遇のせいにすべてができるのかとなると疑問である
ただ同情することはありそれで墓標を建てたてて供養している
ただ不運の星の下に生まれた人はいる、するとそのカルマを相当に自覚して生きないと
同じことが起きるのかともなる、兄の交通事故の原因はそもそも離婚したり借金したりと追い詰められた結果そうなったともなるからだ
それを恵まれた自分自身が言いにくいにしてもそうである
人間は誰しもカルマを背負っている、それが苦しみとなって現れる

人間は何であれ一人の一生でそれが別に優れた人でもなくても必ず教訓を残すのである
実家のめい子にしてもそうである、母が姑に嫌われたとしても自分だけは金持ちの人と結婚したりして娘を置いてそうしたから今度は認知症になったときその娘に頼ることはできなかったのである、娘は母親とすら思っていなとも見たからである
ただ金が欲しいというだけだったからである
その不幸は家を出るなら娘と一緒に出るべきだったともなる、自分だけが出て金持ちの人と再婚したということは勝手だったとなる
子供手放すというときそのことがあてはまる、それも教訓だった
小説ではないが小説でもそれが事実に基づいているから教訓を伝えるとなる
ただ私自身は小説は苦手でありなかなか深く読めないから読んでいない
でもこれを題材にすれば小説家なら書けるだろう、事実から小説が生れているからである

●歴史も必ず教訓を残すから学ぶべき

歴史もhistoryも必ず人間に教訓を残してきたのである、だから歴史を知るというときそこから教訓を学ぶということである、歴史となると大きなものになるからわかりにくいことがある、でも必ずそこから教訓を伝いているのである
その教訓を読み取る努力が必要になる、これは相当にむずかしいことになる
個人でも謙虚になれということはわかる、でも歴史の中でもやはり謙虚にならないで傲慢になって失敗した例はいくらでもある、野郎自大国が漢をみくびって戦争に負けた
そこにまさに夜郎自大国になっていたのである、それも教訓だったのである
それは実際日本の太平洋戦争でもアメリカの大国と戦争して勝てると思ったのも傲慢だった、相手をみくびりすぎたのである、そしてアメリカがどれだけ強大な国かを知らなかった、アメリカを直接接して知っている人はわずかだったからである
だからやはり野郎自大国になっていたとなる

結局なぜ人間は失敗するのか、それは傲慢になったからだとなる
個々人でもそうである、事業に失敗した人は意外と傲慢になって失敗したとなる
母親の実家の父親は警察署長だったから機織りの会社を経営して成功すると思っていたのである、でもその方面の経験とか知識に欠けていたようである
詳しいことはわからないにしろ警察署長だから成功すると思い傲慢になっていたのである母が言うには威張ってばかりいたと言っているからである
何かこの傲慢になることが人間が失敗する原因で多いとなる、その人が事業に失敗したのも確かに簡単に誰もとれない一級の免許を持っていた、だから会社に勤めている時は優秀な技術者として認められていたのである、でも事業をするというときまた違ったものになる、でもその人もそういうふうに技術者として優秀だと認められていたから事業を起こしても成功すると思っていたのである
その失敗の原因は傲慢になっていたということにあり共通しているとなる

他人のことを言うが私自身も失敗だったのである、結局何かをやろうとしてやることもできず引きこもりで終わったとなる、そういう機会も与えられず終わったとなる
多少教育に興味があったがそれも結局は経験を積み重ねることができず失敗だったとなるただもともと短歌とか俳句とかは作っていたからそれは継続して詩でも作って来たのである、その面では積み重ねで我なりにいいものができるようになったとみている
でもそれも時間をかけたらやっと死ぬ頃になって花が開いてきたともなる
人間は最初は芽にすぎない、でもそれが花開く時がくる
それも時間がかかるのである、自然と接して自然を知るには時間がかかる
だから都会から何か都会人からは芸術家とか天才が現れないというのも自然と接することがなく自然がどういうものか学べないからだとなる

●老人は経験を積んで賢くなる、二百年も生きればもっと賢くなる

だから青年はどんな老人でもいい、その老人から何か学ぶものがある
例えばとるにたらないくだらない老人でもあんな老人になりたくないとみれば学んでいるとなるからである
どういう老人になるかとなるとやはりすでに若い時から人間形成が始まっているのであるつまり若い時が大事なのはその方向が決まるからである
それでカルト教団などに入るとそうした時間でも労力でもただ奪われるだけだとなるから怖いのである
ただ私の場合は別に早い時期にやめたからそれも一つの経験であり教訓を得たということである
人間はもしかしたら成功した時かえって傲慢になり教訓を得ることがない
でも失敗した時必ず何らかの教訓を得るとはなる
人間とはその繰り返しカルマの繰り返しだともなる、なぜならカルマは延々とつづくからである
恐ろしいのは原発事故の失敗は未来永劫続くということである
その事故の失敗は余りにも大きいものだったのである

ともかく人間は賢者になれない、その歴史を見ても愚かである、その愚かさは何百万人も戦争で死ぬとなるから怖いのである、その反省があれば戦争などしないとなるがやはり依然として戦争があるのは人間が賢くなれないことなのである
一人の人間が賢くなったとしても大勢の人は賢くなれない、それは大衆化した社会をみればわかる、民主主義の数で決める政治ではかえって能力もないモラルもない人が選ばれていることでもわかる、数で決めるならどこでもそうなる
何か先見の明がある人など選ばれないだろう、政治とは権力争いでもあり権力を掌握するものが命令するともなるからである
要するにこうして人間が賢くなれないことが絶望的なのである
それは民主主義であれ社会主義であれ資本主義であれそうである
システムや組織を変えたとしてもそうである、個々人のレベルがあがらないと根本的にな解決にならない、でもどうしても大衆社会では賢者とかはありえないのである
水平化されてみんな同じだとなるからである
それで賢人政府なども実現できないのである

●エデンの園の禁断の実を食べて神のようになろうとしたがなれなかった

それは人間のような知恵がないからである、それはエデンの園で禁断の木の実をリンゴを食べたためである、それを食べてどうなったかというと人間自身が神となり知恵を持つものとなった、神が治めるのではなく人間自身が神となることになった
その原罪があり人間は自らを神として生きることになったのが根本的な原因なのである
でも結局人間の知恵は神に及ばないから人間社会は治まらないのである
絶えず争いがあり戦争もなくならない、法律を整備しても科学技術が進歩しても原発事故のように大事故になり取り返しのつかない失敗をした
それはギリシャ神話とかでも予言されていた、火を盗んだプロメテウスがゼウスから過酷な罰を与えられた

要するに人間は神となり知恵あるものとなり世界を治める

それができなかったのである、人間の知恵は神の知恵には劣る、神の知恵を凌駕することはできない、だから原発でも人間の知恵で作ったとしても崩壊して故郷に人間は住めなくなったのである、人間が自らを知恵あるものとして神のようになったときそれこそが傲慢であり人間はそのために高度な文明でも崩壊する、科学技術でも原発事故となり遂に核戦争で滅びる、ハルマゲドンで最終戦争で人間は滅びるとなる
それが智慧の実を食べた人間への罰だったのである
現代の文明自体が知的に技術的に高度ともならない、エジプト文明でもマヤ文明でも高度も知的で高度なものがあった、今でもピラミッドが現代の技術で再現できないものがあるでもどんな高度な文明があってもそれも滅びる、砂に埋もれジャングルに放棄されて埋もれたのである

人間の知恵で作った文明は永遠のものにはならない、神の国に永遠の都がある
つまり遅かれ早かれ文明は滅びるのである、人類も神の意にかなわないものとして滅びるのである、大都会があってもそこには美がないのである、それが致命的なのである
なぜそこに美なる荘厳な都を作れないのかとなるからだ
人間がいない自然状態のままの世界には美があった
それは津波で再現されたのである、八沢浦が元の美し入江にもどったということを書いたこれはそこで死んだ人もいたのだから批判された
でもその時入江にきらきら日がさして波が寄せてきたのを見た時驚嘆した
津浪は確かに悲惨だったけど自然は美を作り出すということである

●永遠の都はこの世にはない

それに比べると東京とかでも一千万人住んでいてもそこに美がないのである
それが致命的なのである、一千万人も住んでいれば確かに経済力とかはある
てもそこに美がない、田舎なら何もなくても自然の美はある
すると文明自体が何なのかとなる、かえって自然の美を破壊した怪物都市でありそんな所に人間が住めるのかとなるからだ
巨大な胃袋であり精神的なものがない文化がないのである
例えば天才でも都会からは生まれない、一千万人の大都会があっても天才は生まれない
育たないとなる、地方都市から生まれているのである、フィレンツとかルネサンスが起きた都市でも五万くらいだったのである、だからなぜそんな小都市からあれだけの文化が芸術が創造されたのかとなる

要するに人間の知恵で禁断の木の実を食べて神のようになったとしても人間の知恵は神の知恵には及ばない、だから必ず自壊して滅びるのである、永遠の都はありえないのであるそこに人間の限界がある、それはアダムが食べるなと命令した禁断の木の実を食べた結果として人間に起きたことなのである、それが人間のカルマとなり宿命となり今日までつづいている
人間はどうしても神のように賢くなれない運命だったのである
だからどうしても個々人でも失敗するし社会自体でも国でも失敗するのである
人間の愚かさはいくら文明が発達しても消えることはない、かえって人間は科学技術でも核戦争ともなり原発事故ともなり滅びるというのか運命なのである
それはエデンの園で禁断の木の実を食べて人間自ら知恵ある者として神のようになったというときから始まっていたのである

それで神に逆らうものとして人間がありバベルの塔を建ててもそれが崩壊するのである
それがまさに現代の文明でもある、原発事故のように崩壊するのが定めだったのである
人間は個々人でも全体でも社会でも賢くなれない、確かに歴史で教訓を残したとしても
依然としてやはり教訓は必ずしも活かされないのである
それは個々人でもそうであり社会全体でもそうである、だからカルマを繰り返しているのである、その原因はまた人間の欲にある、人間から欲がなくならない、それでもう68歳とかで熟年離婚したりする、不倫したりしているのである
人間の欲はそれだけ強いし消えないのである、だから人間が生殖して生き続けているともなる、それだけではない人間の欲は様々あり老人になったから消えるけでもなくかえって最後の欲望がでてくるともなる
そのために人間は欲で滅びると予言されたのである

●個人的には賢人はいる、でも大衆はほとんど賢くなれない

いづれにしろ社会全体でも賢くなれない、個人的にもなれない、ただ個人的には賢人とかいてギリシャではソクラテスとかが賢人政府を作ろうとした、それはあくまでも理想としてであり現実化はされないのである、むしろ政治となると権力闘争でありマキャベリズムになるのである
個人的には人間が百年ではない二百年とか健康で頭もボケないで活発であれば賢くなるとなる、成せなら外国でも理解するのがむずかしいからである
一つの国を理解するだけで何十年ともかかってしまうこともある、それだけグロ−バル化すれば知識も膨大に拡大するからである
でも歴史的には人間は何千年経ても賢くなっていないのである
個人的にはもし最初に老人となり青年となれば賢く生きれる、結局若い時は享楽に走ったり無駄なことで費やされる、そして時間を浪費するのである
もし老人から青年になればそういうことはない、時間の貴重さを知っているからである
また200年も生きるとなればグロ−バル化した世界では知識も膨大になっているからそれだけ元気に生きれるとしたら理解も深まる
たいして才能がなくても一つの分野の大家になれる

私自身が何でも理解することでも遅すぎたからである、でも遅いとしても長く元気に生きられば成果が生まれてくるとなるからである
個人的には確かに賢人はいる、それも極わずかである、あとは大衆となるとパンとサーカスになる、大衆社会となるとファシズムとなりポピュリズムとなり大衆を扇動するカルト教団とかが席巻してナチスになったのである、今ならカルト教団がそれと同じなのであるともかく人間は賢くなれない、やっと死ぬ間際になって人生はこうだったのか人間とはこういうものだったのか別に本を読まなくても体験から知るから老人は悟ったようになるのである、賢い人にもなる、でもまた老人でもやはり賢くなれるのはわずかだとなる
そこに人間の絶望があるとなる、科学技術ですべては解決しないからである

いくら科学技術が発達しても高価な機械で身体を診ても医者に見る目がなかったらわからないのである、それで脳卒中の前兆症状が三つもでていたのにわからなかったのである
一回は遠くの病院で診てもらい近くの医院でも診てもらってもわからなかったのである
科学技術の恩恵が大きいことは否めない、でも全能ではないのである
だからこの世の問題がすべて科学技術で解決されるというのは一つの空想にもなる
そうあってほしいというとき科学技術者が神のように見えるとなるが神の知恵を人間は持つことはできないのである、だから原発事故にもなったのである

遺骨の物語 (人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)

冬の日の俳句十句ー鹿島区から原町へ (枯菊、冬紅葉、葉牡丹、冬の暮・・・)


冬の日の俳句十句ー鹿島区から原町へ

(枯菊、冬紅葉、葉牡丹、冬の暮・・・)

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あわれかな里の小径にあきつ死ぬ

冬の日や里の小径を今日も行く

枯れ菊や今日も行く道日あたたか

葉牡丹の白紫や据えし石

家籠もる曇り硝子冬紅葉

めぐり来る母の命日冬紅葉

塀長く家を構えて冬紅葉

深野(ふこうの)に構えし家や冬紅葉

家一軒林に隠れ冬の暮

ユッサの湯庭に石五つ冬の暮

残りたる五輪塔の墓冬の暮

継ぐ家や冬菜に墓地に残る柿


白鳥の朝の飛翔や鳴き声の晴れし空にそひびきわたりぬ



里=人の住まない山などに対して,人家のあるところ。村落。人里。
田舎。在所。ふるさと。
そこから、実家 在所を
指すように、なりました。
home town of something

宛所が「里刀自」とあり、三六名の農民を郡司の職田の田植のために徴発するという内容のものである。まず第一に、刀自は、家をおさめる主人を家長、主婦を家刀自とするように、集団を支配する女性をよぶのに用いている。

里刀自小論 : いわき市荒田目条里遺跡第二号木簡から
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390853649019549184

天皇の藤原夫人(ふじわらのぶじん)に贈へる歌一首

わが里に大雪降れり大原の古(ふ)りにし里に降らまくは後(のち)

里は狭い範囲であり隣に里がありそんなに離れてはないのである

日本にも中国の「里」が伝えられ、律令制では、大宝律令で「里 = 5町 = 300歩」と規定されていた[3]。

当時の尺は、現存するものさしの実測によれば曲尺(1000D 33 cm ≒ 30.3 cm)より2   3 %短いため、歩・町も同じ比率で短くなる。当時の1里はおよそ533.5 mであったと推定されている[4]

里とは自然界と人間界がありその中間になる、里は人間化した畑とかある田んぼでもある場所である、でも自然界と接していて動物でも侵入してくるが里には人間が住んでいるので動物も入ってこない場所としてあった、棲み分けがあった
最近は熊もでも自然界に棲息していたものが里にでてきて人間が住む都会まで出没するようになった、里とは動物でも入らない場所だったのである
動物の棲息範囲から逸脱するのは森に食料がなくなったためとかなる
雲南とかでの野生の象が都市まで出てきたのがそうである、食べるものがなくて移動したのである
動物との棲み分けが必要であり里はその境界として機能していた、動物は里まで出てこなかったのである、ただ里に人が住まなくなると熊でも猿でも侵入している
それは原発避難区域になったところではそうなった、猿でもイノシシでも侵入してきたからである

里というと里とは人間が作った庭の延長のようにも思う、なぜなら故郷でもは里くらいの狭い範囲だと庭のように思えるからである、だからそこで赤とんぼでも死んでいるとあわれだとか見るのである、蛙などでも極めて里にふさわしい、蛙が鳴く声は里にひびくのである、一時は原発事故のために田んぼが荒地になった、その時蛙も鳴く声も聞こえなくなったのである、つまり田んぼも里の景色として第二の自然となっていたのである
蛙はそうした人間化した第二の自然の中で鳴いていたのである
里の範囲だと庭の延長であり何か人間化しているのである
不思議なのは里というとき日本語ではさとるから来ているともなる、里に住んでいて悟るとなる、里の範囲なら狭いから悟る納得して知る範囲にあり愛情でも通う範囲ともなる
村は群れるであり人間をイメージする、自然はイメージしないのである
だから里というのは日本の風土から生まれた独特の感覚なのだろうとなる

枯菊に日があたたかくさしている、これは老人をイメージするのである
親を介護する感覚になる、ただ枯菊が多すぎる老人が多すぎるのが問題なのである

冬紅葉というとき母は12月15日が命日である、それで冬紅葉記とした
今は冬紅葉の季節である、
新田川のユッサの庭には五つくらい石がある、でもものたりてい庭である
もう少しいい庭にすればいいが狭すぎる

白鳥は増えた、20羽くらい見た、白鳥は飛ぶ時が気持ちいい、これから本格的な冬になる、みちのくの冬はわび、さびがあり冬らしいとなる
みちのくは依然として荒野の感覚がある、それで枯野がふさわしいとなる



2022年12月13日

冬の朝の虹(写真) (六号線の塩崎方面にかかる)


冬の朝の虹(写真)

(六号線の塩崎方面にかかる)

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朝に雨夢かと消ゆる冬の虹

高平から川子を回り塩崎の方でる道を行くと虹が出ていた
小雨が降っていた、でもあんな方向から虹を見たのはめずらしい
ここではたいがい海の方向に虹を見る、山の方に見るのはめったにない
虹を見る時は縁起がいいとはなる






タグ:冬の虹

2022年12月14日

物と心が分離した経済 (でっかい磯部の梨を与えて考える)


物と心が分離した経済

(でっかい磯部の梨を与えて考える)


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でっかい磯部の梨

でっかい磯部でとれた梨
それを病院入院した母親に
食べさせろと息子に与えた
その息子は発達障害者
その梨を食べて癒されるが良い
与える心がその梨に宿りまた伝える
それはただ金で買うものではなく
心がその梨に宿る
磯部で育てられたでっかい梨
この土地に育まれこの土地の人の手で
いつくしみ育てられたもの
それはただ金で買うものではなく
その梨にはこの土地と人の手で
育てられたものとしての価値がある
物と心が一つになったもの
そうしてその梨を味わう時
その梨はただ食べるもの
腹を満たすものではなく
心も充たされるものとして価値がある
死者への供物は金はふさわしくない
土地の実りと人の手を加えたもの
実物を献げてこそ供養となる
その磯部のでっかい梨
ありがたく食すべしかな

古代ギリシャ語には「oikonomia(オイコノミア)」という単語があるんだけど、この単語を英語で表すと「management of a house government」という意味になるんだ。「oikos」という単語には家庭という意味があって、「nomia」はルールとか決まりという意味があるんだよ。つまり「家庭におけるきまりやルール」という意味の「oikonomia」という言葉が変化して「economy」になったと考えられるね。


今経済でも問題なのはグロ−バル化であり広域化経済でありグロ−バルな市場経済でありグロ−バルな金融資本主義でありとかその規模が余りにも大きすぎて本来の経済の言葉とはかけはなれるようになった
それは天文学的な数字となり株式市場でも金が動き数字化される
経済の語源は漢字だと経世済民なのである、民を救うということにあった
またエコノミーとは家政から始まっていたのだからその相違は余りにも大きいのである

そもそも現代社会がなぜ歪めれたかとなるとその起源が貨幣の出現によっていた
これはいい悪いにしろやはり人間が生活するために必然的に生まれたのである
物々交換ではとても商売も成り立たないからそうなった
でも貨幣を紙幣を媒介とするときそこにどうしても歪められるのである
だからこそ貨幣により物神化とか人間疎外がそこに現れたとかなる
これはむずかしいかそもそも貨幣が紙幣が生まれたこと自体にすでに経済を歪めるものとなったのである
そしてギリシャの紀元七世紀にもすべてが金だとなり嘆いていたのは今と同じである
すべての価値は金に還元されて後は無視されたのである
すでにそんな昔から金の弊害が極端化していたのである

そもそも価値はすべて貨幣で金で計れない!

これだけは確かである、市場化してそこで金で売買されてもそれが正当な価値として売買されないのである、そうした矛盾がすでにありマルクスの理論が生まれたのである
今は貨幣がデジタル化して数字になり株式市場では数字として処理されるだけになったのである

磯部でとれた梨の価値、その背景にはその育った土地がありまた育てた人がいて商品となる、でも市場にでるとその品質と値段だけが問題になる
買う人はその梨が作れる背景など考慮しないからである
現実にただ消費者がみるのはその梨がうまいか、後は値段だけである、一応生産した土地とか人を見ることはある、でも生産した人はみず梨の味とか値段だけを見るのである
でも地元だと磯部の梨ということでその土地と人でもイメージするのである
磯部は津波で村落自体が消失した、でも高台の方は被害がなく梨は作られていたのである
こうして商品経済になると人は味と値段しかなみない、現実に自分自身にしても近くに味噌屋があっても一人分買うとなるとめんどうになるからスーパーから選んで買うだけになる、また米でもいろいろな米があり地元の米を買うとは限らないのである
そうして商品は外国からも入ってくる、そしたらその商品がどうのこうのいちいち考えることもできないのである、ただ味とか品質とか値段しか見ないのである
そうして物と心は分離したのが現代のグロ−バル化した大規模経済なのである
そこで金が貨幣が大きな力を持つことになったのである
金はもともと地元にはない贅沢品を買うものとしてあった、それで宝貝などが貨幣の代わりとなったのである、漢字では必ず貝とつけば貨幣とか財になっていたからである
また貴金属が貨幣となったのは遊牧民などの財産となったのは持ち運びが容易だからそうなったのである

いづれにしろ磯部の梨というときその価値は地元でとれたものであるからどうして遠くでとれるものとは違ってそこにその土地と人をイメージする
外国とか遠くなるとまさにその商品しかみない、でもバナナをとるにも結構暑いし楽でないとと日本人が語る時、バナナがどうしてとれるのか知ったとなる
するとただバナナという商品だけを見ずにその背景を考えることになる
現代はとにかく物と心は分離しているのである、膨大な商品があってもいちいちそれがどういう経過で作られたのかとわからないからである
それで貧しい国の人達が工場で作られたらか安いものとして売られているとかグロ−バル経済でそれは人権として問題だとかなる、酷使されて作られたから問題とかなる
でも買う人はそんなこといちいち考えないのである、考えることもできないのである
そこで物と心は分離するのである

東洋的な思想では仏教でも色心不二というとき色は物でありそれが一体だと説いている
そもそも日本語でも物とはいうときものが憑くとか物心とか物と心は一体とみていたのである、そもそも物とは本来は値段がつけられないものともなる
例えば果物でもリンゴとかミカンとかバナナとかあってもそれは別々の価値があり味がありどっちが優れているというより別々の価値なのである
その価値は貨幣では計れないものなのである、それは色にもいろいろある、赤とか黄色とか青とかあると同じである、どっちが優れているというより別々の価値があることなのである

とにかく経済の規模が大きくなりすぎたのである、そうなると物と心は当然分離する
でも別に貿易とかは否定できない、ただ人間の心の問題として経済をみるときもう物と心は分離してしまったからこそマルクスの物神化により人間疎外とかになったのである
今や人間そのものが物であり貨幣で計られる存在でしかないのである
人間を金としてしか見ていないのである、だから私の家に金をくれると来て実際に屋探して大金を盗んだ人がいたのである、つまり人間は田舎であれ都会であれ今や関係ないのである、金こそすべてになってしまったのである
だから原発事故でも補償金をもらったらその土地をすぐ離れて仙台市に住んだとかばらばらに住むようになったのである、それは金があればどこでも住めるのだから原発事故で荒廃した故郷に住みたくないとなったのである、放射線被害があることでそうなったがそれだけでもない現代社会が金があれば別にどこに住んでもいいしもともと故郷に住みたくない人もいたらこの際一億円もらったら都会で暮らした方がいいとなり移り住んだ人も多いのである

ただそこで失われたものは何かなのか?

そのことが後でわかるようになるかもしれない、ただ現実は金しか見えなくなているのが現代社会なのである
ただ磯部の梨を与えた時、病人に与えた時、そこには何か物を通して心が通う、物と心が一体化したものとしてある、それを自ら梨を与えて感じたのである
もしこれが本当に私自身が梨を地元で作り与えたら本当に心と一体化したとなる
だから田舎で自分の土地で育ててとれた野菜でも分けてもらうときは何かスーパーで買うものとは違って心も受け取るとなる、ありがたいとなもなる
金になるとむしろ金で買う方が消費者が王様となってしまいそんなことにはならないのである

現代の人間はそもそも労働でもなんでも金で計られている、時給いくらだとかなるとあなたの価値はそれだけだとなる、その他は見ないのである
だから人間疎外として現れる、労働が人間を作り価値を作るものとなっていないのであるそのために労働を拒否するニートとか引きこもりが大量に現れたのである
もちろんここには甘えがあり問題があるから肯定できないとしても人間の労働は本来そういうものではない、人間の価値を作るものでありそれは必ずしも金で計れないものである人間の一生の価値がなにかとなったときそれは最後は金で計れない、そうなれば十億円ためた人が最高の価値がありとなり後世にも価値ある人として残るとなるが必ずしもそうではない、最後に人間の価値は金で計れない、その人の価値は何なのかとなると様々であり
でも金ですべては計れないのである、それで今になると銀行員の価値は下落した
投資信託でも株式でも証券会社のようになり銀行をもうけさせるだけであり銀行員の言う通りになるなというときそうである、それは銀行が得するものであり客はそうではないからである、するとどうなるのか、銀行員は地域に住んでいてもだます人なのかととも見てしまう、そうしたら田舎とかに住んでいても銀行員を価値あるものと見なくなる
そうしたら銀行員でもその職業自体いいものではないとやめる人も増えてくる
でも大工とか職人とかならその人はその腕に見合ったものが金として払ってもまた地元でも尊ばれるのである、それは医者とかでも農業とかでもそうである
すると銀行員になるより別な職業を選んだ方がいいとなる、そのために銀行員から農業をするようになった人がいたのもわかるとなる

金ですべての価値は計れない!

でも現実はそうなっている、そこに現代社会の大問題がある、グロ−バル経済がすべて否定できないにしてもそれが物と心を分離するからそうなるのである
posted by 天華 at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年12月15日

政経東北はなぜ渡部恒三を持ち上げるのか? (メデアに中立はない、マスコミも原発事故では共犯者だった)


政経東北はなぜ渡部恒三を持ち上げるのか?

(メデアに中立はない、マスコミも原発事故では共犯者だった)

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なせか今の南相馬市の門馬市長は批判されている
でも桜井前市長は批判されないのである
この理由が良くわからないのである



●政経東北が渡部恒三を今も持ち上げるのは何故なのか?

ただこの福島第一原発は3〜40年が稼働限界だとされていました。
その前提に従い前福島県知事佐藤栄佐久は原発を廃炉にすべく手続きを行い徐々に機械を停止させようとしていた。
原子炉の寿命を延ばし能力を上げるプルサーマル計画も許可しない方針で、一時期には完全に停止させています。

この現福島県知事、民主党佐藤雄平という人物はナニモノなのか?
でちょっと調べてみたんですが、渡部恒三の甥なんですね。
つまり叔父さんが誘致した原子炉を自分の代で廃炉にしたくなかった、というかなり個人的な理由でプルサーマル計画を受け入れた可能性がある。
まあまんざら渡部恒三に原因が無いわけでもない

しかし、中曽根康弘、正力松太郎に源流をもつこの国の原発推進策に、なんら疑問をさしはさむことなく、福島はもちろん全国に「原発安全神話」を吹聴してきた一人こそ、渡部氏その人ではなかっただろうか。

「私の選挙区福島県は日本の原発の30%を占めているが、そこで育った私はこの通り元気いっぱい、健康そのもの。原発をつくればつくるほど国民の健康は増進し国民は長生きし厚生行政は成功してゆくのではないかと思う」。

ばかばかしくて、このブログにのせるのも憚られるが、渡部氏の支離滅裂な思考法や、おべっか使いの人間性を物語る挿話としては、なにがしかの意味があるかもしれない。

衆院や参院の議長といった名誉職に就くことだけが残された政治家人生の目標であるに違いないこの人物を、黄門様だのご意見番だのと持ち上げて、何かにつけてコメントを求めるマスメディアは、いまいちど、彼の言行録を総点検してみてはどうか。
https://ameblo.jp/aratakyo/entry-10881034842.html

渡部の甥の 佐藤雄平 は福島県知事で、
黄門さまと共同でアメリカ企業のご機嫌を伺って原発推進してました。
国会議員一人の力でここまでたくさん原発作った例は過去に一度も無い。
同じ原発王国の福井や新潟と比べてもその差は歴然。

しかも発注したのが米GE社製不良品だったからこのザマ。
そのうち渡部恒三が昔この原発宣伝してた映像が出回るようになって議員辞職確定だろうhttps://armchairanthroposophyst.hatenablog.com/entry/20110321/1300675636


福島原発事故は人災だ。渡辺恒三は誘致した責任をとり即時議員を辞職して放射の悪被疑者に詫びよ。日本の悪党たち(官僚。大手メデイア11社。既得権益勢力。など」と裏で連携し小澤さんをいわれのない(疑惑」で追い落とす民主党内の悪党の先導役をしていた渡部恒三のような裏切り者が福島県民を不幸のドン底へ追い込んだのだ。

渡辺恒三は福島県で一番力を持っていたんだろう
そいつが口だけではない、実際に第一原発の土地を持っていた!
これは責任を逃れようないよな
佐藤えいさく-前の知事は原発反対だった
それで甥を知事にした
そんなこと福島県のメデアでも誰も追求していない
福島県も原発利権にどっぷりととりこまれていた
それで外部から福島県が自業自得だというのは福島県民として辛い
福島県民も監視役もないしみんな原発の危険性を言う人はいなかった
南相馬市は原発から遠いと思っていたから自分も大丈夫だと思っていた
原子力には無知だったし無知にされていたのだ
それが今回の苦しみを生んだのだ

「原発で長生き出来る」などとほざいていたくらいだから。

事故以後にまったく顔を出さないのが甚だ怪しい。
自分の出身地であり選挙区でもある福島県が危機に瀕しているのにもかかわらず発言も聞かない。
普段なら出るなと言っても出しゃばる男なのに。
本人は原発利権と裏切りの人生、息子はCIA工作員、甥がMOX(モックス)知事・・この一族、終わってるな。
http://www.asyura2.com/11/senkyo111/msg/439.html

●なぜ政経東北では渡部恒三をもちあげるのか?

●南相馬市の前市長の桜井氏をもちあげるのか?

●相双リテックを裏表紙で堂々と宣伝していたのか?

政経東北の12月号で渡部恒三記念館ができたとか政経東北は原発事故前からその後でも持ちあげている、これは異常ではないか?
なぜそれほど持ち上げるのか、原発事故前ならまだわかる、そもそも原発については隠ぺいされてわからなかったからだ、その隠ぺいされたことは権力によってそうさせられていた
原発は国が主導して県に命令して南相馬市とか相馬市とか地元とか双葉町でも大熊町でも自治体に何ら反対することもできない仕組みになっていた
強力な国の権力と東電が一体になり作られていたのである
そしてその利権は余りにも大きいものだったのである、庶民には想像を絶するものだった原発事故以後も補償金だとか除染とかで十兆円とかの規模にもなる巨大なものだったのである、国家的事業であり太平洋戦争とも似ていたのである
だから地方自治体にどういうものか説明もされない、何か原発自体立ち入り禁止であり
アンタチャブルな領域になっていた、ブラックボックスになっていた

そこに政府官僚が検察でも警察関係者でも海上自衛隊でも天下りしていたのである
その強大な権力に反抗することもなにもできない、そもそもその内部のことなど立ち入り禁止であり知る術もなかったのである
そもそも国ー県ー自治体があるとしても自治体は関与できなものでもあった
そこに御用科学者もいてもう何もできない、調べることもできない、鉄壁の権力で作られていた
そこにマスコミでも福島県のマスコミは何ら危険を知らせるとかなかったのである
それより原発推進でありそのために電事連から800億円がありそれが宣伝費として回っていたのである、これも巨大な想像できない金である
そして原発事故があったときマスコミ関係者の幹部が中国に招待されていたのである
そこに朝日新聞社も招待されていたのである
つまりこれだけの権力を持っている組織が原発の「安全神話」を作っていたのである
これは鉄壁の布陣であった、それを砕いたのはマスコミでも何でもない、津波だったのである、とてもこれだけの権力になったら人間では破壊できないものになっていたからである

●読売新聞社の正力松太郎が最初の原発推進者だった

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読売新聞の日本テレビ系が創価の宣伝をかなりしている、宣伝費が相当に入っている


そもそも原発は読売新聞社の正力松太郎がかかわり作られたのである

 正力は野望実現のために、当時の吉田茂首相やアメリカとの交渉に奔走した。しかし、正力はほどなく一つの結論にたどりつく。それは、野望を実現するためには自らが最高権力者、すなわち日本の首相になるしかない、というものだった。そして、正力は同じく当時将来が嘱望されていた原子力発電は、そのための強力なカードになると考えた。しかし正力の関心はあくまでマイクロ波通信網であり、原発そのものは正力にとってはどうでもいい存在だった。
 当初はアメリカも、弱小紙だった読売新聞を大新聞に育て上げた

何かマスコミとかその背後関係はわかりにくい、正力松太郎はCIAのスパイだったという
戦後日本を支配するためにそうなった、戦後はいづれにしろアメリカに負けたのだから
アメリカに従属する他なかったのである、だからアメリカの力を借りて読売新聞社と日本テレビを作り育てたのである
こういう裏があってもマスコミは原発事故後はそれを明らかにしていない
読売新聞社でもその創始者を批判したりしない、そしていかにも事故後は原発事故の避難者とかを助ける方に回って援助していると積極的に加担したとなる
それが矛盾していたのである、自分達の会社の非を知らせずに原発避難者に協力している地元の人達はそれを知らないのか批判もしなかったのである

マスコミもこうして利権にあづかっていたから原発の危険を知らせることもなかった
例えば潮とかの雑誌を出している創価の聖教新聞でもそれがマスコミで二番目くらいに多かったのである、環境保護となにか原発を表に出さないでうまく原発推進の広告を出していたのである
創価とはともかく権力を得ることしか頭にない、だから利権となればどんものもでも食いついてゆく貪欲なのである、それが危険でもなんでもかまわないのである
創価の雑誌でもまず広告費をとることだと発破をかけている
新聞とかテレビで一番大事なことは真実を知らせることではない、広告費をとることなのである、その最大の広告費をだしてくれのが電事連とかになる
その額があまりにも大きいからである、つまりマスコミはそもそも報道するだけで金がかかりすぎるからそうなる、社員の月給でも払わなければならない、新聞だったらいちいち一軒一軒配達しなければならない、新聞をするだけで金がかかりすぎるのである
それで福島民報では創価の聖教新聞を刷っているのである
ここからして今統一教会が責めているが創価を福島民報では責められないのである

つまり福島県のマスコミ自体が完全に政府であれ官僚であれとりこまれていた
だから原発の批判できなくなっていたのである
福島民報は県で50パーセントも出資もしている、県や政府の広報機関になっていたのである、今ではインタ−ネットで盛んにこうした既得権益を持つものを批判するようになった、ただ11年前の原発事故だとまだyoutubeとかは盛んでなかったようである
何か権力を持っている批判しにくいのである、最近なぜあからさまに統一教会問題でカルト教団が批判されてそのために創価でも批判される
それはやはり会員数も減り票も減り弱体化しているからたたくようになったのである
これからますます弱体化すればその悪は暴露されてゆく、渡部恒三でも現代の水戸黄門様とかメデアでもてはやされていたことでもわかる
でもその黄門様が悪徳代官でもあったとなる、そうなったのは津波の力でもあった
もう人間の力ではその悪を暴露などできなくなっていたのである



●いかなる報道機関にもメデアには中立はない

マスコミが矛盾しているのは政経東北でも盛んに原発の責任とか情報発信して批判している、でも政経東北自体が悪の権化ともなく渡部恒三を未だに持ちあげているのか?
ここに何か裏がありもともと資金も入ってきたためのなのか?
そのことは相双リテックの宣伝をしていたことでもわかる、その会社は除染の費用何十億を幹部が山分けしていたからである、つまり政経東北もまたその利権にあづがっていたのである
それで原発関係のことで記事にしているけど矛盾がある、自らが襟を正さなければ真実の報道もできないとなる
ただメデアには中立という意味があるけど中立でありえないのである
どんなメデアでも人でも中立であることはむずかしいのである、その中立でありえないのは必ず利権がかかわるからである、人間はやはり金に左右される、金をくれるならおめこぼしするとなる、また積極的に宣伝もするとなる、それは費用がかかりすぎるからであるもしインタ−ネットで報道するならプログなどでするならまたyoutubeでもするなら金はかからないのである、手間はかかるとしても金はかからない、すると中立でも真実の報道はできるのである、私自身がそれをしている、誰からも金などもらっていないからである別にもらわなくてもできるからしているのである
それは影響力もたいしてないから注目もされていないからだともなる
でも原発事故では現場にいた一人だからやはり報道するには有利だったのである
内情がある程度わかっているし自分自身とも深くかかわるものとなったからである

原発事故では報道もマスコミも批判された、確かなことは報道は報道するものによって必ず偏る、自分たちの有利なように報道する、それはいかにも中立を装うNHKでもそうである、NHKは相当に偏っているのである、原発事故でも津浪の被害者より原発事故の被害者の方を優先して報道した、その数も多いからかそうなった
そして地元の人でない人は津波の被害者と原発の被害者が同じ地域にいた
仮設住宅にも団地のような所にもいた、そしていわき市の方で暗に津波被害者が原発避難者に冷たいと言わせていた、それは津波被害者は原発避難者のように補償金をもらっていなかったからである、そこに不満があり仮設でも一緒にいても話すこともなかったとなっていたのである
でもなぜ原発避難者側に味方する報道をNHKはしたのか?
それは幹部達が協議して今話題なのは国民の関心が原発避難者にあるは見たかららしい
とにかくNHKは金には困らない、余っているとしても中立ではないのである
そもそも中立な報道機関はないのである、何かしら偏っているのである
個々人でも争っているとき双方の意見を聞かないと判断を誤る
何事賛成反対がある、だから一方だけを話させるとき不公平になり判断を誤るのである
だからかえって赤旗であれ聖教新聞であれ偏っていてもそういうものだとして見ている
でもNHKとかは他でも中立を装うから偽善にもなる、実際は中立ではないのである

今年も終わりになるが原発事故関係ではあまり書かなくなった
日本全国でも関心が薄れている、でもこの原発事故や津波の被害は世紀末的な大きな事件だった、だからこれは歴史的にも大きな事件であり後々まで追求される
そして真実が明らかにされる、その時権力を担ったものが責任があり追求される
権力を持つことは大きな責任をともなっている、現代ではその責任は金になる
金を多く持っている人は責任がある、一万には一万の責任があり十万には十万、百万には百万、千万には千万、一億には一億とか十億には十億とか責任が課せられているのであるそして悪事は隠ぺいできない、いつか暴露される、それには時間がかかる
一世紀とかかかるとか歴史だともう千年前のことでも悪事がようやく暴露ささて語られるとかなる、でもいづれにしろ悪事でも隠ぺいされたままにはならない、いつか何らかの切っ掛けで暴露される
その悪事も暴露するのがマスコミなのだけどそれが何の役目も果たさなかったのである
むしろ悪事を推進する方にもっないたのである、だからマスコミは信じられない、その権威は失墜した、インタ−ネットでも問題はあるが報道もマスコミだけではない何も権力もない人でも報道して批判している、突出していたマスコミの報道も水平化されたのであるだから独占権力だったマスコミは驚異となった、もう新聞を見ない、テレビも見ないとなるとその役割は終わったとまでなるからである
posted by 天華 at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2022年12月16日

突然人は逢えなくなる、すぐ近くでも逢えなくなった (60以降に起きやすい、親との別れも・・・貴重な共にいる時間)


突然人は逢えなくなる、すぐ近くでも逢えなくなった

(60以降に起きやすい、親との別れも・・・貴重な共にいる時間)


その人は一人でいるからいつも親しくしていた女性が毎日通っていた、話し相手としてもまた多少治療のためにも来ていた、でもその女性は嫌がっていた
その女性はすぐ近くであり見える範囲にあり歩いて行っていたのである
でも突然脳梗塞になり入院した、すでに二カ月にもなる、別に街の病院だから近いのだから見舞いにも行ける、ところが自分自身が病気であり見舞いにも行けない、今はウィルス感染がうるさく病院でも警戒して入れないとなっているからだ

だからこんなに近くても逢えなくなるというのは驚きである
離れて暮らしていれば逢えなくなっている、それはわかる、でも同じ街内に住んでいて逢えなくなのことがあるのかとなる
その女性はまだ72歳とかであり男性は85歳とかである
でも治療していて歩くこともままならない、自分自身が病人だから逢えないしまた女性も脳卒中で歩けないとかなり逢えないのである
それで男性は相当に一人で淋しいとなっている、娘は一週間に一度しか相馬市からしか来ないのである
何か私自身でも経験したことは原町だと8キロもないくらいでも車だと近いようだがが
意外と手間になるのである、だから特別な肉親とかではないならめんどうだとなる
その娘にしても一週間に一回しか来ないのである

何か人間は老人になると別離が多くなる、親子でも兄弟でも夫婦でもどっちかが死んだりして永遠に別れる、逢えなくなるのである
それは常にそういうことが起きる、私自身も両親でも家族は全部死んだからである
回りでも知っている人が死んでゆくのを経験している
ただ別に近くでも親しくしていないのだからその人のことを余り思わない
でも別れが多くなりその分れも二度と逢わない別れなのである

だからこんなにすぐ近くなのに逢えなくなるということもある
それも信じられないとなる、歩いて逢えに行くこともままならないとなったからである
別れというとき肉親でも介護の時は早く死んでくれないかなとなる、負担が大きいからである、でも死んでみるともっと良くしてやれば良かったと後悔している
それはやはり苦しかったけど二度と逢えなくなったことにあった
もう逢いたくても逢えないからである、するともう一度逢いたいとなりそれが切実なものとなるのである

その男性にしてもその親しい女性にもっとやさしくしていれば良かったともみる
でもその男性にしても自分が病気なのだからいたわれる者としてあった
それが突然逢うこともできなくなったのである、意外と老人はこうなりやすい、突然病気になり倒れて動けなくなったりするからである
人間は老人になると死期が近くなるとなぜか必ず知っている人でも回って歩くという
最後の別れのために回っているのかと不思議になる、兄も一回私の家に来たがその後交通事故になり永遠に逢えなくなったのである
肉親でもそうして突然別れが来て永遠に逢えなくなるのである

そして死ぬとき後悔しているのがもっと人にやさしくしていれば良かったとか反省している、その男性もその女性にもっと優しくしていれば良かったともみる、ただ自分自身が病気なのだから相手を思うことそんなにできないということはあった
別に冷たい人間ではない、でも突然近くでも逢えなくなったということはショックになるだろう、それも百メートルも離れていない所に住んでいたのである

人間は最後はさよならだけが人生だとなる、身近な人でも死んでゆくからである
でも生きている時そんなに感じないのである、それで一期一会とか末期の眼とかが言われる、まさに残り少ない生きる時間を惜しむとなる
末期の眼で見る時その価値は金には代えられないものとなる
なぜならもう生きる時間は伸ばせないからである、いくら金があっても時間は買えないからそうなる
ああ、まだ生きているなということが感慨深いものとなる、なぜならもうこの世にはいなくなるからである、人ともみんな別れるからである
こうして生きていれば無駄に時間を浪費することはなかったとなる

逢うは別れの始めなりとかあるが本当にそうである、人間確かに逢うのだがそれは別れを前提としていたのである、だからこそ逢うということを大事にしろということで一期一会の思想が生まれたのである、ただ人はなんで逢うのかとなる
ただ行きずりで逢うこともありギャンブル仲間として逢うこともあり男女なら肉欲で恋愛で逢うこともあるし逢うといういってもいろいろである
何か目的が同じでないと人間は永遠に別れる、そもそも求めるものが違っているからである、社会にでればただ金儲けが目的であり会社でも目的は利益を得ることだけになる
カルト教団などだともう信心とかで逢うのではない、数を集めるために権力を得るために逢うとなる、だから権力を得られない金を得られないとなると離れる
人が出合っても目的がそういうものであるから当然そうなる
そしして金の切れ目が縁の切れ目となり永遠に逢わないのである

結局この世は出合いでも一時的であり生きるのも一時的である
永遠の住いでもない、一時の仮の宿になる
そして神が結びつけないものは離れる、家族ですら離れる、神の国でこそ永遠に生きて別れることがなくなる、ともかく人間は本当に出合いにしろ逢うにしろ一時的なので悪
だから熟年離婚も多いのに驚く、68で離婚した人はおそらく不倫なのだろう
また嫌で嫌でしょうがなかったがやっと離婚できたとか老人でもいる
同じ墓に入りたくないという人も多い、こうなると別れて当然だとなる
男女でもその出合いは一時的なのかとなる、そこにも無常がある

集団とか組織でもカルト教団などでも一時的なものである、あとは烏合離散して終わりである、そもそも信仰など求めていない、俗世と同じようにこの世のもの権力であれ地位てあれ金であれ女であれあらゆる欲を求めて集まったからそれができないとなると離散してゆく、そんな場所なのである、群衆とか大衆とかなるとそこに集まっても騒いでも一時的でありあとは烏合離散するだけだとなる
会社でも実際は長い時間を共に過ごしても退職するとその関係も終わる、継続しないのである
人間が出合いとは何なのか?毎日買い物しても物を買ってもそこに出合いはない
現代は実際は広域化してグロ−バル化しても人間が出合いということがない、出合い意味が見出されないのである、それでナチスのようになり集団化するのだかそこに出合いがあるわけではない、何かそこで偽りの一体感を持ちでも虚しく離散するのである

人間がパーツになりアトム化して真実の出合いとか結合などないのである
これだけの多くの人間がいても真の出合いは極まれにしかないのである
それより死んだ人の方が老人になると親しくなる、家族とかでも死んだ人の方が死んでもいなくなっても依然としている感じになっているのである
それは一緒に長く暮らしたということでそうなっていたのである
もしかしたら一緒にいる時間と比例して親密になっているのかもしれない
でも子供の時一緒に暮らさなければ実の親でも兄弟でもそういう感じにならないのであるだから子供の時の時間は大切だったともなる
それで熟年離婚とか損に思える、そもそも人間の時間は何でも限られている
一緒に暮らす時間でもそうである、ABCDE...とか人がいても長く暮らす人は数人でしかないからである、だから共にする時間が貴重だったのである

もう一度呼んでもらいたい
母であれ姉であれ父であれ兄であれ
私の名前を呼んでもらいたい
そこに愛が通っている
今そうして呼んでくれる人は一人もいなくなった
ただ死んだ人に呼びかけるだけになった
でも死者は答えない、でもそうする他なくなった

人の出合いは何なのか、それは一時的である、でも目的が同じならまた逢うことがある
目的が違うから逢わなくなったのである、真に神を求める人ならまた逢うのである
でもそういう人はめったにいないのである
だからこれだけの人間がいていつまでも思っている人もいない、人はただ烏合離散するだけだとなる、現代は何か広域化グロ−バル化すると余計に確かに多くの人が交わるのだが親密に交わる人はまれになる、江戸時代のような村だったらもう同じ土地に住み共に生活しているのだから自ずと親密になる、ただそういう閉鎖した村は嫌だともなる
だから現代は別に村とかの狭い窮屈な場に住む必要がない、それで人と土地でも人と人でもつながりは希薄化したのである
そこで金の切れ目は縁の切れ目となるのが顕著になったのである、ただそれで自由を得たとなる、でもそこで失われた物もあった、人間は土地とのアイディンティティも持てないとか人と人も一時的であり絆がもていないとかなった
そのためにこの辺の津浪とか震災で絆が盛んに言われたがそれは外との絆であり内部では補償金の争奪で争っていたのである、つまり金の力が余りも大きくなってそうなったのである