権力を追及するカルト教団(権力と権威の問題) (宗教はもともと権威であり権力はなかった)

権力を追及するカルト教団(権力と権威の問題)
(宗教はもともと権威であり権力はなかった)

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権力と権威というときまぎらわしい、一体化もしている、権威⇒権力 権力⇒権威
ともなる
政治では首相とか大統領とか習近平書記とかが権力がありその権力が権威となる
宗教でも権力と権威が混同される、宗教団体の教祖は権威があり権力もある
その権威は権力にもよっている、民主主義社会だと数が権力になる、票が権力になる
例えどれだけ優れた人がいても一票には変わりないのである
ただどんな人でも一票を持つのだから一応権力を持たされているとなる
でも十票でも票を求める人が権力を持つとなる

権威⇒権力 権力⇒権威

この構図がわかりにくいのである、宗教はもともと宗祖がいたとしてシャカでもキリストでもいたとしてももともと無権力だった、洞窟で家もなく修行したシャカでもそうだし
枕する所もなかったキリストにしても権力などなにもないのである
それがやがて権力化した、カトリックだと政教一致になり権力化した
そうなると人間は恐れるのは権力である、権力というときいろいろある
その最たるものが軍事力である、また現代では科学技術力であり経済力である
アメリカはこの軍事力と経済力と科学技術力で世界を支配するようになったからである
日本がの戦争でも最後に原爆を落として支配したからである

科学技術力がない時人間は宗教に頼った、頼るものがないからそうなった
だから村の中心には必ず薬師堂がある、そこで祈るほかなかったのである
そして地蔵にいろいろあり眼に効く地蔵があり耳に効く地蔵がありまた腰痛に効く地蔵がありと今の病院のように分化していたのである
なぜ宗教が力が持ったのはもともと病気を直すためだったのである
病気が人間にとって一番の問題だったからである
でも科学技術が医学が発達しない時代は宗教に頼るほかなかった
だから山伏とか法印とか一部落とか一地域に必ずいたのか?
それは病気の加持祈祷する者として生活できたとなる、つまり医者代わりだったのであるだから山伏は山を歩いて薬となる植物を探して現実にそれを飲ませたともなったのである

キリスト教でもやはり同じでありキリストが様々な奇跡を行った、病人も直したり奇跡を示したことで信じさせた、その頃病人を直す術がないのだから奇跡に頼るほかなかったのである、そしてユダヤ教の人達もキリストが奇跡を起こしたということで注意して見ていた、奇跡を起きることが神の使いだともなっていたからである
そもそも奇跡は神が起こすものだからそうなったのである
それは旧約時代がら聖書でも奇跡の物語であることでもわかる
奇跡なくしては信仰もありえなかったのである、必ず何らかで奇跡が起きているからである、最も知られているのはモーゼが海を割った紅海を割ってエジプトの軍隊から逃れたとなる、そんなことありえるのかというがその奇跡を信じないことには信仰もありえないのである、聖書の信仰はある意味でも理論とかではない、奇跡を信じる信仰なのである
奇跡を信じなければ信仰もありえないからである
奇跡とは科学でも自然でも超越したものとして働くのである
いくら科学が発達してもこの世には不可解なことがあり依然として謎である
だから奇跡なくしてはこの世のことは解決しないのである

なぜこれほど科学技術でも発達して情報でもインタ−ネットとか生まれて普及してグロ−バル化したのに依然として人間には様々な問題が生まれている
カルト教団の問題もそうである、それはやはりこの世のことが解決しないからである
カルト教団に入るのはそこでそれぞれが持っている問題を解決してもらいたいからだとなる、病気とか経済困窮とか家族の不和とか様々なもめごととか数限りなく人間を苦しめるものがあるからである、それが解決できないからカルト教団にでも頼るとなる
なぜカルト教団がこれだけ科学技術が発達しているのに頼るのかとなるとやはり依然として人間の問題が解決しないからである
そこでカルト教団ではやはり昔と同じように解決すると導き実際はそこで寄付金をせしめるともなる

何がホームレスになった四国遍路がどこかでお経を覚えて金を恵んだらお経をあげて私は乞食ではない、あなたに金をただではもらわない、私はあなたのために御経をあげてやろとなった、なんかわからなかったけど四国遍路となると宗教が関係しているからその人も見ようみまねで覚えたのだろう、切羽つまってにわか僧になったとなる
食いなくなってにわか僧になった人も昔からいたのである
つまりカルト教団というのもそういうものなのである、会員になる人もなんらか苦しいからそういうものに頼ることになるしそれ奨める人もそうなのである
金になる、食い物を貰える、だからにわか僧になる
何か本来の宗教を悟りでも求めてそうなっているのではないのである
つまりどっちにしろ御利益がある、役得がある、金になるとかしか動機はないのである
だから創価など広宣流布とか言っているけど何を広宣流布するのかさっぱりわからないとなる、法華経のことなど知っている人など一人もいないだろう
要するに外国人も創価の会員になるとき外国人でも創価の会員になっているということで会員を増やすことに使われているのである、外国人でも特に欧米人でも会員になっているのかと見て凄いと感じるからである
それが権威ぶけになるからそうしている

統一教会でも今度は権力を得るために日本政府とかかわり議員を選挙支援して政治権力にかかわり権力を持ち権威を持つことをたくらむ、だから権力と権威は一体化している
ただ本当の権威とはあらゆる分野で権威を持つ人がいるとしてそれは必ずしも権力とは結びつかない、芸術かでもいくら権力をもって宣伝してもその中身が真の価値がなければ認められない、一時的には認められても長い時間の中では消えてゆくとなる
権力があるということが真の価値をもたらすわけではない
だからそもそも宗教の宗祖が権力など持っていなかったとするときなぜこんなに権力を追及しているのかわからない
会員を増やすことに必死になっているのは数を増やし票を得て権力を得るためである

他のカルト教団でもとにかく数を増やせばいいとして活動している
不思議なのことはそういうカルト団体は真の一人の信者はいらないのである
一人よりなんでもいい、数を増やして票を得て権力を得ることなのである
宗教を利用て権力を得ることなのである、だから宗教は何なのかわけわからなくなるのである、宗教の説くものと正反対になっているのである
それで出家してこの世の欲から脱しようとした修行した僧はやはり宗教を求めていたとなる、そこで堕落したとしても本来の宗教を求めていたとなる
天台宗が日本で普及した宗教だったというとき山岳宗教であり山を聖なるものとして修行したからである

だから創価のように団地の宗教とか政治化した宗教はもともと宗教ではない
だからこそ政治化して権力を求めるだけの宗教になったのである
数を増やせばいいというときいろんな人が無差別に入ってくる
その中に暴力団まで入っていたというのは団体に利権があり政治化しているからその利権を求めて入っていたとなる
今そういうことが暴かれつつある、ただ正直この世の闇がなくなることはない
そういうものが生まれるのはこの世の闇がなくならないからである
知っている創価の会員でもそうだった、何か家族で苦しいことがあり生活困難に陥って
創価に入り活動して家族の一人が市議会議員になった、その弟が今度は熱心な創価の活動家となったのである、それが御利益となったから熱心になったのである
こうして創価の場合は御利益と社会生活が結びつくからあれだけ増えたのである
その御利益は創価が社会の主要な地位を得ることで革命は成る
御利益が配分されることになるからである
会員を増やして権力を奪うことによって御利益を配分できるのである

ではなぜこうした団体が公然と力を持つことができたのか?

これはやはり権力に深く食い入りその権力で社会に力を持ったためだとなる
だから創価の会員が警察官にもいてその人達が被害にあった人達がいても取り合わないとしている、かえって説得されたともしている
これも怖いことである、なぜそんなことまで許されているのか、これは大問題である
統一教会でも公安委員長が祝辞を送るなどしていたには驚いた
統一教会が自民党を深く々入り操作していたとなると驚く、そんな力があったのかとなる十万くらいの会員でそんな力をがもてたのかとなる

ともかく人を見る時、権威と権力が問題になる
ある人がなぜ力をもっているのか、最近翼の党の黒川氏が櫻井よしこを批判していた
その背後にはCIAがいたとしている、また統一教会とも深く関係していたとしている
その権威は背後に大きな権力があって発言力をもっていたのである
その背後の権力がマスコミでも通じる、その人自身個人のことではない、背後の団体であれ権力がその人を大きくしているのである、それがアメリカだったり中国だったりもするそしてデーブステートとかにもなる、つまり現代は背後に隠れている権力者のことがわかりにくいのである、時代劇なら悪代官とかわかりやすいのである
現代のグロ−バル化社会ではわかりにくい、でも日本はアメリカに戦争に負けて支配されたのだから当然背後の大きな権力がアメリカになるのである
アメリカに逆らうことはできない、自由貿易にしてもアメリカが有利になる得するシステムになる、それは世界でもそうである、アメリカに歯向かうとロシアでもイランでも北朝鮮でも経済制裁を課せられて苦しめられるのである
ただアメリカだけではない今度は中国が巨大化すれば中国が背後で権力を持ち日本は操作されるのである

ただこうして裏を探ってゆくとわけわからなくなるのである
なぜ右寄りの自民党が韓国の統一教会にそんなに支配されていたのかとなるからだ
右だったらそんなことありえないからである、常に韓国のことは批判しているからである今回の統一教会のことは理解しにくいのである、自民党が韓国側についていたということなどありえないと思っていたからである
統一教会は韓国の政府の代弁者でもありもしかしたら韓国政府もかかわっているのかともみるからである、だから右とは何なのか不可解になる
文鮮明は明らかに日本を支配するための思想をもっていたからである
それに自民党が従うということがありえないとなるからである
権力の裏は追求するとAの背後にBがいてBの背後にはCがいてとかなり遂にはその正体は何ななのかわからなくなるのである
結局サタンに操られているともなってしまうのである、どうしても真の権力者に到達しないからである



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チャンネル翼でここで赤裸々に宗教二世の被害を語っている
これ本当なのという疑問になるほどである
でも真実だろう、ただ政党とか日蓮宗でも争っている
憲政会では創価の悪口をこれでもかと言っている
結局創価が本山と分裂してこうなった、そして日蓮宗の寺の本山の信者がへってお布施が減ったとういことで攻撃している面もある
日蓮宗内の利権争いにもなる、とにかく会員がいるということは信者がいれば金になるという経済的理由で争うともなる

でもなぜ攻撃するのか?

創価をやめた人達を引き戻すためだともなる、どうしても宗教はやめるとまた別な宗教団体に入る傾向がある、だからやっかいなのである
翼の党かでも脱会した人達を味方にして勢力を伸ばそうとする
そこになかなか中立立場になりえないのである
政治勢力として権力を持つためにそうなる、後はお布施とかを得るためにそうなる
まず金がないと寺でも僧でも維持できないからである
だから創価が崩壊するのは金が入らなくなったときだとなる
もう聖教新聞でも減っているし会館を維持するにも金がかかりできないとなる
それでカルト教団を金の面から制約するのは的を得ている
別に金がなくても信仰はありえる、むしろその方が真の宗教を追及するにはいいとなる
純粋な宗教の価値を求めることになるからである

日蓮系」として39団体が掲載されています。例えば、日蓮宗、日蓮正宗、霊友会、立正佼成会などが載っています。
しかし、文化庁は、創価学会や顕正会を「日蓮系」と見なしていないようで、この項には載っていません。
創価学会や顕正会は、文化庁から見ると、あくまでも自称「日蓮系」。また、「日蓮系」の団体から見ると、詐称「日蓮系」かもしれません。

創価学会や顕正会こそ日蓮宗と普通は思う、それは何故なのか理解できない、宗教法人としても認められているからだ
その根拠がわからない、会員も多いのだからどういう理由でそうなったのだろうか?

それにしても日蓮系の団体は多いしカルトになりやすい、どうしても日蓮の思想がそうなりやすいのである
国粋主義になるからである


2022年12月02日

大アマゾン 最後の秘境―NHKスペシャル (森林破壊と原住民の抵抗ー原発事故との比較)


大アマゾン 最後の秘境―NHKスペシャル

(森林破壊と原住民の抵抗ー原発事故との比較)

●原住民が守るアマゾンの森

しかし、農民は作物や家畜を育てるために森林を焼き払っていて、ボルソナロ大統領も先住民の意向を優先していない。

2019年に入って火災が急増している背景には、ブラジルのボルソナロ大統領の方針もある。大統領は、先住民よりも農民を支援しており、先住民の土地をこれ以上、保護が強化される先住民族保護区に新たに指定しない意向を示している。大統領は先住民を動物園に閉じ込められた動物にたとえる発言さえしている。


ブラジルは(中略)かつては穀物の輸入国でした。しかし、1980年代、日本も協力した農業開発により、ブラジルは大きく発展しました。熱帯地域で初めて、近代的穀物農業を実現させたのです。

弓矢とスマホ,アマゾンの先住民のテンペ族の知られざる生活

アマゾンの森が破壊されている、火事になるのは放火らしい、火事にして森を焼き払いそれを耕地にする、広大な土地に大豆とかを作る、それに日本の企業も応援している
輸入するために応援している
それで森を守るために抵抗している原住民がいる
でもその原住民がYIFIで衛星通信ができていて世界中に発信している
これも不思議である、原始時代から21世紀の文明と結びついているとなる
良くパソコンを操作できると思う、それだけの知能があるのが不思議だとなる

また黄金がとりに無法者が集まっている、そして原住民が反対するので銃撃している
これはまるで映画を見ているようである
まずアマゾンの広大さは知り得ようがない、そこに何があるのかもわからない
でもなぜこういう問題が起きたのか?

それは依然として森に原住民が原始時代のままに生活していたからである

これがポイントなのである、森を守るというときそこに動物とか植物しかなかったら
そういう抵抗は起きないのである、誰も反対する者がいないからである
そうなると根こそぎ森が破壊される、木材もあるから取り放題にもなる
そして貧乏な人達はどうしても生活しなければならないから森を残すより金になることを第一とする
環境保護といっても金にならないとそれだけではできないのである
だからこそ農地にもするし黄金でもとりにゆくのである
自然保護というときただそこで観光するというだけでは成り立たない、自然保護というとき自然の中で生活している人達がいて成り立つのである

●原発事故では農業、林業、漁業でも衰退して守る人がいなかった

これを原発事故と比べると興味深いとなる、なぜ原発が福島に作られたとか、原発で住めなくなったのか考察してきた、それもいろいろあり複雑である
ただ原発に反対する人達が福島県の地元にはほとんどいなかったのである
その理由はそもそも農民とかもちろん狩猟採集して生活している原住民となるのか縄文人となるのかそんなものはいない、でも農民はいたし漁師もいたのである
その割合は一割くらいであり少ないのである、何か田舎だと田畑で囲まれているから農業で暮らしているように見えるけど違っている
みんな会社員であり工場とか会社で働いているのである

戦前とか戦後十年くらいは農民が8割とか6割の時代があった

すると農業だと自然と密着している生活だから原発で汚染されるとなれば危険となり反対していたかもしれない、なぜなら放射性物質に空気でも水でも土でも水でも森の木でも汚染されたら生活できなくなるからである、その頃森林でも木材は国産であり外材でなかったからである

ではなぜ原発に地元の人が反対しなかったのか?

アマゾンの原住民のように生活していない、農民は確かに自然と密着して暮らしていたとはなる、漁師でもそうである、でも農業でも漁師でも金にならないからやりたくないとなっていた、後継ぎもいないとか言われた、それで農業をやるなと親に殴られた子もいた
その人は原発で働くようになったのである
そして知らなかったが烏崎とかでは漁港があるが火力発電所が建ち次に原発が作られた
漁業組合では補償金が入り原発御殿が建てられたとなっていた
そこで回りの人達がうらやましがっていたのである

烏崎だと火力発電所が建った時にも補償金をもらいそれは40年前頃でありヨ−ロッパに旅行していた人がいたのである、その頃飛行機代が高くて50万していたとかできない時代でもしていたのである、そして次に原発が建ちそこでも事故前でも事故後でも億の補償金をもらっていたとかなる
だから魚をとらなくても十分に豊かな暮らしができていたのである、事故後でも十分な補償金がもらえているから事故後にすぐに立派な家を建てたのである

もし漁業だけではそんな豊かな生活などできない、だからアマゾンの原住民とは比べようがない、ここの住民はすでに電気でもガスでも電気でも車をもって都会と同じ文明の恩恵にあづかった生活をしていたのである
でもアマゾンの原住民は原始時代と変わらない生活をしていたのである
だからこそ森が破壊されると生活できなくなるからこそ激しい抵抗になったのである
ここではそういう抵抗がなく金になるとういことでかえって積極的に原発を誘致したのである

●農業社会から工業社会の変化で自然と密着した生活が少数者になっていた

双葉とか大熊とは浜通りでは僻地とかなり出稼ぎ者が多いので地元で暮したいとなり原発を誘致したのである
ただもし戦前とか戦後まもなくとか農民中心の社会だったら原発で汚染されたら生活ができないと反対したかもしれない、いくら補償金をもらうとしてもやはり生活そのものができなくなるとかなると反対する、だから東電に生業を返せと検察に訴えて裁判して勝訴したとなる
でもその生業自体がこの辺では全国でもその比率は一割とかしかなくちなっていたのである

それで浪江の電気工事関係の人は回りの田んぼが草ぼうぼうになっていても関心がない
かえって補償金もらって良かったとか言っていたのである
別に食料なら外国からも入っているのだから困らないかである
そういう社会の変化の中で原発に反対する人もいない、積極的に地元でも誘致したとなる人間は利益になるとなれば血眼になる、殺人すらする、黄金を求めて無法者が集まるのもそうである、麻薬でもそうである、黄金となれば原住民を殺してまで得ようとするのであるだからこの辺で原発に反対したりしら地元の人に殺されかねない危険なものになっていたかもしれない、なぜなら反対する人がいなかったからである

その理由はやはり社会の変化にあったともなる、農業社会ましてや漁業でも規模が小さい特に浜通りは宮城県の十分の一くらいしか魚でもとれていなかったからである
すると補償金をもらった方がいいとなっていたのである
人間は自然保護とかいってもそこで生活するとなると自然保護は金にならないのだから
積極的にはならない、でも原発は金のなる木だったのである、黄金を産む玉手箱ともなっていたのである、だから他の原発がある所でも同じようにその利権が大きいから金が入り裕福になっていたのである

ともかくこのアマゾンの問題は何か世界の現代の縮図ともなっている
二酸化炭素を制限するとき森が必要だとなる、その象徴がアマゾンにもなるからである
そこに牛を飼い農業をするために森が破壊される、でもそこに住む者にとっては何か金になるものが必要でありそれを無碍に否定することもできないのである
そもそも人間の歴史が自然破壊にあった、農業自体が自然破壊であった
なぜなら焼畑農業は森を焼いて灰を肥料として成り立っていた原始的農業だったからである

つまり職業とは人間の業(カルマ)なのである、何らか自然を破壊しなければ生きていけないのである
アマゾンの原住民は自然を破壊することがない、そこに農業すらない、狩猟採集時代から進んでいなかっんたからである、農業は大きな文明であり進歩である
それがトラクターとか機械で広大なアマゾンでもその森が破壊することができるようになったからである、もし手斧暗いて森を破壊しようとしたらあれだけ広大な森を破壊できないからである

●山尾三省は農民になることで幸せを感じていた(郷(くに)に生きるとは

それで不思議なのは山尾三省なのである、この人は原始人にもどり農業をしようともした人である、文明に逆らってそれを屋久島で実践した人だとなる
それはアマゾンの原住民と似ているのである、現実にこの辺でそうして「部落」とか言ってそういう原始時代の生活をまねてしていた人達がいたからである
それで不思議と原発のことを批判していたのである
それは批判だけではない、自ら実践していたのである
農業の尊さとか自然に暮らすことの意義とかを詩にしていたのである
そういう人は今ではテレビで話題にする変人となりまたテレビで面白い風変わりな人として紹介される
でもそいいう人は時代が時代なら当たり前の人だったのである、だからめずらしくもないのである

彼が求めたのは理想の国は大きな国ではない、小さな国である、日本全国にある小国の地名がありそこがそういう場だとなる

奄美の郷(くに)
奄美の郷人(くにひと)
沖縄の郷
沖縄の郷人
アイヌの郷
アイヌの郷人
・・・・統治のない 郷(くに)
原子力発電所のない郷
核兵器のない郷


何万年も消えぬ
スリーマイルとチェルノブエリノブエリの灰を足下に踏み
三十三基の日本原子力発電所の炎を足下に踏み
なおも
なおも
人間を希望として
わたくしとして
より深く ただいるここに 在るほかない

山尾三省の不思議は常に原子力発電所を拒否するものとして書いていたが実際に原発がなくても生活はできていた
ただそうなるとまねはできない、パンが贅沢だとも言っていたからである
そんな生活を良しとする人はいない、むしろ田舎の人達の方が今は都会人と変わりない欲望を持っているし金が欲しいとなっている
でもなぜ山尾三省がこれほど田舎の生活に恋い焦がれ実践者になったのかとなる
田舎に住んでいる人でもこんなに憧れということはない、別にそれが日常だからである
この人はアマゾンに暮らす原始人に原住民になりたかった人だとなる
その原住民が現実にアマゾンにまだ生き残っているのである
そしてアマゾンを郷としてその森を聖なるものとして破壊されることに抵抗しているのである、それは部族全体でそうなっているから違っている
文明社会ではそういう人は変わり者でありそういう生活をむしろ否定してきたからこそ
原発が金になるということで積極的に誘致したからである

でも故郷に郷(くに)に住めなくなったとき蝋燭でも家族と一緒に故郷で暮らしたいというようにもなったのである、郷(くに)があってそこに住むことの価値を見出したとなる
人間は確かに科学技術は様々な恩恵をもたらした、でもまた失ったものもある
それが原発事故で自覚させられたのである
空気が土が水が森林が木材が・・・・汚染されたら住めないということである
原発がそういうふうになることを知り得ようがなかったのである
郷(くに)というのは本当はかけがえのないものだった、そこが生き死にの場でありアイディンティティの場になるからである
それは国家とか行政的単位ではなく国(くに)とは精神的な場でも代々継続する先祖とともに生きる場でもある、でもその国を大事に思うより金だとなったのが現代である
だからこそ東電に漁業関係者でもこの土地に住む人でも金になればいいとして積極的に誘致したのである

もっとパンでもなんでもうまいものが食べたい
もっといい車がほしい
立派な家が欲しい
とにかく金が欲しい・・・・

欲望がきりなくなったのが現代である、だから山尾三省の生活とは何だったのだろうとなる、それは現代文明へのアンチテーゼとなった、その生活そのものがそうである
この人は何なのと理解しかねるとなったのである
農民でも漁師でもそんなこと思っていないからである、むしろ農業はしたくない、漁業でもしたくないと後継ぎがいなくなっていたからである
でもこれほど切実に農民になりたい自然の中で暮らしたいと思っている人がいて実践したということが重い意味がもっているともなる

現代社会でそれが奇異なものとなったこそ文明自体が問われているともなる
なぜならそもそもそういう生活が常民をしてきたからである
確かに貧乏ではあったがそれでも人は生きていたしその生活は継続されてきたのである
なぜなら不思議にその時飯館村でも一万の人口があったとか農村山村に人口が多かったのである、引揚者は開拓に入ったにしろそれだけの人口を養っていたのである
今はどこでも半減しているし限界集落にもなっているく
山尾三省がこの辺に飯館村とかに生活していたら記念になるものとなった
他にも部落とか山村の生活をあえてしていた若い人もいたが撤退したのである
いづれにしろ山尾三省の生活とか思想に共感する人は農民でも漁民でもいない
パンも食べれないのかそんな生活嫌だとなるからである




posted by 天華 at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2022年12月03日

人生の危険―利欲を離れることができない人間 (金の切れ目が縁の切れ目ー利によって離散集合)


人生の危険―利欲を離れることができない人間

(金の切れ目が縁の切れ目ー利によって離散集合)

●人間の本心は利欲で動くこと

利欲離れず
衆寡騒ぎ治まらず
人の世に危難多し災い多し
隠棲するも難あり
その心の欲は消えず
君子危うきに近寄らず
木石のごとく素心を保ち
己を持するを良しとする
利欲を離れれば心安らかなり
俗人と交わることも危うし
人はみな利欲に生きる
利をもって近づき
利をもって離れる
巧言令色にして仁なし
その口は災いのもと
内心あるは利欲のみなり
口を慎むべし
人は利の心に敏く
仁の心にうとし
人はただ利によって計り
利に追われ利にかられ利に終わり
その本意を失うを知るべし

この世に生きるとは何か?利欲から人は離れることはできない、日々の活動が利欲でありこれを否定できない、そもそも無料で何かを提供する人はいない
店で何か買うにしても売る方でも利欲でありそのために日々あくせくしている
一日たりとも利欲離れて人間はありえないのである
この世の付き合いも交際も利欲であり利欲を離れて交際もないのである
お歳暮とかいろいろ世の中の慣習があってもそれはただ物を贈与するというのではなく
そこには必ず利が働いている
上役であれ御世話になった人であり何らか利が働いて贈り物もある
つまり人間社会では無償の行為とか無償のものはないように見える
神が与えるのは無償である、人間を通せば無償でくなくなる、互いに利益になるから商売もある、それを否定はできないし悪いともならない
でも人間の交際が利しかないというときそこに危険がある

●兄の交通事故で経験した人間が利欲で豹変する怖さ

そういうことを身近かで経験している、兄の交通事故でその雇い主が盛んに兄が乞食のようにして来たのを雇ってやったとかいろいろ言うのは何なのだろうとわからなかった
そして骨を置いてゆけというのもわからなかった、墓を作ってやるからとういのもわからなかった、墓を作ってどうするのかとなる、それは保険金をもらうためだったのである
墓を作った所で金にもならないからである、墓代を払い供養するから金を出せということだったのである
それは交通事故の保険金をもらいたくて言っていたのである
なぜなら身よりがないと見ていたからである、私は車がないからそれがわからなかったのである、実の母親がいて保険金を受けとる権利があった
結婚した妻はその時離婚していた、それも一週間前だったのか離婚した、その書類を記したのである

中学生の娘がいたが母親であり妻にも離婚していなければ権利があった
でも離婚したので喪失していたのである
私の家では兄には良くしていなかったので権利を主張しにくかった
でも雇い主は雇ったとしても働いてくれるから雇ったのである
病人でもない、そのトラック会社で働く者として雇ったのである
その社員が交通事故で死んで権利があるとはならなかったのである
結局妻の兄の家に引き取られた、なぜならここから遠い静岡とかでありその事情もわからなくなっていた、でも妻の家とは子供の時から行き来していたからそうなったのである
だから人間でも遠くなると何が起きているからわからなくなるのである
確かにその会社の社長は雇ってくれたということはあったかもしれない
でも働く者として必要だから雇ったとなる、何か病気になったから世話したというのではないのである

おそらくこれも交通事故の保険金が大きいので身よりがないとしてその保険金の受取人になりたかったのだろう、それまではそんな気持ちはなかった
でも保険金というのは大きいから利欲が出てきたのである
人間はそうして利欲が何かの機会ででてくる、それが怖いのである
その社長は別に兄が交通事故で死ななかったらそんなことはなかった
ただ雇って働いてくれていただけだとなる
だから何かの調子で利欲が人間には出て来る、美人を見て性欲を抑えられなかったとか常にあるからである、別に美人を見なかったらそういうこともないかもしれない
金でもそうなのである、だから遺産相続でももめるのである
大金になるからそこで人間の欲が出てくるのである
そこで相談した弁護士も相談するだけで百万もとったのである、これも詐欺なのだが頼んだ人も社会を知らない人だったのである
私自身も車がないから自賠責だとか任意保険だとかわからなかったのである

こういうふうに欲に目をくらみ豹変するのが人間である
この辺の原発事故でもその補償金が大きいからその金をもらうことだけが目的にもなってしまった、復興とは補償金をどれだけ多くもらうことかにもなったのである
何か故郷を復興しようとするより補償金をもらうことが優先されたのである
そして故郷を出て他で家を建てり仕事を持ち帰らなくなったのである
二千万もらったとか今まで手にしない金が入ってきたから何か平常心を失ったとなる
それだけ貧乏な人達もいてそういう金を手にしたことがないからそうなった
人間は金で狂ってしまうのである、黄金を求めて争いがあるのもそのためである
無法者がアマゾンに集まり黄金を探して一攫千金を夢見てアマゾンの森を破壊して汚してゆくのもそのためである、遺産相続で兄弟が殺し合うということがあるのもそうである
ともかくあらゆるところで人間は利欲を求めるのである
そのために邪魔する原住民が銃で殺されたというから怖い、まるで麻薬の利権で争う
マフィアかギャング団である

●人間の本心は利欲で動くことーそして善人の仮面をかぶる

人間は善など求めない、ただ利欲があり利を求めているだけである
カルト教団などもそうである、無私になることが宗教だとなるがそんなことは全くない
ただ欲を求めてそうした団体に入ってくる
何か利益がないかとか入ってくる、そしてその欲を充たすために祈るのである
御利益のために利権のために祈っているのだから宗教とは正反対の団体なのである
たいして暴力団とも変わりないともなる
でも暴力団は俺たちは悪だということを表明しているのである
でも宗教を看板にしているカルト教団はただ宗教を自分たちの欲のために利用しているだけなのである
それはお賽銭を投げて御利益を祈る人とにている、千円を入れたら二千円でも御利益になって帰ってきてくれと祈っているのである

だからなぜ宗教を看板にしているのか神仏に祈っているのかわからないとなる
そもそも宗教というと心を浄化するとか無心になるとか無欲になるとかであるがその正反対がカルト教団の実体なのである、御利益と利権と権力を欲しくて集まり祈っているのである、そもそもそういう場所に良くいられるものだと思う
欲深い野心家が集まりその欲望を達成するために共に祈り権力争奪しようとするのである別に病気を直してくださいとか神仏に祈ることは悪いことではない
でもそのために誰かに金を寄付するとかなると違ったものになる
あなたの願いをかなえてやります、そのためには私に金を払いなさいとなるのはおかしいのである、その人は神仏でもないからである、その人もただ金が欲しくてそう言っているだけなのである

ともかく今世の社会はこれまででも人間の社会は人間は欲から離れてありえないのであるだから宗教というとき出家して僧になった、それは俗世ではどうしても利から離れられないからである、みんな日々生活するために利から離れられないのである
それがこの世である、人間の関係も利でしかなく金の切れ目は縁の切れ目にしかならない利に集まり利によって離れるだけなのである
だから出家があり修行したとなる、その出世とは仏教では世を出ることなのだがかえって世に深入りしているのがカルト教団なのである
出世するとはこの世で出世して地位でも権力でも得ることになったのである

だからこの世から俗世から俗人から離れないと心の清浄は保てないから出家して世とかかわらないものとして修行したとなる
もちろんそういう場でも寺でも修道院でも堕落したことは確かだがその動機は心の浄化のためであったから今のカルト教団などとは全く違っていたのである
第一カルト教団に入る人は利益を求めて入るのであり心の浄化とか全く関係ないからである
山で断食して心を浄化しろとか言ったら会員になる人などほとんどいなくなるからであるあらゆる欲を肯定するからこそあれだけの人数に増えたのである
創価などは一票になればあとはどうでもいいだけである、数を集めれば権力になりそれでこの世の欲を得られるとういだけである
題目をあげるのもただ欲を達成するためであり最終的にはこの世の権力を得て欲を充たすためだとなる、だからなぜそういう団体が宗教法人として認められて無税になっているのかわからないとなる、宗教もただ利益のために利欲のために利用されるだけだとなる

それで地獄に落ちるとか罰当たるとか言っているのだからあいた口が塞がらないともなる
そもそも利欲だけで動いている者がそんなことが言うこと自体言えること自体なんなのだろうとなる、シャカとかキリスの教えをただ自分達の欲を達成するために利用しているだけだとなる、そんなことしていたらそういう人こそ地獄に落ちて罰当たると普通の人でも理解できるはずなのである、でもそうなっているのは利得を利権を得られるからであり
全然悩みもしないのである、人間はそもそも俗世間にどっぷりと浸って生活していると
それが日常になり別に何も感じなくなるのだろう
それでも何か若い時は潔癖さを持っていたことは確かである
でも歳をとるにつれて塵埃の中に没してその汚れも当たり前であり感じなくなっているとなる、この世とはこんなものだとして諦観してあきらめるとなる

●人間は賢者になれない、君子危うきに近寄らずの意味

ではこの世がそういう世界だというとき人間がそういう利欲から欲望から離れられないとして世を嫌い隠者となる隠棲するとしてもこれも結構難易度が高いのである
要するに隠者になるとしても人間はやはり欲があり欲から離れられないからである
また引きこもりとかニードかになると何か人間にまともに成長しないのである
それより何か能力がないので脱落したためにそういう人ととなったともみる
何であれ職人にしてもそれがみんななれるわけでもない、建築土木関係でもこれも力仕事があり力がないとできないとかある、だからニートとか引きこもりはそうした仕事するできないからかともなる
自分には力仕事はできなかったとかあるからである

結局人間は賢くなれない、賢者になれないのである、だから引きこもりでもニートでも
小人閑居して不善を成すになるのである、何かおかしな方向に行ってしまう危険がある
ただ老人になると人生のことが自ずと解明してくることがある
欲を減退して悟ったような顔に普通の人でもなるのである
でも依然として老人になってもいろいろな人がいて欲から離れられない人もいて問題を起こすし小人閑居して不善を成す人が高齢化社会で膨大に増えるのである
暇をうまく使いない人が増えるのである

いづれにしろ人間の関係は金の切れ目が縁の切れ目だったとなる
みんな金を求めている、でも金が利がないとなれば別れるだけである
違うのは家族くらいであり友情などもないだろう、利により利なければ離れるだけであるそういう人が近所でもどこでもそうだというとき何かあると病気であれ事故であれ何か不測の事態が起きた時襲ってくるとなるから怖いのである
もしかしたら虎視眈々として財産を狙っているとかなる
そういう中で人間が生きていることか地獄だとなる、親鸞でもそういう地獄を生きたから地獄を語ったのである、この世にこそ地獄がある

それはいくら科学技術とかでも進歩しても同じなのである
怖いのはその科学技術で人殺すことにもなる、原爆でも落とされる核戦争にもなることである、国と国は対立してそうなる、国と国は平和になりえない、やはり隣の国でも弱体化すれば襲ってくるとなる
だからこの世に安住の地はない、地球に安住の地はない、利欲が消えない人間がいる限りどこでも安住はないのである、地獄とはこうしてこの世にある、いつ襲われるかもしれない人間社会だから地獄なのである
この世ではこうした地獄から逃れようがない、ただ希望は神の国で神が治める国で生きるたとしか希望がないのである、この世に理想の国など実現しないからである

文明がすすみ豊かになったとしてもかえって人間の素朴さは素心は失われる
すると文明とは何なのかとなる、法が発達して正義が行われるかとなるとならない
法律を破る者が弁護士だというときそうである、ただ法律は悪を利を得る為の手段だとまでなる、インディアンをだました白人がそうだったとなる
巧みに契約させて土地を奪ったとなるからである

●この世に桃源郷はない

山中問答  <李 白>

余に問う何の意ぞ 碧山に栖むと
笑って答えず 心自ずから閑なり
桃花流水 杳然として去り
別に天地の 人間に非ざる有り


呉山深くして而して深し
性を養ひて老朽に甘んず
ただ木石と共に居りて
氷瀑と志堅く守りぬ

中国はとてつもなく広いから何があるかわからない、だから桃源郷もあるとなった
でも実際はそこに人間が住んでいるかぎり欲のない人間はいないのだから桃源郷はないのである
桃の花が流れてきた上流になにがあるのか、それは誘われる、でもそこにも人間が住んでいたとしたらやはり欲があり理想郷などないのである
この世の理想郷とはただ頭の中でイメージされた空想の世界なのである
要するに桃源郷としてもそこには到達しえない場所なのである
だからこそ神秘であり理想化されるのである、死者が美化されるのと同じである
桃源郷のような所があったらいいなとイメージする、それは現実から逃避現象なのである平家の落人伝説でもそうである、別に高貴な人が落ち延びて来たわけでもないがそういうふうにして美化していたとなる
ただ文明化された所で育った人は素朴だということはある
文明がすすめばすすむほど逆に人間はかえって素朴さを失う、それは確かなのである
ラオスの人が素朴だったというときそうである、まだ開発されていないからである
でもそこも文明化されると素朴さは失われるのである
そういうことはヨ−ロッパ人が日本に来て同じようなことを感じたからである
みんないい顔していた、満足な顔をしていたというときそうである
文明が進むとかえって人間の素朴さは失われて狡智にたけたものとなる

ずる賢い知恵。悪知恵。奸知 (かんち) 

だから桃源郷というときそういう狡智がないから騙されるということがなかったとなる
例えばアメリカに入ってきた白人は契約させてインディアンの土地を奪ったとかある
文明人はかえって人をだます手練手管が発達する、法律さえそのために利用されるとなる

呉山深くして而して深し
性を養ひて老朽に甘んず
ただ木石と共に居りて
氷瀑と志堅く守りぬ

私が追及してきたのはこれである、引きこもりとなり社会から離れ山に籠もる、そして
石や木と一体化する、そこに素心は失うことなく守られるとなる
志を堅くとは汚れない心を維持するということである、堅い意志でもって守るということである

故郷に長くもあれな何となる石ともならむ冬の日暮れぬ

2022年12月04日

なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか? (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)


 なぜ脳卒中になる症状として見抜けなかったのか?

 (大事な医者の選択ーでも名医はめったにいない)

 hospitalmmm1.jpg

 これだけ症状がでていれば医者なら脳卒中の兆候として危険信号であり対処していたはずである、遠くでMRI検査して近くでも脳神経科でもした、そこは民間でも機械があった
それでも脳卒中の前兆として判断しなかった
ただ危険性があるからMRIで検査するように指示したのかもしれない
でもこの三つの症状は脳卒中の症状であり明確でもある

判断できなかったのは

●手が麻痺して悪い

●片目が見えにくい

●目まいする

これらの症状を一つのものとして見ないで別々に見てわからなかったのか?
これは総合的に診なければわからないものだった
眼が見えずらいと眼科にも行った、それも仙台市の評判のいい医者にわざわざ行って診てもらっていた、でももしかしたらその医者は眼ばかり診ていたのかもしれない
もし体全体を診ていたら医者なのだから脳卒中の危険があると判断したかもしれない
これは私が思うに

診てもらう医者がだめだった

近くに脳専門家の優秀な医者がいた

その人に診てもらうべきだった

こうなる、南相馬市立病院は脳卒中のための専門病棟を新しく作った
副医院長が優秀であり若い医者も習いに来ているというからである
同級生の人は九死に一生を得て助かった、早く病院に行って血管にカーテルを入れて助かった、それは早く行って助かったのである
今も普通に生活しているのである
ただ脳卒中は多い、特に相馬地域では原因がわからないか多い
またこの辺で放射線の影響が出ているかもしれない、その因果関係はわからない

ここで大事なことは医者を選ばないと命にかかわる

でも名医はめったにいない

医者というのはこうして診てもらう医者によって命まで左右されるから怖いのである
ただなぜ近くに脳卒中専門の病院がありそこで診てもらうように指示されなかったのか?それも良くわからない、わざわざ遠くの病院に行く必要もなかったのである
その時は何の病気かわからないからそうしたとしても何か理解できないのである

大事なことは医者を選ばないと命にかかわる、でもそもそも名医にかかることは田舎ではできないし他でも簡単にできないのである
名医がどこにいるかもわかりにくいからである
だから下手でも近くの医者にかかるほかないのである

そして現代は総合的に診る医者はいない、みんな専門に分かれて全体の体を診る人はいないのである、それはあらゆる分野でそうである
福島原発の所長だった人も肝心の復水器とか他のことでもわからないと言っていた
専門が違うからわからないと言っていた、現代は総合的に見ことができない社会である
どこの社長でも会社のことを全部知る人はいないのである
それだけ複雑化した社会で思わぬ事故となる、全体を観て指示できる人などいないからである

でも今回のことはいくら専門化しているからといっても明らかに脳卒中の症状がでていたのに治療もしなかった、それが理解できないのである
その女性が脳卒中になった原因の一つが煙草にあった、ストレスがあり常に煙草を吸っていたのである、煙草は癌とは関係ないということは聴いていた
でもそれは明らかに血管にいいものではなかったのである
ここでも癌になるこの原因が煙草ではないということは聴いて知っていた
でも血管に悪いということは聴いていなかった、調べてもいなかった
こうして様々な原因があってもそれをみんな知り得る人はいないのである
突然認知症の症状が出たり脳卒中になるから戸惑うのである
津浪でもそうだが突然起きることに人間は弱いのである
だから日ごろから病気でもある程度は知っている必要がある、それは専門的でなくても
知ることができる、脳卒中でも事前にその症状を知って入れば対処方法があったとなる
いい医者とは見立てに優れている人だという、病名がわかれば対処方法がわかるからそうなる、脳卒中だと見抜けば対処方法がわかり治療でもできるとなるからである

 もう一つの問題は医者自体が高齢化していることである、近くでは90歳まで現役であった
でも日進月歩している医療の分野でも老人の医者は経験はあるのだが新しい技術とか取り入れられないのである
それはIT関係でもそうである、自転車屋でも若い人が経営している自転車屋に行けというときそうである
新しい技術を取り入れていないし分らなくなっているからである
確かに経験があるのだからいい面としてあっても技術的なものは進歩が速いからである
老人はそれに追いつけないのである,スマホでもそうである、これもパソコンとにていても違っているから使いにくいとなる
正直田舎では新しい自転車を買うにも買えないことがわかった
というのは外国製も多いしアフターサービスができないからである
エンジンごと取り替えたこともあったからである、通販だとそこが大きな問題になっているのである
まず田舎でもあらゆる所で老人しかいないともなる、農業でも65歳以上がほいとんどだとかなり自転車屋にしてもそうである
あらゆる場所で高齢化しているのである、そして若い人がいたとしても嫁になる若い女性がいないとなっている
だから若い人は貴重になるとか子供みるとここにいたのかとめずらしくもなり大事にされるとなる

いづれにしろ人間は変化である、無常である、その女性は親しくしている糖尿病の治療をししている男性の呼ばれて毎日行っていたのである
それは歩いても行ける近い場所だったから行けたのである
でも苦しいといつも言っていた、それは体が脳卒中になるのだからそうなっていたのである
そうして今や近くでも行けなくなった、もう歩くことができるのかトイレには自力で行っている、でもその親しい男性の家まで行けないようになったとするとこれも信じられない今まで近くで会っていたのに会えないとなったのである
これもそんなことがあるのかとなる、すぐ近くでありそれでも会えない、またどっちも病気なのだから見舞いもできないとなったのである
こういうことは高齢化社会で普通に起きて来る、そして介護とかなると本当は近くがいいのである、その女性は親しい男性のすぐ近くでありだからこそ行けたのである
でも隣の市かなると相馬市となると結構遠くなる、娘が一週間に一回は来ているが意外と車でも頻繁に来ることはむずかしいのである

介護の手助けとかは近くの人が向いているのである
でも今の社会は隣近所でも疎遠になっている、誰が何をしているかもわかりにくい
家族でも核家族になったり家族の力が弱体化している
それで介護の時に孤立しやすく介護の悲劇が起きて来る
家族だけでも看れないからである、施設に入るにも金がないとかなりできない人もいる
そして8050問題が深刻になってゆく、それがすでにもう現れている
50歳の人が80歳の人を介護することになる、また老々介護にもなる
そして共倒れにもなる悲劇が起きて来る
たとえ夫婦でも必ず一方が介護状態になるし死んでゆくから安心できないのである


2022年12月05日

冬桜、山茶花、残る柿、枯野・・(津波で流された家の庭の石) (隠された社一つが語るもの)


冬桜、山茶花、残る柿、枯野・・(津波で流された家の庭の石)

(隠された社一つが語るもの)



小池の埋もれた社

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天文時代で相馬氏の戦勝記念のものだったのだろう
でも津浪のことは記されていないのである
記録に二行だけしか残されていない
これも不公平ではある



右田の津浪に流された家の跡の石の庭

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何か石にも表情がある




隠されて夕月光る冬桜

みちのくや夕月光り枯野かな

山茶花や家は消えしも残る石

社一つ語るは何や冬の暮

落葉踏み隠さる社一つかな

橲原に立目石あり残る柿


冬桜を相馬市の塩手山の登山口で見た、原町では六号線の・・の農家の広い庭で見た
昨日はすぐ近くの小池でも見た、三カ所で咲いていたから意外だった
おりしも夕月が光っていた、それも良かった
ただ今日は曇って雨がぽつり降ってきて寒い、冬になった
それで石油を買った、冬支度になった

朝右田の方に行くと例の石の庭があった、ここにはいろいろな石が見られる
家は津波で消えても庭は残り石が残ったのである
私は石に興味があるからしげしげと見る、石にもなんらか表情がある
ここは大きな庭でありいい石を使っていたのである
ここに家があるときは見ることもなかったが津波に家が流されてこんな庭があったのかと発見したのである、家にはさほど価値がないのかもしれない、最後に残ったのは石だとなる、他でも空家がありその空家が老朽化しているからさほど価値あるとも見えない
でもやはり立派な石組の庭がありそれが残っていて価値あると見た

小池に鳥居がありここに何かあるのかと小高い丘を登る、道のようだが道とも思えない
こんなところに社があるとかと上った、そこにあったのは相馬氏が戦った戦勝記念の社らしい、板にその由来が記してあった、でもここは誰もお参りしていないだろう
落葉に埋もれて訪ねる者もいないとなる

ただこうして戦国時代であれ相馬氏が誰々と戦ったとかは相馬藩政記に詳しく記載されて残されている
こうして埋もれているにしろ戦争の勝利の記念の社も残されている
でも津波の被害のことはたった二行しか記されていなかった
相馬氏の関心はその時この一帯を治めるための戦争のことだったのである
津浪で700人溺死と記しても社とかは何も残されていないのである
庶民は記録が残せないということがあった

今でも権力がないと記録でも残せない、マスコミが力を持ったのは報道できることであった
テレビで報道するだけで知られるし勝手に報道などできなかった
でもインタ−ネットで庶民でもこうして報道したり記録したりできるのである
プログなどは手間であっても無料で簡単にできるからである
ただ一瞬にして記録でも消えることが不安なのである
400年後に残るかとなるとそれはわからない、石にでも記せば残るとはなる

こういう場所に山津見神社があったりする、相馬市から霊山へ行く道に山津見神社があり南相馬市の鹿島区だと栃窪に山津見神社がある
でも鹿島区にはなぜか綿津見神社はないのである、原町は本当に多い、10以上くらいありここも綿津見神社なのかと見る、結構大きな神社なのである
そして意外とその由来でも語られていないのである、これも不思議だとなる
安曇氏系の海人族がここに開拓に入り残したものなのである

ともかく神社は謎である、でも古代にさかのぼり古いのが多い、ただ天文となればかなり古いとなる、でも神社の由来は古代からのものがあり古いのである
日本がの歴史を知るには神社を知る必要がある、そしてその土地の成り立ちを知るにも神社をたずねて知る必要がある、でも旅だと時間がないから見れないのである
神社は数も多いからわかりにくいのである、それだけの時間の余裕が旅ではないのである近くだって知らない神社が由来がわからないのが多いからである

季語/冬桜(ふゆざくら)を使った俳句 | 俳句季語一覧ナビ (haiku-kigo-ichiran.net)
冬桜というのも味わいがありいいと思った、結構咲いているので鑑賞するといい、場所がわかりにくいが
紹介したがもう散っていたとなる


2022年12月06日

2030年に地方から百貨店や銀行が消える「衝撃の未来」 (原発事故の避難区域で起きたことが全国的に起きる)


2030年に地方から百貨店や銀行が消える「衝撃の未来」

(原発事故の避難区域で起きたことが全国的に起きる)

山里に行くと90代1人暮らしの人だらけという光景が珍しくない。そこに30代の家族が移住したとする。10年後には高齢者が亡くなり、若い移住者だけが残ることになる。

 「ポツンと5軒家」から「ポツンと1軒家」の状態になるのだ。すると、わざわざ1軒のために、電気やガスや水道を提供しないといけなくなり、他地域のインラフの料金もアップする

 「2030年には大型ショッピングモールは維持できなくなる」という事態が起こる。見込んだお客さんが来ず、場所によっては閉店が始まっており、今年だけで25店が閉店しているという。想定以上に人口減少が進んでいるのだろう。

 2030年となると意外と早い、まだ私でも生きているだろう、このことが先取りして極端化して原発事故で現れた地域にもなる
盛んに復興とかいってもできない、若い人は流出して残されたのは老人だけなのである
そうなったところでいくら復興といってもできないとみる
復興してもらいたいと望む、でも現実を見ればもうできないと見るのである
どうしても大熊とか双葉とか浪江とか小高や飯館村を見ると復興できないように見える
だからそこにいくら金をつぎ込んでも無駄にも思える

それはここだけで起きたことではない、全国で起きていることなのである
空家が800万軒なのかその数も凄い、それより町や村が廃墟化してゆく
それが原発事故の避難区域で起きたのである、極端なものとして起きた
でも日本全国で起きている現象なのである、空家問題でもそうだし過疎化の問題もそうである、少子高齢化で縮小してゆく日本の対策が望まれている
インフラ整備でも過疎化した所では都会の80倍もかかるとかその金の負担は東京とか都会の人が払うということで不満なのである、だからむしろそういう所には住まないで一か所に集中して住めとなる、私自身としては人間の多様な生活があって地域があって住むのがいいと思っている、でもそれは何か自分の場合は常に美的観点とかから見ているからである、現実生活するとなると自分自身はとても今は村には住めない

近くにスーパーもないところに住めない、車もないのだから買物だけで苦労になる
今なぜそうした街から離れた所でも住めるのかというと車をみんな持っているからできるのである、だから田舎では車無しでは暮らせないのである
でも私は車がなくてもスーパーが近くにあるからできるのである
原町にも相馬市にも自転車で行っているからなんとか暮らすことができる
鉄道は好きでも利用しない、なぜなら駅から買い物するにも遠くなるからである
そして商品を持つにも重くなり運べないとういこともある、鉄道は仙台市とかに長距離には便利なのである、短距離になると不便になり日常的に利用できないことがある

この辺では原発事故で浪江町でも二万の人口があり小高でも一万の人口があったところが極端に減って廃墟化のようになった、そしてその人達は復興より原町とかに移り住んだ人が多いのである、原町はもともといろいろなものがそろっている、だから便利だから住みやすいとなっていたのである
つまりもうとても復興できない、元の町には戻らないとなりそうなったのである
だからそうなると復興といっても何か見直す必要があるのかとなる
とても元の町に戻らないのに若い人でも帰ってこないのに老人ばかり残って復興できるのだろうかという疑問がある、それは全国でも起きている

だからここでそうして分散して住むことが不効率でありインフラでも金がかかるからあきらめて集住をすすめている、ばらばらに分散するのではなく集中して住む
例えば介護でも田舎は広いから一軒一軒でも回るのが手間になる
でも一か所に人が集住すると回り安いとなる、そして介護というとき隣近所とかが協力すると効率的なのである、車でも相馬市とか原町から娘息子がいても来るとなると手間でありめんどうになるからである
でもすぐ近くで歩いて行けた人が病気で毎日行っていた女性が脳梗塞になり入院した
そしたらその人は自転車にも乗れない、歩いてもその人の所に行けないともなったのである、自分の家にも来れないとなったのである、これもショックである
ただ元気であれば私はその人の所には行くことができる

ともかく今現実問題として理想論ではなく原発避難区域はもう復興自体あきらめるほかないのでないか?
そこにいくら金をつぎこんでも無駄に思えるからである、それで三陸の津波被害の町に対して官僚がジジババしかいない所に税金をつぎこんでも無駄だと本音を言ったのである
私自身は多様な場所でそれぞれ生きることがいいと思っている
いろいろな場所で村があり生活がありというのが実際は国土の利用としてはいいし文化的にも豊かな感覚になる、それが実際江戸時代からできていたのである
それは燃料も炭とかであり自給自足で贅沢していない、電気も水道もない時代だからできていたのである、その時は別に都会の人が田舎の人達に税金を使うことなどなかったから自立していたから良かったのである、都会の人に文句を言われることもなかったからかえってそうして自給自足していた生活を誇りにしていたのである

そして今貧乏になると必ず電気水道ガス代を払えない人が相当数いる、そこで必ずその金がないと嘆いて訴えていたのである、日本が貧困化してくると最低の生活すら維持できなくなっている、昔に戻って自給自足の生活もできない、そうなるとどうしても分散型の生活ができない、だから集住したコンパクトシティとかの発想になる
車は金がかかる、その金も十年二十年と計算すると意外と一千万とかにもなる
都会の人は東京とかるなると若い人は車を持たない、別に車がなくても生活に困らないからである、田舎ではそれができないから車代の出費でも大きいのである

少子高齢化というのも深刻であり人口は減少してゆくだけである、それで未来か描けない縮小してゆく日本にしてもその未来が明確に描けない、徐々に衰退してゆくから明確に見えない、でも原発事故周辺では極端なものとしてその未来が提示されたのかもしれない
実際にゴーストタウンにもなったからである
そうなったときもう復興できない、回復できない状態になっている
そこを復興させようとしても確かに建物が作られたがそこに肝心の人が住んでいないのである、そこで人が住まない限り町でも村でも活きないのである
電気ガス水道がない時代でも人は生きていた、その時飯館村でも山村でも今の二倍の人口があった、それが半減したのである、だから人間は別に電気水道ガスがなくても住めていたのである、でも今のような便利な生活になるともうてきないとなる

未来の衝撃というときなかなか実感できない、でも原発事故の避難区域を見れば実感できる、極端な現象として現実化しているからである、そこでは住民は移住したからである
住んでいる人達は老人が多く学校すら子供がいないのだから成り立たない、立派な施設を作ってもそれを活かせない、人がいなくなっているからである
だからそういうことに金を使って有効だったのかと疑問になる
もちろん私自身は人が住んでこそ村でも活きる、多様な地域があり人が住むことが精神的にも豊かになることだと見る
でも現実を見るとそれができなくなっている、そうしてもらいたいと言っても現実はできなくなっている、でも飯館村辺りでも人が住まないとどうなるのか、元の自然に還るわけではない、そこが政府で放射性物質の廃棄場にしたり何かソーラーパネルとか風力発電の工業地帯のようにされ景観は壊されるのである

もともと原自然があり人間によって作られた第二次自然があり農業などがそういう景観を作って来たのてある、それが里の景色だとなる
だから人が住まないことはそこは元の自然に還るわけでもなく荒廃するのである
人が住んでいればそうしたものに反対する人もいるからできないとなるからである
でも現実問題としてどうしたらいいのかとなるともう維持できないとなる
肝心の人がいなくなったいる、いるのはそこで死んでゆく老人だけだとなる
老人はなかなか移動しにくい、慣れ親しんだ土地で人とともにあり死んでゆきたいとなるでもそれがしにくくなっているのである
ではどうしたらいいのかとなると解決策があるのかとなるとわからないとなる

でも人間は電気がなくても水道がなくてもガスがなくても生きてきたのである
だからそれがなくなっても生活できないとか死ぬということはなかったのである
戦後まもなくは電気製品などないのである、裸電球一つくらいが電気であり車もないし
水道もない、別にそれで死ぬこともなかった、生活は貧乏にしろできていたのである
不思議なのはかえってそれで人口が今の倍もあったということなのである
つまりそれだけの人口を養うものが飯館村であれ山村であったのである
だから人間が生活できない、死ぬとういことは電気や水道やガスがなくてもありえないのである、むしろ原発事故になり空気も土も水でも森林でも汚染されたとき住めなくなったのである、この住めなくなることが人間にとって最大の問題である
気候変動でも住めなくなって人類は移動した、だから農業より狩猟採集民の方が生き残ったという見方もある、食糧のある場所に移動すればいいからである
国境とかない広大な自然がある時その方が生き残ることができるとなる
そうして人類が広大の地球に分散したとなる

相馬市のイオンが閉鎖したことは驚きだった、あそこには休憩所があり食事ができたら喫茶店もあったからである、また中村喫茶店も閉店したことも驚いた
何か相馬市は原町より衰退したのかとみる、原町には何か新しいものができている
松川浦の方には新しいものができている、だから原発事故で原町に移住した人が多いのである

要するに原発事故周辺では集住化が起きた

だからそれは全国でも起きる現象だとなる、そうしないと現代の便利な生活は維持できないからである、貧困化もしているしそうなる
都市そのものが便利な生活するためにできたともなるからである
それがいい悪いにしろ便利な豊かな生活を生活を維持するとなればそうならざるをえないとなる、それに私自身は賛成しているわけではないけど現実を見るとそうなってしまうのである




posted by 天華 at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年12月07日

あらゆる所で継承継続ができなくなる (少子高齢化による(未来の年表)の衝撃)


  あらゆる所で継承継続ができなくなる
  
  (少子高齢化による(未来の年表)の衝撃)

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未来の衝撃という本が話題になっている、これは本当に現実化しているからである
それはもう確実に未来がそうなると予測できるから単なるSFの空想でもないからショックなのである、それでこの辺が原発事故で極端な現象として現実化したことを書いてきた
農業しているのも65歳以上の人が8割とかである、そして耕作放棄地でも膨大なのである、近くで小さな畑で野菜を作っていた女性が72歳で脳梗塞になった
その前の畑の人は腎臓が悪く透析をしていたが60代で死んだ
隣の畑をつづけていた人は娘に車に乗せられて這って仕事していた
80代でありでもつづけられなくなった、そこは草ぼうぼうになっている
つまり隣の畑が放置されると困るのは草がすぐ生えてきて影響するからである
だから田舎では草むしりが日々の仕事なのである

その女性は苦労したので普通の人より10歳くらいふけていた、そして煙草を吸っていたそれが血管に悪かったのである、でもストレスが絶えずありやめられなかったのである
まず煙草とか酒は体に良くない、私は30歳くらいでやめたかさ良かった
その女性は知っている人を私の同級の人がやはり脳梗塞になり片足が悪くなっていたのを見ていた、脳梗塞は再発するんだよとか言っていた、そうして他人を見ていた人が脳梗塞になったのである、だから他人の心配するより自分の心配が先だとなる
なぜならかえって自分の健康管理していない人は誰かの世話になったり他でも迷惑をかけるからである
脳梗塞も多い、同級の人はすぐに病院に行ってカーテルを入れて助かった
南相馬市には新しく脳出血のセンターのビルができた、そこには優秀な医者がいたからである、若い医者でも習いに来ているからである、だから助かったのかとなる
でもその女性は脳梗塞の症状があっても専門の病院に行かなかったのである
医者が見抜けるはずだったができなかったのである

いづれにしろ8050問題とかは始まっている、その女性は入院している、50代の息子が病院に行ってみている、ただ脳出血では意外すぐには死なない、心筋梗塞では死ぬ
だから10年くらい介護している人を知っている、その苦労も大変なものだとなる
リハビリをすればそれなりに回復するのである、長嶋茂雄も脳梗塞になった、でもそれなりに回復している、これは脳の部位で体の影響が違ってくる
こうして増えるのは老人と病人なのである、子供など近くでも見かけないのである
まず少子高齢化の問題はあらゆる分野で継承継続ができなくなる
私の住んでいる街でも一軒しか自転車屋がない、その人も60代後半であり病気でもあるそれでもつづけている、自転車屋でも技術者だから簡単にできない、他でも原町の自転車屋でも老人だった、そして老人より若い人がしている自転車屋に行けというとき自転車の技術も進歩しているからついていけないからである
自転車は後で必ず故障とかで世話なになるから通販はできないのである
またいつも利用していないと隣の原町で断れらたとういことがある
だから自転車屋が今一軒しかなくそこがなくなると困るとなる
そこでも継承する人がいなくなるのが問題なのである

それより田舎だと広いから山の村でもその村自体を維持するのがむずかしくなる
より不便な所だと限界集落になりもう老人しか住んでいない、継承する人がいなくなるのである、祭りでも若い人がいなくて継承できないとかの問題がすでにでている
すると歴史と文化も継承できなくなる、村というとき江戸時代からでも長い歴史がある
そしてその村にあり石一つでも何かいい伝いとか伝説とかあ村の人とともに活きていたのである、庭が人間化しているように村の自然も人間化している、だからそこに人間が住まないと荒寥としたものとなる、それは家の庭の石とも似ているからである
人間化した石になっていたからである、そういうことでも継承がなくなるとき淋しいものとなる、村自体が消失してゆくことは歴史でも文化でも継続できないということである
これはかなり深刻なことである、そこで失われるものが何か、それが原発避難区域で問われているからである、先祖とのつながりも絶えることにもなるからである

もう過去の経済成長させるとかの問題はない、今あるものを継承継続させることが問題でありそれができなくなる問題なのである
自治体自体が維持できなくなるというのもそうである、半分以上が維持できなくなるというのも深刻なのである、この辺では原発事故で避難区域には老人だけが取り残されてそうなった、もうそこにいくら新しい施設とか建物を作っても肝心の人が住んでいない
立派な学校を建てても肝心の生徒がいないのである、外から通っているとかなる
また老人ホームでも人手がたりないとかで青森に送られたとかもある
つまりあらゆる分野で継承継続が問題になるのである、IT技術者が70万人不足するとかもそうである、そうなると通信のインフラも整備できないとなる
老朽化したインフラでも直すこともできないから橋を壊したとかなる

そうして空家が800万軒とかにもなる、近くの街中の家も一軒取り壊された
他には壊されないで利用されない空家が近くに何軒かある
原発避難区域では空家だらけでありゴーストタウンにもなっている
それで最初は復興を盛んに言っていたが残されたのは老人だけである
だから小高からとか原町に移住した人が多い、立派な家を建てた人も家を放置して原町に住んだとかなる、また原町だけではない鹿島だと新しい家が建っているから救われているそれはおそらく地元の人でない、原発避難区域から移ってきた人達なのである
だから原町とか鹿島でも相馬市でも新地でもそういう人が新しい家を建てて移り住んでいるのである
つまり集住化が起きているともなる、とても復興はできないとなりそうなったのであるこれは全国的に起きていることでありここだけではない、でもここは極端な現象となって現れたのである、これが日本の衝撃的な未来なのかともなる

その対策はどうするかとなるともう分散しては住めない、集住して住むとなる
ただそうなると継承して継続してきた村とかが失われる、それも大きな問題なのである
都会からすると痛みをも感じないかもしれないがそこで多様の生活が歴史でも文化でも失われ何か精神的には貧しくなるのである
でも現実問題として優先されるのは歴史とか文化でなく日々の生活を成り立たせることだからどうにもならないともなる
その解説は簡単にできない、それは個々の問題ではなく全体の問題だからである
日本全体の問題であり縮小してゆく社会をどうするかとなるからである  

「後継者難倒産」が過去最高水準に

これはあらゆる分野で起きている問題である


posted by 天華 at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

冬の日に新田川を下り墓を見る (枯芒、寒椿、冬椿、年暮れむ・・)


冬の日に新田川を下り墓を見る

(枯芒、寒椿、冬椿、年暮れむ・・)

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新田川瀬音ひびきて枯芒

寒椿赤々と散り映えにけり

公園に赤々と散る冬椿

地元住み桜井古墳に木の葉散る

津波跡樹々枯れ残り冬芒

天明の碑ここに残りて冬の暮

ふるさとの墓をめぐりて年暮れむ


二本の木の残りて津波跡社のありと冬の日暮れぬ

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光明真言とは空海の密教から来ている、15万偏というのは唱えることである
光明とは太陽のことである

https://onl.la/vGSkdcq

ここに詳しい、ここに信女とあるのは女性である、天明とあるとき女性個人の墓はないからおそらく僧侶の妻だったのだろうか?信女とあれば女性であり信士となれば男である
ただこの墓からはこれくらいしかわからない、でも天明の碑はあることはある、私の家の近くの神社にもあった、でもあまりみかけないのである
もう一つも年号であるが読めない、文とついている、文とつく年号は多い、天明の後の年号だろう

信女、大姉、院大姉と位が上がっていきます

大姉というのはみかける、でも戦後ではただ寺で戒名をつけてもうけるためになった
だから別に金を払えばどんな戒名でもつけられるとなったのである
ただ大姉となれば本来は武家とかの家の出だったのかもしれない、でもそもそも庶民には墓はなかったのである



新田川は浅い川である、だから瀬音がひびくのである、真野川は意外と長い川であり瀬音がひびくともならないのである
上流の方では浅いからひびくが街中の川はひびかないのである
川でいいのはやはり浪江の高瀬川の方だろう、渓谷もあるからあそこを訪ねる人は多かった、ただまだ立ち入り禁止にもなっていたが自転車では行けるようになった

公園に赤々と椿が散っていた、今の時期では冬椿の方がいいかもしれない
冬椿というとき「城下町相馬六万石や冬椿」こんな感じになる
相馬市と原町の雰囲気は全く違っているのである
原町には歴史を感じないのである、原ノ町駅が機関区なり駅前通りができて栄えた
新しい市という感じである、でも相馬市は駅前通りとかはなく城下町としてあった
だから城があったところから街が形成されたのである
田町通りというのは田があったところであり地名化した、この地名は日本では多いのである、そもそも田だった所が多いからそうなった

新田川の下流の方に行き川畑とかの姓の墓があった、確かに新田川が近いからそういう名前になったのか、これは他にもあるからわからない、ただ川の側の畑も多いからそういう地名があり姓になったことは確かである
戦後まもなく食べ物がなく川の中の空地を畑にしていたのである
それは私の家でもそうだったのである、なんとか食料を得るためにみんなそうなったのである

あそこに二本の木があり社があった、津波にも流されたみたいだが古い碑が積まれてあった、そこに天明の碑を見つけた、これはめずらしいと見た、天明の碑はなかなかない
天明というとき相馬藩が飢饉で三分の一の人口が消失したのである
それがどこに行ったかもわからない、その跡地に欠けた土地に越中とかから移民が入ってきた、それが三分の一だから多いのである、そのために真宗系の墓が多い、それは見るとすぐわかる、なみあぶだぶつと記されているからである
天明は一つの時代の区切りである、それは飢饉があり相馬藩が苦しんだからである
今回の震災も津波の被害もそうである、時代の区切りは何か大きな事が起きた時である
戦争があれば戦後と戦前は全く違ったものになったからである
だから本当は年号でも変えるべきだったともなる、戦前の昭和と戦後の昭和はまるで違った世界になったからである

原町でいいのは食事する所があるからいいのである、道の駅の天丼はうまい、あと高見ホテルの食堂のさしみ定食は安くてもお得になるからいい、最近は・・・食堂の牡蠣と大きな海老のテンプラがうまい、いい材料を使ったいるからいい
六号線は行き安いからそこに好みの食堂があると助かるとなる
ただ食堂は必ず飽きてくるから一人暮らしは最低でも自炊するほかないのである
でも料理はめんどうだからしていない、家事をやるだけで手間なのである
全部一人で家事をすることは手間である、だからプログに書いて後は時間がなくなる
それでコメントにも答えていないのである
今年も暮れてゆくが地震の被害は大きかった、まだ本など片づけていない、もともとこの本が片づけるのに苦労しているのである、捨てる訳にもいかないので困るのである
蔵書となると歳になればたまる、それもその人の人生を語ることになる
どんな本を読んできたのかでその人を知るてががりにもなる
だから良くテレビに出て来る人がいる、学者でも他にもいる、すると書斎が写っている
その本を見るとこんな本を読んでいるのかとみるのである

今年もやはり墓地を墓を見て暮れるとなった、墓は確かに死者を語るものだがその情報が少なすぎるのである、名前くらいしわからないからそうなる
そこで郷土史を調べるには物足りないとなる
戒名くらいでもその人のことはわかりにくいとなる、でも天明の碑は古いから注目したのである

津波の傷痕は依然としてある、でもだんだん薄れてはいる、右田にある津波で流され家の跡の庭の石は見物である、記念として残しているのか?
他にも空家になって残された石がある、立派な石の庭がある、それがもったいないとなる家より何か庭の方が価値あるとみる、石には価値がある
石が好きだからそうみるともなる、何か活かす方法がないかとなる
またいつまでも空家がありそれが片づけられないである、六号線の南相馬市立病院の近くのレストランだったところでもそうである
あれはいつになったらかたづけられるのか、何十年とあるからだ、この空家の問題が全国的である、活用されないなら壊す方がいいかもしれない、なぜなら見た感じが嫌なのである、寂れた感じになるからである、だから何らか活かす方法が必要なのである

でも商売としては今は成り立ちにくいだろう、相馬市の中村喫茶店でも閉店になったかたらである、あそこでなるとは思わなかったからである
コロナウィルスの影響もあったと思うがそもそも商売でも今やうまくいかない時代であるだから誰かが食堂でも始めるとならないのである
戦後まもなくだったら食堂でもバラックのうよなものでも繁盛したろう
私の家の店がそうだった、資本金はほとんどかからない、ただ品物を並べたものだったのである、それでも売れたからである、他の零細な商店でも物を置けば売れたのである
今はそんなことにならない、飲食店で成功することは相当に難易度が高いのである
なんでもそうである、だから銀行では金を貸す人がいないとなっているのである




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津波の跡に残された家の跡

津浪に家は流されぬ
残りしは石の庭
重々しくも重なり残りぬ
そのかたへ山茶花の咲き
野は広々と枯れにけり
その花の母のごとしや
その花の妻のごとしや
ここに家族の暮らしてありぬ
またここを訪ねて我が一人
ありし日を偲びけるかな
津浪より11年の歳月は過ぎぬ