人生の危険―利欲を離れることができない人間
(金の切れ目が縁の切れ目ー利によって離散集合)
●人間の本心は利欲で動くこと
利欲離れず
衆寡騒ぎ治まらず
人の世に危難多し災い多し
隠棲するも難あり
その心の欲は消えず
君子危うきに近寄らず
木石のごとく素心を保ち
己を持するを良しとする
利欲を離れれば心安らかなり
俗人と交わることも危うし
人はみな利欲に生きる
利をもって近づき
利をもって離れる
巧言令色にして仁なし
その口は災いのもと
内心あるは利欲のみなり
口を慎むべし
人は利の心に敏く
仁の心にうとし
人はただ利によって計り
利に追われ利にかられ利に終わり
その本意を失うを知るべし
この世に生きるとは何か?利欲から人は離れることはできない、日々の活動が利欲でありこれを否定できない、そもそも無料で何かを提供する人はいない
店で何か買うにしても売る方でも利欲でありそのために日々あくせくしている
一日たりとも利欲離れて人間はありえないのである
この世の付き合いも交際も利欲であり利欲を離れて交際もないのである
お歳暮とかいろいろ世の中の慣習があってもそれはただ物を贈与するというのではなく
そこには必ず利が働いている
上役であれ御世話になった人であり何らか利が働いて贈り物もある
つまり人間社会では無償の行為とか無償のものはないように見える
神が与えるのは無償である、人間を通せば無償でくなくなる、互いに利益になるから商売もある、それを否定はできないし悪いともならない
でも人間の交際が利しかないというときそこに危険がある
●兄の交通事故で経験した人間が利欲で豹変する怖さ
そういうことを身近かで経験している、兄の交通事故でその雇い主が盛んに兄が乞食のようにして来たのを雇ってやったとかいろいろ言うのは何なのだろうとわからなかった
そして骨を置いてゆけというのもわからなかった、墓を作ってやるからとういのもわからなかった、墓を作ってどうするのかとなる、それは保険金をもらうためだったのである
墓を作った所で金にもならないからである、墓代を払い供養するから金を出せということだったのである
それは交通事故の保険金をもらいたくて言っていたのである
なぜなら身よりがないと見ていたからである、私は車がないからそれがわからなかったのである、実の母親がいて保険金を受けとる権利があった
結婚した妻はその時離婚していた、それも一週間前だったのか離婚した、その書類を記したのである
中学生の娘がいたが母親であり妻にも離婚していなければ権利があった
でも離婚したので喪失していたのである
私の家では兄には良くしていなかったので権利を主張しにくかった
でも雇い主は雇ったとしても働いてくれるから雇ったのである
病人でもない、そのトラック会社で働く者として雇ったのである
その社員が交通事故で死んで権利があるとはならなかったのである
結局妻の兄の家に引き取られた、なぜならここから遠い静岡とかでありその事情もわからなくなっていた、でも妻の家とは子供の時から行き来していたからそうなったのである
だから人間でも遠くなると何が起きているからわからなくなるのである
確かにその会社の社長は雇ってくれたということはあったかもしれない
でも働く者として必要だから雇ったとなる、何か病気になったから世話したというのではないのである
おそらくこれも交通事故の保険金が大きいので身よりがないとしてその保険金の受取人になりたかったのだろう、それまではそんな気持ちはなかった
でも保険金というのは大きいから利欲が出てきたのである
人間はそうして利欲が何かの機会ででてくる、それが怖いのである
その社長は別に兄が交通事故で死ななかったらそんなことはなかった
ただ雇って働いてくれていただけだとなる
だから何かの調子で利欲が人間には出て来る、美人を見て性欲を抑えられなかったとか常にあるからである、別に美人を見なかったらそういうこともないかもしれない
金でもそうなのである、だから遺産相続でももめるのである
大金になるからそこで人間の欲が出てくるのである
そこで相談した弁護士も相談するだけで百万もとったのである、これも詐欺なのだが頼んだ人も社会を知らない人だったのである
私自身も車がないから自賠責だとか任意保険だとかわからなかったのである
こういうふうに欲に目をくらみ豹変するのが人間である
この辺の原発事故でもその補償金が大きいからその金をもらうことだけが目的にもなってしまった、復興とは補償金をどれだけ多くもらうことかにもなったのである
何か故郷を復興しようとするより補償金をもらうことが優先されたのである
そして故郷を出て他で家を建てり仕事を持ち帰らなくなったのである
二千万もらったとか今まで手にしない金が入ってきたから何か平常心を失ったとなる
それだけ貧乏な人達もいてそういう金を手にしたことがないからそうなった
人間は金で狂ってしまうのである、黄金を求めて争いがあるのもそのためである
無法者がアマゾンに集まり黄金を探して一攫千金を夢見てアマゾンの森を破壊して汚してゆくのもそのためである、遺産相続で兄弟が殺し合うということがあるのもそうである
ともかくあらゆるところで人間は利欲を求めるのである
そのために邪魔する原住民が銃で殺されたというから怖い、まるで麻薬の利権で争う
マフィアかギャング団である
●人間の本心は利欲で動くことーそして善人の仮面をかぶる
人間は善など求めない、ただ利欲があり利を求めているだけである
カルト教団などもそうである、無私になることが宗教だとなるがそんなことは全くない
ただ欲を求めてそうした団体に入ってくる
何か利益がないかとか入ってくる、そしてその欲を充たすために祈るのである
御利益のために利権のために祈っているのだから宗教とは正反対の団体なのである
たいして暴力団とも変わりないともなる
でも暴力団は俺たちは悪だということを表明しているのである
でも宗教を看板にしているカルト教団はただ宗教を自分たちの欲のために利用しているだけなのである
それはお賽銭を投げて御利益を祈る人とにている、千円を入れたら二千円でも御利益になって帰ってきてくれと祈っているのである
だからなぜ宗教を看板にしているのか神仏に祈っているのかわからないとなる
そもそも宗教というと心を浄化するとか無心になるとか無欲になるとかであるがその正反対がカルト教団の実体なのである、御利益と利権と権力を欲しくて集まり祈っているのである、そもそもそういう場所に良くいられるものだと思う
欲深い野心家が集まりその欲望を達成するために共に祈り権力争奪しようとするのである別に病気を直してくださいとか神仏に祈ることは悪いことではない
でもそのために誰かに金を寄付するとかなると違ったものになる
あなたの願いをかなえてやります、そのためには私に金を払いなさいとなるのはおかしいのである、その人は神仏でもないからである、その人もただ金が欲しくてそう言っているだけなのである
ともかく今世の社会はこれまででも人間の社会は人間は欲から離れてありえないのであるだから宗教というとき出家して僧になった、それは俗世ではどうしても利から離れられないからである、みんな日々生活するために利から離れられないのである
それがこの世である、人間の関係も利でしかなく金の切れ目は縁の切れ目にしかならない利に集まり利によって離れるだけなのである
だから出家があり修行したとなる、その出世とは仏教では世を出ることなのだがかえって世に深入りしているのがカルト教団なのである
出世するとはこの世で出世して地位でも権力でも得ることになったのである
だからこの世から俗世から俗人から離れないと心の清浄は保てないから出家して世とかかわらないものとして修行したとなる
もちろんそういう場でも寺でも修道院でも堕落したことは確かだがその動機は心の浄化のためであったから今のカルト教団などとは全く違っていたのである
第一カルト教団に入る人は利益を求めて入るのであり心の浄化とか全く関係ないからである
山で断食して心を浄化しろとか言ったら会員になる人などほとんどいなくなるからであるあらゆる欲を肯定するからこそあれだけの人数に増えたのである
創価などは一票になればあとはどうでもいいだけである、数を集めれば権力になりそれでこの世の欲を得られるとういだけである
題目をあげるのもただ欲を達成するためであり最終的にはこの世の権力を得て欲を充たすためだとなる、だからなぜそういう団体が宗教法人として認められて無税になっているのかわからないとなる、宗教もただ利益のために利欲のために利用されるだけだとなる
それで地獄に落ちるとか罰当たるとか言っているのだからあいた口が塞がらないともなる
そもそも利欲だけで動いている者がそんなことが言うこと自体言えること自体なんなのだろうとなる、シャカとかキリスの教えをただ自分達の欲を達成するために利用しているだけだとなる、そんなことしていたらそういう人こそ地獄に落ちて罰当たると普通の人でも理解できるはずなのである、でもそうなっているのは利得を利権を得られるからであり
全然悩みもしないのである、人間はそもそも俗世間にどっぷりと浸って生活していると
それが日常になり別に何も感じなくなるのだろう
それでも何か若い時は潔癖さを持っていたことは確かである
でも歳をとるにつれて塵埃の中に没してその汚れも当たり前であり感じなくなっているとなる、この世とはこんなものだとして諦観してあきらめるとなる
●人間は賢者になれない、君子危うきに近寄らずの意味
ではこの世がそういう世界だというとき人間がそういう利欲から欲望から離れられないとして世を嫌い隠者となる隠棲するとしてもこれも結構難易度が高いのである
要するに隠者になるとしても人間はやはり欲があり欲から離れられないからである
また引きこもりとかニードかになると何か人間にまともに成長しないのである
それより何か能力がないので脱落したためにそういう人ととなったともみる
何であれ職人にしてもそれがみんななれるわけでもない、建築土木関係でもこれも力仕事があり力がないとできないとかある、だからニートとか引きこもりはそうした仕事するできないからかともなる
自分には力仕事はできなかったとかあるからである
結局人間は賢くなれない、賢者になれないのである、だから引きこもりでもニートでも
小人閑居して不善を成すになるのである、何かおかしな方向に行ってしまう危険がある
ただ老人になると人生のことが自ずと解明してくることがある
欲を減退して悟ったような顔に普通の人でもなるのである
でも依然として老人になってもいろいろな人がいて欲から離れられない人もいて問題を起こすし小人閑居して不善を成す人が高齢化社会で膨大に増えるのである
暇をうまく使いない人が増えるのである
いづれにしろ人間の関係は金の切れ目が縁の切れ目だったとなる
みんな金を求めている、でも金が利がないとなれば別れるだけである
違うのは家族くらいであり友情などもないだろう、利により利なければ離れるだけであるそういう人が近所でもどこでもそうだというとき何かあると病気であれ事故であれ何か不測の事態が起きた時襲ってくるとなるから怖いのである
もしかしたら虎視眈々として財産を狙っているとかなる
そういう中で人間が生きていることか地獄だとなる、親鸞でもそういう地獄を生きたから地獄を語ったのである、この世にこそ地獄がある
それはいくら科学技術とかでも進歩しても同じなのである
怖いのはその科学技術で人殺すことにもなる、原爆でも落とされる核戦争にもなることである、国と国は対立してそうなる、国と国は平和になりえない、やはり隣の国でも弱体化すれば襲ってくるとなる
だからこの世に安住の地はない、地球に安住の地はない、利欲が消えない人間がいる限りどこでも安住はないのである、地獄とはこうしてこの世にある、いつ襲われるかもしれない人間社会だから地獄なのである
この世ではこうした地獄から逃れようがない、ただ希望は神の国で神が治める国で生きるたとしか希望がないのである、この世に理想の国など実現しないからである
文明がすすみ豊かになったとしてもかえって人間の素朴さは素心は失われる
すると文明とは何なのかとなる、法が発達して正義が行われるかとなるとならない
法律を破る者が弁護士だというときそうである、ただ法律は悪を利を得る為の手段だとまでなる、インディアンをだました白人がそうだったとなる
巧みに契約させて土地を奪ったとなるからである
●この世に桃源郷はない
山中問答 <李 白>
余に問う何の意ぞ 碧山に栖むと
笑って答えず 心自ずから閑なり
桃花流水 杳然として去り
別に天地の 人間に非ざる有り
呉山深くして而して深し
性を養ひて老朽に甘んず
ただ木石と共に居りて
氷瀑と志堅く守りぬ
中国はとてつもなく広いから何があるかわからない、だから桃源郷もあるとなった
でも実際はそこに人間が住んでいるかぎり欲のない人間はいないのだから桃源郷はないのである
桃の花が流れてきた上流になにがあるのか、それは誘われる、でもそこにも人間が住んでいたとしたらやはり欲があり理想郷などないのである
この世の理想郷とはただ頭の中でイメージされた空想の世界なのである
要するに桃源郷としてもそこには到達しえない場所なのである
だからこそ神秘であり理想化されるのである、死者が美化されるのと同じである
桃源郷のような所があったらいいなとイメージする、それは現実から逃避現象なのである平家の落人伝説でもそうである、別に高貴な人が落ち延びて来たわけでもないがそういうふうにして美化していたとなる
ただ文明化された所で育った人は素朴だということはある
文明がすすめばすすむほど逆に人間はかえって素朴さを失う、それは確かなのである
ラオスの人が素朴だったというときそうである、まだ開発されていないからである
でもそこも文明化されると素朴さは失われるのである
そういうことはヨ−ロッパ人が日本に来て同じようなことを感じたからである
みんないい顔していた、満足な顔をしていたというときそうである
文明が進むとかえって人間の素朴さは失われて狡智にたけたものとなる
ずる賢い知恵。悪知恵。奸知 (かんち)
だから桃源郷というときそういう狡智がないから騙されるということがなかったとなる
例えばアメリカに入ってきた白人は契約させてインディアンの土地を奪ったとかある
文明人はかえって人をだます手練手管が発達する、法律さえそのために利用されるとなる
呉山深くして而して深し
性を養ひて老朽に甘んず
ただ木石と共に居りて
氷瀑と志堅く守りぬ
私が追及してきたのはこれである、引きこもりとなり社会から離れ山に籠もる、そして
石や木と一体化する、そこに素心は失うことなく守られるとなる
志を堅くとは汚れない心を維持するということである、堅い意志でもって守るということである
故郷に長くもあれな何となる石ともならむ冬の日暮れぬ