2022年11月27日

発達障害の謎―計算できない、漢字が文章が読めない (抽象化が理解できないー人間を数字化抽象化する危険)


発達障害の謎―計算できない、漢字が文章が読めない

(抽象化が理解できないー人間を数字化抽象化する危険)

その人は精神障害とは違うようだ、知的障害であり何らかで文章が理解できない、また漢字が書けない、計算ができないとなった
でも不思議なのはしゃべることはできるのである
それは普通にしゃべることができる、だから会話ができる、またスマホもできるしラインで会話している、その時漢字を読めない書けないのに変換して理解している
その人は聾の人としゃべれない人とラインで会話している
これもどうなっているのか理解しにくい
漢字が書けない、読めない、計算ができない、数字がわからなくなるのは認知症でもそうなる、これはどういうことなのか?

おそらくこれは抽象的思考ができなくなっている、数字でも漢字でも抽象的思考ができないとわからない、漢字でも太陽を日とするのは抽象的思考である、でも漢字は実物と似せたものにしているから何か実物を連想することがある、でもやはり抽象思考になる
でも英語とかなるとsunなのだから完全に音だけであり抽象になる
だから音だけから実物をイメージするのはかなり高度にもなる、でもしゃべることはどの言葉でもみんなできている、でも英語でも英語を読んだりできない人が英語をしゃべる人でもいる、そういう人がまだ多く日本人はみんな新聞を読めるから優秀だとしている

ともかくなぜその人が漢字が読めないとか書けないとか数字がわからず計算できないとなったのか?
それは先天的なものでそうなったのか、それとも適切な教育をされないのでそうなったのか、というのはその人は父親にしょっちゅう殴られていたというからである
頭をけられたということも言っていたからである
こうして適切な教育を子供の時されないので理解できなくなったのか?
その辺がわからないのだが発達障害というのは意外と多くあるかもしれない
そもそも学校で何か理解できない人は相当数いる
それはこのように抽象的思考ができないためではないか?

そのことで自分自身が発達障害者だったことに気づいた、どうしても小学生のただ算数のように計算することはできた、だからソロバンができた、でもこれは知能とは関係していなかった、一切考える必要がないものであり頭を使わない、人間の脳を計算機にするものでありこれでは数字の意味とか何も考えないからわからないのである
私は文章は理解していた、でも理系的なものが理解できない、だから文系と理系とは何なのかとなる
でも漢字も抽象化したものであり数字も抽象化したものである
数字でも実際は数字ではなく具体的な物から理解する、一個のリンゴがあり一個のみかんがあるめれを一個とするとき二つをたすと二個になる、でも実質はリンゴとみかんは違ったものでありでも一個として一として認識する、抽象化するとそうなる
だから数字化することはそれですでに物が持っている様々な属性を省くことになる
リンゴがもっている味とか大きさとか色とかを省きただ一個として認識するのである
それは人間でも同じである、人間の属性は万物の霊長というように不可解なほどいろいろな要素で構成されているのである、でもただ一個として数字として認識するとその属性は奪われる、顔も体格も恰好も見ないで全部ただ一個としか見ないとなる

抽象化から何が起きたのか?

このように人間を数としてみるとき現代文明だと数だけでしか人間社会を見ない、民主主義が投票数で決まるというときでもそうである、そこには人間の様々な属性がはぶかれてただ一人一票でありそれしか見ない、若い人でも老人でも男でも女でも一票なのである
すでにこうして数しか見ないというときそれがナチスとかの全体主義になり人間を物のように数字として処理してガス室に送ったのではないか?
そこで役所の事務員は人間をただ数字として番号のようにしか見なかったからそうなったのかとなる、そこに全然罪悪感も感じなかったのである
でも人間を殺すことは怖いことである、一対一で果し合いして相手を殺すことは殺す方でもその殺される人を見たらやはり何か感じる、相手は物ではないからである
心苦しくなり罪の意識を感じるとなる、でもこさゃも数が多い戦いだと感じにくくなる
集団戦であり一人一人を見れないからである

ともかく現代の科目で人気なのは統計とかになるのは常に人間を数で見ているからである政治でも経済でも数で見ている、だからGDPとか国民総生産額とかが指標になる
すると数学がができない人は現代文明には適合できないともなる
だから文系はいらない理系だけで大学はいいとなるのもわかる
現実文系は大学で遊んでいるだけだとなるし本を読めばわかることだからである
でも理系でも何か物を相手にしていると相手が人間ではないから機械ばかり扱っている人は頭が冷たくなると理系の大学の教授が言っている
もし生きた人間とか動物でも相手にしていると情が通うから違ったものになる
現代とは情が喪失した時代だともなる
コンピュターとかAIがどれだけ発達しても人間のように情をもたけることはできない
機械が人を愛することなどありえないのである

だから宗教とはそもそも情を基本として愛とか慈悲を説いたのである
それは母親の母性愛がありその母性愛は動物でもある、だから情として愛は動物にもある程度通じるのである、でも知的なものはそうではない、全然愛がない人でも知的に優れた人はいるのである、その人はまたサイコパスとかフランケンシュタインのようにもなる
人間は今や情より知的な面からしか見ないともなっている
それでけ知的な社会になっているのである
そして人間は数字化されるというとき抽象化されて生身の血も涙もでる人間として生き物として認識できなくなる、だからこそ現代文明は原爆のように大量虐殺でもできる
そういうことは昔の戦争だったらしにくい、生身の人間が殺すことを目の当たりにするとなかなかできないことがある、でも現代の戦争は一人一人の生身の人間など見ていない
だから数のように見ているから大量虐殺でも機械でもできるのである
そこに現代文明の恐ろしさがありここに恐怖すべきなのだがそんなことしていない
宗教とはもともと愛とか慈悲を説いたのだから知的なものとも違っていた
そういうことは難しい数学とか科学の理論とは違っていたからである

だから人間とは何かというとき漢字が読めない書けない数字がわからない、計算できなくても認知症なっても愛はわかるのである、だからこの人は冷たいとかわかるのである
家族でもわかる、親だったら余計にそうである、それで愛情をもって接しないと親でも子供を恨んで死んでゆくから後味悪いものとなる
宗教などでも理論からしたらいくらでもむずかしいものとなる、特に仏教はそうである
でもキリストの教えはそれはほとんど学問がなくても理解できるものである
数の計算でもできない人ですら理解できる、中学生レベルでも理解できる
何もむずかいしいことは言っていないのである

神を知るということは聖書があってもそういうものを読まなくてもまた教会で牧師に教えられなくても聖霊が下れば一発で理解できる
これは別に頭がいい優秀な人しか理解できないものではない、普通の学問でもない人でも理解できるのである、でもかえって頭のいい人でも学問があってももし愛がないならその人は理解できないとなる、「心が清いものは神を見るだろう」それはむずかい理論でも何でもないのである、だから宗教だとその関係の本を千冊でも万冊でも読んでもわからないのである
むしろ苦しむ経験とか何か大きな経験をすると理解する、第一どうしても悲しむ者は幸いであるということは理解できない、そもそも人間は苦しみ悲しんで人間となるからであるむしろ涙を流す時何か尊いものを感じる、カルタシスとなる、涙には何か浄化するものがある、人間は泣く時もしかしたら最も人間的になっているのかもしれない

何かこの世で泣くようなことがあるときあなたは何が大切なのか知るともなる
私は悲しんだことがない苦しんだこともない、そういう人がいたらその人もしかしたら獣のような人かもしれない、なぜなら情がないとういことである
でも現代社会は確かに情が希薄化した時代である、知的なものが肥大化して情が失われた時代なのである、そこから起きて来る問題が山ほどあるとなる
いくら文明が機械化して豊かになっても情が失われるときそこは地獄にもなる
現実に孤独死が増えたりしているのはそうである、誰も知らずに見捨てられて死んでいるそういう社会が果たしていい社会なのかとなるからである

ともかく精神障害者知的障害者が人間ではないのか?

認知症の人は人間でなくなったのかと考える時、やはり愛とか情的なものはわかっているすると愛は通じる、情的なものは通じるから人間として分かり合えるともなる
ただ正直現代社会は知優先であり課題に知の教育しかなくなったのである
学校でもただ知の競争なのである、そこで愛とか情など関係なのである
知を競わせるだけである、そして知に劣れば脱落者になるのである
だから頭がいい人ほど頭が冷たくなっているともなる、非情ともなりフランケンシュタインのような科学者となり怪物となるともなる
それが現実に起きたのがナチスの大量虐殺でありカルト教団の狂気的ファシズム団体なのである、そこで数しか見ていない、一人など個人は相手にしないからである
そこから人間は非情となり危険なものとなり人間を人間とも見れない、数字であり物のようにしか見ない社会となっていることの怖さなのである
posted by 天華 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など