2022年11月09日

浪江町の大堀へ行くー10年過ぎても悲惨 (街中の食堂が増えホテルはにぎわっている―外部から若い人も入っている)


浪江町の大堀へ行くー10年過ぎても悲惨

(街中の食堂が増えホテルはにぎわっている―外部から若い人も入っている)



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大堀村の寺や神社

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大堀村の寺−陶家とかあるから大堀らしい


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金毘羅とかめずらしい―愛宕神社

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根っこが残りそこに古い碑があった墓がある

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山津見神社があったーその脇に大塚東照宮があった
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この清水が飲みたいと思ったが汚染されていると飲めなかった
でもこれは湧き水だとしら汚染されていないかもしれない
こういうところにまだ原発事故の影響がある
ただそもそも清水とか山の水は意外と動物とかにも汚染されているのである



震災時、浪江町には約2万1千人が暮らしていた。今年2月末現在、町内居住者は1596人町に住民票がある人は1万6650人。今も多くの人は避難生活を続けている。

(2021)

 東電の賠償金は原発からの距離などに応じ、有無や額が異なり、原発周辺の住民が「賠償金をもらっているだろう」と妬まれるケースも珍しくない。「家を建てても避難民という気持ちが消えない」。津島の美しい星空や家族同然の地域の絆は、賠償金でも取り戻せない。同じ津島の避難者宅を訪ねるのが楽しみだが、10年を経て連絡がとれなくなってきたという
 https://mainichi.jp/articles/20210310/k00/00m/040/190000c


 震災前、浪江町には6つの小学校と3つの中学校に約1,700人の生徒が通っていたが、今は、2018年に完成した「なみえ創成小学校・中学校」に通う約20名だけだ。児童・生徒が戻らないことから、昨年、7校を2021年4月に一斉に廃校し校舎を解体することが決まった。





浪江町に入ったら立派な家がある、庭に大きな石がある
でも人は住んでいない、原発避難区域では結構立派な家がある
でも人は住んでいない、それがもったいないのである
ここの家でも立派な岩があると見て帰った
小高でも紅葉がきれない庭があり家があった
庭に興味があるが人が住んでいないのでもったないと見る

浪江町の大堀から高瀬川に行って来た、大堀は陶工の家が空家化して廃墟化していた
陶工の家が30軒くらいあったのか、細い道を分け入るとこんなに陶工の家があったのかと見た、ある所で相馬焼きの焼き物が散乱していた、あれはなぜかたづけないのか?
結構高いものがあるが放置したままなのである
一時緊急避難しても帰ってきて相馬焼きの焼き物を整理して持って行けばいいとも見た
おそらく帰ってこないし焼き物もしないので放置したのだろう
入り組んだ道に陶工の家がありもう誰も住んでいない
ただ来年はここも避難解除になる、でも入ることができた
ここは震災前のままであり放置されたままである、ただ除染の人達がいた

あんなふうに荒れ果ててしまうのもショックである、陶工はみんな福島県であれ各地に分散した、だから相馬焼きをまとまって窯元で伝統を支えることはできなくなった
窯元が集まり技を伝いまた新しいものを作りだす場が窯元だった
そこが高瀬川の岸辺になり立地に恵まれていたのである
そしてそこは江戸時代からの歴史があった、相馬焼きは青ひびとかの技は各地に伝えられたのである

 むかしから そのむかしから 学校の
やねも お空も つんぬいて
大きくのびた かきの木は
みんなの そだつ 目じるしだ
2. 遠い道 夕やけ雲の お山から
海までつづく たかせ川
あゆも かじかも かにさんも
みんな なかよい おともだち
3. おじいさん おとうさんも かあさんも
べんきょうしたのは この学校
わたしも あなたも あとついで
みんなで ぐんぐん のびるのだ

大堀小学校の校歌であるがここに柿の木がでている、それで私は震災前にたずねて柿の俳句などを作った、柿がふさわしかったのかもしれない、それにしてもその荒廃は悲惨である、震災の時そのままであり捨てられた感じである

わたしも あなたも あとついで
みんなで ぐんぐん のびるのだ

このあとつぐ人が子供が消えたのである堀小学校の跡は荒地になり鳩を手にもった少年像が残っていた、なんともわびしいとなる

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大堀小学校の跡地
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中に陶器がまだある店がある
陶器が散乱して放置されている所もあった
おそらく放置したままで帰らなくなったのかもしれない

●大堀には古い歴史があった―神社をたずねる

大堀は江戸時代からの歴史かあるから神社もある
そして山津見神社が高い所にあった、これは発見だった、こんなところまであるのかと驚いた
とにかく相馬藩の地域には綿津見神社と山津見神社が多いのである
これは一対としてあり飯館村には綿津見神社と山津見神社がある
それは安曇族の海人族が入ってきた証拠なのである
だから小高の海岸にも綿津見神社があり浪江町の大堀にも山津見神社があった
それだけこの辺は安曇族が古代に最初に開拓に入った場所なのである
本当にこれだけ綿津見神社と山津見神社があることは驚きである
後は愛宕神社とか天神社とか他にもあった
江戸時代からのものであるが山津見神社は古代に由来するから注意すべきである

この耳塚に埋められているのは、八面大王の耳であると言われている。八面大王はこの安曇野地方の伝説では鬼とされ、悪逆の限りを尽くした後に坂上田村麻呂によって攻め滅ぼされたとされている。しかし蘇ることを恐れた田村麻呂は、八面大王の遺骸を切り刻んで各地に埋めたのである。耳塚はその耳を埋めた場所であるとされているのである。
https://japanmystery.com/nagano/otuka.html

大塚神社が城県とかにもあり他にもある、全国的にもある、九州にもある、この大塚は何なのか?津浪の被害にあった磯部の近くにも大塚神社があった
これは全国的に多いがその由来がはっきりしないのである
大塚とは塚だから墓であり古墳に由来するのか、謎である
ただここで安曇地方に関係していたことがうかがわせるものがある
安曇はまこ海人族であり何か土着の人々が大和王権に逆らったから伝説として残されている、ただそれが大塚とどういう関係になるのかわからない
つまり塚というから大とは王の意味だともしている、つまり王の塚⇒王塚⇒大塚となったこれは天皇と関係しているのか?なぜ全国にあるのか?地域の王であり天皇とは違ったものなのか、何らか古代は安曇族でも全国的に大和王権に天皇が全国の唯一の王とはなっていない、そういう時代に地域の王を埋めた所が古墳が大塚がありそれが大塚となったのか
ただ安曇族の山津見神社の脇に大塚東照宮とあるのは大塚と王のことであり東照宮とは家康のことである、つまり王なる家康となるがもともと大塚と安曇族が関係していてそうなったのかとなる、家康が王となったので大塚とはもともと王から由来すると王なる家康となるのである
他に愛宕神社とか天神社があった、この由来も何なのか、神社には由来が不明なものが多いのである
ただ地域でも地域の地域でも古い神社がありそこには人がもともと住んでいて継続していたのである、その継続が原発事故で断たれたのである
でもまた全国的に人口が減って過疎化して限界集落となり村自体の歴史が失われてゆくのが日本だとなる

●高瀬川溪谷へ行き帰る

高瀬川の渓谷へは交通止めがあったが入ることができた
紅葉の渓谷で水墨画のような風景になっていた
11年ぶりに来たがやはりここの風景は特別である
車が一台葛尾村の方から来た、車も通れないことがないのかもしれない
でも車は二台くらい通ったがやはり交通止めになっているからだろう
ここにトンネルが二つくらいありそこを目指して走って来た
でもなかなかトンネルが見えないのでここではないのかと疑った
でもまもなくトンネルが見えたので良かった
10年も行かないとわからなくなる

街の中は新しい食堂が増えた、道の駅にもあるが他に食堂が多いと見た
あとはホテルがにぎわっているみたいだ
つまり原発の仕事や浪江でも除染の仕事がつづいている
そうした原発事故関係の仕事をする人達がまだ多いのである
夜道を原町から金沢を経て鹿島に出る道にプレハブがあるがそこが思った以上電気がついていてここにも未だ原発関係で働く人がいるのかと見た
昼ではわからなかった、原町でも双葉で車で労働者が送られることがあるだろう
原町から浪江までは18キロだったから車だったら近いのである

まず小高であれ浪江であれ田畑は荒地化している、でも耕運機が道を行くから農家でも農業をはじめた人もいるのかとなる
ただ見たかぎりでは田畑があり人の手が入ったいるのが見えなかった
農業が回復することはむずかしいだろう、何か街中に横浜から来た若い人が案内していたがなかなか農業を回復させることはむずかしいとなる

ただ外部から若い人が入ってきている、駅前の新しくできた案内所でも横浜から来た若者だった、でも目的は何かとなるとなかった、だからもしかしたらこういう人は定着しないかもしれない、今は外部から来る人が歓迎される、そもそも住む人がいないからだ
でも何か目的がないと定住しないかもしれない、コンビニで働いていた人も若者である
だから地理がわからなかった、その道は川俣に通じる道だった
何かあの道は歩道でも広いから新しくできた通りらしい、新しい食堂もあったからだ
それでコンビニもできていたのである

次は小高の大悲山の石仏から高瀬川溪谷への短歌です
posted by 天華 at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連