2022年11月24日

冬の蝶(ルリタテハ)が庭に来る―日本文化と茶室のこと (葉牡丹、冬あざみ、冬薔薇)


冬の蝶(ルリタテハ)が庭に来る―日本文化と茶室のこと

(葉牡丹、冬あざみ、冬薔薇)

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風うなり籠り隠る家冬の蝶

北風や茶室に一人籠もるかな

この道の碑の古りあわれ冬あざみ

この道を今日も行くかな冬あざみ

冬薔薇一輪あわれ茶室かな


茶室への径や待ち屋に落葉かな石に対すや主と逢わむ

北風の唸りて茶室に一人あれ茶碗の古りてその重さかな

土壁の茶室に映る日影かな木の葉の散りて径そ暮れゆく


3月〜12月
成虫は初春頃から秋の終わりか初冬までのかなり長い時期を数回に分けて活動しています

木の根っこ
葉牡丹
庭の石
冬薔薇一輪
唸る北風
一人籠もる家

今日朝窓の外を見たら黒い蝶がいた、めずらしいと見た、結構長くとまっていた
それはルリタテハである、羽寝かきざぎざしているしこれは春に山で見かけるものだったではなぜ冬になって街の中で見たのか不思議だった
でも季節的には初冬まで飛んでいる蝶とある
これは普通は山で春を告げる蝶と見ていたから意外だった

狭い庭でもそこは自然があるから蝶でも鳥でもくる、この前はジョウビタキの冬鳥のメスを見かけた、雄はきれいだがメスはきれいではない、紋様もないのである
なぜルリタテハが飛んできたりするのか、それはこの辺はまだ自然が回りにあるからそうなる、この前はジャコウアゲハも飛んできたからである
とにかく庭があるとやはりそこが自然であり自然のものを呼び込むのである

この庭が日本独特の文化となったことがわかる、茶室があり庭があり茶道が生まれた
それは極めて日本的なものとして自ずと生まれたのである
外国のような荘厳な豪華なものではないが小さな茶室という空間が俳句のようなものでも日本的文化を育んだのである、だからエジプトであれ巨大建築があるのとは大分違った文化なのである

わび、さび、ほそみ、とかなる、何かそれは冬の枯野などにふさわしいのである
茶室だと待ち屋とかあり出合いを演出する、ただそういう文化が生まれたのはやはり時間間隔が違うからである、時間の流れが遅かったからそういう文化が生まれた
いちいちそんなふうにして逢う時間を作ること自体は忙しい現代に作れない、似合わないのである、時間の感覚は時代によって相当違っていたのである
現代はまた情報洪水になり何んでも追われている、無の空間が作りにくいのである
茶室とは老子の言う無用の用の空間になるからである

別に私は茶道のことなどわからないが日本人であれば日本の自然に接していれば自ずとわかるものなのである、それは外国でも同じなのである、なぜ万里の長城があるのかとなる大陸は陸続きなのだから侵入する敵を止めることができない、だからこそ万里長城ができた、ウクライナでもロシアが所有しているクリミア半島を壁で囲むようにするとかいうのもそうである、陸続きになれば戦争になればそうして壁を築いた侵入を防ぐほかないからである、だからヨ−ロッパでも都市は壁で囲まれているのである
日本の都市に壁がないのはもともと陸つづきでないから異民族が侵入していこないからそうなったのである

小さな庭でもそこに自然は調和する、木の根っこがあり石があり葉牡丹を植え冬薔薇が一輪咲いているのはいかにも冬らしい
そして一つ一つの事物が何か語っている、互いに調和して語っているのである
だから庭は一つの自然の空間なのである
いづれにしろ冬は老人にあっている、冬ごもりとなり籠もるのである
私は陰の性格だから人と逢うのはまれにしてこうして一人茶室でも籠っているのが気持いいとなる、でも庭は欠かせない、狭い庭でも蝶でも鳥でも来るからである
ただ今日のルリタテハは意外だったとなる
思わぬ訪問者であり幸運だったとはなる、これはおそらくもっと自然のある場所だと家で自然に接することができる、でもそうなると不便になる
だから適当に便利で自然がある場所がいいのである
ただすべてがいい場所などないのである、回りに嫌な人間もいるし何かと不便であったりいろいろ不満がありそういうものはどこにいてもなくならない
自然はいいが人間は嫌だとしてまた都会に帰る人もいるということである



2022年11月25日

私に起きたデジタルIT社会の危険と問題―安全が計れない (ビザカードとか無くして(盗まれて)起きた問題)


私に起きたデジタルIT社会の危険と問題―安全が計れない

(ビザカードとか無くして(盗まれて)起きた問題)


どうしても家でジャンパーが盗まれたとしか思えない、そこに財布が入っていたがビザ
カードを入れていて失敗したのである、これでいろいろ契約していたからである
それで今度はauからの支払いが書類で来た、コンビニで支払ってくださいとなった
カードで支払いができなくなったからである
でもそのことで金額のことを聞いたらスマホの暗証番号を教えてくださいとなった
それが忘れていたのである

この暗証番号とかパスワードも多いから忘れ安い

こうして聞くこともできなくなった、期限は25日だと覚えていたから今度は原町のau
の支店にたずねた、ところがUQモバイルは支店では案内したり教えたりしないことがあるそれは別な会社がしていたからである、これもめんどうだったのである
こうして昨日やっとUQモバイルに電話して係の人が詳しい人で手続きができた
コンビニで支払う番号を教えてくれてそれで支払うことができた
もし25日まで支払わないと通信できなくなっていたかもしれない
これも怖いことである、ただ私はスマホはほとんど使っていない
私が毎日使っているのはインタ−ネットでありさくらのレンタルサーバーなのである
だから私にとって一番大事なのはさくらのレンタルサーバーになる
ここではまだ問題は起きていない、でも一回だけ記録が消えたとういうことがあった
これも怖かった、でも修復できたのである

こうして何か通信というのは危険がある、クラウドというのも安全なのか、そうでなくても何かパスワードが忘れてアクセスできないということがある
私は二三回そういうことがあったからだ、そしてパスワードは安全のためにむずかいしものにしろとなり忘れるのである

ただ一番怖かったのはさくらのレンタルサーバーで私が突然入院していたとき契約の料金の更新ができずにその日に料金を払わないと消される寸前だった
日曜日に電話が通じないと消されるところだった、その時さくらのレンタルサーバーは電話で受け付けしていて教えていた、だから助かったのである
そうでないとみんな一瞬にして消されたのである
これが通信世界の恐怖である
対面的なこともなく相手の事情もわからないで簡単に消されるからである
だから本当は一社ではなく二社くらいで安全を確保する必要がある、でもめんどうなのでできない、ただ安全を計るためにはそうしないと危険である
一つのサーバーに頼っていると危険になるからだ

こうして何かとIT化がデジタル化がすすむけどこの安全対策は民間だけではできないとも見る,インフラ整備でもそうである、これはある程度公共的なものとして備えなければならないものである、これだけインタ−ネットでも普及するとそうなる
ただなぜ電話にしろ何かレンタルサーバーとかでもいちいち電話で応対していたらコストがかかるとかになりむしろ利用する人が手間でもしてくれとなる世界である
通信販売でもそうである、そうした利用する人が手間でもしてくれるから安くなるとはなる

ただ安全対策をどうするかが問題になる、メールで連絡しようにもスパムが多くて見れないとまでなっている、何か怖いからできない、だから郵便で来るのは安全だとなる
安全対策がとれないのである、またワードプレスをしようとしてもこれもハードルが高かった、時間がある時ならできた、今は時間がない、意外とプログのようなものでも毎日
新聞のようにして出すとなると手間なのである
こうしてプログでも今は一方的に書いているだけでコメントされても読んでもいない
プログに書くだけで時間がとられているからである
そしてからかいとかなんかコメントでも真面目に相手にしてやれない人もいるし通信の場合は相手を対面的でないからなかなか対話も成立ちにくいのである
この年になると時間がとられることでなんかわからない人のために時間を費やすことができないのである
老人になると残り少ない時間となるから時間がさらに貴重になるからである
無駄なことをしていられないのである

いづれにしろデジタル社会にもいろいろ問題がある、その第一が安全を計れないとうことである、記録したものが消える不安が常にあるしアクセスできなくなるという不安もある安心感が得られないのである
そうはいってももう通信社会になればIT社会になればもう車とかと同じでありなくては生活できなくなっているのである
だから安全を計ることは国とかでもすべきなのである、民間だけでぱ無理だからである
ともかくウィルスとかでもそうでありこれに個々人では対処できないのである
メールで拒否機能を使っても依然としてスパムの山でありこれも困るのである

マイナンバーカードに政府がするということでもこれもなくしたりするから危険なのである、安全が計れないのである、だから抵抗がある
通信というのは安心できないのである、ただ別に普通の社会でも安心できないから通信世界だけが安心できないとういことではない、でもインタ−ネットとかだと機械の操作とかの問題がありそれに詳しくないと安全を計れないとか使いないということが問題なのである、そして結構何するにも手間がかかり時間がかかるのである
これだけは省くことはできない、プログの一記事を書くにも半日かかるとかなる
だから操作がめんどうだと時間がかかりすぎてできないとなる、ワードプレスを覚えるだけでもそうである、前は時間があったからパソコン通信などできた
あれも今よりずっとめんどうだった、それもワープロでしていたからめんどうで暇人しかできないようなものだった、私は引きこもりでも暇人だからそんなことできていたのである、今はそういう時間の余裕がないのである、家族がみんな死んで家事を全部しているから時間がとられてできないのである

2022年11月26日

南相馬市の海老の宝蔵寺の紅葉(紅葉、冬桜、銀杏、椿、冬あたたか) (冬の日に海老ー八沢浦−磯部ー原釜ー相馬市へ)


南相馬市の海老の宝蔵寺の紅葉(紅葉、冬桜、銀杏、椿、冬あたたか)

(冬の日に海老ー八沢浦−磯部ー原釜ー相馬市へ)



御刀神社(右田)
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海老村の宝蔵寺の紅葉
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冬桜がめずらしい

原釜

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クリック拡大で鴎が大きく見える
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全部クリック拡大すると鮮明に見えます!


古寺に大石重し冬桜

古寺に大石数個紅葉映ゆ

冬桜紅葉の映えて古き寺

黒橋に紅葉の映えて城下町

人も見ず家々静か冬の蝶


黄金色に銀杏かがやく朝の日や椿も赤く映えにけるかな

重なりて色合い深く紅葉かな池に映して石の黙しぬ

八沢浦津浪に消えし家の跡我がたずねて冬の日あわれ

高台に海の見えつつ船の行く磯部の村の冬の朝かな

原釜に鴎の群れのあまたかな冬あたたかに船も帰り来る


右田の御刀神社の銀杏を見た、この銀杏はそれほどのものではなかった
この御刀神社は物騒なものなのである、なぜなら蝦夷征服と関係していたからである
刀というのはここで刀を突きさしたとかあるからだ
これは物部氏だったらしい、海老とエヒであり蝦夷のことなのである
海老には最近海に面する崖のところで古墳が発見されたのである
他に古墳が発見されている古い場所なのである
烏崎村より古いのである、古墳があれば古いとなる、ただ古墳でも埋もれている所がありわからないものがある、海老辺りはわからないのである
確かなことは古墳時代から人が住んでいたのだから古いのである
もともと港であり漁港でもあった、だから魚をとったり貝をとったりとか海に面して生活していたのである

八沢浦では二軒ほど津波で流された家の跡をたずねた、ここには石垣があり結構高いように見えるがあの津浪では軽く越えて流された
何でも恐ろしいのは津波が八沢浦とか海老村とかで渦巻きのようになっていたという
その光景を見たら恐怖である、海老村では海岸に接した高台が避難所に指定されてそこに逃げて30人くらい死んだのである
そこは確かに高いのだが海に面していてその高台まで津浪が来たのである
それで右田の松原のある家の人がここまで逃げてきたのだが九氏いっうを得て助かったのである、何かにつかまって助かったらしい、その経験も恐怖だった
海老は高台だから津波が来ないと思っていた、でも津浪は海とも関係して陸地から見てわからないものだったのである
震災から11年過ぎてもその傷痕はまだ痛々しいのである

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津浪は前にさえぎるものがないと被害が大きくなる

次に磯部の方に行った、磯部でも高台の方は津波の被害がなかった、もともと古磯部というのがあり地名にあり高台に住んでいたらしい、被害が一番大きかった磯部はもともと砂州のような地形だったのである、だからひとたまりもなかった、家が津波で揚げられたとういう、その光景も恐ろしいものだった
まずこんなことは予想もできない、イメージもできないことだった

原釜でも変わり果てた、海に面した低地の家はみんななくなった
でも入江の砂浜には鴎がたくさん群れていた、昨日は晴れてあたたかった
それで平和を感じた、ただ11年過ぎても何か完全に癒されることはない
それだけの大被害だったのである、ただだんだん忘れられてゆくにしろ20年過ぎてもまだ忘れられないともなるのかもしれない、それだけの大被害だったのである

相馬市では黒橋に紅葉が映えていた、相馬市の中村喫茶店は城下町に合っていたが閉店したのは意外だった、これはここだけではない喫茶店は激減しているのだ
喫茶店だけでは営業できないのである、レストランとか食堂だと日常的に通うが喫茶店ではそれがないしただコーヒーとか飲み休むだけでは成り立たない
でもレストランとか食堂と喫茶店は役割が違うのである
どうしてもレストランとかはうるさいし落ち着かない、それで何か本を読んだり書き物したりするのにはいいとなる

だから私は喫茶店が好きなのである、でも喫茶店はもうなくなるとまでなる
成立っているのは車でももっていけるハンバーグ店とかである
相馬市には二軒ほどあり若者とかでにぎわっている、あれが気軽るで値段も安いからいいとなる、これも時代なのである
喫茶店でも高級店にして金持ちでも何かサロン的なものとして利用があるかもしれないがどうしても田舎ではそんな人がまれなのだから成り立たないとなる
そしてイオンがなくなったことの影響も大きい、あそこでは休んでいたからである
食事も気軽にできたからである、中に喫茶店もあったからである

ともかく昨日は天気もいいし気持いい日だった、今日は朝から曇っている






2022年11月27日

発達障害の謎―計算できない、漢字が文章が読めない (抽象化が理解できないー人間を数字化抽象化する危険)


発達障害の謎―計算できない、漢字が文章が読めない

(抽象化が理解できないー人間を数字化抽象化する危険)

その人は精神障害とは違うようだ、知的障害であり何らかで文章が理解できない、また漢字が書けない、計算ができないとなった
でも不思議なのはしゃべることはできるのである
それは普通にしゃべることができる、だから会話ができる、またスマホもできるしラインで会話している、その時漢字を読めない書けないのに変換して理解している
その人は聾の人としゃべれない人とラインで会話している
これもどうなっているのか理解しにくい
漢字が書けない、読めない、計算ができない、数字がわからなくなるのは認知症でもそうなる、これはどういうことなのか?

おそらくこれは抽象的思考ができなくなっている、数字でも漢字でも抽象的思考ができないとわからない、漢字でも太陽を日とするのは抽象的思考である、でも漢字は実物と似せたものにしているから何か実物を連想することがある、でもやはり抽象思考になる
でも英語とかなるとsunなのだから完全に音だけであり抽象になる
だから音だけから実物をイメージするのはかなり高度にもなる、でもしゃべることはどの言葉でもみんなできている、でも英語でも英語を読んだりできない人が英語をしゃべる人でもいる、そういう人がまだ多く日本人はみんな新聞を読めるから優秀だとしている

ともかくなぜその人が漢字が読めないとか書けないとか数字がわからず計算できないとなったのか?
それは先天的なものでそうなったのか、それとも適切な教育をされないのでそうなったのか、というのはその人は父親にしょっちゅう殴られていたというからである
頭をけられたということも言っていたからである
こうして適切な教育を子供の時されないので理解できなくなったのか?
その辺がわからないのだが発達障害というのは意外と多くあるかもしれない
そもそも学校で何か理解できない人は相当数いる
それはこのように抽象的思考ができないためではないか?

そのことで自分自身が発達障害者だったことに気づいた、どうしても小学生のただ算数のように計算することはできた、だからソロバンができた、でもこれは知能とは関係していなかった、一切考える必要がないものであり頭を使わない、人間の脳を計算機にするものでありこれでは数字の意味とか何も考えないからわからないのである
私は文章は理解していた、でも理系的なものが理解できない、だから文系と理系とは何なのかとなる
でも漢字も抽象化したものであり数字も抽象化したものである
数字でも実際は数字ではなく具体的な物から理解する、一個のリンゴがあり一個のみかんがあるめれを一個とするとき二つをたすと二個になる、でも実質はリンゴとみかんは違ったものでありでも一個として一として認識する、抽象化するとそうなる
だから数字化することはそれですでに物が持っている様々な属性を省くことになる
リンゴがもっている味とか大きさとか色とかを省きただ一個として認識するのである
それは人間でも同じである、人間の属性は万物の霊長というように不可解なほどいろいろな要素で構成されているのである、でもただ一個として数字として認識するとその属性は奪われる、顔も体格も恰好も見ないで全部ただ一個としか見ないとなる

抽象化から何が起きたのか?

このように人間を数としてみるとき現代文明だと数だけでしか人間社会を見ない、民主主義が投票数で決まるというときでもそうである、そこには人間の様々な属性がはぶかれてただ一人一票でありそれしか見ない、若い人でも老人でも男でも女でも一票なのである
すでにこうして数しか見ないというときそれがナチスとかの全体主義になり人間を物のように数字として処理してガス室に送ったのではないか?
そこで役所の事務員は人間をただ数字として番号のようにしか見なかったからそうなったのかとなる、そこに全然罪悪感も感じなかったのである
でも人間を殺すことは怖いことである、一対一で果し合いして相手を殺すことは殺す方でもその殺される人を見たらやはり何か感じる、相手は物ではないからである
心苦しくなり罪の意識を感じるとなる、でもこさゃも数が多い戦いだと感じにくくなる
集団戦であり一人一人を見れないからである

ともかく現代の科目で人気なのは統計とかになるのは常に人間を数で見ているからである政治でも経済でも数で見ている、だからGDPとか国民総生産額とかが指標になる
すると数学がができない人は現代文明には適合できないともなる
だから文系はいらない理系だけで大学はいいとなるのもわかる
現実文系は大学で遊んでいるだけだとなるし本を読めばわかることだからである
でも理系でも何か物を相手にしていると相手が人間ではないから機械ばかり扱っている人は頭が冷たくなると理系の大学の教授が言っている
もし生きた人間とか動物でも相手にしていると情が通うから違ったものになる
現代とは情が喪失した時代だともなる
コンピュターとかAIがどれだけ発達しても人間のように情をもたけることはできない
機械が人を愛することなどありえないのである

だから宗教とはそもそも情を基本として愛とか慈悲を説いたのである
それは母親の母性愛がありその母性愛は動物でもある、だから情として愛は動物にもある程度通じるのである、でも知的なものはそうではない、全然愛がない人でも知的に優れた人はいるのである、その人はまたサイコパスとかフランケンシュタインのようにもなる
人間は今や情より知的な面からしか見ないともなっている
それでけ知的な社会になっているのである
そして人間は数字化されるというとき抽象化されて生身の血も涙もでる人間として生き物として認識できなくなる、だからこそ現代文明は原爆のように大量虐殺でもできる
そういうことは昔の戦争だったらしにくい、生身の人間が殺すことを目の当たりにするとなかなかできないことがある、でも現代の戦争は一人一人の生身の人間など見ていない
だから数のように見ているから大量虐殺でも機械でもできるのである
そこに現代文明の恐ろしさがありここに恐怖すべきなのだがそんなことしていない
宗教とはもともと愛とか慈悲を説いたのだから知的なものとも違っていた
そういうことは難しい数学とか科学の理論とは違っていたからである

だから人間とは何かというとき漢字が読めない書けない数字がわからない、計算できなくても認知症なっても愛はわかるのである、だからこの人は冷たいとかわかるのである
家族でもわかる、親だったら余計にそうである、それで愛情をもって接しないと親でも子供を恨んで死んでゆくから後味悪いものとなる
宗教などでも理論からしたらいくらでもむずかしいものとなる、特に仏教はそうである
でもキリストの教えはそれはほとんど学問がなくても理解できるものである
数の計算でもできない人ですら理解できる、中学生レベルでも理解できる
何もむずかいしいことは言っていないのである

神を知るということは聖書があってもそういうものを読まなくてもまた教会で牧師に教えられなくても聖霊が下れば一発で理解できる
これは別に頭がいい優秀な人しか理解できないものではない、普通の学問でもない人でも理解できるのである、でもかえって頭のいい人でも学問があってももし愛がないならその人は理解できないとなる、「心が清いものは神を見るだろう」それはむずかい理論でも何でもないのである、だから宗教だとその関係の本を千冊でも万冊でも読んでもわからないのである
むしろ苦しむ経験とか何か大きな経験をすると理解する、第一どうしても悲しむ者は幸いであるということは理解できない、そもそも人間は苦しみ悲しんで人間となるからであるむしろ涙を流す時何か尊いものを感じる、カルタシスとなる、涙には何か浄化するものがある、人間は泣く時もしかしたら最も人間的になっているのかもしれない

何かこの世で泣くようなことがあるときあなたは何が大切なのか知るともなる
私は悲しんだことがない苦しんだこともない、そういう人がいたらその人もしかしたら獣のような人かもしれない、なぜなら情がないとういことである
でも現代社会は確かに情が希薄化した時代である、知的なものが肥大化して情が失われた時代なのである、そこから起きて来る問題が山ほどあるとなる
いくら文明が機械化して豊かになっても情が失われるときそこは地獄にもなる
現実に孤独死が増えたりしているのはそうである、誰も知らずに見捨てられて死んでいるそういう社会が果たしていい社会なのかとなるからである

ともかく精神障害者知的障害者が人間ではないのか?

認知症の人は人間でなくなったのかと考える時、やはり愛とか情的なものはわかっているすると愛は通じる、情的なものは通じるから人間として分かり合えるともなる
ただ正直現代社会は知優先であり課題に知の教育しかなくなったのである
学校でもただ知の競争なのである、そこで愛とか情など関係なのである
知を競わせるだけである、そして知に劣れば脱落者になるのである
だから頭がいい人ほど頭が冷たくなっているともなる、非情ともなりフランケンシュタインのような科学者となり怪物となるともなる
それが現実に起きたのがナチスの大量虐殺でありカルト教団の狂気的ファシズム団体なのである、そこで数しか見ていない、一人など個人は相手にしないからである
そこから人間は非情となり危険なものとなり人間を人間とも見れない、数字であり物のようにしか見ない社会となっていることの怖さなのである
posted by 天華 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2022年11月28日

銀行がすすめる投資信託や金融商品の危険 (退職金二千万でも高度成長時代から比べれば安い)


銀行がすすめる投資信託や金融商品の危険

(退職金二千万でも高度成長時代から比べれば安い)

例えば、手数料が3%かかる投資信託を年に3回乗り換えた場合、3%×3回=9%の手数料がかかることになる。

1年間で10%近い利益を出すのは極めて難しくなるので、回転売買がいかに顧客のことを無視した手法であるかがお分かりいただけるのではないだろうか。

【元銀行員が語る】銀行で損をする日本人?!


これは自分でも経験した、リーマンショックで半分に減った株が元に戻った時、これを説明もせずに銀行員が売ったのである、そして別なものに回した
とにかく銀行員は顧客のもうけなど考えていない、だから転売するのである
株ではわかったのは長期的視野で見れば儲かるようになっている
短期的にはもうからないのである、株は常に変動しているからそうなる
だから安全なのはインデックス投資でありこれを長期的に保有することである
そこで一時的には上がり下がりがあっても長期的にみればもうかる
だから投資は若い人向きだとなる、30年後とか見れるからである
ただ自分の場合そんなに損したとういうことではないから銀行員を責めるわけでもない

でも銀行員は昔と違ってこうした詐欺まがいのものもを売りつけるようになったのである銀行は今まではこんなことをする必要がなかった、借りる人がいくらでもいるから金を集め預けられた金に利子をつければよかった、だから銀行に貯金するだけで利子が7パーセントとかの時代があった
そして不思議なのは退職金が二千万としても少ないと見ている
なぜなら利子が7パーセントになっていたら一千万積んでいたら70万の利子が入る
十年で700万になる、約二倍になっていたからである
だから今は二千万でも利子はつかないから投資してもむずかしいから増やせないのであるまた物価でも上がっているから実質は2000万の価値がないのである
だから意外と少ないとみるのである
今は物価高だから5千万以上ないと余裕がもていなだろう
それより貯金そのものが日本の円そのものが価値がなくなっている
円安になり価値がなくなっている
だから日本の金をもっていても価値がないとなる

だから高度成長時代とは違った時代であり金の価値はなくなったのである
それは日本経済全体が落ち込んでそうなったのである
日本の円が価値がないということは日本全体の価値がないということである
2000万というと大きな金に見えるが実際は違っている
物価が上がっているから相当に目減りしているし高度成長時代から比べると2000万は高いものではない、それだけ金の価値は変動するのである
遂には紙切れにもなるのである

確かに今老人は高度成長時代に貯えた金を持っている人がいる、でもその貯えた金の価値が下がったのである、金自体の価値は変動しやすい、実物ではないからである
本当の価値は実物である、石油とかガスとか食料でも工業製品に価値がある
紙幣そのものに価値はないのである
だから金というのは使った時価値がわかる、家を買うとか車を買うとかカメラを買うとかいろいろ買った時金の価値がわかる
でも金自体には紙幣は紙切れにすぎないのである
だからもともと紙幣の価値を黄金があって価値づけていたことでもわかる
紙幣の価値は黄金が裏付けしていた、それが金本位制だったのである
金でも小判だったら金なのだからその金その物に価値がある
だから小判を貯めていたら安心だともなる、黄金としての価値はあるからだ
ただ持ち運びするものとして貴金属が価値があり貨幣代わりにはなっていた
ベトナムで金属の塊りの重いものが貨幣になっていた、そんなものを持ち歩くことができないからどうしても貨幣が紙幣が発達したとなる

ともかく今銀行は何の用があるのだろうかとなる、貸金庫なのか?金を預けても利子がつかないとしたらまた投資信託や他の金融商品を売りつけるとしたら証券会社なのかとなる実際何回も証券会社の人と一緒に投資信託とかを売りつけに来たからである
金を借りて事業を起こす人も今なくなるといくら銀行に金をあづけても利子をつけることができない、金を借りて事業を起こした人がもうけて利子をつけることができる
だから本当に銀行の役割がいろいろと支払いでもデジタル化しているからなくなったとなるから苦しいとなる

要するに何か価値があるというとき個々人の個々の価値ではなく、全体が影響している
日本に売れるものがなくなったとき価値あるものが作りだせなかった時全体が貧乏化するのである
それは原発の避難区域でもそうである、立派な家と庭があっても空家化して住む人がいなくなったからである、普通だったら立派な家と庭があれば住みたい、金を出しても住みたいとなる、でも回りに商店でもなんでもないとすると住みたくないとなる
私の住んでいる場所でもそうである、弁当屋がないとか百円ショップがないとかないものがあり一人暮らしだとそれで困るのである
人間は余りに普通は全体のことを考えないのである、自分が良ければいいとかなっているでも原発避難区域のようになったところではもう全体が駄目になったから立派な家と庭があっても住みたくないとなったのである

金とか紙幣の価値はもともと変動しやすい、実物でも変動するが金はもともとそれ自体に価値がないのだから本当に紙切れにもなる
だから退職金二千万でも実際は高度成長時代の価値と比べると安いのである
つまり高度成長時代だったら二千万は四千万の価値があったからである
その差が大きいのである、私の家を新築したときは400万だったのである
今なら3000万以上になっていた、こうして時代によって物価でも相当な差がある
だから今の二千万は少ないともみてしまうのである、それは時代が違うからでありもし
日本の経済が成長続けていたら退職金でも倍とかに普通になっていた
現実にアメリカとかでも給料が二倍以上になっているからである
日本では全然給料があがっていないからである

いづれにしろ日本はなぜ貧困化しているのか

やはり価値あるものを作り出せない、外国に売れるものを作りだせない、そして資源もない、するといくら日本の円を刷ったとしても紙切れにすぎないともなる
現実にカンボジアとかベトナムの紙幣は本当に紙切れにすぎなかったからである
交換もできないからである、ドルだったら今なら円と倍でも交換できる
それで失敗したとなる、ただあるゆる価値は変動している、何が価値あるかも時代によって変わる、でも長い目で見れば株はもうかる、確かにリーマンショックのような暴落もあるが経済活動は止まることがないのだから回復してもうかるとなっていたのである
ただ私の場合は株とかでもわからない、投資信託もわからない、売り買いするものわからないから銀行に頼んだのである、でも銀行でも証券会社でも手数料商売であり回転販売されることが危険なのである、株だったらインデックスだったら長期的になればもうかるとなる、でもそういうものは銀行でも証券会社でも手数料がとれないからやりたくないのである、ただ自分でも知識があり取引できる人は株でも投資信託でも金融商品でもしてもいいのである、それで全部損することはない、円安になれば余計にそうなる
でもその知識がないと簡単にできないから銀行とかに頼んだのだがそれがまずかったということである

仲介するものに頼むと何か問題が起きる、メデアも仲介するものだから真実の報道をしない、そして銀行もメデアであり仲介するものだと指摘する人がいたが確かに媒介するものでありその媒介するものによって歪められるのである
宗教でも真実の教えがあり神が存在するとしても仲介するものとして介入する人がいて
カルト教団にでも騙されるのである、牧師がいたとしても仲介するものでありその人に頼ると歪められる、直接媒介するものがなく神への信仰になっればそういうことはないのである、つまり仲介するものメデアに頼ると常に危険なものになる
でも人間そんなにいろんな知識がないのだからメデアに頼ることになって失敗する
つまりこれだけ高度な知識社会になるともう専門家に頼る、でもその専門家によって歪められることにもなるのである


posted by 天華 at 11:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年11月29日

なぜカルト教団の被害者が多いのか (大衆化による地の塩たる真のエリートの消失した現代社会のため)


なぜカルト教団の被害者が多いのか

(大衆化による地の塩たる真のエリートの消失した現代社会のため)


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●カルマはカルト教団に入っても解消しない

人間はなぜカルト教団に入り被害を受けるのはなぜなのか、これは人間特有の問題である人間は何かそもそもその家族でも何でも不可解なのである
科学でも合理的にでも解決してきたのが人間である
でもなぜ依然として人間の謎があり不可解なことがあり解明されないのである
先祖の因縁というとき本当にこれはあると思う
ある人は妻は夫の病気で苦しめられた、20代で手術して肺結核になり半身不随のようになった、ほとんど仕事ができなくなり一生妻の世話になるような状態だったのである

そして不思議なのはその娘もなぜか夫に苦しめられることになった
夫はもともと技術者であり優秀で会社に勤めていた
でもやめて事業を起こして借金して苦しむことになった
つまり母親と同じように夫で苦しむようになったのである
だからこれも因縁なのかどうかわからないがカルマというのはあると思う
ただカルマがあったとしてもそれを言って金をとることは金をとる方が悪いのである
ただ確かにカルマがありそれがめぐりめぐってくるのである
ではカルマを解消するために因縁をたちきるためにカルト教団に入ってできるかとなるとできない

金をくれたらカルマを因縁を解消してやりましょう

こんなことを言うのはただ金が欲しいだけだからである
そもそもカルマは本人が苦しまない限り解消しないのである
また苦しまない限りカルマを認識することもできないのである
なぜ私は夫のことで苦しむのだろうというときそういえば私の母親も夫に苦しんだなとふりかえる、そこでカルマを意識するのである
そうでなければ母親が苦しんだことを理解できないのである
つまり例えば親が子を捨てるとその子も親を捨てるとかなる、逆に親を捨てると親になったとき子に捨てられとかなる、そういう因果がめぐってくる
国の関係でも日本か高度成長時代の時はアジアで女性を買って遊んでいた
今や逆に日本人の女性が貧乏になり買われる時代になったのである
これもカルマである、かつて日本人はアジアで同じことをしていたからである

国と国の関係でもアメリカが原爆を落としたということがアメリカのカルマとなる
つまりアメリカに原爆が落とされて始めてその苦しみを理解するのである
こんなひどいことなのかと理解する、実際にそれはそうされてみない限り理解できないのである、よその国の人が苦しんでも自分の国で苦しまない限りわからないのである
アメリカはアメリカ国内が戦場になったことはないのである
だからアメリカが国内でも爆撃されて大量に死んでみない限り戦争の悲惨さは理解できないのである
だからカルマは必ずめぐってくる、人を苦しめたものはやはり苦しめられるのである
上に立っていたものがやがて下になる、繁栄でも栄えていた国でも衰退する
イギリスなどがそうであり日本でも30年くらいで衰退したからである
次に衰退するのはアメリカなのである、恵みはいつまでもつづかない、必ずめぐりめぐってくるのである

だからアフリカで貧乏でもいつか栄える時が豊になる時が来る、そのために時間が必要なのでる、例え日本国内であれそれぞれの国であれ栄える者と栄えない者が必ずいる
でも時間が過ぎると一代だけではない二代三代と家がつづくうちに貧乏でも栄える家が生まれる、ただ時間がかかるのである、つまりある言えか栄えるには一代とか二代がかかり犠牲になるということもある、親が苦労してその次の代を栄えさせるということがある
だから共産主義のように急速に一様に平等にすることは無理なのである
そのためには革命となっても多大の犠牲があり死者がでるからである
その平和的解決は時間をかけることである、性急には変わりにくいのである
時間の中で貧乏な人でも豊かになってゆく、それを一気に暴力革命で平等にすると失敗する、それが共産主義でありそこで何百万にも粛清され殺されたとなるからである
そこには無理があり性急だから失敗したとなる

●平等は不平等になるー時間が解決する不平等の問題

とにかくカルマはめぐり恵み(めぐみ)もめぐるのである
いつまでも不幸な家系もないし個人もない、かえって必ず一生をみれば幸福と思えたことは不幸に因になったりしている、逆に不幸の因が幸福の因だったということにもなる
それは長い一生をふりかえればみんなそういうことを経験することになる
一生楽で終わる人などいないのである
だから若い時は進んで苦しんでおけ苦労しておけとなる
それは必ず人生は楽に終わらないからである、だから早いうちに苦労していた方が後の耐性を作るとなる
だから若い時享楽に費やしていたりすると何か良きことを成すこともできなくなるのであるそれだけ人生は短いからである、時間を無駄にしたことこそ取返しのつかないことになる
本当に今になれば一瞬一瞬でも真剣に生きて時間を無駄にしなければよかったとなる

それでカルト教団に時間を費やすことほど無駄なことはなかったとなる
まずそのために人生をそのものを失うことが怖いのである
一生精神的にも金銭的にも奴隷にされてしまうからである
つまり霊が支配される、奴隷の霊が与えられることが怖いのである
宗教に呪縛される、悪い方に呪縛される、そして奴隷にされ金銭でも貢がされる
そして偶像を拝まされるのである、そういう団体の教祖は偶像であり偶像はサタンであり使役されるとなる
そうして呪縛されるとなかなかぬけられないのである

人間は不可解なものだから人生でも不可解でありそんなことは迷信だとか言っても意外と有効なのである、カルト教団でもそこでは悲惨な不可解なことで死んだりしている
自殺したり倒産したり一家離散したりとかいろいろある
カルト教団に入っても解決しない、カルマだとすると自ら苦しまない限り解決しないのである、団体でそのカルマを背負ってはくれない、なぜなら個々人で家族でもそのカルマが違っているからである、集団的にカルマは解消しないからである
それで共産主義の過ちはそのカルマでも全部集団的に一挙に解決するように思わせる
それが革命になるのだがそのためにカンボジアで二百万人死んだとかスターリンで何百万人殺したとかなったのである、それは本来そうして人間の問題を解決するこが無理だったからそうなったのである、人間の問題を解決するのには時間がかかる
とても一代ではできないとなり何代かでやっと解決するとかなるからである

カルマとか苦しみはある所で終わる、どこまでもつづくということはない、ただ何代にもわたり継続するというがやはり三代くらいで自然と切れる、人間の一生でも一生苦しい人生はないように見える、ある所でやはり神はもしかしたらその苦しみを終えさせる
でも楽した人はやはりどこかで最後に老人とかなって苦しむともなる
一生でも苦しみがつづくとすれば耐えられないとなるからである
この人は苦しんだ人生だから最後くらいは楽にしようとかなるかもしれない、この人は楽な人生だったから最後に苦しませるとかなる
一見平等のようでもどこかで人間は平等にもなっているのかもしれない、そこに神の配剤があるかもしれない、ただそれも明確なものとしてわからない場合が多い

とにかく人間が運が大方決めるというのも真実である、でも運もめぐりめぐってくる
いつまでも不運な人はいないかもしれない、どこかで苦しい人生が好転してくるかもしれない、ただそうした神の配剤は気づきにくい、それは国の運命でもそうである
いつまでも貧乏な国でありえない、中国だってそうなった、数が多いからみんなとはいかないまでもかなりの数が裕福になったからである
いつまでも不運な人も家もないしいつまでも幸運な家も人もいないとなる
それは一気にではなく時間をかけて平等になってゆくと見る
金を天下の回りものでありやはり貧乏な人にもいつか回ってくるともなる
そういう運命も神が関与しているかもしれないのである

ただ不運に死ぬ人もいる、事故で死ぬ人もいる、その理由はわからない、カルト教団ではそれを言うがその教団内でどれだけ不幸な人達がいるかそうしたことは解消されないのである、むしろ近くで創価に入ったら息子が若くして病気して死んでその後に母親も死んだのである、他では親が自殺したとかなんとかいくらでも不幸なことは起きているからカルト教団に入っても解決しないのである、それは結局不可解だとなってしまうのである
むしろカルト教団はその信じる宗教によって呪われたものなのである
なぜならそもそもがその信仰が全くこの世のものと化してこの世の利欲を達成するためのものとして利用されるからである、そこで矛盾になりかえって仏でも神にも呪われるとなる、そこに神の祝福はないのである、神を仏を語り金でも何でも貢がせる、そして魂を呪縛する、それはサタンであり悪魔の所業にもなる
そもそも他者を罰当たるとか罰せるとか地獄に落ちるとか言えるのか、その人はどんな人なのか、その人を良くみたらわかる、その人自体が地獄人間なのである
確実にそう言う人間こそ地獄に落ちるのである

●大衆化によって真の指導者を失った社会はナチスになる

要するにカルト教団は自滅する運命にある、そんなもの一時的利益利権を求めるものだから消える、宗教とは世俗を超越したものを求めているからである
何百万人も集まる人間がどういう人間なのか、押して知るべしである
本当の信仰は極わずかの小数者のものであり絶対に多数のものにはなりえないのである
むしろ地の塩たる少数者でもいれば祝福があり全体にも祝福が及ぶのである
だから数が多いということは宗教的観点からすればすでに俗化したものであり地の塩ではない世俗的なものに染まった堕落したものなのである
でも数が多いということは民主主義社会では権力となるから数を集めるのである
それは誰とか問わない、その罪も問わない、ただ一票として数えられるだけである
あとは一切問わないのである、そして権力を手中にして世俗の利益を利権を得ることなのである

要するにカルト教団が生まれたのは大衆化に原因がある、もともと宗教は少数者のものでありその人達が地の塩となって民衆を導いたのである、これも堕落したにしろそうして極一部のものが修行して民衆を導いたのである
それが何でも大衆化したときもう指導する者もなくただ大衆の成されるままになり結局全員が堕落したものとなってそれが普通になった、結局そこで誇るものは数しかない
毎日会員を増やすことであり一票を得ることでありその外なんの興味もないとなる
数を増やすことが即権力と金でも地位でも何でも結びつくからである

貴族社会というと反発されるがそれがすべて悪いものでもなかった
必ず社会にはいい面と悪い面が生まれる、だから貴族社会にもいい面があり悪い面がある
「ノブレス・オブリージュ」の核心は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理である。

貴族には戦争でも国を守るために率先して先陣に立った、イギリスの貴族とかそうであるもちろん貴族社会とか階級社会であり全部肯定はできない、でもその中にもいいものはあったということである
戦争だけでなく貴族とは指導的地位にあり国民に対しても責任をもたされていたのである

そして日本でも侍がいたというときその人達はやはり貴族であり重い責任を課せられていた、だから切腹して責任をとったというから厳しいのである、それで庶民は侍に成りたくなかったのである、ただ金持ちになるとかいい身分とかになるだけではなかったのであるその侍がいて明治維新は成功したのである、なぜなら明治に指導者になったのは侍がほとんどだったからである、ヨ−ロッパと違うのは侍自体貧しかったことである
でも侍としての教育を家庭とか藩で受けていたのでその自覚があり指導者となりえたとなる
なぜ明治にあれだけ創始者となり創業者となった人達が多い、やはり侍として教育されて教養があったからだともなる、それは知識だけではない文武両道とかあり人間としてモラル的にも何か芯があり指導者になりえた
だから明治が終わり大正となり昭和となると何か暗い時代になる、世界的情勢の変化があるにしても日本は暗黒時代に突入したのである、そして太平洋戦争で三百万人も死んだのである、その時侍などいなくなった、ただ侍のまねをしていただけなのである
ただそれは日本だけではないヨ−ロッパとかでも同じでありヒットラーのようなナチスが生れたのもやはり貴族というのがヨ−ロッパでもいなくなり大衆化したからだとなる
なぜならヒットラーは民主主義で生まれたのであり大衆から選ばれたものだからである
大衆の代表として生まれた者であり貴族とかではないしその自負もないし責任も持たなかったからである、これは日本だけではない世界全体でも起きたことである

●大衆は責任を持たないー日本に福祉がないのはパブリックなものが育ったなかったから

ともかく大衆化とは誰も責任など持たない社会である、要するに利益利権を得ることしかない、カルト教団でもそうである、そこに真の指導者はいない、教祖となるとヒットラーとたいして変わりないのである、そもそも大衆を指導する者は大衆に媚びるというか大衆のレベルに合わせなければならないから低俗化するのは当然だとなる
そうしなければ会員でも票も得られないからである
人間には何か必ずいい面と悪い面が生まれる、例えば長子を重んじて家を継がせることは不平等だとなり廃止された、でもそうなると誰も家に責任を持つ人がいなくなる
そんな家など古いとなってもやはり家を継続する者が責任者がいないことは大事なものが継承されないともなる、だから延々とつづいてきた伝統というのは何かそこに継承すべきものがあり知恵がある、それを全部否定して平等にしたのが問題なのである
結局誰も責任者もいない、大衆は利益利権を要求しても責任は持たないからである

徳川時代に武士が若死にしてもその未亡人や遺児を職場の雇い主である大名がめんどうをましみた例かない、みんな親類縁者に頼った
まして商家の丁稚、手代や地主の作男になると必ず親兄弟が身元引受人になり連れ帰ることになった

ヨ−ロッパの慣習では国王に仕えた騎士が死ぬと未亡人を保護した
男爵家で働いていた馬丁が死ぬと未亡人は国王が保護した
遺児は男爵家で育てなければならなかった
(現代を見る歴史―堺屋太一)

これもノブレス・オブリージュであり雇う方で責任が持たされていたのである
それだけの経済力がないとできないこともあった、日本でそれがなかったのは経済力がなかったからだともなる、でもヨ−ロッパでは確かにパブリックなものが発展した
日本の福祉はみんな家族で背負う、パブリックなものがないからそうなる
だから貴族社会でも侍社会でもそれをすべて不平等として否定することには問題がある
結局現代は大衆化してもう指導する者もいなくなった、ただ数だけですべてが決まるからである、そして大衆は責任を自覚もできないし持たないからである
そもそも侍なら責任を自覚させられて教育されるるが庶民はそんな教育などされないからである

要するに現代は大衆化して無責任社会になったのである、その指導者はただ数が決めるのでありその資質など問わないのである、だからそのレベルは大衆に合わせるのだから当然劣化するのである、そして大衆が力をもつとそれがナチスとか現代だとカルト教団とかになる、そこで一切高等なむずかしいことは言わない、大衆のレベルに合わせて御利益権力を得ることしか教えないのである、大衆に席巻されて価値ある尊いものは認められない
水平化されて何でも同じだとなる、大衆と同じレベルに劣化して価値ある尊ぶべきものは必ず卑しめられて水平化される、結局そうしてみんな劣化して俗化して同じだとなる
大衆は何か価値ある尊いものを重んじることはないからである

でもそれが逆に大衆にはねかえりカルト教団とかが跋扈して増殖して大衆化した宗教に苦しめられるともなる、つまり地の塩を失ったことが致命的なのである
第一地の塩といってもそれを大衆など認めないからである、みんな同じだというのが大衆だからである、それが逆に大衆にとってもいいものではないのである
誰も導くものはいない、ただ導く者は数を集めた人でありそれが大衆の代表者だからである、そもそもそんなに数を集めることが重要なことなのかとなる
でも選挙ではすべて数だからそうなるのである、そうしてもはや誰も導く者がなくヒットラーに導かれて大量に死ぬということにもなったのである

ただ誤解されやすいのが地の塩というとき特権階級でもない、金持ちでもないことがあるむしろ貧乏な人もいる、でも導く人にもなる、今のエリートはただ金持ちのことである
それでアメリカの富裕層に莫大な富が集中している、その人達は地の塩でもなんでもないただ世界から富を収奪する特権階級なのである、だから金持ちが地の塩でもないのであるでもすでに金持ちは責任がありその金を有効に使わないと金持の資格もないとなる
なぜなら金持つことが現代では一番の責任となっているからである
貴族もいない侍もいない真のエリートもいないとなれば金を多く持っている人が責任があるとなる、その責任を果たせない者は大衆からでも排斥されるとなる

2022年11月30日

冬の菊が似合うもの(葉牡丹、冬桜、冬薔薇) (磐長姫のことなど)


冬の菊が似合うもの(葉牡丹、冬桜、冬薔薇)

(磐長姫のことなど)

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冬桜農家の古りて石の蔵

世も変わる家新しく冬桜

この家に仕事場あれや冬の菊

細工する仕事やここに冬の菊

同じ道今日も行きにき冬の菊

冬の菊夫に仕え歳古りぬ

墓守る我が一人かな冬の菊

葉牡丹や磐長姫を想うかな


石ここに置いて幾年なじむかな葉牡丹植えて冬の日暮れぬ

冬の日に誰と逢うべし静かなる昔のことを語るもよしかな

冬の薔薇五六輪の蕾見ゆ咲きしを待ちぬ我が庭にあれ


俳句は写生だというとき一見何でもないようなものでもそこに俳句になるもの詩になるものがある
そこは農家なのか畑仕事をしている人がいる、だから納屋みたいなものがあり道具類が置いてある、そこに冬の菊が目立たないように咲いている
冬の菊というとき何か質素な夫に仕える妻のようにも見える
木工の仕事をするものも合っている

葉牡丹は岩長姫に似ている、見映えは良くないが体が丈夫で農作業などができる女性だとなる
庭の石は何かここになじむにも時間がかかる、何でも人でもそうだし時間をかけないと信頼関係は作れないのである、そして老人になるともうそうした時間がないのである
だからかえって死者が親しくなる、死者でも家族だったら長い時間を一緒に暮らしたからである
だからわからないのはら熟年離婚なのである、これも増えている、でも68歳とかで熟年離婚して親しい信頼関係が作れるのか、おそらくその人は元気だから不倫だったのかもしれない、その年でもそういう人は現代ではいる、ともかく元気な人は元気であり老化して弱る病気になる人もいるが今は元気な老人が結構多いのである
何か老人が若返り性欲も復活してそれで夫婦の仲が悪くなったという映画を見たことがある、その人はそういう人かもしれない、だから元気すぎることも困る面がある

人間は近くでも良く見ていないのである、灯台下暗しなのである
いづれにしろやはりそこに何らか暮らしが仕事が生業がないと自然でも活きてこないのである
だから空家が多くなるとき淋しいものとなる、その家は医者としてこの辺では常に話題になる人だった、でもその人のことを語る人もいないのが不思議なのである
それはその人とかかわった人も死んだことにもよるがこれも不思議だとなる
ただその人の残した家がありそこは空家化して庭には紅葉が映えている
でも地震で壊れた部分を屋根瓦など直していないから荒れてくる、一部は屋根瓦から草が伸びている、そしてその家の一人息子も死んだのである、その子供は東京にいるがこの家はただ放置されるだけなのかとなる
これももったいないと思う、ただそうして空家化しているのは原発避難区域だったら空家だらけであり空家の街にもなっている

とにかく誰か住んでくれとなる、でも人が移り住まないのである
小高だったら原町に住んでいる人が多い、浪江の人も住んでいる
この空家問題は大きな問題である、街の中でも空家が目立つのである
それが活かされていないのである、ただ持ち主がいて勝手にはできない
でもそうして放置されている家でも土地でも何かただ迷惑になるだけである
ただすぐ近くの街中の空家が数日かかって壊された、そこは空いた土地になる
そういう時隣の人が利用しやすいのである
土地を買う手に入れる時簡単にできないのはいろいろ事情があるのでできない
でも隣の人だと利用しやすいとなる、私の隣でも空家であり広い庭がある
だから庭を利用したいとなるか持ち主がいて事情があってできないとなる

原町へゆく高平の農家の庭が広く椿と冬桜が咲いていた、石の蔵もある
そこの家は古い、冬桜はいいものだと見た
やはり家でも庭でも人が住まないと活きてこないのである
空家一千万とかなるのも恐ろしいし温泉街が廃墟化したり日本が縮小してゆく時
空家や耕作放棄地が増大している、そのことが大きな問題なのである
全体に縮小寂れていく、その極端なものとして原発事故で町や村自体が廃墟のようになっていることなのである、これは回復できないように思う
一旦あれだけ荒廃するともう回復できないように見える
ただ老人だけが残ってどうしても復興できるように見えない、墓場のようになってゆくのかともみる、外国人でも住んでくれともなるかもしれない、なにかいい方法がないのである

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木花之佐久夜毘売とともに天孫邇邇芸命(ににぎ)の元に嫁ぐが、石長比売は醜かったことから父の元に送り返された。大山津見神はそれを怒り、「石長比売を差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜毘売を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからである」ことを教え、石長比売を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。

『日本書紀』には、妊娠した木花開耶姫を磐長姫が呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとしている。

また『古事記』において大山津見神の娘で、須佐之男命の子の八島士奴美神と結婚する、木花知流比売(このはなちるひめ)は石長比売の別名であるとする説もある。

この神話でも事実に基づいている、今でもそういうことがありうるからである
農家だと磐長姫のような女性を嫁にした方が仕事ができるからいいとなる
でも男性は美人の方を好むからこういう問題が起きたし今でも起きている
ここに大山津見神というのが出て来るがこれは郷土史の方で考察したようになぜか相馬地域に多いし他でも思った以上多いのである