2022年11月15日

北海道に新幹線は不必要 (新幹線より時速30kmのSLを北海道全域に導入すべきだった)


北海道に新幹線は不必要

(新幹線より時速30kmのSLを北海道全域に導入すべきだった)

●北海道の旅の記憶

列車好きって鈍行好きだよな
鉄道わからんでもそれくらいは知ってる

予約取れないほど人気だった寝台列車を廃線にして
1両1人しか乗ってない新幹線ができたんだぜ?

寝台列車いいかも
ここでしか乗れないみたいなのを北海道でやるなら寝台列車復でいいんじゃね?
SLとか豪華列車は走りまくってるし

広いすぎるから電車は不利なんだよね。
どこに行くにしても電車だと駅まで遠すぎるという。

北海道には十回くらい行っている、必ず仙台から船で苫小牧まで行ってまわった
苫小牧につくと空気まで違っていた、苫小牧は市になっていても工場などがあっても
広いのである、回りは原野なのである、苫小牧からすでに北海道の景色なのである
ルピナスとかの花が咲いていることは日本ではないからである
旅だと北海道なら船で行くと旅情がある、船で行き電車で旅するとなると鉄道ばかりの旅とは違ったものとなる、だから函館までの連絡船があったときは旅でも違ったものとなった、連絡船は日常的に使用するものであり観光だけではないから何かそこに人間の物語があったとなる

今海底を走る電車だとそうしたものを感じなくなる
要するに何か新しい技術ができて便利になっても必ず失うものがある
それはデジタル社会の落とし穴でも書いた
便利さ効率を追求してゆくとそこに人間的なものが失われてゆく
旅情も失われてゆく、鈍行から普通列車になり急行になり新幹線になる
その過程で失われたものがある、夜行列車は消失した、だから夜行列車は体験できないから体験したいという人も出て来る、寝台列車はやはり旅情があるからだ

北海道に新幹線がいらないというときビジネスとか日常の足としては使わないからである何か一両の電車が広大な荒野を走っているのは実用的ではないからである
そこでぽっぽ屋とかの高倉健の映画があった、ただノスタルジックなものとしてあった
ただそうして駅舎には人間的なもの情がにじんでいる場だったのである
北海道は観光列車がいいというときそれはまた違ったものになる
観光だけとなると何か生活感がないのでやはり鉄道も活きないとなるかもしれない
ただ観光列車とかしか活かせる道がなくなっているのである

●時代による時間感覚の相違

現代は時間の感覚が違っているしこれまでも時間の感覚が違っている、江戸時代と明治時代でも時間の感覚が違っているしそれから大正、昭和となり戦後の昭和となり時間の感覚が違うのである
それと距離感も違ってくる、第一江戸時代に参勤交代とかで江戸まで行くにどれだけの時間がかかっていたか、相馬からでも8日間かかるとしたら往復二週間もかかるのである
すると江戸とははるかに遠い世界でありそこに行けるのは一生のうち何度かとなる
また仕事で行くことも簡単にできない、そして手紙ですら飛脚が運んでくるのだからめったに便りもないのである
その時間感覚と距離感覚の相違が常に時代によってあった
その時代とは科学技術が人工的に作ったのである
時間か早くかんじたり遅く感じたりするがもともと時間はない、時間は人間によって環境によって作られてきたのである、それは明治以降時計が普及すれば時計で時間が計られるすると一分でも計られるから時間に追われるようになる
つまり人間は時計によって時間に追われるようになる、そのこと自体人間の感覚が変わってしまったのである

寺の鐘が時間をつげていたときは何かゴーンゴーンと野に鐘の音がひびきわたる
その感覚は時計で感じる感覚とはまるで違ったものでありそれは自然のリズムと合っていたのである、一分刻みの時間ではないからである

春の野にひびく鐘の音野良仕事

その鐘の音を聞いて時間を感じる、その感覚は今とはまるで違ったものになる
鐘の音は大地に山にゴーンとひびきわたる、それは自然と融合した音ともなる
江戸時代の時間の感覚は自然のリズムとともにあり悠長だった
そこに江戸時代の価値があった、そして暗くなれば電気もないのだから夜は早めに寝るほかないしそして朝は早く目覚めて仕事するとなる
自然のリズムに合わせて生活するほかなかったのである、だから朝廷というときでも朝に官吏が出勤するからそうなった、暗くなると仕事ができなくなるからである
だから仕事はたいがい大工とかでも午后の二時くらいでやめていたとかなる
それは自然のリズムにあわせて仕事する他ないからそうなった

おじいさんの古時計は歌で有名になったがやはり柱時計が昔は家にありそれが大きいし
時間の進み方が遅かったのである、振り子が動いていたのも何か機械が悠長に動いている感覚にもなっていたのである、電子時計になると人間的でなくなる
機械でも人間的なものがありそれが電子化するとなくなる
だから時間の感覚はそうした機械とか道具にも影響されるのである
デジタル表示の時計とアナログ表示の時計の時間の感覚は違う、時間の見方が違うのである、時間を距離的にも見ている、一時間後とか一時間前とかを見る、今の時間ではない
先の時間と過去の時間も見ているのである
だから時間の感覚は同じ一時間でもいろいろな条件で違ってくるのである
だからそもそも時間がないと書いたがそういうことなのである

停車場の柱時計を仰ぎつつ現(うつつ)なや朝のストーブの椅子に 牧水

これも駅に大きな時計があり仰ぐとまでなる、ストーブがあるとういこともなつかしいとなる、エアコンではないからストーブだとぽかぽかとあたたまる、その相違も大きいのである、それでわざわざ薪を燃料に使ったりするのは今になると贅沢である
でもストーブの方がエアコンり何か冬らしい感覚を味わうのである

●失われた旅情

旅というとき早いのがいいとはならない、目的地にできるだけ早く着くとしたら旅にはならない、だからこれだけ交通が便利になっても旅を経験している人は少ないのである
旅をしているのではない移動しているだけなのである
どれだけ早く目的地について後はうまい料理を食べたい休息したいとなる
途中を楽しむことがないのである、車社会ではそうなった、旅は道連れ世は情けもなくなった、車では人と人の出合いなどないからである
旅情もないのである、分去(わかれさり)という地名が残っているのはそこで旅人は分れ永遠に逢わないとなっていたからである
そこで別れを惜しむからである

分去旅人別る秋の暮

こんなふうになる、これが車だと感じないのである、つまり歩いて旅しない限り感じられないのである、この道は分かれてどこへ行くのだろうとかなり道は未知だったのである
それは自転車ではある程度感じる、私は阿武隈高地をそうして自転車で旅していて感じたからである,道は未知として延々とつづいているからである
でも現代ではその未知なる道の旅が失われた、それは車社会になると道はレールの上を走っている感じになる、決められたレールの上を走る道路なのである
そこに未知の感覚は失われる、鉄道にしても決められたレールの上を走るのであり歩いて道を旅するのとは違うのである
現代は何か未知の感覚が失われたのである、あらゆることで交通も発達して情報が氾濫して道の感覚が消失してしまったのである、あらゆるものが既知に なってしまったのである
いづれにしろ北海道は魅力がある、広いから鉄道で旅行するのも魅力がある
ただ現実問題として日常的に利用するのは不便なのである
駅まで遠いというのもわかる、北海道は広いからそうなる、そうでなくても駅まで遠いとか駅からの足がなくなったことも影響している

私でも原町、相馬市まで行くのに自転車だからである、何故ならイオンとか行くのに遠いからである、買い物も駅から遠いし用をたすのにも遠いからである
そこが鉄道の問題である、車だとどこにでも行けるとなるからだ、この利便性の差が大きすぎるのである、、ただ正直私は車は好きではない、そのことは延々と書いてきた
またバスでもあまり好きではない、鉄道には何か人間的なものがあり旅情がある
だから近くに確かに高速道路のSAはにぎわっていても何か人間的なものか感じない
駅で待つような人間的なものを感じないのである、駅だと人の出合い別れを演出した場所であり何か人間的なものがある、だからいろいろと語られるのである
人間の情がそこにのりうつっているからかとなる、ただ機能的な場所ではない、人間の悲しみ喜びが演出された場所だとなる、停車場という言葉でもそうである

ふるさとの なまりなつかし 停車場の ひとごみのなかに そをききにゆく 啄木

これもそうである、駅でボランティアのまねごとをしていたとき原発事故などで外部から来る人が多かった、そこでなまりを聞いてどこの人かと聞いたからである
なまりで国がわかるというのもそうである、なまりは本当にいろいろある、そのなまりが何かあたたかみがある、標準語とは違うのである、だから奇妙なのは故郷に帰って来た人が埼玉とか回ってその土地の訛りが自ずと身について複合した言葉をしゃべっていたのである、これも変なものだったのである

ともかくまず鉄道が活きていた時代は失われた、鉄道の駅と高速のSAを比べるとその相違は大きい、人の出入りが千倍も違うかもしれない、今は鉄道の駅は無人化したりして一人二人くらいしか待っていないとかある
高校生の通学では利用している、だから高校生の見守り役を市では雇ったのである
前は駅前通りとかあり駅が中心だったのである、だから駅前はにぎわっていたのである
でも高速のSAとなると街から離れていて街に来る人はまれである
ただ街から離れた場所で一時的に休む場所だとなり街の活性化にそれほどならないのである、まず街まで来る人はまれだからである
そして鉄道とは違って待つ時間もないからそこで何か見知らぬ人でも話すこともないのである、それは結局車というものが技術が人間社会を変えたということなのである
そこで必ず人間は確かに便利になっても失うものがある、得るものがあれば失うものがあったとなる

2022年11月16日

南相馬市市議会選挙―民主主義が機能しなくなっている (前回も投票率が60パーセントくらい―無駄な議員は減らすべき)


南相馬市市議会選挙―民主主義が機能しなくなっている

(前回も投票率が60パーセントくらい―無駄な議員は減らすべき)


●議員の不満が多いのはなぜかー議員自体も成り手がいない

「町政与党に所属しているだけで、意見も言わず一般質問もせず、ただ集票のみの存在だけの議員がいることが地元住民から『議員なんていらない』という考えがなくならない原因なのではと思うことが多々ある」

議員の私個人の考えではあるが首長がしっかりしておられるかたであれば議会不要と考える…都道府県議会も同様と考える。特に県議会議員は金儲けである。多くの歳費以外に月額30万もの政調費を支給されているのはおかしいと思う県会議員は月に50万預金できるらしい話はたくさんある。
最近の地方自治法は首長に権限が集中するべく方向に改正されていく傾向にあり、議会の権能が低下しており議会不要への方向となっていることも事実である。首長が決定した事項を議会が変えることはほぼ不可能であることも事実としてある」

自分の地域の利害で活動するのなら議員は不要、自治会長会で充分」

県議会議員の報酬活動費が高すぎる。普通市の市議会議員はその半分以下、生活ができない。働きざかりの人はなれない、ならない。質の低下がひどい。

「市民から見れば『議会で、何の話がされ、何が決まっているのかわからない』状態がある。実際まちを歩き、声を聞くと、『議会がなにをしているかわからない』という声は多い。


議員なんて、もうやめたい
〜地方議員2万人アンケート

「地方議員が中央政党の使いっ走り、出先機関になり下がっている。選挙のときには『市民の声を市政に反映させます』と約束しながら当選すれば『政党の都合』を『市民』よりも優先させる議員が多すぎて、そのために、地方議会の改革は大きく滞ってい

地方議員になるためには、地縁・血縁・カバンが最重要で、資質・行動力・実現力が軽視されている」

日本の政治家の数、主に地方議員の数は大幅に減らすべきです。

そしてその方法とは、都道府県の廃止と市町村の合併推進だと私は考えます。
この件についての詳しい話はいずれ書こうと思いますが、都道府県を廃止すれば都道府県知事と都道府県議員がいなくなり、市町村が合併されれば市町村長と市町村議員の数を減らすことができます。

2018年)の同市議選は、定数22に対し24人が立候補し、現職17人、新人5人が当選しました。党派別では共産2、公明1、無所属19で、女性は1人(党派は選挙時)。投票率は55.91%でした

南相馬市長選 門馬氏当選投票率63.75%




●地方議員が中央政党の使いっ走り、出先機関になり下がっている

地方議員の問題はいろいろあり常に言われてきた、そもそもが議員が何をしているのかさっぱりわからない、関心もないからでもあるが関心を持たされないこともあるし何か要望があっても議員を通して実現されることもあまりないだろう
ただ身近な問題が常にある、この辺ではゴミを投げる場所がなくて困っている
その場所さえ確保されれば市ではゴミ箱を設置できるとしている
でもこれもなかなか私人ではむずかしいのである
回りと交渉しなければならないし合意しないとできないし誰かの所有の土地だからできない、つまり強制力がないのである
また回りでも烏につつかれたりしてゴミが散らばったりした、それを私はかたづけたりした、でも回りでもそもそせ関心がないのである
この関心がないことが結局民主主義を発展させないのである
何か個々人でも損害を受けるとかならないと関心がないのである
ただ介護とか病気になると切実な関心を持つようになる
でも議員に相談する人は少ないだろう、何かしてくれるわけでもないだろう
でも共産党とか公明党だと生活保護を優先的に市の方に働きかけてとれるとかはある

地方議員が中央政党の使いっ走り、出先機関になり下がっている。選挙のときには『市民の声を市政に反映させます』と約束しながら当選すれば『政党の都合』を『市民』よりも優先させる議員が多すぎる

共産党とか公明党は強固に国政にかかわり地方議員でも党勢を拡大して国政に国家権力にかかわることで運動している、公明党はそれより地方議員でも仏法の戦いとして位置付けていて政教一致の戦いとして地方議員を確保する
だからこういう党は地域としてはふさわしくないのである
地方地域になるとそれより日々の生活の中での要望を斡旋する仲介することが主な仕事になるからである
でも底辺層になると頼る人がいないので頼るのである

何かわからなかったが創価とかなると市会議員に家族がなって今度は中央の本部に就職した人がいる、その人は家族ぐるみで一体化して国政にかかわる、、政教一致にもなる
地方議員もその駒として働くとなる、確実に公明党と共産党は地方議員でも国政が主体であり地方議員はそのためにある、党勢拡大とか公明党になると宗教とも一体化した政教一致であり会員を増やす手段としてある
公明党とか共産党の最終目的は権力奪取だからである
創価だと仏教による革命であり、共産党になると共産主義の革命であり権力を得るために運動しているのである
でも地方議員となるとそうした国政にかかわることではなく、地域地域の問題に要望を聞いてそれを解決することにある、その一つはゴミの処理問題だったりするのである

驚いたのは全国の衆議院参議院選挙でも投票率が50パーセントくらいであり市会議員となればもっと身近だから高いと思った
でもは60パーセントくらいしかないのである、こんなに低かったのかと驚きである
何か地域でも関心がなくなっているのは何か要望があっても聞いてももらえないし何にもしてくれない解決してくれないとかあきらめているからである
私自身も投票する候補者がいないとなる
つまり議員とは頼りにならない存在なのである、ただ金だけを税金でとられるとなっている、でも逆に町村になると報酬が少なくてやっていけないと議員になる人が減っている
そもそも議員に仕事として魅力を感じなくなっている

●議員の成り手がいない、議員に魅力が感じられない

仕事というとき何でも達成感があると生きがいになるやる気がでてくる
それは別に報酬がなくてもそうなのである、だから議員でももともとは金持ちがボランティアとして名誉職としてしていたのである、金の報酬はなかったのである
かえって選挙運動すると金がかかっていたのである
だから実はそういう人こそかえって向いていたともなる
なぜなら金をもらえるとなると必ず金に注目する、すると本来の目的とは違ったものとして仕事することにもなる
それは芸術家でも金のために絵を描いたり何か詩でも書いたり物を作るとなると金が欲しいとういことが優先されるとかえっていいものはできないのである
金によって惑わされ本来の目的からはずれてしまうのである
私は金が欲しいために議員になりかいとかなったらおかしいのである

宗教となると金をもらうためにお布施をもらうために僧になりたいとか牧師になりたいとなったりしたらおかしいのである
でも現実はそうなっている場合がある、だから常に金によって人間は歪められるのである
そうは言っても現実に議員になりたくない人が多いというとき何か議員の仕事に生きがいを感じないからそうなる、何か達成感がない、芸術家だったら別に金にならなくてもいいものを作ろうと懸命になる、職人でもそうである、それが生きがいとなる
ただ民主主義の基礎として地方議会とか地方議員がいるとしてそこは草の根民主主義になるから重要だともなる
でも現実にはそうなっていないから投票する人も議員自体もやる気がなくなっている
実際に権限があり決めているのは市町長村長だというときそうである
議員自体で何か権限があって決められることがないからそうなる
でも原発とかなると市民であれ重大なことだった、でもそのことでどんな議論をしていたのか議員がどんな発言をしていたのかその時はやはり関心がなかった
それよりもう市民でも町民でも原発に反対する人などいないのだからそんなことをすることもなっかともなる

だから新潟県の巻町で町民が議論して反対して原発を拒否したことは稀有なことだったのである、その時新潟日報とかも反対して協力していたのである
何か重大なことが地域である、命にかかわることがある、だからその時議会とかが必要でありそこで議論する、それが民主主義だとなる
でも議員は権限がないから国ー県ー市町村となりただ国の命令に従うだけだったとなる
まともに議論すらしていないのである、そして福島県では福島民報でも県で株を50%を持っているとかなり県の広報機関だったのである
そうして原発は素人だとわかりにくい、専門家の言うことに反論できないから安全神話が作られて誰も事故など起きないと思うようになったのである
でも巻町のように町民で議論して新聞社でも応援して止めることができたのである
そこでは民主主義が機能していたとなる
民主主義とは過程にあり完成することはない、国民でも市民でも民主主義を促進していかなければ民主主義自体が崩壊する、それはアメリカでも民主主義の危機になっているから日本でもそうなる

●広域化する社会に対応ー飯館村は南相馬市と合併するべき

日本の政治家の数、主に地方議員の数は大幅に減らすべきです。

そしてその方法とは、都道府県の廃止と市町村の合併推進だと私は考えます。
この件についての詳しい話はいずれ書こうと思いますが、都道府県を廃止すれば都道府県知事と都道府県議員がいなくなり、市町村が合併されれば市町村長と市町村議員の数を減らすことができます。

これは飯館村の選挙で議員に立候補した人に聞いたりしたら応援している人がよそ者はかかわるなとか言われた、つまり議員というのはおらが村とかおらが町とかだけになる
でも今回の原発事故で飯館村から放射性物質のフレコンバッグが破れて放射性物質が流れ出した、それは南相馬市と川で結びついているし土地が結びついているのだから村意外のよそ者がかかわるなとはならないのである
でも別に一票がないのだから相手にされないとなっていたのである
ここでいかに地元であれば一票持つことか重要なことがわかったのである
もし一票をもっていればこんな扱いにはならなかったからである
それは浪江町とか双葉町から避難した人々に言える、南相馬市に移住しても選挙権がないのだから何か要求する権利もないとなる
でも小高の人が避難してきたとき鹿島区に住んでいる議員が応援していたのである
南相馬市と合併したからそうなったのである、一票の権利を持っているからである

議員がいらないというとき多いというときやはり現代は広域社会になっているからそうなる、もう昔の村のような狭い範囲で生活していないからである
広域化グロ−バル化もしているから議会でもそうならざるをえないのである
おらが村の町の感覚では成り立っていない社会だからである

飯館村ももう南相馬市と合併するべきだ!

今やもうそうならざるをえないのではないか、とても飯館村だけはもう成り立たないのである、財政的にもそうでありもう飯館村自体が消滅する危機にもなっいるからである
もう飯館村の議員はなくして南相馬市の議員とする、そして議員を減らすのである
もともと飯館村は鹿島の屋形で鎌倉から移り住んだ岩松氏が支配していた
だから相馬藩内でもあり歴史的地理的一体感があるから違和感がないからである
そしてもう議員に払う金も自治体にはなくなる、それで消滅する自治体のことが常に語られているのである、それでどうしても広域的に合併せざるをえないのである
つまりもう税金の無駄はできない、コンパクトに縮小化する社会になるからである
今までのような無駄な金は使えないのである
だから少数精鋭で自治体も議員でも運営する他ないのである


posted by 天華 at 16:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年11月18日

冬の空家の庭ー(紅葉、残る菊、山茶花、冬薔薇 、残る菊)


冬の空家の庭ー(紅葉、残る菊、山茶花、冬薔薇 、残る菊)

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右田浜の津浪で家が流されても庭だけは残った
石は重いから流されず残ったとなる
でも石すら流されてなくなったのである
それで庭の石が利用されず積まれたままになっている所がある


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石黙し紅葉の赤さまして映ゆ

滝ひびき紅葉の赤く朝の山

冬の日や田舎に寡黙石の庭

田舎なれ墓地の目立ちて枯野かな

冬の日や平板な石に亀二つ


白鳥の五六羽朝に鳴きにけ連なりにつつ雁も飛びゆく

冬の雁朝群れ飛ぶや海の面の光り反射しまぶしかりけり

我が庭に冬の薔薇咲くいとしみつ晩年過ごしぬ

我が庭に葉牡丹植えぬ紫と白や冬日さす石のかたへに

落ち着きて寄り合う石に残る菊冬の日さして晩年過ごす

街中の空家の庭に残る通りなれども活かされじかも

山茶花の咲きて石重く残りにしも人住まぬ庭我が見ゆるかも

残る柿なお我が家に生きなむや近く住む人の余命を思ふ


空家が増えるのも問題である、空家が活かされない、空家より価値あるのは庭だったようにも見える、私の場合に石に興味があるからそうなる
空家は壊されても津波で家が流されても庭の石が残っている、ただその石もただ積まれていて利用されないのももったいないとも見る
ただ庭は広い土地が必要だからなかなか利用しにくいのである

今年は白鳥はここでは四五羽しか来ていないのも淋しい、白鳥は一度来た所にもどってくるというがなぜ今年はこんなに少ないのか去年は数が多かった、それで飛んでいるのが気持ち良かった、今年は飛んでいるのも見ないから淋しいとなる

なんか急に寒くなった、冬になった、石は沈黙している、そうして田舎でじっとして寡黙に過ごしているのがいいとなる、それが自分の性分にあっているのである
近くの知っている人は糖尿病であり寿命も短いだろう、でも糖尿病も簡単には死なない
家に来ていた人も脳梗塞になったがこれも簡単には死なない
知っている人で脳梗塞になった人を5人くらい知っている
そういう人は夫を十年介護したとかいうのが普通なのである
この介護の期間が長いことが苦しくなるのである、最低でも5年はかかるからである

とにかく冬らしくなった、紅葉も盛り終えつつある、霊山の方に行こうとしたが疲れて行けない、やはり疲れやすくなったのである、自転車だと遠すぎるとなる
近くでもっと紅葉を見たいと思う、何か老人になると意外と近くが大事になる
介護するにしても近くでないと不便になる、それが隣の市でも8キロでも10数キロでも車だと近いようだが遠いのである、手間なのである
たから老人は近くで動かない石のように共にいることが合っているとなる
ただ問題はいろいろと合わないことがありもめることである
昔の村のように長く一緒に共同して暮らしていた人はうまくゆくが今だとそういうことがないからうまく付き合えないのである

ただ正直老人になるとどうしても出不精になり家にこもるとなる、だから庭とかがあり花とか石を見ているのが合うようになる
脳梗塞でも家にじっとしているにしても庭があるとその庭の花とか石を見たりまた多少庭の手入れなどしていれば気がまぎれるとなる、そのくらいは動けるとなるからいいのである


2022年11月19日

塩手山の登山口に咲いていた冬桜(晩菊、冬の灯、冬の星、残る柿)


塩手山の登山口に咲いていた冬桜(晩菊、冬の灯、冬の星、残る柿)

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ここは家の前の畑である、田から仕事しやすいのである

塩手屋山の麓

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冬桜が二本

クリック拡大

今田の古い道

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安永だから古い

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滝平の滝は紅葉が赤ければ良かった
紅葉は季節が終わっていた

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一つの根に三本の木が生えている

玉野村へゆく宇多川の上流



飯館村の佐須

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ここは何を祀っているのか
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享和と見える

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飯館村の前田

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真野川の隠れた大石



牛のいてこちらを見るや残る柿

晩菊や前畑に仕事老婆かな

冬の日や安永の碑古き道

冬の日や古き碑残り松一本

二本の山里に根付く冬桜

冬桜佐藤氏の末二軒かな

塩手山佐藤家二軒冬の暮

根の一つ三本の木や冬の暮

冬の灯や木戸木(ことぎ)にあわれ三軒ほど

石一つ隠され知りぬ冬の星


古き碑の昔の道に並びつつ松一本や冬の日暮れぬ

土壁の蔵に冬日さし映えにけり残る柿あまたこの家の古りぬ

幽かにも冬の林に鳥の声ひびきてあわれ一軒の家あり

山そそり巌にひびく滝の音秋の朝日の頂にさしぬ

境なれ玉野そあわれ冬の日や若木神社をたずねけるかな

霊山をたずねれば紅葉終わりしと南朝亡ぶ我が帰るかな

辛うじて享和と読める佐須村の碑の古りあわれ冬の日暮れぬ


相馬市の塩手山の方をまわり霊山に行きそれから飯館村の佐須村により草野の方に行った距離的には10時半頃を家を出て回ったがそれほどではなかった
ただ日が早く暮れるので急いだ、でも帰りは真っ暗になっていた
そして残念だったことは紅葉は終わっていた、霊山でも終わっていた
紅葉の期間も短い、たいがいもう散っている
紅葉は山より庭とかに真っ赤になっている、やはり真っ赤だと紅葉らしいとなる

ここで一番の見物は塩手山の登山口に咲いていた冬桜である
これは意外だった、こんな所に咲いているのかと不思議だった
確かに農家の庭に冬桜が咲いていたのを見たことがある、でもあそこは山の方であり
冬桜が咲いているので心にしみるともなる、ただあそこが村という感覚はない
家が少ないからである、今は山里でもそこから街に勤めのために通っている人が多いからだ、現代では本当の山村というのはなくなっているかもしれない
自給自足の山村は消滅しつつあるのかもしれない、限界集落となっているからだ
塩手山には二軒佐藤家がある、その佐藤家は佐藤庄司などがいて義経に使えた武士でありその墓がが医王寺にありそこから移住してきた人の子孫だとなる
佐藤家にもいろいろあるがここの由来はそうなる、磯部に住んでいた佐藤氏はその系統であり鬼越館に移った佐藤氏である

義経が挙兵した頼朝のもとへ駆けつける際に従い、目覚ましい活躍を遂げた佐藤継信・忠信兄弟。しかし、継信は屋島の戦いで、忠信は京都で、それぞれ義経の身代わりになって壮絶な最期を遂げています。この佐藤継信・忠信兄弟の墓をはじめ、佐藤一族の墓が並ぶ医王寺。武蔵坊弁慶の笈(おい)が納められ、松尾芭蕉の句碑も立っています。(福島市飯坂)

こうして福島市でも浜通りでも歴史としてつながっている、身近だと歴史をたどることができる、でも高速道路は確かに早くていいのだが用事があるときはいいのだが旅するには向いていないのである、途中に必ず古跡とかがあるからだ
南相馬市の鹿島区には50人くらいなのか只野の姓がある、これは郡山の多田野村から出た姓なのである、霊山が炎上して逃れた落武者の末裔だったのである

宇多川の形がいい大きな石は工事があり土に埋まっていた、それも残念だった
あの石は博物館とかに置けばいいようにも思えた
それから玉野村近くにまた山ごとソーラーパネルにする工事をしていた
どうしても山は仕事がないからそうなる
特に福島まで中央道が直通したとき前の道は旧道となり車が通らない
だから霊山の紅彩館まで影響したという、途中に寄らなくても行けるとなるからだろう
でもソフト屋は繁盛しているように見えた、あれはうまいから寄る人がいると見えた
旧道はサイクリング道路としては最適である、でもそれでは地域に何かうまみがない
だから店でも食堂でもやめたのである
とにかく車社会というとき車の影響が大きいのである
シャッター通りになったのも車の影響があるからだ

2022年11月20日

引きこもりが全国で110万人もいる問題 (内向型の生き方戦略ー中村あやえもんを読む)


引きこもりが全国で110万人もいる問題

(内向型の生き方戦略ー中村あやえもんを読む)

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内向的な人は傷つきやすい、ささいなことでも傷つきやすい
敏感でありセンセティプなのである
だから人間を相手より自然を山でも石でも木でも花でも相手にするのが向いている
私がそうだったからである、そうして詩を書いてきたからである

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境地開拓派というのは造語であり面白い
芸術であればその人なりのものを作ることである
評論家でもその人なりの見方で批評する
境地開拓があり一様ではない
でも社会維持派はみんな一様のものとして扱い見てしまうのである




人付き合い よりも 好奇心 を 重視 する こと で 成果 を 出せ て、 人脈 よりも 工夫 で 新しい もの を 作り、 大勢 で いる よりも 一人 で いる こと で 思考 する エネルギー を 得 られ て、 より 完璧 を 目指す こと で 良質 な もの を 作れる の です。

境地 とは、 言葉 通り「 社会 から 少し 離れ た、 同種 が い ない 場所」 になり ます。

中村あやえもん. 内向型の生き方戦略―「社会から出て、境地を開拓する」という生き方

そもそも 人間 社会 において の「 普通」 とは、 社会 維持 型 の 性質 を 指し ます。 人間 は 社会 維持 型 が 八 割、 境地 開拓 型 が 二 割 という 比率 なので、 社会 維持 型 の 度合い が 強い ほど、 普通 の 人 だ と 判定 さ れ ます。

中村あやえもん. 内向型の生き方戦略―「社会から出て、境地を開拓する」という生き方
すなわち、 いきなり 全員 に ベーシックインカム を 与える よりも、 境地 開拓 型 に のみ ベーシックインカム を 与える 方 が 有効 だ と 分かり ます。 もちろん それでは 社会 維持 型 に対して 不公平 感 を 持た せる こと

私 は ゲーム の 制作 監督 を し て い た こと も あり、 作家 や シナリオライター、 絵描き や 漫画家、 音楽家、 声優 さん など、 いろいろ な クリエイター さん と 接する 機会 が あり まし た。 彼ら の 悩み はと いう と、 たいてい が「 普通 の 人 の よう には 生き られ ない」 という こと でし た。 だから 彼ら は みな、「 自分 にとって 好き な こと で 収益 を 上げ て、 生き られる よう に」 と、 自分 独自 の 生き方 を 模索 し て い まし た。 そして 世の中 を 見 て みる と、 クリエイター だけで なく、 内向 的 な 人 ほど この よう な 悩み を 持っ て いる こと に 気がつき まし た。




●社会維持派協調派が多数だと若い時は従う他ない

引きこもりは社会にとって深刻な問題かもしれない、それは数が多いということが社会に影響するからである、もともと内向型でアウトサイダー的な人間はいた
その人達は極めて数が少ないのである、10万人なのか百万人に一人なのかそういうレベルでありその人達は今の引きこもりとも違う、でも似ているのである
何か天才と狂気は紙一重というけどこの引きこもりもそうである、引きこもりは天才でなくても狂気にもなりやすいのである
社会からはずれることは実際は常人にはできないことだからそうなっている
ただ社会から外れて成功者になった例をあげてもそれと今の引きこもりは違っているように見える

ただ社会維持する性格の人が八割で内向型の境地開拓の人が二割というのはそうなのかもしれない、ということは社会維持派の人達が社会では圧倒的に多いとなるのか?

そのことは何を意味しているのか?

もしかしたらその人達は型にはまった集団行動することを好む、それで現代になってナチスとかカルト教団が生まれたのかもしれない、ナチスがその典型である
社会維持派の人達はこうした集団示威行動を好み社会維持するためにそうなるのだとしている
確かにカルト教団はそういう場である、創価でも統一教会でも似ている
集団で気勢を上げていたからである、同一行動になりその目的は権力奪取だった
統一教会でも映像でやはり同じようにみんなでエッエッオーと気勢を上げていたから似ていると思った

でも不思議なのはそもそも宗教というと内面を追及するものであり本来はそうして集団で示威行動するようなことない世界だった
ただ一向宗とかの念仏とか日蓮宗の題目とかは集団で示威行動するから宗教でも違っている、宗教でもイスラム教であり何であれ集団示威行動をする
つまり哲学とかなるとそれぞれに違ったものとして考えるものとしてある
でも宗教はかえってハイルヒットラーのようになりやすいのである
その奥深い内面を追及するものではなくみんな同じ行動をして一体感を持つのである
それが神道でもあり天皇崇拝で日本人を一体化して戦争になり3百万人も死んだのであるナチスでもそうである、それはこの本で言う社会維持派がこの世では外国でも八割いるということから起きてきたことなのか?
その辺の理由はわからないにしても社会は総じて社会維持派が作る、それに適応できないのが内向的性格だという
境地開拓の性格の人だという指摘は興味深い

ただ人間をいろいろに分類する、血液型とかでも人種でも内向型でも外向型でも理系と文系とかでも分類する、それは確かにありどうしても文系となると理系を理解しにくいように社会維持から見ると内向型の人を理解しにくいのである
それは犬と猫の相違でもある、犬は外向型であり何か隠すものがない、全面的に主人に従うのである、でも猫は何を考えているのかわからない、愛想もない、主人に従うより従わせるとまでなる、何か神秘的であり何を考えているのかわからないとなる
だから社会維持派にすると不可解ものとなる
猫はマイペースであり何か愛想良くしたりしないのである
だから犬好きがいて猫好きがいるとき猫を好きな人は内向的性格なのかとなる

●110万人も引きこもりがいるというときみんな境地開拓派として成功はしない

ともかくなぜ引きこもりが110万人もいるのか、それは東京でも地方でも田舎でも同じなのである、必ずそういう人を見かける、仕事をしていないのである
田舎でも昼間で仕事をしていないとそういう人に逢うのである
だからこの数に納得する、私の場合は時代的にみんな社会維持派として団塊の世代から企業戦士となった、私のように引きこもりになった人は本当にまれである
だからそんな人がいたのかとなり無関心である
でも今これだけ数が多いという時社会問題になったのである
だから私の場合は別に天才でもないが大学出てから好きなことをしてきた、好きなものを追及してきたのである

ただそうして境地開拓派というときそれは天才的な人であり業績も残している
でも110万人も引きこもりがいるというときその人達と同一には扱いないだろう
では110万人がそういうまれな天才になるのかとなるとそうは見えない
ただ社会の脱落者にしか見えないのである、アウトサイダーは社会の脱落者でもないのである、社会に反発した天才であり英雄ともなっていたからである
とてもそういう人に普通の人ではいくら境地開拓派でもなれないのである
ただそういう人達から天才が生れのかとかはわからないにしてももしその人達の極わずかでも自分の才能を発揮する人がでてくるかもしれない、なぜなら110万人もいたらその極わずかでも百人でも才能を発揮する人がいたら社会にとって有益だとなるからだ
でも大多数は社会の脱落者、落後者として終わるともなる

そして人間は20代で30歳までにその将来は決まる

これが怖いのである、引きこもりなどたいしたことがないとしている、時間など無限にある、暇で暇でしょうがいなとなっていた
ところが時間はあっというまに過ぎる、30過ぎると女性でも婚期を失うというとき美貌も失うからである、そして35歳以降は余生だとう言う人もいる
それだけ時間が過ぎるのが早いのである、そして40才になると白髪映えてくる
つまり40才で初老ともなり老人の入り口になっていたのである
だからみんな後になって人生はこんなに短いものかと驚いているし意外だったのである
そして怖いのは20代で引きこもりになっていると一生引きこもりになるということにもなる

なぜなら20代で人生の方向が決まるからである、これが怖いことだったのである
20代でカルト教団に入って抜けられなかったら一生カルトで終わるとなる
北朝鮮に飛行機をハイジャックして逃れた赤軍の若者はそのまま北朝鮮で一生終わるとまでなっていた、でも日本に帰りたいとなって帰って来た人たちもいる
でもその一生は北朝鮮でスパイのようなものにされて終わったのである
方向がそこで決定したのである、だから20代で人生の方向が決定することが怖いのである、そして人生はやり直すことができないのである
人生は長いのだから失敗してもいいとか方向はいつでも変えられるとかならないのであるそんな時間が人生にないのである、ただ人生百年時代になると時間のゆとりができているからその成果は60でも70以降でも出せる時代である、だからあせることはない
でも方向は20代で決まってしまうことが怖いのである
だから若き時神を知れと言うのは重要なことなのである

なぜなら20代を過ぎたら神を知ることができない!

20代はいろいろなことが起きやすい、波乱の時でありまた様々な欲望があふれだす時代でもありそこに翻弄されてあっというまに過ぎるからである
私の場合は父親が中学の時死んだので死ぬことをその時からなぜなのかということが一番の問題だったのである、そのために宗教団体に入ったのである
でも創価などは宗教などと何の関係もない団体である、だからそんなところに宗教を求めるのは正反対の場所だったのである、宗教の看板にしても暴力団だったということと変わりないのである
集団化して組織化している場は境地開拓派の内向的人とは無縁の場所だったのである
ただ社会維持派には向いているからあれだけ人が集まっているとなる
ただそれは宗教とは全く関係ない場所である

●自分自身を知れー内向的境地開拓派の生き方

いづれにしろ人間は生まれつき性格があり向き不向きがある、すると不向きなことをさせられたりすることは不幸である、いくら収入があったとしても不幸になる
だから医者の子は医者を継ぐとか強制されると不幸になる、例え医者になっても不幸である、そもそも自分に合わないことをしても幸福にはなれない、だから自分がどういうことに向いて知りそれにあったことをして究めることが大事になる
ただ人間に与えられた時間が短すぎるのである、老人になって必ず後悔しているのはそのためである、そして最後はいくら後悔しても何かする時間を消失している
時間を戻すことができないことがどうにもならないことなのである
だから本当にもう一回人生をやり直せればみんな失敗しなし後悔しないのである
老人になるとそのことが痛いほどわかるようになる、でも後悔先にたたずになり人生は
終わる、

ともかく内向的性格の人は社会維持派は8割と多いなかで二割となってることは生きることは苦しくむずかしくなる、だから学校にもなじめない、学校からして社会を維持するために基本的には作られているからである
それでこの本で教育でも自由教育を取り入れたが失敗したのは多数が社会維持派だからでありそういう人は自由に勉強して個性を出せといってもできないから失敗したとしているただ確かなことは内向的な人は社会維持派が多数の中で生きることがむずかしい
それを自覚して向いていることに精進することが大事である
社会維持派だとはみんなで調子を合わせて盛り上がる、大勢で集まり盛り上がる、そこで集団的に一体感を感じる、それでなぜカルト教団がいろいろ言われても増えるのかわかるこの世の中社会維持派が多数だからである
そのためにカルト教団とかナチスが社会を席巻してしまったのかとも見る
内面的なものを追及する境地開拓派だったらそうはならなかったとも見る
ただそう簡単に人間を分類はできないからわからない、ただ社会維持派は集団で盛り上がる、何か内向的な人はうじうじしてなぜ集団に溶け込まないのかとなる

でも不思議なのはそもそも宗教とは内面の追求だとするとき、一人座禅を組んで瞑想とかしているのは社会維持派には不似合いである、でも世界でなぜこれほど宗教が普及しているのか、これも不思議である、内向的な人の割合が二割くらいだとしたら集団的に盛り上がる宗教も社会維持派の宗教になったのかとなる
ただハイルヒットラーとみんな叫んでいれば仲間だとなり社会維持派の人達がそういうふうになり安かったのかとなる
そもそも外向的とか内向的であれ人間はそもそも集団で自然の中に生きてきたのだから防衛してきたのだから社会維持派が多数になっていることはわかる
我(われ)とは割れるから来ているからである、我という言葉はなかった
集団から割れて個人となったからである、人間に個はなく部族とか集団が一体化して生活していた、だから部族では顔まで似ているとなる

とにかくなぜこんなに引きこもりが現代でいるのか?

その原因が人間の性格がありその性格に合った仕事とか与えられない、内向的な人は内面的な追求に芸術とか学問とか何か新しい境地を開拓することに向いている、そして新しいことを発明した人達がその見本だとなる、でもそうした天才と言われる人の数は極めて少ないのである
その人達を目指せとかなるとそのハードルは相当に高くなる
結局は社会からはずれたもの、落伍者になる
そもそも110万人も引きこもりがいることはやはり異常である
それができているのはやはり経済的にも恵まれて働かなくても食べていけるからそういう人達がこんなにいるよちうになったのである
これも現代の社会状況から生まれたものだとなる
ただ内向的な人は良く自分のことを知っておく必要がある
なぜなら社会維持派が多数の社会でありそこで自分の居場所とか適合することがむずかしいからである
小学校であれ幼稚園からでも人間は集団行動を強いられるからである
内向的な人はそういう場からしてなじめないとなる
でもやはり社会人になるための訓練として社会維持派の中で生きるためにそうしているのである、それはやむをえないとはなる

●境地開拓派はそれれにふさわしい環境が与えられれば伸びる

でも境地開拓派は子供の時から好きなことを見つけて開発していけばやはりそれなりのもの専門家になる度合いが強い、ただ社会維持派と同調して歩調を合わせるのが苦手だからである、でも好きなことを見つけると夢中になりまさに境地開拓になる
独特のその人なりの世界を作り上げることができる、だからその人がどういう性格なのかを見極めて生きることが必要になる、でも社会維持派が多数なのだからそれがむずかしいのである
私自身は内向的であり境地開拓派の性格なのだけど実際は集団に社会維持派に適合しようとしていたのである、それはみんな自ずとそうなる
先生であれ学校で境地開拓派になり独自の世界を作れ発見しろなど教えないしそういう教育などないからである
学校ではなかなか個性的な教育はない、社会維持派に合わせる教育になるのである
だからなぜカルト教団がこれほど批判されていても多いのかとなる、それは社会維持派が多数だから多いのである、本当は内面志向が境地開拓派が宗教のなだけど社会維持派が多数だから宗教でもそうなったのである

私は別に人と接することが嫌でも少人数とか一対一の対話は好むのである
だから初めて逢った人で会話はしている、その人がどんな人生を送ったとかどんな人間なのか何に興味があるのかととか個人的に見るのである
大勢の人を相手にするのは苦手なのである、でも社会維持派となるとぐずぐず言わないで俺についてこいとかなる、何か理屈をこねるのを嫌うのである
だから警察と自衛隊とか建築土木現場とかの仕事は社会維持派が多いとなる
やはり集団的組織的に仕事をして一つの建物でも完成させることだからである
そのために協力一致しなければやれないからそうなる
だから体育系がいいとなる、命令に従う人がいいとなる、やはり社会では社会維持派が多数たからそうなる、軍隊なども上意下達であるからだ
そういう場所が内向的な人が苦手だというときなかなか合った仕事は与えられないのである、引きこもりの人がクリエターになりたいという時そうである
芸術だと独自の世界を作ることになるからそうなる、ただクリエターというとき恰好いいけど金にならないこともあり非常に社会ではそれで生活が成り立つこともむずかしい
だから何か家族とかの応援とか理解者がいるといいがそれはまれだとなる
ただそれでも引きこもりがそもそもこれだけの数がいることは親が容認していることは今までとは違っている、まず昔なら食べなければならないのだからそんなことできないからである、強制的に嫌でも働かざるをえないのである

内向的な人が陰の性格な人が全く引きこもりがいいわけではない、誰か理解ある人と少人数なら話すのである、私は人の話を個人的に聞く、そして相手を知る、老人だとその人が生きた人生を知り理解する、対話するのは好きなのである
ただ大勢を相手にして演説するとかは苦手なのである
何か一対一でその人のことを深く理解する、ソクラテスも対話から相手のことを知った
対話することがやはり人間は相手を理解する、大勢だと理解できないのである
でも社会維持派はそうして大勢で同一化して一体化することで興奮するのである
それが極端になるとナチスのようになるのである
そこに大きな危険がひそんでいたのである、だから戦争でも社会維持派は大イベントともなり興奮して戦うともなる、そういう時こそ最大に人間は団結して一体化するからである内向的な人は境地開拓派はそういうものに向かなくてもそういう時代があり適合せざるをえなかったとなる

●内面を追及する宗教とか哲学とか芸術の時代になり境地開拓派が主役にもなる

でも現代は戦争は確かにウクライナとかであるけど全般的には戦争は拒否される時代である、グロ−バル化というのもコロナウィルスとかで縮小してゆく
外延的に拡大化したのが現代である、でもそれも区切りが来たのかと見る
何か内面化する内省化する時代になっている、だから中世時代に戻るという人もいた
閉鎖的なある意味で引きこもりの時代になってゆくように見える
だから人間は必ず時代の影響を受ける、高度成長時代は社会維持派社会強調派が全面に出た時代である、経済も成長して企業戦士となりがむしゃらに働きぐいぐいと引っ張る人が指導者となったのである
そんな時代はとても引きこもりは向いていないし、そもそもいなかったのである
みんながむしゃらに働き高度成長時代を築いたからである
だからその時引きこもりになっていた人は本当にまれである
私は偶然家族に恵まれて引きこもりになっていたのである
そこで自分の好きなことを探求して来たのである、その時代そんな人は誰も知らない
引きこもりという言葉すらない、ただの変人になっていたのである

だから引きこもりが問題になっているが意外とこれからはそうした人達が主役になるかもしれない、高度成長時代とか戦争とかなるとどうしても社会維持派とか社会協調派が主役になる、でも社会が成熟してくると平和がつづくと内向的な人が境地開拓派が小数でも主役になるかもしれない、ただそれでもその中で目立つのはわずかだとはなる
百万人も引きこもりがいて何かそれで社会に貢献する人はわずかだとなる
だから引きもりがこれほどいるということが問題になる
社会維持派は協調派が多数の中でそういう人を寛容に見ていられるかとなるからだ
だから親と対立して殺人まで起きている、親が何しているのかわからないので不安になる実際親が死んだ時引きこもりは地獄になるからだ

この本は見方としては面白いと思った、ただ全部があてはまることはない、ただ内向的な人が境地開拓派として新語を作りだしたのは興味深い、天才は新しい言葉を作るからである、いづれにしろ高度成長時代から低成長時代とか失われた30年とかあったが結局日本はもう経済的には成長しないのだろう、でも成熟社会となり内面的なものの追求になる宗教とか哲学とか芸術分野で新しい発見がありまさに新しい境地が開拓されるとなる、たたカルト宗教団体は全く内面の追求とか境地開拓派とは反対なのである
集団的熱狂であり高揚でありナチスと似ているのである、もちろんそこでは境地開拓とかいう言葉とか理解できないし無縁の世界である、ただ政治化して経済化して欲望を達成する権力集団なのである
高度成長時代は陽の時代だが低成長時代になりコロナウィルスで在宅で仕事するようになったりテレワークになったりしたり時代が変わってきたとなる
つまり内向的な人でも境地開拓して主役になる時代なのかもしれない
時代風潮がありその時代にマッチした人が現れる、むしろ引きこもりでもその才能でも発揮できる時代なのかもしれない、ただ一概に外向的だとか社会維持派だとか内向的だとか教区開拓派だとかに分けることはできない、でも性格があり性格にあったように生きないと不幸になる、生きるのが苦しくなるのである

starandstone10.jpg

この隠された石が自分なのである
じっとして人にめったに逢わず沈黙しているとなる
その時心は安らかになっているのである

one twinkling star

the big fixed stone

stay here

in winter

in stillness

2022年11月21日

カルト宗教団体を解散させられないのか? (信教の自由は解散しても守られる)


カルト宗教団体を解散させられないのか?

(信教の自由は解散しても守られる)




統一教会問題でしきりに解散させろとか税金をとれとか言う人が増えてきた
でも信教の自由とか結社の自由とかはある、だからそうした法律を盾にしてできないようにする
でも別に解散させても信教の自由は守られる、ただ集団的に組織された団体が解散されるだけで小規模の団体や個々人の信教の自由は守られるのである
第一信仰を簡単に捨てることはできないし別に捨てる必要はないのである
それはどんなことしても強制できない、だから信仰を迫害しても残ったことでもわかる
その時こそ本当の信仰者が残ったとなる
それは政治的にも権力でもなくすことができないものだからである

国家権力で解散させてもそれはあくまでも団体組織の解散であり個々人の信仰を奪うことはできないのである、何かとういと信教の自由を言うが別にそこまで国で否定しないし
否定できないのである、問題にしているのは集団組織化して政治にかかわり権力にかかわり操作する、そして目的がその権力奪取として公然と運動しているのである
それは創価だとあからさまであり現実化しているが統一教会でも他のカルト教団でも同じなのである
統一教会が特に危険だったのは外国勢力に日本の政治が操作されその富まで奪われることだったのである
ただわからないのは10万くらいの会員でそんな力を持てるのかということがわからないのである

いづれにしろカルト教団をを解散しても信教の自由の法律があっても問題がない
なぜなら信教の自由はそもそも奪われないものだからである、ただそうなると法人格とか失われて税金を払うとかにはなる、でも宗教団体はいかなる国からいかなる特権を受けてはならないということが法律で明記されているのだからそれが正常だとなる
ただ寄付金とかなると問題が出るかもしれない、なぜなら宗教だと献金は制限できない自主的なものとしてあるからだ
だから金持ちなら多額の金を献金することがありうる、それは強制ではなく自主的なものだからである
それは個々人の問題であるカルト教団の問題は団体化組織化してしていることである
ここに個人の信仰者がいてある人が金持ちでも寄付しますので使ってくださいとなれば
それを否定はできないし取り締まることもできないし税金を払いというのもなかなか強制できないだろう

問題は団体化組織化した宗教法人として認定されたものに解散命令とか強制できる
でもオウムのように小規模でも危険なカルトはあった、だからどこで線引きするかむずかしいとなる
確かなことは国から特権を受けることは宗教団体ではできないと政教分離で明示しているだから創価公明党は明らかに法律違反である、なぜ国土交通大臣とういう大きな国の権力の場を与えられているのか、これが全くわからないのである
それで大成建設では正本堂を建てた時、つながりができて必ず選挙の時は応援することを強いられたのである
つまり巨大な利権団体でもありそれでそういうことができたのである
何であれ選挙に勝つことが最大の目的としているのが創価だからである
その他のことはどうでもいいとなっている、おかしなのは選挙の時に必勝祈願する
座談会に集まりみんなで御本尊に祈る、また池田大作先生のために選挙に勝つとして最大に盛り上がるのである、これも完全に政教一致なのである
だからこういう団体には解散命令を出すべきなのである

だからといって信教の自由には違反しないのである、そもそもカルト教団など信仰のことなどうでもいいのである、目的は権力であり権力を得て支配階級になり御利益を特権を得ていい生活をすることしか眼中にないのである
そもそも宗教でないときなぜ信教の自由をとやかく言うのか?
それはあくまでも方便であり権力を得るためにそうしているだけなのである
だからもし権力を御利益を得られないとしたら離れてゆくのである
今は徐々に会員が減ってそうなりつつある、なんだ何も御利益が得られないではないかとなり離れつつある、ただその後の内部事情は自分にはわからなくなっている

解散命令を出しても問題はないし宗教迫害とか信教の自由の違反にもならないのである
別に信仰は個々人でも続けられるし少人数でも続けられる、ただ法人格を失うとういことである、だから国からの特権もえられないというだけである
オウムでも別に解散しても小規模にも信仰はつづけられている、でも何も国では言わないのである、小規模になればもう政治家でも相手にしないからである
わずかの票を得ても何の力にもならないからである
そういう小規模な団体で金持ちでも多額の献金をすることは拒否できないだろう
宗教法人でもないしその人は信仰から自主的にしていれば拒否はできない
宗教法人として認められれば様々な特権が与えられるから問題なのである
ただ小規模な寺とかでも法人であるし神社でもそうだから問題がある
だから一様に適応はできないかもしれない、どこで線引きするかが問題になる
会員の数で決めることなのかとかその財政で決めるのかとなる
だからなかなかめんどうなことだとはなる
でも明らかなことは創価公明党が国土交通大臣になっていることは国から最大の特権を受けていることなのだから政教分離の法律に違反していることは確かなのである

不思議なのは一体宗教団体と政治団体の区別ができるのか、それも問題なのである
政治団体でも共産党ならマルキシズムを宗教のようにしている、それで共産主義国家ができてそのく思想が絶対的なものとなり反抗するものは何百万人と粛清されて殺されたからである、それは宗教だから宗教は絶対的なものだからそうなったのである
そこでは思想の自由と結社の自由までなくなったのである
現実に創価でも他のカルト宗教団体でも逆らうやつは罰が当たる地獄に落ちるとか集団で脅迫しているからである
それが政治と一体化すると脅すだけではない現実に権力で罰を与えることもできるから問題なのである、カトリックは完全にそうして政治権力と一体化して腐敗したから政教分離の法律ができたのである

権力は宗教にかかわるな

宗教は権力にかかわるな!

こうなるのではないか、権力が宗教がかかわるのは拒否しても宗教そのものが権力と深くかかわり権力奪取を目指していることが許可されるていることが問題なのである
宗教は個々人の問題であり心の清いものが神を見るだろうという時個々人をさしているのであり集団組織ではないからである、集団組織でも欲にまみれた汚い人はいくらでもいるむしろ俗化すればそうなる、だからあらゆる欲望を是認するし達成するために会員となる政治家になれぞとか金持ちになれるとかいい女とつきあえるとか福運がつくとかあらゆる御利益を得られるということであれだけ人が集まるのである
それが大衆化して大勢の人が集まり権力化したのがカルト教団である

ただどうしても不満な人は底辺の人達がいてその人たちは頼る所がないので人を集める
では相談に来た人が本当に慈悲があるのか愛で接することができるのかというとそういうことは全然ないのである、あくまでも団体の勢力拡大して国家権力とかかわりそこで利権を得て御利益を配分するだけである、幹部でも自腹を切って金を払ったりしないのであるその御利益は国から権力奪取して配分するというだけである
そんなところに愛も慈悲もない、幹部自体がない、ただ民衆から収奪することしかないのである、それは共産主義でも中国でも同じである、共産党幹部が兆の金をたくわえ妾を十人もったとかなる、それが現実なのである、共産主義の理想などは実現していないのである、つまり幹部とその下々の差は天文学的てもある

幹部は栄誉栄華であり下々は農民は依然として最低の生活だとなっていることでもわかるむしろその富を分配するのが共産主義の思想なのにそうなっていないのである
結局人間の欲というのがどれほど強いかそれを拒否できないからそうなる
だから私は欲を抑えられない悪人ですと正直に言った親鸞とか真の宗教家だったとなる
俺は大悪人だと言っていたからである、でもカルト教団の長とかは大善人だとして社会に認めさせようとしているのである、その人こそ大悪人でありサタンなのである
この世で大善人は大悪人である、官僚とかでもそうである、特権階級はそうなる
この世では大悪人が大善人になる場所だからいくら理想を言っても常に失敗している
それは結局人間が欲から逃れられないからである
だから政治でもみどり子に治めさせよとか治めずして治まるとか老子の無為自然の思想が生まれたのである

ともかく宗教そのものが何なのかわからなくなっている、宗教を利用した税金逃れであり宗教で集めた金を今度は権力を得るためにいろいろ金を使い工作している
宗教団体で法人になればそれができる、そもそもそれが宗教と認定できるのかとなる
信教の自由があるにしてもそれが宗教なのかとなる、ただ宗教は脱税するための方便だともなる、だから何が宗教であると規定するのかである
それもめんどうになるが何でも宗教になれば無税になりやりたい放題というのもおかしいのである、現実は権力を得るためにそうしているとなるからである
それぞれの個々人の心の問題ではなく現実社会で御利益利権を得るための団体がどうして宗教法人として認められて税金をはらわずに宗教ビジネスのようになことをしている
最終目的は国家権力を得ることにある、それは他の宗教団体でも同じなのである
だから何が宗教と規定するのか、そのこと自体が問題になる
何かというと地獄に落ちるとか罰当たるとかそういうことを持ちだして脅迫したりもするそしてただ票をとるためであり利権を得るためなのである
だから宗教詐欺罪にもなるが罰せられないのである、ただ確実なことはそういう団体の人達は来世ではどんな罪で罰せられるのか相当に過酷なものとなると思う

来世では今世のように偽ることができないからである、悪があからさまに現れる場所だからである、だからこの世では大悪人が大善人となり大悪人が実は大善人だったとなるのである、何か逆転しているのである
成仏を問題にするがろくでもないみんなから嫌われていた人でもたいして苦しまないで死んでいる、だからそんなことで判断できないのである
要するに宗教を語った詐欺罪でありこれは相当に悪質であり来世での審判は厳しくなる
今世と来世は逆転しているのである、だからなんで地獄に落ちているのかと来世ではなる罪の自覚すらない人達なのである、罪の自覚を地獄に落ちるとか思う人は地獄に落ちない地獄に落ちるとか罰当たるという人が実は最も過酷な地獄に落ちているのである
でも今世ではそんなこと関係ない、堂々と悪人でも善人になっているのである
偽善でもわからないのである、本人すら自覚していないともなる
善人だから俺は罪深い悪人などと思わないのである、それは殺人者として刑に服している人もそうだった、たまたま運が悪い言っていた、全然反省もしないし罪の意識もないのである、それが人間として普通である、だから罪の意識を持っている人の方が救われるとなったのである,カルト教団員で罪の意識とか持っている人はいないだろう
そもそも他者に信仰をすすめている資格もない人達がすすめている、ただ一票を得るために毎日運動しているだけなのである
それよりその奨める人が罪を自覚して懺悔するべきだとなる



やっぱ宗教特権の非課税を廃止すべきだよな。

地方の貧乏寺や神社は減免、一方カネをもって積壺、犬作教、幸福からはお布施も含めた総収入の50%課税すればいい
宗教法人課税することで、国税庁も教団内のカネの流れを追跡できる。
いつでも任意に教団に税務調査に入れる。

もしオウムのときに「宗教法人課税」になってれば、二重帳簿を見破って、サリン原材料や自動小銃購入を掴み松本サリン事件も地下鉄サリン事件も未然に防げてた。

壺の場合は霊感商法の違法マネーと、お布施や寄付の合法マネーを教団内で混ぜ、マネロンしてエベンキランドで宗教施設建設費、その先は北チョン国へ流れてた。
もし宗教法人「課税」制度だったら、壺のカネの流れが国税庁に丸見えだった。
こうして宗教法人課税を導入するだけで、反社ビジネス宗教カルトは自主廃業するだろう。
残るのは既存の人畜無害な宗教だけとなる。


カルト教団の資金は何に使われているのか、そんなに金を集めて何するためなのか?
オウムだったら武器を作るためだったかなるから確かに金の流れをみればわかる
創価だったら選挙資金のためにとか会館を作るためとかなる
でも政治資金が創価と一体だから宗教関係にも回っている、それも政教分離違反なのである
宗教といっても何が宗教なのか規定できないからそうなる
統一教会は日本人信者から献金させて韓国に流れていた、だから外国の宗教団体が入ってくることは危険なのである
ただもし団体ではなく個人への寄付とするとその人を信用して財産をあづけたともなるからそれを違法としたりできるのかとなる
だから団体と個人的なものは区別すべきなのかとなる
ただ資金の流れは知るべきだということはある



2022年11月22日

相馬藩の姓から探る歴史 (佐藤氏から岩松氏、岩本氏、只野氏、・・・・・)


相馬藩の姓から探る歴史

(佐藤氏から岩松氏、岩本氏、只野氏、・・・・・)


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姓から歴史をたどるとき必ず日本の姓の基は村がありその村の名が地名にたどりつく
その一番いい例が只野氏なのである、それは郡山の多田野村から出ているからである
その只野氏が南北朝の戦いで南朝側であり霊山が炎上落城したとき逃れた武士の一団でありそれで鹿島町に只野姓が50軒くらいまである
只野一族の村だともなる、近くにその姓の人達がいるからである
ただ由来がわかりにくいのは余りにも姓が増えたことなのである、もともと農民は苗字を持っていなかった、でも名字帯刀とかあり名字(苗字)を持つことはみんなできなかったからである、侍しかできなかったからである
でも明治以降はだれでも苗字を持つことができるようになって苗字が姓が増えすぎたのである、するとなかなか姓から歴史をたどることがむずかしくなったのである

この姓をたどるということは意外と世界史でも重要なのである、必ず父系になっている
誰々の父親の息子とかが姓なのである、日本だと姓はかばねという屍から来ている
それは父親の屍(しかばね)から来ているとなる
つまり母親ではないのである、それは結婚すると女性が嫁ぎ先の姓を名乗ることになる
そはれその家の父系の姓に属することになる
でも不思議に江戸時代までは嫁いだ先の家に自分の家の姓を記している墓があった
つまり嫁いでも依然として育った家の姓を変えずに墓に記していたのである
だから男女別姓とかでいろいろ問題になるけど女性は江戸時代でも弱い立場ではないこともわかる、ただそれは武家だったからそうなったともみる、なぜならそもそも姓がある家から嫁いだとしたらそこは武家だったとなるからである、普通の庶民とか農民は姓を持っていなかったからである


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相馬市成田の竹内氏の墓

竹内は武内であり岸家から嫁いだので両方の姓が墓に記されているのである



今回は佐藤氏に注目した、これもあまりにありふれた多い姓だから注目しない
でも相馬藩内で佐藤氏の由来は古いのである、佐藤氏自体が平安時代とか藤原の藤に由来するらか古いのである、ただ余りにも多くなったからその由来がわかりにくいのである
ただ塩手山の麓の二軒が佐藤氏だと聞いた、隣り合って佐藤氏だというときその佐藤氏はどこから来たのかとなるそれは義経に従った佐藤一族になる

佐藤基治。

 奥州藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを統治していた豪族佐藤基治は、信仰心が厚く、居城とする大鳥城から眼下に望む薬師堂を改築し、伽藍を多数建立し境内を整えたとされています。
 藤原秀衡は、私有地の管理を基治に任せて、荘園管理の職名を荘司と称したので「佐藤荘司」と呼ばれておりました。また、丸山(館山)の大鳥城に居を構え湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれていたそうです。
 https://www.iou-ji.or.jp/map-sato.html
 
この佐藤氏に由来している、佐藤庄司というとき原町に庄司建設があり庄司の姓を名乗る人がいる、そして霊山の近くに庄司渕という地名がある、庄司が地名までなっている
庄司は荘園のことだからそれと関係して名付けられた、荘園があったとなる
明らかなことは福島市の佐藤氏が相馬市の方へ移住してきたのである
それは鎌倉時代の義経の時代だから古いとなる、南相馬市の鹿島区に移住した岩松氏は船で烏浜に達して相馬藩の領主となった、だから相馬氏より古いのである
佐藤氏は確かに福島市の方から移住してきた佐藤氏である、それがわかるのは磯部館がありその佐藤氏が相馬の道の駅のすぐ近くにある鬼越館に移ったからである
それは高潮が原因だとしている、それは慶長津波の前だったのである
その磯部は今回の津浪で壊滅したのである、ただ慶長津波のことは記録に残っていない
ただ生波(津波)で700人溺死としか記されない、後のことは一切わからないのであるでも時期的にその後まもなく慶長津波が襲ったのだからその予感がして逃れたのかとも見る、現実に八沢浦の湊も津浪で壊滅したがやはり高潮で被害があった場所なのである
つまり高潮の被害は海側だと常にあった、その時ここは危険だとして逃れれば助かったとなる、でも海側の村はいくつも壊滅したのである

中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか?
(伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)
http://musubu2.sblo.jp/article/99907265.html

この辺の姓で一番印象的な姓は岩松氏である、鎌倉から一緒にきた家来が謀反を起こして幼児まで殺したので末代まで語られるようになった
現実にその家来とされた四天王の姓はつづいているのである、

「岩松氏は清和源氏足利流であり上野國新田荘岩松郷の地頭にして、『姓氏大系お』よび『荘園志料岩松文書』に詳しいこと、また越後岩松家戒名は修験道最高位であり、また東光寺佛は僻地に珍しい優品である」などの指摘を受け新田氏族の研究を勧められた。
http://fung.html.xdomain.jp/shishi/shishi00.html

今この地に岩松という姓(かばね)はなく断たれてありしも日里、中里、島、蒔田、後に日里改め郡という姓の人、その裔なる一族は確かにここに住みつづけてありしはその事件の真実なるを伝えぬ

日里家に種々奇怪なことの起これば日里氏は姓を改め郡とし殿の霊を慰めんと祠を祀りしと伝えられぬ

南相馬市鹿島区岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm

これは生々しい姓の歴史なのである、現実にこの辺ではこの岩松の重臣の姓の子孫は生き続けている、でも岩松の姓はないのである、姓は断たれたことが歴史の事実を示しているからである

もう一つ今回発見した相馬藩内の姓の物語で岩本由輝氏の本のあとがきに書いてあることで発見した

岩本本貫の地は相模国ではなしにもう少し南の駿河国富士郡岩本郷ではないかと考えられる、ここの実相寺で日蓮が「立正安国論」を現したされ日蓮宗の強い所でありそれで私の家も日蓮宗になっているのだと思う
(歴史としての相馬ー岩本由輝)

岩本氏の出身は相馬ではないにしても相馬藩とのつながりがあり疎開してきたという
やはりここにも疎開してきたのか、その話を近くの煉瓦職人に聞いたからである
疎開してきた人は地元の人にから子供でもいじめられたとかどこでも伝わっている

地元の人だから地元の話もした、戦争中疎開人の子供のことも話した
この辺にもそういう人がいたのかとなる
何でも食べ物がなくて盗んだとか言っていた、また弁当でも盗まれたとか腰にくっつけて運動もしていた
野菜でも盗まれたとかいうのは今でも同じである、畑とかのものが盗みやすいのである
梨とかでも一つくらいとって食べてもいいのかなともなるからだ

おそらく疎開の子供が食べ物を盗んだというのは食べ物が満足に与えられなかったからだろう、疎開のことではいろいろ語られている、相当に辛いことだった
http://musubu.sblo.jp/article/189910385.html

疎開の話は全国にある、それだけ東京から疎開した人達が多かったとういことである
それも一つの歴史となったのである

いづれにしろ姓とか地名から探る歴史は身近なのである、姓とか地名は常に今でも利用しているかし生活に欠かせないものとしてある
だから過去のものではない、現実今のものとしてある、だからその土地を見る場合でも人を見る場合でもその姓を見るのである
そして不思議なのは女性でもそうだが離婚して元の実家の姓にもどった人達も結構いる
だから離婚した人が姓が変わると戸惑うのである
それで夫婦別姓を法律化すべきだという人がいるのである
それだけ姓とは深く生活と結びついているから今でもそのなっているのである
posted by 天華 at 17:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2022年11月23日

精神知的発達障害者やニートとは何なのか (適切な治療教育がされないー認知症と似ているがまた違っている)


 精神知的発達障害者やニートとは何なのか

(適切な治療教育がされないー認知症と似ているがまた違っている)

●計算できない、漢字が書けない、文章が理解できない

言葉の遅れが気になる
勉強についていけない
集中力・落ち着きがない
他者との関わりが苦手
発達障害の種類とグレーゾーン
発達障害の3つの種類


読み書きや計算など、特定の学習が苦手
目から入ってくる情報をうまく処理できず、図形や似たような文字を理解しづらい
文章のどこを読んでいるのか分からなくなる
読み書きに他の人よりも努力が必要なため、疲れやすい
計算や読み書きが必要な場面で困る
その場で書類に字を書くのが難しい など

その人は50歳になるけど数の計算ができないという、どうして数の計算ができないのか学習できなかったのか、その辺がわかりにくい、その人が言うには常に親に殴られたとか頭でけられたとか言う、何か親が虐待していたとなる
兄弟も二人いしても嫌っている、この家族も理解するのがむずかしいと思った
そもそも他者の家族は簡単に理解しにくいのである、そしてまともな家族がまれだともなる、何らか問題をかかえているのである、私自身の家族もそうだったからである
ただこの人がかかえたものが精神知的障害だからさらに理解しにくくなる
でも見た目は普通の人だし話しもできる、だからどこが障害なのかよくわからないのである

認知症になるとこのような症状がみられる、数が計算できない、だから自分の持っている金を把握できない、銀行から金がおろせないとなる、知的障害がある
だからこのことに驚いたのである、でも私が認知症を介護してきたことでわかったことはこれまで経験してきたことで正常に生活してきたのだから何かそうした知的な計算ができないということはあってもわかることがある
だから全く心が通じなくなることはないと後でわかってきた
何か感情的な面では普通なのである、喜んだり悲しんだりすることがありそれは普通の人と同じなのである、だから認知症になると相手の態度が問題になり敏感になる
何か馬鹿になったからと馬鹿にしているとか冷たくしているとかわかる
すると怒ったりするのである、特に優秀だった人はそうなりやすい、馬鹿にされることを敏感に感じて怒るのである、でも子どものときから発達障害とか精神障害者はそうしたことはない、常に馬鹿にされてきたしうとまれてきたし虐待もされてきたからである
それで怒ったり相手に暴力をふるったりしないまたそれだけの力もないのである

●算数とかでも教え方が影響するー暗記教育しかなかった時代

ともかく発達障害でも精神知的障害でもいろいろあるから判断するのはむずかしい
でもなぜ親がそんなに実の子供をいくら障害者でも虐待したのか理解できない
その家は夫婦仲が悪くなにか常に母親に夫が暴力をふるっていたらしい
でも息子までそんな虐待をするものなのかということが理解できない
相手は障害者だからである、その人が言うには私が計算などできないのは適切に教えられなかったからだと言っている、それはあるのかもしれない、確かに知的障害があっても
教え方があり理解できることはある
それは自分自身でも算数と数学が嫌いになったのは生まれつきというより教え方が悪いとなそうなる、おそらく小学生とかの段階ではそうである
私が受けた教育は算数だったら暗記しかなかった、そして後はソロバンだったのである
これは全く機械と同じ暗記教育だったのである

算数でも後の数学でもこれは思考訓練として教えるられるべきものだったのである
私は自ら興味をもって勉強したことは高校までなかった、だから勉強嫌いであり劣等生で終わった、ただ三流大学に入れたのはたまたま家族に恵まれて金がありは入れたのであるなぜなら団塊の世代は第一中卒で集団就職していた時代だからである
中学だと4,5人しか大学に入っていないからである
なぜ自分自身が教育に興味をもつのかというと教え方がありそれは先生でも思考すること創造することでもあるからだ

数の計算にしてもそうなのである、計算でも暗算ではなく考えるものとして学んでいたら違っていた
27+35となるとめんどうだが20+7+30+5と分解するとわかりやすくなるのである
別に20+30+7+5でもいいわけである、また7がめんどうなら5+2にする
そうするとわかりやすくなる、また数字を図形化して教えると具体的わかりやすくなる
つまりなんらか学ぶ方法があり教え方がある、それが学校だと一様になり暗記教育になり勉強に興味を持てくなる
例えば数字とは何かという根本的なことすら理解できない、●でも■でも色でも違っている、大きさも違っている、でも同じ一っ個にする、一となる、だからこうした単純なことでも数字化することの意味が何なのか教えていないし自ら学んでいないのである
今なってそんなことを考えたのも遅かったとなる
ただ思考するにもこうして訓練が必要だとなる、普通の人だったらそうなる
まれにいる天才だったらそんなことを教える必要もなくすぐ理解するからむしろ教育自体必要ないともなる

●先天的なものなのか後天的環境の作用もある

その人がなぜ発達障害になったのか?

●生まれつきなのか

●後天的なもの環境の影響なのか

確かに生まれつきがあったのがもしれない、でも後天的な環境にもあったかもしれない
親の理解がなく虐待されたことで余計に学ぶこともできなくなっていたのかもしれない
何か人間に対して恐怖を抱いているからである
ただ何もわからないというのではなくわかっている、だからどこが悪いのと見られることは確かである
数の計算ができないのとなると確かに社会では働けないとはなる
でも別に他に数の計算が出来なくてもできることはある
その人はいい体しているから力はある、だから重い物を持つということはできる
指導する人次第では仕事をさせることができる
その他でも話しは通じるのである、でも計算ができないということが大きな障害にはなるそれは小学生並みの計算とか文章が読めないとかある
何かこれも認知症と似ていると思った、計算ができない、漢字が読めない、漢字が書けない、文章が読めない・・・でも認知症よりわかっている
認知症だとももっとわからなくなっているからである

先天的後天的なものが人間に影響する、でも後天的環境の影響も人間は大きい
いくら才能が先天的にあってもそれを伸ばす環境がなかったら才能は発揮できない
子供の時、一冊も本が家になかった、するととても自主的に勉強などできないのである
だから教育では家庭環境とか親とかの影響の方が学校より大きいかもしれない
学校はどうしても個々人に対応できないからである

そして現代文明はあまりにも複雑であり精神障害になりやすい、それは先天的なものではなく後天的にである、だからニートが110万人もいるというときもそうである
この問題は特殊な例外ではないからである、これだけの数がいて確かに責めることは容易である、でもなにかしら現代文明の問題として生まれたのである
現代社会に適応できない、それは甘いだということもわかる
社会はもともと厳しいのだ、そんな甘ったれことは許されるのかということもある
それは贅沢なことだと言われる、ただでは例えば自分が経験した流れ作業のようなことを機械かロボットのような仕事が嫌になるのは人間として普通である
他にも自分に適合しない仕事につくこは苦痛でしかなくなる
すると鬱とかになり精神でも病むのである、逆に奇妙だがニートでも家に引きこもるたごけではなく自分のように旅ばかりしてそこに生きがいを見出す人もいたとなる
例外的でもそうなのである、どうしても流れ作業などしたくないとなりそうなったともなるからである、ただそれがいいとはならなかった
何か必ず社会から離脱しても変な方向に行くから危険でもあった
ニートは特別優れた人ではないから小人閑居して不善を成すと必ずなるからである
それが自分自身も経験しているからである、何かおかしな方向に行ってしまう危険があるからである

●文明の病弊としてのカルト、ファシズムも精神障害となる

ただ正直現代文明は病んでいる、だから病的な現象が社会全体でも起きやすいのである
それを証明したのがナチスであった、そのことはいろいろと考察されている
今ならカルト教団である、人間がアトム化してつながりがなく共同体の絆もなく一体感を得るためにそういうものが生まれた、それも集団的狂気の状態なのである
つまり文明の病的なものとした現象なのである、そこにもともとあった宗教など全くないからである、集団的狂気でありそういう中でした人間の一体化がもなくなったのである
だからニーチェも言った、個人も狂っているが集団も狂っているとただ個人の狂気は確かに問題でも集団が狂うとナチスのようになり何百万人が死ぬとなるから恐怖なのである
今でも創価とかカルト教団がそういうものだから怖い、社会を席巻してしまい巻き込まれて集団狂気になる、ファシズムになるからである
ただ集団の狂気は放置される、個人の狂気は病人とされるが集団になれば正常となりかえって批判する者は巨大集団で攻めてくるのである

いづれにしろ現代文明社会とは狂気になりやすい、ファシブムになりやすい体質をもっている、ニートも問題だか正常だとしてそうした人達を排斥することは危険なのかもしれない、もちろんお前たち怠け者ののために働くのは嫌だ、お前らは働け、社畜となっても働けというのもわかる、なぜなら社会で働くことが厳しいから苦しいからそうなる
なぜニートとか何もしないでのうのうとしているのかと反発するのわかる
だからニートを強制的に働かせろというのもわかる、日本が貧困化しているから余計にそうなる、ただこれも個々人の事情がありその対処方法はむずかしいなとる
ただ言えることはニートとか親が死んだら地獄になる
もう食べることもできなくなる、親が財産でも残さない限りそうなる
つまりその時カルマが容赦なく過酷に現れるのである、それが自分自身だった、もう死ぬ思いで親を介護したからである、ただ経済的には困っていないから救われたとはなる

いづれにしろ精神知的障害者でもそうだがそういう人達が増えてくるのが現代文明となるただもともと精神知的障害者はいた、でも現代では複雑になり社会に適合できない人が増えたことは確かである、そして親に頼り住む場所もあり食べることができるからそうなったともなる、まず昔だったらそんなことできなかったからである
だからこれは時代が作りだした現象だとなる、50年前頃にアウトサイダーという本が話題になったがそれは天才的な人のことでありニートとは別物である
でも何かしら似ているのである、天才と狂気は紙一重というけどそうである
天才と超人にもなりまた狂人にもなってしまうからである、ただその差は大きいから比較することはできない、ニートとは普通の当たり前の人であり何か劣っている人がなっているからである,アウトサイダーとなるとかえって並外れて天才であり現代文明に社会に適合できな人だったからである、その例としてニーチェとか上野霄里氏がいたとなるのである

posted by 天華 at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2022年11月24日

flowing abstract painting


flowing abstract painting


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strong tidal current in Seto Inland Sea

瀬戸内海の潮流

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beautiful flows