時間はもともと存在しない
(変化によって時間を意識する―時間の見方の多様性)
時間がなぜ謎でありわかりにくいのか、だからそもそも時間はないという人もいる
私も時間はないと思う、時間ではなくて変化があるだけである
だからこそこの世は無常ということになる、常無きものとは常にこの世が変化するからそうなる
人間関係でも今日いた人が明日は死んでいないとなる、60年も一緒にいた家族ですらみんな死んでいなくなったとかなる
この世で同じ状態がつづくことはない
鳥海山が噴火してそこに埋もれた木があり埋もれ木が発見されて噴火が起きた年代がわかったという、それは2000年前とかなる
その埋もれ木の年輪を見てわかったのである
木は成長しているから年輪も増えてくる、つまり成長することは変化なのである
もし木でももし変化しなかったら成長しなかったら時間がないとなる
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで
君が代でもさざれ石が小さな石が成長して大きな岩となり苔むしてゆく、それは変化なのである、その変化によって時間を意識するのである
だから木でも成長しない、変化しなければ時間を感じないのである
石とかも苔むすこともなく変化しなければそこに万年あっても時間は意識できないのである
今年この辺で大きな地震があった、これは怖かった、それで私の家は今だにかたづけていないのである、他の家でも依然として修理つづけている
その大地震で大きな石が転げ落ちて来た、それは二三個見ている、結構大きな石である
その変化も大きいものだった、そこに石がないのに石があるようになったのも変化であるでも時間がたてば百年でも過ぎればその石が崖から落ちた石だということもわからないとしたらその石はいつもそこにあり地震で落ちてきた石だと認識できない
それで令和石とか名付ければ令和の年に落ちたものだとなる、でもさらに令和4年石となづければその年に地震で落ちた石として認識できる
でもそれを知らなければ時間というのは意識できないのである
つまり時間とは変化することによって意識する、太陽が朝昇り夕方に沈む
これも変化でありその変化で時間を意識しているのである
もし太陽が一点にとどまっていたら時間を意識できないのである
空間は常に認識する、でも時間は変化しないかぎり認識できないのである
ただA地点からB地点に移動するとき時間がかかるというときそれは変化ではない、空間の移動による変化であり時間とは違う、そもそも空間でも時間を感じるのは変化することで意識する
エベレストの山の上にアンモナイ化石がある、なぜそこにあるのだとなるともともと海だったからだとなる、その変化のスケールが大きすぎるから時間も億年単位になる
時間とはこうして短いものでも人間の一生でも変化して意識する
子供が成長して大きくなるのもそうだし老人になり白髪になるのも変化である
人間も40才になると白髪がでてきて歳だなと意識するからである
いつまでも若いとはならない、女性でも劣化してゆくからである
そもそも時間とは物事の様々な変化のことであり時間そのものはない、なぜなら変化しなければ時間が意識できない、ここに何もなかったが地震で石が転がり落ちてきた
ここに石があったがなくなったとかなれば時間を意識するのである
それは変化したから意識できる、だから変化しなければ時間を意識できないのである
それで天国では神の国では人はみな若くて年取らないというとき変化しないから時間もなくなるとなる、時間を感じるのは変化することによって感じるからである
共にいた人が死んだ時永遠に逢わないとなるのも変化である
つまり時間とは変化によって意識する、それで仏教でそのことを無常としたのである
常にこの世は変化するからである、今日逢っても明日はなく永遠に逢わないとなる
それが老人になれば実感する、あの時逢った人とも永遠に逢わないとなるからである
2022年の福島県沖地震(ふくしまけんおきじしん)は、2022年3月16日23時36分に、福島県沖で発生したマグニチュード(Mj)7.4の地震である。宮城県と福島県で震度6強の揺れを観測した

この石はその時落ちた石である、だから令和4年石ともなる
手も時間が過ぎるといつ落ちたものかわからなくなる
自然でも変化するからその変化することで時間が生まれる、時間を認識する
もし石でも動かないとしたら時間を認識できないのである
でももう千年とか万年億年でも動かない岩でも石でもある
そこには時間を感じない、でも風化して岩でも石でも変化するからそこに時間を感じる
つまり全く変化しなければ時間は感じないのである
江戸時代の年号を見ているけど元禄とあれば相当に古いかこの辺では貴重である
でも幕末のころになるとその時代順序がわからなくなる、年号でも順序を逆にして見る
そしてその時代がどういうものだったかもわからなくなる
江戸時代は変化が少ないからその時代がどういうものかわからない
ただ天明とかあると飢饉の歳だったとか記録されているのである
でも明治以降は順序を間違えない、明治時代があり大正時代があり戦前の昭和時代がある戦後の昭和時代がある、次に平成があり令和になった
でも戦後でも平成の30年間とかはあまり変化がないから時代を意識しにくい
つまり時代を意識するのはその時代に何か大きな出来事が変化があるときである
日本だったらまず明治維新とかは時代の大きな区切りだから必ず意識する
でも明治後半と大正時代は意識しにくい、昭和でも戦争前と戦争後に時代は大きく変わったら戦争前と戦争後として区別する、つまり何か大きな出来事変化があったとき時代を認識する、時間を認識するのである
自然の変化でも津浪は巨大な変化をもたらしたから時代の区切りになるのである
江戸時代は余りそうした大きな区切りがないから時間を意識しにくいのである
ともかく自然も万年とか億単位なると変化する、陸だった所が海になったり海だったところが干拓して陸になったりする、人工的変化もあるが自然の大きな作用の変化もある
それで驚いたのは津波だったのである、津波が八沢浦だったら本当に江戸時代の入江に戻ったことほど驚いたことはない、美しい入江が再現したのである
そこで死んだ人もいたが元の入江にもどったことは信じられないことだった
時間はそもそもないというとき自然にも時間はない、ただ変化のみがある
その変化によって時間を意識するのである
鳥海山の噴火はその時埋もれた木の年輪からわかった、それも2000年前とか古いものだった、年輪を刻んだ木は時間を記録していたのである
時間があるのではなく変化することがありそれが時間として意識される
全く変わらないとしら時間を意識できないのである
宇宙の中に惑星があるとしてその惑星に行って時間を感じるにはどうしたらいいのか?
それもやはり地球が変化するように変化することを見ると時間を意識する
もしその変化がわからないと時間を意識できないのである
同じままで変化しないとしたらどうして時間を認識できるのかとなるからである
鉄の玉があるとしてそれが変化しなければ時間を感じない、鉄の玉でも錆びたり摩耗したりしていれば時間を感じるのである
でも風もない雨も降らないとか変化しない惑星だったら時間を認識できないのである