金だけで解決しない人間の問題
(特に介護とか病気とかになると愛がないとできない)
●家族の限界
私が親の介護と自らの病気で苦しんできたことを書いてきた
その時来た人は一人は借金で苦しんでいる人でありもう一人泥棒だったとかまたその後に来た人も借金で苦しんでいたとか貧困で苦しんでいたか金に苦しんでいる人達だった
だからこういう人達そもそも人を助けること自体できない人達だったのである
自分が苦しんでいる、金がないと苦しんでいる
その時私の家族でも自分自身が苦しんでいても金が欲しいということで来たとなるからだそれはふりかえれば恐ろしいことである
相手が弱っているからこの際金をとるのにはチャンスだなっていたのである
それも自分自身のカルマであれ人間の恐ろしさを身をもって知った
どうしても介護とか病気とか弱者になったときその時相手の心が露骨現れるのかもしれない、強い時はそういうことはない、相手も恐れてそんなことできないからである
相手が弱った時チャンスなのである、人間の社会は食うか食われるでもある
動物でも子供とか弱ったものが狙われて食われるからである
人間にもそういうことがある、相手が困ったらと助けたりしない
助けるとしてもそこには魂胆がある、この際弱ったから金をとってやろうとなる
まず人間をみれば確かに家族はいいものである、でも家族優先であり家族さえ助かればいいとなる、他の者はしょせん他人でありどうでもいいともなる
家族内では愛があっても他者にはないとなる
そういうことはどこの家族にもあるし自分の家族でもそうだった
確かに家族愛というのは人間の基本的なものとして不可欠である
でも本来の宗教だと仏教でもキリスト教でも家族を否定したのか?
シャカは王様の家に生まれて出家したりキリストでも親を否定したりしたのはなぜか?
それは家族は必要でも家族だけの愛はエゴになるからである
●病人とか弱者の虐待の恐怖
でも家族は必要である、そこが人間の基本的な生活の場でありそこが人間として学ぶ場になるからだ、とても養護施設などでは家族の代わりになれないからである
ただその家族が基本的なものとして必要でもすべてをまかなえるとはならない
だから介護とか病気とか他でも他者の助けが必要になる
でもその時問題なのはまた家族のように接することができないことである
愛をもって接することができないのである、そこに大きな問題が生まれる
なぜならそもそも愛がもていないと必ずそれが行動に現れる、それで虐待ともなる
それは弱者相手の世界で起きやすい、病気になると弱者となる
すると医者とか看護師でも弱者化しているから権力をふるうことは容易になる
そもそもそういう立場の人は愛がないとできない
直接体にふれたりただ身体を診ているだけではない、心も関係している
愛の心がないとみれないのである、愛でももって接することがなければできないのであるでも現実は患者を機械のように見ている、ただ注射して薬を与えどこから悪ければそこを切除すればいい機械のようにどこが不具合があれば部品を交換すればいいくらいにみる
そこに愛はなくてもいいとなる、それより患者は金になるものでありいらない薬でも手術でもするとなる、つまり医は算術になる
でも患者の方でも優秀な医者となれば体をみる技術者であり腕のいい技術者を選ぶのが
普通である、愛があるかどうかなど見ないということもある
近くの開業医の医者は見立てがいいと評判だった、腕は良かったのである
でも私の母はその医者の所に行かなかった、口が悪くずけずけと言い冷たい医者だったのである、でも腕がいいから繁盛していたのである
私の母はそれで別の医者に行っていた、そこは優しい医者だと行っていたのである
でも矛盾は優しい医者が医者として優秀ともならないことである
優しい医者より腕がいい医者の方を選ぶともなるからだ
これが大工とかなると他でも技術であれば腕のいい大工さんを選ぶ、でも別にその人が優しいとか必ずしも愛があるとかあまり関係ないからである
でも実際はある人に愛をもって家を建てるということは必要である
でも大工の場合はそういうことはあまり関係ないのである
でも医者とか福祉関係はかなりこの愛とかは関係してくる
人間の体は機械ではない、心をもっているからである
そもそも愛をもって体に接するのとそうでないのでは影響するだろう
人間はとてもいくらAIで診断するとかなってもそれで全部できることはない
病気になればやはり人間には愛がないと診れないと思う
ただそういうことより医者は腕がいい医者がいいとなる、また機械とかでも設備が持っている病院がいいとかなる、優しい医者だとかその性格みたいなものを見る人はいない
第一医者にしてみても大勢を診るのだから愛とか言っていられない、何でも大勢になると愛は消失する、だから議員ですら病院で番号で呼ばれたとなり怒ったとなる
病院は数をこなさなければならないからいちいち愛だとか言っていられないのである
どこでも数が多ければそうなる、政治家などでもとにかく票を集めなければならない、数を集めなければならない、個々に対応などできない、愛など全くなく民衆と接しているのである、ただ選挙の時愛想良くしている、実際自分のことしか考えない
議員自体がそう言っているからである、学校でも生徒でも一人一人見れない、だから先生が生徒に愛をもつことはむずかしいのである
結局人間は数が問題になる、数をこなすとなるととても愛など持てないのである
家族が一応愛をもてるのは数が少ないからなのである
●金だけでは解決しない問題ー病気と介護には愛は必要
ただ愛がないとできないことがあることは確かである
それは自分自身が介護で自分の病気で経験した、その人は愛はなかった、借金して金を欲しいというだけであり愛がなかった、愛を持てる状態ではなかった
だからそういう人が来たことは恐ろしいと思った、その人は特別何もすることはなくてもたいしたことをすることでも愛がそもそもないのだから箱一つもちあげる気持もなかったいやいやながらしていたのである、そのことはその表情とか気持に現れていた
自分のために何もしてやる気持がなかった、金が欲しいから仕方なくしていたのである
そういう気持で病人や弱者にかかわることは怖いことである
その人への影響が大きいからである、病気すら悪くなるだろう
別に病気が治ってほしいということでもないからである、ただ金が欲しいというだけだからである
でも金はもっていても困っている時まず金を出せとういうことは強迫にもなっていたのである、借金していたからそうなったのである、だから借金とか負い目も持った人は弱者を助けることができない、自分のことで精一杯であり他者を見る余裕がないからである
その人はただ患者を座って見ているのも嫌だったのである、何もしないとしても嫌だったのである、そういう人が苦しい時来たことは怖いことである
その人はただ何もしなくても見守ることすら嫌だったからである
でも金で苦しんでいるとしても後で金をやることはある、でもまるで金をくれたら助ける今くれとなる、でも苦しんでいる人はそういう余裕すらないのである
とにかく人間はそもそも家族であれ個々人であれ何か足りないのである
金だけの問題ではない、特に介護とか病気の人をみるとき心が深く関係してくるのである介護とかは気持がないとできないのである、病気の看護でもそうである
それは家族でもそうなのである、その親の娘は一人っ子であり親に特別良くされたのである、でも親は冷たいとして怒って来るなと言ったという、病気で苦しんでいるのに冷たいのである、そこに知っている70くらいの女性が何かと世話を焼いている
その女性は金に困っている、でも親はその一人娘に金を預けている、それで金が欲しいとしてもその娘はケチで金をくれないといい怒ったのである
だからこうして家族ですら愛がないと介護などできないのである
兄弟でも親に良くされたのだからお前がやれとなる、そして遺産では必ず争うのである
また意外なのは60パーセントなのかまたそれより兄弟でも付き合わなくなったということが50代で多いのである、結婚して家族が別々になってそうなったともなる
だから兄弟は他人の始まりだというのは本当である
私が特別親を愛しているのは死んでも愛しているのは60代まで一緒に生活していたからなのである、それで特別良くされたからそうなった、これは他ではないことだから特別だとなる
●愛とか慈悲とか最高にむずかしい
いづれにしろ愛を言うがそれはこの世でほとんど実行されていないのではないか?
それは家族であっても実行されない、だから宗教でも愛を慈悲を説いても実行されていない、カルト教団の人に愛があるのか?多少団体内で助け合うことはあるかもしれない
でも実情はやはりエゴであり自らの欲望を追及しているのである
議員になりたいから信者を票とみて接する、その内心は他の議員と同じである
選挙の時だけ愛想良く接することである、その本心は自分のことしか考えないのである
それは数を集めなければならないからそうなる
百万とか集めるとなるといちいち愛がどうだごうだなどと関係なくなるからである
結局愛が実行されている場とかあるのか人がいるのかとなる
愛といっても恋愛もあり家族愛とかもありシャカの慈悲とかキリストの愛とかは別物である、そもそも愛、愛、といっても本当の愛が実行できるのか、そんな人がこの世にいるのかとまでなる
愛とは愛さ愛を一般的に要求している、でも自分ではなく他者を愛することが愛だとするときそれが実行している人がいるのかとなる、ただみんな愛と言う時愛してもらいたい愛なのである、それも都合いいエゴなのである
もしかしたら本当の愛を実行できる人は一人もいないとかにもなる
愛はそれだけ実行することは困難を極めているからだ
わかりやすいのはとにかく人は愛というとき愛してもらいたい愛であり見返りのある愛であり家族だけの愛であり本当の愛はほとんど実行されないのである
そこに人間の絶望があり人間も動物界とたいして変わらない弱肉強食の世界だともなる
ただ表面上は愛を装うのがこの世である、カルト宗教団体でもそうである
そういう場所は他者を弱者でも食い物にもする場なのである
それが統一教会で極端なものとして現れたのである、他のカルト教団でも同じなのである愛と慈悲を看板にしてそんな人がいるのか一人もいないとなる不思議なのである
だからこの世と何なのだろうとなる
この世こそがこうして地獄そものもなのである、動物の弱肉強食の世界と変わりないのである、つまりそういう場に生きていることこそが地獄なのである
いくら科学技術が発達してもやはり人間が地獄を生きている、そのことに変わりなかったのである
●何の返答も見返りもない死者を愛せとういことはどういうことなのか ?
死者を愛しなさいとキケルゴールの本で書いてあった、死者を愛するとはどういうことなのか?死者を愛することができるのか?
死者はそもそも何も答えない、死者が本当に存在しているのか?
そういう死者を愛することができるのか、死者を愛するとはどういうことなのか
これがわかりにくい、でも私は家族がみんな死んでしまったからそのことが気にかかった死者を愛することがわからない、でも私は特別二人の母親に良くされたから今でも二人を思っている、それは特殊な事情でそうなった
何も答えないのだけど語りかけている、何か認知症になった人が延々と死者と語っていたという、その人にとって死者は死んではいないのである
だから認知症は必ずしも人間の異常でも狂気でもない、死者が死んでも生きてると思うことは人間にとってはむしろ正常だともなる
それより死者を全く思わない人がいる、親でも思わない、そういう人こそ異常なのである人間ではないともなる、その人は生前も愛することもなかったからそうなった
ただ遺産がもらいたくて親とかかわるという人も相当数いる
そして今は経済的にも苦しいから子が親を捨てるという時代にもなっている
もしかしたら江戸時代のことではない、現代こそ姥捨て山の時代なのかともなる
老人が増えすぎたこともありそうなることもありうる、現実に若い世代は老人は早く死んでくれというときそういう心情に若い人がなっているときまさに実際に捨てないにしても心では捨てているからそれが現実化するのである
愛と言う時、愛がないというとき、何か愛が介護でも重い負担なことではない
簡単なことでも愛がないということがある
介護するにも別に重い負担のことを言っているのではない、ただ何もしないで一時見守ってくれるということを頼んでもその人にはそういう気持ちがないからその人はが側にいること自体怖いことになる、その人はいやいやながらそこにいるからだ
何もその人に愛もないどころか全くそういう心を持っていない、そんな人がいること自体怖いことである、私はそういうことを家族の介護と自分の病気で経験して来た
そうなったのも自分自身のカルマだったとなる
それは余りにも自分は家族でも良くされた結果としてそうなった
他では親に虐待されたとか親ガチャの人が多いからである、私にはそういうことは全くなかったのである、それは60歳までもそうだったのである
そのために死んでも供養して語りかけている、死んでも愛しているとはなる
死者を愛することは介護のような重い負担はない、死者は何も要求しないのである
でも死者を愛し続けることはむずかしい、なぜなら返答がないからである
また報酬もないのである、そういう死者を愛し続けられるのかとなる
ただ家族が全部死んで今になると思い出が宝になったことは言える
家族として暮らした日々がなつかしくそのことを思い出しているとき家族がまだいるようにも思える
最後は人間は記憶に生きるのである、家族がみんな死んでも記憶としては消えていない
それで思い出しては生きているように感じるのである
でも嫌なことは思い出したくない、そういう記憶もありそういう記憶は消したいのである家族でも親に虐待することはむしろ心の傷となっているからそんな親を思い出したくないとなる、その時親は親ではない、死んだ人を想ってくれない人はやはり何かそこに問題があったとなる、ただ個々の事情は複雑でわかりにくいのである