2022年10月01日

何のために働くのか-働く意味を求める時代 (働く価値観が変わったー大会社中心の社会の終わり)


何のために働くのか-働く意味を求める時代

(働く価値観が変わったー大会社中心の社会の終わり)

●働く意味の追求

人間はまずあの人は何をして食べているのか?どんな仕事をしているのか?
それをみる

でも

何をしているのか、何の仕事をしているのか?

それと何のために働いているのかは違っている

まずあの人は何をしているのか、どういう仕事なのかをみる、大工さんなら家を建てるとか家を直してくれたとかわかりやすい、土木関係は道路を直したとかわかりやすい
それはあまり何のためとか考えない、家を直してもらえば客に喜ばれるし道を直してもらえば喜ばれる
だからこういう仕事で何のために働いているとか考えないのである
普通はいちいち何のために働いているとか考えない、金になればいいとなる
利益をあげることである、それに多少問題があり不正があったとしてもあまり考えないことがある、まず利益だ、金を得ることだとして働いている人も多いからである

何のために働いているのか?

こう考えるのは別に普通の人でも哲学者になっているのである
それで漁業者が放射性物質の汚染で魚がとれなくなったとき俺はなぜここにいるのかと問うようになった
それは漁業者は特別東電からでも政府からでも事故前も事故後も手厚い補償金をもらっていたからである、漁業権がありそれが大きな権利だからそうなった
でもそうして魚をとらないでも暮らしていけるのだけど自分はなぜ何もしないで港にいるのかと問うようになったのである

要するに漁業者の仕事は魚をとることであり東電から補償金をもらうことではなかったからである、だから魚をとっていれば魚を食べる人がいてありがたいとなっていたのであるそれで別に暮らしに困らないとしてもその人が地域社会でも何のために存在するのかとまでなった
そしてなぜ漁業関係者は船主などは特別補償金をもらっているのかとなり回りからうらやましがられた、それは事故前でも特別補償金を多くもらっていたからうらやましがられていたのである
そもそも漁業者は魚をとり提供することで地域社会でも存在価値があったからだ
海で魚をとることは結構危険でありだから漁師の仕事は地域社会にとって価値あるものとなっていたしその魚をとる人間も価値あるものとなっていたのである

人間はとにかく金にあればいいとして働くことが多い、その仕事が何のためなのかと問わないことがある、第一今は仕事の種類が多すぎるからである
利益が上がれば金になることが先決でありその仕事が何のためかなど考えない
東電とか電力会社でも電気を供給することでありそこに疑問を感じることもないしそれが有用だから誰も事故がなければ責めないしありがたいものとなっていたのである
何のためになど考える必要もなかった

●何のために働くかは哲学的問題でもある

でも何のために働いているのか、これは哲学的問題になっているのだ

ある人はゴルフ関係の道具を作っている、それは意外と近くの藤倉ゴムとかで作っていたのである、そうか、ゴルフの道具を作る仕事なのかとその人は大工さんだけど認識した
まずその人は何で働いているかをみる、それは一日一万二千円になる
二日しか働かなくても賃金としては高いなとみる
でもゴルフをしないものにはゴルフは遊びじゃないかとも見る
そしてゴルフをする人は比較的金持ちが多い、その人は金持ちの遊びのために働いているのかともなる、老人は暇なのでパークゴルフをしている、でもそれには金はかからない
本格的なゴルフとは違っているからである
でもそんなゴルフをするための人に働いてるということを認識した
すると何のために働いているのか?そうして金持ちの遊びのために働いているのかとなるこんなこといちいち考える人はいないだろう

でもこの辺で起きたことは何かいろいろ考えさせることが多かったのである
それを私は追求して来た、双葉とか浪江とか小高では避難区域になり住めなくなった
そこから仮設住宅に移り住んだ人が多い、その時何もすることかなくなりパチンコとかギャンブル通いになった
そしてかわいそうだとして外部から毎日のようにボランティアが来ていたのである
そのことで地元の人のひんしゅくをかった
あいつらは毎日遊んでいるとかなり外部から来たボランティアとか働く人は不満だったのである、汗を流して復興のために働いた人達は外部の人達だったからである

つまり働くということは何か意義があり意味がある、原発避難者は遊んでいるだけだとか不満になる、そうなるとそんな避難者に尽くすのは馬鹿げているともなるからだ
働くというとき誰かのために働くということがある
家族のために働く、子供のために妻のために働くというのも大きな動機になる
何のために働くのかとなると家族のためだとなるのも多い、その仕事の内容が何であれそうなっている人も多い、そもそも働くとは端を楽にするという意味だったからである
狭い範囲で華族ても苦労して働いているのを見て苦しいから手伝うとかが働くことの言葉の起りだったからである、だから働くといってもいろいろな動機がある
それを一がいに否定できないのである

でも最近いろいろと何のために事業でもするのかとか問題になる、そんなこと無駄じゃないかとも問われる、オリッピックがそうだった、それが何のためにするのか、意味がなくなったからである、東京オリッピックは日本が復興したということを世界に見せるためであり意味があったが今回は意味が明確に見いだせなかったからだ
そして結局そのオリッピックにあづかって儲ける人達のものだったこともわかったからである、大きな賄賂の金が流れていたからである

●何のために事業をするのか?

何のためにするのかというときある人が事業を起こした、それは何のためかとなる利益を得るためにしても何か明確ではない、都会の人に別荘を提供するためだとかまた田舎じゃ金にならないとか言っていた、つまり別荘をもてるのは東京の金持ちでありその金持を相手にしてもうけたいとなっていた
その人は技術者だから家を建てる技術とかあるからそうなった
でもここで問題なのは技術的なものと何のためにするのかとは違ったものである
この技術力があるということは理系の人である、でも何のために考えるのは文系なのである、理系の人は技術者として優秀であればいい、建物をそれも壊れない耐震設計にしてとか地盤を見たり簡単に壊れないように作る、安全を計り作る

でもこの建物を何のために作るのか?

このことは余り考えないのである、ただ鉄道にしても早く目的地に着くために技術開発をすすめる、そしてリニアを作るとなる、でもそのリニアが本当に必要なのかどうかは考えない、でも常に技術開発は奨められるのである
リニアは本当に必要なかどうかは考えない、新幹線で十分だという人もいるからだ
ただ技術開発は常にすすめられるのである、
例えば原発にしても核が危険だからやめるべきだというときでも危険でも開発はすすめられるのが価格技術の世界である
結局哲学となると

あるべきかあらざるべきかと問うことになる

それは文系的思考になる、別荘を東京の金持ちの人のために提供するために働く、その人の動機は何かというとそうして金をもうけるということだった
そして事業に失敗して借金になったのである
でも何かそういうことのために動機でしたことで失敗した、そもそもその動機を見れば
そんなことして何になるのかともなる
それで失敗したからとして自己責任だともなる、同情できないとなる

ともかく人間は何のためかなど考えない、カルト教団の人達は特に何も考えない、ただ拝んで利益があがればいいだけだとしかない、それに疑問を持つ人もいない
宗教だと特に批判できないから完全に洗脳されて従うようになる
何のために拝むのかとなると御利益福運になるからしかないのである
そして大衆は考えない人達である、だから盲目的に従う、それが大衆ファシズムになるのである、だから宗教は人間を奴隷にしやすいのである

●働くことの意義を求める

いづれにしろゴルフの道具を作るために藤倉という会社があることは知った
でもではゴルフの道具を作るためにどんな意義があるのかと問うと金持の遊びのために働いているのかともみる、そこまでいちいち考える人はいない、でも最近そういうことが問われることが多くなったのはなぜなのか?
それは橋がなければ橋が必要だしそれをいちいち考える必要はない、また道路がなければ道路を作る必要がありそれを考える必要がなかった
でもそういうものインフラでも整ってくればリニアとか海底トンネルとか必要なのかと考える、それはやはり貧乏国とは違って豊かになると考えるとなる、哲学とはやはり豊かになったから生まれるたものだとなる
食べることに追われていたら考えないからである

働くこと関しても最近何か変わっている、自分の好きなことをしろとか会社に頼るなとか会社は唯一の価値ではないとか学歴は関係ないとか何か会社中心主義の社会が変わっている、いい大学に入り大企業に入るというのが勝ち組とはならない
これは団塊の世代からすると企業戦士として会社に滅私奉公したのだからそういう考え方とか価値観とかについていけないだろう
でも組織集団が価値がある時代から個々人の価値を追求する時代になったのかとなる
でもそれが世代が違うとぴんと来ない、ただ70年くらい過ぎる価値観ががらりと変わることがある、戦争の時代は国家が最優先課題であった、でも戦争に負けると国家はなくなっていなくても国家中心ではなくなった、その変化も大きかった

それて戦争から帰ってきた人たちは戸惑ったのである
ジャングルに残って日本兵が小野田少尉のように戦いつづけていた人がいた
それは極端にしてもこの変化は何なのだと理解できなかったのである
別世界から来た人のようになっていたのである
それで自分の好きなことをしろとか自分勝手に生きろとか言うこと時代私自身はそう生きてきても理解しかねるのである

ただ働くという時人のために働くことでありそういうことは変わっていない、会社中心の働き方が変わるとういことである
そもそも戦争の時でも何で戦うのか戦争のために死ななければならないのか悩んだ人はいる、特攻隊は20代だから特にそうだった、死ぬのが嫌だったからである
いくら社会が賞讃しても死ぬのが嫌だから煩悶したのである

何のために死ぬのか?

それが後になっても尾を引いている、それは死者を供養するときでもそうなのである
つまり何のための戦争だったのか明確にわからなくなっているからである
どうしてもアジアの欧米の植民地化から解放するための戦争だったというときそれも納得できないからである

●個々人の価値を求めて働く時代ー大企業中心の社会の終わり

いづれにしろ働く価値観が変わった、大企業中心の企業戦士の価値観は変わった
個々人がそれぞれに働く価値観をもって働く、会社のためではない、人のためになるために働く、そして自己実現として自分の好きなことを究めるために働く、でもそんなことができるのか?社会では今まで許されなかったことである
でも一時代が過ぎると戦前と戦後で黒から白のように価値観が変わってしまったことがありすぐには理解できないのである
だから若い人の感覚と老人の感覚はずれてくるのである
私は好き勝手に生きてきたのだから新しい価値観でもいいとなる
第一芸術家とかだったら会社人間ではない、それぞれに美を追求するし学問でもそれぞれの興味があり個々人で追求してゆくものだからである

大企業中心の価値観はカルト教団ともにている、カルト教団も大きな会社のようになっているからだ、また軍隊組織にもなっているからだ、そこで個性は拒否される
黒だったら黒一色になる、赤だっから赤一色になるからである
そこに個性は認められないのである
でもそういう価値観も変わったとなる、個人の時代になるというときそうである
それが社会全体になるというときなかなか信じられないとなる
そうなるともともと学校とかが集団組織に適応するためのものとしてあった
社会に出る訓練として集団で行動できるように編成された
そこからして変えなければならなくなる、教育でもそこで大きく変わる
働くことの価値観が変わった、ただまだそれに気づいていない人達もいる
若い人はそういう価値観になっても適応できる
老人はそれを理解すること自体むずかしいとなるのである

work1111.jpg

2025年日本経済再生戦略 国にも組織にも頼らない力が日本を救う【成毛眞・冨山和彦】
https://www.youtube.com/watch?v=K7S0nv2WZMY&ab_channel=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6

posted by 老鶯 at 14:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年10月02日

大学がかかわり久山町の健康増進運動はなぜ失敗したのか? (集団的平均的に人間をみたため?ー人間は個々に体でも違っている)


大学がかかわり久山町の健康増進運動はなぜ失敗したのか?

(集団的平均的に人間をみたため?ー人間は個々に体でも違っている)

illness1.jpg



久山町でかえって大学がかかわり健康増進とかしたら病気が増えた、くも膜下出血
で死ぬ人が増えたという

それはなぜなのか?

糖尿病および予備軍発症予防
は失敗し、著明な増加が認められた 8。実際 14 年間の努力にも関わらず、糖尿病の確定診断がついた人が男性で 15.0 から 23.6%、女性で 9.9 から 13.4%と著明に増加した。
また男性では、40 歳以上の久山町住人の約 6 割が、予備軍を含めた耐糖能異常という、数字に増えていた。研究責任者の九州大学・清原裕教授も 2007 年 7 月 27 日(金)の毎日新聞朝刊 で「1988 年以後、運動や食事指導など手を尽くしたのに糖尿病は増える一方。どうすれば減るのか、最初からやり直したい」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jln/26/1/26_47/_pdf/-char/ja


なぜ大学で健康指導してかえって病気が増えたのか?
武田先生の言うには人間を平均として見ることはできない、血管でも様々であり人によって違う、だから血圧でも130でも150でもそれを平均としてみることはできない
別に平均より高くても健康である状態の人がいる
降圧剤とか飲んでもかえって悪くなるという、確かに人間の体はいろいろである
体重でも体形でも体質でもそれぞれ違っている
もしかしたら人間が多様な個性があるように違っているのかもしれない
私の母親は百才まで生きたけど細い体であり重いものも持てない女性だった
でもどうも血管が丈夫でそれで病気にならずに百才まで生きたようだ
ただその人の体質によっていろいろな病気にかかることは確かである

私の母親は丈夫な体ではない、そして私の母親はそもそも無理をできないから激しいことはできない、日々家の中で同じようなことをして過ごしていたのである
一方姉の方は太っていて力があり男優りだったが認知症になり85歳で死んだのである
だから何か体力がないと細い体とか繊細な体でも長生きはできる
でも以外は体力ある人でも何か急な病気で死ぬことがある
スポーツ選手が意外と早く死ぬのはやはり体を丈夫だから無理もできるから過酷な運動で体を消耗して早く死ぬのかとも見る
私自身も体は丈夫ではない、体力がない、でも別に長生きするかどうかは関係ないから
もしかしたら長生きするのかとも思う、体力があるとかないとか長生きには関係ないようだからである
ただ体力がない人は激しい運動ができないから冒険などしにくい、それで私自身が登山をして死ぬほど疲れた、それで早めにやめたのである

人間の問題は平均的に何でも分類してとか見るのは危険である、人間の体にも個性があり多様性がある、でも大学では人間を平均的にみて健康増進を計った
糖尿病には減塩食でこういうものがいいと提供した
でも減塩するとかえってエネルギーがでなくなるという
だから人間を一様に平均的に見るのは良くないのである
それは人間の体だけではない、人間そのものもみんな違っている、それはその育った環境もみんな違っている、育った場所でも家庭でも環境でもみんな違っているからだ
教育でも問題なのは人間を平均的に一様に見る、それは明治から学校教育が始まりそうなったのである、なんでも点数をつけ平均化してみる
現代文明自体が常に数字化して平均でみる、でも人間は個々に様々であり違っている
でも個々に対応できない、それでかえってヨ−ロッパの貴族は家庭教師を雇ってそれぞれの個性にあった教育をしたから天才が生まれたのかとなる

また薬でも製薬会社のもうけのために過剰にのまさせる、これも確かにある
日本人は特に薬に頼りすぎる、すると必ず薬に副作用がありかえって悪くなったりする
糖尿病が増えているというときある人は病院に半年とか入院してかえって悪くなった
まともな食事もとれないことや精神的負担も大きくそうなった
そして家に帰ってその人なりの生活をしたらかえって良くなったのである
それは家に癒す効果があったからだと思う、その人は妻はいないが家に精神的に癒す効果がある、だからみんな家で死にたいというときそれは体の問題ではなく心の問題になっているからである

ともかく人間の問題は病気でもそうだし教育でもそうだしあらゆる面でそれぞれの個性にあったように対処できない、集団的に平均的に見てしまうのである
そして病院では番号で呼ばれたとか議員でも怒っていたのである
人間は数が多くなると当然そうなるのである、一人一人をなかなか診れないのである
一人一人の体が違っていても対処できないのである
それは病気だけではないあらゆることに一人一人に対処できない
だからこそ政党があっても政党では一人一人の言うことを訴えることを聞けない
あくまでも票として数を集めることが優先するからである
人間一人一人をみるのではなく人間を数として見ている
だからそれがカルト教団でも何でもいいとなりやすいのである
まとまった票になるからカルト教団でも頼りになるとなる、でもそうして集団だけを見ていると個々のことは見ないから問題が起きる
久山町で起きたことはやはり集団的平均的に見て個々の対応がなかったからなのかとなるでも久山町は小さい町なのだからそれができなかったのかとはなる

こうして現代ではみんな集団的になり個々人は見ない、それはカルト教団でも創価でも
共産党でもどこの政党でもそうなりやすいのである
第一何百万人のものも個々に対応することが不可能だからである
いくら相談になるのとしても無理である、でも個々に対応しないと問題が解決しないことがある
前にも述べたが人間の問題はカルマが関係している、そのカルマも個々に違っていて複雑だから一様に対応できない、貧乏な人はみんな苦しいから金の面だけからみる
それはわかりやすいからである、年収いくらだとか貯金がいくらもっているとか常に平均でみる、そういうのはわかりやすいから政策として反映しやすい

でも個々人の問題はそれだけではない、それぞれのカルマがありそれが他者からわかりにくいのである、それは別に金持ちの家でもカルマをかかえているのである
それがいつか必ず苦しみとなって現象化するのである
それは個々に違っているのだから集団で平均化して解決できないのである
そのことを私は家族の介護のことなどで書いてきた
カルマの解消はそれぞれが苦しまないと解消できないのである、金だけで解決するとは限らないのである
創価とか共産党でも組織団体では平均化して一様にみる、それは票になる数を集めることが優先されるからである
そこでは問題は解決しない、何百万に何が起きているのか、そこには不可解なことが常に起きている、罰当たるなど脅しているが信じられない不幸になっている人達が無数にいるのである、人間はそれぞれカルマを持っているからいくら集団化しても個々のカルマは解消できないのである

ただそもそも人間は個々に対応ができない、せいぜい数人しかできない、わずかの給付金を配ることなどはできる、根本的には解決できないのである
そこに政治の限界がある、政治家とは別に自分の利益を追及しているのであり身銭を切って困った人を助けることなどない、創価でも共産党でも他の党でも金に困っているから助けて下さいとか言っても党として政府に要求しますとなるだけである
それは国民の税金を分配することなのである
つまり集団的には問題は解決しないのであく、だから運がめぐると言っていたけど運が関係しているのである、その運が謎なのである、それはもしかしたら神の采配かもしれないからだ、だから人為的には解決しないのかとまでなる

ともかく人間は体でも個々に違っている、その違いをみないから久山町でも集団的に平均的に見て大学が健康増進運動でも失敗したとなる
現代は何でも集団的に平均的にすべてをみる、だから人を同じように見て平均的に対処したから久山町では失敗したのかとなる
でも個々に対応することはむずかしい、だから医者とかは体だけを見ていてもわからないその家族とかどんな暮らしをしているのかとまで診ないと本当は診れないとなる
様々なことは実際は関係しているからである
それで礼文町とかは島で二千人とかの人口でありそこの医者はたいがい一人一人のことがどんな生活化しているまでわかっている、すると体だけではないそれぞれの生活を知っているから個々に対応しやすいのである
それは小さな島だからできることである、ただそこにも専門医がいないとかで問題が生まれる
結局人間の問題は余りにも複雑な要素があり一面だけを診ては解決しないのである
集団化して平均化して見ては解決しないのである

例えばスリランカでは村の人が病気になると村の人みんなで祈っていた
そういうことは医者がいない時代に日本の村とかでもあったかもしれない
薬師堂が村の中心に常にありそこで祈るほかなかったからである
でも今のような医療がないから直しようがないことはあった
でも精神的にはみんなで祈ってくれるのだからそれが効果がないとは言えない
逆に現代では地域の人がそんなことするかとなるとしない
むしろ無関心でありかえって冷たい、田舎でも助け合うなど今はない、かえって人が苦しむことが楽しいとかまでなる、何か話題がないからそういうことで害にならなければ娯楽のようになっているのである
だから田舎でも相当に人間は変わってしまった、もともとそういうことが人間にあったにしろやはり時代の影響でそうなったのである




2022年10月03日

真野川に鮎が上っていた (天然の鮎は放射性物質の汚染度が高い)


真野川に鮎が上っていた

(天然の鮎は放射性物質の汚染度が高い)

manogawareserch1.jpg

fishradition1.jpg


シジミは比較的安全なのか?


真野川で投網をしていた人がいた、めずらしいと思って見ていた
土手に車が止まっていたので聞いた
漁業組合の人だった

今年は鮎が上るのが跳ねるのが見えなけどというと鮎は上っている、今は落鮎で大きくなっているという、そして天然の鮎は放射性物質の汚染度が高いという
それは長い間苔などを食べているからだという
特に天然の鮎は汚染度が高いという、なぜなら汚染された苔などを食べつづけいるからである
でも放流した鮎はそうではない、短い期間でありそれほど汚染されていないという
だから山女(ヤマメ)などは汚染度が高い、年中川にいるからだ
真野川の上流に水無河原の上流にもいる

そして真野川の真野ダムの下にやはり流れをせき止めたダムがあった
それが今回の大地震で壊れた、それでそこから泥水が流れ出した
それで濁った水が真野川に流れ込んだ、それは放射性物質に汚染された泥だったのである
新田川で釣りしていた人がいたが新田川で鮎は放流していないから天然の鮎だという
ということは食べると危険だとなる
とにかく真野ダムの泥には放射性物質が堆積している、そこから水道の水を利用しているから困る、そして真野ダムは大きくて除染できないからである
だからそこからどうしても放射性物質が流れたまるのである

ともかく県の人でも川を調査していたが今でもつづいているという
この放射性物質の汚染がやっかいである、いつなったらなくなるのかわからないからである
たた新田川で鮎は放流していない、真野側では依然として放射性物質を調べている
県で調べている、上流に真野ダムがありそれが問題なのである
またその下にダムのようにな流をせき止めたものがあり今回の大地震で壊れて泥水が流れた、それで一時真野川は泥川になったのである

今漁業組合の仕事はこうして放射性物質の汚染を計る仕事にもなる
真野川の河口ではしじみもとる人がみかけるようになったがそのシジミでも管理するのは漁業組合なのである、でもシジミはどうなるのかとなるとやはり放射性物質に汚染されているのか、それは良くわからない、鮎は汚染された苔を食べるので汚染される
しじみはどうなるのか、松川浦ではまだアサリとりなど許可していない

ともかく真野ダムに大量の泥がありそこに放射性物質が堆積されるさとが不安になる
だから水道の水を飲まない人がいる、相馬市でも真野ダムの水を利用しているからである川の汚染は川は狭いし海のように攪拌して薄められない、トリチウムを海に流すと問題だが川のように狭くないから拡散する、それで海に流そうとしている
それでも影響はある、でも川の問題の方が深刻だったのかとなる

放射性物質は回りの森からでも流れ出してきて真野ダムにもたまるからである
それは除染できないのである、セシウムの半減期が30年とかになるからそうした長い時間を待つほかないしまたプルトニウムとかなると二万年消えないとなるからやっかいなものなのである、だから原発は一旦事故になったとりかえしつかないものとなる
でも石油が高くなり電力を維持するには原発の再稼働しろという声が大きくなっている
でも原発のリスクが大きすぎるのである


posted by 老鶯 at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2022年10月04日

宗教二世問題の深刻 (子供の時から洗脳されてぬけられない)


宗教二世問題の深刻

(子供の時から洗脳されてぬけられない)

●学会っ子という洗脳された人や紅衛兵とかも同じ

なぜ宗教二世問題が深刻なのか?それは純粋な子供の時から家族が洗脳されているのだから子供もそれに従うからかえって純粋な子供は染まり安い
透明な水だったらそこに赤をまぜると赤一色にすぐになってしまう
それは透明だからそうなる、もしその色が青だったら赤をまぜたら別な色になる
そういうことがなく透明でありそこで一つの色に染まり安いのである

創価だと学会っ子とかいる、完全に学会で家族一体となり育った人である
そういう人を知っている、その人は創価しか見えないのである
だから疑うこともなく創価の色に子供の時から染まっている
そして大人になって一生創価しかない人間になる
その人が悪い人間ではない、かえって純粋で素直だとカルト宗教に染まり安いのである
それはヒットラーユーゲントと同じだったのである

それは宗教だけではない、共産主義でもそうだった、共産主義でも一種の宗教だからである、それで毛沢東の文化革命があり紅衛兵がそうだった
それも中国全土を席巻したのである、その主役が紅衛兵だったのである
そういう少年は洗脳しやすいのである、そのためにどれだけの被害があったのか?
これはヒットラーユーゲントとも同じだった、ハイルヒットラーでありナチスの被害も何百万人が死んだとかカンボジアでも二百万人が死んだとか空恐ろしいものだったのである

●地獄に落ちるとか罰あたるとか脅えさせ呪縛するカルト

統一教会でも魂を支配して奴隷にするのである、その教祖は実はサタンなのである
カルト教団とは何かというと人間を奴隷にするためにある
奴隷の霊を与えて支配するのである、地獄に落ちるとか罰当たるとか脅して支配する
それがサタンなのである、でも人間はそういうものに弱いのはいろいろな問題をかかえて何とか解決しようとするからである、それでサタンにも頼るのである
そもそもサタンが地獄人間が地獄に落ちるとか脅しているのだからそんなこと信じるのは馬鹿だとなる、かえって地獄に落ちるとか悩む人だと救われるとまともな宗教家が言っている

俺は地獄に落ちるんじゃないかとか罰当たるのかと悩む人はかえって救われるとしている親鸞だったら私は大悪人だといい、悪人正機説を唱え地獄は一定の住処なりと言っていたそういう人が真実の宗教家だとなる
つまり自分自身が地獄に落ちる人間だという人が真の宗教家でありお前は地獄に落ちるというのはその人がサタンなのである
なぜ地獄人間のような人が地獄に落ちるなどと言えるのかとなる
そんなことちょっと考えればわかる、地獄に落ちるとか一体誰が言っているのかとなる
それが大集団で言うと恐怖になる、つまり誰かではなく人間は大集団が怖いからそうなったのである、集団化すれば何でも正当化してナチスになったのである
赤信号みんなでわたれば怖くないになった、それが現代社会なのである
民主主義でもすべて数で決まるから同じなのである

でも人間はそういうことに意外と呪縛されやすい、とういうのは何か不幸があったり不可解なことがありどうしてもそれを解決したいとなり頼ることになる
でも人間はそうして頼る者が危険になる
この世では何でも仲介するものが危険である、宗教でも仲介するものは危険である
教会があり牧師がいたとしてその牧師は信仰を仲介する者である
するとその仲介する者が力を持つようになる、神に取り継ぐものとして力をもちカトリックが社会を支配するようになったのである
それで直接神と向かい信仰するべきだとしたのがプロテスタントだったのである

●メデア(仲介する者)になるものの危険ー牧師とか投資でも仲介するものは危険

ともかく何でも仲介するものは危険である、メデアとは仲介するものでありそれでマスコミがあり報道も歪められた、マスコミがどれだけ力をもったか、第三の権力となったのもメデアとして仲介するものとして力を持ったからである
マスコミに出れば名前が知られる、何百万人が見るとしたならそうである
その宣伝力があり力をもったのである、でもインタ−ネットが生れyoutubeなどが生まれてその力は弱まったのである、何かテレビで主役なのは司会者であり報道局を報道する設備を持っているテレビ局なのである、だから何かyoutubeで発言している人がテレビに出ると脇役になる、主役にはなれない、主役になるのは司会者でありテレビ局なのである
youtubeだと主役になっているのは一人の個人なのである

なぜ仲介する者が力を持つかというと例えば投資などわかりにくい、だから銀行で投資信託を頼む、でもその銀行はもともと投資のプロでもない、ただ仲介するものでありそこで手数料をとる、投資自体は悪いものではないにしろ素人だとわかりにくい、すると専門家に頼らざるを得ないでも銀行はもともと投資のプロではない、だから適当であり手数料をかせげばいいしかない、銀行は投資信託でも絶対に損することがないからいい商売なのである
ただそういうことは複雑な現代社会ではいくらでもある
例えば弁護士が必要だというとき自分で訴訟ができないから弁護士に頼る他ない
法律はむずかしすぎるからである、そして現代はいろいろなことで仲介者を必要となる社会である、そうなると人間は仲介者がいなければ何もできないとなっている無力化されているのである

●偽りの宗教に呪縛される人間(サタンに操作される人間)

宗教というとき実際は神仏に頼るわけでもない、そこに巨大な集団があり組織化して力を持つことになる、そういう巨大な団体に頼っているのである
その巨大な団体は権力化して社会を支配することになる、神仏を表に出していても実際は数を集めて権力を求めているのである
現代の権力は金と数だからである、神仏といってもそれはあくまでも権力を得る手段にすぎないのである、つまり実質この世を支配しているのはサタンだとなる
それは神仏に頼るのではなく権力に頼るからそうなる

とにかく宗教二世問題が深刻なのは子供の時から染まってしまうからである
それが悪いということはならないし素直なら従うからである
でもなぜ反抗期があるのか、また子供は成長すると親から脱出したくなるのか?
そうなっているはどうしても人間は独立するには必要だからとなる
また時代の差があり古いものを否定して新しい時代を作るために必要だからだともなる
世代間の対立があるのが正常である、だから幸福の科学の二世の人が親に反抗しているのは驚きである、でもそれがまともなのである
ただ親に従う者は新しい時代に生きられないのである
結局紅衛兵騒動でもまるで麻疹のように一過性で終わった、現代は一過性で終わるのが多いのである、継続しないのである、その時その時で熱狂して終わる
終わってみてそれは何なのだとなっている
一種の熱病でありそれが覚めた時、何なのだとなるのである

いづれにしろ宗教二世の問題が深刻なのは宗教の呪縛から解放されないのである
サタンに奴隷の霊が与えられて呪縛される、それが深刻なのである
簡単にやめられないのである、だから親でもそういうものを残す与えるということは罪作りなのである、簡単に捨てられないからである
そこで子供は親を恨むともなる、ただ親だからしにくい、それで山上は統一教会を恨んだのである、それだけではないそれとかかわった支持した阿部前首相を狙い殺したとなる
積年の恨みがありそうなった、だから自民党にしてもそういうカルト宗教団体と安易に票になるからといってかかわるべきではなかった
それは創価公明党も同じなのである、票になるからとカルト教団と一体化することは危険なのである、政教分離が生まれた経緯もカトリックで庶民が苦しんだ結果生れたからである、免罪符とかを売ったからである、ということは地獄に落ちるとか罰当たるとかを逃れるためにそんなものを金で買った、それが悪質なものであり信仰を仲介する者達がいかに危険なものか証明していたのである
地獄に落ちたのは実はそうして免罪符などを売った教会側の牧師とかであったからだ
地獄に落ちるなどと言っているその当人が地獄に落ちていたのである

●カルト教団を簡単にやめられないのはなぜか

でもなぜカルト教団がこの世から消えないのか?
それは人間がいろいろな問題をかかえる、それが解決できないからである
先祖が悪くて苦しんでいるとかでもそうである、そういうカルマは各自に必ずありカルマとして苦しむことになり解決したいとなる、それで仲介者に頼るのである
それが危険なのである、仲介者というとき師となるも人もそうである、習っていいとしても盲従することは危険であり偶像崇拝になるのである
現代文明社会はともかく複雑であり必ず大迷宮に迷い込む、そしてそこで怪獣に食われるのである、オウムなどがその典型だった、理系の優秀な人達がそうして麻原という怪物に食われて死刑になったのである
それは統一教会でも創価でも幸福の科学でも日蓮宗系統の顕正会なのか日本会議なのかそれらも同等なのである

顕正会が恐ろしいのは、「必ず病気が治る」「必ず幸せになる」などの甘言で誘うわりに、信仰の「功徳」は得られず、確実に「会合への参加」「新聞の購読」「年末の寄付」といった費用と時間と労力の浪費を強要されていくという点です。

「国立戒壇を放棄した創価学会に抗議する」として、約70人の男子部員が街宣車を先頭に東京・信濃町の創価学会本部に押しかけ、「責任者に会わせろ」と敷地内に乱入、乱闘騒ぎの果てに青年部長Mをはじめ12人が逮捕された。

顕正会の手法も創価と同じだった、でも日蓮宗同士でも争っていることに驚く
宗派争いが過激になる、イスラム教でも宗派争いが現実に戦争にもなっている
創価も前は顕正会と似ていたのである、でも数が多くなり反発があると会員を増やせないとして強行な折伏などはやめたのである
ただ基本的にはその実体は変わっていないのである
国立戒壇を目指すということはやめたとしても本質的には権力を得て日本を支配する
権力を握りそして御利益を分配するのである、だから野心家が入る、政治家になりたい人も入る、欲望を実現するために入る、なぜなら権力を得ることを団体自体目的化しているからである、心のことなど関係ないからである

その極端化したものが顕正会であり初期の創価と似ているのである
日蓮宗はどうしても過激にならざるを得ないのである、それで太平洋戦争でも日蓮宗を信じて戦った人もいることでもわかる
日蓮宗は武力まで肯定するほど過激なのである、それでその団体は僧兵ともなる
なぜなら組織自体軍隊組織だからである、権力を奪取するための軍隊組織になっている
隊長とか参謀とかなっているのもそのためである
だからこんなファシズム団体と政権を運営する自民党は危険なのである
統一教会問題と同じなのだが自民党の政権の一翼を担っているので責めないのである
でもいづれは会員が減って票を得られないとなると自民党は捨てる
そういう兆候がすでに現れているいるからである

●カルト教団はサタンに操作されている

要するにカルト宗教団体はただこの世の力を得る為にこの世の手法をとっているだけである、金が力となれば統一教会のように金を信者むしりとる、数が力となれば数を集める
本来の宗教とはまるで違ったものである
つまりこの世の力を得るためにサタン化したのである、堕落した天使なのである
この世に魅せられてこの世の王となろうとしている、それで宗教を利用しているのであるだから相当に悪質でありこの人達は来世では苛烈な罰を受ける
聖なるものを汚したとして罰を受ける、その罰は苛烈なものとなる
まさにそのことにこそ恐怖なければならないのだがしない、あなた達がどんな罰を受けるのか?来世で裁かれるのか、それを知ったらショックになる
でもそう思わないのはなぜなのか?そこに巧妙な仕掛けがありそれにはまっている
サタンといってもその人達がサタンではない、サタンに操られている
そうなるのは結局この世のものに魅せられてこの世で栄誉栄華を得たいためだとなる
だからはキリストが試されたのである

悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」

カルト教団とは逆である、この世の栄誉栄華を求めて得られるとしてサタンを礼拝しているのである、結局この世に生きているのだからその誘惑から逃れられないのである
宗教さえ実はこの世の王となるための手段としてサタンに魂を売ったとまでなる
カルト教団の求めているのはこの世の王になることであり栄誉栄華を得るためである
そのためにこの世の権力を得ることが目的化しているのである
それが世俗世界ならそうなっていても理解できるが偽りとなり宗教がかかわり訳わからなくなっている、王仏冥合だとか煩悩即菩提だとかその解釈もただ都合がいいようになされる、その目的はこの世の力を得てこの世の王となるのがその教祖の野望なのである
それで奴隷の霊が与えられるのである、それは金銭的なものだけではない魂が奴隷下されるから怖いのである





2022年10月05日

生糸取り(製糸工場)の戦前の仕事 (なぜ30分の休憩時間で早食いして死んだ女性がいたのか?)


生糸取り(製糸工場)の戦前の仕事

(なぜ30分の休憩時間で早食いして死んだ女性がいたのか?)

kiitowork1.jpg

10分は短すぎる、当然これだと体を壊すことがいた人はいる、早死にしたというのも本当だったのか?

https://www.youtube.com/watch?v=l8Lb5mZfyBU&ab_channel=%E3%82%86%E3%81%A3%E3%81%8F%
E3%82%8A%E3%81%B7%E3%83%BC%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%83%8D%E3%83%AB



私の母親が原町紡績(原紡)で働いていた、大正生れでありその頃の女性の仕事は生糸をとる仕事と女中くらいしかなかった
でも30分の休憩時間で早食いした女性がそれが元で死んだと聞いた
そのことが良く理解できなかった、でも野麦峠で有名な女工は休憩時間が10分とかyoutubeで見た
まともに休む時間もなく働きつづけたとなる、食事は味噌汁とた沢庵くらいでありそんなもので良く働けたと思う
休息時間が10分は短すぎる、だから本当に御飯でもかきこむようにして食べる
そると良くかんでいないからそれで胃が悪くなったりすることは考えられる

私の母とここの女工哀史になった人達の相違は山奥から貧農の娘が稼ぎのために出されたことである、でもその収入はかなり高いものだった、家を建てるくらいの金も稼いだとかなる、つまり貧農では食べるのもやっとだったとなる
それで正月に故郷の親元に帰ることが一番待ちどおしいことだったとしている
稼いだ金を親に与えて喜ばれるからだという
親孝行できるからだとしている、こういう時代もあったのである
子供はただ親に尽くすことだったのである

子供は親の犠牲になることだった!

今は親は子供の犠牲になる

時代が違うとこれほど違うものとなる、だから昔のことはなかなか理解できないし誤解することが多いのである
戦後生まれの団塊の世代でも子供の時は農家では農作業を手伝っていた、農休みがあるのは田植えと稲刈りで忙しい時があり子供手伝っていたからである
人手がたりなくて子供が労働力になっていたからである
中国ではなぜ男の子をほしがるかといえば男の子は労働力になるからである
私の家は店をしていて子供の時は奇妙だけど一番働かされらていた
配達とか卵買いとかさせられた、店でもその時は近隣でとれたものを買って売っていたからである、遠くからは余り物は入ってこない、運ばれない時代だったからである

ともかく戦後十数年は日本は貧乏だったのである、今とは比べようがないくらい貧乏だった、洗濯は裏の堀の川でしていたし卵も満足に食べられない時代だったのである
それで巨人、大鵬、卵焼きというようになった、卵焼きが食べることは贅沢だったのである

1961年(昭和36年)の流行語。

プロ野球の読売ジャイアンツ(巨人)と大相撲の第48代横綱大鵬幸喜、食べ物の卵焼きが当時人気があった。

卵焼きは贅沢なものだったのである、ただ農家では卵を鶏を飼っていたから普通に食べていたが農家ではない人は卵も満足に食べていないとういことがあった
子供時代は江戸時代の生活とさほど変わりなかった、燃料は炭だし街内でも囲炉裏があったからだ
それが東京オリンピック辺りから高度成長時代になり日本が世界へ復興した日本を見せることで意義があったのである
でも不思議なのは高校まで蒸気機関車だったのかということがわからなくなった
ただ原町の高校に通っていてトンネルをくぐると顔がすすけることがあって確かに高校まで蒸気機関車だったのである
そのことがどうもわからなくなった、普通の電車に乗っていたとも思っていたからである
戦後の焼け野原に生まれ生きたのが団塊の世代である
その辺は実際生きていたのがら子供でもなんらか記憶がある身近に感じる
では戦前となるとさらに江戸時代になるとまた前の時代をどうして理解するのかとなるとむずかしくなる
その一つは昼間の休息時間が10分だったという生糸工場である、それだけ過酷だったとなる
でも母が言ったのはそれほど厳しいことを言っていない、信州の生糸工場は親元を離れて仕事していたから厳しいとなった
私の母は実家から通って仕事をしていたからそういうことはなかったとみる
でも私の母親は継母に育てられたからいじめられたりしていたから別な苦しみがあった

でもその当時の感覚では生糸工場でも女性が外で働き稼げるということでそれが必ずしも重荷とはなっていなかったのである
何でも給料の代わりとして米俵何俵なのかもらったのか買ったのか継母にでも喜ばれたという、つまり女性が稼げるようになった、それも農業するより現金収入となり生糸の工場がみんな悪いものでもなかったのである
だから今の感覚ではひどいと見るが当時はそうでもなかったともみる
でも10分とか20分の休憩がないことは苦しいとなる
今では工場の流れ作業は辛い、勝手に休めないからである

その際に課題となったのは、女工を寄宿舎生活になじませること、都市生活による堕落を避けること、そして、勤勉に働かせることであった。さらに、このような要素を満たす女工を継続的に集めることも必要となったのである。つまり、産業革命期の日本では、資本家が労働者を確保し、資本主義生産に適した労働者へと育成することが必要とされたのである。
https://www.kansai-u.ac.jp/Keiseiken/publication/seminar/asset/seminar14/s205_2.pdf

ともかく過去を実感することは本当にむずかしい、本を読んだからまた映像を見ても過去を実感することはむずかしい、でも何か昔のことを再現する方法はある
団塊の世代だとやはりそれと似た経験をしている、でもその後の世代はそういう経験をしていない、すると実感できなくなるのである
ただ人間は過去を理解することが必須である
最近日本は貧困化していると盛んに言われる、でも本当の貧困とはなにか理解していないのである、理解できないのである
それは経験していないからである、例えば何でもそうだが経験しないわからないのである戦争のことをいくら聞かされてもそれが実感できない、戦争となると余りにも日常と違うからわからなくなるのである
人間と人間が殺し合うということがどういうことか実感できないのである

人間は別に今でも他者を簡単に理解できない、それはそれぞれにその人が経験したことがわからないからである
自分自身が経験したのは20代は底辺の仕事しかなかった、大学出ても底辺の仕事しか経験していないのである、だから仕事が嫌になった
その後家族に恵まれて引きこもりになり自由が与えられていたから旅をばかりしていたと自分の好きなことをしていただけである
それは家族に恵まれた結果なのである

過去を知るとき老人なら必ず昔を語る、その話を良く聞けばある程度は実感する
だから老人は語り部になる、実際に生きている人が語る時生々しいものとなるからだ
だから歴史は大きな国の歴史もあるが郷土史とかなると祖父母から聞いた話から過去を知り歴史を知るとなるのである
ただ昔を知るにはそうして祖父母から聞くとういうだけではなできない
その当時の資料を見たり映像を見たり方法がある
でもそこには想像力が相当に必要になる、私は子供時代に江戸時代のような生活をしていたからそこからイメージするものがある
でも戦後十年とかすぎて生れたりするとわからなくなるのである
10年でも世代が違うとわからなくなる、特に戦前から戦後はまるで違った社会に生きるようになっからその変化が激しくその経験をしたものしかわからないとなる

とにかく人間は過去を歴史をどうして理解するのかが問題である
それを国家の歴史というだけではない、庶民の歴史でもある
その時庶民はどう感じていたのか、それに耳を傾ける必要がある
ただもう大正生れの人は死んだ人が多い、だから直接話を聞くことはもうできない
それでも探る方法はある、それでも想像力がないとなかなかできないとなる
考古学でも残された一つの遺物から遠い過去を浮かび上がらせるのは想像力なのである

「富国強兵」の原則に基づいて日本社会の近代化を急激に促進した。政府は、近代化を実現するために必要な外貨を獲得する目的で、殖産興業政策によって、多くの産業部門に介入し、幕府から継承したものや新設したものを含む官営工場の経営にのりだした。中でも製糸業は、当時、最大輸出品であった生糸を生産して大量の外貨をもたらす産業として、国策の中核に位置づけられた。

富国強兵のための資金が必要であり外貨をかせげるのは日本では生糸を作ることだったのである
今でも兜作りの家があちこちにある、それは養蚕した農家なのである
桑畑もいたるところにある

鉄道黎明期に起きたとされる、「宿場町がすたれる」「養蚕業に悪影響が出る」「火災が起きる」などの今となっては理由にならないような理由によって、鉄道を拒否した町があったと言い伝えられている現象。各地にそういう話が残されており、信じているひとも多い。

蒸気機関車の黒煙が公害ともされた、それで養蚕の元である桑畑が汚されると反対したのが養蚕農家だった、それは福島県でもそういうことが起きていたのである
そのことでもいかに養蚕が日本の産業になっていたかわかる
相馬農業高校がもともとは養蚕を教える学校として始まったことでもわかる

原町紡績に引き込み線があり生糸を横浜に送りアメリカに輸出していたのである
原ノ町駅は平駅と同じく機関区になっていて大きな駅だったのである
そこから木材と石材とか常磐炭田あり磐城だと石炭を東京に送ったのである
鉄道はもともと荷物を送ることが主でありそれから始まった
北海道はもともと石炭を運ぶために鉄道が作られたのであり人を運ぶためではなかったのである、その時石炭が今の石油と同じくエネルギー源だったからである
輸送は鉄道でありだから駅に必ず貨物列車が入り荷物を下ろす引き込み線があった
ただ原町紡績だとそこまで引き込み線があるのはめずらしい
でも岩沼の工場地帯にも引き込み線があるから鉄道が輸送の主役だった時代があったことは偲ばれる
posted by 老鶯 at 09:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

コスモス、カーネーション、朝顔など(ようやく秋になる)


コスモス、カーネーション、朝顔など(ようやく秋になる)

sunflowerknnna1.jpg

asagaothree11.jpg

cosmos123.jpg

nichinichisou1.jpg
ニチニチソウ
motherday11.jpg
紫のカーネーションと母
shijyukara1.jpg
庭に来た四十雀



我に向き十数輪咲くひまわりやカンナの赤く映えにけるかな

三色の朝顔咲きぬ板塀に今日も通りて心なごみぬ

三色のコスモス壺にさしにけりここに調和し心なごみぬ

カーネーション紫濃しや我が母の遺影ににあう家を支えぬ

我が向かい一つきらめく秋の星神の御意にそかなうべしかな

夜のふけて幽かに一匹虫の声心の奥にひびきけるかな



カーネーションの花は母の日に送るものだった、カーネーションにはいろいろな色がある紫色もある、これは濃い紫だが薄い紫色もある
これこは仙台市で買ったものである、仙台市だといろいろな花の種類を売っている
この辺では仙台市から花を買っている、花の市場は仙台市にあるからだ
そこには外国からも入ってくるからだ
ただ今のところ自分の住んでいる町には一軒しか花屋がなくなった
花屋も維持するのがむずかしい
この紫のカーネーションは自分の母にあっていた、何か控えめであり地味だからである
もう一人の母親ははでなのである、でもここで問題なのは必ず二人の母親がいたから
どうしても二人を差別するとまずいのである
だからもう一人の母親には明るい大きな花があっているから挿すことにする

フラワーアレンジメントは野の花をとってでもできる、コスモスは川の土手に咲いていたものだからである、ただ壺も関係している、だから壺をある程度集める必要がある
私が買ったガラスの壺は安いものである、別に安くてもいいのである
何でも高価なものがいいとは限らない、その花にあったものが必要だとなる

いつも通る道にも三色の朝顔が咲いている、色が違って調和していることに心がなごむ
まずこの世の中とにかく色を一つにされる、学校などでも何か黒い制服でありユニホームを着せられる、自由がないのである
カルト教団とか軍国主義とかにもなるナチスのように一色にされる、そこは黒一色の世界なのである、個性は認められないのである
そこに調和なく心がなごむことはないのである、神の創った世界は様々な色があって調和しているのである

今日は涼しかった、ようやく秋になる、読書するとかにはいい季節である
夜がふけて一人幽かに鳴く虫の声を聴く、結局一人くらいならその悩みとか不満でも聞ける、もう五人くらい来てもその声を聴くことはむずかしくなる
今付き合っているのは一人くらいしか自分にはいない、人と付き合うのが疲れるからだ
それで引きこもりにもなったのである

ともかく人間は死んでも死んだ人と語り続けるものだと思った、何か認知症になった老人が死んだ人と話しつづけている
それを聞いて奇妙に思った、病気だからそうなったのかと思った
でも実際は普通でも死んだ人と語り続けているのである、そして死んでもすぐ忘れる人はそれだけ印象に残らなかった人なのである、でも延々と語り続けられる人は依然として生者の中に生き続けているのである

2022年10月06日

abstract mountain and forest trail


abstract mountain and forest trail

stepedway1.jpg

stonedbodda1.jpg

forestriver111.jpg

castlewalls2.jpg
foretress
abstractwater.jpg

deep and shallow water

これは一部を切り取ったものである
抽象画は単純なものである
深さと浅いを表現している
ただ切り取ったものだから著作権の問題がある

金だけで解決しない人間の問題 (特に介護とか病気とかになると愛がないとできない)


金だけで解決しない人間の問題

(特に介護とか病気とかになると愛がないとできない)

●家族の限界

私が親の介護と自らの病気で苦しんできたことを書いてきた
その時来た人は一人は借金で苦しんでいる人でありもう一人泥棒だったとかまたその後に来た人も借金で苦しんでいたとか貧困で苦しんでいたか金に苦しんでいる人達だった
だからこういう人達そもそも人を助けること自体できない人達だったのである
自分が苦しんでいる、金がないと苦しんでいる
その時私の家族でも自分自身が苦しんでいても金が欲しいということで来たとなるからだそれはふりかえれば恐ろしいことである
相手が弱っているからこの際金をとるのにはチャンスだなっていたのである
それも自分自身のカルマであれ人間の恐ろしさを身をもって知った

どうしても介護とか病気とか弱者になったときその時相手の心が露骨現れるのかもしれない、強い時はそういうことはない、相手も恐れてそんなことできないからである
相手が弱った時チャンスなのである、人間の社会は食うか食われるでもある
動物でも子供とか弱ったものが狙われて食われるからである
人間にもそういうことがある、相手が困ったらと助けたりしない
助けるとしてもそこには魂胆がある、この際弱ったから金をとってやろうとなる

まず人間をみれば確かに家族はいいものである、でも家族優先であり家族さえ助かればいいとなる、他の者はしょせん他人でありどうでもいいともなる
家族内では愛があっても他者にはないとなる
そういうことはどこの家族にもあるし自分の家族でもそうだった
確かに家族愛というのは人間の基本的なものとして不可欠である
でも本来の宗教だと仏教でもキリスト教でも家族を否定したのか?
シャカは王様の家に生まれて出家したりキリストでも親を否定したりしたのはなぜか?
それは家族は必要でも家族だけの愛はエゴになるからである

●病人とか弱者の虐待の恐怖

でも家族は必要である、そこが人間の基本的な生活の場でありそこが人間として学ぶ場になるからだ、とても養護施設などでは家族の代わりになれないからである
ただその家族が基本的なものとして必要でもすべてをまかなえるとはならない
だから介護とか病気とか他でも他者の助けが必要になる
でもその時問題なのはまた家族のように接することができないことである
愛をもって接することができないのである、そこに大きな問題が生まれる
なぜならそもそも愛がもていないと必ずそれが行動に現れる、それで虐待ともなる
それは弱者相手の世界で起きやすい、病気になると弱者となる

すると医者とか看護師でも弱者化しているから権力をふるうことは容易になる
そもそもそういう立場の人は愛がないとできない
直接体にふれたりただ身体を診ているだけではない、心も関係している
愛の心がないとみれないのである、愛でももって接することがなければできないのであるでも現実は患者を機械のように見ている、ただ注射して薬を与えどこから悪ければそこを切除すればいい機械のようにどこが不具合があれば部品を交換すればいいくらいにみる
そこに愛はなくてもいいとなる、それより患者は金になるものでありいらない薬でも手術でもするとなる、つまり医は算術になる
でも患者の方でも優秀な医者となれば体をみる技術者であり腕のいい技術者を選ぶのが
普通である、愛があるかどうかなど見ないということもある

近くの開業医の医者は見立てがいいと評判だった、腕は良かったのである
でも私の母はその医者の所に行かなかった、口が悪くずけずけと言い冷たい医者だったのである、でも腕がいいから繁盛していたのである
私の母はそれで別の医者に行っていた、そこは優しい医者だと行っていたのである
でも矛盾は優しい医者が医者として優秀ともならないことである
優しい医者より腕がいい医者の方を選ぶともなるからだ

これが大工とかなると他でも技術であれば腕のいい大工さんを選ぶ、でも別にその人が優しいとか必ずしも愛があるとかあまり関係ないからである
でも実際はある人に愛をもって家を建てるということは必要である
でも大工の場合はそういうことはあまり関係ないのである
でも医者とか福祉関係はかなりこの愛とかは関係してくる
人間の体は機械ではない、心をもっているからである
そもそも愛をもって体に接するのとそうでないのでは影響するだろう
人間はとてもいくらAIで診断するとかなってもそれで全部できることはない
病気になればやはり人間には愛がないと診れないと思う

ただそういうことより医者は腕がいい医者がいいとなる、また機械とかでも設備が持っている病院がいいとかなる、優しい医者だとかその性格みたいなものを見る人はいない
第一医者にしてみても大勢を診るのだから愛とか言っていられない、何でも大勢になると愛は消失する、だから議員ですら病院で番号で呼ばれたとなり怒ったとなる
病院は数をこなさなければならないからいちいち愛だとか言っていられないのである
どこでも数が多ければそうなる、政治家などでもとにかく票を集めなければならない、数を集めなければならない、個々に対応などできない、愛など全くなく民衆と接しているのである、ただ選挙の時愛想良くしている、実際自分のことしか考えない
議員自体がそう言っているからである、学校でも生徒でも一人一人見れない、だから先生が生徒に愛をもつことはむずかしいのである
結局人間は数が問題になる、数をこなすとなるととても愛など持てないのである
家族が一応愛をもてるのは数が少ないからなのである

●金だけでは解決しない問題ー病気と介護には愛は必要

ただ愛がないとできないことがあることは確かである
それは自分自身が介護で自分の病気で経験した、その人は愛はなかった、借金して金を欲しいというだけであり愛がなかった、愛を持てる状態ではなかった
だからそういう人が来たことは恐ろしいと思った、その人は特別何もすることはなくてもたいしたことをすることでも愛がそもそもないのだから箱一つもちあげる気持もなかったいやいやながらしていたのである、そのことはその表情とか気持に現れていた
自分のために何もしてやる気持がなかった、金が欲しいから仕方なくしていたのである
そういう気持で病人や弱者にかかわることは怖いことである
その人への影響が大きいからである、病気すら悪くなるだろう
別に病気が治ってほしいということでもないからである、ただ金が欲しいというだけだからである

でも金はもっていても困っている時まず金を出せとういうことは強迫にもなっていたのである、借金していたからそうなったのである、だから借金とか負い目も持った人は弱者を助けることができない、自分のことで精一杯であり他者を見る余裕がないからである
その人はただ患者を座って見ているのも嫌だったのである、何もしないとしても嫌だったのである、そういう人が苦しい時来たことは怖いことである
その人はただ何もしなくても見守ることすら嫌だったからである
でも金で苦しんでいるとしても後で金をやることはある、でもまるで金をくれたら助ける今くれとなる、でも苦しんでいる人はそういう余裕すらないのである

とにかく人間はそもそも家族であれ個々人であれ何か足りないのである
金だけの問題ではない、特に介護とか病気の人をみるとき心が深く関係してくるのである介護とかは気持がないとできないのである、病気の看護でもそうである
それは家族でもそうなのである、その親の娘は一人っ子であり親に特別良くされたのである、でも親は冷たいとして怒って来るなと言ったという、病気で苦しんでいるのに冷たいのである、そこに知っている70くらいの女性が何かと世話を焼いている
その女性は金に困っている、でも親はその一人娘に金を預けている、それで金が欲しいとしてもその娘はケチで金をくれないといい怒ったのである

だからこうして家族ですら愛がないと介護などできないのである
兄弟でも親に良くされたのだからお前がやれとなる、そして遺産では必ず争うのである
また意外なのは60パーセントなのかまたそれより兄弟でも付き合わなくなったということが50代で多いのである、結婚して家族が別々になってそうなったともなる
だから兄弟は他人の始まりだというのは本当である
私が特別親を愛しているのは死んでも愛しているのは60代まで一緒に生活していたからなのである、それで特別良くされたからそうなった、これは他ではないことだから特別だとなる

●愛とか慈悲とか最高にむずかしい

いづれにしろ愛を言うがそれはこの世でほとんど実行されていないのではないか?
それは家族であっても実行されない、だから宗教でも愛を慈悲を説いても実行されていない、カルト教団の人に愛があるのか?多少団体内で助け合うことはあるかもしれない
でも実情はやはりエゴであり自らの欲望を追及しているのである
議員になりたいから信者を票とみて接する、その内心は他の議員と同じである
選挙の時だけ愛想良く接することである、その本心は自分のことしか考えないのである
それは数を集めなければならないからそうなる
百万とか集めるとなるといちいち愛がどうだごうだなどと関係なくなるからである

結局愛が実行されている場とかあるのか人がいるのかとなる
愛といっても恋愛もあり家族愛とかもありシャカの慈悲とかキリストの愛とかは別物である、そもそも愛、愛、といっても本当の愛が実行できるのか、そんな人がこの世にいるのかとまでなる
愛とは愛さ愛を一般的に要求している、でも自分ではなく他者を愛することが愛だとするときそれが実行している人がいるのかとなる、ただみんな愛と言う時愛してもらいたい愛なのである、それも都合いいエゴなのである
もしかしたら本当の愛を実行できる人は一人もいないとかにもなる
愛はそれだけ実行することは困難を極めているからだ

わかりやすいのはとにかく人は愛というとき愛してもらいたい愛であり見返りのある愛であり家族だけの愛であり本当の愛はほとんど実行されないのである
そこに人間の絶望があり人間も動物界とたいして変わらない弱肉強食の世界だともなる
ただ表面上は愛を装うのがこの世である、カルト宗教団体でもそうである
そういう場所は他者を弱者でも食い物にもする場なのである
それが統一教会で極端なものとして現れたのである、他のカルト教団でも同じなのである愛と慈悲を看板にしてそんな人がいるのか一人もいないとなる不思議なのである
だからこの世と何なのだろうとなる
この世こそがこうして地獄そものもなのである、動物の弱肉強食の世界と変わりないのである、つまりそういう場に生きていることこそが地獄なのである
いくら科学技術が発達してもやはり人間が地獄を生きている、そのことに変わりなかったのである

●何の返答も見返りもない死者を愛せとういことはどういうことなのか ?

死者を愛しなさいとキケルゴールの本で書いてあった、死者を愛するとはどういうことなのか?死者を愛することができるのか?
死者はそもそも何も答えない、死者が本当に存在しているのか?
そういう死者を愛することができるのか、死者を愛するとはどういうことなのか
これがわかりにくい、でも私は家族がみんな死んでしまったからそのことが気にかかった死者を愛することがわからない、でも私は特別二人の母親に良くされたから今でも二人を思っている、それは特殊な事情でそうなった

何も答えないのだけど語りかけている、何か認知症になった人が延々と死者と語っていたという、その人にとって死者は死んではいないのである
だから認知症は必ずしも人間の異常でも狂気でもない、死者が死んでも生きてると思うことは人間にとってはむしろ正常だともなる
それより死者を全く思わない人がいる、親でも思わない、そういう人こそ異常なのである人間ではないともなる、その人は生前も愛することもなかったからそうなった
ただ遺産がもらいたくて親とかかわるという人も相当数いる
そして今は経済的にも苦しいから子が親を捨てるという時代にもなっている
もしかしたら江戸時代のことではない、現代こそ姥捨て山の時代なのかともなる
老人が増えすぎたこともありそうなることもありうる、現実に若い世代は老人は早く死んでくれというときそういう心情に若い人がなっているときまさに実際に捨てないにしても心では捨てているからそれが現実化するのである

愛と言う時、愛がないというとき、何か愛が介護でも重い負担なことではない
簡単なことでも愛がないということがある
介護するにも別に重い負担のことを言っているのではない、ただ何もしないで一時見守ってくれるということを頼んでもその人にはそういう気持ちがないからその人はが側にいること自体怖いことになる、その人はいやいやながらそこにいるからだ
何もその人に愛もないどころか全くそういう心を持っていない、そんな人がいること自体怖いことである、私はそういうことを家族の介護と自分の病気で経験して来た
そうなったのも自分自身のカルマだったとなる
それは余りにも自分は家族でも良くされた結果としてそうなった

他では親に虐待されたとか親ガチャの人が多いからである、私にはそういうことは全くなかったのである、それは60歳までもそうだったのである
そのために死んでも供養して語りかけている、死んでも愛しているとはなる
死者を愛することは介護のような重い負担はない、死者は何も要求しないのである
でも死者を愛し続けることはむずかしい、なぜなら返答がないからである
また報酬もないのである、そういう死者を愛し続けられるのかとなる
ただ家族が全部死んで今になると思い出が宝になったことは言える
家族として暮らした日々がなつかしくそのことを思い出しているとき家族がまだいるようにも思える
最後は人間は記憶に生きるのである、家族がみんな死んでも記憶としては消えていない
それで思い出しては生きているように感じるのである
でも嫌なことは思い出したくない、そういう記憶もありそういう記憶は消したいのである家族でも親に虐待することはむしろ心の傷となっているからそんな親を思い出したくないとなる、その時親は親ではない、死んだ人を想ってくれない人はやはり何かそこに問題があったとなる、ただ個々の事情は複雑でわかりにくいのである




2022年10月07日

日本は森の国でありヨ−ロッパも中世は森で覆われていた (グロ−バル化の弊害と生態系の破壊の問題)


日本は森の国でありヨ−ロッパも中世は森で覆われていた

(グロ−バル化の弊害と生態系の破壊の問題)

irinochikei1.jpg

日本がの地形の特徴として入野がある、この野が問題なのである
これは極めて日本の地形から生まれていたからである

我が恋は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくもかなしも (万葉集)

ここの入野は有名である、入野という地名は各地にある、入野とは山に挟まれた野とかなる、また山の斜面が野でもありその野の奥に入ってゆく地である
こういう地形は日本の典型としてある、だから野とは極めて日本の地形から生まれた言葉なのである
大陸だったら原になる、広々と開けた原になる、それは日本の野とは違っている
日本で平というとき地名にもあるし平氏とかもある、その平な場所とは平原のような場所ではない、山の斜面でありまたその一部分が平らな土地だったのである
日本は山国であり平らな土地が貴重だったのである
そこで山であっても田畑を作れるとなるからだ

日本がではそもそも山というとき谷間と字を当てている、また矢間とかもあてている
山とはやはり山と山の間とか谷間とかの間を利用して生活していたからそうなった
おそらく高い人間の生活できない場所は嶽となっていた、山岳である
人間はまずその生活感覚から地名でもなづける
浜というのもハ・マーはまであり間なのである、海と平地の間がハマなのである

元は野(ノ)といふのは山の裾野、緩傾斜の地帯を意味する日本語であった。火山行動の最も敏活な、降水量の最も豊富なる島國で無いと、見ることの出来ない奇抜な地形であり、之を制御して村を興し家を立てたのも亦一つの我Lギター(エレキ)フ特長であった。野口、入野といふ類の大小の地名が、山深い高地に在るのも其為で、是を現在の野の意味で解こうとすると不可解になるのである」(同上)。〈柳田国男ー地名の研究)

野原というとき野ー原が合体して生まれた言葉である、でも野の一字だと山野斜面とかになる、だから野原とは山の斜面からさらに平らな原の地域だとなる
原は日本語ではないのである

日本語と外国語の感覚は違っている、森というとき日本の森とヨ−ロッパとか中国とか大陸の森は違っている、日本の森は盛るーもるとかなり盛り上がったとかなる
何か余り森を意識した言葉ではない、林(はやす)だと生活する範囲にあり親しみやすいはやしはハヤスからきていて里をハヤス、栄えさせるという意味にもなる
森は林から離れた別の世界である

ともかくかつて深い森に覆われた世界が日本がにもありヨ−ロッパにもあった
その森で交通も閉ざされていた、森を抜ける道はあまりなかった、すると森が境界となり閉ざされた世界を形成していたとなる
相馬藩でも夜の森があるがそれは余の森であり相馬藩主が領有権を主張したのである
森は境界にもなった、川がヨ−ロッパでは境界になったが森も大陸だと森におおわれていたらそこはなかなか入ったら抜けられないような森林地帯となる
そこでその森の中で伝説が生まれたとなる
相馬藩内の双葉町の夜の森は余の森である、藩主の森とういことで領有を主張したのである
飯館村や丸森は森に囲まれた世界である、そこが地理的に一つの国となっている

五月雨や森におおわる木曽路かな(自作)

木曽路でも森の中に道があった、その時五月雨に森が煙っていた、そして奥へは行けなかった、あんな森の道があった、相当に暗い道だから昼でも暗いからそこを行くことは不気味だともなる、つまりそういう道しかない時代である
何らかでそういう森が覆っていて暗い森の道を行かざるをえない時代だった
なかなか森を抜けるさとはできない森があった、ただ日本の森は山と一体化した森であるヨ−ロッパとかの平原にどこまでもつづく森とは違うのである
縄文人は森で暮らしていた、すると相当に暗い場所で暮らしていたことになる
それは鎮守の森となったように日本人の歴史と文化で継続していたのである
森の中に神社があり街ができても森(杜)で覆われていたのである

日本では森は失われることがなかった、森の木でも全部切ったりしないからである
また羊とか山羊とかでも放牧しない、だから森は残った、ヨ−ロッパではギリシャとかでも森が喪失して岩山になっている、でも羊を追う人を山の斜面で見かけた
羊を飼うと森は喪失する、草を食料とするから樹は切られ森が喪失する
ヨ−ロッパでは羊を飼う放牧する人がみかける、そのために森が喪失したともなる
また文明を発達した地域では燃料でも森の木を使うから森を喪失しやすいのである
だからかつて森におおわれた所が都会になったりする
レバノン杉が有名だけでほんのわずかしか残っていないからである
エジプトにも森がありもともと神殿の柱は木だったとしているから森があった
文明は森を破壊して消失される、インドネシアでも原生林が破壊されてオランウータンの棲む場所がなくなったと保護される
文明は様々な資源を食い尽くすのである、それが機械化して大規模になったのである

人間はもともと自然が障壁となっていたから山で川で森でさえぎられていた
自然の障壁が国境となっていた、ライン河はローマ帝国が越せない境となっていた
ゲルマン人が住んでいてその民族は強固な紐帯を持った民族だった
イタリアが南方民族だとするとゲルマン人は北方民族の方になる
そしてゴシック建築の石の大聖堂を造った、それはドイツの樅の森を模したものだというとき独自な文化が実は自然の風土からcultivateされたものでありcultureになったのである
日本だと島国であり海に囲まれているから海に遮られていることによって独自の歴史と文化が育まれたのである

だからこの国境というのは自然国境になっている、自然に生成した国になる
日本で小国が多いのは山に囲まれてそこで自給自足していた、一つの国だったからであるその土地土地で自給自足していたのである
そして逆にコロナウィルスとかでは国境が見直されたのである、ウィルスが入ってくるのを止めるのは国境だからである
ともかくグロ−バル化は国境とか国籍とかをかえって無視する必要ないものとした
でも結果的にそこで様々な問題が生まれたのである
多国籍企業などが国家を越えて他国の森林を大型機械で伐採して破壊してオランウータンなどを住めなくさせたとか自然破壊が行われた
それは日本だって自国の森林は利用せず荒廃させて外国の森林の木材を利用したから同じである

ともかく人間はどうしても生態系を無視して生きていけない、でもこの生態系がグロ−バル化でも工業化でも破壊されつづけたのである
それはこの辺の原発事故でもそうである、空気から水から森林でも田畑でもあらゆる生態系の中で生きていたものが放射性物質に汚染されたのである
奇妙なのは川は狭いから汚染されつづけている、鮎が上ってきても苔などを食べると
放射性物質に汚染される、そして川の放射性物質は海のように希釈されないから困る
そして真野ダムとかあるがそこの下の泥には放射性物質がたまっている
そこは広いから除染されない、またしたとしても回りの森から放射性物質が流れてきて
たまるのである

確かに遠洋漁業が盛んになったけれども沿岸漁業になると森でも山でも川を通じてつながりがある、そこで生態系に準じた生活になる、遠洋漁業になると国土とのつながりは消える、また魚を大量にとるので中国でもとるようになったから日本の沿岸でサンマなどでもとれなくなったとかある、グロ−バル化というときこうしてあらゆることに影響したのである、食のグロ−バル化もあり競争があり日本がもともと海の幸に山の幸であり森の恵みがあったがそういうものも無視されて外国の木材が使いやすいとして日本の森の木材を使われずに荒廃したともなる、また養殖の魚にしても自然の者ではないから問題がある
つまりグロ−バル化は生態系を無視するからそうなる、ウィルスでも風土病だったようにその国にとどまって伝染が広がらなければ良かった
現代だとたちまち同時間でウィルスが世界中に拡散されるのである
そのグロ−バル化も頂点に達したの今である、グローバル化の負の面が大きくなったのである
日本では食料を外国に依存したことでも失敗だった、米すら不足するというとき国内で自給することを怠ったからである、それをすぐには回復できないことが問題なのである
これまでしてきたことを簡単に修復できないからである

いづれにしろもうグロ−バル化は縮小せざるをえない、それには何か無理があったのである、食糧までグロ−バル化することは危険でもあった、ウクライナの戦争でもわかった
食糧が何か争いがあると入ってこなくなる、だから外国に頼ることは危険だったのであるそういうことはうすうす感じていたが現実化したのである
人口減少が騒がれるが地球規模でも人口は増えすぎたのである、地球で養う限界になっている、グロ−バル化して食料を燃料でも資源でも費やすことはできなくなる
SDGsとは「Sustainable Development Goals」を「持続可能な開発目標」が世界的標語になったようにそれぞれの土地土地で生態系に準じた生活に戻ることでもある
そこでリストアーするのが世界的に目指す社会になったのである
接続可能というとき森でも大地でも海でも山でもそうである、生態系に準じて生活することなのである、それがすべてでない技術や開発をすべて否定するのではない、過度になり行きすぎたものになったからそうなるのである
丸森の山ごとソーラーパネルにしたら保水能力がなくなり宇多川でもまた氾濫するかもしれない、あれは本当に行き過ぎた開発なのである


2022年10月08日

汽笛一声!文明開化を決めた資金調達若き大隈・伊藤の挑戦(NHK英雄たちの選択) (鉄道開設に見る明治維新―鉄道開設百五十年)


汽笛一声!文明開化を決めた資金調達若き大隈・伊藤の挑戦(NHK英雄たちの選択)

(鉄道開設に見る明治維新―鉄道開設百五十年)

railway1.jpg

●鉄道開設でも日本は欧米の植民地にならないために苦慮した

当時の国庫には余裕がなく、「植民地主義を推し進める西洋列強に対抗するための軍備増強を最優先すべし」と唱える西郷隆盛らは、鉄道建設に猛反対。さらに、藩邸や兵部(ひょうぶ)省(軍務機関)の海軍操練所などがあった新橋から品川にかけての土地の買収問題も鉄道建設の行く手を阻みました。

日本初となる鉄道の敷設事業は、民部・大蔵両省の大輔(次官職)である大隈重信の主導のもと、民部省鉄道掛(がかり)により進められることとなった。

大隈は佐賀藩の出身で、精煉方が製作した蒸気機関車を見ていただろうし、西洋文明を尊重する土壌に育ったことも大きかった。日本を近代化させ欧米列強と肩を並べるためには早急に国を豊かにしなくてはならない。その一つの手段として、交通制度の整備が急務と考えたのである。そして「鉄道より軍艦を優先すべし」と主張する反対派を押し切って鉄道敷設を実現させたのだ。

実際に工事を指揮したのは、英国人鉄道技術者のエドモンド・モレル。さらにいえば、建設費も主に英国からの外債で調達し、汽車も英国製だった。レール幅は英国の規格に合わせた。ただし英国本国のそれではなく、植民地用の狭いゲージ(軌間)だった。このため、日本の鉄道は欧米よりずっと狭くなり、列車の幅も細くなってしまった。

資金や資材の調達は、パークスから紹介された英国人金融家のホレイショ・ネルソン・

レイに一任していた。ところが彼は、日本政府をだまして利ざやで儲けようとした。これが発覚すると新政府はレイを解雇したが、すでに中古の汽車や狭いゲージのレールが発注されていた。のちに大隈重信は、狭いゲージを採用したことについて「一生一代の不覚」と悔やんでいる。

いずれにせよ、当初の鉄道は、英国頼りでつくられたものだった。


これは興味深かった、明治維新を鉄道開設から見えるものがあった
明治維新はわかりにくい、良く日本だけが欧米列強の植民地にならなかったという
そして太平洋戦争はアジアの植民地解放の戦争だったという
そういうことは実際は明治維新を知らないとわからない
鉄道開設が明治維新の原動力にもなったことを知らないとわからない
なぜなら鉄道開設には巨額の資金が必要だった、その資金をどうするかがまず大きな障壁となっていたのだ

●金をいかに調達するかで苦労

●アメリカの資本家から調達ーでも経営権を渡すことで拒否

●イギリスの資本家からイギリス国家から資金援助を頼む

●国内資金でまかなう

ここに一連の資金調達の経過がでている

資金援助してもらいたいが経営権を渡すとそれは日本が植民地化されることにもつながる国内資金でまかなうべきだとか論議があった、でも急いでいたので資金調達を早くしなければならないのでそれもできなかった
最終的にはイギリスの銀行家が資金を調達できた、それは国家からではなく一銀行家であり経営権は日本にあり利益を出したら配当するということになった
その前にイギリスでも投資家がいて資金調達すると話しがあったがそれは日本が経営するものではなかった、それは契約書を良くみていなかった、まだそうした契約書に慣れていないからそうなった、見落としていたのである
そのことでアメリカではやはりインディアンを契約書でだまして土地を奪ったということがあった、欧米人はこの辺が巧妙であり契約書でもだますために使っていたのである

ではなぜイギリスから資金が調達できたかというとその頃イギリスの植民地化に収奪された国が反乱を起こしたりして政策が変わった、利益を出せばいいとしてイギリスの銀行が資金を出したのである、それは経営権を奪うということではない、日本人が経営して利益を出してその一部の利益を銀行に出すということになったのである

ともかくここで日本人は経営権とか独立して鉄道を運営することにこだわったのである
なぜなら外国資本が入り経営権がないと例えば鉄道を見守るとか保守するとかで軍隊まで駐屯するとかにもなる、実質植民地化されることを危惧したのである
それはイギリスがこれまでしてきたことでありそれを大隈とか伊藤博文はヨ−ロッパとかにも直接行ったので知っていたのである
明治維新の時上海でも高杉晋作が中国人がイギリス人に支配されて苦しんでいるのをじかに見ていた、それで日本は外国に植民地化されてはいけないと肌で感じていたのである
日本はとにかく欧米の植民地化されることを警戒していた
でも鉄道開設に関しては西郷や大久保利通などは薩摩は反対していたのである
軍事を優先するべきとして反対したのである
薩摩屋敷がありそこを鉄道が通ることにも反対したので海の方に鉄道を石積みで敷設したのである

鉄道開設に関してはまた庶民の反対も大きかった、篭屋とか馬車屋とか運送業が反対したりした、何でも鉄道と馬が競争したとかもある、それだけ鉄道というのがどういうものかまだ庶民はわからなかったのである
最初は鉄道の枕木は鉄で作ろうとしたが費用がかかることで木にしたのである
また橋でも鉄橋にしようとしたが費用がかかることで時間もかかることで木で作ったのである
最初はいろいろ苦労があった、その車両でも箱家とか見た人がいたこともわかる
家が移動するように見えたからである

●鉄道事業か明治維新を成功させた

日本は明治維新から鉄道の果たした役割が大きい、その後も日本は鉄道王国にもなった
イギリスがもともと鉄道を蒸気機関車を発明した、それはイギリスには石炭が豊富だったからである、まずエネルギーがないと蒸気機関車も動かない、エネルギーが大事なのである、それで日本の鉄道も常磐炭田があったが石炭を運ぶものとして拡大した
北海道でも石炭の産地でありその石炭を運ぶものとして鉄道は日本中にめぐらされたのである、つまり鉄道は石炭と一体となり発展したのである
鉄道は国家的事業だった、そしてそれは百年以上も国鉄であったことでもわかる
この国家的事業は世界にも拡大したのである、韓国に鉄道を敷設したのもそうである韓国の鉄道は日本が最初に作ったのである、そして朝鮮半島から満州鉄道が伸びて行ったのである、満鉄が日本の満州支配の原動力となっていたのである

ハリマンは、日本の財界の大物や元老たち、桂首相らと面会した際、日本はロシア帝国から譲渡された南満洲鉄道の権利を、アメリカ資本を導入して経営すべきだと主張し、アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた[24]。9月12日、彼は日本政府に対し、1億円の資金提供と引きかえに韓国の鉄道と南満洲鉄道を連結させ、そこでの鉄道・炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案した


「ひかり」の歴史は、日韓併合(1910年)までさかのぼります。日韓併合に合せて朝鮮鉄道局(以下「鮮鉄」)が設立、翌年の1911年に新義州と安東1を結ぶ鉄橋が完成、長春まで直通する「鮮満直通急行」が運転されました
明治45(1912)年6月、新橋〜下関間に特急(列車番号1/2)が運転されます。それに合わせて関釜連絡線の運行時刻も改正され、さらに鮮満直通急行が釜山にまで延長されました。さらに翌年、運転区間を釜山より釜山桟橋に変更、関釜連絡船との接続が重視されたダイヤとなりました。
船が釜山港へ到着後、目の前に停車している「ひかり」「のぞみ」に乗れば、朝鮮半島経由で大陸(満州)へ。そこからシベリア鉄道に乗ればヨーロッパへ。このルートが、当時の欧州への最短ルートでした。

ロシアから譲渡された鉄道が満州鉄道であった、アメリカを味方にしてロシアが満鉄を奪い返すことを防ごうとした、こういう時代もあった
金のない時代は飛行機が高いので鉄道を利用した、ウラジオストックからシベリア鉄道でヨ−ロッパへ向かった、日本からヨ−ロッパに行くには鉄道を利用したのである
私はウラジオストックからシベリア鉄道に乗り満州を回り日本に帰ってきた
外の景色はとうもろこし畑ばかりで飽きた、変化がないから飽きた
ただ満州となると相当に寒い場所だったのだろう、春だったのか大地が凍てついていたのである、日本人だったら満州の広さに驚いたろう、農業が主な時代だとどうしても土地が必要であり満州のような広大な土地があるということは驚きだったとなる

●明治は植民地化されなかった偉大な英雄の時代

明治を知ることは今の日本を知ることである、でもいろいろと錯綜していて明治維新はわかりにくいのである、確かなことは欧米列強の植民地化することに抵抗して自立するという意志が日本人にあったということである
これは日本だけがアジアでできたことでありそれは誇りとすべきものだった
でも太平洋戦争は確かにアジアの植民地支配からの解放というけどまた違っていた
とにかく明治は偉人が様々な分野で輩出した、それはなぜだったのか?
その偉人とはたいがい侍が多かったのである、だから明治維新は侍が成したものであり庶民ではないのである、侍が優秀だったから成したともなる
例えば宗教の分野だと内村鑑三がいる、彼も独立信仰を唱えた、外国人の宣教師を嫌ったのである、これも明治になかなかできないことである

カトリックとなるとそうしてヨ−ロッパ人に支配されたともなるからだ
内村鑑三が武士道とキリスト教を一体化したのである、ただ彼はヨ−ロッパの文明をキリスト教文明と見ていた、鉄道とかではない機械とかではないものとして見ていた
でも日本は鉄道とか機械とか便利なもの実用的なものを西洋文明として見ていたのである常にモラルを重んじていた、それも先見の明があったとなる
なぜなら今や日本人にはモラルすら消失したともなるからだ
ただそうして便利なもの機械とか道具が文明として追及してきたからである
不思議なのは仏教を取り入れた時はそこに確かに大仏とか仏像を作るとか寺院を作るのは技術力である、そういうものを取り入れたとしても本質的には精神的な仏教を取り入れたのである、でも西欧文明を取り入れる時日本は物質的なもの機械とか道具をその文明とみて取り入れたのである、その最大の象徴が鉄道だったのである

そういうことがあってもなぜ明治が偉大だったのか、その理由はやはり侍がいてその侍が日本人として独立心があり優れていたからだとなる
ただ現代をみれば侍などいない、太平洋戦争で戦った人たちはもう江戸時代の侍とはかけはなれていた、そもそも世界的にも戦争は貴族がしていたものだから外国でも何か違っていた、でも国民戦争になるとき戦争の形態が変わったのである
大衆戦争ともなったのである、機械戦争ともなったのである
だからそこに英雄がいないということでもそうである、英雄というときそれは極めて人間的な人だからである、でも現代の戦争には英雄は生まれない、ただ機械と物量の戦争であり人間的なものがなくなる、人間はただ機械より劣るものであり英雄は生まれないのである、ただ何か物のように人間が消耗されるのである
それは戦争でなくても文明は人間を物のように消費しているからだともなる
現代の戦争からは英雄が生まれないのである、ただ命が物のように消耗されるだけだとなる、そして死ぬ数が莫大なのである、何千万人も死んでもそこに一人の英雄も生れないのである

ともかく何か明治維新とかは人間的なのである、人間のドラマがある、だからこそドラマにもなる、太平洋戦争とかではドラマになりにくい、もちろんナチスとかでもそうであるただ大衆戦争であり人間の莫大な命が消費されるだけだともなったのである
核戦争になればもうそこには人間はいない、もう戦争することは人類滅亡にもなる
そういう危機がウクライナ戦争で迫っている、時代によって戦争の意味も変わった
もう戦争自体が核戦争となると人類滅亡の戦争となるだけなのである




posted by 老鶯 at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層