2022年09月17日

只野氏が語る家の歴史 (安積氏と平景政に連なる歴史ー安積は安曇(あづみ)なのか)


只野氏が語る家の歴史

(安積氏と平景政に連なる歴史ー安積は安曇(あづみ)なのか)

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福島県宮城県岩手県など只野氏が多い、東北地方に多い
ただ広島県とかに広がっているのはわかりにくい

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閏正月11日、聖武天皇の鹵簿(ろぼ)は恭仁京から難波へ向かった。天皇の皇子、県犬養広刀自(あがたいぬかいひろとじ)夫人を母とする安積(あさか)親王も扈従(こじゅう)したが、河内の桜井頓宮(現、東大阪市六万字)で脚の病のため恭仁京へ引き返した。翌々日、薨去する

祖父:文武天皇(母方の祖父は県犬養唐
父:聖武天皇
母:県犬養広刀自

安積親王という名に気がついてからこの作品に取り組んでみて、はじめて安積親王と葛城王との関係を知りました。葛城王は、のちに橘諸兄と名を変えますから、同一人物です。その上、安積という地名と郡山に伝わる采女伝説のなかの葛城王(橘諸兄)が、安積親王と深く関連する事実に驚かされました。

 郡山で葛城王と言えば、『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに』
 
 https://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/?ctgy=30
 
 天平十六年(744)、春二月に、安積皇子の死去に際して大伴家持が詠んだ歌(03/0475 )には、現在安積親王墓がある和束山を「和豆香山」としています。

さらに、古今集仮名序に、難波津の歌とともに「歌の父母のようにして、手習いする人の最初に習うもの」という安積山の歌では、「安積山」の原文が「安積香山」になっています。

木簡の両面が古今和歌集の序文の2首とまさに同じセット。
紀貫之は『古今和歌集』仮名序(延喜5年(905))で、
「・・・この二歌(ふたうた)は、歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と、
初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。
2首をセットにしたのは貫之の独創とも思われていたものが、
実はその150年前からセットとして認識されていたことになるという。
難波津の歌はいわば公の歌。
宮廷の歌会に出席した人物が、この歌が書かれた木簡を持ち帰り、
裏に安積香山の歌を書き加えたのでは」と推測し、
「難波津の歌」と「安積香山の歌」がセットであると認識していた人が、少なくとも一人はいたことになる。
2首を手本とする考え方はその150年前から、いや、それ以前からずっと存在していて、
「子供の頃に手習いで書いたなぁ」ということで、持ち帰った木簡の裏に書いたのではないか。
とのこと。

出土した歌木簡の復元ー滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、
万葉集と古今和歌集に収められている2つの和歌が記された木簡が見つか
 木簡の片面に書かれてあった上記の「安積山・・・」の万葉集の歌を万葉仮名に復元すると、
赤字部分が今回出土した部分。

阿    佐    可    夜    麻    加    氣    佐    閇    美    由    流    夜    真    乃    井    能    安    佐    伎    己    々    呂    乎    和    可    於    母    波    奈    久    尓
あ    さ    か    や    ま    か    げ    さ    へ    み    ゆ    る    や    ま    の    ゐ    の    あ    さ    き    こ    こ    ろ    を    わ    が    お    も    は    な    く    に

反対側の面

奈    迩    波    ツ    尓    佐    久    夜    己    能    波    奈    布    由    己    母    理    伊    麻    波    々    流    倍    等    佐    久    夜    己    乃    波    奈
な    に    は    つ    に    さ    く    や    こ    の    は    な    ふ    ゆ    ご    も    り    い    ま    は    は    る    べ    と    さ    く    や    こ    の    は    な
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/105.htm

アサカ 【浅香】5 , アサカ 【浅賀】5 , アサカ 【朝香】4 , アサカ 【朝賀】4 , アサカ 【安坂】4 , アサカ 【阿坂】3 , アサカ 【浅加】3 , アサカ 【朝加】3 , アサカ 【淺賀】2 , アサカ 【淺香】2 , アサカ 【阿阪】2 , アサカ 【浅積】2 , アサカ 【東日下】1 , アサカ 【朝下】1 , アザカ 【安坂】4 , アツミ 【渥美】5 , アツミ 【熱海】5 , アツミ 【厚見】4 , アツミ 【安海】4 , アツミ 【厚海】4 , アツミ 【渥見】3 , アツミ 【厚美】3 , アツミ 【厚味】3 , アツミ 【敦見】3 , アツミ 【渥実】2 , アツミ 【渥味】2 , アツミ 【渥海】2 , アツミ 【安津見】2 , アツミ 【熱見】2 , アツミ 【篤美】2 , アツミ 【渥實】1 , アツミ 【温海】1



桓武平氏の鎌倉氏、清和源氏の和賀氏などに見られる。

# 只の(普通の)野原という意味。また「只」には「一面の」とか「まっすぐな」という意味もあり、どこまでも野原が続いているさまを表す。

# 只野(ただの): 「普通(ただ)の野」。多田野や但野に転じた。

# 宮城県:177位、福島県:439位、岩手県:647位、北海道:814位など。

# 陸奥国安積郡只野村(福島県郡山市)をルーツとし、桓武平氏の鎌倉氏の支流。

鎌倉時代末期に下総国相馬郡から陸奥国行方郡へ移っていった相馬一族。南北朝時代は北朝=足利氏に属して南朝の北畠氏と合戦している。室町時代は行方郡内の領主として勢力をもち、奥州の群雄の一家に成長した。室町後期には伊達氏と交戦して互角の戦いを見せる

諸国に景政の後裔のだんだんに現れてきたことである
その中にめぼしきものは上州白井の長尾氏、これは系図にも景政景政の後と書いて熱心に御霊を祀っていた、信州南安曇の温(ゆたか)村にはその一派が居住し,後に越後に移って謙信を出したのである
奥州二本松領の多田野村に於いても御霊を祀ったのも長尾氏である、只野油井などの苗字に分かれて今も地方に栄えている
子孫五流ありという説なども彼らから出たのである
長州藩の名家香川氏もまた景政の後といい、その郷里安曇の沼田郡八木村く景政社があった

柳田国男全集5巻

師常の子孫は代々相馬氏を名乗り、相馬御厨を中心に発展していくこととなる。師常の子六郎常家は「矢木」を称し

鎌倉景政(景正とも)は桓武平氏の一族。相模南部の鎌倉郡一帯を治めていました。源頼朝から遡ること3代、武神と崇められる源義家に仕え、鎌倉武士の鑑とされる程勇敢な武士でした。鎌倉権五郎景政は鎌倉氏を最も興隆させた勇士として知られ、現在も鎌倉氏坂ノ下の御霊神社に祀られています

 16歳の頃、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年 - 1087年)に従軍した景政が、片目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている
 
只野氏は安積から出たというとき安積は郡山で古代に関係して古い、それで万葉集の歌にも残された、采女が饗応した歌が残っている
でも地名に安積山の安積は何なのか?これがわかりにくい、国造りのあしゃくから出ているという言うがそれもピンと来ない、それは地名を漢字にしたのは当て字だからである
そのために漢字からイメージするようになったから誤解が生まれた
安積を安曇ともしている人もいる、すると安曇族の後裔として安積氏があったのか
安積親王がいるということは安曇氏系統の人が安積親王になったのかとなる
私は南相馬市に特に原町区異常に綿津見神社が多いことを指摘した
山津見神社は松川浦の和田が綿津見でありそこに接して山津見という地名があり
松川浦から霊山の方に上ってゆき坂をおりると犬飼という地名のバス停がある
この犬飼は安曇氏の後裔なのである、あとは八木氏がそうである

祖父:文武天皇(母方の祖父は県犬養唐)
父:聖武天皇
母:県犬養広刀自

安積親王祖父に当たる文武天皇がをり母方の祖父は県犬養唐となっている
この名前が不思議なのである、犬養は犬飼でありこれは安曇氏の後裔なのである
また唐となっているときこれは中国の唐なのか朝鮮半島の唐なのか、普通は早い時期になると朝鮮半島が唐になっていた、加羅、とか韓なのである
鹿島区の唐神という地名はそうである、これは韓なのである、中国の唐ではないのであるただ只野という姓が安積から出たという時、安積は多田野村より古いからである
南北朝時代に多田野(只野)村があったとして万葉集に歌われたのは古代であり古いのである、それで安積から只野氏が出たというときそこが古いからだとなる

安積というのは安積親王時代から存在したのだから古い、奈良時代にさかのぼるからである、その安積の由来が安曇(あづみ)となれば安曇は海人族で有名であり古事記にもでてくる日本の国家形成で下支えした氏族なのである
そして地名をさかのぼると古代になるのが多い、だから安積山とか采女という地名は奈良時代になさかのぼるのである
ただ福島県の南相馬市の鹿島区だと浮田国造があったがその時はすでに浮田という地名があり国造(クニノミヤッコ)が中央から奈良から派遣されていたとなる
真野という地名も移動地名であるから安積も移動地名なのかとなる
真野の草原(かやはら)の歌がありまた安積の歌も有名である
なぜなら紫香楽宮で木簡として発見されたからである

安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

安積を浅きにかけたのか、葛城王を橘諸兄を饗応するのに采女が歌ったとされる
私の心は浅い心であなたを思っていませんよとかこの歌は歌を作りなれた人の作である
これは簡単には作れない歌である、つまり采女としても教養がある女性である
まず花魁(おいらん)とかでも教養があり歌を作ったとすればそれとも似ている
とてもこんなしゃれた歌を作れるとなると相当に教養を積んだ女性だとなるからだ
そういう女性が地元にいたということでもないかもしれない、これは何か儀礼的な歌としてもてはやされていた、だから手習いの歌として学んでいたのである

只野氏というのが多田野村から出たことは確かである、それで霊山で南北朝の争そいがあり落ち延びてきた、その中心人物が鹿島区の只野氏である
ただこの只野氏にも二つの系統があるという、相馬氏系統にも只野氏があるという
これもわかりにくくなる、平景政ー鎌倉景政にも系譜をたどるとたどりつく

諸国に景政の後裔のだんだんに現れてきたことである
その中にめぼしきものは上州白井の長尾氏、これは系図にも景政景政の後と書いて熱心に御霊を祀っていた、信州南安曇の温(ゆたか)村にはその一派が居住し,後に越後に移って謙信を出したのである
奥州二本松領の多田野村に於いても御霊を祀ったのも長尾氏である、只野油井などの苗字に分かれて今も地方に栄えている
子孫五流ありという説なども彼らから出たのである
長州藩の名家香川氏もまた景政の後といい、その郷里安曇の沼田郡八木村く景政社があった

柳田国男全集5巻)

ここに信州南北朝安曇のとありまた安曇の沼田郡八木村に景政神社がある
八木とは安曇氏の後継の八木氏なのである、飯館村には八木沢峠を越える、これも八木氏が地名化したのである、だからこれらの一連の引用からなぜか安曇族関係が色濃く出ているのが不思議だとなる、安曇氏は安曇だけではないその後裔の八木氏とか犬飼(犬養)を注目しないといけない、その氏族が地名化しているからである

同級生の只野氏が言うには南北朝争いがあり相馬氏が北朝側についたので隠れるようにして暮らしていたという、それは伝えられた話しだが南朝側だとすると相馬氏が北朝についたからそうなるのは当然だとなる
でも野馬追いの旗には菊の御紋を旗印としているのが出ているそれは菊池氏だとなる
菊池という姓は菊の御紋から生まれたのかともなる
その旗印は二騎ほど野馬追で鹿島から出陣したのを見ている
また鹿島街内でもその旗印を野馬追いに立つのを見ている

何でも只野氏の戸籍をたどると天保までたどれるという、天保というと江戸時代でも明治まで人は生きている、天保生まれて明治維新で活躍した人はいる、だから天保生れというとき明治も生きた人達だとなる
私の父親は葛尾村生れであり戸籍をたどると江戸時代までたどれる、でも姓はなく名前だけしか書かれていなかった
そして只野氏の墓は街中の陽山寺にありその墓に確かに安永と記されているという
安政だと鹿島神社のとなりの墓地に仏教関係の石碑がある
安永は天明の前だから古い、墓だとなかなかそれだけ古いものはない、墓ではなく碑としてはある

そして士族とは戸籍になっていないという、相馬氏に仕えて侍になったら士族になっている、只野氏は中心的家でも相馬氏に仕えないから平民となっていたのか?
南北朝の争いで肩身の狭い思いをしたということは本当だろう
北朝が相馬氏になっていたからである、でもこれも複雑であり相馬氏でも南朝に味方した人もいたとか南北朝の争そいは日本全国に村々にも及び伝説が残されている
それが南北朝でも完全に分かれて争ったというものでもなく入り交じり複雑だったのである、ただこの南北朝の争そいの傷痕はあとあとまで尾を引いたのである
それで明治天皇は南朝だったということを言うのもそのためである
今の天皇は南朝系統だったとなるのである

いづれにしろ直接人から歴史を語られ聞くと歴史も生々しいものになる
何かそして推理小説だと祖先の祟りだとかなることもある、それも問題だか生々しくなると怨念を残して死んだ人もいるからそうなるのである
ともかく二年ぶりとかで会った、病気になったと思ったがそうでもなかった
郷土史となると一軒一軒の家の歴史が基本になる
それで郷土史で大事なのは古い家をまず知ること新旧を知ることが大事になる
なぜなら古いと思っても新しい場合がある、例えば元の栃窪村の上萱(うえがや)は古いとみる、でも明治時代からだから古いともなるが江戸時代のものではない
江戸時代からつづいている家だと古いし墓でも江戸時代のものがあれば古いと見るのである、でも不便な場所に部落があってもそこが戦後の引揚者の部落だったりする
飯館村の木戸木など山に塞がれた不便な場所だがそこは新しいのである

posted by 天華 at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2022年09月18日

昭和33年の新聞を読む (字が小さい、記憶をたどるのには有効で貴重)


昭和33年の新聞を読む

(字が小さい、記憶をたどるのには有効で貴重)

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昭和33年11月4日 福島毎日−写真を出すと著作違反になるーそれで暗くした
ここで囲炉裏を囲んで話し合っている
字は拡大してもこのくらい小さい、眼が悪くなるくらい小さいのである


昭和7年の新聞が出てきてびっくり。
87年前の新聞です。

内容は兎に角もフォントに注目。
現在の新聞のフォントよりも小さなフォントにも「仮名」が打ってあったり。
重要度によってフォントサイズを変更したり、当時は多分、鉛の活字だったと思われますがよくぞ紙面を構成しているなあ、と感嘆します。
https://blog.goo.ne.jp/n-ksgw/e/20c869c0d384975fe5dbef488cb9a290


古い新聞をもらった、昭和33年だから戦後13年後である
まず目についたのが余りにも字が小さくて読めないことである
こんなに小さいのかと驚いた、虫眼鏡がないと読めないくらいである
最近は老人が新聞を読むとかなり若い人は読まない、それで字を大きくしたのである
なぜこんなに小さく字なのか?おそらく紙面を充たすには字を小さくする必要があった
それと新聞を読む人は若い人が多いから小さくても読めたともみる
今ならこんな小さな字だったら読む気もなくなる
老人は今でも携帯を持っているが字を大きくできる携帯に代えたとかある
この字の大小は思った以上人間の脳に影響する
私がスマホとかしなかったのは小さい画面で字を読むと疲れるからである
パソコンは画面が大きいから俯瞰できる、スマホは画面が小さいからそれを見るのも疲れるのである、この差が意外と大きい、でも若い人は新しいものになれやすい
老人はなれにくい、それで老人は技術的に遅れのである

この記事で農家のことを書いている、「ふき変えに資金がかさむうえ火災で燃えやすい、かやぶきをトタンかカワラに直すこと
一袋生二百円もする化成肥料を使わないで単肥を自分で配合して土地にあった肥料をやることなど工夫する

農会の集まりで酒を一切ぬきにしてありあわせの菜のつけもので渋茶をすすりながらよもやま話しをする

そんなことを書いている、このころテレビが出始めた頃である、私の家でも囲炉裏であり炭を使っていた、この写真でも囲炉裏を囲んで話し合っている
戦後の経済は農家が六割でありまだ農民中心だった、ここで興味深いのは茅葺の家がまだありそれをトタンとか瓦にしようとして貯金していた
カヤ葺きの燃えやすいということも書いてある

私の家はトタンの家であった、それでいつもそのトタンから雨漏りして洗面器を置いたことを覚えている、その時トタンの家も多かった、家自体が粗末なものだったのである
むしろ農家の茅葺の家の方がどっしりとして貫禄があったともなる
何度も言っているが戦後13年くらいは戦前とか江戸時代のつづきの暮らしだったのである、それが急速にテレビが出たとか辺りからかなり変化したのである
でも不思議なのは原町の高校に通った時蒸気機関車であったことが信じられないとなる
なぜならその高校の時東京オリッピックが行われたからである
つまりその時まだ蒸気機関車の時代だったということである
だからこそその時はインフラを整えるとかオリッピックは必要だったから熱狂したのである

私の家で店をしたとき野菜とかは近くの農家から買って売っていた、今のように全国から入ることはなかった
狭い範囲の生活だったのである、それは車がなかったから歩く範囲で日常の生活をしていたからである
それはでただ自分の家は角にあったので繁盛したのである、今になると車もない老人とかは自転車で買い物するので近くに店がないということを常に訴えている、本当に近くの店は消失した、シャッター通りにもなったからである
それを市でも一応問題としてみている、街の活性化をどうするかでそれを問題とはしている
ともかく戦後十数年は農業中心の世界でありそれが急速に高度成長時代になり変化したのである
第一遠くから物などあまり来ない、近くでまかなうほかなかったからである

ともかく人間は忘れ安い、50年前とか60年前になるとその時何があったかわからなくなる、するとその過去をどうして思い出すのかとなる
その方法はいろいろあるが映像として残っているのは少ない、やはり文章として残っているのが多い、すると新聞が思い出すにはいいのかともみた
古い新聞の記事を検索できるが金がかかる
また引用でもめんどうになる、だからここで提供できない、著作権違反になる
それは新聞社でも警告している

ともたく人間の記憶はあいまいになる、するとやはりその時々に何があったのかを知るには記録をみる、新聞はやはり今になると有効である
もしかしたら新聞は今は読まないけどこうして記録したものが活用されるとなる
そこに新聞の価値があるのかとなる、また雑誌でも記録したものとして貴重になる
ただ問題は簡単に調べることができない、有料になると意外と高いのである
新聞は意外とこうして記録したことで価値がある、今の新聞は読まれなくなっても過去の新聞は歴史の記録として価値があるとなる

今はプログでも庶民が名もない人がプログとか書くと記録としてあとあと貴重になるかもしれない、ただインタ−ネットとかは消えやすいから問題なのである
でも印刷したものでも50年くらいするとぼろぼろになることがある
紙にしても保存には限界がある、でも電子化すると劣化しないのである
ただ電子空間でどうして保存するかとなるとむずかしい面があるのだ
ただインタ−ネットは庶民でもメデアをもったことであり何か記録として残すことができる、大きなメデアでなくても残すことができる、それで過去をふりかえることもできる
現実に老人でもプログだと簡単である、すると過去にあったことを書くとそういうことを経験していたなと共感する人がでてくる
また若い人にとってもそういう時代があったのかとなる

つまり過去というのは本当に記憶から消えてゆく、50年も過ぎてみるともうたとえ親しくあった人ても本当にその人と逢ったのかとまでなる、それくらい忘れるのである
一つ屋根の下に子供の時5年間暮らしていた人がそんな人いなかったと言っていたのには驚いた、その人は普通の人ではないからまた別だがそんなふうになってしまう、人間は忘れやすいのである
だからどうして記憶をたどるのかとなると自分だけの記憶だけではなく新聞とか何かに記録されたものを手掛かりにすることである
それは何千年前のものを発掘するのと似ている、そこで発掘されたものから何とか過去を呼び起こすのである、そういう作業が必要になる
一体その時何があったのかあいまいとなってしまうからである
そして個々人で経験したことも違っているからである、まず囲炉裏があったとか蒸気機関車だったとか今になると信じられない、それが生々しく浮かんでこないのである

また家族がみんな死んだ結果、その家族のことも死んだ時点で忘れてゆく
60年間とか一緒にいても忘れる、あいまいなものとなってゆく、でも死者は残されたもののなかに記憶として生きつづける、必ずしも何もなくなるということはない
その親にもよるが何か死んでもその人の記憶を反芻している感じになる
つまり過去を思い出すことが老人の役割でもある
だから認知症になると過去のことはありありと覚えている、特に若い時のことは覚えている、それで戦争のことを千回を聞かされたのでうんざりはしたのである

でもそれはやはり後世に伝える記憶であり記録であり貴重なものだったとなる
人間最後は記憶だけになる、記憶を生きることになるからだ
でもその記憶も忘れるので何から思い出す方法が必要だとなる
あの時代はこんなことがあってこんな状態だったのかと思い出すのである
そういう作業が郷土史とかでも必要になる
老人は過去に経験したこさと記憶したことを生きることになるからである

2022年09月19日

昭和33年の新聞記事(2) (貯金が奨励されていた、−映画館のこと)


昭和33年の新聞記事(2)

(貯金が奨励されていた、−映画館のこと)

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福島市の相互銀行で十月二十日から一か月間を貯蓄増強運動期間として映画会などを行っているが農村での効果がない、全国規模の銀行の福島支店でも農協の進出には手がでない東邦銀行でも貯蓄宣伝映画会に一千人近い観客がおしかけた

高度成長前は農民が主役であり農民から銀行に貯金させるために銀行が映画会をもよおして宣伝していた
この映画会というのは何かというと映画自体がめずらいしものだったのである
映画というのは簡単に見れないものだったのである


中学、高校時代、映画が好きで、映画評論家になりたかった。
だから、中2〜高2の4年間は年間200本以上の映画(洋画)を観た。
いい映画もつまらないものを知って初めて、良さが解るという理屈で、手当たり次第
お金が出来れば、映画館に行った。
そのころ、1年で公開された洋画は250本くらいだったから、成人向き以外は
殆ど観た年もあった。

小遣いがたくさんもらえる訳も無いので、親から昼食代(パン代)を貰い
お昼を抜いて、お金を作った。
親の財布から千円札を拝借したこともあった。(金沢市の映画館)

満員で扉を開けたまま伸びをしながら見た覚えがある。あれだけ大きな劇場がいっぱいになった映画は「ポセイドン・アドベンチャー」でした。(東京の映画館)

映写スタッフの主な業務は、映画の上映作業でした。
人の身長ほどある映写機に、丁寧にフィルムをかけていき、定刻に上映を開始します。
映画のフィルムはとても一人では持てないくらい大きく、軽トラの荷台にやっと置けるくらいの大きさで、映画一本分となっています。

金沢市では映画館が多かった、でも原町区の朝日座とか鹿島にも駅前に映画館があった、そしてニュースは必ず普通のドラマが始まる前に放送された
そのフィルムは鉄道で運ばれたのである、その時蒸気機関車だったのである
鉄道で運ばれるということはリアルタイムではない、何日遅れて放送されていたとなる
無線の時代ではない情報でも何か物として運ばれていたのである

要するに映画とか映像でも動画となるとなかなか見れないものだったのである
貸本屋から漫画を借りて読んでいた、人間はやはり映像を求める、だからデジタルカメラ時代になった、まず動画となると見ること自体が簡単にできない時代だった
動く絵を見ることは驚きだったのである
だからこそ金がない時代なんとか工面して映画を見たいとなっていたのである

そのフィルムを運ぶのに蒸気機関車だとどれくらい時間がかかったのか?
上野からでも相当に時間がかかった、一日かかりだったかもしれない、その頃情報は新聞が担っていたのである、だから古い新聞は今になると価値があると見た
つまり歴史の記録として価値があるものと見た、その頃一体どうなっているのかわからなくなっているからだ、ただ今だとインタ−ネットからでも昔を語る人がいるから当時のことがわかる場合がある

ともかく貯金が奨励されていたということは日本の経済が高度成長時代に向かう時代でありいくら資金があっても足りない時代だったのである
資本主義は資金が必要である、それで私の家で戦後店を始めた時その開業資金がなくて困った、それも数万だったのである
それでその数万でも銀行は貸してくれず知人に頼んだ話を何回も聞かされた
銀行は借りたい人が多い時必要であり価値あるものであった、今価値がなくなったのは借りたい人が減ったからである
その店といっても簡単なものでありただ商品を並べたようなものだったのである
でも物がない時代だから物を置けば売れたのである
昭和33年代はまだ農業中心の経済だった、だから農民から貯金を集めようとしていたのである

何か個々人でも記憶は時間がたつにつれてあいまいな希薄なものになってゆく
だから個々人の記憶だけではないみんな記憶を集約することが必要になる
ある人はその当時こういう経験していたとか私はこういう経験したとかを語る
すると当時の時代的な全体像が浮かんでくる、イメージできるようになるのである
映画館一つにししてもいろいろだからである
ただ映画館に対する熱気は今と違っていた、立ち見して見ていた、それもかなり疲れる
でも映画を見たいとういことでそうなっていたのである

人間は情報を得たい何かを知りたいということは変わらない、それでテレビ時代となったのは何かテレビに動画が写るだけで驚きだったのである、映画でもそうだが次はこうしてテレビ時代になった、このテレビに対する熱気も異常だった
みんなテレビに釘づけになったのである、それは昭和33年頃テレビが出てきたのである
でもどうしても高校までオリッピックの時蒸気機関車がこの辺を走っていたことが不思議なのである、そんなころまで蒸気機関車だったのかということが不思議なのである
蒸気機関車だったら上野までどれだけ時間がかかったのかとなる
東京とか上野は遠い所だったのである、そして考えられないのは原町紡績の中に引き込み線があり鉄道で生糸を運んでいた、それを横浜まで運びアメリカに輸出したとなる

それは戦前だが蒸気機関車だったということが何か自分の場あい思い出せないのである
というのは高校までは蒸気機関車に乗ったけど蒸気機関車で遠くに旅したことがないからだったともなる、その後鉄道マニアのようになったのは鉄道で自由に旅した結果だとなる
人間は本当に一時代が過ぎると時代のことがわからなくなる、その雰囲気もわからなくなる、今なら貯金など奨励しない、貯金しても利子もつかないとかもう貯金してくれるなとまで銀行ではなっている、貯金しただけでもう今度は逆に財産税として税金をとられるとまでなる、それが時代の変化なのである
だから農協でも銀行でも昔とは感覚的に相当に違っている、農協、銀行、公務員は安定した就職先だったからである、地方だとエリートとなっていたからである
今は銀行員は投資信託とか株とか売る証券会社にもなったのかとなる
銀行に金はあっても投資先がないとなり金余りとなっている
そういう時代の雰囲気はなかなかわかりにくい、でも高度成長時代は日本では相当に恵まれた時代だったのである




posted by 天華 at 17:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2022年09月20日

親の介護でもめる兄弟ーそして一人っ子の介護 (介護は死んで終わりにならない-恨まれて死んでゆくことの怖さ)


親の介護でもめる兄弟ーそして一人っ子の介護

(介護は死んで終わりにならない-恨まれて死んでゆくことの怖さ)


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一人っ子という時点であきらめがつくし、覚悟は決められるし、意見を求められることも求めることもなし、、、兄弟いる人はもうこの際一人っ子と思ってしまえばどうでしょう。いくら言っても何もやらない人はやってくれませんし、、、。介護のヘルプを頼むのも身内よりも他人(介護サービス)に頼む方がずっと気が楽ということが多いです。

脳梗塞で倒れた母。きょうだいが分担して母を支えたいけど、次女は母に兄と姉と比較され「お前はダメだ」といわれ続けてきたため、「私は手伝いたくない!」と介護を断固拒否。

介護から逃げる他の兄弟に親が金を使うからムカツク。

介護から逃げた他の兄弟が、下宿までさせてもらって、大学院まで行かせてもらったから、ムカツク。

介護から逃げた他の兄弟が、家を買うとき、大金をもらっていたから、ムカツク。

人間はとにかく必ずいい面と悪い面がある、一人ッ子は親になんでもしてもらえるからいいとかなるしでも兄弟がいないと人間関係がうまく築けないとか介護でも一人になって困るとかなる、でもここでも兄弟が協力してやることはなかなかない

その原因が

脳梗塞で倒れた母。きょうだいが分担して母を支えたいけど、次女は母に兄と姉と比較され「お前はダメだ」といわれ続けてきたため、「私は手伝いたくない!」と介護を断固拒否。

兄弟でも良くされた人とされない人がいてそれが後々まで尾を引いている
その確執が意外と大きいのである、また遺産分配でも必ず兄弟でもめる
だから一人ッ子も問題だが兄弟がいても人間にはもめごとがある

その人は一人ッ子の娘がいるが親ともめて親にもう来るなと言ったという
糖尿病でその治療にも金がかかる一人で暮らしている、でも今家事でも一人でしている
確かに娘は隣の市にいて一週間に一回くらい来ているようだ
でも金は娘が管理している、それで毎日親しい女性が行っていてその女性も金に困っているので金を工面してやりたいができないという
その娘は一人ッ子でありなんでも与えられたとかかわいがられたという
一人娘だったら余計にそうなっていたかもしれない
でも介護になったら親を嫌がり金を出すのも嫌がっている
そして世話する女性への配慮もないのである

一人っ子だと何でも親に良くされたのだからそうならないはずだがこの場合はそうではない、私の場合は親二人を必死になって介護した、それは特別良くされたからである
それは60才までもそうである、だから必死になって力足らずでも介護した
自分が病気になっても必死になって一人悪戦苦闘したのである
それは特別良くされたことによる、今でも二人の親のことは供養しつづけている
親のことが忘れられないのである
ということは親が死んでも自分の心の中に生き続けているとなる
それは特殊な事情でそうなったのである

介護で90パーセント以上も介護で兄弟でも親子でも仲が悪くなる、それは介護をしたくないからである、それが相当な負担になる、金銭的にもなる
その一人っ子の娘はケチなのである、親のために金を払いたくないのである
だから世話している女性がいたとしてもかえって必要ないともしている
何か財産をとられるのではないかと警戒しているみたいだ
こうなるといくら一人っ子でも親が来るなともなる、これは娘が悪いとなる
でも介護ではなにかしらもめる、その負担が負いたくないからそうなる
だから兄弟でも一人ッ子になった気分で介護しろというのもそうなのかと意外である

ともかく介護時代でもある、だからこれからますます介護でいろいろな問題が起きる
それで事件が起きるのも日常的になる、負担になり自殺者まででる
つまり介護はもう家族だけでは担いないものにもなる
でも逆に今だと核家族化して家族だけでは介護が負担しきれないことにもなっている
それで家族遺棄社会にもなる、親が子供に捨てられるとなる
でも捨てられるにしても誰かがめんどうみなければならないということにもなる
二カ月間も死んだのがわからなかった人がいたがそういう人は死んだ時迷惑をかけても
介護などしてもらわないで死んだから迷惑はかけていないからいいのかとまでなる
そもそも誰も介護してくれる人がいないからである

介護の問題で大きいのは意外と介護は死後まで継続されていることである
死んだら介護の負担は終わる、でも実際終わっていないのである
なぜならその後に供養の問題があり死者と向き合うことになるからだ
それで非情化した娘は育ての親を見捨てた
その人は「ひどい娘だわ」と自分に言い残して死んだ、病気になってすぐに死んだからいい、その娘は介護などできないからである
でもそうして死んだ親を供養できるのか?とてもできないと思う
別に死んだら墓参りとか供養などしなくてもいい、誰もとがめられない、でも何か良心がとがめられるかもしれない、誰も見ていないとしても死者が見ているからまともに墓参りとか供養ができないとなる
ただその娘は三人親が変わった、でもその人には親はいなかったとなる
父親は別として母親はいなかったとなる
ただそういうことはどうなるかというと必ずカルマとなって苦しみとなって現れる
つまり今度はまた子に捨てられるともなる、それはわからないにしてもカルマの法則がありそうなる

なんらか人間は必ずカルマを背負っている、その総決算が60以後に起きる
例えば若い時の不品業とかも若気の至りでもそれが悔いるものとなりカルマとなり苦しみとなって現れる、そしてカルマをもたいない人は一人もいないと思う
別に金持ちの家でも恵まれた家でも何らかカルマを持つのである
つまり恵まれたことがカルマともなるのである
兄弟でもお前は親に一番良くされたのだからお前が親の介護をしろとされるのそうである兄弟でもそうして親に持つ感情は違っているからである

結局人間は必ずいい面と悪い面がでてくる、一人っ子はいいと見られても介護で他より苦しむ、では兄弟がいればいいかなとなるとそれも必ずもめる、だからすべていいとはならない、自分の場合は本当に死ぬほどの苦しみを介護でしたからである
それもそれだけ良くされたから自分はその苦しみを甘受できた、気持として介護することは苦しくてもできたとなる、そういう気持ちがあったからである
でもみんなそんなふうにならないのである、だからもめるのである

でも介護の問題のむずかしいのは介護終わった後も終わらない!

これが意外と深刻なのかもしれない、別にもう介護もふる必要もないし迷惑もかけいなのだからいいじゃないかとなるがそうでもない
死者を供養するということがその後にある、その死者とまともに向き合えるかである
「あなたは私に冷たくしましたね、それを私は覚えていますよ」とかなると供養もできないとなる、良心がとがめられるとなる
死者は必ずしも完全にいなくなったわけでもない、死者は冷徹に生者を見ているのであるだから死者の前には偽ることができないのである
それで介護で苦しんでも早く死んでくれとなるのが普通だが死んでしまうとみんなもっと良くしてやればよかったと反省している
それはなぜなのか?死者とはもう二度と逢えなくなるからである、だから後悔するのである、今度は何かしてやりたくてもできなくなるからである、死んだ人には供物をささげるくらいしかなくるならからである、死者はもう答えないからである

でもは死者というのは依然として生者の中に生き続けている
もちろん全く忘却される人もいる、それは生前のことが関係している
生前死者とどういう関係にあったとか、愛されたのかとそれ以外にも様々な家庭の事情があり死者との関係があり他者からわかりにくい、でも死者は生者の中に生き続ける
もしそうして生きつづけるなら死者は死んでいないのである
でもそうなるかどうかは生前の死者との関係によるのである
死んだからとして急に死者を思ったりしないのである、生前から互いに愛し合うとかあればやはり死者は生者の中に生き続けるのである
ただそれぞれの家族は複雑であり他者からわかりにくいのである
それで簡単に家族のことを批判はできないとはなる


威厳ある死者

死者は石のように硬い
雨風に打たれて死者は耐えた
死者は苦しくも生き抜いた
死者は堅く口を閉ざす
その前に生者は偽ることができない
死者は冷徹に生者を見つめている
生者は常に卑しめられる
しかし死者は今威厳あるもの
それは宝石のように硬い
その前に偽ることはできない
死者は生者に金を求めない
何も求めない
死者はもう餓えることはない
ただ真の心を求めている
死者と向き合うことは
自らを正さねばできない
死者に偽ることはできない
その前に人は厳粛であらばならない
死者はすべて消えるにはあらじ
依然としてその生を継続している

昭和33年の新聞記事(3) (ラジオからテレビへの過渡期だったー女中も募集されていた)


昭和33年の新聞記事(3)

(ラジオからテレビへの過渡期だったー女中も募集されていた)

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68500円は当時では相当に高い
女中の手取りが8000円とか5000円とかなっている
そしたらいかに高いかわかる
でも私の家は中学頃にテレビを買っていたのである
父親が病気になり買ったのである

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昭和33年は何か高度成長が始まる時だった、なぜならテレビが出たからである
そのテレビの前に人がわんさと集まった、その頃テレビはみんなない、だからテレビがある所に人が集まった、その熱気はすごかったのである

ただその時代の面白いのはラジオが依然として使われていた
テレビが出る前はラジオが主役だった、ラジオだと声だけでりその声に耳を澄ます
何か恐怖小説がありその犯人の足音がラジオから聞いた時怖かった
そしてラジオというメデアは音だけであり姿が見えない
それでラジオで人気だったアナウンサーがテレビがでた時用なしになったのである
なぜそうなったかというと姿とか顔が写ると見映えが悪いと拒否される
なぜなら映像だとまず姿とか顔を見るからである
youtubeでも顔が問題になる、顔をまずみる、その人の発言することの前に顔を見る
こんな顔なのかと拒否する人もいるだろう
プログでも文章だけだったら顔が見えないししゃべることが下手でもいいとなる
でもyoutubeはしゃべゃ方を相当に影響している、声でも姿でも顔でも影響しているのである

ただyoutubeはわかりやすい、図で説明もできるしいろいろテレビのように映像を出せるからである、この写真とか図を出せることはプログでもできるのである
だから誰でもできるプログで写真と図でも動画でも一部出せるとなるとその表現力は意外と大きいのである
それでこんなものでも表現力があるなと感心するのである
これは誰でも簡単にできるものだからである
そうなると一人一人がメデアを持ったともなる、だから私は膨大なものを書いている
それはいくらでも書けるし誰も止めるものもいない、自分なり自由に書けるのである
発言できるのである、youtubeでもそうである

テレビ局と同等にもなることでテレビは衰退したのである
今までは動画となるとテレビからしか知り得ようがなかったからである
今や個々人は新聞社に出版社に雑誌社にもなれる、それがプログのようなものでもできるこの変化は大きいものである
ただyoutubeでもプログでも見られること読まれることは至難である
結局大衆受けするものは視聴率を稼ぐのはテレビと同じだった
でも別に金もかからないのだから少数者でも成り立つのである
テレビは金がかかる少数者では成り立たなくなる、宣伝費も入らなくなっている

昭和33年の新聞記事ではマスコミのことを書いているが膨大な本や雑誌が出されていた活字メデアが全盛期に入りつつあった、そしてまだ戦前からのメデアであるラジオが結構聞いていた、天皇陛下の玉音放送がラジオで成されたようにラジオが戦前のメデアであり映像に触れることはまれだった、ラジオでも大きな力を持っていた
ラジオだと手作りした人もいたようである、それほどむずかいものではないからできたらしい、昭和33年は古いものもがまだ残り新しいものが出て来る時期だった

それで不思議なのは職業の募集欄に女中と結構ある
まだ女中を東京で募集していたのか、戦前は女中が多かった、火事が電化されていないのだから頼んでいた、普通の家でも女中を二人雇っていたとかある
それだけ家事が負担だったからである、別に金持ちでなくても雇っていたのである
今なら大金持ちしか手伝いさんは雇いない、専用だと雇いない
家政婦も募集していたがこれも女中が家政婦になる変わり目だったのか?
女中に興味があるのは私の母親は大正生まれで東京に女中で働いていたからである
それは戦前のことである、でも集団就職とかあり東京に女中ではないにしろ手伝いとして働いた中卒の人がいる、だから依然として女中は東京で必要なものとしてあった
だからこの昭和33年はこうした古いものと新しいものがまじりあった社会だったともなる

2022年09月21日

医療費が国を破産させる? (でも簡単に医療費は減らせない矛盾)


医療費が国を破産させる?

(でも簡単に医療費は減らせない矛盾)



内視鏡検査機器やこれを使った治療機器、超音波診断装置、CTスキャン装置、MRI装置、PET装置などが医療で普通に使われるようになっていることに気付かれるでしょう。これらの新しい装置や機器は精密機器で大変に高価なものが少なくないのです。

病床数が多い、在院日数が長い
薬剤価格が高い、薬剤使用量が多い
医療材料価格が高い
検査が多い
受診回数が多い
https://www.ringe.jp/civic/medical/

厚生労働省は11月9日、2019年度の国民医療費の概況を発表した。国民医療費は44兆3895億円と前年度比9946億円(2.3%)増加、人口1人当たりの国民医療費も35万1800円と同8600円(2.5%)増加した

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暴利をむさぼるたとえ。薬の売値は原価よりはるかに高く、
儲(もう)けが大きいこと。薬は売値が非常に高く、原価の九倍もするという意から。


俺は十年前から高血圧治療の為に毎月通院しているが7月〜9月までの
暑い期間は血圧が上がらない事に気が付いたから、その間は通院と投薬を
止めても良いか医者に尋ねたら拒否された。俺のような患者は全国に大勢
いると思うが、医者がこう言う了見だから医療費が下がる訳が無い

一旦医者にかかったら患者は何も言えない、医者に従いとなる、それで無駄な治療があるとは言え自分の判断で病気を判断するのも危険なのである
私自身がなかなか病院に行く時間的余裕がなく勝手に判断して死ぬところだった
なぜなら腎不全になるところだった、そしてすぐに入院して一命をとりとめたのである
だから素人判断することは危険である
そこに病気の問題があり簡単に医者に自分の病気で勝手に判断できないのである
ただこの人は自分の病状をみてそう言ったからその判断が間違っているとは言えない
でも素人判断するのは危険なこともある

でも正直ここで言っているように無駄な治療も多すぎるし投薬も多すぎる
結果的にほとんど効かないとか副作用でかえって悪くなったりする
そもそもワクチンの効き目もわからない、ワクチンの金も膨大なものだった
でもこれが本当に効いたのかとなるとそれも科学的にもわかっていないのである
つまり病気にはそもそもこうして効くかどうかわからないものが実際は多いのである
でも素人判断は危険だし医者に命令されれば従う他ないのである

そこで問題になっているのはその金が国を破産させるほどの巨額な金となっていることである、これは国民全体にのしかかる問題であり国家的問題にもなっている

ある女性は目まいしたからと医者に行きMRI検査しろとなりした
でもそのMRI検査は実際は高価なのである、それも保険で負担するから安くなっているが
その検査の効用はあるのかとなるとほとんどない場合もある
認知症になった家族をMRIで見せたがそもそもそれは何の効用もない
認知症のことなどMRIではわからないからだ
ではなぜあえて検査したのかとなると金のためだったとなる
この検査はかなり金になるからである、だからその機械自体高いから医者では実際はわからないのに検査しろとなるのである
それも保険から出るからそうなる、もし十万するとなれば簡単には頼まない
そもそも検査してもわからないものもあるし相当に高いものでないと診れない
そうして脳の検査を本当にできるものは福島県には二台しかないとしている
となると普通の病院ではとても脳を精密に診れないとなる
でも何か検査しろと医者に命令されると断れないのである

ただ自分の場合は検査してすぐに医者に行かねば死ぬところだったのである
だから病気は緊急を要することがあり医者に逆らうことはできないとなる
自己判断では死ぬことがあるからだ、でも今問題なのは余りにも過剰診療が多いことなのである
そこに膨大な金がつぎこまれて国家破産にまでなる、その無駄を簡単に減らすことはできない、医者の権限が大きいからである、また現実に素人判断も危険になるからだ
ただ医が算術となっていることも確かである
外国ではあまり老人には手厚い医療はしないというときそうである
ただ最近は延命治療はしなくなっているという、どこで生きることをあきらめるほかないとなっている、ただその判断もむずかしいのである

この医療の無駄でもなくすことは簡単ではない、それは病気に人間は弱いからである
その弱さに医者がつけこむということもある、それで金を払わせられる
でもそうでない場合もあり何か無駄なのかなど判断できない、人間社会にはとにかく無駄が多すぎるのである、その無駄が膨大なものとなる
人間の無駄といえば軍事費でも無駄だといえばそうなる、兵士などいらないと言えばそうなる、つまり軍人とか警察とか医者とかは本来ない方がいいものなのである
軍人がいなければ戦争もないし警察がいなければ犯罪もないし医者がいなければ病気もないとなる

逆に軍人がいるから戦争が起り警察がいるから犯罪が起り医者がいるから病気もある
そういう逆説成立つ、天国には軍人とか警察とか医者すらいないからである
軍人とか警察とか医者とかは社会で権力を持つ職業である
逆らえない人達でもある、その人達は命令する権力を持っている
ただ軍人は自衛隊だと今は目立たない、むしろ自衛隊とかは表に余りでない、でも一旦戦争なったら主役になるのである、だから戦争の時は軍人が一番威張っていた
今でも墓には軍人の階級が一等兵だったとか記されているのは軍人がその時は価値あるものだったからである、威張ることができるものだったからである
でも今はそういう墓を見て軍人の位を見てその人がい偉いとか見ないのである

高齢化社会の問題は医療費の問題にもなる、その金を負担するのは現役で働いている人とかにもなる、ただ保険でも介護費用でも老人は年金からでも払っているのである
若い人だけが払っているわけでもないのである
でもその額が多すぎるから負担になる、社会が介護とか病気のためにあるのかとまでなる地方の仕事で眼につくのは確かに介護であり病院であり医者だとなる
60以上になると医者通い病院通いになっている人が多いからである
糖尿病は何か医療費の負担が多いことは確かである、金のかかる病気である
近くの人はそのために払う金が多い、それで親しい手伝ってくれる人に金を払えないとなっている、糖尿病は相当にやっかいな病気なのである


2022年09月22日

抽象画の紋様の変化 Variation in the pattern of abstract paintings


抽象画の紋様の変化

Variation in the pattern of abstract paintings


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Cherry blossom

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bamboo
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2022年09月23日

秋の松島ー俳句短歌−写真 (松島は浄土、修行の場) (半年ぶりに行った松島)


秋の松島ー俳句短歌−写真

(松島は浄土、修行の場)


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松島は海と牡丹が似合うのか、海とともに栄えた場所となる

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(観瀾亭)

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五大堂

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瑞巌寺

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走り行く電車に映える秋桜

山鳩飛ぶ実り広がる仙台へ

(瑞巌寺)

禅寺の門や松島初秋か

金地にそ紅白の牡丹大広間

殿の座に金地に梅や匂うかな

中庭に石の配置や秋に入る

(観瀾亭)

秋涼し観瀾亭に茶一服

太き根の露に見ゆや秋に入る

(五大堂)

波静か五大堂古る秋鴎

秋涼し松に囲まれ五大堂

波静か洞の仏や秋に入る

瞑目す石仏いくつ秋に入る

地に根付き太き根っ子や里の秋


(瑞巌寺)

青苔に秋の日さして石仏の瑞巌寺にそ古りにけるかな

一匹の虫の音聴くや石仏の瑞巌寺にそ古りにけるかな

門の外海の碧くも島見えて秋の日あわれ歩む人かな

(五大堂)

銀色に水面きらめき五大堂松古り囲み秋の日暮れぬ

常盤木の松の緑に五大堂秋の日さして島々暮れぬ

(観瀾亭)

秋の日や石に根を張る木の太し茶一服飲む観瀾亭かな

・・・・・・・

石仏の重なりここに祈りかな秋の日さして跡そあわれ

松の影濁らぬ海に映しつつ石の仏に秋の日さしぬ

雲晴れて島々見えるうれしかな秋の鴎も一羽飛びくる

松島の緑うるわし島の間の波に浮きゆる鴨の群れかな

名も知れぬ小島一つ松島の奥にそあれや秋の日

老夫婦たずねてあわれ松島に秋の日さしてはや暮れにけり

松島に芭蕉泊まると千金の値にあれや秋の日暮れぬ

久々に仙台に来て花を買う五色の花や我が家に映えぬ

みちのくに住みて長しも点々と秋の灯ともり電車に帰りぬ



久々に晴れたので松島に行ってきた、ちょうど松島に来て晴れた、天気予報は午後から晴れるとあったが曇っていたのでどうなるか心配だった
天気予報はあたっていた、午後から3時ころから晴れてきたからだ
松島だったらいつでも行ける日帰りコースである
これも他から見たら贅沢だとなる、ところが名所でもあまりに近くにあるとその感覚がなくなる、いつも見れるし当たり前だとかなる
松島は遠くでは常に憧れの地だった、だから芭蕉も期待して来た、でも俳句が作れなかった、その理由はわからない、場所の泊まったという宿がレストランになっていた
その三階からのながめが良かった

松島はもともと修行の場だった、修行者が僧がここに集まったのである
瑞巌寺とか寺がありその領域は広かった、他にはひなびた漁村であり漁師くらいしか住んでいなかった、でもそういう場所でも相当数の修行者が僧が集まった
それで不思議なのはどうしてそういう人達は洞にこもり修行できたのか?
必ず食べなければならない、誰かがその食事を用意しなければならない、
9年坐禅を続けたとされている達磨大師でも食事を運び人がいたのである
その食事を一人のために運ぶことも容易ではない、ここが何か見逃されている
近くの霊山でも山で修行した人達が相当数いた、でもそんなに多い僧が山の上でどうして食を得たのか?やはりあの山は岩山でありそこで食べるものがない、とすると山に誰かが食料をもっていかねばならない、それも大変な労力になる

ただ山を修行の場としてきたのが天台宗でありそれが寺の起りである
比叡山でも山に寺があり修行する場としてあったからだ、それを民間では山伏とかなり受け継いだのである、山形県の山寺でもそうである、山を聖なる場として修行したのであるだから今の都会化した完全に俗より俗化したカルト宗教団体などはまずそういうふうに
心を山で浄めるとかの志向が全くないのである
完全に政治化経済化した俗なる世界にひたり俗世界よりぎらぎらした欲望を追求しているだからこそ数もあれだけ集まる、欲をおさえよとか心を浄めるなどない
ただ煩悩即菩提であり煩悩があればあるほど救われるとまでなっている
だからそこにもう宗教が求めたものはなにもないのである

山には仙人が住んでいたとか老子が始祖の道教がもともとあってそれが仏教と混合して
修験道が生まれた、ただなぜ仏教が興隆したのかとなると山伏でも民間で山からおりて様々な人間の悩み苦しみに対して何らかの効用があり頼むものとなった
だから薬草を山でとり薬を処方したり病気には祈っていたとなる
つまりなぜ仏教が栄えたとなれば病気を直すために祈ったことによる
会津で8世紀にすでに仏教伽藍があったとか僧侶が相当数来たのは病気が治ることで祈ることからそうなったのである

ではなぜ松島が修行の場となったのか?、それもやはり山が聖なる場所であるように松島は風光明媚な浄土に見えたのである、ここで心を浄めるということで修行者が集まったのである、まず今のように大都会に人が集まりそこで生まれる宗教はたいがいカルトになる異様なものとなるのはやはり清浄な自然から遊離してしまったからそうなる
おそらく松島は海に面していて魚介類がとれるから貝とか他に魚でも食べたのかもしれない、海でとれるものがありそれを食べた、魚を食べないといっても魚もとれるのだから食べたかもしれない、どうしても今になると何を食べていたのだろうと疑問になるからだ
そもそも一般人でも食べることができなくなり乞食になったりした、そして乞食では布施されないとしてにわか僧にもなった、それは四国の遍路になったホームレスもそうだった乞食なのだが僧だとして経文を唱えて金をもらうになった、その人は全く宗教とは関係ないが食べるためにそうなったにわか僧でありペテン僧だとなる
それは昔もあったのである、ただ昔は食べることが切実だからそれを必ずしもとがめることはできないともなる、つまり乞食と僧の見分けがつかないのである
今でも僧は働く人からすると修行もしないし楽だとみられる、ただお経を唱えていればいいとなるからだ

鎌倉時代に東北にも天台宗から分かれた禅宗でも広まった、特に瑞巌寺は禅宗であり伊達政宗が禅宗だから重んじられた、武者の間とかもあり僧だけの寺ではなかった
伊達政宗の寺ともなっていたのである、禅宗と武士は相性が良かった、一方で真宗と日蓮宗は民衆化した宗教として普及した
豪華絢爛な安土桃山文化を象徴するのが黄金の襖の障壁画である
観瀾亭の障壁画模造品である、本物は瑞巌寺にある、秀吉が黄金の茶室を作ったように
黄金の時代にもなる、瑞巌寺の障壁画も見事である

東北だとやはり歴史的にも文化的にも仙台が中心になる、そこまで日帰りできることは
恵まれているともなる、福島市とかには歴史とか文化を感じないのである
二本松の城には感じる、景色もいい、東北だと私の住んでいる浜通りでも波が荒く打ちつける、荒寥としたものともなる
でも松島は入江であり島々があり穏やかなのである、こういう光景は東北にはあまりないのである、だからこそ修行する場としてはいいとなる

 松島で古人となる歟(か)年の暮

 松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)

 「風流行脚の途次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とある
 
 http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_28.html
 
松島で死ぬ人もありというときここで修行して死んだ僧たちのことを思っていた
古人となるかもやはり死ぬことである、松島は風光明媚でありそこは死ぬにふさわしいともなる、浄土でもあり死に場所としてふさわしいとなる
江戸時代だったら松島でも一回としか来れないから余計にそうなる
いつでも行けるとなると何かえりがたみがなくなる
私はここ十年以上旅していない、今になると東京でも京都でも奈良でも大阪でも遠いとなる、別に行けるのだが何か行けないのである
家を留守にすることもあり行けることは行けても行けないのである
これだけ旅行したのだからもう悔いはないとなる
近間だけでもいいともなる、近くだと四季に行けるから別に遠くに行かなくても深化できる、松島でも春から夏でも冬でも行っていた、ただ秋には行っていなかったのである


古代における山林修行の資糧ー乞食ー蘇軾
http://renbutsuken.org/wp/wp-content/uploads/2011/04/Kobayashi3.pdf




2022年09月24日

木の成長と人間の成長 (長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)


木の成長と人間の成長

(長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)

●成功をあせるな

成長の早い杉やヒノキは木材としての質が悪く、商品価値が劣ります。
成長が早いと年輪が粗くなり、強度が弱く、折れやすく、乾燥によって曲がりやすくなるためです。
成長が遅いと年輪が密になり強度が増します。年輪の色の濃い部分は1年のうちの気温の低い秋冬の時期にゆっくり肥大した所です。
ですから、山に生えている木も南側斜面より北側斜面の樹の方が成長が遅く、価値が高いようです。
幹の太さが同じなら樹齢が古いほど良いようですよ。
まあ、苗木を植えたときくらいには肥料をやるのかも知れませんがね。
木材として伐採するのは早くても50、60年はかかります。


人間も同じである、とても人間のような複雑なものは即製できない、動物だったらもう教えられることもなく生まれてすぐに環境に適応するようにできている
でも人間は環境に適応するのにも時間がかかる、だから人間を作り育てることは最高にむずかしい、いくら素質があり才能があってもそれを育み伸ばすのには時間がかかる
確かに肥料をやることも大事である、でも基本的に木を育てるのは時間である
もう育つのには成熟するには50年とかかかるからだ
それはかえってやせ地の方が時間をかけて育つからいいというのは余りに肥料がやりすぎて早め育つといい木にはならない、つまり年輪が詰まっているのは一年一年じっくり育ったからだとなる年輪の幅があるのはいい木にはならない、しっかりとした丈夫な木にならない、年輪の間隔が狭いのがいいのである

人生も終わりになるとこのことを痛切に感じる、何かも身につかずただ時間が過ぎてしまったとなるからだ、一年一年充実して生きていなかった
もしその人なりに充実した時間を生きていればやがて立派な木として育つ
でもそこに必ず時間の無駄があり何かあてもなくぶらぶらしているとかいろいろなことに気をとられているうちに時間がなくなっているのだ
先が長いと思っているけど実際は時間はあっという間にすぎる
時間はなくなってみないと自覚できない、金は小金でもいつも意識して使っている
百円でも損した得したとかなっている、でも不思議なのは百万とかもうけた損したとか
かえって意識できないことがある、人間は大きなものを意識できないのである
なぜなら日ごろの生活が基本にしているからである
日頃の生活は100円得したと損したとかなる、毎日の食費とかが金を使う感覚になっているからだ
私は遺産が入ったとしても大金を使ったことがないから使えないのである
日常感覚からはみだした金は感覚的に理解できないのである
でも庭作りとかで大きな金を使った、それでも百万単位とかである

若い時の問題はとにかく一挙に脚光をあびたい、有名になりたいとかあせることである
実際は何にも認められるものがなくてもそうなる
成功をあせることである、それが失敗の元なのである
それはやはり木のように育つ感覚をとても持てないからである
何かすぐに成功して脚光を浴びたいとなる
それは事業を起こした人にも共通している、何かもう始めたりたちまち成功して大富豪にでもなる感覚になっている、まず地道に仕事をするよりギャンブルの感覚になる
私の祖父にあたる人は警察署長だった、でも機織り工場の事業を起こして倒産した
それもおそらく警察署長だから成功すると事業を起こす前に思っていた
でもその事業についてはずぶの素人にすぎなかったのである
だから一家離散にもなりその子の私の母親は苦しんだのである
事業でも簡単に成功はしない、ギャンブルのように一挙に大金が入ることなどないのである、何かそこには地道にやることが必要になる、でも人間は一挙に脚光をあびて成功者になりたいのである、それが20代とか若くてもそうなのである
ただ天才とかいるからそれは別である、どうしても啄木のような人間を普通の人は理解できないからである

●すぐに見返りを求めるな

人間の問題で何かすぐに何をしてもすぐに見返りを求める、私はあなたにこれだけ尽くしたのだから今その尽くした分をすぐくれとかなる、返してくれるとなる
ここに苦しんでいる人がいる困った人がいる、その時人間は無償ではしない、後で返してもらえばいいですよとかならない、今返してくれとなる
それより困って苦しんでいる人を見てこれはチャンスだと借金した人が今金をくれるなら助けてやるとか脅迫することにもなる、助ける方も今困っているのだから金をくれとなるだから借金している人は人を助けることはできないと思った
推理ドラマでは必ず借金して犯罪になっているからだ
借金はそれだけすでに自分自身に負担がかかっているのだから他人の負担をもう負えないのである

つまり今苦しんで困っている人がいたらとにかく助ける、今は見返りを求めない、そうしなければ助けることはできない、だから救急車はそうしている、金がなくても何がなくてもともかく来てくれる、そうしなければ人は死ぬこともあるからだ
でも普通はそうはならない、今借金して苦しんでいるから今助けるから金をくれ、そうしたら助けてやるとかなる、そういう人はそもそも人を助けることなどできなかったのである、それで自分は苦しめられたのである
助ける時あとでそれもかなりの年数がたってからその見返りがあるともなる
私は介護で自分の病気でも何か余裕がないから他人のことなど考慮することもできなかったからだ、でも余裕ができればあの時は助けられたなと援助することにもなる
それなりに金銭の余裕ができて助けることもできる
でも結局人間はみんな性急なのである

そしてせいては事を仕損じる

人間の弱点は長い時間でみれないことである、ただ毎日今に追われているだけなのであるだから国家百年の計とかなるとできない、中国だとやはりあれだけの歴史があるから長い目で見て国家造りをしている、日本人がそもそも性急な民族になっている
それで一年で首相も次々に交代するとかなる、これもやはり問題である、そうなると長い目で見て国家を運営できないからである

行き当たりばったり」の意味は「成り行きに任せること」
「行き当たりばったり」の意味とは「その場の成り行きに任せることや、その様子」です基本的には深く考えなかったり準備を怠ったりする悪いニュアンスを持ちます

人間は例えば長く下積みとかすることも耐えられない、すぐにでも上に立ちたい、偉くなりたいとかなる、下積みで苦労することに耐えられないのである
でも確かなことは人間はすぐに成功することはない、また長い目で見れば今の世だけで成功することではない、その人の評価は死んでからこそある
また長い歴史の中で評価に耐えればその人は歴史に生きつづける
でも一時代だけで脚光をあびてもはかなく消える、どれだけの人が脚光を一時あびても消えたのかその数も多すぎる、浮き名をたてて消えてゆく
芸術にしてもそうである、後世まで残り鑑賞されつづけるものは少ない、いくらその時代で脚光をあびても忘れ去れるのが普通である
そして後世に残る物はわずかである、後はみな消えてゆく

●若きときに神を知れーさすれば余裕が生まれる

ともかく人間が成長するには時間がかかる、ただ人間は成長しつづける、70越えても肉体は衰えても精神的には成長しつづける、人間は木と同じなのである
時間をかさねて大木となる、大木は一日して成っていない、ローマも一日にしては成らずである、普通の人でも積み重ねで何ものかになる
何か自分の場合、何でも理解することが遅かった、それは学ぶことで失敗したからだろう効率的に学べなかった、学校で暗記することと試験勉強しかなかったからだ
でもかえって学校を出てから自分の興味あることを発見して伸ばしてきた
これも家族に恵まれた結果であり家族には死んでも感謝している
もし家族に恵まれなかったら自分は浮浪者とかなり野垂れ死にだったかもしれない
だから家族の影響は人間にとって余りにも大きいとなる
いくら才能があっても家族に恵まれないでつぶれてゆく人などいくらでもいるからだ
また時代運が悪くてもそうなる、有為な有能な青年が戦争でどれだけ死んだかとなるからだ、戦争は人材を消耗させるのである

ただ人間にとって大事なことは若い時に神を知れということである
神を若い時に知ればその後はあせることもなくなる、もう神との約束があり来世は神の国に行くことがすでに決められるからである、すると何もあせることもない、例え失敗してもこの世での失敗であり栄枯盛衰は世の習いである、でも確実に来世で活躍できるとなればこの世で認められなくてもいいとまでなる
実際はこの世とは来世の準備のためにありこの世で何かを完成することなどできないからである、いくら才能があってもそうである
この世では様々な障害あり認められないからである、でも神に認められているからこの世で認められなくてもいいともなるからである
つまり神に認められることは余裕ができるのである、不遇でも耐えられるともなる
それがなければ不満は尽きないとなる、それはいくらこの世で成功してもそうなのであるこの世とは一時のことであり一時の夢であり永続しないからである
永続は神の国しかないからである、実際あの人と十年前逢ったな・・・でも永遠に逢わないとなる、あの人50年前に一緒にいたけどあの人は本当に存在したのかとまでなる
それで人の出合いは何なのたろうとなる、それは瞬間的なものでもあった
あとは人間は永遠に逢わないのである、これもふりかえると不思議になる

確かなことは人間で貴重なのは時間でありその時間がたちまち消失してゆく
そして時間は二度と戻ってこない、例えあっても永遠に逢わない、そもそも人間が逢うとは何なのかこれもわからない、ただすれ違った人が逢ったとはいえないだろう
でも結局人間の出合いもただすれ違っただけなのかともふりかえるとなる
人の出合いもそれだけはかないのである、大衆化した現代なら大勢の人が一体になったようでなっていない、あとはばらばらになり一体感もない虚しいものとなっているだけである、それはあらゆる団体組織に言える、宗教団体でも同じである
烏合離散するだけなのである、そこに真の出合いなど全くないのである

ただ権力が欲しい、金が欲しいとか欲を充たしたいだけに集まる、そしてたちまち離散して後には誰もいないとなる、特に現代ではそうである、大衆化群衆化しているからだ
何か後々まで残るものがないのである、みんな一時的なもので騒いでは烏合離散するだけなのである、人間はやはり死んでもその関係がつづくものが本当のものである
私の場合は家族がそうである、死んでも語りかけ供養して関係がつづいているからだ
そういう深い長い関係は現代社会ではもう消失したのである
ただ無数の人間が烏合離散しているだけである、そして後には何も残らない虚しいものとなっているのである
別れても死んでも心が通い合えば互いに別れたことにもならない、心は通じあっているとなるからだ
人間の信頼関係も長い時間でしか築けない、それで10年間ある家で手伝いさんでも勤めた人は信用できるとなる、信頼するにも人間は時間がかかるのである

木の成長と人間

木は一年一年年輪を刻む
じんくりじっくり雨風に耐えて
その幅は狭いといい木になる
一挙に木は育たない
一年一年じっくりと育つ
大地に山に根付いて育つ
養分を一気にとって成長しない
やせた土地でも徐々に養分をとり育つ
その歳月は長い
でもやがて大木に育つ
そして大木は森に大地に倒れる
重々しく倒れ森に大地に還る
木は十分生きた、そして命を全うした
次の代の木もそうして育つ
自然の命は即製できない
そのリズムは悠長であり気長である
人間は騒がしく烏合離散して
後に何も残さない
かく長くも生きた木を後に人は思うべきかな
長き平和の日を生きよ
山のようにゆったりと木のように長く
神より与えられし命を育め


2022年09月26日

ようやく秋になった(秋の蝉、虫の声、里の秋)


ようやく秋になった(秋の蝉、虫の声、里の秋)

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これは松島で見た根っこだけど太い



 秋の蝉ひびきともしき牛越城

 地に根付き太き根っ子や里の秋

 里の秋畦道出合う烏かな


 一匹の虫鳴く声の幽かかな我が家に静か昼に聞き入る

 岩一つ玄関にすえ秋なれや余生なおもここに生きなむ

 岩一つ重しもここに一代に家を築きぬ秋の日暮れぬ

 我が家に昔を語る人のあれ桔梗の咲きて我は聴きにき


 今日も実際は暑かった、陽射しがまだ強いのである、昨日もそうだった、だから体調を壊した、でも夕方になったら涼しくなった、夕陽が山に没るのでも秋だった
 もう夏は終わりだろう
 牛越城は相馬藩の城でも五年で終わった、短い期間だった、相馬氏に移るまでの一時期の城だった

 ここで毎日逢うのは烏である、人はいても人とは逢わない、変なのは田舎でも人が今何しているのかわわからないのだ
 ただ一軒の家のことはそこに介護とまでゆかなくても話し相手をしている老女がいて
その話を聞くし一回だけ行ったことがありその庭が石造りの池があり立派なのである
玄関にも大きな岩がある、でもその人は糖尿病であり苦しい
介護する人が毎日のように来ているみたいだ
でも病院にいるよりは自分が苦労して一代で作った家にいるのが精神的にもいいとなる
家だ人間としての威厳を保てるからいいとなる
病院だと病人でしかなくなるからだ

我が家で故郷の昔を語った、小高の人と同級生だった、人間は最後は老人になったら何を語るかである、もしその人なりの人生を生きたら聞くに値する
それは別に地位があるとか金があるとかとかではない、その人の人生はいろいろであり
そういうもので価値があるとは限らないだ
まずカルト教団とか組織団体だけに生きた人の話を聞いても価値を見出せない
それはその組織や団体にいる人にとっては語られるけど外部の人にとっては関心もないのである
ただ何でも人は経験することが違っているから何かしら聞くに値することはある

今年は秋は遅くなった、10月になればやはり本格的な秋になる
そしてまもなく今年も終わりに向かってゆく、何か後期高齢者になったからこんな年まで生きたのかとなる、でも実際は人間は依然としていくら生きていても何かその年どうりではないみたいだ、それで加治兄とか呼ばれている人は不思議である
youtubeに出ているが本当に自分と同じ年なのに若いのもである、もう40代にしか見えない、本人は30代とか言っている、頭が白髪にもなっていないのである
40になると白髪がでてくる、禿げて来る、それもないのである
その人は年齢のことは言うな、年齢で差別するなと言っている
つまり老人は必ずしも年齢通りになっていないのだ

近くの老人は女性だけど私より10歳以上若いのに白髪で真っ白であり杖ついているのである、もう80才のようになっているのである
どうしても人間は見た感じで判断する
私は確かに体が弱っているけどまだ結構体は動くし頭も回転している、私は20代で老成していたから自分を見た人は若い時と20代と同じだと言っている
自分はおそらく20代では意外と苦労して消耗したためだろう
その後は家で引きこもりになり最近引きこもりを籠り人と改めることになった
その隠り人だったのが自分だったのである

 老人は今は平均的には実年齢より10歳引いた年齢は適正年齢である
70歳だったら60歳なのである、ただそれ以上に若い人がいる
だから現代は年齢では計れないのである