2022年08月31日

山の詩ー山明ける、山は修行の場、海側だと山がわからない(秋の蝉、虫の声)


山の詩ー山明ける、山は修行の場、海側だと山がわからない(秋の蝉、虫の声)


蝉鳴いて清流ひびき山明ける

このあたり社一つや秋の蝉


朝静か遠くよりひびく秋の蝉その声部屋に一人聞き入る

秋の蝉鳴く声やみぬ余韻かな我が部屋に一人耳を澄ましぬ

鈴虫のすずろに鳴きてひびきけり田舎に住みて心澄むかな

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる

山明けるというとき海側に住んでいる人は実感できない、常に海から陽が昇るからであるでも日本だと山が多いし山に囲まれいる地理でもある、すると山から陽が昇るという感覚がわからない、日本海だと山から陽が昇り海に陽が沈む、この感覚は太平洋側と反対なのである、この相違は大きい

まず福島県でも太平洋側になると浜通りになると海に常に面していて海から陽が昇る
でも中通りとかなると山から陽が昇り山に陽が沈むのである
この感覚がわからないのである

天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも 阿倍仲麻呂

山から月が出るというとき太平洋側では海から月が昇ってくる、そして山に月が傾いてゆくのである、奈良に住んでいて印象に残っていたのは山から出る月になっていた
どうしても海側に住んでいると月と山なのである、でも三笠の山で見ていたのは月が出ることなのである、太陽もそうだが山から昇り山に沈む、月も山からでて山に沈む
この感覚がわからないのである、また京都でも東山とういとき陽が昇る方向にある

陽炎の中やゆらつく東山 許六

名月や膳にすゑたる東山支考

祇園清水冬枯もなし東山 子規


春の夜は東山よりくると云ふ寺寺靄し月のぼるとき 晶子

東山というときこんな感じである、東山から月が昇るのである、でも旅しても何かそういう月も太陽も見ていないからわからないのである
冬枯れもなしというとき東山が常に陽が昇り春の感覚になっているからだともなる
でも陽が沈むとなると全く違った感覚になるのである
それで私が旅して印象的だったのは琵琶湖の湖西にいて東(あずま)から陽が昇ったのを見た時である、あんなところから陽が昇るのかと意外だった、それで東(あづま)だということを意識した、それは関ケ原がありそこから東はあづまなのである
だから名古屋は東(あづま)なのである、そこが西と東の境なのである
旅で感じるのは陽が昇る方向と沈む方向である、アメリカだと西海岸に陽が沈む、太平洋でも陽が海に沈むのである、エジプトだとナイル川の西側に陽が沈むのを見た時感慨深いものがあった、そこは黄泉の国ともされていた

赤々とナイルの岸に沈む陽をピラミッドを背に我が見つめをり

ここに三千年の歴史がありその陽が沈むのは何とも言えぬものがあった
これは大阪城で感じた、満開の桜が散ってゆくときであり太陽が赤々と燃えて沈んでゆくその夕陽がなんともいえぬ人間の興亡と栄をその夕陽に感じたのである
つまりそれは単なる自然としての太陽ではない、人間の歴史が重なり色合いを深くしていたのである、日本でも西になると歴史が長いし日本の歴史を作った場所だったから違っていたのである

この辺でものたりないのは山がないことである、阿武隈山脈は山ではなく高原だというのもわかる、高い山がないのである、ただ蔵王が見えるからあれば山だとなる
でも独立峰が富士山とか岩手山とか岩木山とかあるとそれが心に映じて精神まで形成されるのである、どうしてもこの辺では山の感覚がわからないのである


山明けぬ

山に陽の昇り
山は明けぬ
どうどうと滝の音
ひびきわたり
清らかな流れのひびき
荘厳なる山は明けぬ
山は暮れぬ
大いなる沈黙に
山は億年の重み
山は動かず
滝はひびきわたる
山は重々しく
その実体は真実
口を硬く閉ざして
不言の行を続ける
山は忍耐なり
一切の騒音を拒絶して
寡黙にして真実を示す
山は明けぬ
喜々として陽は輝き昇り
真日さして明けぬ
山は金色の太陽の台(うてな)
山は徒言を言わず
粛々として己を正す
山に雲が彩り映えて
陽は静かに沈みぬ
今日一日輝く照らす喜び
山はまこと神の実在なり
滝の音は流れの音は
雑音にあらじ
その神なる山にひびき調和す
そして山と山は黙し合う
山と山は騒がず
深く静かに重く連帯する
千古変わらずに結び合いぬ

The sun has risen over the mountains

The sun rises over the mountains
The mountains have not yet dawned
The sound of waterfalls
the sound of waterfalls
The sound of a pure stream
The majestic mountains have not yet dawned
The mountains have gone dark
In the great silence
The mountain weighs a billion years
Mountains do not move
The waterfalls echo
dignified  and united mountains 
Its substance is truth
With mouths rigidly closed
And continue to do the work of silence
The mountain is patience
Rejecting all noise
It shows the truth in silence
The mountain never dawns
The sun shines brightly and rises with joy
The true day has not yet dawned
The mountain is a golden sun
The mountain speaks no idle words
It is solemnly correcting itself
The mountains are colored by the clouds
The sun is setting quietly
The joy that shines through this day
The mountain is the reality of the true God
The sound of waterfalls and streams
Are not noises of noise
They echo and harmonize with that divine mountain
And the mountain and the mountain are silent
Mountains and mountains do not make noise
Deeply, quietly, heavily united
They are bound together as they have been for a thousand years


山が信仰の対象となるのもわかる、山で修行するのもわかる、モーゼもシナイ山に登り
神からの啓示を得た、もともと天台宗とか日本の仏教は山岳宗教だったのである
中国でもそうだった、創価とかの団地の宗教とか都会の宗教とはまるで違ったものだったのである、カルト宗教とは文明都市化大衆化したものであり政治化経済化した権力化した宗教とかとは全く縁もゆかりもないものとなったのである
一種の文明の病理的現象として生まれたのである、毎日選挙運動であり人、人、人・・・と絶え間なく交わる世界である
だから自然とは関係しない、都会から生まれたものだから当然だとなる、都会では人は群衆となり大衆となり個々人は存在しない
集団示威行動となりナチス化するのである
現代の宗教はとにかく大衆化して人を集める、会員を増やすことしかない、そして社会的圧力となり権力を持つのである、それが社会を席巻してナチスとかなるから危険なのである、そもそも大都会でも自然から遊離した場所でありもう人工化した世界でありそこに山など関係ない、高層ビルを毎日見上げていたらどうして精神が形成されるのかとなるからだ、自然があり自然とアイディンティティ化することで人間の精神はもともと形成されるそれが都会にはないのである、もちろん都会には都会の良さがあるにてもその規模が巨大化しすぎたのである、東京とかなくとそこが人間の住む世界なのかとなる
一体そこはどこなのか、とても人間の住む世界とは思えない、別な惑星にでも来たのかとなる、その大都会から生まれる宗教は異様な病理的現象であり宗教はカルトとなり歪められるのである