2022年08月29日

秋の蝉(イオンも閉じて相馬市が何か寂れた感じになった)


秋の蝉(イオンも閉じて相馬市が何か寂れた感じになった)


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のうぜんかずらは今年はまだ咲いている、普通は散っている
季節の関係で暑さがつづき咲いているのか
もともとこの花は次々に尽きることないように咲く



うろこ雲新たな沼に映すかな

ノウゼンのなお燃え咲くや揚羽来る

秋の蝉ひびくもなしや五本松

久しきに城跡たずね秋の蝉

秋の蝉ひびくもあわれ城下町

ノウゼンの尽きることなくなお咲きぬ朝揚羽の二羽舞い来たる

日立木の道の駅の近くの五本松があった所に喫茶店があったが閉じていた
喫茶店は相当どこでも減った、休む場所を求めてなかなかなくなった
そして五本松は二本とか残っていたがみんななくなった
そのために秋の蝉が鳴いてもひびくものがないとみる
蝉の声はもともと木に止まり鳴くのだから樹があってひびくとなる
でも石にもひびくともなる、「静けさや岩にしみいる蝉の声」芭蕉がそうである
岩にしみいるというのが何とも日本的であり夏を感じるのである
これは外国語では表現できない、蝉の声が岩にしみいってゆく、一心に鳴く蝉の声がしみいってゆく
その蝉の声も数が多い、森に一斉に鳴いている蝉の声がしみいるのである

松は枯れやすい、道の駅は閉じているが令和4年の秋に新装開店するとある
何なるのかわらない、そしてイオンで休むとしたら閉じていた
地震で壊れた所を直すためなのか、でも地震の後に行った時は普通に開いていたみたいだ一時的なものなのかやめるのかわからない、でもイオンは意外簡単に撤退しやすい
その後が空洞化して困ると他でも言っている、何故そうなるのかというとイオンとは資本でも外から入り土着的ではないのである

商店街だとみんな個々でそこに住んでいる住民なのである
イオンの場合は雇われた人達であり実際の経営は東京の本社でしている
それはレストランのチェーン店でもそうなのである
そうなればコンビニだってチェーン店だから本社がやめるとなればやめる
でも土着的にその土地に根付いていれば簡単にやめないとなる
ここに大型店の問題があった、でも今でもとても小さな店でやっていけない
ただ中型のキクチスーパーとかシシドスーパーだから地元の人が経営しているから
簡単にはやめないと思う、イオンは大資本であり土着的ではないのである

相馬市街を回ってみても何か活気が感じない、もともと商店街はどこもそうだった
だから同じだとなるのがやはり何か全体的に寂れているという感覚になる
でも六号線にトヨタカローラいわきの大型の店ができるみたいだ、やはり車だけは車社会なのだから大きな新しい店を出すとなる、その他は寂れた感じになる
ただもともと相馬市は城下町でありしんみりとしていたのである
そこがいいところでもあった、でも何か暮らすとなると寂れた感覚になる
それはここだけではない日本全体に起きていることである
それで車だけに頼らない社会になると街は返って活気がでるというのもわかる
そもそも街を歩いている人は少ないからである
私自身でも歩くのではなく自転車で走るとなっているからだ
鉄道だと不便なのである、駅らかまた歩くのも大変なのである
鉄道がどうしても廃れているのもわかる、駅からの交通の便がないのである
そこでタクシー利用すると金がかかるから損なのである

うろこ雲が右田浜の新たに生まれた沼に朝写っていた、でもそこの写真をとらなかったのが失敗だった、常に写真をとるようにしていないとまずかった
そして意外は二度と同じ場面をとれなくなるのである

ともかく相馬市に行ったのも久しぶりだった、暑いのと曇りであり雨にもなり行けなかった、相馬市は天候が悪いと行けない、原町の倍の距離があるからだ
んづれにしろ涼しくなったから自転車で走ると快適である
今度は飯館村から霊山から石戸村に行こう、秋はサイクリングには最適である


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ここにうろこ雲が映っていた



価値とは何なのか (貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)


価値とは何なのか

(貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)

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多様な価値


媒介する者についてメデアについて書いたが貨幣でも紙幣でもメデアであり媒介するものである、そのメデアが媒介するものが現実の物より力をも持つようになった
そのことですでにギリシャでは紀元前600年頃から金がすべてとなり社会は金だけを追求するようになり腐敗したと嘆いていたのである
つまり金自体が媒介するものであり仲介するものでありそうなりやすいものだったのである

物の価値は貨幣で計れない

人間の価値も貨幣では計れない

そもそも貨幣では価値が計れない、あらゆるものの価値は計れない、例えば果物があるとする、リンゴがあり梨がありバナナがあり葡萄があり柿がありスイカがありメロンがありみかんがありといろいろある
ではそれを交換するときリンゴが梨より価値があるとか梨よりバナナが価値あるとか水禍りメロンが価値があるとかならない
それは性質が違ったものでありそれぞれの価値は特有の価値を持っている
理想的なものは物々交換なのである、要するに私はリンゴを育てました、でも梨は作っていません、私はリンゴを与えますから梨を下さい、交換してください
こうなるのが理想的なのである、そこにメデアが貨幣が介入するとそもそも歪められる
貨幣自体にはただの金属だし紙幣だったらただの紙切れである
ただ黄金の貨幣だと価値はあるとなる、その貨幣は黄金なのだからそれ自体に価値があるから交換するとなる、でも紙幣だったら紙切れの価値しかない
だからそんなものとは誰も交換しないとなるのである

要するに物々交換だったら貨幣で価値を計ることはできない、そして交換するにしても等価だとなる、物自体の交換だから貨幣が介在しないからである
ただリンゴの味を味わいたい梨の味を味わいたい、スイカの味を味わいたいとかなる
その物自体の価値があって交換するだけなのである
そこに値段はつないのである、ただバナナとか大量にとれるから物々交換となるリンゴ一個にバナナ十本とかが交換するようにもなる
ただ物々交換だったら貨幣で価値を計るようなことはない、ただその物が持っている価値そのものと交換するだけである、そこに貨幣や紙幣は介在しないのである

でも貨幣が生まれたのは遠く持ってゆく、その時運ぶとなると手間である、物々交換するとなると大変な労力になる、リンゴをみかんと交換するのにその場所まで持ってゆくのは大変な苦労である、でも貨幣であれ紙幣だったら買えるとなると便利である
また貨幣でも紙幣でもいろいろなもの買えるということで便利だから貨幣が使われるようになったのである
ただ本質的な価値は貨幣では計れないのである、あくまでリンゴの価値はリンゴが生来持っている味である、その味に価値がありそれは神が創ったものだとなる
そして様々な果物に味がありその味を味わうということで豊かになる
それぞれに違った味があり価値がある、その味があって別な果物の味があって本当は直接物々交換すればいいとなる、金で計ることはない方がいいとなるのだ

それは人間にも通じている、人間の持っている価値は多様である、でもその価値に値段をつけて金が介在すると人間は歪められる、そもそも人間が持っいる価値は多様であり金で計れないからである、でもその計れない価値は金が介在すると無視される
金にならないものは価値がないとして無用とされ社会でも認められない、そこに社会が歪められるのである
それはブナという木が建築用材として価値がないとして無用化された、杉が植林されて杉の林になった、でもブナでも自然では効用があるから自然林を形成していたのである

ブナは漢字で木偏に無と書いてとされるが、由来は材が腐りやすく役に立たないからとされる

これは人間からの一方的見方なのである、自然にあるものは無用ということはない、そこに必要だからある、人間が価値づけすることによって歪められたのである
だからこそ老子は無用の用を説いたのである
例えば大都会を見ればわかる、そこはすべて用で埋め尽くられている,建物で埋め尽くされている、そこに無用の空間がないのである、それで空地とか公園とか貴重になる
でもそういう土地でも必ず何か有用なものとして建物が建ち埋め尽くされるである
そして憩うことも安らぎの場もなくなっているのである
つまり無用の空間がないから窮屈になっているのである
値段もつけられない無用の空間も貴重になっているのが大都会なのである
自然の価値は一様ではない、杉だけの森にしたのは人間側の都合でありそれが災いを産むことがある

松原は人工林だった、それが何か自然林のように思っていた、でも林でも森でももともとは混成林だった、多様な木があった、それで津波で松林が全部流されたことには驚嘆した松原は塩害を防ぐために作られた人工林だったのである
そして砂地に根を張るから津波には弱かったのである、それで根こそぎ全部流されてしまった、それは信じられない光景だった、おそらく自然の森のようになっていたら全部は流されなかったろう、杉の林にしたように一様化したことで根こそぎ全部流されてしまったのである、津波に強いのは竹だった、他にも津波に強い木を植えていればみんな流されることはなかったかもしれない

これもやはり自然というものを無視した結果だったとなる
自然を自然のままに利用しないで人間側の都合で利用すると危険になる
だからこそ文明は滅びるとなる、持続可能ではないとなる
大都会が危険なのは密集地獄のようになっているのは危険である
何かそこから大きな災害が生まれてくるからだ、そもそも地下街などでも危険であり
高層ビルでも危険である、それは人間の力を示すものだがそれが危険なのである
人間はそもそも自然の則(のり)を越えられないからである
だからこそ人間の過去の文明は滅びているのである
人間とは文明とはこうして常に自然に逆らい不自然に生きてきた、その結果として災いが生まれたのである、技(わざ)は常にまた災いになったからである

ともかく価値の交換というとき色でもいろいろな色がある、その一つ一つは多様な独特の価値でありそれに値段はつけられない、赤い色があり青い色があり独特の価値がある
その色もみんな違っているから交換しようとなる、またいろいろな色を欲しいとなる
赤があり青があり黄色がありとそれで豊かになる
でも同じ色はいらないとなる、赤を持っていれば赤はいらない、赤があり青と交換するとはなるのである
そして赤が一番価値があるから高くなるとかない、価値は平等であり等価である
赤には赤の価値があり青には青の価値があり黄色には黄色の価値がありその価値は赤に価値があり青に価値がないということはない、それぞれ違った色でみんな価値がある
優劣はないのである、自然界では優劣はない、みんな調和しているのである
人間界だけが優劣があり上下関係がある、差別がある

価値とはそもそも貨幣とかで計れない、それぞれ特有の価値がありそれは計れない
だから黄金と塩が等価で交換したというときどっちも実は貴重なものだったからである
塩がない砂漠のような所では黄金より塩が貴重になるからだ
価値はまた場所によっても様々な条件で変わるのである
そもそもあらゆるもののこの地球の価値は神が創ったのである
それを人間の都合で変えてしまった、メデアが貨幣でも変えてしまったのである
市場など公正でもないし金融資本主義とかなりもうどうなっているのかわからない
グロ−バル経済はもう公正でもなんでもない、世界のギャンブル場になり一握りの人が莫大な金を得るのである、いかさまなのである
でもそのいかさまが巨大になり見抜けないのである、だからどうしても現代は陰謀論になるのである

この世ではどんなことしても不公正になる法律があってもそうだし経済でもそうであるここの解決は神の国でしかありえない、人間にはとても公正な社会など作れないのである
貨幣は紙幣は便利であってもそこに必ず不公正が生まれている
メデアは報道でも歪められる、社会は必ず歪められるようになっている
そこに人間の限界がある、人間にはとても理想の国など作れないからである

posted by 老鶯 at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題