2022年08月20日

お盆の死者へのお供え物の意味 (実際の物を通じて心を通わせる)


お盆の死者へのお供え物の意味

(実際の物を通じて心を通わせる)

●死者への供え物の意味―物を通じて死者と結ばれる

これは神道の直会と同じような意味で 神様に供えた御神酒や神饌を弔問客でいただき身を清める、という神事の一つでした。
みんなで分け合う、助け合う、共食することで神様やご先祖様の気持ちになって穢れを祓い、平安の心に甦生します。
むかしの人たちは、このお盆や正月は身を清めるような暮らしをととのえていたように思います。

意味の甦生〜お中元〜かんながらの道

このサイトは神道でも仏教でも関連して説いている、宗教といっても他宗をみんな排斥することではない、それで日蓮宗は他宗を排撃するから問題なのである
それぞれのいい点を学ぶべきだとなる

お供え物というときこれは死者に捧げる、でも死者は食べることもできないから無駄だともなる、でも不思議なのは物というものには物が憑くとかモノと心は一体になる
それが東洋的思想である、物と心を分離して見ないのである
仏教でも色心不二となるとそうである、色とは物であり心と一体化してみる

それで死者に供え物するとき何か金を紙幣を捧げることはできない
金でも紙幣でもそぐわないのである、現実社会では常に金である、金の効用は余りにも大きい、でも死者との交流となると死者は金を要求しない、金はいらないのである
すると何が必要かとなると献げるものは果物とか食べ物とか花とかである
つまりそうした果物でも物を献げることで死者が食べないにしても死者の霊がつくという感じにもなる、だから厳密にみると死者に一旦献げたものは食べないともなる
死者の霊がついていて物に霊が憑いているともなるからだ
これは金とか紙幣だとそうはならない、だから死者との交流となると果物であれ野菜であれ物を媒介する

●人間の心をゆがめた貨幣

現実社会でも実際の人間のやりとりは物々交換であった、そこに金が介在したとき歪められたのである、金は便利でも人間の心を歪める、現代ではその金でどれだけ歪められているか格差社会は世界で天文学的になっている
それから人間の心は金によって荒廃している、人間の情も通じなくなったとか何かもう
これが人間なのかとまでなっている
それは物と物を直接交換することではない、金のやりとりになるときすでにそうしたことが起きていた

リディア王国はイオニア地方に隣接、エーゲ海に面していたこともあり、交易が盛んで、商工業も発達していました。そのため、エレクトラム硬貨は古代ギリシャ、ローマへと広がっていき、特にアテネ(古代ギリシャの都市国家)では貨幣経済が発展します

紀元前700年前に貨幣がすでに生まれていた、リデアという場所が貿易が盛んな地域でありそれが地中海を通じてギリシャに広がった
ギリシャのドラクマとかなると古いものに感じたからである

貨幣とはどうしても人間生活で必要だから生まれた、でも貨幣とか金とかはこれも媒介するものでありメデアなのである、人間は媒介するものによって歪められる
真実の価値が歪められる、物々交換だったら実際の物だから物と物のやりとりだからそれで人間的になる、物を市場で直接交換していたら全然金で売り買いするものと違ったものになる、それは経験していないが果物でも野菜でも羊でも交換するときどうなるのか?
その世界は貨幣を通じて物を売買するのとまったく違ったものになる
ただそんなことは不可能だからそういう世界をイメージすることもできなっているのだ

メデアとういとき今では情報を媒介するマスコミとかがあった、それは巨大な装置が必要てありテレビなどになるとそうである、新聞でも巨大な印刷場とか装置が必要だから一般の人はできない、でもインタ−ネットで個々人がメデアを持つようになったとき大きな変化があった、メデアとは媒介するものであり情報でも必ずメデアを通じて知るからであるでもメデアによって情報も歪められる、真実が歪められる、それが問題なのである
本当のことは事件でもその現場に行き直接知るならば違ったものになる
それが外国とかなるともうできないからその情報は歪められる、それがイラク戦争で起きた、油まみれの海鳥が全世界にテレビを通じて報道されてイラクはひどい国だったとなったからである、その衝撃が世界中に報道された衝撃が大きかったのである
情報とは必ず直接知ることはできない、何か事件があったとしても人伝えでも伝える人がメデアになる仲介者になるとき正確に伝わらない、そこで単なる噂(うわせ)でも間違って広がり大きな被害になることもある
つまり仲介するものはメデア自体が問題なのである

貨幣でも物と物をやりとりする媒介するものとして生まれた、でも媒介するものだから物と物を直接交換するのではないからそこで公平なやりとりはなくなった
そして媒介するものがメデアでも巨大な力を持つようになる、金は今や世界を支配する
物と物の直接やりとりではない、天文学的な数字の金がグロ−バル経済でやりとりされている、でも金が数字になり数字のやりとりにもなる、そこで現実感を持てくなくなったのである、そしてそこには大きな不正が生まれる、金融経済で莫大な富を得る人が国でも出て来る、アメリカが覇権国になっているから金が集まる、アメリカ国内でも富の格差が極端になる、それで株式市場の
ウオールストリートとかがで不満なものがデモをしたことでもわかる、株でもうけるのは不正だとしてそうなった

いづれにしろ金は公正にはなりえないものなのである、また報道でもメデアでも公正になりえないのである、それは物だったら物と物の直接交換ではないからである
情報でも直接人と接してその現場で聞くこともできないからである
そこに必ず誤解がありその誤解が世界的になると大問題になるのである
物は本当は交換不可能なものでもある、物の価値は決められない、つまりあらゆる物の価値はもともと神が創ったものである、リンゴがあり桃がありバナナがありそういう価値はもともと別々であり金に換算できない、神がその価値を本質的に作ったのである
だからリンゴがバナナより価値あるとかならない、それはみんな別個の価値なのである
他に柿がありみかんがありとそれは別個の価値なのである、そこに金か介在して価値を決めること自体が歪めたものになっていたのである

●物々交換から貨幣を媒介することで心が歪められた、物と心は一体

お盆というときどうしても死者にお供え物をする、それは物でなければならない、つまり物には心が霊がつく、死者の霊が物が憑くとなるからだ
金にはそういうことはないのである、だからお供え物をお下がりとして食べるときは死者に許しをこうて食べるのである
その果物の価値はあくまでも神が創ったものであり人間が作ったものではないのである
この世のすべての価値はもともと神が作ったものである、だから人間はもともと神からいただいて食べるのでありまた死者に捧げるにしても神からいただいたものを捧げるとなる
そして献げるというとき宗教的なものとして動物を犠牲にして神に献げていた
野菜を神に献げたカインは神は嫌われた、でも羊を献げたアベルは神によみされた
それは羊を犠牲にすることは血も流すし痛みもあるし野菜を献じるのと違う
もともと神に献げるというとき人間を献げていた、アブラハムの息子が神に献げることを神に要求されたからである、それは最も尊いものを献げることでそうなった
それが人間に代わって羊を献げることになったのである
神は傷なきもの汚れなきものを献じねばならない、傷物は献げることは神に対する不敬にもなる、神が求めるものは人間そのものなのである、人間が最も神が創ったもので至高のものでからそうなった、神がそれを一番喜ぶとなるからだ

ともかく死者に献げものをするというとき不思議である、一体献げた物を果物でも野菜でも死者が食べるのかとなればそうは見えない、でもその果物でも死者の霊があれば憑くとなる、それだけ果物でも物には霊が憑くとなる
その果物でも農民が自分の土地で苦労して作ったものですよとして献げればもっと死者でもありがいものとして受け取るとなるからもしれない
それは何も死者だけではない、近くの人が苦労してじかにとれたものを食べて下さいというときうれしいとなるからだ、ただそれを金が媒介するとき歪められるのである
でも別に外国の果物でもうまければいいとなるだけだしそんなことをいちいちもう考えないのである

でもこうして媒介するものメデアによって人間の心まで歪められるということはあった
貨幣というのがそうであり情報の伝達でもメデアを通すと歪められるのである
心が通じくなくなるのである、現代は様々なことでどうしても心が通じくなくなる
そもそも地球の裏側からでも果物でも入る時、それはもうどうして誰がどんな所で作っているかもわからない、心がココからその場所をさしていたというときでもそうである
つまり現代は心と物が分離しやすいのである、それは機械や道具によってもそうなった
機械や道具も媒介するものでありそれで老子が鍬を使うと人間の本来の心が失われると
二千年前に警告していたのである
でも今や機械なしでは生活できないし貨幣なしでは生活できない、でも人間の根本的なものがそうした媒介するものメデアで歪められている、それはグロ−バル化して余計にそうなったのである

●お盆の意義とは何かー介護でも冷たくされるとなると恨まれて死ぬのは怖い

お盆の意義は死者との交流である、祖先との交流である、祭りは死者を祀ることから始まったからでもある、そういう祭りも失われてゆく、すると死者とのつながりもなくなる
そこで起きることは何なのか、心の荒廃である、原発避難区域では神社でも小さな社でも荒廃している、誰もお参りするものがなく神様も死んでいるともなる
それはもともと地域にあり地域の生活の中で生きていたからである
そこに住む人がいなくなれば神も捨てられたとなる、それは神とは違っていても何か荒廃したものを感じた、荒れ果てて神様も怒っているというか不気味なものを感じたのであるそうなったのは原発事故のためだったのである、だから原発の被害は単なる経済的損失だけではすまない、精神の荒廃をもたらしたのである、それはもう修復できない
墓すら人が移住して移動しているからである、墓も多数捨てられたままだとなる
その時死者も悲しんでいるとなる、死者でもそこに長く住んでいて愛着があったからだともなる

お盆も終わったけどお盆にも何らかい意義があり生れていた、ただそういうものき意義も失われてゆく、先祖は別に神ではない、でも死者を供養することは必要である
死者が全く存在しないかとなるとそうとはならないからだ
死者も捨てられれば怒り悲しんでいるかもしれない、だから墓も簡単に捨てられないとなる、墓も物であり供え物も物である、でもその物を通じて物が憑くとなり人間の心が通じるのである、それは贈与とういものがあり物を通じて慰めることがある
何か怒っている人でも物を与えて慰められることがある、それでがまんするとかなる
物は何かそうして犠牲の代償ともなる、だから動物でも犠牲にされたのである
人間の罪を贖うものとして犠牲にされたのである、動物が死ぬことを見て罪の意識を深く感じたとなる、果物とか野菜だとそういうものを感じないからである
動物が苦しみ犠牲になるのは人間にも見えるからである
それで罪の意識を深刻に感じたとなる、キリストでも神への犠牲でもあったとなるからだ神の子羊と言われたのはそのためである

ともかくお盆というときそもそも村とかの小さい共同体で生まれたのである
そこで死者を供養するということで始まった
江戸時代に始まったというとき江戸時代でも庶民は墓がなかった
この辺の近くでホトケッポという所に共同墓地がありそこに村の人は葬られた
でも名前はない、個々の墓はないのである、家族墓ができたのは明治以降であり庶民がみんな姓を持つようになったのは明治以降なのである
ここが誤解しやすいのである、だからもともとお盆は村全体の祭りであり盆踊りは死者も一緒に踊る祭りとされていたのである
その盆踊りもなくなるというとき村という共同体が喪失したことにもよる
農民社会でもないし田舎でも隣の人が何をしているか仕事しているのかわからない時代である
そうなると伝統的なものは失われてゆく、すると先祖を祀る祭りも消失してゆくのであるグローバル化広域化社会になると余計にそうなったのである
何かかえって自分の住んでいる場所より外国とつながりを持つ人が増える
近くの人が困っていても助けない、外国の人を助けることが優先されるとかなる
これもグロ−バル化して起きてきた、それは本末転倒のことでありおかしなことである
それもやはり物と心の分離が起りそういうことに拍車をかけたのである
人と人の心は物と心は分断されたということにもなる

ただ死者と人間の関係でも生前が影響している、生前に親子でも関係が悪いと供養もしないだろう、それで介護が問題になる、介護は苦しいけど介護で冷たくされると恨んで死ぬこともある、そうなると供養できるのかとなる
親戚の人は「ひどい娘だわ」と最後に自分に言ってすぐ死んだのである
私の親戚の場合うまくいっていなかった、だから関心がなかった
でも私に最後に「ひどい娘だわ」と言い残したことが忘れられないのである
実際にその娘は信じられないほどひどい娘になっていたのである
育ての親にしても干渉されすぎたにしろあまりにもひどいと見たからである
そういう人が墓参りできるのか?確かに誰も見ていないが死者が見ている

「あなたはひどい娘だ」そう思って死んだ人を供養できるのかとなる
私の場合は特別良くされたしそれで必死介護した、だから供養しても遺影が笑っている
感じになったから救われたとなる、死者にはもう偽ることはできない
死者は冷徹に見ているからだ、生前は偽ることができる、死者には偽ることができないのである、もう死んでいるしわびても遅いともなるから怖いのである
だから介護が苦しくてもそこに死後とつながっているから怖いのである
もう死んだ時点で何もできない、わびることもなにもできない、それが怖いのである
それで介護は苦しくてももっと良くしてやれば良かったとかみんな後悔しているのである私自身でもそうである、もっと良くできたなとふりかえるからである
ただ自分の場合は自分一人であり自分が病気になって四苦八苦して介護していたかのである

2022年08月22日

夏の日に飯舘村へー飯館村には芙蓉が似合う (ただ荒地がまだ多いのが残念)


夏の日に飯舘村へー飯館村には芙蓉が似合う

(ただ荒地がまだ多いのが残念)



栃窪ー大倉

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これも養蚕の家だろう

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大倉から飯館の塩の道は通行止め

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養蚕の家の残るや木槿かな

大倉や一本の杉高く影涼し

蝉鳴いてまた一坂越え行かむ


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道の駅

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荒地が多いから人かこの先住んでいるように思いなかった

飯館村には森におおわれているからこうした森の道が多い、ここをサイクリングするには向いている
でもスポーツカーで行くのには向いていない、バイクでも早すぎるのである


飯樋の馬頭観世音

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石垣が組まれている、この上に城があるように見える

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美しい村を子供たちに残すとある肝心の子供がいないのである
飯館村の外から通っているのである
だからこれも何か虚しいともなる
ただ帰ってきている人達はいる、野球の試合もしていたからわからない

きれいに見るにはクリック拡大




喜々として芙蓉に舞いぬ揚羽かな

飯館の家々離れ芙蓉かな

一面に夏菊覆う道の駅

飯館や木陰の長き道を行く

蝉の声ひびき高鳴り人帰る

その御堂馬頭観世音桔梗かな


ひまわりの高くも咲きて芙蓉咲き飯館広く久方に来ぬ

森の道つづくも先に家あれやソバナの花のうなだれぬ

飯館の家々離れ芙蓉咲く広々としてなごみけるかな

夏菊の風にゆれつつ軽やかに揚羽舞い飛ぶ奥の道かな

四五本のポプラに風のそよぎつつ夏野広がる

石と石組まれつあれや城のごと夏の日に来ぬ畑耕す人


久しぶりに飯館村へ行った、暑いと陽射しが強いと熱中症になるから一か月二カ月なのか
遠くに行かなかった、行けなかった、でも今日はそれほど暑くないと見て行った
大倉のダムの岸で休むと風が涼しくて気持ち良かった
見ると一本の高い杉が立っていた、前の学校の校庭の前だった
何故か一軒店があったがなくなってその後に郵便局なっていた
この郵便局はコンビニよう全国にある、与那国島に行ったとき一番最初に見たのは郵便局だったのである、郵便局は不可欠なものとして全国にあった
郵便夫が昔の恰好して馬籠宿の坂を歩き郵便を配っていた、それは飛脚だったのかとも見た、とにかく郵便というのはそうして人が歩き配っていたのである
それも苦労だったのである

土壁の蔵が飯館村にあったが意外と土壁の蔵はまれである、石の倉が多かった
それは明治以降大谷石とかが出回って石の倉にしたらしい
養蚕の家は見ればわかる、兜の形をした屋根をしているからである
地方の経済が何で成立っていたかというと養蚕だったのである
生糸をアメリカに輸出していたのである
それで私の母親は原町紡績で十年間糸取りをして働いていたのである
でも昼食はたくわんと味噌汁と御飯だと言っていた
そんな食事で良く働いた思う、でも江戸時代の遊女もそんな食事だったのである
今からすると貧乏な人でもサシミを食べているし他も食べているから贅沢だともなる
明治生まれの父は最後病気になりサシミを食べれるようになったけど食べたくないと言って死んだのである
サシミはもう相当な贅沢だったことは確かである、めったに食べられないものだったのである

飯館の道の駅でスポーツカーを集めたイベントがあって人が集まっていた
フェラリーが多かった、スポーツカーは4千万とか五千万するというから驚く
でもそれは投資のためにそうしている人もいる、かなり高く売れるのである
だから資産として持っている、売れば高いからである
昨今ともかく貯金しても利子もつかないから増えない、それより物価高でも目減りしているのである、だからこれを投資として資産として持っていることは悪いことではない
何か盗難防止用の工夫もしているのもわかる
4千万から5千万もするからだ、全国になれば金持ちはいる
ただ正直飯館村にスポーツカーは合っていない、エンジンをふかした音がうるさかった
飯館村にあっているのはサイクリングする自転車である
森の中に道があり木陰で涼しいから気持ち良かったからである

飯館村に合っている花は芙蓉である、芙蓉がいたるところに咲いていた
家々にも芙蓉が咲いている、芙蓉の花は大きく広々とした飯館村に合っている
その土地に合った花がある、この辺だと相馬市は城下町であり藤の花が合っている
原町市はもともと原ノ町駅が機関区でありそこから駅前通りができて発展した
だからひまわりが合っている、そして鹿島区なると草深いとなり月見草とかあっている
藪甘草も合っている
道の駅の前にひまわり畑があり夏菊がおおうように咲いていたのは良かった
でも飯館村は一部は確かに田んぼと畑になったが少なかった
牧草地は放置されて荒地となり草ぼうぼうなのである
これは栃窪村になると田んぼは回復していた、また右田村でも確かに一部は荒地だが
かなり田んぼになり回復しているから比べると飯館村は田畑がまだまだ回復していない
要するににぎわっているのは道の駅だけなのである
今日は日曜日でスポーツ―カーのイベントがあったからにぎやかだった

それからあいのさとの溜池で休んだ、管理棟の人は外部から来た人である
何か話ししても通じない、飯館村は外部から入ってきた人が多いのである
それでも年配の人が多い、だから復興になるのかどうなっているのか良くわからない
どういう状況なのかわからない、ただ荒地をどうして活かすのかが問題になる
飯館村は前は森の中に隠されるように一軒一軒の家があり前は畑であり庭であり花が映えていた、今もそういうことがある、でも人はそんなに住んでいないと見る

それでも蝉が鳴くということはそこに人が住んで蝉も活きるとなる
人間と動物でも昆虫でも共に実際は共生しているのである
そのために原発事故以後蛙がいなくなり鷺もいなくなったのである
鷺は蛙も餌としていたからである、その後田んぼも回復して鷺が戻ってきたときは感動した、それから蛙の合唱を聞いた時も感動した、そのことで復興したと思った
飯館村は田畑が回復していないからそういうことがないと見る

やはりそこに暮らしがあり田畑でもあれば人が耕していればその村も活きているのである何か新しい家にしてもそこに住まず別荘のように利用していては暮らしにはならない
でもなぜ山村が過疎化しているかというと山でも木材をとって売れないとか外材と競争できないとか農業しても金にならないとかなり前から農業には不満が大きかった
それが一挙に原発事故で水でも土でも空気まで汚染されて木すら放射線で汚染されたのである、なぜなら私が計ったら木の幹でも3マイクロシーベルトとか合ったからである
森自体も汚染された、その放射線量は減っていないと思う
つまり原発事故の被害は農業とか林業に大きな被害があったのである
そしてもともと農業はもうからないとか60歳以上の人がしてもうつづかないとかなっていた、現実に私の近くでも一人は60代で病気になりやめた、その人は死んだ
隣の畑もやめた、その人は80くらいになっていたのかもしれない、車にのせられてきて畑を手入れしていたがつつがなかった、そしてそこは草ぼうぼうなっている

今回野飯館村の発見はまるで城の石垣のような所があった、これは人工に組まれた石のようでありここには城があったと言えば誰でも信じる、人工的にしか見えないからである
飯館村は広いからわからない所がある、サイクリングするにはいい場所なのである
これまでは暑くて来れなかった、陽射しが強いと熱中症になるからだ
でも今回は風が涼しくて良かった、すでに秋めいては来ているのである

今回の失敗はスマホをなくしたことである、ヤマハのYPJ-XCは優れモノなのだけど荷物を載せることができない、そのためにスマホを落としやすい場所に入れたみたいだ
スマホでもわかったことは小さいものは落としやすいことである
カードも小さいから三回くらいなくしている、それは小さいからだったのである
だから今度は大きなスマホを買うことにした、これも損だった、何か損がつづいている
どうしても自転車だと荷物を載せられない、それでダリヤの大きなものを買った
それは安かったのである、でも途中でこれも落としてしまったのである

また原町の方から七曲の坂を上りきって下がった所から入る道を行ったら途中で大きな崩落がありまた土砂崩れで道がさえぎられていた
車は通れないが自転車の場合意外と脇の方を通ると通れるのである
ただ自転車も常に危険がある、暗くなると危険である、側溝にまた落ちる所だったが足がついたので助かった、自転車も結構危険なのである、それで私は前歯三本を折ったことがあり頭を打っていたら死んでいたのである、自転車でも十分に死ぬことがある
それがどこかわからないのである、予測しないことで事故になり死ぬとなるからだ


飯館村は森の庭園に

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posted by 老鶯 at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2022年08月23日

なくしたスマホが警察に届けられて思ったこと (警察は市民の味方なのか、財布でも届けると犯罪者に見られる)


なくしたスマホが警察に届けられて思ったこと

(警察は市民の味方なのか、財布でも届けると犯罪者に見られる)

スマホを置き忘れた場所を一日寝たら朝に思い出した、そこは真野ダムの岸の階段だったそこでおにぎりなどを食べた、しかしそれは確実に近いし思い出せる場だった
飯館の道の駅で本当はスマホがなくなっていることを気付くべきだった
そうしたらすぐに引き返していて見つけることができた
その時家に忘れたのかと思ったのが失敗だった
ただなぜそこに忘れたのをその時思い出せなかったのか?
道の駅でスポーツカーのイベントなどがあり気がまぎれたからだったのか、普通だっらすぐに思い出すことである

とにかく人間は忘れ安いのである、でもそこで良くたどってきた道を思い返さないことでし失敗した、真野ダムによってということをそこで食事したことを思い出せばわかったことである、それを意図的にでも思い返すことをしていればこうはならなかった
でも朝目覚めたらどういうわけか即座に気づいた
そして真野ダムまで朝6時に自転車でまた行った、これは私の自転車が電動自転車で優れたものだから行けた、エンジンが優れていて楽に走れるからだ

そして真野ダムについて座った階段の場所を見たらなかった、これはもう探せないとあきらめた、でも掃除する若い人がいた、その人に聞いてみたらそれなら見つけた人がいて
相馬の警察署に持って行きましたと聞いた、それならあると安心した
その人は真野ダムでボートを貸している人だった、そんな人がいるのかと知った
でもその人がいて助かったとなる、ということは今真野ダムで魚釣りなどする人がいても管理する人がいなくなっている、つまりなんらかそうした観光の場所では管理する人が必要なのかとも思った、ただそこで商売すになるかどうかはわからない
でも飯館村は外から来た人が多い、第一飯館村のあいのさわの管理棟でも外か来た人がしていた、地元に詳しくないのにしていた、結局人材がいなくなりそうなった
郵便を配達している人も外から来た年配の人だったからである
あそこには店が一軒があったがそれもなくなった、自動販売機もないのが問題である

それから相馬署にスマホのことを聞いたらめんどうだった、それは本当にあなたのものですかといろいろ聞いてくるのである、すぐに渡せないとかなっている
スマホが買ったのは半年前くらいで安全管理もわからなかった
でもまずどこで落としたのかわかりそこでボートを貸している人に聞いて相馬署にあづけられとわかれば疑いようがないだろう、でもまず警察というのは疑う、疑うのが商売であり簡単には忘れものを届けてもめんどうになる
財布などとどけたら本当にめんどうになる、中の金をぬきとったことを疑われるからである、それで捕まった人も現実にいる、するとみんな財布などは警察に届けるなと言っている、根掘り葉掘りきかれて犯罪者扱いにされるからである

そして警察が市民の味方かというとそうでもない、確かにいい面と悪い面がなんでもあるが警察の商売がそもそもその性格を作っているのだ、それは常に犯罪者を相手にしているから疑い深くなり相手を信用しない、また相手を許すことがなく刑罰を与える仕事だからである、その仕事が業となっている、職業とは何かこうして何らか業を持っているのだ
それは警察に一番現れているのである
だからそもそも警察を市民が嫌うのは当然なのである、そして本当に市民の味方かというとそうはならない、市民生活でも破壊することがあるのだ
私が駅でボランティアのまねごとをしていたら誰かが怪しいと警察に連絡したらみんなの前で職務質問されてできなくなった
つまり善意でしていたことだが怪しいとなり犯罪者扱いになったのである
警察はこうしてまともな市民生活を破壊することがあるのだ

そして警察に対する不満として何か頼んでもしてくれないとか多いのである
警察は困りごとがあってそれほどかかわらない、まずめんどうなのは明確な証拠がなければ受け付けもはしないのである、だから多額の金を盗まれても証拠がないからはと受け付けないのである、殺人とかなれば別だがいろいろ困りごとがあってもかかわらないのである
だから本当に警察は庶民の味方なのか、あからさまに警察を批判する人たちが結構いるし警察に対抗する市民をもいる、警官が好きな人はいないだろう
それは警官の最大の問題は権力をもっているからである、具体的に警察は暴力装置であり権力を代表するものだからそうなる、権力で暴力でおそれさすものだからである
だから警察と誰もかかわりたくない、一種の暴力団にもなりうる
常に権力という暴力装置であり監視しているからである
現実にパチンコ業者と結託して金をもらっているのが警察なのである

警察とパチンコ業界の癒着について

ここでは警察とパチンコ業界は天下り先はわずかだとなっている、金融業が多いとなっている

 竹垣氏は、暴力団とつながっている警察官が罪の見逃しをするケースについて「その課のトップにおったらできますよ。逮捕状請求すなとかね。色んな面で融通きかせてくれますよ。平成になってからの話です。ようけあったよ」と、仰天の打ち明け話。

 警察は権力があるからその権力にこびる利用する人達もでてくる、すると権力を持っている警察は金をもらえば許すとなるのも怖いがそれは人間として起り安いことである
何か前は警察関係は退職すると天下り先がなくなるとかでいかがわしい会社に再就職していたとかある、でも今は警備関係とかいろいろ再就職先があるからないとしている
東電にも検事関係などが天下りしていたのである

愛知県警の創価汚染

愛知県警が全域・全部門に渡って創価学会に汚染されており
創価学会が一声かけたら、警察OBを経由して、

部長や参事官、県警本部で課長以上の地位にある警察幹部
こういった上層部と形容してもよい大幹部の連中が、創価学会の意向に沿った行動を取り
創価学会の意のままに動く状況が、愛知県警内部では確立されている、と考えられる

これも怖い話である、創価と統一教会は似ているのである、どうしたら権力を操作できるかしか関心がないからである、そのために警察の予算をにぎる東京都で議員が力をもって警察を操作しようとているといわれる
阿部前首相は最大の権力者だからいろいろ犯罪にかかわっても捕まえることはできないとなる
でも権力が変わる時、韓国のように裁判になる、つまり民主主義というのは政権交代がないと権力との癒着が生れから機能しなくなるのである
民主主義とは三権分立であり権力の独占とかを禁止して権力を監視する体制のことであるそれは報道でもそうである、報道も大事なことは権力を監視することなのである
でもそれも金をもらえば忖度して真実は報道されないのである
だから権力者が変われば隠された犯罪が闇が暴かれるのである
つまり司法警察の上に政治家がいてそれで左右される
だからこそ創価は政治家を使い支配しようとするのである

警察は市民の味方ではない、権力者の味方だ!

こうなっているともなる、そもそも警察自体が市民が監視しなければ暴力団のようにもなる危険が常にあったのだ、暴力装置なのだから当然だとなる
軍隊でもそうである、軍隊も暴力装置なのだから当然そうなる、

自衛隊の情報保全隊が全国で市民運動を監視し、いつ、どの集会やデモ・パレードで誰が何を言ったか、何人が参加し、ビラや署名運動はどうだったかなどを詳しく調べ、それを報告書として全国の自衛隊情報部門に配布していたことが明らかになりました。私たちWORLD PEACE NOW 実行委員会は、自衛隊による市民運動の監視・調査に厳重に抗議し、監視・調査を直ちにやめ、実態を公表して、責任者を処分することを求めます

自衛隊と警察は同類である、暴力装置だからである、だからこういうことがあるのは警察と同じである、だから市民運動でも監視している、ただ警察も絶対かとなるとそうではない、時の権力を持つものに従うとういことである
だから基本的に権力をいかに監視するかが民主主義の基本となる
統一教会でもなぜ今頃騒がれるようになったのか、霊感商法のことでは警察もかかわっていたろう、それが全くなくなったのはやはり自民党が深くかかわりそうなったのかとみるいくら警察でも自衛隊でもあくまでも国民の意向を無視して成り立たないからである
国民でも騒げば成り立たなくなる、そして今警察自体の犯罪が増えるとまた信用できなくなる、その犯罪も取り締まる方になると隠せるからやっかいなのである

警察がみんな嫌うのは何かしら脛に傷持つ人が多いからである、それは人間として仕方がない、罪を犯さない人などいないからである、正直自分自身がそうである
でも警官自体が結構犯罪を犯していることでもわかる、警察を罪をゆるす場ではない
犯罪者にすることだからである、でも警察自体がその機構が犯罪に加担することが大問題になる、でも時の権力側につくのだから検察司法でも限界がある
三権分立としてもやはり選挙で勝った方が権力を持つ、そして検察司法でもその配下の警察でも従うことになる、全部ではないにしろそうらざるをえないのである
でも問題は警察でも自衛隊でも暴力装置であり強制できることなのである
戦争でも赤紙一枚で戦場に連れていかれて地獄の苦しみを受けたり死んだ人が国民にあった、でも国家は軍隊を持ち強制できたのである、そこに国家権力の怖さがある
だから民主主義は権力の交代が必須として選挙があるのだからそれが機能していない
自民党一党独裁になりそれで絶対的権力は絶対的に腐敗するとなっているのである



他人の共感力がなくなるのはなぜ

お金持ちや権力者になると他人の気持ちを読み取ることが苦手になるデメリットが出るということがわかっています。

本当に金持ちとかは貧乏人に共感できなくなる、金で苦労しなくなるからそうなる
何か人に共感することはその人が経験していないとできない
その人は十円でも二十円でも安く買うことに苦労している、安い店をまわる、昨今の物価高で余計にそうなった
でも自分自身はそこまでしていない、つまりそういう貧困にならないと貧乏に共感できないのである
権力者とか金持ちとかはそうして自分が苦しまないから共感できないのである

仕事でも実際にその仕事に経験して共感するのである
だから苦しい仕事があったとしてもそれをしない人は共感できないのである
そこに人間が理解しえないものとなる

警官が常に上らか目線なのは権力を持っているからである、庶民の気持ちなど考慮しない警察は人はみんな犯罪者だとみる、犯罪者にしたてることでもある
つまり正常に他人に共感できなくなる、悪い奴ばかりと接していると人間はみんなこんなものだとなる、でもその警官でも犯罪を犯しているのである
つまり人間は犯罪を犯しやすいのである、でもみんな犯罪者と見るのは危険なのである
ただ警察は許すとういことはない必ず刑罰を与えるものだから警察は嫌われるのである

ともかく人間が権力を持つことはこうして人間性を歪めたり危険があるから監視する体制がないと社会自体が腐敗して危険になるのであり市民でも国民でも被害を受けるのである


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2022年08月24日

人間の認識の限界 (空間と時間軸の認識の限界ーでも限界を破るべき)


人間の認識の限界

(空間と時間軸の認識の限界ーでも限界を破るべき)

人間というのは何事認識する意識するということに特徴がある
認識というときいろいろあってもまず空間認識がある、なぜならその住んでいる場所の空間認識は自ずと無意識にでもそなわる
でも空間認識にしても狭いのである、だから日本列島を空間認識すること自体難儀になる大平洋側で海から昇る太平洋を見ているのと日本海のように山から太陽が昇り海に沈んでゆくのを見るのとまるで違った空間認識になるからだ
また山国だと山から太陽が昇り山に太陽が沈む、この感覚もまた相当に違っている
その場所場所で空間認識は違ったものとして育つのである

京都だと盆地だから東山というと太陽が昇る山であり京都では意識される
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」
これは東山から見る風景である、でも海側に住んでいると山から昇る太陽をいつも見ていないから感覚的にわからないのである
それで近江に行って湖西方面から太陽が昇るのを見た、それは東(あづま)の方向だったのである、あんなところから太陽が昇るのを見て意外だった
そして湖西というと西であり日の没る場所だったのである、それも感覚的にわからなかった、だからいかに地理を頭だけでなく認識することがむずかしいかである
これは地理の本を見てもテレビで見てもわからないのである
その場に立って認識しないとわからないのである

基本的に太陽が昇る方向と太陽が沈む方向で方向を知る、でもこれが太平洋側と日本海では逆になるから認識できなくなる、そして人間の認識はそこに定着していないとできない一時的に旅してもまた同じ場所にいればその感覚が薄れてわからなくなる
アメリカのカリフォルニアなどは海岸は西になり太陽は西に沈むのである
また韓国では日本海は東海であり太陽が昇る場所なのである、それだけ地理の感覚は場所により正反対にもなっているのである
もちろん地理を本とかテレビとか映像だけでもわからない、それは一部分を切り取ったものであり全体を知り得ようがないからである、体感できないからである
そして外国に行ったとしてもそこはさらに一回くらい行っても地理も認識するのはむずかしい、確かに大雑把には認識するから行かないよりはいいとしてもその土地を離れると
記憶もうすれてく、特に外国はそうである、写真をとったとしてもそこがどこかもわからなくなっているのだ、見慣れない物があり認識することがむずかしいのである
ただ何回も行けば違っている、でもそんなことは普通はできないのである

地理を認識するときでは今なら飛行機でヨ−ロッパでもどこでも行ける、でも飛行機で行ったとしても地理は認識できない、飛行機に乗って見えるのは外は闇だけで何も見えないのである、でも船で一か月でもかかってヨ−ロッパなどに行けばまるで違った認識になる途中に港によるし大陸を遠望したりと認識することが違ってくる
それは車でそうである、車はただ目的地まで早く行くというだけであり途中が省かれるからだ、だから歩いて旅すれば地理を体感できる自転車でもできる、坂で苦労して上るからである、それで坂を越えたとき新たな世界が開ける感覚になる
それは近くの飯館村に行くときそうなのである
その峠が長くつづくからである、標高でも飯館村は600メートルとかあり高いのであるだから自転車で行くとその峠を越えるのが一苦労なのである
でも峠をやっと越えた時達成感がある、その感覚は車だと得られないのである
日本は山が多く峠が多い、だから峠というのは日本が作った漢字なのである

ともかく人間の認識は空間と時間軸で決められる、でもその範囲が狭いのである
また時間軸でも短いのでる、そこに人間の認識の限界がある
たとえ飛行機であれ空間を認識することが容易になったとしても現実的には認識できない大陸には長大な川があるとしてその一部を見てもわからない、その川を上から下まで下った時わかる、ナイル川でもそうである、私は船で川を下っても一部だった
河自体が長大だからそれを認識することもまたむずかしいのである
それは中国の揚子江でも黄河でもそうである、そんな大きな川が日本がにないから認識できないのである

空間認識というとき宇宙旅行で月まで火星まで行ったとしても宇宙の広さを認識することは不可能である、なぜなら何億光年のかなたの星があるとしてその空間の広大さを認識できないからである、そこに人間の限界がある
そして地理を知ることのむずかしさはそのように広大すぎてそれを知るには相当な時間を費やさないとできない、もし一億年光年の星に到達するとなるとどうにもならないなる
光の速さの乗り物ができても行けないのである
ただもし人間の寿命が200年とかなればそれだけ空間認識は深まる
なぜなら何度も旅したりして認識を深めることができるからだ
一回だけではない何回も行けるとなるからだ

ただ人間の歴史は空間を広げるものとしてもあった、歩いていただけでは空間認識は広がらない、でも馬に乗れば空間認識は飛躍的に広がった、またそれからテクノロジーの発展で鉄道が生まれて車が飛行機が生まれて飛躍的に広がったとなる
コロンブスとかのアメリカ発見も空間認識を広げたのである
そして地球には未知の領域がなくなった、でも狭い所でも地形とかは複雑であり探求することはいくらでもあるとなる
ここで問題になるのは時間のことである、時間もまた限られているからだ
そこで人間の認識の限界が生まれる、限られた時間内でしか認識できないからである
だからまず人間の空間認識はどうしても限られてくる
時間でも老人になればわかる、あっという間にに過ぎてしまったとなるからだ
30過ぎると体力でも下り坂になるとか40で白髪がはえるとかすぐに老いてくる
それも人間の限界になる、旅するにしてももう体力がないとかなる
要するに人間はみんな個々にわずかのことを認識して死んでゆくとなる

お釈迦様と孫悟空が神通力比べをした話しですが、孫悟空は、自分の神通力一杯で空を飛んで、これ以上遠いところは無かろうと思ったところに大きな山を見つけました。そこで、「これは良し、自分がここまで来た証拠をこの山に残してやろう」と思って「悟空参上!」と大きく書きました。戻って来て、お釈迦様にそれを報告した所、お釈迦様が「そなたが書いた言葉は、これか!」と手を広げられたところ、その手の指に「悟空参上!」と書いてあったという話しです。

これは人間の限界を語っている、それは実際は今でも同じなのである、いくら飛行機で外国に行き宇宙まで月や火星まで行っても空間の広さを実感することは不可能である
まず外国は一回くらい旅してもわからないのだ、空間認識にしても何度も行きその場に立てば自ずと深く認識できるようになる、その空間認識が場の認識がアイディンティティにもなる、でもとても一回くらい外国旅行しても認識できないのである
日本だと私は全国を旅しているから認識する、それでふりかえって俳句とか短歌とか詩にしたりする、それは日本がだからできることである、外国になるとむずかしくなる
大陸だと広すぎて空間認識することが不可能になるからだ
中国に三回行ってもとても空間認識できなかった、アメリカは一回だから余計できない
アメリカだとホイットマンでも空間克服することが詩になる、あれだけ広ければ果てしない空間の中で人間はとまどうのである、そこで人間が一体感を持つことは困難になる
一つの州でも日本より広くなるし砂漠もあるしとなると認識できなくなる

でも人間は空間でも時間でも限界を越えるものだとなる
それを目指している、限界を越えよということである
だからこそ神は人間に時間を越える永遠の命を与えたのである
永遠に生きるということは時間の限界がないことである
そうなれば空間認識でもいかに広くても時間が永遠にあるとすればできるとなる
全能の神は人間に限界を越えさせるのである
それは科学技術でも成されてきたとしてもそこにも限界がある
とても長寿がかなうよにうになっても永遠に生きることはできないからである
老化を止めることができないからである
そういう限界を破る力を与えるのは全能の神だとなる
人間に限界を設けてはいけないのである
もう限界だよということはあらゆることに言ってはならないのである
それは個々人でも俺はこんなもんだとか俺には才能はないとか何がないないとなる
それは自ら限界をもうけて小さくしているのである
人間には限界があってはならないのである、限界を越える力を神が与えるのである

限界を越えよ、限界を越えて新たな世界を見よ
汝を低く狭く見積もるな
神は汝に新たな世界を開く
限界を越えよ、限界を設けるな
限界を突き破れ、神に限界なし
また限界を決めてもそこを深く知れ
神の与えた地を深く耕せ
広く知り狭きも深く知れ
神はさらに汝に天の国を与える
汝はそこで尽くす
その時間も限りなくあれば・・・・




2022年08月25日

abstract painting-forest way


abstract painting-forest way

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way of volcano

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historic ruin

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Diverse flow of wind

墓にまつわる話 (母の実家の墓と兄の墓の物語-金金金のこの世の地獄)


墓にまつわる話

(母の実家の墓と兄の墓の物語-金金金のこの世の地獄)

●人間最後に残すのは墓

墓は人間が最後に残すものである、でも墓を見てもその人はどういう人生を送ったとかわからないのである、ただ私は必ず墓を見ている、江戸時代のものがあれば古いとして価値あるとして見ている
ただ墓から何か知り得るものは少ないのである
でも身近に関係ある人が死ぬとその墓には必ず物語がある、家族でも死ねば物語がある
墓とは何か死んでも人が訴えるものなのだろう
というのは母の実家の墓は隣の市にあるから良く墓参りしていた
そこには25才で死んだ人が埋まっている、それは母親の兄にあたる人である
肺病で死んだのである、その頃肺病で死ぬ人が多かったのである

それも若い人だったから悲劇だったのである、啄木でも正岡子規でも宮沢賢治でもみんな肺病で若死にしている、肺病は国民病とも言われていたのである
それが悲劇だったのは若い時に死ぬからである
だから20代で死ぬというとき肺病が多かったのである
それでその墓の前に立つと必ずそこで25才で死んだ人のことを思っていたのである
そこで何か心苦しいものを感じたのである
他にも若くして戦死した人の墓もありそれで戦争のことを思うのである

墓はいらないとか海に焼いた骨の灰をまくとか樹木葬だとかなるのが昨今である
でもそうなると墓がないからその人のことを思うことが具体的な物を通して思うことができなくなる、ただ別に墓がなくてもその人を思うことはできる
写真でもいいし墓だけが故人を偲ぶものではない、ただ最後に人間は墓に埋まり訴えるものとしてあるとなる、普通の人は何か作品でも残さないし忘れるられるからである
ただ墓からだけではその人がどういう人生を生きたかなどわからないのである

●分裂不和の母親の実家

ともかく母の実家は分裂不和の家であり争いの家でありそれが後々までも死後もひきづった、それがカルマとなっていたのである
だからその後でももう墓を守る者が一人いたとしてもその人は異常な人間とも思えない人になっていた
ただ実家の墓を守ってくれと言ってめい子に3百万円渡して死んだのである
その三百万円は普通の金ではない、爪を灯をともすようにしてためた金だった
なぜなら共産党員であり赤旗を配って生活していたがその金もわずかである
それで畑とか作って自給自足していた、最低の生活をして金をためていたのである
その人は母の実家では長男にあたる人だったので死んだら墓を守ってくれと言って
三百万円めい子に渡したのである、でもそのめい子は普通ではない、人間なのかとも疑った、非情化した人になっていた

それで育ての親が私に最後に「ひどい娘だわ」と恨みの言葉を残して息を引き取ったのである、白血病でありすぐに死んだから良かった、そのその娘は介護などできないからである、それが救いだったのである、なぜそんなふうになったのかその事情はわからない
ただ私の家にきて「おばちゃんは金あるだから金でめんどうみてもらへ」と言って激怒して去って行った、その人は別に何もしないし何も要求しないのである
もともと関係が希薄だし子供の時一回合ったとかしかないからである
でもそうして血相変えて去って行ったことでひどい娘だわということを自分も思うようになったのである

つまり育ての親は私に恨みを残して恨みを晴らしてもらいたいとまでなっていたのであるでも私の家では兄弟でもうまくいっていないし付き合いもなかったのである
でも最後に電話してきたのはよほどひどい娘だということを言いたかったからだとなる
その娘は金は入るのである、5才まで一緒にいた実の母親は金持ちの家の人と再婚したので金があった、でも認知症になって施設に入ったのである
そこで金だけで目当てで娘は施設に入れた、でも全く母親と思っていないのである
だからこれも最後に金持ちに嫁いだとしても悲惨だったとなる
その娘には母親という感情がないからである、ただ再婚した相手の夫にも子供がいたからその実の親でも遺産争いになっているらしい、でも認知症になったらどうなるのか?
誰が遺産をもらうのかとなれば実の娘だとなるのかもしれない、その辺のことはめんどうになる

●継母にいじめられた私の母親

とにかく母の実家は父親は警察署長だったのである、だから幼少時は母親は恵まれていたのである、でも生糸の機織り工場を経営して失敗した、警察署長だから成功すると思っていたが会社の経営などできない人だったのである、母親もただ威張っている人だったと言っていたからである、そしてその時母親の実の母は病気になっていて後妻を迎えた
その後妻になった女性はものすごく気が強い女性でその継母に私の母親はいじめられたのである、子供の時弁当作ってもらって残したら実の母親が作ったものではないから食えないのかとその弁当をぶんなげたというからひどい女性だった
でも最後に養老院に入り何か精神がおかしくなり目も見えなくなったのである
もともと字が書けない人で手紙でも書いてもらっていたのである
その頃まだ字を書けない明治生まれの人がいたのである
私の父親は酒屋の丁稚奉公だったが良く字は筆で書いていたのである
葛尾村の出でありどこで字を習ったのかおそらく丁稚奉公した酒屋で習ったのだろうか?明治生まれでも一応字を書けていたからである

そしてその継母は死んだら大学病院で解剖してくれという遺言があり解剖されて私の家に骨が来てその実家の墓に葬ったのである
その前に養老院で何か妄想のようなものを見て苦しんでいて母親が見に行った
そして「悪かったな」と言ったという、やはり継母で私の母をいじめたことを後悔したためだろう
そのめい子になる女性は三人母親が変わったのである、でもかわいがられて良くされたのである、だからそんなに非情な女性になる理由がわからない、ただ私は子供の時一回くらいしか逢っていないから事情がわからないのである

●私の異父兄弟の兄の交通事故で死んだこと

そして私の兄についてだが兄は私の母親が東京で女中したとき結婚した夫の子供であり
私の家に再婚して連れてきた、その時私は五年間くらいあんにゃと言って一緒に暮らしたのである、ただその後父親とうまくいかず家を出て実家で暮らしたのである
その実家で母親の継母がいて五年間一緒に暮らしたのである
でもそのめい子は一緒に暮らしたことを覚えていないという、そんなことありえるのか
少なくとも五年間子供のとき寝食をともにした人を全く忘れる知らないとなるだろうか?そういう非情な人になったのだからそうなったのかもしれない
兄は集団就職して静岡の女性と結婚した、でも離婚した
何か市営住宅を金に困り追い出された、そこでトラック会社に入りトラック運転手になった、でもその会社に入ってから交通事故で40才で死んだのである
その死ぬ前に運転手の仲間と一緒に家に寄ったのである、それが最後に会ったとなる
その時は何か元気でありそこで働いていることは悪いことではなかった
ただ死んだ結果何か豹変したのである

それで私と母親と親戚の人がその会社に行った
そこでまたもめたのである
「遺骨はもってゆくな、墓は作ってやる」と遺骨をもってくることができなかった
別に実家に墓がありそこに入れることができたのである
そしてその社長は乞食のようにして来たのを雇ってやったと恩をきせがましく何回も言っていた、ただ正直私の家では兄を良くしなかったことで強く言えない事情があった
何かそのことで責めて来たのである、第一遺骨を引き取るとか墓を作るとか普通は社員が死んからと言わないだろう
だから私はついていいったが何のことか皆目わからなかった
また保険のことを車が持っていないのでわからなかった、自賠責とか任意の保険のことがわからなかった、任意にも入っていたのである

そこで後でその保険金を会社の社長は欲しいからだったとなる
兄には誰も身よりがないと見ていたのである、それで母親が来たので意外だったとなったでも墓を作り保険を受け取る代理人になりかったのである
私はもう嫌で三日くらいいて去った、兄のことでは私自身が悪いと思っていたので嫌だったのである
その後めんどうだから家では弁護士を頼んだ、ところがその弁護士を頼んだ親戚の人は頼んだだけで百万とられたのである、その弁護士も金しか頭にない人でありそんな金を払う必要もないのに払った、その金は自分の家のものでもないからそうなった
結局他人の金でありそうなった、ただその弁護士もずるいと思った
犯罪でもあったのだ、そして兄が働いた運送会社では休業証明書を頼んだら絶対に出さないともめた、それをなんとか出させたのは弁護士ではなく保険会社の人だったのである
弁護士は何もしていないのである、それで百万を得たとなるのである

●兄の一人娘のこと―兄を知る人は私しかなくなったこと

ともかく兄の遺骨は実家の墓に埋めた、でも今度は実家の墓でもめたので墓から兄のうめた遺骨を取り出して私の家の墓の隣に墓標を建てて埋めて供養することにした
でも墓から取り出した遺骨は土になりなくなっていた、まさに土になってしまったのである、でも仕方ないから兄の墓標は私の墓の隣に建てて供養している
そして娘は私の家に来たのだがこの娘も金のことしか眼中にない、保険金は全部娘がもらうことになった、でも中学生であり離婚した母が病気になり入院したとかで会っていたらしくその金は母親にも使われたらしいがその辺はわからない
一時はその母の弟に引き取られたが嫌になり東京に出たのである
高校卒業して東京に出た、保険金で生活して後は生活できないので生活保護になり一人娘を育てたのである

そして私の家でもめごとがありその娘も家に来た、また母親が死んで墓参りもした
でもその後は音沙汰がなくなった、もともと静岡で遠いので事情がわからなくなっていたただ兄が交通事故で死んだ時児童相談所にあづけられた、一年くらいそこにいたが兄の方にひきとられたがこれまたうまくいかず東京に出て暮らすようになったのである
母は唯一の兄の子であり娘だから死ぬとき認知症になっていてもその孫に何百万やれと私に命令した、それも死ぬ一か月前くらいであり認知症にもなっていたが正気にもどったようにそのことを大声で言ったのは驚いた
それでその兄の娘にその金を渡した、でもその後は音沙汰なしである
もともとその娘も金のことしか関心がない、それで墓参りに来るから十万くれと言ってきた、それを送った後は何の音さたもないし兄の墓参りもしないのである
つまりその娘も金しか関心かなくなっていたのである
ただ静岡でありどういう事情があるのかわからなくなっていた

●兄の墓参りする人は自分だけになったこと

そして不思議なのは兄のことを知っている人はいなくなった
故郷でもいない、子供の時遊んだ人はみんな死んだのである
だから兄のことを知っているのは今や自分だけなのである、なぜならみんな私の家族でも死んだからである、兄には悪いことをしたとしても兄を知っているのは自分しかいないのである、そして墓参りするのも自分だけになったのである
これも墓にまつわる話であり墓というのはその人の一生を語るものだともなる
すでに兄が死んだのも30年くらいすぎた、歳月が過ぎるのは早い
そうしてみんな忘れられてゆく、ただ墓が残って語るとなる、そこに墓の意義があるのかとなる

ただ娘も兄が父親としても苦しめられたから墓参りする気持もないのである
もちろん3百万はらって実家の墓を守ってくれとめい子に頼んだとしてもそのめい子にしろ非情化した異様な女性なのだからとても墓を守るとは思えないのである
ただ一応墓参りはしている、私はこういう事情になり母親の実家の墓参りはしない
何か怖くなったからである、母親の実家の墓とか家族自体が何かまともではなかった
それがカルマとなって自分にもふりかかって苦しんだからである
でもなぜか兄は自分のことを恨んでもいいが恨んでもいなかった
そこが救われたとなる、普通なら恨むはずだがそうでもなかった、何か人が良かったのかもしれない、ただ兄のことについては良くわからなくなっていたのである
でも私は墓標を建てて供養している、兄を知っているのは自分しかなくなっていたのである、故郷でも知っている人もいないのである
こうして墓には長い物語があるとなる、ただ他の人の墓についてはわからないのである

結局人間金金金である、親子関係でも遺産となれば金で争うのが普通である
人間はこの世にいる限り金から離れられない、カルト宗教なども金儲けのためだったとかなるし弁護士でも金だったしその金は自分の家のことで介護になったときも死んでからも金金金だったのである、地獄の沙汰も金次第となるがこの世と延長が地獄だともなる
この世が地獄であり金金金しかないのである、宗教でも表面上は善人の顔しているがカルトとになると金が目的なのである
それは統一教会であからさまに現れたし他でも同じなのである
宗教は本当は極力金にはかかわらないことである、金がかかわると宗教となると汚されるからである

そして金の切れ目が縁の切れ目

こうなって終わった無常である、ただ人間のつながりは愛し合う家族だったら切れることがない、墓がなくても遺影とかあり語りかける、すると笑っている
依然として家族がいる感じになるのだ、供え物として何か語りかける、それが極端になると認知症になると死者は死んでいない、死んだことがわからない、そうして死者と話ししているという、これも認知症だからではない、普通の人でもそうなる
その時死者は依然としていて通じ合っているのである
でも恨んで死んだりした死者はもう心も通じない、いくら装っても通じない
死者は冷徹に見ているからである、だから死んだ後も通じ合う関係になっていれば死んでも通じ合うとなる
墓というのはやはり人間にとって必要であり効用があるから作られた
墓だけが死者ではないにしろやはり墓参りもしなければ親子の縁で切れたとなるからだ
墓とは死者とつながる最後の場だとなる、その墓もいつかなくなる、それではかないともなる、無常となるのである




2022年08月26日

なぜカルト宗教団体にだまされるのか? (思考脳が働かない、カルトは金をとることが目的-日本人はカルトにはまりやすい)


なぜカルト宗教団体にだまされるのか?

(思考脳が働かない、カルトは金をとることが目的-日本人はカルトにはまりやすい)

●金を信者からとること自体宗教ではない

なぜカルト宗教団体に入るのか?まただまされるのか?
思考脳が働かない、何でも苦しいからと頼ることの危険
カルトは金をとることを目的にしている

先祖の祟りだとかして統一教会が信者から金をとっていた、確かに親の因果が子に報いとかは現実にあるしほとんどの家に何か悪い因果が働くことは確かなのである
それは事実だし自分もそのことを延々とカルマとして書いてきた
でもそれが現実にあるとして統一教会のようにそのカルマから祟りから逃れるためには
教会に金を寄付せよということが最大の問題なのである

つまりカルト教団の目的は信者から脅して金をまきあげること

これなのである、そもそも宗教に金がからむと宗教本来持っている効用はなくなる
金だけが目的と化してそのためだけのものになる
むしろ統一教会だと先祖のカルマを梳いてるから金を出せということ自体悪質な詐欺なのである
単純に考えると人間は簡単に金だけは出したくない、何で金を出すのだと常になるからだでもなぜカルト教団に金を出すのか不思議だとなる
それは戒名とかでもそうである、いい戒名をつけるには高額な金を払うとかも騙されることである、死んでからいい戒名をつけてもらったからとして何かいいことがあるのか?
もう死んだら金は必要ないのである
というのは死者に供え物をする、それが果物とかではない、金を供え物とすることはできない、死者にとって金はもういらないからである、むしろ一杯の水でもお湯でもあげればいいとなる、死者には金は紙幣はもういらないのである
死者が望むのは物ではなくその人の心だともなる、死者を供養する心があれば水でも供えればいいし野の花でも供えてもいいのである
問題は供養する心が大事になるからだ、現実に死者を愛さないものは墓参りでも供養もしないからである

ともかく宗教に金がからむと不純なものが生まれる、だから宗教で成功することは危険である、巨額の寄付金が集まる、それ自体がすでに何かいかかわしいことをしているから金が集まったのである、でもその金が集まることでカルト教団は力をもつ、この世で力を持つのである、そもそもカルト教団はそうしてこの俗世で力をもって支配したいためにあるこの世で人を支配するには金だとなるから金を集めるのである
先祖が悪いことしたからとか先祖を救うためだとかが現実にあるとしても実際はそれで金を得るためにする、では金を払ったからといってカルマが解消するかとなるとしないのである
そこで得するのはカルト教団でありその幹部達なのである
つまりカルト教団とは悪質な宗教によに詐欺集団なのである
地獄に落ちないようにするには免罪符を売ったカトリックと同じなのである

ただ人間は金を払うことには100円でも敏感なのによく金を払うとなる
まあ、賽銭箱に十円であれ百円くらいならいいが憶の金を払うということはどういうことなのだろうとなる、貧乏に暮らしていたらそんな金を払うことはない、金で苦労していたらそんな金を払うだろうか?みんな金にはシビアなのである
そもそもカルト教団にだまされるのは思考脳が全くない人達である
なぜならちょっと考えればわかるからである、そういう自分もカルトに若い時はまったから他者に厳しくは言えないことはある
でも創価に入っても金はほとんど払っていない、新聞をとったとしてもわずかの金である大きな金を払ったことはないのである

●宗教は人間と人間の問題ではなく神と人間の問題である

宗教が何かというと人間と人間の問題ではない、神と人間の問題なのである
そこが根本的に間違っているのである、たいがい宗教は人と人との関係にあると見ているからである
そもそも神が人を万物を作ったのだから神と人との関係が最優先なのである
でもどうしても社会だと人と人の関係であり人を離れてありえないとなる
でも聖書を見れば神が存在して人がいる、その関係性を記したのが聖書だとなる
だから神が人間に望む者は何なのか、神に供えるものが問題になる
カインは野菜を供えてアベルは羊を供えた、でも羊を供えたアベルは神によみされたのである、羊はやはり人間と通じてそれを犠牲にすることは痛みをともなう、それは人間を神に捧げることに通じている

神が人間に求めるものは金ではない、紙幣ではない、それは死者でもそうである
神に供えるものは神が求めるものは人間そのものであり人間が犠牲になるのことなのである、だからアブラハムはその子のイサクを捧げようとしたのである
その子でも老人になって奇跡として授かったものであり最も大事なものだったのである
だからそもそも信者に金を求めること自体が詐欺である
神が求めるものは金とかでもないし物でもない、正しき義の人を神に捧げることである
その至高の人がキリストだったとなる、神の一人子だったからである
その人は傷なき神への献げものだったのである

カルトとは自らその長が神と称して他者を奴隷にする、サタンでもある、そして会員は犠牲を払わされる、その長は本当の神に成り変わって自らを神とする偶像でもある
ただ実はその会長にしても実はサタンに使われているだけである
その人を操作しているのはサタンなのである、そしてそのサタンに使われた人はまたサタンにいいように使われて捨てられるのである、結局地獄に落とされるのである
この世がサタンが依然として支配しているというとき人間の欲がなくならないからであるその欲があるためにその欲をかなえてくれるサタンに仕えてまた使われるのである
もし欲がなかったら幼児のようだったらサタンはそこに作用できないからである
だからこそみどり子に治めさせよとか老子のように治めずして治めるとかなったのである

神ー人間
自然ー人間
人間ー人間

日本人だと自然が八百万の自然が神となりまた人間と人間の関係しかない
唯一の神と人間の関係が欠落しているのである、それでカルトにはまりやすいのである
日本人は基本的に神と人間の関係がない、日本の宗教だと師が絶対的なものとなりやすい神のようになりやすいのである、法然に帰依した親鸞でも師が地獄に行くなら私も地獄に行くというまで人間と一体化するのが日本人の特徴なのである
それでカルト教団でも偽りの師でも一体化してゆく、偶像化して一体化して従うとなる

●事業化して政治化したカルト教団からは税金をとるべき

ともかく苦しいからと困ったからと安易にカルト教団に相談したりして金をとられるのは問題である、具体的な金ということでそこからカルト教団を判断する
新聞をとるくらいなら仕方がないとなるがそれ以上の金をとるとなると金をとることが目的の団体だと見るべきである
カルト教団の目的はとにかくこの世で力を得ることである、だからこそ金が第一の目的として運動しているし、創価だと票をとることを目的としている
政治家になればこの世の権力を得ることができるからである、だから創価では確かにあまり金はとらないが選挙を最大の目的としているのである

でも何百万の会員がいるとしてその人達の困りごととか苦しみを相談して解放してやることができるのかとなるとできない、そんな数になるとただ数を集めて票に結びつけて権利を得ることしか眼中にはないのである
第一人間は相談を受けて何かしてやれるのは二三人くらいだろう
百万人の相談にのれることなどありえないからである
だからただ頭数を集めてそれを票に結びつけるだけだとなる

だからカルトを制約するには金に注目することである、宗教団体でももともと宗教とも関係ないのだから税金をとるべきだとか金の面からカルトを見てとりしまるべきだとなる
とにかく信者から集めた莫大な金がどう使われているのか、それを見るべきである
そもそもそんな巨額な金が必要なのかとなる、神殿のようなものを建てたり事業に使われたりと宗教がビジネスにもなっている、宗教は本来事業と関係しないのである

でも現実社会では宗教家でももし豪邸に住んでいたり神殿のような豪華な建物を見たりすると信仰していれば大金持ちになれるのだとなり励むことになる
そのこと自体が危険なのである、それが宗教だとなり模範とされるからである
それで宗教者はあばら家のような家に住む方がいいともなる
なぜならそうしたら宗教に励んでも金持ちにはなれないとなることを示しているからだ
現実にシャカでもキリストでも家もない岩窟で座禅して悟りを開いたとかキリストもこの世に枕するところなしとい寝る場所もなかったからである
でもカルトとなるとその正反対でありこの世で成功して栄華栄誉に暮らすことなのである
ともかくカルトを制約するとしたら第一金の面であり巨額の金が集まるとしたら税金をとるべきである、宗教は本来金とは極力かかわるものではないからである
また宗教はビジネスでないからビジネスにかかわることは禁止すべきである
また少人数ならいいが何百万も会員とすることは独占法違反にもなり危険だからそうした巨大宗教団体は制約すべきである
なぜそれほどまでして会員を増やしたいのか?それは民主主義では数が権力になるからである、田中首相が金と数が力だということになる、それは政治とか世俗の世界ではそうなる、それが宗教まで適用されることが問題なのである

宗教はナチスになりやすい、数を集めることにを最大の目的としているのもそうである
結局赤信号みんなで渡れば怖くないとなる、数がすべてを決めるとなるのがのが民主主義ともなる、でも統一教会のように世論がバッシングするときまた数が効果を発することがある、これだけたたかれればもう統一教会は終わりだろう
だから他のカルト団体でもこうして世論でつぶすことができる
だから今創価などは戦々恐々しているかもしれない、火の粉が飛んでくるからである
現実に統一教会をバッシングしているが創価はなぜ責められるのかともなっているからである、創価も明らかにカルトだからである
それもナチス化する統一教会より危険な団体なのである、権力をとるためなら何でもする団体だからである
本当にカルト法が必要である、外国では日本のカルト団体は禁止されている
統一教会でもそうである、日本は余りにも戦後自由になりすぎたのである
それは戦争の結果ではあるがカルトはやはり制限してとりしまるべきだとなる
それは社会にとって危険なものになってゆく、ナチスの再現にもなってゆくからである

●宗教に外国が関係することの危険

確実に統一教会は政治にはいりこみ日本を乗っ取る計画をしていた
統一教会の大きな問題は韓国であり外国勢力がカルトとして日本侵略をねらっていたことなのである、これは非常に大きな問題だったのである
日本人からだまし取った金が韓国に回っていた
そして日本は最終的に韓国に支配されるとなる、そこに在日がからんできて複雑になる
在日とは何か日本人であって日本人ではないという複雑な立場にあるからだ
在日は外国に韓国にでも日本を売りわたす団体なのかともなる
ただ在日は理解しにくいのである、いろいな人がいて理解しにくいのである
明確に在日団体というのは組織があるとも言えないし理解しにくい
ただ下関には戦後韓国に北朝鮮でも帰るために集結したが朝鮮戦争になり帰れなくなり
下関にとどまった一団の人達住みついたという取材がyoutubeで見た
下関には在日の人達が集団的に居住したのである、今でも韓国の釜山に航路があり韓国系であり在日であれ行き来しているからである

統一教会の問題はこうして国と国の関係ともなり問題だったのである
外国にカルト教団を通じて日本の金が奪われ遂に日本の政治家に浸透して日本の政治が歪められる、それが最大の問題だったのである
それは政治だけではない、日本テレビにも24時間テレビで統一教会の人が番組作りしたとかニュースになった、それも統一教会側からそれを発表して一方的な報道をするなと警告してきたのである、つまり今統一教会をマスコミが批判しているがそのテレビ局でも統一教会が深くかかわっていたとして批判するなとなったのである
統一教会こうして日本の主要な権力とかかわり日本支配をねらっていたとなる
宗教はそのための隠れ蓑であり現実は日本政治を左右してその支配下にする
韓国が日本が支配する道具ともしていたとういことで重大な問題になったのである

宗教は個々人の心を問題になるのではない、権力を奪う団体でありやがてはカルト教団が権力を得て支配するためのものである、だから政教分離が必要なのだが自民党自体がすでにカルト教団に侵食されていた、第一創価公明党と一対なのだから自民党自体がカルト政党なのかとなっていたのである
つまり私が追及してきたように政教分離をしていないからそうなった
その法律は有名無実であり何ら行使されていないからである
公安委員長自体が統一教会にかかわっていたからである
これほど統一教会に侵食されていたことは意外である、なぜならどうしても10万くらいの団体がそんな力をもてるのかとなるからだ

ただそこに無料で選挙運動してくれるとか何か巧妙なものがあってそうなった
それでカルト教団の力をそぐにはみんな投票しなければならはないというのもわかる
創価公明でも固定票は限られて減っている、だから投票率が上がれば当選できなくなるからだ、まず自民党は創価公明と手を切るべきなのである
政教分離の法に違反する宗教団体が国土交通大臣になることは憲法違反だからである
宗教団体は国からいかなる特権も受けてはならないとなっているからだ
とにかく日本は戦後75年とかすぎて政治であれ何であれ大きな変革を強いられるているのである、日本の貧困化も深刻であり何か暴動でも起きるような物騒な時代になっているのである、だから自民党一党独裁は終わりつつあるのかとなる
大きな変革の時代でありそこに相当な痛みが生まれる、でもその後に再生する日本があるとなる、期待するとなる

2022年08月27日

北海道苫小牧から樽前山まで俳句十句 (岩袋のことなど)


北海道苫小牧から樽前山まで俳句十句

(岩袋のことなど)

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苫小牧白波よせて夏に来る

ルピナスや船着きおりぬ苫小牧

広き野にサイロの農家菖蒲かな

夏の日やレールの伸びる北海道

沼に鷺車窓より見て北海道

大輪のシラネアオイや湖澄みぬ

波よせて甘草咲くや走り去る

鳥高く大空に飛翔夏の朝

旅たちぬ鳥の飛翔や夏の朝

煙吐く樽前山や藪甘草

どっしりと牛数頭や藪甘草

悠々と牧場に牛や菖蒲かな

頂上の風の荒しも岩袋


風に耐え頂上近く岩袋ここに咲けるや我が登り来る

北海道は10回行っている、でも30年とか過ぎると記憶もあいまいになる
そして今になると旅した場所を思い出すことが仕事になる
そして意外と思い出せない、忘れているのである、印象的な場所として思い出すことはある、でも人間の弱点は常に忘れることにあった
そこで今ならデジタル写真が記憶にとどめて後で回想するにのにいい、でもその時はフィルム写真だからあまり写真をとれなかったので残っていないのである

この場所が記憶に残っているのは樽前山が煙がはいているとかめずらしかった
山の形も樽のようである、ただアイヌ語らしいからちがっているらしい
そこで苫小牧から鉄道が通っていておりたのか、また自転車で行ったのか、覚えているのは鉄道があり踏切りがありその辺を歩いた、するとサイロがあり牧場がありそこに大きな菖蒲が畑に一列に咲いていた、そして広々とした牧場があり牛がいた
その牧場の柵に藪甘草が赤く咲いていた
そういう風景として記憶されていた、全体が記憶されたのである

岩袋を見たのは大沼公園でありそこに上って頂上辺りでみた
山だから風が吹いていてその風に耐えて咲いていた、いかにも岩袋らしいとなる
これを樽前草といっているのは樽前山に多く咲いているからそうなった、もともと岩袋である、岩に咲くからその名がついた、何かふさわしいとなる、岩とともに耐えて咲くとなるからだ

ふりかえると写真が貴重だった、この樽前山が見える牧場でも一枚の写真が残っただけだった、これが貴重なのである、なぜならフィルム時代の写真だからである
旅をするなら今ならデジタルカメラでとにかく記録として大量に写真をとることである
なぜなら30年とかすぎると記憶があいまいとなり思い出せなくなるからだ
人間にとって意外と記録が大事だというとき何百年前にあったものでも記録がないと
なかったことになる
この辺の津浪の記録は相馬藩政記に二行しかなかった、生波で700人溺死と記されていた、生波(いくなみ)とは津波のことでありその時まだ津波という言葉が生まれていない慶長津浪の時生まれた言葉なのである、この記録津波が来るまで学者すら知らなかった
これがいかに貴重な記録だったか知るべきである

ともかくこれだけ旅したとしても30年とかすぎると忘れる、思い出せなくなる
その時写真が残っていれば貴重だとなった
ところが今回の地震でその写真でも本でもばらばらになって未だに整理できていない
だから毎日整理に追われている、写真も整理していたのだがばらばらになってしまったのである

苫小牧の近くには支笏湖があり途中にウトナイ湖とかありその沼は水がきれいだけど浅い支笏湖の宿には泊まった、苫小牧におりるとルピナスの花が咲いていてそこからすでに北海道だとなる
一応思い出して俳句にしたがいいものともならない、そもそも北海道は広いし大陸的だから俳句が合わないのである、北海道に苫小牧で仙台から船でつくとそこから何か空気まで違っているのである、北海道が外国人にも人気があるのがわかる
本州とはまるで違った雰囲気があるからだ
たたすでに二十年くらい行っていない、だから月日が過ぎるのが早すぎるのである
なんとか一枚の写真を探し出した、藪甘草が牧場の脇に咲いていたのである
そこか煙吐く樽前山が見えたのである
北海道はまた旅したいが介護十年してまた出かけると家が留守になるので出れない
何か遠くに行きづらくなったのである
それで思い出す旅を家でつづけているのである

2022年08月28日

メデア(仲介するもの)によって歪められる社会 (マスコミからインタ−ネットへ)


メデア(仲介するもの)によって歪められる社会

(マスコミからインタ−ネットへ)
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●メデアの意味

メデアというとき何か?中立であり仲介するものである、でも仲介するとか仲立ちするとかなると実は人間そのものがメデアなのである
何かあれば必ず人から人と口コミで伝えられる、それがだんだん現実に起きたこととは別なものになってゆく、噂がそうである、そこで真実が見えなくなる
それは何か起きたときその現場にもいないし直接当事者から聞くこともできないからである、それは人から人へと伝わりそうして伝えられる内に真実とは別なものとなってゆく
マスコミとか報道機関がないとき人から人に伝えられるのが基本になる
現代の問題はマスコミが伝える、それでマスコミは第三の権力になったのである

メデアというときいろいろなものがメデアなのである、仲介するものなのである
銀行もメデアだというときそうなのかと思った、普通はメデアとは見ない
でもみんなから金を集めそれを投資に回したり金を貸したりして利子をとる
そういう仲介者だということではそうなのかとなる
だからクラウドファンディングとかなるとある製品を作るために直接生産者に投資する手法がインタ−ネットで生まれた、銀行を介さないで消費者が投資するのである
銀行は仲介するものであるがここでは生産者と消費者が直接結びつく関係でありメデアが仲介者がかかわらないのである

現代とは様々な分野でメデアに頼っている、どうしても株などわからないのだから証券会社とか銀行だと前は信用あったから頼る、でも個々人でトレダーとなって株の取り引きをしている人達がいる、その人たちは証券会社を通さないし銀行も通さない
自力投資してもうけているのだ、でもそのハードルは相当に高い、みんなができるわけではない、でもそういう人こそ自立しているしメデアを通さないのだからそれで損するにしろ儲けるにしろ自己責任なのである
でも銀行で投資信託をすすめるけど必ず手数料がとられるしまた必ず転売する
自分の場合は株をもっていたがリーマンショックの時持っていた株が元にもどり上がってきたとき勝手に銀行員が売ったのである、転売して他の商品を買わせるためだった
その株を持っいたらその後上がり続けたから倍にも儲けることができた

これも結局そもそも銀行というメデアに仲介者に頼んだことでそうなったのである
それは証券会社でも同じである、それは株とかわからないからそうなったのである
そして銀行は投資には株には素人だったのである、銀行自体が株を知らない
なぜなら銀行はこれまでただみんなから金を集めると金を貸してくださいという人がいくらでもいたからである、だから金を貸す相手がいないということはなかった楽な商売だったのである、金を貸して利子をとればいいだけの商売だったのである
それがなくなったとき金を貸す会社でももうわずかでありなくなったとき商売が成り立たなくなったのである、細かい金の出し入れは銀行でするのではなく自動化したりして仕事がなくなってきたから苦しくなったのである

●メデアに仲介する者に頼る社会

現代社会はともかくあらゆることでメデアに頼る社会なのである、仲介するというとき
何か言いたいことがあってもメデアを通さないとできない、テレビ局に私が発言したいのですがと言ってもできない、テレビ局で発言する人を選ぶのである
NHKは公共放送というけどそこで発言できる人は限られている、その発言内容までチェックされる、つまりそのテレビ局の意向にそったことしか発言できないのである
それでインタ−ネットはメデアなのだけど制限するものがいない、誰でも一応発言できることでメデアが変わったとなる
それでNHK党とか参政党とか極端な思想の政党でも選挙で議席を持つようになったのである、インタ−ネットでは前々から極端な発言でも許可されていたからである
それも問題があったが確かなことは仲介するものが力をもっていないから権力を持っていないからそうなったのであるつ

ただ問題はインタ−ネットでもプログなどは簡単にできるがワードプレスのように自分仕様にすることがめんどうである、技術的にめんどうなことがある
それで自分のプログでもワードプレスにしようとしたができないとか技術的な問題があるそこに手間だけは省けないのである
そしてインタ−ネットではまずマスコミのように何百万人とか見ないし読まない
だから目立つ人となるとわずかになる、後は膨大な人達は埋もれるのである
ただそれでもインタ−ネットはマスコミのように仲介するものがいないのである
一応自由な発言が許されている、でも読む人は極端に少ないとなっているのである

ともかくメデアに仲介する者に頼るというのが現代社会である、本を出して自分の意見を言いたいとしてもそれもハードルが高い、書店でも置く本を選ぶからである
でもアマゾンとかなるともう天文学的な本が古本でも簡単に地方でも買えるから情報格差はなくなったのである
私は引きこもりでワープロでパソコン通信していた時期があった、それはまだパソコンが出始めのときであり技術的には未熟な時だったのである
それでワープロに通信機能がついていて全国の人たちと通信で会話していたのは不思議な経験だった、そのことが自分には良く理解できていなかった
でもそれがインタ−ネットの発展の初期でありそれが現代では拡大して日常化したのである
ただそこで発言するには技術的にめんどうだったのである、そこに技術の問題があり技術が障壁となる、パソコンマニアがいてしていたともなる
私がなぜそういう初期の時代からかかわっていたかとういと悪筆なのでまずワープロに親しんだ、そして富士通のワープロで親指シフトを覚えて文章をスムーズに書けるので利用するようになった、ローマ字入力だとスムーズに文章化できないのである
ここが意外と一番問題であり入り口としてはつまづくからである
やはり映像もあるが文章が基本になるからである

インタ−ネットは今でも技術的な問題がまだまだある、それがワードプレスにしようとしてもできないことにあった、またホームページを作ったがそれも放置したままである
そこで新しくアップしていない、プログをしていていたホームページを使っていなかったからである、途中十年とか介護になり時間もなくなったからである
何かこのインタ−ネットとか意外と理解するのに時間がかかるのである
それは技術的な問題があるからそうなる、なぜなら最初の時期はパソコンマニアがいて理系の人が意外と多かったことでもわかる、文系の人は技術に弱いからそうなっていた

●宗教も教会と牧師は神と仲介するものだからメデアだった

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宗教でも神と取り継ぐものとして教会と牧師が生まれた、旧約聖書の時代には牧師も教会も存在しない、直接神とエホバとの交信であり信仰である、そこにいたのは預言者だった教会が生まれたのはローマ帝国にキリスト教が公認されてからなのである
そこで教会が強大な力を持つようになりキリストの信仰を仲介するものが牧師ともなった司祭ともなり権力を持つようになった
それに反発したのがプロテスタントなのである、免罪符などを売りつけられて反発した
だから教会とか牧師が神との仲介役になることを否定したのである
カトリックとなるとイタリアではバチカンがありそこは独立国でり兄弟な権力持ったのである、一つの国をそこで形成しているからである

仏教でも寺院はそこは不可侵の領域であり城でもあり僧兵が武装もしていた
だから信長がそこを権力集団とみて攻撃して殺戮したのである
その原因は比叡山でもそこが不可侵のものとなり一つの国ともなり琵琶湖の船運で税もとっていたからである
そこが強大な権力集団と見たから武士団と対立したのである
それはカルト教団でも数を集めて巨大化すると現政権をとりこめる、それが創価であり
統一教会でありオウムでもオウム王国を作ろうとしていたのである
創価は創価王国を作ろうとするために運動しているし幸福の科学でもそこに教祖が王となることを目指しているとなる、統一教会だったら文鮮明が王となっている
つまり宗教を利用してこの世の王となることなのである
そのために権力を掌握せねばならないから政治にかかわり操作しようとしているのである
だから何でもメデアとなるものが力を持つ、何か庶民でももめごとがあると弁護士に頼むでもそうして仲介者に頼むと搾取されることがあるのだ
ただ相談しただけで百万の金をとられたというのもそうである、そういう悪徳弁護士も結構いるのである、それで推理ドラマにもなる、弁護士は遺産とかにかかわるからそうなる労せずして金が入る職業だともなるからである、そこにいろいろいるにしても裁判でも弁護士を頼む他ないからそうなる、つまりこの弁護士もメデアなのである、仲介する者なのである、現代とは専門家がいてその人達もメデアであり仲介するものとなる
そしてその仲介する者が力を持ち搾取されるともなるのである

現代社会とはとにかく複雑であり何でも個々人でできない、すると仲介者に頼る
そのために仲介者がメデアが力を持ち左右されるのである
それはいろいろな分野でそうなっているのである
だから現代社会の問題はメデアに支配されるということにある
それは現代社会が余りにも複雑すぎてそうなっているのである
何かあれば専門家に頼らざるをえないからである、専門家の時代でもあるからだ
ただこうして人間は非力化されてただ専門家であれメデアであれ支配されるだけだとなるただメデアに支配されていることは気づかないことがあるのだ
NHKなどがそうである、いかにも善人のように見せて現実は裏では真実をまげて報道しているとかある、それでNHK党が生まれたのはインタ−ネットの効果だったとなる

●金がかかりすぎるマスコミ報道の問題

現代社会はメデアの役割が仲介するものの役割が巨大化したのである
それでマスコミが第三の権力と化したのである、新聞でもそうだったがこれも新聞を刷る印刷するのに莫大な金がかかりそれを配達するのにも金がかかる、それは本でも同じである、金がかかりすぎるから結果的にスポンサーに頼りスポンサーに忖度する
そして真実は報道されない、福島県の原発事故でもそうだった
電事連とか800億円の宣伝費がマスコミに回っていたから批判する記事は書けなかったまた今カルト宗教団体のことが問題になっているが統一教会でもマスコミに深くかかわり批判できないようにしていた、なぜなら霊感商法で批判されてから20年以上統一教会のことなど話題にならなかったからである、それは意図的にマスコミがそうしていたとなるまた創価などは聖教新聞を毎日新聞であれ福島民報であれ刷らせている

そして金銭面で批判を抑えるのである、つまり新聞というのは余りにも金がかかりすぎるのである、他でも本でも雑誌でも金がかかりすぎる、それで福島県の政経福島でも相双リテックから宣伝費をもらっている、裏表紙で宣伝したからである
相双リテックは除染で莫大な金をもらい億の金を幹部で山分けしていたからである
そんな会社のことを宣伝していることは大問題である、ても結局金の問題でそうなっいるのである、報道するにも金がかかりすぎるのである

まずインタ−ネットなら技術的なものとしても障壁があってもまた手間でもあるが金がかからないのである、だから個人でもテレビ局まで持つようになる、youtubeがそうである
そうなるとマスコミの力はかなりそがれる、何百億円の資本金の会社としてマスコミがあったとしてyoutubeなど手間はかかるが金はかからないのである
このことが画期的なことだったのである
そうなるとテレビでもあまり見ないとかなり新聞を読まないとかなってきた
巨大メデアが小さく見えるようになったのである、平等化したともなる
ただyoutubeでも見られことは至難であるから人気のあるものは見ても多くなると選ばれるから全然見られない人も出でくる、それはインタ−ネットでも前からそうだった
そもそもそんなに多くあっても見る時間が限られているのだからみんなに目を通すことはできない、それがまたインタ−ネットの問題だとなる

●なぜ現代社会がナチス化するのかカルト化するのか?

いづれにしろ現代社会はメデアが力をもった時代である、江戸時代なら村で生活する知識とかあれば良かった、自給自足が基本であり外国まで頼る頼られる時代とはまるで違っていた、国内でも村で自立している生活である、すると村のことを知っていればいいともなる、他藩のことは知らなくてもいいとなる
今は外国のことまで知らなければならない、すると天文学的な知識になる、とてももう処理できないのである
そして様々な複雑なシステムであり社会全体を理解する人は誰もいない、世界だった理解不可能である、福島原発でも吉田所長が復水器のことを知らなかったという、それは大事なものだが資材関係が専門だから知らなかったと言っている
肝心なことすら知らなかった、それは社長でも会社のことを全部知る人などいないのである、一部は知っていても全体を知る人はいないのである

そうなると社会がどうなるのか、どうしてもカルト宗教団体でもナチスでも全体主義になる、ハイルヒットラーが一番わかりふすいからそうなったのである
カルト教団でも教祖がヒットラーと同じだからである
それは複雑に分化してもうあらゆることなど知り得ないからである
知るにしてもメデアを頼る他ないとなりメデアにマスコミに操作されたのである
江戸時代だったらヨ−ロッパでも中世社会だったらそんなことありえなかったからである世界でもメデアに左右される、情報でもフェイズニュースでも信じる
イラク戦争では油まみれの海鳥が全世界に報道されてイラクへの批判が強まった
でもまわりは油がなくそれは作られた映像だったのである、それに全世界がだまされたのである

要するに現代社会は情報でも必ず直接見ることもできないしその場に立つこともない
だから偽りの情報に左右される、外国で起きたことでもその場に行って確かめるなどできないからである、現実にその場に行って聞いたりしら全然違った感想にもなるからである現代が情報社会というときナチスがゲッベルスが宣伝の役割をになったように情報に左右されやすいのである、そしてカルト教団などは金で権力でメデアをマスコミを支配する
必ず権力を持つと自由な報道は抑えられるからである
でもインタ−ネットはなかなか抑えにくいからマスコミの力は減退した
それでインタ−ネットが民主主義を促進する役割があったとなる

私が思うに民主主義でもあまりに巨大化すると機能しなくなる、そもそも人間が理解する範囲はアイディンティティ化できる範囲は狭い、自然でも狭い範囲でしかアイディンティティ化できない、常にその場を歩いて実見していないとできない
旅しても30年とかすぎるともう記憶もあいまいとなりその場がどういう場所だったかもわからなくなる、常にその場で生活していないと理解できなくなる
だから国というとき小さい狭い範囲になる、そこでアイディンティティ化して安らぐとなる、日本の国といっても大きいからアイディンティティ化することはむずかしくなる
それより中国とかに三回行ってもその国土でも人民でも歴史でも理解することは不可能だった、あまりにも巨大すぎて理解できない、アメリカでもそうである

人間は狭い範囲でしか実地に生活する場でないと理解できない、アイディンティティ化できない、ギリシャのポリスでも一万くらいだったのである
それくらいの規模でないともともと民主主義は成立たなっか、人間の認識できる範囲は狭いのである
だから自分自身が相馬郷土史と相馬新報として発言してきたのはまさに狭い範囲で自然とも社会ともアイディンティ化しようとしためである
そういうホームとか基盤を持たないと真実の報道はできない、この場が重要なのである

大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ
マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする

読むべき本ー場所の現象学(エドワード・レルフ)
(アイディンティティは場から形成される)
http://musubu.sblo.jp/article/186376894.html

とにかく現代社会は偽りの情報に惑わされる、様々な情報が天文学的になっている
そして現実にその場に立つこともないので偽りの情報に左右されるのである

2022年08月29日

価値とは何なのか (貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)


価値とは何なのか

(貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)

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多様な価値


媒介する者についてメデアについて書いたが貨幣でも紙幣でもメデアであり媒介するものである、そのメデアが媒介するものが現実の物より力をも持つようになった
そのことですでにギリシャでは紀元前600年頃から金がすべてとなり社会は金だけを追求するようになり腐敗したと嘆いていたのである
つまり金自体が媒介するものであり仲介するものでありそうなりやすいものだったのである

物の価値は貨幣で計れない

人間の価値も貨幣では計れない

そもそも貨幣では価値が計れない、あらゆるものの価値は計れない、例えば果物があるとする、リンゴがあり梨がありバナナがあり葡萄があり柿がありスイカがありメロンがありみかんがありといろいろある
ではそれを交換するときリンゴが梨より価値があるとか梨よりバナナが価値あるとか水禍りメロンが価値があるとかならない
それは性質が違ったものでありそれぞれの価値は特有の価値を持っている
理想的なものは物々交換なのである、要するに私はリンゴを育てました、でも梨は作っていません、私はリンゴを与えますから梨を下さい、交換してください
こうなるのが理想的なのである、そこにメデアが貨幣が介入するとそもそも歪められる
貨幣自体にはただの金属だし紙幣だったらただの紙切れである
ただ黄金の貨幣だと価値はあるとなる、その貨幣は黄金なのだからそれ自体に価値があるから交換するとなる、でも紙幣だったら紙切れの価値しかない
だからそんなものとは誰も交換しないとなるのである

要するに物々交換だったら貨幣で価値を計ることはできない、そして交換するにしても等価だとなる、物自体の交換だから貨幣が介在しないからである
ただリンゴの味を味わいたい梨の味を味わいたい、スイカの味を味わいたいとかなる
その物自体の価値があって交換するだけなのである
そこに値段はつないのである、ただバナナとか大量にとれるから物々交換となるリンゴ一個にバナナ十本とかが交換するようにもなる
ただ物々交換だったら貨幣で価値を計るようなことはない、ただその物が持っている価値そのものと交換するだけである、そこに貨幣や紙幣は介在しないのである

でも貨幣が生まれたのは遠く持ってゆく、その時運ぶとなると手間である、物々交換するとなると大変な労力になる、リンゴをみかんと交換するのにその場所まで持ってゆくのは大変な苦労である、でも貨幣であれ紙幣だったら買えるとなると便利である
また貨幣でも紙幣でもいろいろなもの買えるということで便利だから貨幣が使われるようになったのである
ただ本質的な価値は貨幣では計れないのである、あくまでリンゴの価値はリンゴが生来持っている味である、その味に価値がありそれは神が創ったものだとなる
そして様々な果物に味がありその味を味わうということで豊かになる
それぞれに違った味があり価値がある、その味があって別な果物の味があって本当は直接物々交換すればいいとなる、金で計ることはない方がいいとなるのだ

それは人間にも通じている、人間の持っている価値は多様である、でもその価値に値段をつけて金が介在すると人間は歪められる、そもそも人間が持っいる価値は多様であり金で計れないからである、でもその計れない価値は金が介在すると無視される
金にならないものは価値がないとして無用とされ社会でも認められない、そこに社会が歪められるのである
それはブナという木が建築用材として価値がないとして無用化された、杉が植林されて杉の林になった、でもブナでも自然では効用があるから自然林を形成していたのである

ブナは漢字で木偏に無と書いてとされるが、由来は材が腐りやすく役に立たないからとされる

これは人間からの一方的見方なのである、自然にあるものは無用ということはない、そこに必要だからある、人間が価値づけすることによって歪められたのである
だからこそ老子は無用の用を説いたのである
例えば大都会を見ればわかる、そこはすべて用で埋め尽くられている,建物で埋め尽くされている、そこに無用の空間がないのである、それで空地とか公園とか貴重になる
でもそういう土地でも必ず何か有用なものとして建物が建ち埋め尽くされるである
そして憩うことも安らぎの場もなくなっているのである
つまり無用の空間がないから窮屈になっているのである
値段もつけられない無用の空間も貴重になっているのが大都会なのである
自然の価値は一様ではない、杉だけの森にしたのは人間側の都合でありそれが災いを産むことがある

松原は人工林だった、それが何か自然林のように思っていた、でも林でも森でももともとは混成林だった、多様な木があった、それで津波で松林が全部流されたことには驚嘆した松原は塩害を防ぐために作られた人工林だったのである
そして砂地に根を張るから津波には弱かったのである、それで根こそぎ全部流されてしまった、それは信じられない光景だった、おそらく自然の森のようになっていたら全部は流されなかったろう、杉の林にしたように一様化したことで根こそぎ全部流されてしまったのである、津波に強いのは竹だった、他にも津波に強い木を植えていればみんな流されることはなかったかもしれない

これもやはり自然というものを無視した結果だったとなる
自然を自然のままに利用しないで人間側の都合で利用すると危険になる
だからこそ文明は滅びるとなる、持続可能ではないとなる
大都会が危険なのは密集地獄のようになっているのは危険である
何かそこから大きな災害が生まれてくるからだ、そもそも地下街などでも危険であり
高層ビルでも危険である、それは人間の力を示すものだがそれが危険なのである
人間はそもそも自然の則(のり)を越えられないからである
だからこそ人間の過去の文明は滅びているのである
人間とは文明とはこうして常に自然に逆らい不自然に生きてきた、その結果として災いが生まれたのである、技(わざ)は常にまた災いになったからである

ともかく価値の交換というとき色でもいろいろな色がある、その一つ一つは多様な独特の価値でありそれに値段はつけられない、赤い色があり青い色があり独特の価値がある
その色もみんな違っているから交換しようとなる、またいろいろな色を欲しいとなる
赤があり青があり黄色がありとそれで豊かになる
でも同じ色はいらないとなる、赤を持っていれば赤はいらない、赤があり青と交換するとはなるのである
そして赤が一番価値があるから高くなるとかない、価値は平等であり等価である
赤には赤の価値があり青には青の価値があり黄色には黄色の価値がありその価値は赤に価値があり青に価値がないということはない、それぞれ違った色でみんな価値がある
優劣はないのである、自然界では優劣はない、みんな調和しているのである
人間界だけが優劣があり上下関係がある、差別がある

価値とはそもそも貨幣とかで計れない、それぞれ特有の価値がありそれは計れない
だから黄金と塩が等価で交換したというときどっちも実は貴重なものだったからである
塩がない砂漠のような所では黄金より塩が貴重になるからだ
価値はまた場所によっても様々な条件で変わるのである
そもそもあらゆるもののこの地球の価値は神が創ったのである
それを人間の都合で変えてしまった、メデアが貨幣でも変えてしまったのである
市場など公正でもないし金融資本主義とかなりもうどうなっているのかわからない
グロ−バル経済はもう公正でもなんでもない、世界のギャンブル場になり一握りの人が莫大な金を得るのである、いかさまなのである
でもそのいかさまが巨大になり見抜けないのである、だからどうしても現代は陰謀論になるのである

この世ではどんなことしても不公正になる法律があってもそうだし経済でもそうであるここの解決は神の国でしかありえない、人間にはとても公正な社会など作れないのである
貨幣は紙幣は便利であってもそこに必ず不公正が生まれている
メデアは報道でも歪められる、社会は必ず歪められるようになっている
そこに人間の限界がある、人間にはとても理想の国など作れないからである

posted by 老鶯 at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題