2022年08月13日

車社会を見直すべき    (歩く旅のことがわからない、人間的感覚が喪失した―俳句で偲ぶ昔)


 車社会を見直すべき

 (歩く旅のことがわからない、人間的感覚が喪失した―俳句で偲ぶ昔)

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高齢者が日常の買い物や通院のために自分で車を運転しなければならない街は、単純に不便で暮らしにくいということです。高齢者にとって、公共機関と徒歩で利用可能な施設は不可欠で、利便性の高い地域に施設が集まっていることが大切になります。また、居住地域が一定範囲内に収まっていれば、送迎・訪問介護等の福祉サービスも効率よく提供できることになります。

なぜ車社会の街は暮らしにくい? 3つの要因で今後注目の「コンパクトシティ」とは

https://magazine.aruhi-corp.co.jp/0000-2950/

車がないと買い物ができない。
車がないと仕事にも行けやしない。
とどのつまり車がないと生きていけない。


地方で普通の生活をするにはテレビより洗濯機より何より、車が必需品なのです。まさにマストアイテム。
地方でそれなりの暮らしを実現しようとしたら1家に1台ではなく1人1台なんです。
電車・バスの生活に不便がないので、よっぽどのことが無い限り車を持つという発想にもなりません。

つまり都会の人々は歩きます。
この地に足着いた「歩く」という行為が、街の活性化にはとても重要だったんです。
https://onl.bz/E7iXyq9

●歩く感覚で見れなくなった社会

くるま社会というとき車によって社会が適応したとなる、社会があって車があるのではない、車があって社会がある、するともともと共同体として機能していた社会が車社会になり共同性すら失われる、社会の問題をいろいろ追求してゆくと車社会にこそ問題があるということを社会全体で追求しないのである
それはトヨタの車が今や日本の輸出品だとかなっていることも関係している

それもあるが今や車無しの生活が考えられなくなっている
まず車ありきの社会である、本当に車無しでは仕事もできない、車持っていない人は本当に変人であり社会で役立たない人達だとなる
だから私は自転車に乗る人とは話しする、でも車持っている人と話ししないのである
そして変なのだがニートとか良く合う、田舎でもまたこうして働かない若い人達が普通にいるようになったのである、その人達は車を持っていないのである
だから車も持てないとういことはもう社会人として能力がないとも見られる
第一車なしでは働くこともできないからである

農家の人でも農地に行くのに必ず車で行くからである、また荷物を載せるにも必要であるつまり農業でも車なしではできないのである、前はリヤカーとか馬車で荷物を運んでいただからそもそも遠くへ荷物を運ぶこと自体簡単にはできない、すると回りにある物だけで自給自足の生活になる
それで農家では納豆でも油までも自家生産だった、カヤの木の実から油をとっていたとかなる、つまり何かを買うということはまれだった
だから村と村でもたいして離れていなくても交わることもなかったのである
隣の村から麦つきに来ていた若者が蛇だったとかいう伝説が残るのもそもそも隣の村でも遠くなっていたからである
今は歩かないから歩く感覚で社会を見れないのである
それで飯館村の大倉村と佐須村で明治になり合併しようとしたができなかった
その理由が民情が違うからだとなっていたのである
民情とは何かとなるとわかりにくいが何かそこでわかりあえないものがあったとなる

私が大倉村から佐須村まで自転車で行くと結構遠いと感じる、そこは山間の道であり余計にそう感じた

そこを歩いたらどうなるのか?

5,6キロでも相当に遠く感じる、つまり歩くということはそれだけ近くても遠くなってしまうのである、自転車でも遠く感じる、でも車だとあっという間につくとなる
それで不思議なのは現代の人間とは遠くが近くなり近くが遠くなったのである
近くが遠くなったというとき近くの人間関係が希薄になったということでもある
なぜなら私の子供の時は私の家では店をしていたが近所の人達が客となり近間で用をたすほかなかったからである、歩いて生活するとなると遠くには行けないからである
歩いていたから商店街もありえたのである
今は車でも郊外のイオンとかに行くから買物でも車なしでは生活できないとなる
それでシャッター通りになったのである

●鉄道の時代

そもそも街自体が駅前通りがあったように鉄道があって通りができた
鉄道が交通の要になっていたときはそうである、原町市(区)は駅前通りができたのは鉄道が開通したからである、原町区は常磐線の機関区にもなっていたからである
福島県では昔のの平駅今のいわき駅とが機関区になっていたのである
そしていわき市には常磐炭田があり石炭を運んだり資材を木材や木を運んだ
森林鉄道がありそれが高瀬川から葛尾村の方まであり岩をけずったトンネルが残っている森林鉄道が網の目のようにめぐらされていたのが日本であった

でも車社会になったとき鉄道の時代は終わり車社会になった
車で物を運ぶ時代となった、自転車屋とかは駅前にあったのは鉄道で物を運んでいた時代に駅前に運ばれたからである、そこでどこでも貨物列車の一部が入る

旅客の乗降、貨物の積卸などを行うために設けられた場所のことを総称して「停車場」(ていしゃじょう)といいます。
鉄道は人と物を運ぶ事業なので、旅客を乗降させたり、貨物の積み卸しをしたりする場所が必要です。こうした場所は、役割によって「駅」、「信号場」、「操車場」に分けることができます

引き込み線が必ず駅にあったのだ、鉄道はもともと貨車であり北海道だったは石炭を運ぶために作られていた、乗客のためではなかった、小樽などがそうである
北海道は石炭の産地であり石炭を運ぶものとして作られた
常磐炭鉱があり東京にいわき市から運んだと同じである
驚いたのは原町紡績にも原ノ町駅から直接引き込み線があり生糸を横浜などに運んでいたのである、その原町紡績に私の母は十年間糸取りとして働いていたのである
人間は常に過去のことがわからなくなる、その最たるものが歩く感覚で社会を見れないことである、この変化は余りにも大きかったのである

常磐高速道路ができて鹿島地区にSAができたがそこは鉄道の駅からすると百倍以上の人が出入りしているだろう、千倍かもしれない、駅だは数人くらいしか乗り降りしないからである、その相違も大きいが高速のSAはそこに一時的にトイレに行くとか食事するしかないあとはすぐ離れてゆくだけで町の方に来ることがないのである
この相違も大きいのである、それは街とは離れた世界でありイオンともにている
経済的効果がないのである、働き口になっていても街自体の活性化にはならないのである道の駅より活性化にならない、道の駅は街中と通じていることがあるからだ

江戸時代を知るにはまず歩いてみなければわからない、お伊勢参りでも東海道でも歩いていたからである、参勤交代でも歩いていた、だから相馬から江戸まで8日とかかかった
往復になると16日もかかる、それは今の感覚では実感できない
そこからして必ず過去を見るとき誤解しているのである
江戸は簡単に行ける場所ではない、頻繁に行ける場所ではないのである

●車は場所をとり他者と交わらないマイカーになる

社会が変わった、人間は冷たくなった、人と人のつながりがなくなった、地方は衰退するばかりだ・・・・
いろいろ言う時それが車社会となったということである、その変化が一番大きかったのである
いかに車社会が社会を根本的に全体的に変えてしまったかそれを知らなければ時代を知ることはできない

それが津波でも車社会が影響していたのである、車が逃げようとし渋滞してそれで車が流されて被害が拡大した
車だと早く逃げられると思ったが都会で渋滞化して前がつかえてかえって被害を拡大したのである、車というのは意外と場所をとることが問題だったのである
鉄道だったら多人数を運ぶ公共性がある
車はマイカーであり個人的消費するものとしてある、他者は無視する公共的なものではない、その問題として場所をとることである、歩くとなれば一人の人間だから場所をとらないが車で移動することは場所をとるのである

そして車は車内で閉鎖された空間であり交わらないのである
それで自転車でテントを張ったがそこに車に乗った人がいて止まっていたがわからなかった、たまたま話しかけたので人がいることがわかったのである
つまり車に乗った人とは旅は道連れ世は情けとならない、情など通わないのである
ただどういうわけかバイクの人とはたまに話ししたりする
バイクと自転車は多少近い仲間だとなる、でもバイクと自転車の相違も大きいのである
何か百キロ走ってきて帰ってきたとかなる、そのスピードは車と同じなのである
だから若い人がバイクにのりそれなりの年配の人が自転車で旅することは相当な相違がある、自転車は相当に疲れるからである

ともかく田舎でもトラック運転手が多いとみる、また物を運ぶ仕事が多いのである
通販時代になり物を運ぶ仕事も増えたのである
あるトラック運転手だった人は足を悪くしたとかで仕事をやめてから自転車に乗って近辺を回っている、その人と良く合うのである、相当な年だけでと自転車で回っている
また老人になると80才くらいで免許を返納する人達が増えた
すると足がないということで困る、鉄道もバスも不便だからである
何か高齢化社会は車社会に合わないのである、むしろ公共交通が必要になっているのだ
ただ正直不便である、ここでは原町まで行くのに鉄道で行ってもそこから用を足すには歩くと遠くなるからタクシーを利用する、すると金がかかるとなる
だから私自身も原町でも相馬でも自転車で行っているのである
ただ自転車は暑さに弱い、今暑いから熱中症にもなるから一か月以上原町にも行っていない、そういう不便が自転車にはある

●人間回復には歩くか自転車がいい

車というのは何か人間的なものを失う、それは別に車だけではない、道具自体が必ず人間的なものを失うものだった、それで二千年前に老子は鍬を使うことで人間的なものを失うと警告していた、道具でも石を投げ合い戦争している時代と鉄器で戦争している時代とではまるで違ったものとなる、鉄だと大量殺戮も可能である
その道具が核兵器まで発展したのが人間である
道具にはそうした負の面が人間が生れてから最初からあったことなのである

また旅の面から見ると歩くことがなくなったということは旅自体が喪失したともなる
車で旅するとなると旅にならない、ただ目的地までいかに早く到達するかとなるだけである、その途中は省かれるのである
実際に地理を理解するには路査(とうさ)することである、実地に歩いてみることであるそうしてこそ地理を実感できるのである、その感覚はいくら地図を見てもわからない
実感できないのである、そこにまた過去を見ることでも誤解が生じているのである
また旅したとしても車の旅は途中が省かれるから記憶に残らないのである
大地を牛のように歩いたら記憶に残る、その記憶に残らないことが意外と重要なことになる、なぜなら老人になると辛い旅とか登山とかてきなくなる
すると今まで旅したことを回想する、でも記憶に残っていなかったら回想もできないからである、それで後で旅しても旅していなかったとか損したことに気づくのである
新幹線で一気に仙台なり青森に行ったとしても途中は通貨しただけであり記憶に残らないのである

老人になるととにかく何を経験したかを語ることになる、旅でもそうでありいろいろな仕事のことでもそうである、みんな体験していることは違うからである
だから老人はその語ることで価値があるとなる、でもニートかが老人になって二三行しか語れることがないというのはあまりにも悲しい、60才まで生きてそれだけなのかとなると何のために生きたかもわからない、つまり老人になると語られることでその人を見ることになる、記憶に生きることになる
それで私の姉は従軍看護婦で四年間マレーシアのジョホールバルで働いたことを死ぬ直前まで語っていたのである、その青春の記憶は認知症になっても忘れることがなかった
そこが人生で一番強烈な印象となったからそうなってしまったのである

老人は語ることで価値がある、それはみんな違っている、ある人は若い時人一倍働いて
立派な庭と家を建てた、その頃トラック運転手でも一か月百万もらったとか言う人もいた稼げば稼ぐほど金をもらっていたのである、その石で組まれた城壁のような庭は価値があり自慢する、そして病院に半年くらいてかえって体が悪くなったが家に帰ったら回復したとかいうのもわかる、家というのはそういう効果がある
他にも15歳で大工の修行して優秀な大工になった人もいる、そこで注目したのが15歳だったということである、もう何か物になるにはその年代でないと物にならないとなっている、明治なのか昔は13歳であり18歳になるともう親方は弟子にしなかったという
もう遅いとなっていたのである、つまりいかに若い時から修行しなければならないかである、それは何でもそうなのである、人間の時間は限られているからである


●俳句で回顧する歩いた時代の感覚

御堂まで一里あまりの霞かな

同じ橋三たび渡りぬ春の宵

夕雁や物荷ひ行く肩の上

井戸の水汲む白菊の朝かな

つくづくと行燈の夜の長さかな

(漱石俳句集)

御堂まで一里あまりの霞かな

御堂というのはそこは休む場所としてもあった、だからそこに寝泊まりした人もいた
また雨宿りもしたのである、それで私は自転車で雨が急に降ってきて本当に御堂で雨宿りした

雨宿り御堂のあれや夏燕

おそらく一里歩いたら御堂で休めるということでこの句ができたのかもしれない
一里という距離感はあくまでも歩いた距離感だからである

夕雁や物荷ひ行く肩の上

荷物を肩に背負い運ぶのは日常的なことである、雁のように飛んで行くことはできない
車だとまさに雁のように飛んで行くともなるから違っている

秋の日や松一本一本や歩むかな(自作)

松一本一本を見つつ歩く、自転車でも一本一本の松を見て走る、車だったら通りすぎるだけなのである、途中が省かれて記憶されないのである

こんなふうな俳句になる、それもこれは自転車で旅したから思い出として記憶されていたのである、現代では記憶する旅がなかなかできないのである
大地を足ずふみしめてゆけば記憶に残る、一歩一歩牛のようにスローに踏みして行けば記憶に残る、でも車で行ったら通り過ぎるだけであり途中は記憶に残らないのである
だから人間が体験するということは車がないとできないということではない
歩くことしかできない時代でも深い体験はできたのである
むしろ人間的感覚で旅ができないから経験ができないから失われたものがある
また貧乏だから体験できないということもない、何でも今なら金がないと体験できないと思っている、でも人間に与えられた時間は平等なのである

いくら金があってもあらゆる体験はできないのである、時間は限られているからだ
でも金があれば留学などできるからそれは大きな体験となる
でも貧乏だからといって体験できないことはない、体験するにしても人間は多様だからである、会社員となるのも体験である、でも変な話だけど問題だけどニートも体験なのである、仕事もしない会社員にもならない、ただ時間だけがるというのも体験なのである
確かなことは人間の体験する事でも時間が限られているからわずかだとなる
私は最初は鉄道の旅だった、それが飽きて自転車の旅になった、でも歩く旅をしていないのである、これは経験として欠けているとなったが歩く旅は容易ではないからしなかったのである、ただ自転車だと歩く旅にも近いからイメージできるとはなる

明治生まれの漱石の俳句でも昔の俳句は今の時代の感覚では理解できない

井戸の水汲む白菊の朝かな

これも井戸があったときの感覚でできた句である、何か瑞々しいとなる、それはなぜか?これも井戸の水だからそうなった、水道の水ではないのである
これも井戸がなくなったときその感覚がわからなくなる、井戸の水は自然の水でありそれで白菊も映えて新鮮な感覚になる

つくづくと行燈の夜の長さかな

行燈だったら今の電気時代の灯とは違っている、現代は明るすぎるのである
そして情報洪水でもあり時間に追われるのである、明治辺りだったら行燈がともりじっとしているほかないとなる、外は真っ暗だとなるからだ

何か現代は科学技術が経済でもグロ−バル化して発展したけどそれが限界に来たともみるSDGs(持続可能社会)が言われるのもそうである、かえって不便な時代でも見直される
その時代が回顧してなつかしくみる、人間的なものがあり情があったとかふりかえる
要するに必ずしも科学技術の発展でも経済発展でもすべてがいいものとして働かないのが人間社会なのである
だから確かに経済不況とか日本の貧困化も問題だが社会を見直すことが迫られている
そのために原発事故とかコロナウィルスとかがありそういうことを契機として社会自体を見直すことが必要である
でも誰も車を手放すとかはできない、つまり車はそれだけ肉体の一部とも化しているからである
車を持たない自分としてはキャンピングカーの旅をしたいと見た
家が移動するのだからある地点まで行ってそこで長い時間を過ごすにはいいとみた
というのは移動することに疲れたからである
でも車社会は見直すべき時代に入ったことは確かである






posted by 天華 at 13:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年08月14日

高校野球は高校プロ野球になった (地域代表ではなくなったー大阪桐蔭は全国のえり優れた選手を集め一強になった)


高校野球は高校プロ野球になった

(地域代表ではなくなったー大阪桐蔭は全国のえり優れた選手を集め一強になった

高校野球はもともと地域代表として全国で戦うとういことで熱くなった
郷土でも応援した、でも今や第一郷土出身者は一人二人とかいない
ほとんどが越境入学した別な県の人達である
特に大阪とか東京とかが人口が多いからそこから全国に散らばる
ただ地域の高校はそうした野球エリートが名前を借りているだけだとなる
大阪桐蔭はえりすぐれた選手を選抜して育てるから当然他の高校は勝てないのである

そもそもスポーツには地域性がない、ただ柔道とかは日本で生まれたので日本文化伝統を受け継ぐもので地域性があり日本はそれで強いとはなっていた
でも勝負にこだわると勝敗がありそれでどこで勝ったのかわからないのにわずかの差で点数で勝敗が決まる、それは勝敗にこだわるからそうなる

野球は別にアメリカから生まれたとしても人種とか国とは関係ない、それが証明したのが大谷である、大リーグでも大活躍であり日本人でもあれだけのスターになれる
だから日本人だからといって身体能力でも劣っていないことが証明したのである
アメリカでは能力第一主義であり能力があればアメリカンドリームを手にいれる
成功すれば大富豪になる、人種とかではなく能力を重んじて差別するのである
日本人でも大谷のように大活躍すればアメリカ国民は賞讃して受け入れる
そこに人種差別はないのである

そういうことはIT分野で起きている、世界の優秀な人を集める、そこでGAFAとがでは世界中の優れた人達が集まり知能集団を作り世界を支配するとまでなる
それがアメリカの活力となり世界をリードするものとなる
つまり才能でもアメリカだけでは世界一にはなれないのである
スポーツでもそうである、サッカーでも世界から優秀な人達集めチーム作りをする
それはサッカーに特化して才能あるものを世界から集めて強くするのである
それがプロの世界でありそこで成功したものは莫大な収入を得るとなる

だから高校野球でも勝負にこだわればどうしても全国から優秀な選手を集めなければ勝てないから高校野球もプロ化したのである
なぜなら高校野球でもその力の差がありすぎると勝負にならない、とても地元出身だけでは勝てなくなったからである
だから地元はもう関係ない、優秀な選手を全国から集めた高校が勝つとなる
だから聖光学院が東京と神奈川の名門校に勝ったとしても中味は福島県出身者は一人くらいしかいないとなる、その一人にクローズアップして福島県の放送局が取材して放送していたのである、でも他の人達はみんな他県の人達なのである
ただ宮城県から二人とか山形県とか東北地域から来ている選手もいるから東北人だと
一応応援するかとなる

それで全国でもそうして東北ブロックとか関東ブロックとか中部ブロックとか近畿ブロックとかに分けてその中で優れた選手を集めればそれなりに強いチームができる
ただそれでもどうしても関東とか近畿地域は強いとはなる
そもそもスポーツは地域と関係ない、どこの地域だから強いとかはない、人によりけりでありどこの出身者だから強いとはならない、ただ大阪辺りだと育つ環境が違うから積極的であり東北とは違っているかもしれない、でもスポーツは高校野球でも地域とは関係ないのである

とにかく高校野球はもう高校プロ野球であり全国から人材を集めなければ勝てないのである、人材という時グロ−バル化するとやはり才能ある優秀な人達は集めないと競争に勝てない、科学分野だと必ずしも地域とは関係ない、数学でも科学だと世界共通だからであるだからアメリカでは世界から人材を集めて世界一になる
黒人でもスポーツ分野では強いからオリンピックで陸上とかでメダルをとる
それでアメリカは有利になる、また英語が世界共通語だとなると英語ができる国はどこでも活躍できるとなる、その英語より数学ができることが世界共通語ともなる
ヨ−ロッパだと東ヨ−ロッパの人達でも英語を話すみたいだ
ウクライナの人達がインタビューされると英語で話ししていたからである
英語は世界で共通語になっていて知的分野の人なら英語でコミニュケーションができる
だからそれほど言葉の壁はないとなる

ただ言葉は地域性がありその土地に根付いた文化の側面がある、日本語は日本という島国から生まれ育まれた言葉であるから文化そのものである
でも世界共通性はない、日本語は漢字やらかなやらカタカナでも交じり複雑だからであるでも文化であるから日本語が英語になったらもう日本文化は消失するとなる
その独自性は失われる、もし理系的なもの科学分野技術分野となると日本語はなくてもいいとなるかもしれない、ただ文系となると日本語が英語になったら俳句とか短歌も消失する、それは日本文化のアイディンティティの喪失となり日本は日本でなくなる
ここにも理系と文系の問題が生まれている

スポーツでもどうしても強くなるには優れた選手を集めなければ勝てない、地域代表としては限界がある、人間の才能は資質は遺伝子でも異質なものが交わる時天才的な人が生れる、混血すると美人が生まれるとか黒人と混血した日本人の大坂なおみは身体能力に優れて世界的に活躍するとかなる、それは明らかに黒人の血が入ってそうなった
ヨ−ロッパの天才でも異質な世界と交わる所に生まれていた
北方系と南方系の交わる場所に生まれていた,ヨ−ロッパは国々が分かれて多様性があるから異質なものと交わり天才が生まれやすいとなる
また異業種の人と交わると刺激を受けやすいとかなる
大工さんとかでもじかに接して仕事をしてもらうと教えられることがあった
要するに人間の仕事も多様だからそうなるのである

とにかく勝負にこだわればどうしても優秀な人を全国からでも集めないと勝てない
勝つこと優先にすればそうなる、大きな得点差になると弱小な高校はみじめだからであるその差があまりにもありすぎるからだ、だから高校野球は出身地とは関係なくプロ化しているのである
でも別に大リーグでも外国人でも優秀な人を入れれば強くなる、それが大谷である
日本でも優秀な外国人を入れないとグロ−バル競争には勝てない
勝負にこだわれば必然的に高校野球もそうなったのである
そうなると高校野球のプロ化であり教育の一環としてやるのとは違ってきたのである
大阪桐蔭とかと比べると格段の差が生まれた、それはプロ化したからである
そうなるとプロ野球のように大金を払ってトレードすることにもなる
実際何かそうしたことを裏で工作しているという記事もある

でも地域とほとんど関係ないとしたら何か高校野球は地域に貢献するとかあるのか
勝ったとしてもそれは地域に育った人でもないし地域とは関係ないとなる
だから高校野球の本来の趣旨とは違ったものになっている
高校野球は別に地域に貢献することもないし地域と関係ないともなる
それは高校プロ野球として行われているとなる
高校野球は教育の一環として行われているとは今は見えないのである
だから別に初めて神奈川の高校、横浜高校に福島県の聖光学院が勝ったとしても福島県で大喜びとかにもならない、前の磐城高校が準優勝したときは福島県出身者だから大喜びになったが今はそうならないのである
ただスポーツでも何でも知的な分野でも科学でもグロ−バルに競うとなるとどうしても世界から優秀な人たちを呼ばないと勝てないのである
だから勝負にこだわれば必然的にそうなったとなる


posted by 天華 at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

南相馬市鹿島区千倉でバイク事故


南相馬市鹿島区千倉でバイク事故

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常磐線の鹿島駅の近くの踏切のあるところの十字路でバイク事故があった
でもそのバイクは壊れた訳ではない、傷もついていなかった
乗っていた人は若い人で顔にちょっとだけ傷がついていた
でも立って警官に対応していた

救急車が来てタンカーで運ばれた、やはりそれなりに体も傷ついたのか
一応救急車で運んだのか、警察の車も来ていた
あそこは知っている人が常に気をつけている
その女性は用心深いのである、あそこが危険だからそうなっていたのか
私も毎日のように通る場所である
鹿島小学校へゆく道は地下道になっているから安全である
ただ車とかは危険な場所なのかもしれない、自転車で地下道を行けるのだがめんどうなので十字路の方で待っている

何か信号関係の見間違いなのかスピードの出し過ぎなのかわからない
三人でバイクに乗ってきた若い人達がいた
心配そうに事故を起こした人によりそっていた
でもその人は普通に立っているしタンカーで運ばれるような傷を負ったようにも見えないバイクも壊れていなかった
どういう事故だったのかわからない、でもものものしい感じになっていた

バイクは事故を起こしやすい、何らかでバイクの事故の確率は高い
バイクは怖い、自転車でも事故になる、その70代の女性はいつも自転車の事故になることを言っている、相当に用心深いのである
その十字路のことも常に言っていたのである
その女性も必ず毎日そこを買い物とかで自転車で通るからである
ただあれだけ用心深いなら事故は起きないように思う

私の方が危険である、私は何か注意が散漫だからである、だから私は車は買えても乗らない、事故になるからである
車に乗っていたら事故になり早死にしていたかもしれない、やはり向き不向きがある
自分には車は向いていない、それで車社会を批判している
なぜ車でもバイクでも事故になるかというと早すぎるからである
あっと思った時は事故になっている、自転車だと遅いが車はバイクでも早すぎるから不注意であっと思った時すでに事故になっている、止めようがないとなる

でも田舎では車がないと仕事もできないし暮らしていけない
私は別に買い物も近くでてきるしそれほどの不便はない、でもみんながそうはならない
まず事故は怖い、一瞬の油断でとりかえしがつかないことになる
私の兄は高速で事故で40才で死んだ、何らかで身近で家族でも親戚でも交通事故にあっている、交通事故で人生が狂ってしまう
それで推理ドラマでは必ず交通事故になりそこから人生が狂ってしまったストリーになるのである、それだけ交通事故が多いのである
posted by 天華 at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年08月15日

奥会津の旅(鬼百合十句‐記憶の旅―写真四枚)


奥会津の旅(鬼百合十句‐記憶の旅―写真四枚)

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この辺に小林村というのがあった記憶

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蒲生岳
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伊南川

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激流に鬼百合映えて奥会津

夏草に碑の古りあわれ奥会津

鬼百合や我が力だし来たりけり

鬼百合や五六軒の家奥会津

鬼百合や遠く来たりぬ旅の人

鬼百合や激流轟き崖そそる

蒲生岳はるばる来たり夏燕

旅人の休む木陰や奥会津

墓倒れ鬼百合咲くや奥会津

小出にそ鮎釣る人や魚野川

月見草河原に咲いて小出かな



会津の激流

巌はきびしく反り直立しぬ
激流はひびきほとばしる
燕飛びはるか来たりぬ会津の奥
鬼百合の咲き燃ゆるかな
会津の奥処が知らじも
重量に山々閉ざし千古経ぬ
その秀麗なる山岳を望みて
会津の心は養われぬ
鬼百合のここに燃えよ
その命激しくここに燃えなむ
会津の激流はひびき我はさらに
遠くへと山々を分け入りぬ




人間はとにかく忘れやすい、20年前30年前となると記憶していることがあいまいになる
だから思い出して俳句とかにするにしてもそこがどこかわからなくなる
確かに只見線を通って小出に出た、小出駅前に魚野川がありそこで釣りしていた人がいたその川の前に食堂があり鮎料理を食べたことを記憶している
そこはかなり鮎がとれる場所なのである

でもわからないのは伊南川にも行った、でも伊南川は只見町から入り桧枝岐の方に行く
地図ではそうなっている、自転車で桧枝岐まで行ったことがあるから伊南川に沿って
行ったようだ、つまり只見線で小出に行ったの伊南川に沿って行ったのは別々の旅だったのである、これが混同している

会津は川が長いし激流がありこの辺の短い川とは違う、そこに川の魅力があり山の魅力がある、浜通りは海があり海の魅力があるとなる
ただ会津は本当に広いから地理がわからない、でも自転車で三回くらい行っている
会津はもともと福島県でも別個の大きな地域であり国である
それは古代からそうであった、唯一国として認識されていた

会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結びさね

だから会津は古代から大きな国としてあり歴史があり文化があったとなる
そこが中通りとも浜通りとも違うのである
それで大塚山古墳には三角神獣鏡が唯一発見されている、その歴史が古いのである
それは地理的に阿賀野川を通じて日本海から近畿地方から人が入ってきていたからである日本海の方が交通路として最初に開けていたからである
古代とかなると道が整備されていないから海でも川でも道になっていたのである
福島県で一番古い地域は会津だともなる
会津というと白虎隊とか注目されているが実際は古代から独立した大きな国だったのである

旅でも準備して旅を実行して後は回想する旅になる、そして意外と注目されていないのが回想する旅なのである、でも20年30年とかさらに過ぎると記憶もあいまいになるのである、だから写真とかとっているのは後で思い出すのにいい
ただその時はデジタルカメラの時代でないから写真が簡単にとれなかった
でも残った写真を見たら思い出すことがある

ともかく自転車で行ったことは貴重だった、今になると行けなくなった
体力的にも行けない、するとどうしても思い出す旅になる
でもその時思い出せないとするともう旅したことでもしてなかったとまでなる
現実その人は確かに子供の時五年間一緒に生活していた
でも実の兄とかではないので五年間いてもその人を知らないと言っていた
その女性は異常な人だったからそうなったかもしれない、非情な女性になっていたからである、でも50年過ぎたらどうなるのか?

大学時代でも東京で逢った人はそんな人がいたのかとまでなる
人間とはこうして何でも忘れる、そして最後に認知症になり子供まで家族まであなた誰ですかとなってしまうのである、つまり人間は忘れ安いのである
そしてそんな人と逢ったこともないし知らないとまである
それは家族ですら十年に十年と過ぎてゆくとあいまいな記憶になってしまうからである
そして死んでしまうとさらにその人が実在したのかどうかすらわからなくなる
百年前に生きていたとかでもその人が実在したかどうかもわからなくなる
それはもう名前さえ残らない、名前が残っている人はましだとなる
膨大な人間が実際は消えてしまったのである、消えてしまったということはその人は実在しなかったともなるのである
墓が残っていれば誰かがここに埋められて眠っているとか思う
墓は最後の人間存在の証明だとまでなる
ところが庶民は姓もなく墓もなかった、村の共同墓地に埋められていたのである
だから個人はなくただ共同としての墓地があった、それがホトケッポなのである

会津は広くて地理がわからない、ただ山国として魅力がある
でも今は記憶してありそれも定かではない、あいまいになってしまったのである




2022年08月16日

真野川の土手でジャコウアゲハを発見!


真野川の土手でジャコウアゲハを発見!

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この花はシソの科のものらしい、卵をみつけるウマノスズクサではない
尾に黄色の点があるからジャコウアゲハに間違いない




川原や荒地などの明るい場所や生息地の上を緩やかに飛ぶ。河川付近によく見られるのはそこが食草の一つである草本のウマノスズクサの成育環境であるからで、畑の生垣付近などウマノスズクサの成育環境があれば見られる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%82%B2%E3%83%8F#top-page

このジャコウアゲハは希少な生き物で、絶滅危惧種に指定されているようです。

ウマノスズクサはアリストロキア酸という毒性のあるものを持っています。

そんなもの、普通でしたら食べませんよね。

しかし、ジャコウアゲハの幼虫はそれを食べます。

食草がなくなると長距離を飛んで移動すると思われ、今までみかけなかった場所で突然発生することもあるようです。
https://pet-dictionary.net/archives/3253


真野川の土手で見つけた、羽の下に黄色い点々があるから間違いないだろう
これは前は自分の庭で見た、珍しい蝶である
ウマノスズクサに卵を産みその幼虫がこの草を食べる
親になった蝶は他の草も食べている

この蝶はめったに見れない、でも生息地は秋田県とかまでありどちかというと南に棲息する、ただウマノスズクサを探しているから遠くから飛んでくることがある
今回見れたのはラッキーだった、真野川の土手の道は舗装されたのでサイクリングにいいそこでこの蝶を発見した、近間でこうした自然があることは住んでいていい
ただ真野川には鮎もはねていない、鮎の子を放流しても鮎はもどってこなかった
それが淋しい、ただ河口ではいつも魚釣りをしている人がいる
海の魚が河口まで入ってくる、蜆とる人も数人見かけるようになった
ともかく津波で海岸も川も変わった
夏はやはりいろいろな植物や花や野鳥に魚でも自然に生きているのを見れるのがいい
都会だと見れないからである

2022年08月17日

カルトの特徴とは何なのか (全体主義になるから共産主義もカルトであり権力を奪い変えようとする)


カルトの特徴とは何なのか

(全体主義になるから共産主義もカルトであり権力を奪い変えようとする)


●カルト宗教は全体を変えて理想国を作ろうとする

そもそもカルトとは何なのか、そのこと自体がわからない、明確に認識されない
だから太平洋戦争でもカルトだったとも言える、天皇を神として日本全員がカルトにはまった戦争だったともなる
そこには確かに天皇がかかわり天皇を現人神(あらひとかみ)とした戦争だったからである、そして必ず地方の村の神社には戦争の勝利する祈願するものが刻印されていた
村の神社というときたいがい五穀豊穣とか祈るものになっているが戦争の勝利の祈願のためにもなったのである、なぜなら村の人達が神社に参り兵士をどこでも見送っていたからである
だからそれも一つのカルトの形態だったともみれる
それは戦争を肯定する神であり戦争では人を殺ししてもいいとなるからだ
オウムでも逆らう者は殺してもいいとしポアしたからである
戦争は一種の宗教戦争にもなる、それで天皇が日本の神は戦争の神ではないとして人間宣言した、天皇自体が殺人命令を出した人だともなっていたからである
日本自体が全員が洗脳されてカルトとの会員のようになっていたともなる
そこでは必ず勝利せねばならない、神の祈り勝利せねばならないのである

それは創価でも選挙が聖戦であり仏戦だからみんな家々に座談会で集まり仏に祈願して必勝を願い祈るのである、完全に政教一致なのである
だから常に常勝関西とか常勝しなければならない、仏が応援するのだから負けないとなるからである、カルトとは何かとなる全体主義なのことは共通している
組織集団化して社会全体で事を成す、また全員が一致して社会を変革しようとする
社会全体を変えて理想国を目指すのである
つまりこの世を仏国にするし天国にもするのがカルトなのである
日蓮宗はそもそも国立戒壇を行うことが教義にある、そうなれば他の宗教は邪宗となり
日蓮宗一色になる、それとともに権力と一体化する
でも日蓮宗でも顕正会会とかあり創価と対立していたりする
それはイスラム教でも二大セクトがあり熾烈な争いとなり殺し合いまでしている
だから日蓮宗内でも争うことになる
国立戒壇となれば憲法違反にもなる、アメリカでもヨ−ロッパでも宗教でも自由である
イスラム教でも許可しているからである
ただこの憲法は絶対的なものではない、民主主義だと数を集めて政権をとれば変えられるからである、だからそれを実行するには選挙を仏戦ともしているのである
日蓮宗は一向宗の念仏とか禅宗とか強烈に批判しているから他者の宗教を許容しないのである

カルトは共産主義とも本当に似ている、共産主義もカルトなのである
マルキシズムは宗教の一種ともなっているからだ、そこに社会全体を変えて理想の国を作るということで全体主義なのである
この世を仏国土にして天国にするということで共通している
でも全体主義は共産主義でもソ連でも何千万が粛清されて殺されたとかある
中国でも毛沢東の文化革命でもそういうことが起きた、それに熱狂したのは宗教的熱狂でありまさにカルトだったとなる
社会全体を変えることが目的でありそこで権力と衝突するから権力持っている者たちと戦うことになる、暴力革命になる、そして権力を得れば権力を我がものとして栄誉栄華になる,カルトというときその目的は内心の悟りだとか心を浄化するとかそうした心の問題ではない、社会全体を変えることでありそのためには権力を得なければならないとなる

●この世に天国は理想国は作れない

カルト宗教団体の場合個々の心の問題は無視する、とにかく社会全体の改革を目指す、そのためにはまず権力を手中にしなければならない、そのために統一教会で政治家と深くかかわり権力を我がものにしようとしていた、選挙で議員を応援していたのである
他のカルト団体でも今は政治とかかわる、政治でもって権力を得て社会全体を変えようすとる、そこは共通しているのである
でもそれで社会が変わるかというと変わらないのである
ただカルト団体の幹部は富とか名誉とか地位を得るのである
ソビエト連邦時代でも共産党の幹部の書記は神のようにまるでエジプト時代と同じように葬られたのである、神格化されたのである
唯物論でもやはり人間が死ぬことは不可解だからそうなったのである

本来の宗教は個々の心に焦点をあてていた、「心の清い者は神を見るだろう」というときあくまでも個々人の心のことであり社会全体のことではない
社会全体を変えよとはしていない、ただ個々人の心が清くなれば社会全体も良くなるという思想なのである
でも全体主義は共産主義でも民族主義でも社会全体を国全体を変えよとする
社会を変えれば全体が良くなるという思想である
でも全体を変えることは共産主義でも失敗したのである、そこに何らかの無理があった
社会全体を変えても人間個々人が良くなるとは限らない、むしろ個々人を変えることが
心を浄化することが社会を変えるとするのがもともとの宗教だったのである

つまり天国でもこの世は作りえない、天国を作ろうとしたら社会全体を変えねばならない理想国にしようとしたらそうなる、でも共産主義でも失敗しているし全体を良くしても個々人の心はその罪とか欲とかは消えないのである
むしろ社会全体を変えようとするのは権力を奪って権力を得て社会を変えようとする
でもその権力を得よとすることは権力を持つことは堕落することになる
そもそも社会を変えようとするより権力を得たい、権力を持ちこの世のことで成功したいという下心なのだから権力を握った時やり放題になる
中国では幹部が兆の金を蓄えたとかなる
だからもし無欲な人が権力を得るならいいともなる、それで聖書ではみどり子に治めさせよとなっていたのである
ダビデでも王になったとき部下の妻を奪うために戦場に送り死なせた
権力を持つと欲でも他者が抑えることはできない、王は絶対的権力となってそういうこともできたとなるからた
社会全体を変えようととしてもその内実は自分自身も権力者を見て権力を我が物にしたいとなっていたのだから社会を変えるより権力を得たいためカルト宗教団体は理論化するのである

この世に理想の国とか天国とか仏国は実現しない、それは人間の欲がなくならないからである、そのことにこそ最大の問題があるとしたのが宗教だったのである
社会全体を変えても制度でも変えても人間の心が悪いものならば依然として社会は進歩したようでしない、それは日本でも一時豊かになっても日本人の心が良くなったわけではない、かえって他者を省みない非情な人達が増えたのである
いくら科学が機械か発達してもこの世に天国は生まれない、仏国は生まれない
天国は神がじかに主となり新たな天と地を作ることでもたらされる
人間は天国も仏国も理想の国を作れないのである、だからこそ共産主義は失敗したのである、人間の個々の運命はあまりにも複雑でありそのカルマでも平等にはできない
そのカルマは個々人で解決するほかないものである、その個々人のカルマを誰かが背負ってくれるのを期待してもできない、なぜなら個々人の家々のカルマは違っていて個々人が家族でも苦しまない限り解決しないからである
仏国土とか浄土とか言っても菩薩とか言っても依然として人間は罪にまみれ欲にまみれて変わらないからである

●政教分離は経済と宗教を分離することでもある

カルトとは全体主義でありそれはナチスでも大日本帝国でもそうだしソビエト連邦の共産主義でも中国でも同じなのである、全体的な妄想に陥る、国民全員が妄想に陥り悲惨な結果となる、カルトがなぜ怖いのか、それは人間の心を支配する
その妄想に陥れると何千万人が死ぬとかなるから怖いのである
人間はありえぬ妄想のためにも死ぬとなる、ただ中国は共産主義から資本主義にもなっていた黒い猫でも白い猫でもネズミをとる猫はいい猫だとなる
それは主義とかより現実的にネズミを食べ物でも得られるのがいいとなったのである
そういうことはもともと中国人にあった、現実利益的であり空想とかを拒否する国民性があった、怪力乱神を語らずとか儒教の教えだったからである

怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。

これは合理的なことであり経済合理性がありそれでイスラム教のような政教一致の国とは違ってあれだけまたたくまに表は共産主義でも資本主義化して経済的には発展したのかとなる、政教分離が近代にとって重要な法律だった、それがイスラム世界とか日本では実行されていないかった、だから日本は天皇を神とした聖戦になって三百万人死んだともなるそれもやはりカルト宗教の一種としてそうなったともみれる
カルトとは国民全体が妄想に陥り合理性とか理性を失うことである
それはナチスでも同じである、ナチスも民主主義の選挙で選ばれたからである
合法的に選ばれたのである、つまり数が多ければそれが正しいとなり権力を握ったのである、すべてを数が多いからと頼る時それが恐ろしい結果となったのである

いづれにしろ政治家はあまりにも安易にカルト教団にかかわっていた
今度は阿部前首相が手かざし宗教の崇教真光(すうきょうまひかり)ともかかわっていた

安倍元首相”手かざし宗教”広報誌で「自分も信者」と発言していた

政治家とは選挙のためなら相手を選ばない、宗教団体はまとまった票になるからその団体がどういうものでもいいのである
そこに日本人がそもそも宗教に寛容であり不摂生のためだともなる
日本は統一教会でもそうだが宗教に寛容なためカルトの吹き溜まりのようになっていたのである
宗教だとキリスト教でもイスラム教でも基本的に偶像崇拝を拒否する、これは共通しているのである、これが日本にないから結局カルトがはこびることになる
第一カルトの創価の応援で一体化しているのが自民党なのだからカルト政権だともなる
自民党はもともと農民とかを票田としていたがそれも弱体化してカルト団体にも頼るようになったのである、都市部でカルト宗教団体が創価などのように増えたからである

●なぜ宗教にかかわるとやめられないの、奴隷の霊が与えられるから

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

ともかくなぜ宗教がかかわるとやっかいになるのか、また宗教団体に入ると簡単にやめられなくなるのか、それは霊と心とかにかかわるものだからである
霊とか心を支配するからである、そして偶像を崇拝するようになる
だから偶像崇拝は危険なのである、唯一の神ではなく様々な偶像を崇拝する
その偶像に一番なりやすいのが人間なのである、だから教祖はオウムでも偶像になり
創価でも池田大作が偶像になりとかまた師でも偶像になる、ただ師を讃美するだけのロボットにされるのである
それで禅宗では師を殺せとして師の偶像化を拒否したから私は禅宗に惹かれるのである

そしてなぜカルト教団でもやめられないのかとなると心を霊を支配されるのからである
自由の霊ではなく奴隷の霊が与えられるのが怖いのである
地獄に落ちるとか罰当たるとかにおびえるのもそうである、それが意外と有効なのであるそのことで奴隷にされるのである、だから一旦霊が支配されると奴隷化されてしまうのである、それが肉体的なことでなく心のことだからやっかいなのである
ただわからないのはそういうカルト教団の幹部でも地獄と罰を恐れている
その恐れは世俗生活で失敗することである、事業でも何かするにも何か事故があったり
生活がうまくいかないことがあることを恐れているのである、それはあくまでも世俗的なことであり宗教自体の恐れではない、カルト教団は損かと得でしか考えない
御利益があるかどうかでし考えない、だから損することを異常に恐れているのである
要するに損得が一番わかりやすいからそうなる
日本人の宗教は神道でも御利益宗教であり何か得があるとして賽銭を入れるのである
それをもらって得するのは神主とかであり本人ではない、それはカルト教団でも得するのは幹部達であり信者は身も心も奴隷にされる
ただその幹部でも地獄とか罰を恐れている、実際はお前たちが地獄に落ちる罰当たりなものだということが自覚できないのである、宗教詐欺罪でありそれは最も過酷な地獄に落ちる罰となっているかもしれないからだ

女性はどうしても頼り安いから霊も支配されやすいから何か女性がまずカルト教団に入りやすい、統一教会でも創価でも最初に女性が会員となり数を増やす、創価だと婦人部であり選挙活動をになうし統一教会でも母親がはまってその子供が二世が苦しんだ
つまりいかにそうしてカルト教団を親にもったものは苦しむかである
それもカルマなのである、宗教だと簡単に捨てることもできなくなるからだ
でも実際は御本尊とかでもそれは字が書いてあるだけでありもともとそこに何の力もないのである、なぜなら簡単に紙だから破ることも燃やすこともできるのである
そうした人もいるしそれで頭が七つに割れるなどない、それを実証もできるのである
だからこそ神は目に見えないものなのである、目に見えなかったらそれを壊すことができない、偶像は必ず形になっているから壊すことができるからである
そういう宗教の基本が日本人は基本的に知らないのである、だから容易にカルトに洗脳されるのである

宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない 
(カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)

2022年08月18日

ジャコウアゲハが私の庭にとまって一夜明かす、今もとまっている (動植物にも人間の心が通じる?)


ジャコウアゲハが私の庭にとまって一夜明かす、今もとまっている

(動植物にも人間の心が通じる?)

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電灯の明かりに見えたジャコウアゲハ

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雨の中で庭に止まっているジャコウアゲハ

8時45分くらいに飛び立った



動植物でも神秘的である、蝶はその中でも謎であり神秘的である
これは科学的に生物的に研究している人がいる
私は文系なのでそれはできない、でも蝶は蜜を吸って生きているのかと見ていた
でも葉も食べるのである
それは日ごろから蜜だけ吸って生きていけるのかと思っていた
花が少ないし簡単に見つからないことがある
葉ならいくらでもあるからなるほど葉をたべていれば生きていけるとなれば理解できる
草食動物があり草や葉だけで生きるからそれありだとなる

ともかくジャコウアゲハを川の土手で見た、その次の日に私の庭に止まって一夜明かしたのだ、このことが不思議なのである
なぜ私の庭に来て木の葉に止まり一夜明かしたのか、そして今も止まっている
だから外で見たとき何か心が通じ合ったのか?
あなたの庭に行きますからよろしくとかなっていたのかもしれない
蝶は曇りとか雨になれば飛ばない、光に反応して飛ぶからである
だから曇って雨になり今日も雨だから動かないのである

動植物は科学的分析しても謎になる、そもそも自然界はまだまだ謎なのである
その謎は解き明かされていないのである
それと私がここで問題にしているのは人間と動植物でも心が通い合うのかということである、何か植物でも愛情をもって育てると育つとか言われる
それは眼に見えない愛というものが通じるかなのかとなる
植物とか花の不思議はその土地に合わないと咲かない、それで私の庭の一部は土地が悪く咲かない花があった、ただ薔薇だけは一杯咲いてのである
だからこれも謎である、こんなに一杯咲くのかとうれしかったからだ

もう一つ今年は7月にノウゼンカズラが一杯咲いた、でもそれから散った
でも今も一杯咲いている、蔦が家に張ったので切ったがすぐに伸びて一杯咲いた
もともとこの花は一杯咲くのである
でもなぜこんなに咲くの不思議である

我が家の栄いけるかもノウゼンの一時は散りてまた咲き満ちるかな

今日もまたニチニチソウに水をやる

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ニチニチソウにはこんなに色が多様である
これは通販で売っている、一万もすると高いと見た


庭に咲く花や家を飾る花はその家と関係しているかもしれない、ただノウゼンカズラは別にどこの家でも咲いている、そして鉢植えのニチニチソウを部屋に飾り水をやる
このニチニチソウという名まえがいいのである、毎日咲いているとなるからだ

いづれにしろ花も神秘でありその種類も多い、だから花も不思議だとなる
ただ花でも美的なものとして見るだけでなく育てるとなると土だと花を科学的に知る必要がある、それが文系では苦手である、花も肥料をやらないと咲かないからだ

ともかく老人の趣味とかで園芸はいい、それは毎日身近で植物と花でもかかわり見れるからである、遠くに行くとなるとめんどうになるからだ
まず多少病気になっても庭があれば慰められる、花や植物や木に慰められる
それで病院に半年とか入院していた人は家に帰ったら回復したということがある
つまり病院には何か癒すものがないのである、無機質な空間なのである
医者でも看護婦でも確かに懸命に仕事している

でも家族の役割はにないないとかある、そもそも医者とか看護師でもどうしても大勢の患者を診るからとてもみんなに親切にはできないのである
だから議員でも番号で呼ばれたとかなる、それはみんな大勢の一人にすぎないからであるその人は妻をなくしているから家には一人である
でもその家は若い時苦労して建てた家であり誇りとなる家である
だから家に帰った時、そこに安心があり家とともに威厳を保てるともなる

病院ではただ病気をもったやっかいものとしかならないのである
そこに病気にどう対処するかとなるとただ身体を看るだけでは人間には対処できない
心の問題がかかわってくる、ただそこは医者でも看護師でも限界がある
だから看護師でも家族の代わりはできないと言っていた
それより私は看護師に虐待されたから看護師は患者をとくに老人をやっかいものであり何ら生産性のない者とも見ている、そもそも病人を嫌がっているのである
老人を嫌悪しているのである、それはこれだけ老人が多ければそうなる
病院でも8割とかもう老人だらけだからである、もし老人でも少なければこうはならない希少価値があるとなる、それが今は全くないから老人にとって生きにくい時代なのである

まず医者とか看護師でも性格の悪い人は普通にいるのである
でも性格は見ない、医者の技量だけをみる、でも直接人の体にふれて看るというときそこに愛が通わないとできない、でも愛といっても大勢になると対処しきれないのである
あなたは特別の人ではない大勢の中の一人にすぎないのである
家族だったらあなたは特別な人であるが病院でも患者は大勢の一人にすぎない
だから番号で呼ばれたりするのである

ただぜいたくを言えば病院には広い庭があり花壇があり散歩できるとかなればいいとなる病院にはただ身体をみるだけではではない、癒しの機能があってもいいとはなる

晩夏―お盆は終わる(夏の海、夏燕、夏の鳥、虹 揚羽蝶)


晩夏―お盆は終わる(夏の海、夏燕、夏の鳥、虹 揚羽蝶)

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電線に山鳩がとまっていた
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朝早み釣り人あれや夏の海

夏の海光りまぶしく朝に来る

朝早み波音ひびき夏燕

我も濡れ一雨ふりて夏の鳥

山鳩に虹の断片里暮れぬ

夕燕盛んに飛ぶや夏の暮

雲赤く漁船帰るや夏の海

草深しジャコウアゲハ二羽の飛ぶ

大窓に三度ほど映る夏の月



月見草草叢深く咲きにつつ里は暮れにきつつがなしかも

秋めきて夕風涼し鉢植えの桔梗を買いぬ我が家にそ飾らむ

我が家に帰ればかすか虫の音の聞こえて我は一人かな

石二つ庭の日影に今日もあり黒揚羽来て去りにけるかな

行燈のともしびあわれ幽かにも面影浮かび消えにけるかな

我が墓にお盆に参り花さしぬ家族はみな死に月日は過ぎぬ

我が家に鉢の桔梗やそれぞれの人生を語り郷土に生きぬ


お盆も終わった、今は季節的には晩夏なのだろう、まだ暑いからだ
でも30度くらいだと涼しい、一回外に出たら雨がふったがふぐやんだ
空を見たら虹がかかっていた、でも断片でありすぐ消えた
山鳩が電線に止まり道路の水たまりに雲が映っている

ジャコウアゲハは8時ころ飛びたちまた庭にもどり飛んで消えた
そして真野川の土手の道を行くとジャコウアゲハを二羽みつけた
この辺を飛んでいるらしい、二羽もいたというのはめずらしい
蝶道があるとかいいうからこの辺を飛んでいるみたいだ

晩夏でもあきめいてきている、虫の音も聞こえる、スーパーから鉢の桔梗を買って飾ったやはり今夏から秋に向かっている、でもまだ残暑があり夏である
夏は夏らしいのがいい、でも34度とかなると厳しい、ぐったりして何もできない
頭も働かない、とにかく今年は暑くて遠くに行けない、原町に昨日は行ったが熱中症を恐れているので行けない、だから家に籠っているのである

海の方には夕陽がさして雲が浮かんでいる、そして漁船が帰ってくる
これがこの辺の日常的風景である、朝には海に太陽の光りがまぶしく釣りする人がいた
ここは海からの風が涼しい、会津とか山の方になると暑くなる
でも川があって川風がありそこにもやはり涼しさがある
ともかくまだ夏は終わらない、夏はもう最後に熱く燃える、高校野球のように熱い青春ともなる
ノウゼンカズラは一時散ったが今も盛りに咲いている、この花だけはこんなに咲く、これは夏にふさわしい花である

2022年08月19日

キクチスーパーのカードをなくして失敗 (何カ月かでポイントたまっても大損だった)


キクチスーパーのカードをなくして失敗

(何カ月かでポイントたまっても大損だった)

キクチスーパーのカードをなくして失敗した、三回くらいなくしている
ただこの前はなくしてもカードが後からでてきた
そのカードには実際金は使っていたのでわずかしかなかった

今回は一万入れたばっかりだった!

だから大損だった、ポイントたまって何カ月一回か300円もらえても一回落としたら
なくしたら何千円も損する、今回は一万近くだから大損になる

「カードなくしたんですが」
「見つかりません」
「一万入れたばかりだったんです」
「そう言われましても、私たちにはどうもできません
「責任は私たちにはないです、あなたに責任があるのです」
「・・・・・・・」

こうして結局何も言えないのである


今はキャッシュレスの時代である、でもこのカードもなくしやすい、キクチのカードは常に使うから出し入れしているとなくしやすい、三つくらい他に使っているから混同して
なくしやすいのである

そして他のカードのように使えないようできない!

他のカードだと銀行であれ郵便局であれカードはなくすと連絡するとカードが使いないようにできる、でもキクチのカードはできない、なくしたらそれっきりであり返ってこないそして常にカードに入金するチャージするからめんどうなのである
こうしてなくすことがあるから大きな金を入れにくいのである

ここで問題になったのは何か?

つまり保証とかの問題である、もしこうしてなくしてもすぐに使えないようして
またカードを作ることができればそんなに損はしないのである
確かに一万くらいだからたいしたことがないともみる
でも一万損したとなると日々の買い物で何か大きく思える
なぜならポイントがたまるからと300円もらえるからとカードを使っていても一旦なくすと大損になるからだ
結局奇妙だがキクチスーパーでは損しない、もうかるのである
一万分なくしても一万は入金していて返すこともないからである
落としたのはあなたの責任ですとなっているからである

でもここに問題があった、カードはなくしやすい、するとその保証が必要だとなる
保険が必要だとなる、その損は大きいからである
もちろん一万とかたいしたことがないと思っても何か今回大きな損を感じたからである
現金支払いはめんどうだとなるしキャッシュレスになるのはいいとしてもこれにも問題がある、そこでキクチスーパーのカードではない別のカードで支払うということを考えた
他のカードだと割引があるし無くしてもすぐに停止できる
ただ今他のカード支払いのことが良くわからない、でもキクチスーパーのカードはなくしたら保証がない、ポイントがたまり何カ月かに一回300円もらっても割りに合わないと思った

何が保険をかけるということはこういうことかもしれない、一万はたいしことがないにしても必ず人間は自然災害とか人身事故とか病気とか突然の災いにあう、その時の保険が必要になる、それは一万の損失とは違って命にもかかわる大損になるからである
だから東電ではそのリスクをさけるために原発でも国に保証されてしていたのである
事故の結果としてその後始末に20兆円もかかるともなっていたからである
時間的にも30年かかるとかの考えられない大損失だったからである
そのリスクがあるのでこれは国で保証して管理するものでもあったのだ

株式でもヨ−ロッパで資本主義が発達したというとき大航海時代に船の株主になり無事に帰ってきたら大儲けになり配分がある、でも失敗したら事故にでもなったら大損になる
それで株主を集めてリスクを分散したとなる、とても失敗したらその賠償ができないからである、そしてとても一人ではその損失を担うことができないから大勢が株主になり
リスクの負担を分散したとなる

車だと常に事故があるから自賠責が強制されている、それに入っていなかったら事故を起こして死んでもとても一人では払いきれないとなるからだ
それでみんなでそのリスクを負担するのである、保険はそういうことから生まれてきた
でもキクチスーパーとかで発行しているカードには保証がないし保険もない
それはカードをなくすことが客にあったとしてもそこに責任がないからである
一万くらいどうでもいいとかなる
でもそれが大きな事故とかなると必ず補償を要求されるから保険をかける必要がある
船の運航でもなんでも保険をかけている、知床の観光船でも結構高い方の保険に入っていたのである、それで船主が高い保険に入って良かったと言っていたのである

ともかくデジタル社会にもキャッシュレスでも問題が盲点があった、そもそも保険のことが良くわからない、それで毎年五万払っていた火災保険とかやめた
農協のものだったがたいして災害にあって家が壊れてももらえなかったのでやめた
でも保険はやはり人間生活で必要だから生まれたことがわかる
ただその金を払うことが損に感じるのである、何もなければ損しただけだとなるからである、病気の保険があるとしても結構毎月払ってゆくのは大変である
でも必ずしも病気になるとは限らないだ

ただ年金というのは保険の一種だったかもしれない、若い時から積み立てていて老後にもらうという保険の一種だったかもしれない、今になると自分は得している
20代からかけているからだ、それも自分が払ったわけではない、親が払ってくれていたのである、その間に空白もないからである、だから私の場合は特別に親に恵まれていたのである、遺産も入り生活にも困らないとなっているからだ

ともかく保険は無駄に思えるのである、それは不慮の事故とか災害でもめったに起らないでも起った時はカードをなくして一万損したということでも大損だと意識した
金も一万でも実感するのである、ところが余りにも金が大きなると人間は実感できなくなる、だから大きな金を無駄にすることがある
一万落とした千円落としたとか盗まれたとかでも意識する、でも大きな金になると意識できくなる、それは人間の日ごろの金の使い方が千円とか二千円であり大きな買い物でも
それほど使わないからである、だから小さい金は常に意識するし感覚的にわかる
だから一万でも大損だと意識したのである

ただ三回くらいカードをなくしてそれがまるっきり損になるとするか使いないなと思っただから対策をしようとしているが今のところわからない
スマホを始めたからその辺のことも調べないとわからない
でもどうしてもキクチスーパーのカードは使いたくないとなった
他のカードはいいのである、シシドスーパーのカードはいちいちそのカードで支払うのではない、ポイントがたまったらやはり何カ月に一回か300円とかもらえるものである
一万とか入金してチャージして使うものではないからいいのである
ツルハでもそうである、ツルハは少額でもたまったら使えるようになっているから損することはない、それでもキクチスーパーでは一番多く買い物しているから困るのである