2022年05月01日

知らないうちに蓄積されているカルマ (いつか必ず苦しみとなって現れる―世界の紛争もカルマが関係している)


知らないうちに蓄積されているカルマ

(いつか必ず苦しみとなって現れる―世界の紛争もカルマが関係している)

カルマは何度も言っているけど苦しみとなって現れない限り意識できないのである

なぜこんなに苦しむのか?

苦しむ時なんでそうなのかとなる、すると積もり積もったカルマがありそれが苦しみとなって必ず現れる、それは突然なったわけではない、実際はカルマが積もり積もって最終的に60以降になると現れる、それでなぜだろうと意識する
いろいろな個々の事件でも世界情勢でも何らかその国々のもっているカルマがありそれが戦争とかで苦しみとなって現れる
それがみんな突然に見えるのはその国の歴史のカルマとかに無関心だからである
個々の事件でも突然起きるが何なのだろうとすぐには理解できないのである
人間は空間軸で見るのは即座に見れる、どこで何か起きたかと空間軸でみる
だからtake placeなのである、でもその事件でも時間軸見るとなるとむずかしい
ウクライナ戦争でもそうである、そこにいつも注目していない、だからクリミア戦争で
ウクライナが戦争に備えて準備していた、アメリカとかがすでに軍備を援助していた
そういうことを知らないのである
時間軸で理解することは歴史を理解することがむずかしいように簡単にできないのである

ともかくカルマというとき知らないうちに蓄積されている、ただそれが表面化しないかぎり意識しない、例えば自然災害でもプレートが徐々に動ている、突然急激に動いて地震になるのではない、徐々に動いていてそれが限界にきて地震になる
何か必ず前兆がありそれが積もり積もって大地震になって現れる
でも地震が起きない限り意識できないのである
そして個々人でもカルマというとき一代だけでない、必ず親とか先祖でも関係しているのである、親の因果子に報いというときそうである

なぜこんなに苦しむのかとなるとき親が関係している
親の因果が子に報いとなる、ただそれは悪い事ばかりではい、いい面を親から受け継ぐのである、なぜ自分が介護でこれほど苦しんだのか、それはやはり親の因果が子に報いたためだとなる
なぜなら前ら言っているように私の母の実家でもそこは常にもめごとがある不和分裂の家でありそれが解消していないからカルマとなって苦しみとなってやはり不和分裂の因果を受け継ぎ苦しんだとなる、ただいい面も受け継いでいるから悪い事ばかりではない

でも苦しみとなって現れるのは悪い面が知らないうちに積もり積もって最後に苦しみとなって現れる
そして自ら苦しまない限りカルマは解消できないのである
これは宗教団体とかに入っても解消できない、個々に苦しまない限り解消できない
集団で解消できないからである、むしろ組織化した集団化したカルト教団はカルマの集積した場所だから集団的助け合いとかより
集団的に積もり積もったカルマが集積している、そしていつかそのカルマのために破たんする自壊するのである

そして怖いのは結婚すると相手の家族のカルマを引き継ぐことである
なぜその人は事業で失敗したのか?事業もなんらかカルマが関係しているのかもしれない事業は個人ではできない、必ず家族もまきこむ、家族全体でするものだからである
するとその家族のカルマがもろに現れる、それでビジネスで成功するなら商売人の女性を嫁にしろとかなる、そういう女性は肌でもって商売のことを知っているからである
そして意外と家風とかも大事になる、悪い家風がありそれに夫でも嫁でも染まるのであるそもそも事業に向いていない家風がある、とにかくケチくさいとかなると商売に向いていないともなる、絶対に一円でも損したくない、ただでは何もしないとかの家風の家もあるからだ、損して得をしろというがそういうことが全くない家風の家もある
そういう家が事業を起こして成功するだろうか?損していいということではないがそういう人に仕事を頼むだろうかとなる
要するに家風がありそれが事業に影響することはその家の持っている家風がカルマとなっていることなのである

とにかくカルマは知らないうちに積もり積もっている、それだけは確かである
ニートとかは家族が世話しているからいいと思っていると親の介護にあったり親が死んだりすると最悪になる、何をしていいかもわからなくなる、それで死体と一緒に呆然として一緒にいたとかなる、社会性もなくそうなったのである
それは自分自身のことだったのである、つまりいいと思っていたらそれが知らないうちにカルマとなって積もり積もっていたのである
カルマは必ず知らないうちに蓄積されていてそれがいつか現れる

例えも金持ちの家でも不正に金を貯えたりしているとそれがカルマとなり苦しみとなって現れる,兄弟で骨肉の争いとなったりする、また陰謀論で良く言われるが特権階級に世界の富が蓄積されている、それは天文学的なものとなりそれがカルマとなりそこから巨大な災いが生まれて来る、そうした富豪は必ずしも幸福とはならないともなる
なぜなら世界の富を収奪して豊かになったからである、それがカルマとなって苦しみとなって現れる
戦争で武器を売ってもうけているような国とか商売している人が金持ちになっても果たしてその人達が幸福になれるのだろうか?
なぜなら他人が死んで血で塗られた金だからとなる、またグロ−バル経済で儲けている人も貧乏な国の人の労働でもうけていたとかなりそれがカルマともなってくる
だから現代のグロ−バルな経済のシステムは崩壊して世界恐慌になったりする
それはカルマが積もり積もって破壊的現象となり世界的な苦しみがもたらされる

いづれにしろなぜ自分自身がこれほど親の介護で苦しんだのか?

それはやはりカルマが積もり積もってそうなったのである
それは自分だけではない、カルマは必ず知らないうちでも蓄積されているのだ
それがいつか苦しみとなって現れる、世界の歴史でも一見アメリカとかソ連(ロシア)でもイギリスでも中国でもフランスでも常任理事国となっているがその人達は戦争で勝ったとしても実は責任が課せられている
なぜならドイツとか日本は壊滅的に破壊されたからである、日本は原爆まで落とされた唯一の国である、ドイツもナチスは批判されてしょうがいなとしてもウクライナ戦争に積極的に加担しなかった、武器も供与しなかった、ヘルメットだけ供与したことでアメリカからとか責められた、イラク戦争の時でもアメリカに援助しない戦争に参加しないとして責められた、でもそもそも日本はアメリカに徹底的に国土まで破壊されたのだから戦争を放棄した国でありそれが世界から認められていたのである
それなのにアメリカが参戦しろうというのは勝手なのである

つまり戦争に勝った者にも責任が課せられていた

大国が強い者には責任が課せられている、強いから大国だから何でもできるとはならないのである、だから負けた国は戦争になんであれ加担したくないというのは当然なのであるその責任はアメリカが戦勝国がとれともなるのである
それを戦争に加担するように強制するのはおかしいのである
ドイツでも日本でも戦争したくない、こりごりだとなった、でもアメリカはその後も戦争しつづけてきたのである、でも敗戦国のドイツでも日本でもまきこまないでくれとなるのは当然なのである、だから戦勝国のアメリカでもイギリスでもロシアでも勝った国には
勝った国のカルマが生まれていたのである、金持ちには金持の責任が生まれている
それがカルマなのである、つまり人間はカルマから逃れられない存在なのである

そしてカルマは罪でもありそれが人類に蓄積されていてその清算が強いられる
それがハルマゲドンの最終戦争で清算される、その最悪の地獄のあとに千年王国が生れともなる、だからドイツでも日本でもウクライナ戦争に消極的なのは当然なのである
それを責められるべきではないのである、戦争に深入りすべきではないのである
要するに戦勝国も今度負けるとなるのがカルマとなる
アメリカでもロシアでも今度は負けるべきだとなる、そうすれば負ける国の痛みがわかり戦争したくないとなる、また日本に原爆を落とされたようにアメリカにも落とされればその痛みがわかる、それがカルマの法則なのである
アメリカはドイツや日本のように国土が戦場になったことはない、焼け野原になったこともない、ただ焼野原にした方なのである
そのカルマがアメリカにある、それが何らかこれから苦しみとなって現れる
それで一番核を恐れているのがアメリカだともなる

いづれにしろ人類そのものがカルマが集積している、蓄積している、そしてカルマとは罪でもあり人類の罪の決算がカルマの決算ががハルマゲドン、人類の最終戦争になる、罪の総決算が来る、それが最後の審判にもなる
イスラエルが建国されたことは大きな歴史的事件でありそれでエエゼキル書の予言がロシアに適応されるとなる
集積蓄積された人類のカルマの総決算となれば前代未聞のカルマの総決算となるから信じられなものとなる
それがもう近い時期に起きるともなるから恐怖なのである


2022年05月02日

知床観光船の事故と原発事故の共通性 (仕事が土着的なものから離れた現代の危険)


知床観光船の事故と原発事故の共通性

(仕事が土着的なものから離れた現代の危険)

●知床観光船事故と原発事故の共通性

知床観光船の事故と原発事故に多くの共通性があった

●地形とか海流とか天候とかが深く関係していた

●経営者や船長が外部のものだった

●安全管理を国土交通省でも怠った

●地元の人達とのコミニュケーションの不足があった

今回の知床観光船事故は原発事故を追求して多くの共通したものがあったことに気づいた事故になった原因が一致するものが多かった

地形とか海流とか天候とかが深く関係していた

知床の海流とか地形でも複雑でありそこは危険な場所だった、海流でもそれは地元の漁師でしかわからないものがあった
そして意外と風が関係していた、北西の風だと直接船にふきつけるから波も高くなるから危険だと言っていた、でも知床半島でさえぎる風だと船体に直接吹きつけないから安全だという説明が地元の人からあった
この風向きはなかなか地元の人でないとわからない、風の方向はわかりにくいからだ
でも地元の漁師だったらもうそこで生業として仕事しているから直感的にわかるのであるたいがい生業として農業でも第一次産業にかかわる人は密接にその土地の風土と結びついて暮らしている、それは科学知識というより日々の仕事なのかで自ずと身に着く知識であり知恵である、自ずと土着的になる
その土地にrootrdnessでありconstantに接する土着して仕事をしているからである
その土地と人間は不可分に密接に結びついているからである
それでこの辺では東風が3月頃から海から吹いてくるのである、不運だったのはその東風が吹いた時、原発の爆発がありその風によって放射能の塊り飯館村から福島市の方に流れたのである
でもすぐ近くの浪江の請戸だと放射性物質は海に流れたからあんなに近くても0.5マイクロシーベルトだったのである

●地元の人達とのコミニュケーション不足

そしてなぜ爆発した時、山の奥の津島に町民を浪江町長が逃げさせたのか?
それは放射性物質がどういうものが知らなかったからである
でも東電の社員の一人は知っていて山の方に向かって逃げていたが海に近い街の方に戻った方がいいとして街の方に引き返したのである
つまり東電の人は専門家だから知っていた、でもそこに原発があるのに東電では地元の人達との深いコミニュケーションがなかったのである
それはなぜかとなれば政府と東電指導で地元の人たちは自治体ではその町長より上に立つものであり命令に従う方だったからである
それは県でもそうである、政府から命令を県で受けて各自治体に命令を下す、それに逆らうことはできなかったのである

肝心のそこに住んでいる自治体の公務員とか住民との十分なコミニュケーションがなかったのである
それより政府と東電が大きな権力をもち「安全神話」を作って危険を知らせないようにしたのである
その管理も実際は政府でも幹部でもなおざりにしていた、なぜなら原発とかは一般人にはわかりにくいから御用学者でも雇いいくらでもごまかせたからである
そして政府でも危険があるのにそれを教えないし管理もずさんだったのである
そこで働く電気関係者が千人いたとか言われるが何か配管とかに問題があっても指摘してもとりあげない、それよりそれを言うと地元の電気関係者でも仕事がもらえないとなって言えなかったのである、何しろ政府でも東電も一体となった巨大な権力を持つものとなっていたからである
今回も前にも事故三回も起こしていたが国土交通省でそのままであり対処しなかった
政府は安全対策で常に問われる、ただなぜこの会社に警告しなかったのかわからない

そして東電には司法関係者から警察官僚から海上自衛隊から天下りしていた官僚が相当数いた、その人達は多額の金をもらっても事故の責任を何にもとらないのである
東電でも政府でも何か事故の責任をとった人は今回はいないのである
これに反発する人もいないというのもわからないのである
地元の人たちももっと何か追求して批判するべきだがしていない、それは結局地元の人たちもその利権にあづかり補償金をもらっていたからしないともなる
地元の報道関係も追求しないんのはやはり宣伝費として金をもらっていたからである
政経東北でも相双リテックから宣伝費をもらって表紙でも宣伝していたのは何なのだろうと思った、結局福島県の報道機関はその危険性を追求していない、第一電事連から800億円の金が報道機関にマスコミ支払われていたというのだから驚く
つまり庶民の想像を絶した金が動いていたのである
それは事故後に判明したのである
そして官僚の安全管理も名ばかりであり「不安院」だとして揶揄されて批判された
安全について何もしなかったとなる
ただ金だけをはもらっていたのである、実質は何の安全管理などしていなかったのである
地元の人達とのコミニュケーションの不足があった

原発は地元の人たちとコミニュケーションなどしない、政府の権力東電によって一方的におしつけられたのである、ただその見返りとして金を湯水のようにばらまいたので地元の人も許可したとなる、だから地元の人も金ばかり求めていたことで責任はある
それで事故後もあまり政府でも東電でも批判できないということはあった

●科学技術と土着性

こうしたことも知床観光船でも起きていたのである
土着性とかなると何か古いとなる、そんなものを現代に持ち出すのは時代遅れだとかなるでも人間はそもそも生物の一種なのだから土着的なものから大地から風土から離れてありえないのである
人間の基本的な生は土着的なものとして営まれる、その土地から実りがありそれで生きるのが基本としてある、それが工業化科学社会になったとき無視されたことがある
その土着的なものより科学的技術が優先される、土着的なものとは生態系に準じて生活することである
でもそうした土着性は広域化グロ−バル化社会で無視されていた
現代のグロ−バル化社会はいいように見える、でもそこにいろいろな人間の根本的な生存権すら脅かすものがあったのである
だから最近ウクライナ戦争で麦が輸入できない、円安で高くなるから米を食べろというときでもそうである、地元で日本でとれるもので賄うことが基本にある
それで米を食べろ利用しろと言われるのもやはりそれがまともな生活だからとなる

電力でも東北電力となると土着的になる、東北を根城として仕事するからそうなる
それで東北電力の副社長がこの辺は津浪があるからと女川の原発を作る時、10mをあえて高くして作った、その結果津波から辛うじてまねがれた、でもすれすれだったのであるこれはやはり東北に住んでいるからこそできたことである
三陸では明治になっても大津波があり一万人とか死んでいるからである
そういう場所に隣接していたからこそ身近なものとして危険を感じてそうなった
でも相馬地域とかなると400年間大きな津浪がないから警戒していなかったのであるそして相馬藩政期に二行だけ生波(いくなみ)−津波で700人溺死と記録されていた
それも学者すら知らなかったのである、ただ津波の後に発見したのである
だから郷土史などあまり重要視されない、物好きな人がしているとかなる
でも実際は原発事故でも郷土史というのは深く関係していたのである
郷土史とは最も土着的な仕事なのである

そして報道にしても土着的でないとできない、それは福島県でも広すぎるのである
海側と会津とか山国となるとまるで違った風土だからである
すると報道でも福島県でも広いから全部をカバーできないのである
常にコンスタントにrootednessになるのは限られた地域になるのである
だからそうして一地域でも深くコンスタントに地域と密着して生活していないと報道もできないとなる
そもそも文化でもcultureがcultivateであその土地に根付いて耕すものとして生まれる食糧でもそうである、その土地と常にコンスタントに密着して生活していてその土地独自の文化が生まれるのである、それは様々な土地のものが野菜でも名付けられる
その味はその土地独特のものとしてありそれが土地の魅力となる

●グロ−バリゼーションも土着性を喪失させた

ともかく知床観光船事故ではこうして原発事故を起こした原因が共通している
現代の盲点は仕事に土着性がなくなったことである
何か材料でも家の木材でも外国から輸入する、ウクライナからも木材を輸入していたということで入らなくなり家を建てるにも値段が高くなって建てられないとかなる
外国からはこうしていくらグロ−バル化していても輸送ができないとか高くつくとか
常時安心して入ってくるとは限らないのである
だからあくまでも自給自足を基本にしてそれにつけ加えるものとして輸入もあるのが安全だとなるのである

そして知床観光船では社長も外部の人とか船長も外部の人だったとかなる
その船も瀬戸内海仕様のもので知床の海には合っていないものだったとかなる
つまりその土地の風土とかにそぐわないものとして作られたものを使っていたとなる
原発にしても日本では地震が多いから風土に合わないものであった
それでアメリカで竜巻が多いから原発の電源を地下にもってきていた
それを日本でまねたのが失敗だった、日本では竜巻の被害はまれである、むしろ地震の国であり津波でも起きるからその備えが必要だったのである
ただ科学者は津波が来るから備えろと警告はしていた、でも東電は聴かなかったのである
それはコストがかかるからである

つまりどうしても安全よりコストとなるのが経営である、今回もそれで失敗したのである天候を無視して利益をあげるために危険を無視した結果として大事故になったのである
ただ安全となると経営では利益をあげなければならないから無視されやすい
それでそこに国がかかわる、でも国土交通省でも認可が甘かったとなる
原発でも危険は無視されて政府の安全を計る官僚は天下りして金をもらうだけであり何もしなかったのである、だからその金は返還すべきだとなる、でもそのことを言う人もいないのである、マスコミでも追及しないのである、それはマスコミ自体が東電から多額の宣伝費をもらっていたからでとる、朝日新聞すらそうてある
つまり東電の原発の危険性を追求した報道はなかったとなる

いづれにしろ現代社会から土着性が失われた、それがまた大きな問題でありそこから大きなとりかえしのつかない事故にもなる、グロ−バリゼーションとは地域地域の土着的な生活を破壊するものでもある、巨大な企業でも森を破壊して生態系でも一挙に破壊したりする、それができる時代だから根こそぎ自然が破壊されてしまう
経済ばかり優先されるのも問題なのである、人間の生きる意味とかは土着的なものとして追及されその土地土地にアイディンティティ化して生きる意味を持つとなる
それを詩などで追求して来たのが自分だったとなる
第一東京とか大都会ではもう土着性は何もない、ビルの狭間でそこに土はそもそもないからである、そこで志向されるのはなにかとなる、大地とか自然から遊離した人工的空間で生きているから人間はもう自然を意識できないのである
そのこと自体が何か大きな災害をもたらす潜在要因となっている
つまり東京で大地震があり津浪があったり何か都会自体を崩壊させるようなものが起きる不安がある、そして現実に大災害が来たらもう水も飲めないとか食料すら得られないという恐怖がある、外国からもその時食料でも入ってこないからである
だから東京の金持ちでも田舎で野菜を作っておけとかなるのである
食糧は必ずしも外国から入るとは限らない、円安になり馬鹿高くなるとか戦争とかあると入って来なくなるのである、それが意識されないことが危険なのである


桂田社長が観光船仲間の会長をしていたとか報道があった
これも地元ではなく外から来た人が会長とかなっていた
それも問題だったのかもしれない、東電でも東京であり外から来た人達が運営していたからである
それで支持は東京から幹部がしていたのである

三回も事故を起こしていたのだから行政処分もあっていいという発言があった
危険な会社として公表すべきだったとも議論があった
国土交通省で安全の管理をきちんとしていなかったと批判があった
これも原発と共通している、でも小さな会社だからここから何が見返りがあるとは思えない
ただ小型船舶は厳しく規制されない、それで猪苗代湖でクルーザーで子供が事故にあい死んだ
小型になると規制がゆるいからそうなった






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2022年05月03日

金を誰に渡すかが問題 (地域に金を回すことを考えるーでも広域化グロ−バル化社会では不可能)


金を誰に渡すかが問題

(地域に金を回すことを考えるーでも広域化グロ−バル化社会では不可能)

「書店の消滅」と「女性の労働問題」が根本でつながっている理由

近所の書店で購入すれば、お金はその書店に流れる。他の選択肢を選べば、そのサイトを運営する会社に流れていく。

 日用品でも洋服でもなんでも、インターネットで購入したほうが安くて便利なことは多い。しかし、使ったお金は自分の暮らす地域には流れずに、外に流れていく。人口減で苦しんでいる地方経済はますます不景気になり、シャッター街が増えていく。


金を誰に渡すのか?何か買う時、誰から買うのか、誰に金をわたすのかなど今考えない
スーパーに買い物してその金を誰にわたすのか?誰が受け取るのなど考えないだろう
たいがい金は個人より会社が受け取るとなる、特定の個人は通はいない
戦後の小商店とかだとそこを経営しているのは個人でありその人に渡っていると感じた
商品を買えばそれう売っている個人に誰かに特定の人に金を渡っていると感じる
そこに人と人のつながりを感じる社会である

ただこれも今は社会が変わりすぎたのである、まず商品の量が昔の社会からすると戦後でも膨大に増えたのである,グローバル化でも世界から商品が入ってくるから増えすぎたのである、するともう誰かに金を渡すとかそこに個人の介入する余地がなくなったのであるまず本にしてもインタ−ネットで古本も入れるとその数は書店に並べるのと桁違いとかではない、天文学的数字になっている、書店に置ける本は百万分の一とかかもしれない
それくらいしか書店には置けない、それならアマゾンでも古本で自分を集めていたら書店にもるなと思った、自分なりの書庫を作ればいいと思った
そして書店にはメリットがない、本好きな人などいない、ただ物として売っているだけである、それがこれまで成立っていたのは書店は何か知的なものの窓口としてあったからだともなる、第一自分の家には一冊の本も置いてなかった

教科書だけで勉強するほかない、そうなると書店とかは貴重な存在になっていた
だから本を出す人も特別の人であり本を出すだけで著名人になる
でもまたどうしても本を買うというときむずかしい本は読む人少ない
でも書店に置くだけでくだらない本でも売れたのである
「冠婚葬祭」という本が百万部売れたことがありベストセラーになった本は百万部とか売れた、それが別に内容がいいとかではない、書店に置けて宣伝すると本は売れたのであるそれだけ知的刺激を本から受けていたしその他はなかったからである
そして書店の店員であれ書店の経営者であれ知的なこと本の内容など知らなくても売れていたのである

例えば大工でも職人でもスキルを持っている、だからそれを自慢するがわかる
では本屋の主人が何か本の内容を知っているかとなるとないのである
もちろん知識が膨大だから通じることもむずかしい、でも東京の古本屋街とかではその本の内容を説明できる人がいたりする
でも普通の書店ではいないのである、いづれにしろ前は本を置いているだけで売れたのである、なぜなら書店でしか本は買えないからである
それで自分は一週間に一回仙台市に行っていたのは本を買うためだったのである
近くの本屋には専門的な本などないからである
だから本を買えないということで知識を得るには相当なハンディキャップが田舎ではあったのである

今なら本を買うだけではない、本は簡単とはいかないまでも電子本でもネットでもいくらでも出せる、金にはならないにしても発信できる
youtubeのようなものでも個人でテレビ局さえもてる時代なのである
この差が余りにも大きすぎる、書店には実際は本は置いていなかったともなるのである
置かれない本が膨大にあったが置けるのはその百万分の一とかまでにもなっていたのである

いづれにしろ誰に金を渡すかなど今は意識しないしできない社会である
人など関係なく膨大な物が流通している、そこにいちいち誰に渡すかなど意識できない
それでマルクスは商品を考察して人間疎外とかを言うようになった
金を誰に渡すかなど意識している人はいないしできない、ただ金のやりとりしかそこにはなくなったのでなしる

ただ金を渡すということが誰なのか、田舎だと小さい地域社会だと意識するのである
私は自転車が好きだし使うから結構高い物でも買った、だから自転車屋と親しくなる
しかしここの一万くらいの町では一軒しかないのである
それでもヤマハの委託の店になっているから30万以上の電動自転車を買った
それは本当にいいものだとして常に言っている、でもそれが買えたのはヤマハと直接の販売店なっているから買えた、電動自転車は壊れたりすると直せないのである
それで困っているのは電動の折り畳み自転車を買おうしているがヤマハでは出していないのである、今は外国製のものも相当数入っている、でも田舎でぱ修理とかできないから
買えないので困っているのである
その自転車屋は一軒しかないのだから貴重である、そこで買いたいとなるのが買えないのである、金をその人に渡したいができないということがある


いづれにしろ一万の田舎でも今や隣は何をする人ぞになっている、何の仕事をして生活が成り立っているのかわからないのである
戦後まもなくだったらたいがい何をしている人なのかわかっていたのである
社会が見える社会だったのである、今は見えない社会である、あの人何をして生活が成り立っているのだろうとなる
ただ自転車屋とか大工とか農業しているとかはわかりやすかったのである
買う品物でも金を誰に渡すのか見えていた社会である、この金はあの人に渡っていると意識する、通販とかなるとその金はアマゾンに渡りアメリカに金が集められているのかとも見る、それがグロ−バル社会である
そこに個々人が介在する余地がないのである
ところが誰かに金を渡すということを意識することは人間的だとなる
その人がどういう状態だとか見える、実は病気でありそれでも仕事をして頑張っているとかなると応援したいとなる、金を渡す相手のことを狭い社会だとわかるからである
これが広域社会とかグロ−バル化社会になれば地球の裏側から品物が入ってきて買っても誰に金を渡すかなど考えることもできない、想像すらできないのである
でもバナナ一つにしても結構そこで仕事した人が苦しいと報告があった
でもそんなことを意識して買う人などいない、安くていい商品だから買うとしかないのである

ともかく今は田舎で社会が変わりすぎたのである、グロ−バル化の中に田舎でも組み入れられている、通信では特にそうである、通信の発達で知識が膨大に増えたのである
でも確かに誰に金をわたすとかを意識するのは悪いことではない
あの人に金をわたせば地域でも豊かになるとか意識することは悪いことではない
でもそれが現代ではできない、商品が増えすぎたのである
世界から自転車でも入ればそこにいいものがありそれが買いたいとなる

でも田舎では電動自転車になると買えないとなる、そこに依然として東京とか地方とかさらに田舎の差があると思った
それで自転車にしても私の町の隣の市は大きいから自転車屋が五六軒あるにしても買うことさえ断れることがあった、つまり常に一つの自分の店で買いということにもなる
そうでないものは売らないともなっているのだ、そこは何かそうして田舎の閉鎖性があった、俺の店からだけ買えば売ってやるという感じなのである

ただ自転車は必ず壊れる、修理することが不可欠である、それでエンジン部分をそっくり取り換えたことがあった、こういうことがあるから電動自転車となると買えないのである
おそらく誰かに金を渡すかを意識しろというとき小さな地域では人間的つながりが大事だということがある、それもグロ−バル化で広域経済社会で喪失したとなる
だからどうして原発事故で避難区域になったところが一挙に若い人達が移住して老人だけの街になり廃墟化したようになったのか?
それは人と人のつながりがなくなったことが原因としてあったとも考察した
それで絶えず「絆」を言われたのは外部の人達であり外部との絆であった
内部では絆が必ずしもない、補償金でもめて分断されていたのである
これも広域社会でありグロ−バル経済社会で起きたことなのである
外部との絆が言われたがそれなら外部に人が流出するということにもなる
内部の絆は消失して外部との絆で日常的に生活しているからそうなったのかとも見たのである

いづれにしろ誰かに金を渡すということを意識する社会は消失している
そこに介在するのは人ではない、金であり金というときどうしても外部から外国からでも入ってくるものを金で買うとなる、それが人と人のつながりより金がすべての社会にもなったのである、それでマルクスは商品から考察して人間疎外論を理論化したのである
結局それは商品の数が膨大なものとなったからである
それは本でもそうである、余りにもその数の種類の差が天文学的なものとなるほど差が大きすぎるのである、自転車でも外国製を入れると種類が多い、でも田舎では電動自転車は修理できないとなり買えないからそこが東京とかとは違っていたのである

ここで考察していることは人間と人間がつながる社会である、誰に金を渡すかとか意識するのはそうである
でもそういう社会は田舎ですら喪失している、通販とかなれば金は誰に渡っているかなど意識できないからである
それはアメリカの人達に渡っているのかとなる、小さな村社会とかなると人と人のつながりが優先される
でも現代のような膨大な商品が流通する社会では人と人のつながりは無視されて商品だけが流通する社会になる
それで人間疎外とかマルクスが考察したのである、でもそれを変えることは今となるとできない
それだけ世界経済としてグロ−バル化して経済でも金でも回っているからである
だから道徳無き経済ともなっている、経済が金がすべてであり優位になる社会なのである
でも実際はグロ−バル化しても人と人がつながる協同する社会ともならなかったのである
第一次世界大戦があり第二次世界大戦があり数千万単位で人が死に今度はウクライナ戦争のように核戦争になるまでの恐怖になった、つまりグロ−バリゼーションは世界平和を推進するともならなかった
その反動としてかえって国々との対立を深めるとういこともあった、負の作用も大きいものだったのである
グロ−バリゼーションの悪い面が顕著になったのも確かなのである
posted by 老鶯 at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年05月04日

沖縄の人と話して水不足で困ると聞く (いろいろ不便があっても原発事故は住めなくなったから最悪だった)


沖縄の人と話して水不足で困ると聞く

(いろいろ不便があっても原発事故は住めなくなったから最悪だった)

離島の水事情とは・・・?台風の恩恵も。

この辺は地震の被害でボランティア団体が来ている、国際学生ボランティアとかもきていた、DRTは一番早く来た、これは結構規模が大きい、重機とかもってきたしプレハブも建てて本格的である
その一人が沖縄の人だった、聞いて見たら沖縄は水不足で苦しんでいる
それを実感として言うからわかる、私も沖縄の波照間島とかに行ったら井戸が枯れていたそこに人が住んでいたが住まなくなった
沖縄では島では水の問題が大きいと思った、もともと水は欠かせないものだからどこでも水の問題は大きい、山に暮らす棚田でも山の上だから水がたりなくなると放送があった
山だから水があると思ったがそうではない、やはり川のような大きな水源がないと田んぼでも維持できない、平地では山から水が流れてくるからいい、それでも平地でもやはり水争いがあった、村でも水の奪い合いがあった

沖縄ではただ雨が豊富であり台風も来るから水をためるタンクを常設している
それでも水不足には苦労する
それで米もあまりとれない、米は本土から買うともなる、それで本土の米は米だけでもうまいと言っていた
何か安い米しか買えないからそう言っていた
新潟県の棚田では冬は深い雪に埋もれる、その雪にも効果があり棚田で作る米はうまいとしている,新潟県の米は水がいいからうまい
この辺では山の方の村は水がいいのでうまいとされていて買っていた
何でも水の影響が大きいのである、ただそこは土砂崩れで苦しんできた場所である
土の質の影響でそうなっている
そして鯉ともともと食料として養殖していたが錦鯉を作るようになりそれが人気となった自然条件が悪くても常にプラスとマイナスがあるのが自然を基に生活する人間にある
だから悪い事ばかりではない、雪の恩恵もある

ともかく人間を社会を知る時、実感を得ることが大事である
それでちょっとでも地元の人と話すとその話すことから実感として感じるものがある
本とかではわからない、テレビの放送とかでもわからない人から直接の実感を感じることがある、それで柳田国男は土地の人から話を良く聞いて文書より口で伝えられた口碑を大事にして民俗学を起こしたのである
本当にその土地のことは別に学者でなくてもその土地で生きている人がわかるのである
地理と風土とかはそうなる、そこに住んでみないとわからない
風を感じることでもそうである、その土地にどういう風が吹くのかわからないのだ

そのために知床観光船では北西の風が危険だというときそうだった
原発事故では3月頃になると海から東風が吹きそのために放射性物質の塊りが飯館村の
山の方に流れて被害が一番大きい不運があった
海の方は原発の煙突が見える浪江では本当にひくかったからである、0・5マイクロシーベルトだった、海側がみんな低いものだったのである
もともと科学技術でも風土の影響を受ける、その土地の風土を良く知らないと科学技術でも何でもできない、人間は自然に制限されて生きるものだからである
その自然の制限を越えることはできないのである
それを越えようとした時災いが生まれるようになっている
おそらくコロナウィルスもそうである、ウィルスは元来風土病とかでありある土地から生まれる、もしそうした場所に踏み入らなければウィルスは移らない
その土地にとどまっている、でも自然でもずかずかと人間は入り自然を壊してきた
そこでウィルスも今度はグロ−バル化した交通が発達したことで世界に一気に拡散したのである

とにかく人間の生活はその自然に制約されている、でも制約されていてもその中で生き延びる術を発見して生は継続されてきたのである
棚田の暮らしもそうであり島での暮らしでもそうである、そこは不便でもやはり人間が営々と暮らして生きれる場所としてあった、でもそういう場所が現代だと限界集落とかなり人々が住めない土地として放棄されるようになる
とてもこんな不便な所に住めないと言うがでも江戸時代から戦前でもそういう場所に人間の生は継続されていたのである
結局原発事故ではそうしした継続された生活が遮断されて途切れて村や町自体が住めない町や村になってしまったのである
一次産業が農業でも漁業でも林業でも衰退する、そして農業などするなと親に殴られたという人が原発で働いていたが故郷にも住めなくなったのである

江戸時代から戦前までも長い間、故郷であれ不便でも貧乏でも人間は住むことができた
でも原発事故は住めなくしたのである、だからこれは何だったのか?
住めなくなるということは最悪てある、いくら貧乏でも苦しくてもそこに住みつづけることが生きることである、そして一代だけではない、代々住みつづけることができる場所であることが基本としてある、確かに水不足とか気候の影響があって住めないとういことも起きて来る、でも江戸時代から戦前までも人間は生を受け継いできたのである
だから原発事故前でもまた他でも農業では生活できないからやめる、そして村は放棄されるとなる、それは何なのだろうとなる

もちろん農業は戦前でも過酷であり貧困に苦しんできた、農業だけでは苦しいからつづけられないとういことがあった、でも不思議なのはそうあっても生活が継続されてきたのである、千年であれ継続されてきたのである
でも現代だともう継続できない、農業では漁業でもやっていけないとなり原発に頼ったのである、他でも農業以外にこそ生きる道があるとして人々が科学技術であれ別な産業に頼った、でも千年でも一応その場で住むことはできた、その糧は少ないにしろ与えられていた、でも現代になると様々なことで住んでいられないとなった
燃料でも石油であり電気が不可欠でありとかガスなしでは生きられないとかなった

でも不思議なのは戦後十年は炭が燃料でありほとんど身近にあるもので一応生活していた住めなくなるということはなかったのである
とても住めないからと他に移り住むということもなかったのである
なにがそこにが納得できないとなる、山村とかは住めないとして捨てられる、千年とか住み続けた場所が捨てられる、それが理解できないのである
例えば相馬藩だと越中とかの人々が危険を犯して藩を脱出して相馬藩に移住したのは
ただ土地が与えられるとういことでそうなった、相馬藩では飢饉になり三分の一の人口が減った、その穴埋めとして移民を奨励してそうなったのである
これも今からすると何で苦しい農業をするためにわざわざ命がけで苦労して移住するのかとみる、でも農業社会では土地が一番大事だからそうなった
土地が与えられるということでそうなった、日本が満州を得たいというときも広大な土地が手に入るからであった、そこは寒冷地帯でも日本人は米を作ろうとしていた
それはその時農業社会だからそうなっていたのである、つまり農業で必要なのは第一に土地だからである、小作だと土地を持てないから貧乏だったとなる、土地が最大の価値となっているからそうなったのである

いづれにしろ住めなくなるとういことが人間にとって最悪ではないか?

いろいろあっても何とかここで住んでいけるとなれば我慢できる、でも住めなくなるということは最悪である、空気とか水でも土でも放射性物質に汚染されて食糧をも作れないとなると住めないとなる、でも現代では別に金があればどこでも移り住むことがてきるということで人々は代々住んだ故郷でも捨てたとなる
ウクライナのように国が戦場になったら住めない、だから最悪なのである
でも原発事故でもそういうことが起きたのである
ウクライナの人はキーウ(キエフ)の近くのチェルノブエリ原発で事故がありそこから避難した人があり今度は戦争で日本に避難した人もいる
要するに戦争は最悪であり原発事故でも住めなくなることが最悪だったのである
それで大熊だったか蝋燭でもいいから家族一緒に住めるだけでいいと言う人がいたのである、とにかく住めることが第一だからである、昔のような炭の暮らしでも一応住めるのだからがまんできるとなる、原発事故の罪深さはここにあったのである

SDGsとは「Sustainable Development Goals

 サステナブル(Sustainable)は、sustain(持続する)とable(〜できる)からなる言葉。. 「持続可能な」「ずっと続けていける」という意味があります。.

最近このことが良く言われる、このことが原発事故で証明された、もう住めなくなり持続可能もなにもなくなったからである、このことが最悪だったのである




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2022年05月05日

Mystery Island


Mystery Island

mysteryisland.jpg

valcanoisland11122.jpg
これは原画より迫力がある、でも著作違反になるだろう
ただならないものがある、原画がわからなくなるものはならない

This is a variation of the original drawing.
The changed image is more powerful.
However, it is a copyright infringement because it is an alteration of the original.
But I wonder if this is also a creative work.

abstractwater444.jpg

comlexflowwater.jpg

complexing and flowing water

接続可能な社会とは(SDGs) (原発事故で問われたもの、豊穣の海と漁師の詩から―生業とは天職とは)


接続可能な社会とは(SDGs)

(原発事故で問われたもの、豊穣の海と漁師の詩から―生業とは天職とは)

fishingship1111.jpg

烏崎の港へ



豊穣の海と漁師

朝漁の船は帰り来る
糧は海から与えられる
漁師は海とともにある
漁師の実りは海にある
漁師は海と一体になる
夢にも常に海を見る
時に波にもまれて溺れる
夢にうなされる
現実に父は海で死んだと
また恐ろしい津波で村は消失した
海は常に危険である
でも海は豊穣の海である
魚はふんだんに与えられる
魚をとるこそ漁師の誇り
活きのいい魚は地元に売られる
その身は引き締まり海とともにある
漁師の船は帰ってくる
妻はその無事の帰りを待っている
岩壁に浪は打ちつけて漁師は立つ
そこに生の充実がある
その身は海によって作られる
海は人に糧を与え仕事を与える
海の恵みは尽きることだない
海が人を作り大地が人を作る
山が人を作り森が人を作る
そこに継続される生がある
夏の海は朝の光りに輝いている
漁師もまたその海のように輝いている
それは海とともにあるからだ
波が轟き雲雀も夏空に鳴く
海を大地を山を離れて人はない
人を作るのは海に大地に山に森である
ここに継続持続される生がある
絶えることなき生がある
まさにその仕事は神より与えられた天職生業
その身は引き締まり海に生きた男よ
神はその男を見て満足する
海の糧を与えたことを満足する
夏の海原は広々と輝いている
漁の船は魚を積んで帰ってくる
港は活気にあふれる
津波の悲劇でも海の魚は消えない
ただ原発事故は海を汚した
その罪は余りにも大きい
海は汚されてはならなかった
でもその海の恵みを重んじなかった
それは神からの罰なのか?
人間はそのことを深く反省すべきかな



高い地位、儀礼、富、学識など、そういうものに到達した人々について
わたしが思うには、彼らの到達したものは彼らの体と魂に結果を残すものではない限り
すべて彼らの身につかず、浪間に消える‐ホイットマン


どちらも基本的な意味は同じですが、「体」は純粋に肉体のことを表し、人間以外の生物にも使うことができます。
一方、「身体」は人間のみに使い、肉体だけではなく心も含めた心身のことを指します

たとえば、「身につく」などです。この言葉は体に何かがくっついているという意味ではなく、技能などを習得した、という意味ですよね。
https://gimon-sukkiri.jp/body-spirit/

現代の風景はこの辺だとと相馬市の松川浦でも大きな火力発電所あり最近はガスのタンクもある、港からガスを入れて遠くまでガスを配給する施設ができたからだ
浜通りは発電所が多い、それで原発も作られた、風景としてはみなとがり一応漁師がいて魚をとったりしているが風景としては発電所のウェエトが大きくそれが風景となっている港は小さいのである、その風景そのものが現代を如実に語っている
生活からすると魚をとって生活するとかそれはもう極一部のものである
特に福島県の浜通りは漁獲高が宮城県と比べれば十分の一くらいしかないのである
そしてそもそも第一次産業の農業とかでも十分の一くらいの生産量しかないのである
だから現実は農業とか漁業で仕事している人は意外と少ないのである
第一漁師の収入にしても魚をとるから得られれるより火力発電が建ちまた原発が建ち烏崎では補償金をもらった
それで航空運賃が50万とかしたときでもヨ−ロッパとか海外旅行に行っていた人がいたのに驚いた
漁業していただけではとてもそれがけの金はないのである
だから漁業でも農業でもしたくないとなっていたのである



それで現実にそういう人と逢わない、田舎にいてもそういう人は少数者であり現実の生活は会社員とか工場で働いている、東北電力の火力発電所でも千人働いていたとか
双葉大熊の原発はさらに多く働いていたとなるからそこが生活の糧となっていたとなる
それで事故後でもそうして原発で金になっていたから批判できないともなっていたのである、漁師の場合は船主だと事故前でも多額の補償金がすでにもらって原発御殿が建てられていた、それで漁師でない人は不満だったのである、事故後も手厚い補償をされたのは船主とか漁師である、だから立派な家を率先して建てたともなる
ただ津波の被害は本当に悲劇でありそのことは批判できない
でもそもそも漁業だけではない、第一次産業は農業でも漁業でも林業でも衰退して全体の生産量の一割にもみたなくなったのである

ただ不思議なのは依然として回りが田んぼだから田舎は農業で成立っているように見えるでも実際の経済はみんな会社員であり農業とか漁業している人は少数者である
特に漁業で生計を立てている人は前からごくわずかだったとなる
福島県の浜通りは海に面していても宮城県のように漁獲量が十分の一くらいだから前ら少なかったのである
ただそれでネットで魚がとれなくて生活が成り立たないから応援してくれというプログを見たことがある、やはり漁業は苦しいのだと見ていたのである
でも事故前でも補償金をもらっていたから船主とかは生活には困ることもなかったのである、ただ港があっても別にみんな魚をとることで生計をたてているわけではない、やはり松川浦とかなれば大きいから港の機能があるから船でも入って来たり火力発電所でもガスタンクが最近できたりとそっちの方の仕事がある、荷物も入ってくるから漁をする仕事よりそっちの方が仕事となっている

ただ事故後生業を返せ!

と裁判所に訴えた人たちがいる、この生業とは何なのか?
これはやはり第一次産業に従事する人達のことではないか?
それは自然の恵みで直接暮らしている人達だとなる、海で魚をとる、大地から実りをえる農民がいる、森から木材をとるキコリがいるとかそういう人達だろう
生業とは天職のことでもある、天から与えられた職業だとなる
何かむずかしいものではない、それは自然の中で自然から糧を得るとなればそれが生業であり天職となる、そういう仕事は今盛んに言われる

SDGs(エス・ディー・ジーズ)とは

持続可能な社会とは、「地球環境や自然環境が適切に保全され、将来の世代が必要とするものを損なうことなく、現在の世代の要求を満たすような開発が行われている社会。」と言われています。

持続可能な社会とはもともと戦後辺りまでそういう社会だったのである
なぜなら戦前でも農民が八割という社会は当然そうなるのである
自然から直接実りを得て生活していたとなるからだ
そういう社会は接続可能な社会なのである、なぜ自然が死ぬことがない、途切れることなく実りをもたらしてくれるのか?
自然そのものが何万年であれ何億年であれ地球が生まれてから生物が生まれてから持続可能でなかったら継続されない、そこに生物の死があり生命は途絶えるのである
ただ恐竜などは環境に適合されず死に絶えた、だから必ずしも生命がすべて継続されるとは限らない、人間も恐竜のようになることもありえるのだ
それは核戦争とかで放射性物質の汚染でこの辺のように空気でも水でも土でも汚染されればそうなるのである
だから高度な文明はかえって自然を破壊して汚染して生物が人間でも住めなくなることがありうる、一時この辺はそうなったからである

いづれにしろ人間の存在価値とは何なのか?

それは人間の仕事から見ればわかりやすい、漁師とか農民とか職人でもキコリとか生業と言われるものは自然があり人間が存在してからあった、それは食料などか生きるには欠かせないからあったとなる、縄文人でも生きるために貝をとったり山菜をとったり海の幸から山の幸を得て暮らしていたからである
そういう仕事は人間が生まれた時からあったとなる、だから生業となる
そして自然の中で生きているから自然と一体となる、海でも大地でも森でも山と一体化して暮らしていた、そこで体も作られたのである
身が作られたのである、からだは殻の意味であり死んだ人の屍とされる、からだは魂がぬけた抜け殻とされていた、でも身には心があり身につくとは仕事を通じて心も身に着くとなる、身につくとは魂が身に着くということでもある
本来の仕事とはそういうものである、でも一方で人間には仕事は職業として業ともなる
カルマともなる、そういう仕事もまた多いのである
何か武器を作るとか戦争を仕事とした兵隊もいる、今なら警官とかでもそうした業として仕事がある、ただ医者にしても何か必ず業を持つ、なぜなら人間がみんな犯罪を犯さない病気にならないとなれば戦争もないとなればそうした仕事は必要ないからである
そういう職業があること自体が問題でありない方がいいのである

とにかく現代文明社会は無数の業なる仕事が増えたともなる、本来の仕事が生業とか天職がなくなり人間はホイットマンの詩のように讃歌されないものとなった
それは東京とかの大都会を見ればわかる、そこで何か讃歌されるものがあるのかとなる
そこに自然はない、ただ人工的空間でビルの狭間で人は呻吟しているだけだとなる
そこにあるのは群衆であり大衆でありただ数として数えられるだけの存在でありそこに
人間を讃歌するものがあるのかとなる、ただ巨大なビルを仰いで人間は卑小化する
蟻のようになっているのだ、だから奇妙なのは人間の価値を存在感を見れば縄文人の方が人間の価値を具現化していたともなってしまうのである
その大都会から生まれるのは何か、宗教にしてもカルトであり政治は大衆を相手にするからナチス的なものになる、宗教はもともと清浄な自然から生まれたものだというときそれが全く無いからである、ただ数を誇り権力化しているだけである
そこに讃歌すべき人間はいないのである、むしろ機械が代わりとなり機械が讃歌されるとまでなる、人間はただ無意味なもの無価値なものただ数として権力化する存在になる

でも大都会に住む人が現代人のエリートであり田舎に住んでいる人達は金にもならないとか無価値に無意味にされている、田舎のインフラでも都会の人が税金を出して維持するとかなる、これもまた現代文明の矛盾である、それで田舎でも明治時代でも炭焼きしていた山の人は都会の人に頼らない自立しているとして誇っていたのである
何も都会の人が税金を払うこともないからである
ただエネルギー問題にしても今世界から石油でもガスでも石炭でも輸入するから外国に頼っていて自立していないとなる、そのエネルギー問題が大きい生存にかかわるものとなる風景として海岸に風力発電の風車があり火力発電所があり原発があったことでもわかる
そっちの方が大事な産業であり原発事故前ならそこで働く科学者が技術者が神官ともなっていたのである、この地を支配する者となっていたのである
それが原発事故で一挙に崩壊したのである、持続継続されないものとなったのである、


ゲーテ「漁師」(ドイツ詩100選を訳してみる 2)

お日さまも お月さまも
海の中でお休みになって
波を吸い込み 二倍も美しいお顔になって
戻ってくるではありませんか。
底深い楽園が 神秘的にうるおう青色が
あなたの心を誘いませんか?

https://note.com/lulu_hiyokono/n/nd4dbeb11f14f

お日様もお月さま自然の中でこそ映えるということでうまい詩である
とても都会ではお日さまも月も映えないのである、死んでしまうのである

posted by 老鶯 at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2022年05月06日

南相馬市鹿島区真野川沿いのサイクリングロード地図 (新しい海まで通じる道)


南相馬市鹿島区真野川沿いのサイクリングロード地図

(新しい海まで通じる道)

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鹿島区役所の土手の脇の道を行かないと行きどまりになるから注意

newroad333.jpg
今橋の下、鉄道の下が工事中で通行止めになっていた

newroad2222222.jpg


newroad4.jpg

橋の下を二つくぐり鉄道の下を行くとここにでる、ここからは見晴しが良くなり
海でる道になるからわかりやすい


真野川沿いに新しくサイクリングロードができた、土手の下は新しくできた道である
この道は街の中にあるから街の人が散歩している
ただここまで高速常磐道のSAから自転車で来るとなると結構遠いとなるかもしれない、
ただこの真野川沿いから海に出る道は景観がいいから気持ちがいい

本当は駅前から行けばいいが鉄道を利用する人は本当に少ないから高速のSAから人を呼び込むために地図を作った、だからSAに自転車を置いて利用してもらう、でもそれはしていない、ただ駅前の星自転車屋では自転車を貸している
駅前らだと便利なのである、それほど遠いともならないからだ

道順としては桜田橋、鹿島区役所の脇の土手の道を下るところがある
ここを下って川沿いを行くと橋の下をくぐり鉄道の下をくぐり土手の道に上り
するとそこからは舗装された土手の道を走れば海に出る
海に出る新しい高い堤防からは阿武隈山脈の端の方に蔵王が見える、今は残雪でありきれいである、この蔵王が見えるのは鹿島区までである、結構大きく見えるが注意しないと見えないともなる

このサイクリングロードは走り安いし景観がいいからおすすめである

ただ知らない人は初めとかなるとち地理がわかりにくいのである
間違い安いのである、時間が限られているからゆっくり見れないということがある
それが問題なのである、やはりどうしても時間をかけてゆっくり見ないと記憶にも残らないのである、狭い町でも村でも見る場所があるが必ず急いでいるから見過ごしてしまうのである、第一最近蔵王が見えることがわかった、それは堤防が高くなったから見えたのである、だから堤防ができたりして景観も変わるのである
ただ風車とか海岸が狭くなったとかあり景色としては物足りない
砂浜にしても狭いからである、それにしても余りにも津波で変わってしまったのである
前の風景が全く失われてしまったからである

新しき道の通じて燕来る

菜の花の道や近くの人の常に行く

はや花は散りて菜の花の道を行く街の小さく人もまれなり

2022年05月07日

ロシアの技能者や富裕層や若者の大量流出ー遊牧民を理解しにくい日本 (原発事故でも三年避難して故郷に帰らなくなった)


ロシアの技能者や富裕層や若者の大量流出ー遊牧民を理解しにくい日本

(原発事故でも三年避難して故郷に帰らなくなった)

ウクライナに侵攻中のロシアで、国民が国外に出る動きが急増している。独立系メディアが6日、連邦保安局(FSB)の統計として、今年1〜3月に約388万人が国外に出たと伝えた。 
渡航先は旧ソ連の構成国が多く、前年同期の5倍近くにふくれた国もある。今後も人材の流出が続けば、ロシア社会に大きな打撃となる可能性もある。
https://www.asahi.com/articles/ASQ5666J1Q56UHBI024.html


国外避難民は
コソボ紛争(70日間)→戻る
ボスニアヘルツェゴビナ紛争(3年間)→国外定着


原発避難民もそうだった、三年間離れるともう帰ってこない、避難した先で仕事を持ち暮らすと帰ってこない、農家の人が言っていた、農業でも三年間していなと体がついていけない、できなくなると言っていた
三年間が目安だったのである、その三年間も過ぎて五年間も避難期間にしたから帰ってこないのである、老人は外に出ても仕事もできないから愛着があるから残った
でも老人だけの街では維持できない、小高とかでも原町に移った人が多い
原町は便利で暮らしやすいからである、別に隣なのだからあまりに移っ抵抗はないだろう
ロシアでは富裕層とか技術者がそして若者が流出している
日本でもひろゆきが日本がに希望はないと海外脱出を盛んに言う
でも日本は言葉との障壁があり簡単に脱出できないだろう
陸続きの国は移動が移住でもしやすいのだろう

ウクライナ人でもテレビに出ている人は英語を話ししている、やはりロシア語も英語と通じるものがあるのだろう
ただアラブ語とかなるとかなり異質だから違っているだろう、でも英語はやはり世界の共通語になっていることを感じる
英語は世界でも通じやすいのである、中国人とちょっと英語で話したことでもわかる
エリート層は英語が普通に使えるのである
日本はもともと閉鎖的な国だから外国へ移住するのは相当にハードルが高い

そもそも陸続きだということが移住が大陸国家間で常にあった、モンゴルがウクライナまで攻めてきたというのも驚きである、モンゴルとか遊牧民は日常的に移動しているから
移住という移動することに抵抗がないのである
ヨ−ロッパの成立がこうした東の遊牧民の流入に対して作られたという時もそうである
東欧の小国がなぜあるのか、それは遊牧民国家なのである、遊牧民はまた様々な民族が入交り混血しているのである、こうした多様な民族というのも日本は同一民族としての歴史が長いから理解しにくいのである

大陸国家だと大量に人間が移動する、それが戦争にもなる、ゲルマン人の移動とかもそうである、それがローマ帝国を滅ぼしたともなる、東の遊牧民はまさに移動する民である
それを一番象徴していたのがモンゴルなのである、それでロシアもモンゴルに征服されてタタールの軛としてあった、モンゴルに囚われたとなる
要するに東欧諸国はそうしした遊牧民の末裔なのである、ドイツにもスラブ人が入ってきて混血しているというのもそうである
日本はまたこの遊牧民というのを理解しにくいのである、そうした人々を見ていないし歴史的にもわかりにくいとなる、日本は島国で閉鎖され国で定着民だからである

だから地政学ではロシアは必ずウクライナとか西欧に進出する、また戦争になるということを予言していた学者もいる、それは地理の宿命としてカルマとして説いている
その地理もあまりにも広大なので日本人には理解しにくいのである
とても旅行したらいではわからないのである
そうした広大な領土を支配するとなるとどうしても独裁となり皇帝となる
社会主義になってもその伝統は受け継がれる、恐るべき強権国家になる、統一できないからである、社会主義とは全体主義のことだから独裁国家として採用されたとなる
民主主義とかはそうした広大な国家には合わないのである、そうしたら国がばらばらになってしまうという恐怖がある
また風土からもロシアの寒さがロシア人の忍耐強さと連帯を育んだとしている
一方で野蛮性も依然として残ったとしている
そもそも遊牧民は常に戦闘的でありその暮らしが移動であり日常が軍隊化していたのである、だから戦争には強かったとなる

ともかく歴史でもカルマである、歴史は繰り返すとういことである
だからウクライナでもやはりロシアが攻めてくるということは予想されたとなる
でも意外だったとしているのはロシアの本質を見誤ったとなる
ロシアの国の本質は変わらなかった、西欧化しないものがあり何か強固な土着性が残っている、それは広大な森林地帯とか土地があるということなのである
森が境界となるときそれはヨ−ロッパでもそうだった、ウクライナでもキエフの近くに広大な森が見えた
大都会の近くに広大な森があり百キロ離れたチェルノブエリノブエリは原発事故でその広大な森に埋もれたのである
そこにヘラジカとか狼が棲むようになった、それはこの辺では原発事故で猿やイノシシが空家まで侵入してきたのと似ている
広大な森が境界にもなる、なぜなら相馬藩でも原発があった大熊辺りは森が覆っていたからである
それで殿様の森ということで余の森ー夜の森となったのである

いづれにしろ大陸国家を知るには遊牧民を知ることである、でもそういう人達を身近にみていないかった日本人には理解しにくいのである、イスラエルも実際は遊牧民国家であった、今では半分は砂漠でありラクダを泊める隊商宿もある
キリストも遊牧民の末裔である、第一アブラハムは神の命令でどこに行くとういのでもない、イスラエルに向かい祖となったのである、そういうふうに常に移動する民族なのである、出エジプトでも必ず異民族と出合い戦いとなる
だから遊牧民というのは農耕民のように定着しないのである、その心性は定着する農耕民から見ると理解しにくいのである
とにかく大陸国家では中国でもそうだが遊牧民に侵略される恐怖があった
それで万里長城が作られた、遊牧民は絶えず移動するからその移動することが常に戦争ともなっていた

大量の人間が移動することはそこに衝突があり戦争にもなる、だから領土が国が日本の島国のように安定して同じということがない、領土は常に縮小したり拡大したりする、ウクライナでもボーランドの一部だったとかともなっいる
言語の相違があっても共通な面もある、国境は不変ではない、常に大陸国家の興亡で変化しているのである
それで今回のロシアのウクライナ侵攻でかえって反撃されてロシアは縮小してさらに小国化するとされる
ただまたロシアは広大な土地がありそこからまた蘇るともしている
それで経済でも意外としぶとくそれほど経済封鎖してももちこたえていて影響しないというのもそうである
要するにロシアの広大な地理とか風土を簡単に理解できないためロシア自体を理解できないとなっているのである
世界を知るには地理を知ることだがこれが簡単にわからないのである
そこから誤解が生れるしロシアとは何なのかロシア人となになのかとなり戸惑うのである

地政学の逆襲ーロバート・D・カプラン

これはわかりやすい、ロシアのことも今回のウクライナ侵攻も予測していた、地理の宿命としてそうなるとして予測していたのである

夜ノ森以北は炭田・鉱泉地帯ではなかった地域である。1896年4月1日に双葉郡が成立する前は、夜ノ森を境にして南が楢葉郡、北が標葉郡(しねはぐん、しめはぐん)であった。戦国時代には岩城氏領(南)と相馬氏領(北)の境であり、江戸時代には磐城平藩(南)と中村藩(北)の境であった

言葉は相馬藩では新地が伊達藩だから仙台弁にもなるが他なっていない、磐城とどう言葉が違うかわからない
posted by 老鶯 at 09:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年05月08日

ヤングケアラーの悲惨 (貴重な時間が奪われることが最大の損失)


ヤングケアラーの悲惨

(貴重な時間が奪われることが最大の損失)

NHKでヤングケアラーのことを放送していた、それも小学生とか30年も介護していたとか驚く、そんな人がいるのかと見てこれは悲劇だと思った
これこそ親ガチャだと思った、親のために一省台無しにされたとも見た
そうは言わなくても自分の人生なんだったのだと必ず後悔する
親のために尽くして親のために生きたとなる

ただそういうことは戦前とかだと親のために子供が働かせられていた、貧乏な国では子供が働き手として産んでいた、そういう社会だったのである
子供が親のために働く犠牲になるともなる、貧乏だとそうなりやすい
別に私の子供時代でも何か変なのだけど店の配達とか店の手伝いとか卵買いとかさせられていた、親が酒屋の丁稚だったので私も丁稚のようにされたともなる

そういうことは農家でもあり子供が親の仕事を手伝うのが普通だったのである
そういう社会だと親でも子供を産んだ方がいいともなる
今の社会は子供のために親が犠牲になるとなるから子供を産み育てるのも嫌だとなる
だから今度はそういう時代になると子供は親のために働き孝行するのが普通だったのに
子供のために働かせられ尽くすだけだとなり不満になり子供いらないとなり少子化にもなったのかとみる

でもそもそも生物としては親は子をうむために犠牲になる、鮭でも子を産むために必死で川を上り子を産むと死んでゆく、それは生物を維持するための本能である
子供のために犠牲になるのが生物の本能なのである
そうしなければ子孫を残せないからである

だから親のためにまた老人のために若者が犠牲になる社会は生物としては異常だとなる
これだけの高齢化社会と人類史でも経験していないのである
それでどう見るかは初めてのことなので何とも言えないのである
これまでの人間の歴史ではみんな平均寿命が長いのであんまり介護とかもなかったもしれない、ただあったとしても介護期間でもあまり手厚い治療をしないから早く死んでいたと思う、ただ若くても病気になり介護していた人はいた
老人をこんなに介護する時代はなかったと思う

小学生から40年間親の介護していたとかなると信じられないとなる、もう人生が親の介護だったというのも悲劇である、その人は自らも病気になったことがわかる
私も認知症の家族を介護士てうつ病になったからである、なんらか精神的にもおかしくなるだろう、それで普通に暮らしている人達をみてこういう暮らしがあるんだというのもわかる、何か介護というのは狭い所で人間関係もなく介護する人とされる人が閉ざされた空間で過ごすことになるからだ
それは牢獄のように感じたのである、私のように旅ばかりして自由に過ごした人には特にそうである、ただそんなに若い時から介護していた人はそういうのが人生だとなるほかなかったのかもしれない、とにかくこうして親ガチャとか親のために人生を失うということが結構多いのである、なぜなら素直であればあるほど親に尽くすことが当然のように思えるからである、また他にする人がいないからそうなってしまった

とにかく人間にとって一番大事なのは時間である、それも若い時貴重な時間を奪われることは悲劇である、そうしたら老人になって親を恨むことがある、親のために自分の人生が犠牲にされたとふりかえるからである、ただ他でも親のために自分の人生を奪われることがある、親がカルト宗教団体に入っている人は素直だと全く洗脳されて染まり一生をそのために終わる人がいた、その人はそれ以外の人生など考えることもできなかった
だから親の影響は本当に大きいのである
親によって人生をだいなしにされることは悲劇である

私が特別親に感謝しているのやりたいことをやらせてくれたからである
大学出ても就職もしないで自由に生かしてくれた、やりたいことをやらせてくれた
その後も30年間引きこもりでも自由にやりたいことをふらせてくれたのである
だから介護になっても必死で介護したのである
でもヤングケアラーは自分のやりたいこもやれない、介護の牢獄のようにな状態で40年間も過ごしたとなるのは異常である、そして自分自身も病気に成っているというのも悲劇である、なぜそうなのか、それは時間は取り戻せない、青春時代も取りもどせいないからだ

人間というのはその時その場でやるべきことをしないとあとはできない、時間は取り戻せないのである、もう一回やり直すこともできないのである
これが人生にとってショックだとなる、親がどうのこうのと言っても結局お前の人生はお前の責任であったとしかならないのである
でもそうならざるをえなかったというのは悲劇である、もちろんその経験が無駄とはならない、なぜなら人間は何でも経験が大事だから経験しかから本当のことは学べないからである、そしてそれぞれの経験することもごくわずかなのである
あらゆる経験など人間にはできないのである
だからどんな経験貴重なのである、介護であれ引きこもりでもそうなのである
それも一つの経験だからである

ただ人間の時間は極限られている、たちまち時間は消失する、また体力でもなくなる
そうすると体力あるうちに山登りでも自転車旅行でもなんでもきついことはしていた方がいいとなる、後はできなくなるからだ
それびヒマラヤに一回だけ行ってみたが曇って見えなかったのでもう一回見たいとなるが見ることができないのである、体力的にできなくなったからである
だからそうした貴重な時間が消失してゆく、ヒマラヤを見ることは本当に感動だからである、他のことでもそうである、それで私は50歳からバックパッカーになって世界旅行したことが良かったとつくづく思う
もう海外旅行もできないと思ったからである、それだけの気力もなくなったとなる
特に介護は体力だけではない、精神力も消耗するなと思った
牢獄に閉ざされた中で極めて狭い世界で生きることになる、常に介護は介護する人から離れられないからである、だから牢獄に閉ざれた感覚になったのである

ヤングケアラーが相談する人がいない相談しないというとき誰も親身になってかかわる人はいないからである、そういう人とはかかわりたくないのである
かかわるとしたらやはりその人も犠牲になるからだ、そして金だけは欲しいとなるのであるお前を助けるけどその前に金をくれとかなっていたのである
つまり介護では親身になる人はいない、それは自分の場合はカルマだった
だから自業自得だと思ってしていた、それはもう60歳にもなっていたのだから不満も言えなかったのである
私にとって介護は最後は親に感謝されたから報われたとなる
それでもともと特別良くされたから今でも手厚く供養しているのである
でも他の人はヤングケアラ―などは全く違っている、あまりにも過酷であり親を恨んでもしょうがいなとなる

ただこういうことも高齢化社会とか介護社会で産まれたのかともみる、ただ放送では
若い母親が病気になったのであり老人の親の介護とはまた違っていた
でも介護する人は今は家族でも核家族とか少人数だからできる人がなくそうなった
とにかく現代はなんらかで介護の問題をかかえる、それは親が長生きでありまた簡単には病気になっても死なないからである、そこで孝行したい時は親はなしとはならない
必ず親に孝行を強いられる、最後に介護させられるのが運命だとなる
それから逃れることはできないのである、でもまた今は戦前のように親のために子供が犠牲になる訳てはない、親が犠牲になるような時代である
でも最後に親に孝行が強いられる時代だとなる

私は叔父にあたる人が病気になり輸血してくれと30頃言われた、でも断った、なぜなら私はその時登山して死ぬほど疲れていたからである
それで断った、でもそうして登山して良かったと思う、体力がないのですぐに登山はできなくなったからである、ただそのことでその娘にも恨まれてもいいものとなり叔父も私を恨んで死んだとなる介護の時冷たくされても当然だとも思った、でもその娘は異常であり育ての親を捨てた
突然病気になった死んだ育ての親が私に「ひどい娘だわ」と私に言い残して死んだのである、だから自分だったらしょうがないがなぜそうなったのか異常であり非情だとなる

高齢化社会と介護は切り離せない、でもその負担が大きすぎる、それを若い人がするのはあまりにも過酷だとなる、どうしてもそういう人は親を恨むようになからこれも悲惨である、親にとっても子供にとってもいいことはない、時間が貴重であり若い時は束の間であり二度と戻ってこないからである
でも祖を強いられるから悲劇だとなる、それを償うものがあるのか?
確かに早い時期に何か介護して他の人より大人びるかもしれない、でも若い時期は短いしあの時こういうことができていたのになと痛恨の悔悟になるかもしれない
なぜなら人生は二度とないからである、あの時こうしていれば良かったといっても
二度とその時は帰ってこないからである、それは報われないとなるから悲劇である

2022年05月10日

夏の日に相馬市から新地の花木山ガーデンに (途中骨董店による・・相馬焼きの話しなど・・)


夏の日に相馬市から新地の花木山ガーデンに

(途中骨董店による・・相馬焼きの話しなど・・)

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城跡の藤の花
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城跡にシャガの花が咲いていたし新地にも結構咲いていた


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槻木駅などがあるから同じようなものか?

新地花木山ガーデン

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利休梅


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相馬市六号線の骨董店

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この急須と湯のみが十四代も使われたという、だから5万とか値をつけている
これが水分が減って乾いたために軽くなっている
陶器が磁器と違うからそういうことになる、土だからそうなる
そういうことも意外である、ただそれだけ年月が過ぎれば何か変わることは確かである

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天皇の菊の紋があり金箔がある、高貴な感じになっている
デザイン的に優れている、でも小さいから御菓子など置くにはいいかもしれない

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ここは着物店なのか? この蔵にはお宝があるのか、牡丹が似合っていた



馬走り自転車は知る青葉風

相馬市に我が入り行く菖蒲かな

長々と木陰の道や藤の花

藤垂れて暇(いとま)のあれや昼の月

海の風海浜公園夏雲雀

散り残る利休梅見る小径かな

森暗し影なす道にシャガの花

影深し大槻神社にシャガの花

城跡や草深しもシャガの花

城下町紫色に暮れるかな


駅前の花壇に赤のチューリップ次に黄色の咲きて燕とぶかな

広々と大海開け夏の日や牡鹿半島金華山見ゆ

山々の新緑に映え海開け牡鹿半島金華山見ゆ

ガーデンに珍しき花夏の日や新たに見ゆる花にしあるかな

黒橋を上れる人の二三人若葉茂れる木の袂(たもと)に見ゆ

城跡に藤の花あまた垂れにけり白きつつじも映えてひそまる

喫茶店藤の花垂れ一時を休みて静か城下町かな

城下町辻を曲がりて職人の家あり伝ゆ技のあるべし

十四代使いし茶碗とその色の心にしみぬ謂れを聞きて

城下町夕暮れ帰る紫の牡丹の咲きて大き蔵かな




花木山ガーデンからの眺めは最高てある、広々と海が開け牡鹿半島と金華山が近くに見える、ただ正直ガーデンそのものはものたりない、でもそのために300円とる
それは花を見るというよりあの広大な景色を見るためにも払うとなる
やはり眺めのいいところにある喫茶店でもあれレストランであれ価値がある
あそこの眺めは特別である
新地は海が近く見えるのである、相馬市でも鹿島でも原町でも海は結構遠いのである
新地は庭の前が海が見えるという感覚になる、それで巨人が手を伸ばして貝をとって食べていたという伝説がある、現実に海が縄文時代には入りこんでいたのでそれは事実である貝塚がそれを物語っている、貝を食べて捨てた場所だからである
海から離れていてもかなり近いからである

今は藤の花の季節である、藤の花と似合っているのは相馬市なのである
なぜなら城下町だからである、何か何もないようでやはり歴史がありそうした雰囲気を出しているのである、相馬市が街作りとして良かったのは役所も入母屋作りにして落ち着いたものにしたことである、高いビルがないこともいい、でも新しくできた田町通りは城下町の雰囲気とそぐわないという感じにもなる、ただあそこにある大きな柳の木は合っている
相馬市というとき紫の菖蒲が入り口に咲きそして藤の花が垂れ咲いている
中村喫茶店の脇の藤棚がそうである

六号線で骨董屋があるので入ってみた、ほとんど茶碗だった、相馬焼きのことで語ったがその主人は女性でありそれなりに知っている、そもそも骨董屋というとき歴史もかかわるし美的鑑識眼も必要である、だからこれも結構才能がないとやれないかもしれない
ただスーパーのように物を売っていると違う、その品物についての由緒とかを語らねばならないからだ
テレビのお宝発見だと書画骨董でもそれが本物なのか偽物なのか見分けるのはむずかしい絵でも鑑賞することができないからである
でもどれがいいものなのか簡単に分からなのである
そもそも芸術とかなると鑑賞すること自体がむずかしいのである

まず本当に高価な価値あるものは見つからないだろう、だから十四代も使い続けられたという茶碗とか急須となると相当に価値がある、それで五万の根をつけた
でもその価値が解かるのかとなるとわからないとなる
ただわかるのは十四代をも使われたことで価値があるとなる
そこにその茶碗の歴史がある、茶碗通じて受け継がれたものがある
相馬駒焼きを受け継いだ人は死んだと言っていた、前ら浪江にあった相馬大堀焼になっていた、相馬焼きは江戸時代からのものでそれが古いのでその技を教えに各地に行っていたのである、だから相馬焼きには価値がある
ただ馬の絵で年代がわかるという、でもそれを見分けるのはむずかしい
この馬の絵を相馬焼きに教えたのは外から来た人だとしている
つまり何かアイディアとは意外と外の人が与えることが結構ある
そこにもともと住んでいる人が気づかないことがあるからだ
だから外部の人の話をとかも聞く必要があるのだ

いづれにしろどんな職業でもプロになるのは容易ではない、第一農業自体がむずかしい
土のこととか肥料のこととか花でも育てるのがむずかしい
だから花屋も相当に知識と経験がないとできない、要するに料理でもそうだがなんでも
プロになるには相当な熟練と経験と知識が必要になる
骨董屋となると意外とこれはただ物として売るものではない、そのいわれや歴史や美的な
鑑賞力も必要になる、そうするとそれらをみんな備えることはできないともなる
でも骨董屋はただ売る商売ではないと見た、その品物にまつわるもの、いわれや歴史でも知らないと売れないと見たのである
ただその骨董屋も城下町内にあれば合っている、六号線だと城下町からはずれているからだ、城下町内にあるのがふさわしいとなる、でもそうなると地代とか高くなるからと言っていた