2022年04月10日

人間に起きることはカルマが関係している (個々人でも国民でもカルマをもち苦しみとなる―解消できないカルマ)


人間に起きることはカルマが関係している

(個々人でも国民でもカルマをもち苦しみとなる―解消できないカルマ)

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シーシュポスの岩


カルマというとき個々人でもあるし家族単位でもある狭い地域でもある
大きくは国家レベルでもある
なぜ今自分自身がカルマと自覚したのは家族でも母でも全部死んでから家事でも全部自分一人ですることになったことである
私は60歳まで家事でも全部家族がしてくれたのである、だからいつも料理は出されていたし家事はする必要なかったのである
でも私自身はそれが当たり前だと思っていたのである
それは特別恵まれた結果としてそうなっていたのである

今自分が必ず自分自身一人で料理を作り食べている、その時どうしてもたりないものがあり台所まで食事の途中でも立ってゆくするとゆっくり食事ができないのである
それで今まで母でも食事を作りだしてくれていたことは特別恵まれた結果だと思うようになった
そして母は店をしていたときお客さんが食事中に来て必ず立っていた
ゆっくり食事できないし自分自身もそのことが嫌だったのである
食事のときくらいゆっくり家族で食事したいとなるからだ

ただそのことが母のことが自分自身のカルマとなっていたのである
それは食事中に必ず立ってたりないものを運ぶことになったからである
つまりゆっくり食事ができないともなっているからだ
母は私の家では女中のように働くだけだったのである
若い時は現実に東京の方に行って女中をしていたからである
それで花でも何か興味もなく働く詰めの一生だったとなる

人間はつくづくこうして誰でもカルマを背負っているしそれが現実となり苦しみとなってそのカルマを自覚するのである
これは本当に自分自身のカルマだった、また母が後妻に来て自分の家で連れ子の兄は良くされなかった、ただでは自分自身が全部それでよかったかとなると最後に家族の介護で死ぬほど苦しんだのである
それもカルマだったのである、その時誰も頼ることもできなくなっていたからである
それで親の介護のとき一倍お前はかわいがられたのだから介護しろと兄弟に言われるというのもわかる、カルマとはそういうことなのである、
兄弟でも親から平等に愛されると限らないからである

カルマの不思議はその家族は両親があっても父親が若い時から病気であり障害者のようになっていた、それで母は大変な苦労をしていた
でもその娘が結婚した相手は技術者で頭が良くて給料も良かったのである
でもそれが最後に実際は事業に失敗していたのである
すると娘も夫の事業の失敗で借金とかで苦しむ、つまりここでもカルマが苦しみとなって現れたのである
そういうことが身近でこれは何なのだろうとなるとカルマだと実感する

ただ全部があてはまることはない、その家の両親は本当にいい人だったのである
正直実直だったのである、でも息子は全く出鱈目であり誰からも嫌がられていた
最近死んだ、そして誰も惜しんでくれる人はいない
なぜなら息子がいても自殺していたからである、でもなぜそうなったのか?
その両親がそんなにいい人でもそうなるからその理由がわからないとなる
他にも創価でも他の宗教団体でもそういう人をまじかで見ているとわかるだろう
近くで若いの息子が病気で早死にして母親もすぐに死んだとかある
そういう不幸な人は別に宗教団体でもいくらでもいるし実際に見ているのである
呪われてたたられているのかと思う人がいくらでもいるのである

カルマは集団で解決しない、なぜなら個々人でも家族でも負っているカルマは違っている全部同じカルマではないし、それはそれぞれが負い苦しむことで解消するからだ
みんなであなたのカルマを解消してあげますよとか言ってもできないのである
カルマは個々人苦しみ自覚して解消するからである
つまり個々人が負っているのでありそれは他の人が代わってそのカルマを負い解消できないからできないからである
むしろ集団に入ると集団がもったカルマで負わされることにもなるのだ
何かいいことばかり期待して入るとそうなるのである
つまりそうした宗教団体でもカルマを団体的に背負っているから集積されるからそうなる

カルマは苦しまない限り解消しない、また苦しまないと自覚できないのである
だから自分のようになぜ食事もゆっくりできないのだろうと考えた
そしたら母がまさにそうして働き尽くしていたことをふりかえりこれはカルマだと自覚したのである
おそらくどんな家でも家族でもカルマを背負っている、今いいように見えてもカルマは必ず苦しみとなって現れる、そして長男長女がその苦しみを負うことになる
家族のカルマを一身に背負うのは長男長女になるからだ

結局人間は誰しもカルマから逃れられない、逃れようとして宗教団体に入ってもカルマから逃れられない、カルマを解消するには自ら苦しみまた他者に善行をほどこすとかするほかないのである
カルマは個々人でも家族でもそうだが国家でもカルマを背負っている
なぜロシアが日本でも良く思わないかというと戦争の時、どさくさまぎれに北方四島とかを奪ったりシベリアは抑留とかありロシアは日本と戦争しなくても漁夫の利を得た
そういうことでロシアは言い分があっても日本は今回の戦争でもロシアの悪辣さを非情さを批判する、それは確かに一方的な見方でも結局過去にしてきたロシアの悪行があり
カルマがありそれで良く見ないのである

ただアメリカに原爆落とされて日本は悲惨なものとなった、ではなぜアメリカを恨まないのかとなる、それはおそらくアメリカ人は戦争の後でも日本を経済的援助したり良くしたりしたからかもしれない、そしてその時はアメリカ人も相当に死んで血を流している
ロシア人は争わずして死ぬこともなくただいいとこどりになっただけだからである
でもそういうことがカルマになって過去の行為(カルマ)があり日本人はロシアを良く見ないのである
だから歴史でも国家レベルでもカルマが関係しているのである
昔はあいつはあいうことをした、あいつは悪い奴だとなり過去のことが尾を引いている
それは個々人レベルでも国家レベルでもそうである
でも国花レベルになると人道とか関係なくなり力で他国の土地を奪っても英雄になったりする、プーチンでも英雄になる、人殺しでも正当化されるのである
それで権力者とは大盗だというのもわかる、中国では現実にそうだったからである
盗賊が皇帝に実際になっていたからである

いづれにしろ人間のカルマは苦しまないとそもそも自覚できない、でも苦しむことで自覚して苦しむことによってカルマが解消するとなる
でもシジフォスの神話のように転がり落ちてくる岩を延々と持ち上げてもまた落ちてきて延々と持ち上げては転がり落ちて持ち上げる、それもカルマなのである
それは怠けていた結果として何か有益なこともしなかったのでそれでそうしたカルマを負わされたともなる、そしてそれが尽きることなくつづけさせられる
カルマが簡単に解消しないのである
人間はこうして何らかみんな罪業をカルマを負っていてそのことで苦しむ
この辺の原発事故もカルマであり放射性物質のプルトニウムが毒となり二万年消えないというときそうである、故郷にも住めなくなったのである
これこそがまさにカルマでありカルマは簡単に解消しないのである

カルマというとき戦争というのも人間からなくならない、それはウクライナ戦争でわかった、現代にあれだけの殺戮が破壊が行われるのをまざまざと見たからだ
実際にベトナム戦争からイラク戦争からアフガニスタン戦争からと戦争は継続されていたのである、だから人類から戦争がなくなることがない、それが証明されたのである
戦争も人間のカルマなのである、人類がつづくかぎり戦争は終わらない、終わるとしたら核戦争がありハルマゲドンがあり人類滅亡してカルマが解消するのである
それが人間の現実なのである





2022年04月11日

鉄道の駅では時刻表も廃止ー時計もゴミ箱も置かない (多くのローカル線は廃止されてゆくー個人でボランティアできない)


鉄道の駅では時刻表も廃止ー時計もゴミ箱も置かない

(多くのローカル線は廃止されてゆくー個人でボランティアできない)


公共交通機関で無料配布していた紙の時刻表を廃止する動きが相次いでいる。インターネットの普及が主な理由だが、新型コロナウイルス感染拡大による公共交通機関の利用者減少で廃棄が増えたことも要因だ。高齢者を中心に存続を求める声もあり、行政が代わりに発行する動きもある。

  「紙時刻表の配布終了について」。JR新潟駅前にある新潟交通(新潟市中央区)のバス案内所窓口にはこうしたお知らせが貼られている。

  同社は年2回のダイヤ改正ごとにA3判の時刻表1万部を発行していたが、昨年11月のダイヤ改正からやめた。代わりにネットの時刻表などを利用するよう呼びかけている。

  新潟市中央区の無職女性(73)はバスターミナルに貼られた時刻表をスマートフォンで撮影しながら、「不慣れで時刻表のサイトを開くことができない。紙の方が見やすかったんだけど……」とため息をついた。

  同社が紙の時刻表を廃止したのは、経営改善の観点からだ。新型コロナの影響で業績が悪化し、市から2億5000万円の財政支援を受けるなど厳しい経営状況が続く。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a81196c6625b498310cbb0947e8e1c64fa0eb301



今日も駅にたちよった、そしたらスマホを見て何か探している人がいた
それで聞いてみた、名古屋にあるセントレア空港に行くのだが電車の時間が一時間半くらいあとになる、それでた早く行きたいので困ったと言っていた
それでタクシーで行くとかいったが金がかかりすぎると言った

この前も女性二人が下りて次の電車が来ないので待っていられなくなり原町まで歩いて行くところだったが雨がぽつぽつとふってきて引き返してきた
その人もタクシー利用するとか言っていた
今確かに地震の影響があり時間通りに来ないとか本数が少ない
前は一時間置きには来ていたのである、それも影響しているがそもそも一時間置きでも外から来るとなると本数が少ないのである

結構仙台空港を利用する人がいる、今ならその方が早いからである
新幹線にしても四時間とかかるとなると一時間くらいなると早いのである
つまり電車でもこうして飛行機時代になると飛行場と鉄道が結びつくと利用者が増える
そのために仙台市から直通の仙台空港行きの路線ができたので便利である

とにかく鉄道はローカル線は維持できるのか、廃止になる路線が多くなる
終に時計までもゴミ箱までも撤去された
そして時刻表も置かないとなった、前は小さなものだが小冊子のようなボケっとに入るような時刻表を出していた、それもやめた

私はボランティアで時刻表を作って駅に置いた!

でも駅長から断れられた、もう駅に出入り禁止になるくらいになって現実そうなった
なぜなら怪しいとして今度は回りの人が警察に連絡して人が大勢いたときにイベントがあったときに職務質問されたからである
またお前は何しているのだと客から案内したりしたらそんなことをするなと怒った人もいた、それから自分がホームのゴミ箱にゴミを捨てていたが監視カメラで見ていて駅長からホームに入るな言われた
こういうことで駅にはかかわらないことにしたのだがただ慎重に軽く駅の外で何か困っているから聞いたのである
今は別に高校生の見守り役がいるから聞けるが昼間は一時誰もいない

ともかくなぜ鉄道の駅が無人化してあらゆるサービスがゴミ箱もなくなり時計もなくなり時刻表もなくなる、それは結局鉄道に乗る人が減り続けているからである
だから廃止路線が増えてきる、経営できなくなっている
車時代になると鉄道を利用しないから乗り方すらわからない人が多いのである
それだけ鉄道は利用しなくなったということである
でも老人になって今度は車に乗れない人が免許を返納した80歳くらいの人が鉄道を利用するとなる、でも時刻表を今度はスマホで見ろとかそれもできないとなると不便になる
時刻表すら配れない時代になったのである
また勝手にこうしたもの駅に置いて配ることはできない、それがJRで置いたものとなり時間が間違ったりすると客から苦情がくるからである
それで駅長に無料で置いても断られたのである

ボランティアは勝手に個人ではできない!

これは肝に命じるべきである、社会にはそれぞれ組織でしていてそういう中に勝手に入ることはできない、つまりボランティアはそれなりに組織化して自治体でも公共的に許可されないとできない、それで退職した人がボランティアで何か問題がありかかわったが
裁判沙汰にもなってのである
20人くらいで組織化して社会から承認されないとできないのである
だからかなり何か教えるにしても慎重にしないと回りからあいつは何しているのかとなり警察が来たりするから注意すべきである
むしろボランティアは個人ではできないのだからするべきではないとなる
ただちょっとかかわるくらいならいいだろう
でもまた駅では監視カメラで見ているから注意である、何か善意でしていていてもJRとか市とかの許可ないとできないと見るべきである

その人は困っていたがちょうと車の人が名取まで行くとなり乗せてもらったのである
これは本当にラッキーだった、こういう親切は助かるしいいものなのである
また高校生の見守り役も中国人が困っていて隣の原町駅に車で乗せてくれて行けた
でも駅で個人的にかかわることは危険である
結局鉄道の時間は一時間置きでも不便だからそうなっているのである

とにかく何か私はこうしてもともと鉄道の旅が長いし鉄道マニアにもなった
それで実際に無人駅にかかわり案内したりしたことはいい経験だったのである
まず人間は仕事がいろいろあっても簡単に仕事はできない
ボランティアでもできない、ただボランティアでもどうしたらできるのか?
それはこの辺で起きた大地震の被害のためにDRTが駆けつけた、これはボランティアでも財団が運営してプロ集団だった、重機も持ってきたし屋根の上にのぼって仕事をしていた
それができたのは仕事のプロがしていて危険な仕事もできるからである
こういうボランティアとなると全然違ったものである
地震の被害でも個人で行って何か手伝いましょうとか言っても受け入れないだろう
ただ自治体で窓口を用意して認められればできる

いづれにしろいくら善意があってもボランティアは簡単にできないことを知るべきである
それが本当に警官が来て怪しいとかなり裁判沙汰にもなるからである
だからボランティアをしたかったら20人くらいでも組織化しないとできない
個々人ではできないようになっている、特に災害のボランティアは危険にもなるから本当はプロ集団でないとできないと知るべきである

ただなぜ無人駅が問題になるのか?

それは駅だと何かわからないことがあり困ることがある、すると何らか教えてもらう人が必要になる、でも高速道路のSAでは困る人がいないのである
掃除する人がいても金を払っている、それだけ人が来るから金が払うことができる
鉄道ではそれができなくなっているのである
だから外のトイレは南相馬市で作り掃除は毎日しているがそれは障害者団体の人に金をはらってさせているのである
JRだけではもうそうした費用を払う余裕がなくなっているからである
だからいづれは採算がとれない路線は廃止されてゆく
もし維持しようとしたら自治体でその費用を払わざるをいなくなるだろう
ただ飛行機の場合、飛行場までアクセスするのには必要だとなる

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DRTが作ったプレハブ小屋

ここはプレハブでも二つくらい作り仕事がプロでありボランティアというらり政府から派遣された人たちにも見える
一種の自衛隊のようにも見えた、ボランティアに見えなかった

桜はすでに満開になった (桜についてのエッセイ・・・)


桜はすでに満開になった

(桜についてのエッセイ・・・)

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桜と風ー平泉―高館の桜

抽象画は何をイメージしていいのかわからないがここでは義経堂の桜をイメージした
というのは私自身が訪ねたとき、夕べ風が荒れてふきつけ桜がゆれて咲いていたのである
波乱の一生だった義経にふさわしいと思ったのである



日永きや道真っすぐに遠くへと

街中の通りを飛ぶや燕来る

前畑を耕す女や春の暮


ひとしきり梅はにおいて散りにけりその余韻の深く我が住む里かな

一分咲きたちまち桜満開や時の移りのかくも早しも

そちこちに夕べ桜や里めぐり誰か住みなむ灯のともるかな

春の日や我が家のこと知る人あり語りて偲ぶ母と姉とを



夕方相馬市の方へ行って途中でラーメンを食べた、自分はラーメンはあまり食べない
相馬市の道の駅の前の方でラーメンを食べて帰ってきた
相馬市の方はまだ二分咲きくらいの桜があった
原町は一昨日でも満開だった、鹿島は今日は満開である
桜は年により咲き方が違う、今日は急に暑くなったから満開にもなった
桜は桜前線がありやはり徐々に日本列島を北上してゆく
それも原町と鹿島と相馬市でも咲く時期が微妙に違うと思った

桜前線というとき私は北海道まで旅して6月に稚内で桜を咲くのを見たである
桜前線はそれだけ日本列島を北上して咲くのである
ある時は青春十八切符で瀬戸内海の方まで行き下関から韓国に渡り韓国の古都の慶州まで行った、その時慶州にも桜並木があり咲いていたのである
ただどういうわけか盛岡とかの桜はまだ見ていない、弘前の桜は見たのである
桜はいくら暇でも見ようとしても見れない、なぜなら桜は無数にあり咲く時期が二週間とか短いから散ってしまうから見れないのである

それで白石の千本桜を自転車で見に行った時、すべて散っていたのである
その散っていたことになんともいえぬものを感じた
はるばる苦労してきたのに桜はすべて散っていたからである
それは芭蕉が奥の細道で「五月雨の降り残してや光堂」という感懐と通じるものがあったはるばるみちのくの平泉まで来て雨がふりしとる中に光堂のみが残っていたことであるここに空間軸と時間軸で感じるものがあったとなる
その時すでに鎌倉時代から400年以上過ぎていたからである
みちのくという未知の遠く離れた所とそして400年という時間が過ぎたことで感じて作られた句なのである
これが新幹線で三時間くらいで来たとしたらとてもこんなふうには感じないのである
だから時代が作ったものであり今では作れないから価値が衰えないのである
古典はそうしてもうその時代でしか作れないものがあるから価値が衰えることがないのである

高館の義経堂や風荒れて夕べしきりに桜ゆれさく

この時風が荒く吹いていたのである、それで印象に残ったのである

今日自分の姉と母のことを知っている人とあった、意外と死んでから知っている人とは逢わない、その女性は店をしているとき豆腐を下ろしていたのである
だから意外とずっと前のことまで知っていた、私の子供の時から知っていたというのは意外である、なんか人間は昔のことになると人でもわからなくなる
でも私の姉と母のことを知っていた人がいたのでなつかしかったとなる
死んだ人は忘れやすい、語られることもなくなる、あれだけ近くの医者のことは常にみんな話題にしたけどその人が死んでもう誰も語らないということが不思議なのである
人間は本当に死ぬとたちまち忘れられる、そんな人いたのかとまでなる
これも無常なのである

桜咲く道に出合いて我が家の姉と母とを知る女〈ヒト)と語る

とにかくこの町でともに生きたということで連帯感を感じる、ただ今はもうそういう連帯感もない、それは自分自身の問題があってそうなってもいる
何かこの土地でともに生きたということが感じない、でも昔の村だったら本当に村人は一家族のようになって生活していたとなる
すると年老いてどうなるのか?ともにこの村で生きて来たなという連帯を感じる
それで墓地でも墓がなくてもホトケッポという共同墓地に埋められた、そこには個人の墓も家族の墓もないのである
ただ今はその土地に深い思いがない時代でもある、村人というより会社人間になったとき会社で共に働いたなということでふりかえる、でも会社は村とは違っている
村とは自然とも一体となった深いつながりがある共同体である
会社は自然とは結びつかない、社会の一部としてある
村は自然とも一体化して存在した、だから祖先は山にいるとかなる、その祖先が春には里に下ってくる、そういう感覚は農耕社会の村に自ずと生まれたものである

ともかく祖先でもそこで生きた土地から離れずにあるというのが農耕社会なのである
遊牧民社会だったらそういうことはない、常に移動するからないのである
そしてこの世では異邦人だというときいろいろな民族が混交しているからそうなる
正に民族が違って異邦人になりやすいのである,ユダヤ人は国を持たないからどこに行っても異邦人になっていたのある
ただ日本だってこの世にいるのは一時だということをつくづく感じる
旅して一時泊まる仮の住いとかなる、いづれもう死ぬともなるとそうである
人間の出合いでも一時逢うだけでありもう永遠に逢わないのである

あなたと会いましたね、後は永遠に逢うことはありませんとなる、これが老人になれば現実なのである
何か人間の出合い出も瞬間的にもなる、この世にいつまでもいる普通思っているがこの世とは去る場所であり留まる場所ではなかったのである
結局人間はこの世から消えてゆくものにすぎないのである、最後はこの世にいるは一時だったとなる、そんなに短いのかとなるとそれを老人になれば誰でも実感するのである

日はかなり長くなった、ラーメンを食べて道は薄暗くなったが明るい
こうなると遠くへ行きたいとなる、でも今日のように暑いと自分は熱中症になるから怖いそれで去年だったか春に暑く遠くへ自転車で行ったら熱中症になり痙攣起こして危険だったのである、それでこりたから暑い時は警戒するようになった
こたれもやはり歳とったということである
ただこんなに春にまた暑くなることはなかったように思える
4、5月とはこんなに暑くならずあたたかくでもこんな陽気にはならなかった
それで自転車で遠出できたのである





2022年04月12日

桜と山鳩のの写真(Cherry blossom photos)


桜と山鳩のの写真(Cherry blossom photos)

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母と子がいる

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背景の樹は桜ではないけど桜に見える

真野川の堤防の道の桜はいい、写真を撮ったが必ずしもうまくとれていない、写真はやはり大きくして見ないと見映えがしない
ブラウザではどういうわけか自分の場あい、firefoxでしか写真とか拡大して見えないのである



母と子や堤防の道夕桜

山鳩の番いの写真はうまくとれた、背景は桜ではないが桜に見える
このように山鳩の番だといいのだが人間だととにかく離婚が多いのである
私が接した人は本当に離婚した人が多い、人間はそれだけ男女でもうまくいかないのである
三分の一は離婚している、熟年離婚も多いのである
人間社会には常に争いがあり平和がないのである




2022年04月13日

家事と機械と買い物 (機械の操作に追われる現代社会)


家事と機械と買い物

(機械の操作に追われる現代社会)

家事というのは相当に年期を経ないとできない、それが意外と広範囲になっているからだ特に料理はできない、十年していてもできない、それはすでに能力であり天賦の才とかないとできない、そして時間がかかりすぎるのである
用意するものが広範囲だからできない、そして何を買ったのか冷蔵庫にあるものを忘れて失敗している、結局人間はいろいろなことに頭が回らないのである
プログに記事を出すだけでも手間なのである

そしてわかったことは家事でも何でも今は機械と深く関係している
いい道具を機械を買うとそれで相当に助かる、でもいい機械を道具を使わないとうまくいかない
その一つが蒸し器だった、大きな蒸し器を買ったがそれが長く時間がかかりすぎていたのである、でも今回の安いものでは三分の一くらいに時間が短縮されていたのである
だからこれを長く使っていたのが失敗だった、時間の無駄だったとなる
料理をするにもやはり道具に左右されている
いかに機械を使いこなすかとで料理でも家事でも相当に違ったものになるし手間がはぶける

なぜ今そうなっいるのかというと戦前辺りは家事は手間だから東京の中産階級でも女中を二人雇っていたとかなる、なぜそうなのかとなるとそれだけ家事は手間だったのである
洗濯機がないから洗濯板でごしごし手で洗っていればそうなる
でも今なら洗濯機に入れればいいだけである
その相違も大きいのである
石油ストーブに灯油を入れるのに手で押して入れるのをしていたら手間だった
それを電気の自動式にしたら楽だった、手間が省けた、その差も大きかったと思う

いかに現代社会になると使う機械に左右される、あらゆる場所で機械を使っているからだ農業だってそうである、昔なら機械を使うより人力でしていたからである
田植えで稲刈りでも人力であり機械でしていないのである
そうなるといかにいい機械で使いこなせるかが問題になる
その機械の良し悪しで仕事もはかどるしそうでないと苦労する
昔なら雇った人間が問題になる、その人が仕事をうまくこなしてもらえばいいとなる
また人数を増やして人力で仕事をするとなる
でも今は人を雇うと金がかかるから極力人を雇わない
だから女中という仕事はなくなったのである、ただ極一部の金持が雇っているとなる
またども働きでも家事が機械化しているから妻でも外で働くことができる

ともかく昔の家事は手間がかかっていた、洗濯するにもそうだし風呂を沸かすのにもご飯を作る、料理をするにも手間がかかる、特に今でも天ぷらなどを作るとそうなる
それでお惣菜でも買うようになったのである
つまり家事はそれだけ手間だったのである

でも機械を使う時代になると今度は機械の操作に追われる、特にコンピュター系はそうである、テレビでふらコンピュター化しているからだ
スマホを買ったのはいいとしてこの操作を覚えるのが大変だと思った
いくらパソコン歴が長いとしてもまたスマホは別なものだったからである
そうして遂にただ操作に追われる、それが現代社会の生活なのである
ただインタ−ネット化されたことにより通信は格段の進歩をした
雑誌でも新聞でも何でも出版となると印刷から配布するのに金もかかり個人ではできな
それでテレビ局と新聞社が独占して第三の権力となっていたのである
新聞社でもテレビ局でも会社の宣伝になるからマスコミは金になり力をもったのである
マスコミに出るだけでそれで有名になり力をもつこともできたのである

これも今ではメデアが変わった、個人でもyoutubeのようにテレビ局にもなれるしプログでも新聞のような機能があり金をかけずにだせる
いちいち印刷して一軒一軒配る必要はないのである
でも意外とプログでも操作がめんどうであり手間はかかるのである
なんとかワードプレスにしようとしているが未だにできない、つくづく技術は進歩しているから追いつけないのである
私は通信付きのワープロを使っていた、その時文章だけでもアップするのもめんどうだった、でも技術はこうして早い時期からなじんでいればできる
今になるとワードプレスでもできないようにめんどうでできないのである

人間と技術の関係は歴史が始まって以来あった、石器を作って以来あった
石器でも技術的に進歩しているからだ、それから鉄器の時代があり飛躍的に道具は便利なものになった、でもその速度は相当に遅い、今の技術の進歩は早いのである
すると人間の方が追いつけなくなっているのだ
老人になったらもう新しい技術になじむことがむずかしくなる、携帯までは私の母親が90才でもできた、でもスマホとなるとその難易度は格段に違うのである
だから今の老人の不利なのは新しい技術になじめないことである
テレビらただリモコンのボタンを押すだけではないからである

でも技術の進歩の恩恵も大きい、何度も言っているけどヤマハのYPJ-XCは優れものであり楽に走れるから遠出もできる、ドライブユニットが優れているからそうなっていた
それは実はヨ−ロッパで老人にも乗れるように開発された、マウンテンバイクだから
若者向きだと見ていたが違っていた、老人向きだったのである、乗っていて楽に走れるからだ
いづれにしろ技術機械道具の進歩は人間社会に大きな影響をもたらす、車社会になったことの影響は余りにも大きすぎた、社会そのものが変わった、街の通りがシャッター通りになったのもそうである、それは人間の人格までも変えた、車によって人間の人格まで変わったのである、車に人と人の出合いはなくなった、ただ車体が突っ走ってゆく
歩行者とか自転車は目障りであり邪魔なものになる、それだ馬鹿野郎とか叫んで走り去ってゆくだけである、もし江戸時代のように歩く旅だったら世は情けは旅は道連れとなっていたのである

ともかく現代社会は機械が不可欠である、戦争でもウクライナ戦争でもやはり技術の戦争でもある、より高度な技術を使った武器で戦うものが勝つとなる
ロシアが意外と旧式の戦車とか使っていてそれが狙い撃ちされたからである
またロシア軍は通信面でも遅れていて傍受されて位置が特定されて爆撃され被害が大きかったとなる
ただ技術が進歩するのがすべていい方面には働かない、それを象徴していたのが核である原発事故でありロシアが核兵器を使うと世界を脅したことで現実的恐怖となったからである

家事でも何でも現代社会は機械の操作に追われると思った
絶えず機械を操作しているのである、文章を書くにしてもパソコンでありそれも機械を通して書いているのである、だから私は富士通が開発した親指シフトをワープロで使っているから文章をスムーズに書くことができる、それは早い時期になれていたからである
でもスマホはしていないので慣れることが大変なのである
ただ一応パソコン歴は長いからなんとかやれたとなったのである

2022年04月14日

戦争はなぜなくならないのか? (職業は業であり武器を売るために戦争が必要ー覇権国になるための利権争いが原因)


戦争はなぜなくならないのか?

(職業は業であり武器を売るために戦争が必要ー覇権国になるための利権争いが原因)

 「一国の戦争能力がどの程度にあるかと云うことを判定する一つの基礎でありまして、其の国がどの程度に自給自足が出来るのかと云うことが、其の国の戦争力を判定する一の重要なる要素に相成って参る訳でございます」(東亜経済懇談会第一回大会報告書)

 日本食レストラン営む日本人に聞く現状「ロシアは経済危機を何度も経験...正直これくらいのは慣れている」』(MBS NEWS 4月12日)でも紹介されているように、モスクワは穏やかなものだ。グッチなどの西側のブランドが休業しているだけで、スーパーにはものがあふれて、人々も特に困った様子もない。

 自衛隊はずっと「定員割れ」が続いている。さすがにこればっかりは「外国人労働者を増やせば解決」というわけにはいかないので、入隊できる年齢を引き上げてなんとかしのいでいるが、これから深刻な“国防力不足”が到来することは間違いない

  
 日本が侵攻されたら「敗戦濃厚」な理由、核武装・防衛費増より大事なのは?

●グロ−バル経済の問題(アメリカ一局の金融支配)

●エネルギー問題、食糧問題

●防衛問題

ウクライナ戦争の問題は何か具体的に問題を提起した、ここにロシア正教もからんでくるとなると複雑である、つまりキエフはロシア正教の下位に属するとか序列があり
西側の支配に入らないことを望んでいる、宗派争いがある
そしてそのトップだプーチンを支持しているのである
宗教家が戦争を支持するのかとなる、一部は司教でも反対して制裁されたとかなる

戦争で問題になるのは武器とか兵隊の数とか主要問題のようでそれだけでは戦いない
兵站がロジステックが大事だというときそうである
戦争とは国をあげての総力戦になる、腹が減っては戦いなとなるからだ
またかエネルギー問題も重要である
戦争するにしても必ず燃料に石油を使う、それで聞いた話では特攻隊はゼロ戦でも燃料がなく片道しか飛ぶことができないものだった
だからもう帰ることもできないので戦艦につっこんで死んでいったという

ロシアがなぜ戦いるのかとなると石油天然ガスがあり食糧があり自給自足できる
これが強みなのである、日本はエネルギーもないし食糧も自給自足していない
様々な物でも外国に頼っているのである、それで日本がロシアのようには戦いないとしている
日本の戦争もこうして物量作戦ができずに兵站で補給ができないので敗れたとしている
「勝つまでは欲しがりません」では勝てなかったのである
また航空機の時代に竹槍で戦おうとしたのだから相当に時代遅れだったのである

●人間の職業は業(カルマ)であり武器を売らないと失業するから戦争をする

ロシアでも中国でも広大な穀倉地帯がある、食糧は供給できる、日本はエネルギーもないし食糧もまかないないとしたら戦いない、兵士すら不足している、若い人で成り手がないそれで原町駅前で中学生まで自衛隊の人が勧誘していた、何か見分けがつかないでそうなったらしい、誰も自衛隊になど入りたくない、仕事としてあまり評価されないからである何か自衛隊とか医療関係でも警察でもそういう仕事は必ずしもいいとは限らない
なぜなら兵隊となると戦争が仕事であり戦争になると重要なものとなる
価値があがる、戦争がないと何しているのかとなる、ただ飯食っているのかとも見られるただ災害の時一番働いたのは自衛隊である、橋を架けたりいろいろ武器で戦わなくてもできるからである、それで三人が過労で死んでいる

今回のウクライナ戦争でも言われるのはアメリカの軍産複合体が戦争させたとか言われるなぜなら戦争にならないと武器を生産しても消化されない、売れないからである
それで盛んに旧式の戦車とか武器でもウクライナ戦争で使われた
戦争の時は必ず旧式の武器でも売れるのである、明治維新の時もアメリカの南北戦争の時の旧式な武器が鉄砲などが使われたとしている
つまり旧式な武器でも戦争にるなると必要になり使われるということである

ともかく怖いのは職業は業なのである、それで現実に消防士が仕事がないとして放火した事件があったのだ、火事になれば仕事があるが火事がなければ仕事がない、だから職業は業であり怖いものをもっているのだ
警察でも悪人がいて犯罪がないと用がないとなるからだ
医者でも病人がいないと商売にならないともなる、これらの職業は何か本当に人間の業だともなる、これらの仕事は暇なときの方が平和でいいのである
これらの仕事が増えて重要になるとき社会は不穏になって平和でないということである
だから自衛隊で隊員が集まらないというときそういう仕事はやはり社会で重要ではない
そういうことはやはりいい社会であり時代だとなる
戦争は人が殺し合うのだから最悪なのである、あらゆるものが破壊され何か建設的なものがなくなる、残虐行為も野放しになり人間が野獣化する
人を多く殺した人が英雄にもなるのだからそうなる

ただなぜ人間社会から戦争がなくならないのか?

つまり原因はいろいろあるにしても人間の業があり戦争がなくならない
それは武器を作り売る人達がいて戦争がないと大量に失業するとアメリカでは言われるからだ、アメリカの主要な産業が武器を作ることでありロシアでも武器を輸出しているからだ、そこで戦争をウクライナにでも入り画策したというのも理解できる
大量の武器が必要になりドイツでも高い爆撃機を買うことになり防衛費も増大したことでもわかる、つまりアメリカの軍産複合体にとって戦争になると在庫一掃にもなり売れるからだ、でも戦争は人を殺し合うのだから何であれ最悪なのである
武器を売ることは戦争を奨励することにもなるからだ
武器の開発はいいものではない、それは人殺しをどれだけ効率的にするかということを開発するともなるからだ
病気だったら医者でも懸命に直すために働いている、それは悪いとはならないのである
そもそも剣をもつ者は剣で滅びるというのは武器を作るものは宗教では否定されるのである

戦争がなぜなくならないのか?その大きな原因が武器を作る人達がいてそれを売らねば生活できない人達がいるからだ、またアヘンとか栽培するのはそれでしか生活できない人達がいるからだとなる、アメリカがなぜ戦争をしてきたのか?
それは軍産複合体があり武器を売らねば生活できない人が相当すいるからだとなる
消防士がわざわざ放火して火事を起こしたようにウクライナでも画策したとされる
それは消防士が放火するのとにている
また昨今のウィルス騒ぎでもそうである、ウィルスが世界に蔓延すればワクチンを作る製薬会社が大儲けするから陰謀論になる
病気を人工的にウィルスは作りだしてばらまけばそこで製薬会社が大儲けするとなる
そういうことが確かにある、医者は今では商売でありいらない薬まで飲ませるからであるそしてしなくてもいい手術までされたりるすと医者も怖いとなるのである

●江戸時代でも丸森の森林資源をめぐり三つ巴の争そい

なぜ戦争がなくならないのかと問う時、なぜ日本では戦国時代が終わった時、戦争がなくなったのかということも問いになる
なぜ三百年も戦争がなかったのか?こんなこと世界ではありえないのである
それは大陸国家と事情が違うというのもある、でもなぜ日本ではこうして平和が300年もつづいたのかとなる
では多数の藩があってもその藩同士が必ずしも協力しあったということもないのである
なぜなら相馬藩と伊達藩があっても相馬藩内の飯館村が飢饉の時、伊達藩では応援していないのである、今なら外国まで災害とかあると応援している
でも江戸時代は藩が違えば応援しない、でも相馬藩内では飯館村に援助していたのである戦国時代が終わっても依然として敵国という意識があった
また藩は別々の国であり援助したりしなかったともなる
経済的には藩が違えば別々であり今のように世界までグロ−バル化して経済でも一体化しないのである

なぜ戦争が起きるのかとなるとやはり経済的問題があり利権化して争う
それを象徴していたのが丸森の森林資源をめぐって伊達藩と米沢藩と伊達藩が三つ巴で争ったのである、それは有名である、丸森は森林資源が豊だったからである
この資源をめぐる争いは世界でも石油とか天然ガスとかで起きている
ロシアは石油でも石炭でもガスでも豊かだからである
それがロシアの強みになっている、それでロシアはあれだけ世界から責められても対抗できるとなる、日本では資源がないからできないとなる
レバノンで石油が高くなり森の木を伐採していることが問題になっている
やはり追い詰められるとこうなる、自国内にあるものでまかなう他なくなる
日本でもエネルギーは木材であり炭だったからである
そういう生活は戦後でも十年くらいはそういう生活だったのである
石油などわずかしか使っていない、ガスも使っていない、石炭がエネルギーであり
蒸気機関車の燃料は石炭だったとなるからだ
そもそも山の入会権をめぐって村同士の争いがありそこに大名が加担して戦国時代になったとも言われる

●大盗も英雄となり戦争でも残酷な殺人者が英雄になる

戦争になるのは戦国時代でも相手国の持っているものを自分の国のものにしたいということがある、日本では資源がないようでも土地が資源になる、土地があれば米でも作れて強国にできるからである、だから土地の争いが戦争の原因になる、これは個々人でも土地の争そいがある、経済的利権争いがある、土地の争いはどこでも常にある
基本的に国の争いも土地を得るための争そいになる
ウクライナは広大な土地があり穀倉地帯である、それでロシアがそこを欲しがった
それでウクライナでとれた食糧を麦などロシアがとってウクライナでは

「富農」と認定されたウクライナ農民たちはソ連政府による強制移住により家畜や農地を奪われ、「富農」と認定されなくとも、少ない食料や種子にいたるまで強制的に収奪された結果、大規模な飢饉が発生し、330万人[9]から数百万人ともされる餓死者・犠牲者を出した

まさに食糧の収奪があからさまに行われた、こういう歴史があるからウクライナはロシアに従属したくないとなっている
要するに国同士になると強い国が弱い国から強制的に武力で奪う、国が強盗になる
それは不思議に是認される、大盗になるとそれはとがめられなくなる
なんらか大きな権力を力をもつ者は盗んでもとがめられないのである
また為政者でも国民から富を収奪していてもとがめられない、つまり大盗だともなるのである、天下りとかがそうである
現実に中国では本当に盗賊の頭が皇帝までなったからである
本当にグロ−バル経済でも大盗となればとかめられない、だからこそアメリカでも世界の覇権を握り手放さないとなる

つまりこの世では小盗は常に厳しく罰せられるけど大盗は罰せられないのである
かえって讃えられ英雄化されるのである
シリアで残酷に殺したロシアの将軍は英雄であり総指揮官になったのもそうである
殺人鬼であっても戦争では英雄になるのである
だからみんな大盗になりたいのである、権力を握りたいのである
それは国内でもそうである、それは共産主義でもそうである、その幹部は国民から富を収奪する大盗にもなる、中国でもものすごい富が幹部になると利権をもち得られるからである
いづれにしろなぜロシアがウクライナに侵攻して戦争になったのか、それはアメリカの覇権に挑戦したともなる、ウクライナはもともとロシアのものだとして侵攻した
そこには利権がある、穀倉地帯でありそこを手に入れればロシアがまた強国になるからであるそして今度は北海道も因縁つけてロシアのもともとの領土だとか言う
それでウクライナは遠い国でもロシアは隣国であり恐怖になったのである

●世界がグロ−バル化して第一次第二次世界大戦になった

別にグロ−バル化でも貿易でも悪いものではない、でもなぜ世界で広く交わるようになったとき第一次世界大戦となり第二次世界大戦となったのか?
明治維新があり日本でも開国して世界と広く交わった時、3百万人も死ぬような戦争になったのか?、それはグロ−バル化して広く世界と交わる結果そうなった
経済的平和的な面だけで交わればいいのだがそこで対立が生じて争いになったのである
つまりグロ−バル化とは世界の富をアメリカなり覇権国が収奪するシステムなのである
だから当然それに反発する国がでてくる、それが最初は覇権を争った米ソ対立を産んた
次に米中の対立になったのでしなる
グロ−バル経済は平和的なものとして交流するとはならない、そこで覇権国になったものに富が収奪されるシステムなのである
そこに公平な自由競争とか市場とかはない、一見あるようにみえてその富は覇権国に集まるようになる、それでドルが世界の基軸通貨となる
紙切れのドルをいくらでも刷って世界の物が買えるとなる、石油でもドルでしか買えないというのはおかしいともなる

ただではアメリカだけを批判していいかとなるとならない、今度は中国が覇権国になったら日本は完全に従属国になり中国人に支配される、なぜなら中国人は日本に住むようになるからだ、もう中国の一部と日本はなってしまうのである
要するにアメリカが世界木警察になったように世界の平和を保つにはそれだけの力をもった国が必要だともなる、なぜなら小国分立していたら争いがやまないからである
だから米ソ冷戦でも世界が二分化されても力の均衡があるとき平和が保たれる
その均衡が破られると世界がまた四分五裂の争そいになる
それで三国志がまさにそういう世界だった、三国に力が分散したとき力が均衡したとき
平和が保たれるとかなる教訓だったのである

結局貿易だけならいいがそうはならない、必ず対立が生れ争いになるのが人間のカルマなのである

理想はやはりともに貿易でも栄えることである

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

戦国時代は争っていても江戸時代になり平和になると互いに栄えることを志向した
何か互いに国同士でもたりないんものがありそれを補い共に栄えるのが理想だとなる
なぜそうならないのか、それが一方が一方的に富を収奪しようとするからである
つまり覇権争いは利権争いなのである、双方に利するものがあっても自分の国だけが
覇権をにぎり世界を支配したいということがあり世界から戦争がなくならないのである

個々人でも俺はお前より上だとか俺が優秀だとか常にこだわっている
国同士でも変わらないのである、強い国に従いとなるからだ
なぜそもそも人間に平和がないかとなるとキリストのように下僕になりなさいということができないからである
ただ力でもって支配して上に立とうとするからである、結局人間はそうしてカルマを繰り返しているとなる、それはこの世の終わりまでつづく
最後に神が治めない限り平和はない、それはこの世が滅びてからだとなる
それはいづれ近いうちに来る、そういう時期に来ている
グロ−バル化経済でもそこに公平とかないのである、だから行き詰まり反抗する国が出てきてもおかしくないのである、もちろんロシアがいいとかはならない
ロシア自体がまた覇権を握りたいという野望の国だからである
そこで最終戦争がハルマゲドンが起きてもおかしくないとなる
そして人類滅亡してそのあとに神の国が来るとなる、それが希望だとなる








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2022年04月15日

人間はなぜ戦争になるのか?(2) (民族の抗争は延々と大陸では継続されてきたー日本と違う大陸国家の 歴史)


人間はなぜ戦争になるのか?(2)

(民族の抗争は延々と大陸では継続されてきたー日本と違う大陸国家の 歴史)



東ローマ帝国やオスマン帝国の支配を受け、その影響(特にビザンティン文化)を受けている。また、東ローマ帝国やオスマン帝国と、神聖ローマ帝国、オーストリア帝国など西方の勢力との衝突点であり、宗教でも正教会、イスラム教とカトリックが混在している。19世紀から20世紀にかけて、多民族を包含する巨大な帝国が失われた後、民族混住の地であったこの地域はヨーロッパの火薬庫と呼ばれ、両世紀を通してバルカン戦争や両世界大戦、一連のユーゴスラビア紛争などの多くの争いを経験した。
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人間が集団的に対立するのはなぜなのか?
日本だったら人種間での対立はない、日本に住んでいればみんな日本人だからである
でも大陸になると民族でも人種でも多様であり対立が生まれる
それは人間の歴史が始まって以来あった
日本がでは民族とか人種とかあまり意識しない、日本に住んでいればみんな日本人だからである、でも一旦外国に出ると常に日本人だということを意識せざるをえないのである
そして民族とは何かとなるとその定義はむずかしいのである

日本人の基本的アイディンティティは村という狭い地域で作られていた、その歴史も長いのである、その村の範囲も狭いし500人くらいの規模だろう、そこで閉鎖的に暮らしていたのである、日本人にとって外の人は異人であり警戒されていた
第一なかなか村の中に入り込めない、江戸時代ならみんな村に入ってきたよそ者はすぐにわかり警戒して監視する、だから日本人の国意識は村が基本になっている
国(くに)と国家は違っている、

国(くに)とは地理的にも一つの世界観が形成される範囲である
例えば会津だと古代から一つの国(くに)として意識されていた

会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね

その国の範囲がどれくらいの範囲になるのかわからないが確かにそこは国として意識されていた、それで最初の国は大和朝廷から奈良の都から国造(くにのみやっこ)が官人が覇権されたの国として意識された、その範囲が国だった、それは狭い範囲である
だから会津でも実際は狭い範囲でありそれがやがて拡大されて会津全体の広い領域となった、ここだと浮田国造が置かれた地域が大和朝廷から認定された国だったとなる

国というときもともとこのように狭い範囲で意識していたものである
すると国というのは無数にあることになる、その数が多い、日本国家として意識することでも日本は江戸時代までしていない、藩が国であり藩の外は外国にもなる
現実に藩内でしか通用しない貨幣があり藩の外にでるときは 両替する必要があった日本はそもそも狭い範囲で村で自給自足していて村の外とは交わらなかった
だからこの辺の伝説で麦踏みの仕事を手伝った人が隣の村の人でも蛇だったとかなる
つまり今なら外人をそうみるのとにている、でも不思議なのは言葉は通じていた
第一隣村でも人が交わらないというのは相当に閉鎖されて暮らしていたとなる

それで飯館村の大倉村と佐須村は明治以降も民情が違うので合併しないとかなっていた
この民情とかがわからないが意外と今でも日本人は村意識が根強く残っている
よそ者を警戒して受け入れないということがある
第一大倉村と佐須村は5、6キロくらいしか離れていないのである
自転車で行くとそれなりに遠さは感じるがそれにしても村と村は交流せず暮らしていたとなる、またそうして孤立していても暮らせていたともなる
今なら外国から物が入らないと大騒ぎになっているのにそうして村だけで自立して自給自足して暮らしていたのが不思議だとなる、もう今の生活から比べればいろいろなものが足りないのである、医者もいないし何かもない、この辺ではむずかしい病気になると仙台の方の医者に行く、仙台市にはいい病院があり医者がいるからである
江戸時代はもう簡単にいい医者にかかれない、とにかく江戸時代は眼の病気が多かった
それで座頭とかも多かった、それは栄養不足から来ていたらしい、それで眼の病気を直したいとして村の外にでて関所を出て看てもらうとした人が記録に残っている

ともかく日本でいう国というのはこのうよに村が基本となって狭いのである
そして小国という地名が多いのは狭い範囲でも自給自足していてそこを国とか感じていたから地名化したのである
そして日本人のアイディンティティはどの村に所属しているからがアイディンティティになる、人種とか関係ない、民族とか関係ないのである、どこどこの村に住んでいるということが今の国籍になる、そしてお国訛りがありそれで分けることになる
それで日本人の姓はたいがいどこかの村の名前が姓になっている
必ず姓をたどると村の名前があり地名がありそこから出て来たのが姓である
でも外国だと大陸だと姓は土地とは関係ない、血縁である、先祖が誰であるかでありそれで一族がある、一族意識は血族であり先祖を同じくするものである
だから外国人の大陸では誰の先祖なのかということが大事になる
それは中国でも同じである、中国で重んじるのは姓を同じくする一族なのである
韓国でもそうである、姓を同じくするの人たちは同族となり連帯を持つのである

日本でも村だけではない、源氏平家という大きな氏族が生まれると大きな氏族に属して
姓を同じくして一族意識をもつ、でも日本は基本的に村で生活を共に々するもののつながりは強いのである、小さい村だと家族のようにもなっていたのである
それで一家族の子供でも村の子供となり名付け親とかいろいろ実質的にも村の子供となると家族のように扱ったとなる
でも日本がでは姓よりどの村に所属しているかが大事である
そこが大陸とは相当に違っているから大陸の歴史を理解しにくいのである

そもそもウクライナ人とロシア人を区別するものはなになのか、顔を見ても区別できないだろう、なぜウクライナという国が成立したのか?それもわかりにくいのである
そして日本だったら島国だからいつも領土は海に囲まれて変化しないのである
でもヨ−ロッパとか東欧とかイスラム国でも常に領土は拡張したり縮小したり一定ではないのである、そしてなぜ東欧諸国にいろいろな国があるのか理解できないのである
なぜあのように小国がロシアとの間にあるのか理解できない
ドイツだと強力なゲルマン人がいて一つの民族国家を形成していることはわかる
フランスでもそうだしイギリスでもそうである、アングロサクソンとかの人種である
その人たちは体も大きくモンゴル人のようなアジア系とは違う、そしてスラブ人となるとこれはアジア系とヨ−ロッパ系の混血なのかとなる

ともかく大陸国家は様々な民族が人種がか混交している、だから聖書でもこの世にいることは異邦人だということになる、常に異民族が混交して同一民族となりえないからであるそして大陸は遊牧民族であり移動する、今回のウクライナ戦争でも何百万人が移動した
そういうことが大陸では陸続きだから常に起きてきたのである
それが動乱となり戦争ともなる、だから国家の消長が常にありウクライナがボーランドであったときもある、今の領土が日本がのように島国で古代から同じということがなかったのである、そこに勢力が変わり領土も拡張したり縮小したりしてきたの歴史である
こういう歴史が日本がとは相当に違うから理解しにくいのである
日本人は一民族でありみんな日本人だとなる、でも大陸では様々な人種が民族がいて争っていたのである
そして民族を抹殺するジェノサイドでも起きていた、それは旧約聖書でも神の民であるユダヤ民族に逆らう者に対してジェノサイドがあった
また中国人でも民族が混交している、胡人というのはイスラム系であり胡国という国が生まれた、また中国では戦争になったら敵国の者は墓からも暴きだしても罰している
でも日本では敵国の人でも争っても敵味方塚として丁重に葬っているのである
墓が残されているのである、それは薩長軍が東北に攻めてきて争ったが九州の侍でも敵味方塚に葬られている、こういうことは中国にないから驚いているのである

漢字文化圏には古来より「胡」という姓が存在し、霊太后の父胡国珍、北宋の儒者胡安国中国共産党総書記の胡錦濤、ベトナムの国父ホー・チ・ミン(胡志明)などがいる。

その起源は、華人に同化した異民族出身の者が漢風の姓を付けたのが始まりとも言われるが、通志の氏族略が伝えるところによると、春秋時代の陳の初代君主胡公に由来し、陳の滅亡後に陳の遺民が名乗ったのが始まりと書かれている。

百家姓において、「胡」の姓は十三大姓の一つに数えられている。

ベトナムの国父ホー・チ・ミン(胡志明)がそうなのか、ベトナムでは漢字を使ったいた時代があるから中華文明圏内にあったともなる
胡人とは今のウィグルとかのイスラム系でもある、その人達が胡人であり胡の国となった、、姓はその胡の国に由来している
姓が同一民族となるから大陸国家では多様な民族がいて姓が同じだと一族意識が生まれるのである

いづれにしろウクライナ戦争のことを理解することは本当にむずかしい
そもそもこの戦争の発端はウクライナの東部地域のロシア人とウクライナ人の争そいにあった、でもそもそもロシア人とウクライナ人の相違は何なのかというと理解できないのである、ロシア人とウクライナ人を区別できるのかとなるからだ
日本人と韓国人と中国人を区別できるのかとも似ている、だから必ずしも民族だけがアイディンティティにはならないのである
そもそも国家というのは何かというとき大陸国家だと一民族が国家とはならない
アメリカでも見ればわかる、人種が混交しているから民族国家ではない、それでその国家をまとめる原理は何なのかとなると日本がのように一民族国家としてまとめられない
それで人種差別がありそれをまとめるのに苦労するのである

東欧となるとまた宗教でもわかりにくい、カトリックからプロテスタントからギリシャ正教からロシア正教とか別れてきたからわかりにくい、イスラムでも「スンニ (スンナ)派」と「シーア派」とかなぜ争うのかもわかりにくい、宗教も根深い対立の原因となる
ロシア人とウクライナ人が兄弟のようなものだとかルーツを同じするものだとか言うのになぜこんなに激しい戦争をするのかもわかりにくい、同族でこんな残酷な戦争するのかとなるからだ、ただ大陸国家では民族の抗争が延々とつづいてきた、その延長としてウクライナとロシアの争いがあるとなる
この争いの発端は東部地域のドンパスとかにありそこで実際に抗争が小規模の争いがあり殺し合いもしてきた、それが大きく発展したのが今の戦争なのである
その火種となるのものが拡大し拡散したのである、だから何か事件があるとき時系列で見ないとわからない、何事も突発的に起こらない、積み重ねられた時系列の歴史を見ないと理解できないのである
それでプーチンにもロシアにも言い分があったということは理解できる

そもそもなぜあんなに東欧に小国家があるのか?

それ自体が歴史的にもわかりにくい、ルーマニアがローマニアでありローマの延長としてあり東西にローマ帝国が分離して生まれ国だとなる
ヨ−ロッパとは何かとなればローマ帝国を形成した地域が基本として作られたものだとなる、その前はフランスでもドイツでも蛮族とされていたからである
そしてキリスト教が東方に広がってもロシア正教とかまた別なものである
そこにはモンゴルの血も交じっている、プーチンの顔がモンゴル人の顔にも似ている
そしてウクライナ戦争でも歴史が繰り返すということで歴史を実感する
タタールの軛(くびき)のことをロシアが中国の属国になるとか言う時なるほどと思った歴史は繰り返すである、ロシアはウクライナ戦争以後小国化して中国の配下になると言う時、確かにタタールの軛の再来だともなるからだ
常に大陸国家には消長がある、領土でも固定してみれないのである、日本のように島国として古代から変わらない領土を維持するのは世界でも珍しいのである
歴史とは何か?それはこのように長大なものでありその継続なのである
だからウクライナ戦争もこの長大な人類の歴史の中で繰り返されてきたれのとして起こったのであるつまり歴史とはエンドレスの物語なのである、だからこそ歴史は繰り返すとなるのである、人間個々人でもカルマは繰り返すとなるのである
そして人間はこうして誰しも長大な歴史の一コマを生きているとなるのである
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2022年04月16日

寒さがもどったけどまたあたたかくなるから耐えられる (希望無くして生きられない人間)


寒さがもどったけどまたあたたかくなるから耐えられる

(希望無くして生きられない人間)

この二日間寒い、冬にもどった、今年は寒さがつづいているのか?
でもに三日前は暑かった、灯油を買おうとしたが二日くらいならがまんできると思い
買わなかった、でも寒い、私の家は旧式の家だから隙間風が入ってきて寒いのである
老人になると寒いとか暑いのに弱くなる、私はもともと寒さにも暑さにも弱い

でもなぜ灯油を買わなかったのか?
それはもう一日くらい待てばあたたかくなる、天気予報でそうなっているからだ
そうなると二日くらいならがまんしようとなる
つまりがまんするのはわずかの時間であると思うからがまんできる

冬があるとしてそれなりに長いとしても必ず春が来るから冬を耐えてゆこうとする
もし春が来ないとしたらもう耐えられないのである
絶望しかなくなる、これは経済でも言える、日本は貧困化している、ますます貧困化して食糧さえたりなくなり奪い合いになり飢饉にもなるとかになる心配ばかりしていたら
生きる気力もなくなる

今日は悪くても明日は良くなる

こうならないと生きる希望もなくなる、ウクライナのように戦争で苦しんでいると必ず戦争が終わるということを必死に願うようになる、今は苦しくても戦争は終わる
その終わることを必死に願うようになる
戦争はいづれ終わることは確かだからである、戦争はやはり長くても二三年で終わる
でもアフガニスタンとかテロとかなるとなかなか終わらなかった
そこで住んでいた少女が戦争がないことがどれだけか幸せかと言っていたことがわかる

ともかく人間から希望がなくなったら生きることはできない
これからも寒い日がつづき暖かくならないとしたら絶望だとなる
そうなると働く意欲もでてこない、いくら働いても暮らしが良くならない
給料も上がらない、暮らしは悪くなるだけだとなれば働く意欲もなくなる
人間はやはり今日よりは明日が良くなるということが生きる力となる

なぜ今世相が暗いかというと悪いことしかイメージできないからである
経済はますます悪くなるとか貯金していても預金封鎖されるとか賃金は上がらず物価だけが高くなってくるとかいいことを言う人がいないのである
それは現実がそうなっているのだからしかたないとなる
人間はそうなると消費もしいなのである、そしてますます暗くなり景気も悪くなる
景気は気であり気分だとするときその気が悪くなっているから全体的に暗くなっているのである、景気も良くならないとなる、つまり気分の影響で景気も良くならないとなる

宗教の必要性は来世があり天国があり死んでもそこに行けるということが希望になる
なぜ宗教が過去でもこれほど頼る人が増えたのか?それは希望をもちたい、題目でも念仏でも唱えていれば来世では極楽に行けるとなっていたからだ
どん底でもそれが希望になっていたのである、病気でも治るとなれば一心に祈るとなる
要するに医療すらない時代にはそうして祈るしかなかったのである
だから会津の方でも病気が治るということで仏教が普及したのである
山伏がいたのも山で薬草をとり病気治療していた、加持祈祷がまた仕事だったのである
医者代わりだったのである

要するに人間は死んだら終わりで何もなくなるとなればもう希望はないのである
人間は死んでも終わらない、天国に行きそこでこそ本当の生が始まるとなることを信じれば希望となりこの世の辛いことに耐えられるとなる
人間はそもそも希望をとったら生きられないのである

「パンドラの箱」の中身は「災い」です。病気、憎悪、犯罪、争いなど、人のさまざまな悪行を指します。また怒りや悲しみ、苦しみといった人にとってのネガティブな感情も災いのひとつとして数えられます。

最後に「希望」が残されたのです

様々な災いがありでも希望が最後に残されたのである、この世には様々な災いが災難があるが希望があれば生きられる
悪いことばかり言われるが実際の生活ではいろいろ改良されているのである
道は良くなり様々なものが快適になっている、それは常に改良をつづけているからである悪い事ばかり言うが人間は毎日それぞれの場で働いていて改善改良しているのだから
良くなっているのである
あらゆる分野で毎日改良がつづけられているからだ、機械でもより使いやすいように工夫改良が続けられている
だからコンピュターでもインタ−ネットでもそうだがそこで学ぶ機会が増大したのである本ならどんな本でも田舎でも通販でボタン一つ押せば買えるのである
すると田舎でも独学してでも相当なレベルの知識を持つことができる
学校教育ではとても教育としてはたりないからだ、するとこれからもしかしたら日本から少数精鋭となり天才とか生まれてくるかもしれない、天才でもそもそもそういう人を産む環境がないと生まれないからである

人間はそもそもどこかで希望を見出さないと生きていけない、何するにしてもそうであるだからそもそも経済でも今日より明日が良くなるという希望がないと成り立たない
ただ金は紙切れになるとか預金封鎖があるとか恐慌になるとか食糧もなくなるとかなんとかそんな暗い事ばかり言っていたらみんな落ち込むだけでますます景気が悪くなる
そうあっても何か希望を見出してゆかねば生きていけないのである

種をまいてそれが育ち果実となるからこそ働くのである、どうせ種をまいても育たない
天候が悪いとか自然災害がきて無駄になるとか思っていたらそもそも何もできない
食料すら作ることがてきないとなる
何か現代はまさに種をまいても育たない無駄だという感覚になっているのである
でも実際はあるゆる方面で改良は改善はしているのである
ただ日本に欠けているものは何か新しい物を発明できないことである
新しい物を作りだせないことが問題なのである

人間は過去をみればもっと悪い条件の中でも生きてきた、そして改良改善してきた
何か希望となるものを見出してきたのである、常に暗黒があったがやはり希望を見出して今日が築かれて来たのである
だからなぜ未来が暗黒ばかり語られるのか?それが異常なほどそうなのである
暗い未来しか見えないのである
種をまき肥料をやりそれが育ち果実となる、そう思って働く、現実にみんなそう思って働いている、でも暗い未来しか見えない、暗黒の未来のみがあるようになっている
それがおかしいとなる、もちろん常に暗黒はある、冬の時期はある
でも必ず春が来るから耐えられるのである

明日に向かって希望の太陽は輝く
その輝きは衰えることがない
神は人間から希望を奪わない
来世の天国も約束されている
汝はその場その場で希望を見いだせ
そして勤めて希望を見いだせ

ともかく人間の苦しみは永遠にはつづかない、いつかは終わる、それを介護で感じた
介護の期間は平均的に長い、5年が平均としても十年とかにもなる
だから早く死んでくれともなる、でもいつまでも続かないのである
人間の苦しみは何であれいつかは終わる、冬はいつまでもつづかないいつかは終わり春が来るのである
だから神を待ち望めとなる、神は架空のものではなく実存するものであり約束を果たすしうるものだからである、万能の神だからである
要するに希望なくして人間は生きられないのである

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我が室にオレンジリリーの一輪の咲きまた一輪咲きぬ希望なるかな

一輪オレンジリリーが咲いたそしてまた一輪咲いた、今は三輪咲いている
つまり希望とはこうして花が咲いてゆくことなのである
この世に花が咲き満ちる、暗黒ばかり語っていたらきりがないしかえってそのために景気が気が悪くなってくるのである、今は本当に経済的にも悪い気におおわれている
でも何かしらそれぞれの場で希望を見出さねば生きていけないのである
なも実際はそれぞれの場で改良改善が続けられているから良くなっているのである
パソコンでも安くてもいいものになっている、機械でも良くなっている、安く買えている20年前とかは40万くらいしていた、それも今のパソコンとは違っていて普通の人はマニアでないと使いないものだったのである
人間はともかくどちらかというと悪いことを見る、マスコミとかでも悪い予想を言う
視聴率を稼ぐために悪いことを言うのである、もちろん悪いこともありうる
でもそればかり言っていたら人間は生きていけないとなる
悪いことがあってもいいことがあるということも言わないとバランスがとれないのである


スマホで写真をとると花の名前とか関連したものがててくる
オレンジリーリーという名前の花だった
こういうふうにいろいろなものが学べるのである

2022年04月18日

飯館村を回り霊山神社へ(佐須から石戸村ー石田村ー桜の短歌)

飯館村を回り霊山神社へ(佐須から石戸村ー石田村ー桜の短歌)

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大倉からへ佐須へ行く道は一昨年から通じていない
今回の地震でも壊れたからさらに長引く

この石は地震で落ちてきた、でもそう見えないだろう
何か座石とかなづけられる、座るにいい石だからである
でも不思議なのは地震で落ちたということはあとから見たらわからないのである
だから年代としていつ落ちたかを記録していればわかるのである



yamabukirock111.jpg

springriver11.jpg

クリック拡大しないと鮮明に見れません
ただブラウザによって見えないものがあります、一度コピーして別なソフトで見るといいです


里の道山鳩歩み花の影

山吹きや磐打つ流れひびくかな

山桜高きより散り触れられず

山の村十軒ほどや花に雲

地震にて落ちし石一つ変化かな




記録として残されていたもの



rocksakuraishida1.jpg

大岩に桜の咲きて石田村

これは桜の樹なのか?確かにこういう光景だったが今回は
ここを通っていない

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この滝がどこにあるのかわからなくなった、霊山神社にもうでた帰りの道だった



顕家の像に朝散る桜かな

祭られて神社を覆う桜かな

夕べ散る花のあわれや霊山城

山陰の霊山町や夕桜

隠里滝のひびきに夕桜

ここに記録として残っている、でも思い出せないものがあった
http://www.musubu.jp/ryouzankikouhaiku.htm





(大倉から佐須へ)

清流の巌にひびき山桜見上げて高く朝に咲くかも

鶯の声のみ高くひびきけり人気なき村我が通りゆく

人住まぬ家にそあわれ水の出て春に来たりてしのびけるかな

冬ごもりながくもあれな峠越え高く連なる春の峰々

春光や峠を越えて吾妻嶺を我が仰ぎ見て伊達市に入りぬ

(石戸村)

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風そよぎ花の散るかな旅人休む石戸村かも

白壁の蔵の大きも霊山や枝垂桜の石戸村かな

(石田村)



古き碑に春の日さして山の道上りてたずぬ人のありしも

古き碑の並びし山路桜咲き夕暮れあわれたずぬ人あり

山により家の古りぬも夕暮れや桜色にそ染まりひそまる

墓一つたずねてあわれ石田村我が去りゆくや春の夕暮れ

(霊山神社へ)


この石段を上り霊山神社に行ける、でも草に埋もれた道となっている
もともとはこの道を行っていたのだろう、でも高いのである



石田村枯木に墓地や春来るも

ここの墓地には江戸時代の墓がある、でも幕末でありそれほど古いものではないだろう

霊山神社への道


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ここから霊山神社に行けるが道は荒れている
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春なれも枯木に墓地や石田村


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分け入りて古木の桜石田村


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霊山神社の手水鉢


花おおふ石段高く椿散り霊山神社に登る道かな

登り行く石段高く桜咲き椿も散りぬ霊山神社へ

花冷えにみちのくの桜散りはかなき命偲び惜しみぬ

山の奥霊山神社をもうで帰る滝のひびきて花の夕暮れ

顕家の像に花散るなお残る花や夕暮れ我が去りにけり

あわれかな花散る跡の霊山城南朝の夢ここにつええぬ

登り来て霊山神社に四十雀鳴く声ひびきて春の夕暮れ

手水鉢白椿そえ水いでぬ霊山神社に巫女一人かな


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みちのくの春の連峰春夕焼け

安達太良ー吾妻嶺ー後ろに飯豊山ー蔵王ー大東岳が見える
この連邦は圧巻である
(大霊山線)

吾妻峰に蔵王連なり夕陽没る青々として春の夕暮れ

赤々と春の夕陽の映え没りぬ高くも連なる峰々望む

一時や昨日は晴れるもたちまちに雨ふりて変わりやすしも花は散りゆく



これがわかりやすい