2022年02月01日

駅から時計も撤去、ゴミ箱も撤去 (鉄道は極力人へのサービスを減らすーこれも車社会の弊害)


駅から時計も撤去、ゴミ箱も撤去

(鉄道は極力人へのサービスを減らすーこれも車社会の弊害)




駅員もいない
切符切りもいない
時計もない
ゴミ箱もない
時刻表もない
喫煙所もない
売店もない

(´・ω・`) もはや駅は電車の止まる公衆便所だなw

JR東海は合理的過ぎてつまらん企業だが、
JR東はケチ臭すぎてサービスが落ちていく一方なんだな

維持費がかかるからって、そのうち駅もなくなるぜ

客が勝手に時計置いとけば
その人は救世主になれる

いらないインフラは撤去だろ
信号なんかもそう
多すぎる
歩道橋とかも
通学路とか一部のぞいて撤去して一時停止や横断歩道に置き換えろ

この企業、長期的に見たらいろいろとやばそうだな

駅の時計って特別仕様で高いんだよな
普通の電波でいいだろうに

乗客が、明確に批判しない限り
JRは、あれもこれも省略する気だ

たぶん、「まさかこれは、省略しないだろう」
というものも、省略してくる

そこの駅の住民が
何を省略しても、物分かりのいい住民だったら
そこの駅の沿線民が、不便を背負えば、いいじゃないか
てことで
何も言わないやつ、ばかり、なんじゃないの?山梨はw

手元の細かい表示物を見るのが苦手なお年寄りにやさしくないJR東日本
この企業もう終わってんなあ

公衆電話もゴミ箱も灰皿も椅子も無くなってしまった
ちょっと座りたいと思っても有料で喫茶店に入るよう仕向けられている

非常に時計が必要な商売をしておきながら、コスト削減とは。
流石にやり過ぎという感があるな。
というか、そこまでコスト削減しないといけないというのが情けない。

駅員もアウトソーシングだからだよ
いまやJRの正規はなにもやってない

いろいろ面倒くさいのはわかるけど、
駅にゴミ箱や時計がないのは不便だよなあ

時計にしろゴミ箱にしろクレーマー対策は見え見え
どこまで責任回避体質なんだよ

駅構内の時計不要言い出すような経営陣だと
そのうちに車両メンテも不要言い出しそうで怖いな

色んなところから日本の衰退が見えるな
そのうち外国のように時刻表もあてにならなくなる。

ほんとにJR東日本って利益優先すぎて自分の事ばかりだよな
電車内の飲食やノーマスクを野放しにしてないで乗客の身になれゴミクズ

そのうちベンチもトイレも撤去されるんじゃない
「だって掃除に労力かかるしメンテナンスにお金かかるし、撤去したら良い事だらけ!俺って頭いい!」ってw

サービス業がサービスやめたらお終い
自由だから何をやってもいいなら業務もやめればいい


駅の看板も取り外そう!
スマホで見れば何駅かわかるんだし、メンテに労力とお金がかかってムダ!
って言い出すよw

老人になるとスマホや腕時計の小さな数字にピントを合わせるのが苦痛なのでホームのでっかいアナログ時計は助かる
高齢者だらけの5ch民なら同意しろ

いやマジで時計は残せ
これから年寄りがさらに増えるのに時間確認にいちいちバッグからスマホ出せってか?
ゴミ箱撤去といいコスト削減に血眼になりすぎて市民の利便性を疎かにするのやめろ

大きな時計は遠くからでも見えるし便利なんだよな
腕時計もしてないからないと不便

とにかくインフラの質をこれ以上落とすのはやめろ
国家の体を成してないぞ
ベンチもゴミ箱もない街、時計のない駅、こんなの近代国家じゃねえよ

スマホ、関係ないやろ。
時計も置けないほど、貧乏になった日本。

時計のメンテナンスさえ出来ないのに、車両や設備のメンテナンスが出来るのかね。

日本の衰退が誰の目にも見えて来たな。
時計がほしいなら自分で買えよ、自治体。乞食か。

https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1643672848/



この5chが面白かった、要所をついている
鹿島駅のゴミ箱なくなったのを報告したがこれは全国的なものでJRの方針でそうなっていたのである
なぜそうなったかというとゴミ箱のゴミを片づけるのに商工会に頼んでいた
すると金を払うようになりやめたのである
ゴミをかたづけてもらうだけで金を払うのが馬鹿らしいとなった
私はゴミ箱がどこにあるのかと聞かれたので教えたりした
ホームにあったからだ、何か駅というのは初めての人には簡単なことでもわからないのである

一番わからないのは上りと下りのホームのことがわからなかったのである
そんなこと簡単なようでも初めての人にはわかりにくくなる
それは自分自身でも波立海岸がある久ノ浜駅で経験している
表示板がなかったからである、鹿島駅でも駅長に表示板がないから行き先をホームを横切る跨線橋(こせんきょう)の入り口にあった方がいいと言ったらしてくれたのである
ここで論議しているように地元の利用する人が何も言わなければ不便なままなのである
私は一人だけでそこでたまたまボランティアのまねごとをした結果こうして欲しいと言ったらしたのである
だからJRでも何もしないということはない

ただ今回のゴミ箱の全国的撤去は不便だとしても回復しないだろう
JRの方針であり一駅のものとして実行したのではないからだ
ゴミ箱は駅には不可欠でもあった、なぜなら駅で弁当を食べたりしていた人がいた
するとそれあなげる場所がないのは困るからだ
駅は休憩所にもなっているからである

ただこうして何でもなくなるのはJRの経営が厳しい、乗客が減る一方だとなるからそうなる、でもそもそもJRは人にサービスするという心がない、経営がないのである
それはみんな言っているからである
ただ線路の補修とか安全は日々計っている
でも人へのサービスはもともと関心がなかったのである
だから経営が苦しくなれば無駄なものは極力省くとなる

そしてまずJRとか会社ではよそ者がかかわることが嫌うのである
それで時刻表を自分で作って置いたが拒否された、またゴミのことでもゴミを投げるゴミ箱のことを聞かれてホームに入ったのでしかられた
監視カメラがあり見ていたのである、無人駅でも今は見ているから注意すべきだと思った
時計すら置かないというのはこれも意外と管理することがむずかしいからだとしている
つまり駅のような公共的場ではずさんにしておけない、正確に時計でも運行しなければならない、時計が遅れたりすると苦情が来るからだ
自分が作った時刻表でもこれが間違っているとJRに苦情が来るので拒否された

そしてとにかく余計なことをしたくない、金のかかることは極力省くようになった
今鹿島駅に高校生の見守り役の人がいる
これはJRでは駅の業務をするなと契約してさせている
なぜなのか?それは駅の業務をさせるとJRで金を払うようになるからだろう
それでゴミ箱のゴミをなげるのを商工会に頼むとき金を払っていたからである
高校生の見守り役は市で金を払っているのである
だからJRでは金を払っていない、外のトイレも掃除は障碍者施設の人が毎日していてその金も市で払っている、ただ駅内の掃除は外部に頼んでいた

とにかくJRでは・・するな・・するなになる

そのうちベンチもトイレも撤去されるんじゃない
「だって掃除に労力かかるしメンテナンスにお金かかるし、撤去したら良い事だらけ!俺って頭いい!」ってw

本当にこうなっているのだ、それがますますエスカレートする何もなくなってしまうかもしれないというのも冗談ではないのだ
ただそれだけ鉄道の経営が苦しいからそうなる

でもこのことは日本衰退の象徴であり外国から来て無人駅だらけで時計もないのかとなる後進国なのかとかなる
そもそも鉄道だけではない、日本が衰退してあらゆるもののサービスがなくなってゆく自治体すら消滅してゆくのだからゴミ投げるにも有料となったりあらゆるもののサービスが低下してゆく、少子高齢化でもありそのことが鉄道にも影響しているのだろう
鉄道は車社会でそうなったのであり鉄道会社だけに責任があるとはならない
鉄道の乗り方さえ知らない人がいるからだ
それだけ車社会になっていたのである、でも最近80歳くらいで車の免許を返上した人が増えた、それで鉄道に乗りに来た人がいた
だから高齢者の足として利用することもありそこで時計もないということはどうなるのか?

日本というのは貧困化もそうだがあらゆることでサービスでも低下してくるし維持することもできなくなる、医療でもそうである、日本は再び後進国化しているのである
中国とかの方が進んでいてましだともなっている
あらゆるインフラも維持できなくなる、そして電気でも水道でもガスでも石油でも高くなる、それを利用することすらできなくなる、なぜなら毎月電気水道ガス代を払えない人がいるからだ、基本的なものすらまかなえなくなっているのだ

鉄道関係はまたコロナウィルスで打撃を受けた、、またオミクロンで打撃になり回復しない、どうしても遠くに行くことがしにくい、弱り目にたたり目となる
常磐線はなくならないと思うけど経営するには厳しいだろう
仙台とつなぐために常磐線はなくすことはできないだろう
でもこうして鉄道だけではないあらゆるものが日本で衰退してゆく
自治体でも消滅してゆく、それが原発事故の避難区域で起きた、そういうことが実は全国的に起きて来るのが日本なのである
鉄道の駅の無人化と空家の増大もリンクしている、自治体か空家だらけとなり空洞化してゆく

ただ大正時代とかなると鉄道があっても客として乗る人はまれだった
簡単に乗れるものではなかった、汽車賃が高かかったからである
今は移動するのに不便なことはない、車があるしまた津波と原発事故で鉄道が閉鎖されたときでもバスが仙台市まで通ったから不便はなかったし今でもバスはでているのである
こうして鉄道の代わりになるものがあるから鉄道にそもそも関心がないのである
そのことでゴミ箱を撤去したからといってみんな騒いだりしないのである
車関係でこんなことがあったらみんな騒ぐが鉄道は利用者が少ないからしないのである
そういう背景があってどうにもならないとなる

2022年02月02日

将来鉄道の廃線になるのが多いのに驚いた (鉄道は駅名が心に残るー東北の廃線となる路線)


将来鉄道の廃線になるのが多いのに驚いた

(鉄道は駅名が心に残るー東北の廃線となる路線)


東北地方において将来廃止が予想される路線を示したマップである。東北地方では、
JR 線は奥羽線、花輪線、釜石線、気仙沼線、五能線、左沢線、山田線、石巻線、大船渡線、大湊線、只見線、男鹿線、津軽線、田沢湖線、磐越西線、磐越東線、米坂線、北上線陸羽西線、仙石線、仙山線、東北線、八戸線の  路線、公営、市営鉄道は津軽鉄道線、いわて銀河鉄道線、フラワー長井線、阿武隈急行線、会津鬼怒川線、会津線、弘南線、秋田内陸線、十和田観光電鉄線、青い森鉄道線、大鰐線、鳥海山ろく線、南リアス線、北リアス線の 14 路線の将来廃線が予想されるという結果となった

鉄道維持可能性シミュレーション結果に基づく 考察


茶色は私が乗った路線でありほとんど乗っているのである


鉄道は危機的状態である、これだけの路線がなくなるということはショックである
私はこの路線をたいがい乗っている、赤線の所は乗っている
花輪線とかは相当に運営するのもむずかしいと肌で感じた
そして何か鉄道というのは不思議に沿線の景色より必ず駅名が心に残るのである
そのために地名に興味をもったのが自分だった

花輪線だと兄畑とか小屋の畑とかの駅名が心に残った、その時は駅は雪に埋もれていた
そして

花輪線に好摩(こうま )に駅があり

霧ふかき好摩の原の停車場の朝の虫こそすゞろなりけれ  啄木


こうま」の地名由来を和語の範囲の中で解釈しようとしても無理があるようです。

やはり、この地名も、次のようなアィヌ語を語源に持つ古地名として考えるべきであると思います。
「こうま」は、=アィヌ語の「ク・オマ・ナィ(ku・oma・nay)」
=「仕掛け弓・そこにある・所」になります。

こうまはクオマからきていて漢字をあてた、そういう地名は北海道に多いしまたアメリカの地名にもインディアンの名付けたものから地名化しているのとにている

渋民(しぶたみ)…

「しぶたみ」も、アィヌ語を語源に持つ古地名であり、次のような解釈があると思います。

1.「しぶたみ」の語源は、=アィヌ語の「スプ・タ・アン・ムィ(sup・ta・an・muy)」→「スプタムムィ(suptammuy)」で、その意味は、
=「渦流・そこに・ある・淵」になります。

原町の萱浜の近くに渋佐という地名がある、これもアイヌ語由来なのか、萱浜はもともとカイ浜でありカイと北海道のカイでありカイというのは民族名である
するとこの辺にアイヌが住んでいたのか?
ただ渋いとかあり渋民とかありこれは普通にある地名である、だからアイヌ語をあてるのはむずかしいとなる
そもそもアイヌ語というのは日本全国の地名をアイヌ語にしたことがあったが今では否定されている、青森と岩手とかなるとアイヌ語らしいとなる
ナイというの川でありそれは青森県とかに共通して多いのである

左沢(あてら)沢線というのにも乗った、あてらとはあちら側であり向かいの岸だとなる要するに川を意識するとき向こうの河岸を意識していた、川を渡ることがありそうなったとなる

ここで将来廃線になるのが仙山線とか仙石線とかがあるのかとなる
仙石線だったら仙台から石巻まで通じている、ここは相当に仙台市が拠点として郊外になるから乗る人が多いからどうしてなのだろうとなる
仙山線は山形の方に行く線であり途中山寺がある、これもやがて廃線になるのか?
今はあまり乗っていない、それよりバスの方が便利になっているのだ
だから今は高速バスを利用する人が多いのである、自分でも利用したからである

ただバスの旅は情緒がない、鉄道には情緒があるというか相当にパスとは違ったものである、だから鉄道は文化になもなっていた、人間の歴史として刻まれていたのである
そこには様々な人間のドラマがあり鉄道はそうした歴史があって貴重だった
でもそれがなくなるとそうした歴史と思い出も失われることになる
それが淋しいとはなる、ただ代わりにバスもあるし車もあるからそれほど困らないかもしれない、鉄道の問題はそのメンテナンスとかに電気とかなると相当に労力でも手間でもかかることが問題なのである、単なる道だったらそういうことはないからである

ただ山田線とか磐越東線でも極端に便数が減ったのである、一日数回とかしか出ない
数回というとき朝晩の通勤とか一日4回なのかそれくらいしかない
少なくとても一時間に一回くらいの便数がないと不便になる、利用しにくい
それで私はいわき市から郡山市に行くのにバスで行くほかなかった
便数が極端に少なくなり待っていられなかったからだ

それにしてもこれだけの線がなくなることはもう鉄道自体がなくなるともなる
ただ利益をあげているのは新幹線でありその新幹線につなぐものとしてローカル線があるまた常磐線だと名取の飛行場につなぐものとしてもある、なぜなら名取から飛行場までの線ができたからである
そして名取の飛行場から大阪へ飛行機で行く人が結構いたのである
大坂となるとやはり飛行機の方が便利になるからだ

鉄道というとき日常ではなく観光路線にもなっている、五能線とかがそうである、観光路線として残しているのもある、日常的にはみんな車だからである
ともかくこれだけの路線がなくなるということはいかに鉄道自体も消滅してゆくのかとなる、利益が出ないから消滅するともなる
結局みんな車をもっているのだから車が足になっているから鉄道が消滅しても別に困らないからである、そうでないならばみんな騒ぐから廃止することはできないのである
観光路線だけで維持するのはむずかしい、現実にコロナウィルス騒ぎで観光客も来なくななったからである、鉄道を利用する人も減った、それも経営的苦しいとなった

ただ鉄道に私が思い入れがあるのはやはりそれだけ鉄道で旅したからである
それで今思い出す旅をしている、でも思い出すのもあいまいとなってゆく

霧ふかき好摩の原の停車場の朝の虫こそすゞろなりけれ

つまり霧深いというときまさに遠い過去は霧の中にありあいまいとなる
ただそこで虫がかすかに鳴いている、その音に耳を傾ける、まさにそれが記憶なのである

新地駅数分止まり月照らしかすかに虫の音我は聴き待つ

新地駅は前は虫の声とは聴いていた、あそこで必ず6分くらい交換の待ち合わせをしていたからである、でも津波の後は高い場所に新しい駅を作ったから虫の音も聞こえなくなったのである
こうして待つということが人間的な時間を演出していたのである
それは駅でも同じである、その駅に時計までなくなるというのは何なのだろうと思う
もう駅は維持できずに無人駅化してゆく、時計すらない、ただまだ駅には必ず待つ時間がありそれでそこで遠くから来た人と私はボランティアのようなことをして話していたのである、駅に多様な人が来ていたのである

常磐高速のSAにも行くがあそこにはそういう人間的なものがないのである
ただその人の出入りする人数になると何十倍にもなる、駅でぱ待っているのは昼間だと数人であり一人の時もある、もう日常的には駅は閑散としている、使われていないのであるそれでも駅を維持するには掃除とか必要でありゴミ箱があったが撤去された
ただ外のトイレは立派なのである、障害者用のトイレは広々としているから贅沢である
健常者のトイレはかえって狭いのである、その障害者用の立派なトイレを毎日掃除しているのが障害者だというのも奇妙である

ともかく鉄道の旅は長いから愛着がある、でもこれだけの路線が将来なくなることはショックである、もう鉄道は新幹線くらいしかた残らないのかともなる
これも淋しいとなる、北海道だと半分がすでに消失した
もう北海道だと路線が維持できない、すでに私が旅したときから半分は消失したとなる






2022年02月03日

2022 abstract river


2022 abstract river


riverssssss1.jpg

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newyearppp111.jpg

waterfallbig11111.jpg



なぜ抽象画大量にできるのか?

その謎は人間の能力があるようでないことかもしれない
そもそも人間がイメージできることは限られている
人間が能力があるようで思った以上ないのである
天才とかまれにいても普通はない
自分自身は全く絵の才能がないのである
でも絵を作れることが不思議になる

それはコンピュターの助けがあってできている
つまりAIがイメージを作り出しているのである
だからARTとは技術のことだと理解したのである
人間にない能力を技術力で発見したということである
そこには限度があるにしろやはり人間の創造だとなる

コンピュターの今まで違う特徴は人間の頭脳と深く関係している
だから頭脳を強化したり頭脳の代わりをしているのである
それがコンピュターの発明でできるようになったのである
人間の記憶力とかもコンピュターで補強される
とにかく人間は忘れやすいからである
そうして人間と機械が一体化する時代がくる

頭脳にマイクロチップが埋められて記憶の補強をしたりいろいろできるようになる
ただすべて機械でコンピュターでできる時代は来ない
なぜなら人間にかできないものが依然として残るからである
感情的なもの情的なものはコンピュターとか機械にはもてない
コンピュターに愛をもてなど言ってもできないからだ
するとコンピュターにはロボットでももてないもの人間にしかないものが価値あるものとなる

Why can we do a large number of abstract paintings?

The mystery may lie in the fact that we don't seem to be capable of it.
There are only so many things that we can imagine in the first place.
It seems that we are capable of so much, but not as much as we think.
There are rare geniuses, but usually no geniuses.
I myself have no talent for drawing at all.
But I find it strange that I can make pictures.

It is made possible with the help of computers.
In other words, AI is creating the image.
That's why I understood that ART is a technology.
It means that technology has discovered abilities that humans do not have.
There is a limit to this, but it is still a human creation.

A different feature of computers is that they are deeply related to the human brain.
That's why they enhance the brain or replace the brain.
The invention of computers has made it possible to do this.
Human memory is also reinforced by computers.
This is because humans forget easily.
The time will come when man and machine will become one.

Microchips will be implanted in our brains to reinforce our memories and do other things.
However, the time will not come when everything can be done by machines and computers.
This is because there will still be things that cannot be done by humans.
Emotional things, can't be done by computers or machines.
You can't ask a computer to love you, because it can't.
Then, what is valuable to a computer is something that even a robot cannot have, something that only a human can have.

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

末世化している日本と世界 (警察、医者、公務員、教員、創価(カルト教団)…などが嫌われるのはなぜ


末世化している日本と世界

(警察、医者、公務員、教員、創価(カルト教団)…などが嫌われるのはなぜ)


自殺考え「先生ら殺そうと」 散弾銃立てこも医師殺害



沖縄で若者が暴徒化 SNS拡散で未明に300人集まる

東海道新幹線の焼身自殺事件、犯人の男性は年金に不満!
「年金が少なく、生活できない」


介護をめぐって医者を銃殺

この二つの事件は何を語っているのか?やはり事件は世相を表している
ただ猟銃で医者を殺したというのは医者は悪くない、ただ高齢化社会を象徴していることは確かである
なぜなら92歳の母親とこの息子は二人で暮らしていたからである
そして延命治療しなかったからと怒って医者とか看護師とかまで銃で撃ったからである
自分も自殺したいからと自暴自棄にもなっていた
また金もなかった、猟銃を買う金もなかったのである、二万だけ払ったとかある

ただ事件の背景として金の問題も大きいがそもそも銃をもって危険な扱いをしていたと
仲間が言っていて怖かったとしているからその人自身の問題もあった
高齢化社会で年金の問題はつくづく大きいと思った
働くこともできないと年金が唯一の頼みとなるからだ
だから高齢化社会にとって年金は命綱だとつくづく思った
そのために新幹線で

年金が足りないと自殺

この人の気持ちが本当にわかる、現実に年金が4,5万しかもらえない人がいる
国民年金だと多くても六万くらいしかもらえない人がいるのだ
厚生年金でも15万くらいが平均である、それでもたりないとなる
猟銃による医者殺害事件はこうして金銭的に追い詰められた人のとっぱちりを受けたと犠牲者だともなる
とにかく人間は追い詰められた人間が一番怖いのである
食べ物がないとなれば襲ってくる、殺されるとまでなる、それは動物と同じである

これから追い詰められる人間が増大する

年金がまともにもらえない、生活保護も最低限の保証がない、生活保護が十万くらいもらえるかというと7万しかもらえないとか実際は年金四万もらってあと一万とかもらえるだけだとかなる人もいる、医療費無料でもない常に三割くらい自己負担だとなっている

生活保護はもうもらえない、崩壊する

それが見えている、氷河期世代になると生活保護では生活できない、飢え死にするかもしれない、それで現実に凍死したとか暑くて熱中症で死んだとかある
クーラ―もないからそうなった、特に最近暑くなっているからである
おそらく福祉関係はもう予算をつけられない、崩壊してゆくかもしれない
余りにも高齢化社会になり病人が多すぎるからである、そこで手厚い医療を受けているがそれもできなくなる、もう一部できなくなっている

米騒動(こめそうどう)とは、米の流通量の減少や価格高騰によって民衆が米を入手しづらくなることが要因となって起こる、騒ぎなどのことである。

打ちこわし(うちこわし)とは、江戸時代の民衆運動の形態のうち、不正を働いたとみなされた者の家屋などを破壊する行為のこと。「打壊」、「打ち壊し」、「打毀」、「打ち毀し」などと表記されることもある。

こういうことが起きてくる、米騒動打ちこわしは大正時代にも起きている

昨今の物価高でも庶民の生活が苦しくなると物騒になってくる
現実になっているのである、金持ちの家がねらわれて襲われ安くなる
そして金持ちの家は不正して金をためていたとか見られる
特に公務員に風当りが強くなる、楽して儲けているとかうらやましがられるて怨嗟しているからである
この経済の停滞衰退は大きな問題となる、物価高は年金暮らしとかに大きな負担となるからだ、ただ暴徒化するとなると若い人の方がなりやすい
それで沖縄で高校生が暴徒化したのがそうである
今まで警察署を襲ったなどあまり聞かなかったのである
日本人は我慢強いとかされていたのである
でも世相が変わってきた、これから暴徒化することが増えてくるかもしれない
そこで襲われるのは警察とか医療関係者とか一部の金持とか特権階級である

●嫌われる職業

そもそも警察、医者、公務員、教員、創価(他のカルト教団)・・などは嫌われる
なぜなら警察は庶民をみんな犯罪者と見ている、仕事自体が習性でそうなっているからだだから傲慢であり権力をもっているからいつも強制的になり上から目線になる
医者でもいつも相手にするのは病人であり弱者であるもし強者なら下手なことすると攻撃されるとなれば怖いから上から目線で扱えないということもある

でも相手は弱者ではあり抵抗できないとなるから命令で強制できるのである
だから猟銃で殺されたとういのは医者が悪くないにしろ日ごろから医者は弱者を相手にしているから言うことを聞くものだと思っていた
これは医者が悪くないにしろ何か現代を象徴するものでもあった
とにかく介護の問題は必ずみんな経験する、私はもう老親二人の介護で死ぬ思いをした
自分自身も介護中に二回手術もあり入院した、そこで孤軍奮闘するだけだった
誰も同情もしないし病院では看護師に虐待されたりさんざんな目にあった
これも楽した自分のカルマとしてこうなったのであり他者を責められない

でも警察とか医者とか公務員とか教員でも公務員でも創価とか
他のカルト教団でも嫌われるのはなぜか?

そうした職業が権力をもっているからである、強制できる力をもっているからである
逆らえないという力をもっているからである、そしてそういうみんな公務員だけど得する仕組みになっているからだ、たいした仕事をしていないのに給料が高いと特権があるとかなり民間から責められるのである
それは自分の家族に公務員がいたからそれを知っているのである、公務員は得するようになっているのである、おそらくそのために自分が得した結果として苦しんだともなると見る
医者がそうでないようでやはり強制する力をもっている、一旦入院したら勝手に退院できない
それで病院から勝手に逃げた人がいた、自分も家を空にして大事なものがあって一時病院を出ようとしたができなかった
現代でぱ医者とかは相当な権力者でありこ権力団体のなのである
医者は地域でも必ず有力者になっているからである

創価とかエホバとかカルト教団が嫌われるのはその人たちも権力をもって集団で組織で動き会員獲得を強制するようにもなる、まわりを会員にして強制する力をもつようになる
もし批判すると集団で責めてくる、質が悪いのは罰が当たるとか地獄に落ちるとか脅迫する、悪質な脅迫団体にもなっているからだ
これは悪質な宗教を利用した強迫団体なのであり本当は法律でとりしまらなければならないのだ、それが自民党でも票が欲しいとして結託するのである
また票で権力を操作できるとして毎日選挙運動しているのである

●宗教は外見より心を見る

そも宗教の宗祖を見ればわかる、キリストに何の権力があったのか?
枕するところもない宿無しだった、シャカは洞窟で民衆から食べ物を与えられて布施で
修行した乞食でもあったとなるからだ、どこに権力があるのかとなる
何の権力もないのである、もし宗祖を見習えばそんな権力集団が宗教とはならない
日蓮にしてもあばら家で貧困の中に一生を終わっている
カルト教団とは宗教利用した強迫団体であり犯罪集団にもなるのだ、現実公明党議員が逮捕されたから検察がまだ司法権力をもっているが活きていたとなる

結局「悲しむ者は幸い」だというとき悲しむ人とは誰なのか?
そういう特権既得権者ではない人だとなる、その人達は権力の恩恵にあづからないからである
ただもう今は末世である、こういうとき日蓮の時代のように様々なこと自然災害でも疫病でも戦争でも起きる、また食料不足にもなり奪い合いにもなる
そういう不穏な時代になっている、だから末世なのである
悪いことが次々に起きるのだ、そういう時期でありこうして膿みをだした後に平穏ないい時代が来るとなる
とにかくこの世がそもそもいつも火宅の世であり地獄が一定なるべしというのが現実だったのである

高度成長時代とかは特別恵まれた日本の歴史でも例外的な時代だったのである
これから末世であり様々なことで不穏になり事件でも起きる
それがどのくらいの期間続くかわからないのである
ただそういう時期だから様々な自然災害でも凶悪事件でも暴徒化すたり食べ物がないとかなり人々から平和は消えて犯罪者がふえる
生活保護が犯罪者にならないらうにするためだとしていたがそれも日本が貧困化して金がないから払えないのである、そうなると抑制もできないとなる
だから本当に怖い時代になる、安心して暮らせない時代になる
そしてこういうときさらに大きな自然災害でも世界的に見たら戦争でも起きるかもしれない、こうなると余り長生きはしたくないともなる、もう高齢者は生きることが辛くなるからだ、そうした世の中を生きることが体力的にもないとなるからだ

ただ意外と老人は気楽なのはこの世とはもう生きる場所ではない、去る場所だとなってしまったことである、liveとはlieveなのである
この世とはこの先長く生きるとなると苦しくなる
てもこの世から去るというとき重荷がおりた感じになる
それで私の母親の死に顔は笑ったようなものになった不思議ある
苦しみから解放されたのである、いつでも楽に死ねたらなと言っていたがそれだけは願いがかなったとなる
死とは何であれ苦しみからの解放なのである、成仏とかなんとかこだわるがそもそもそういうことは関係ない、なぜなら出鱈目に生きた人が楽に死んでいる
だから成仏とかではなくどういう生き方をした方が問題になる
最後に老人になるとそれが結果として現れるのである

●ボロを着ても心は錦

それが外見ではなく内面的に心の状態として現れる、それで宗教とは外面的なことてはなく社長になったとか地位を築いたとか金持ちになったとかそうした外見ではない心の内面のことである、外見から見ただけではわからない
その人はなぜか金が入る女性である、でもその心は普通ではない歪んでいる
その夫も奇形化している、別に結婚して子供も大学まであげているから外面的にはいい家族だとなる、でもそれも普通ではない、奇形夫婦に見えた
でもその人は金もあるしいい家族に見えるのである

神は人の心を見ているという時外見を見ないのである、見えない心を見るのである
それは人間には見えないが神には見えるのである
だからいくら外見が良くても神は評価しないともなる
でも世間で評価するのは外見なのである、ボロを着ても心は錦ということにもなる
それで「悲しむ者は幸いなり」となる
外見が良くても一見悲しむことのない人は何か心は歪んでいるともなる
地位があり金がありこの世で特権を得て楽しているということで悲しむことがないからだとなる
でもこれはむずかしい、なぜなら悲しむ者が幸いだと悲しんでいる人が思わないからである、むしろ恨むものとなっているのが普通だからである
そういうふうに自ら納得することは簡単にできないのである、これを理解するのは相当にむずかしい
第一そうして苦しい暮らしに満足する人などいないからである、宗教だとただ心の問題を重視するからそうなった

ただなぜ鎌倉時代に日蓮とか親鸞とかの念仏とかか盛んになったのか?

それはもう生きていても何の救いもない、食べるものもない、餓死者が道端に倒れて道を作っていたとんいう絶望的なものだったのである、するとどうなるのか、せめて来世に極楽に行って楽したいとなるだけである
望みは今世にはない、来世の極楽で過ごしたいというだけになる
そしてその時代にまず字を書いたり読める人は僧侶階級とか特別な人であり一般庶民は字も読めないのである
すると題目を唱える念仏を唱える、それならできる、そうして一心に唱えて地獄の世から来世の極楽に行くことを願ったのである
それしか望みがなかったのである
そもそも病気になっても医者にも行けないのだから題目でも念仏でも唱えるほかないからである

いづれにしろ今は末世である、これから様々な艱難が来る、自分にしてももうなぜ自分自身のことや家族でも地獄になった
回りでも津浪だとか原発事故だとか次々に災難が押しよせてきた、そしてコロナウィルスが疫病が襲った
正に鎌倉時代の末世現象なのである、何かカルマが積もり積もってそれが現象化する
それは個々人でも家族でも地域でも国家レベルでもそうなる、次々に災難が押し寄せて来るのである


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2022年02月04日

権力に支配されたマスコミ、メデアの問題 (東京のキー局が地方局を支配するー福島原発事故の原因にも)


権力に支配されたマスコミ、メデアの問題

(東京のキー局が地方局を支配するー福島原発事故の原因にも)


歴史的には、日本の民間放送は東京以外の地方から発展したが、番組製作にかかる莫大な資金やスポンサーの調達を経済が集中する東京が主に担うようになり、在京局がキー局の役割を持つようになった。テレビ放送においてはキー局は番組製作とスポンサー集めを一括して行い


吉野次郎(日経BP記者)は、キー局はその系列ネットワークの力を背景にローカル局を支配しているとしている。
堺屋太一(作家)は国会における参考人答弁にて、日本のキー局制度が東京一極集中の要因の1つになっているとしている




民主主義ではまず知らなければ判断しようがない、その知ることがマスコミにまかされている、報道するにも庶民はできない、権力を持たないとできなかった
だからマスコミがメデアが第三の権力となったのである
でもマスコミでもメデアでも放送するのにその装置から人員から金がかかるから東京一極集中、キー局支配になった、放送も東京により地方の支配になっていた
だから福島民報は県で50パーセント出資している、あとは聖教新聞を刷っている
そしたらそこに公正な報道はないのである
県の広報と同じである、また地方局でも地方の真実を知らせることもできない
東電とか政府の批判もできない、なぜなら中央のキー局の言いなりであり地方の問題を真剣に追求できないのである
そういうことから原発事故が起きた大きな原因でもあった

東京のキー局支配となればどうなるのか?

報道の自治がない、独立性がない!

つまり東京のキー局支配でありその東京支配だとなれば福島原発は容認される
東電が福島に作る危険性も指摘できない、なぜなら政府と東電が東京にあり東京の安全を計ることが優先される、キー局の新聞社でも宣伝費がもらえる仕組みになっている
だから原発が爆発したときマスコミの幹部が全員中国に招待されていたのである
このことが如実にマスコミでも宣伝費で成りたっているから公正な見方とか報道ができないのである
つまり何か大きな会社となるとその費用が大きくなるから巨大なバックが支援がないとできないとなる
そしてそのバックが東電であれまた政府だったら県だったら安泰だとなってしまう
すると必ず忖度するから原発の危険性も報道しないとなる
それは福島県民にとって重大な結果をもたらした、原発事故で故郷にも住めなくなった
県自体が放射性物質で汚染されて大被害になったのである

報道とかは常に反権力の立場にたたないと真実は追求できない、でもどうしても報道に金がかかるからおおがかりになるからできない、報道するものは本当は権力の監視機能としてあるべきものなのである、それが権力側に忖度して宣伝費をもらうことで曲げられる
それはひいては実際は県民であれ国民であれ大被害にもなる
そのことを市民でも県民でも国民でも考えないのである、実際に本当に真実を追求して
報道するテレビ局でも新聞社でもあればそれを支えねばならないとなるからだ
でもそういう意識がない、となると権力側にとりこまれた報道しかできないとなる
だから「政経福島」は確かに地元紙として真実を追求しているものであり読んでいた
でもなぜ裏表紙に相双リテックの宣言をしているのか?
それは相双リテックで除染で莫大な金が入りその何十億とかいう金を幹部で山分けした
その豊富な金が政経東北にも回ってきたのかとなる
つまり報道するにも金がかかる、調べる人員も必要だし金を払うとなると人件費にかかるでも雑誌を出したくらいでその金が得られないとなる
そこで宣伝費が大きくなりその宣伝費を出す会社に忖度するとなる

でもインタ−ネットで報道するなら雑誌を出版するように金はかからない
なぜなら自分自身が無料でプログで報道にかかわっているからである
これは手間がかかっても金はかからないのである、ただやはり記者のような人がプロが必要だとはなる、その人件費をまかなうことで金がかかる
またインタ−ネットでもそれなりの技術を習得しないとうまくいかない
ワードプレスにすればいいがそれもできていない、未だにHTTPSにもできないので困る
技術的なものとして備えられていないのである
またなかなかインタ−ネットだと読まれないのである、いい記事があってもわからないのである
ただこれまでふりかえると津波原発事故の時は相当に読まれていたことがわかった
その後ページ数としては半分に減ったからからだ、読む人の数は減ってないみたいだ
インタ−ネットの報道はなかなか知名度を得るのがむずかしいのである
でも今はスマホはみんな持っているから読む人も増えたのである

これからは報道はネット化する、今までの報道は金がかかりすぎるこたとで自主性を失っていたからである、それは市民でも県民でも国民のためにならなかったのである
一部の特権階級に既得権者にとっていいものでも国民全体になるといいものではなかっただから報道も操作されたものであり真実は報道されなかったのである
まず創価など批判したらどこでも受け入れない、巨大な権力をもっているから圧力でできない、でも結構ネットでは批判している人が多いなと見るのである
つまりネットは個々人が報道している、でも金がかからない、だからしているのだと思う金をもらっているわけでもないからだ、それがかえって強みだとなっている
そして実は県民だけではない、全国にも世界に報道する力をもっている
そのために地方だけに限定することでまた地方のテレビ局などが問題になる
ネットだったらその垣根がなくなるからだ

国境のないネットに県境をつくって自滅した民放
テレビ局を再編して日本にもネットフリックスを

JPPRESSというのもやはりネットの雑誌なのである、月刊誌ではなく日刊紙として出しているのである、それは個々人でプログとかyoutubeでしているのである
そこに多様性が生まれている、なぜ多様化するかというとそもそも人間の見方はその土地とかその職業とか生い立ちとか年齢とか男女でも見方が違ってくるからである
福島県でも浜通り地域と会津の方だと地理的に風土的に全然違ってくる
すると物の見方も違ってくるのである、だからあることについて見方がみんな違ってくるのである、それでグローカルという言葉が生まれた、グローバルとローカルが合体した言葉なのである、これも現代的だしまた地歴という言葉もそうである
地理は空間軸であり歴は歴史であり時間軸で見るのである
必ず何かを見る時空間軸と時間軸で見るからである、そこで多様な見方が生まれるのである

でもネットにも問題がある、今一瞬停電なり記事を書いていたら消えてしまった
これも怖いと思った、インタ−ネットの恐怖は何か一瞬に記録したものが消えることなのである、その恐怖がつきまとっているのだ
東北電力に聞いて見たらやはり一瞬確かに停電したのである、送電線とか中継の機器の関係でそうなることがある、でもそれは自動的に回復すると言っていた、特定の地域で一瞬電気が切れたのである
だから瞬間的でありすぐに一分もかからず回復したのである
パソコンの怖さは一瞬で記録したものか消える、その問題が大きいのである
その技術的な問題が大きなマイナス点なのである、でもどうしてもネットに移らざるを
えないだろう、そんなに金をかけてやれなくなるからだ

何かメデアとはなにかというときメデアとは中立であり媒介するという意味である
でも実際はマスメデアとかありメデアとは中立ではいなメデアという装置をもつものが
判断できる選ぶのである、人物でもマスコミがメデアが選ぶのであり選挙で選ぶのとも違うのである、マスコミの意向に沿った報道をするしマスコミの報道にそった人を選び発言させるのである、だから科学者でありる武田邦彦氏が温暖化はないというとき発言できなくなってネットで発言している
どっちかというと右寄りの人は発言させてくれないのである
つまり中立なメデアはないのである、インタ−ネットすらフェスブックでツイッターでもトランプ大統領の発言を禁止できたからである、まさか大統領までそうできたことなのである、だからGAFAが巨大な権力を世界的に持つことになったのである

何か媒介するものというとき銀行も媒介するものだとしてそういう媒介するものは終わるというのもそうだったのかとなる
また出版社とかでも媒介するものでありそれも終わる
というのはアマゾンで一冊でも本を出版できるようになったからである
電子本でなくてもできる、だからそれを私も試そうとしている、ただとにかく問題は手間がかかるのである、でもは実際はインタ−ネットは出版から販売から全部一人でもできているのである
だからコンテンツが大事でありコンテンツ勝負になるとしている
今テレビ局が面白くないのはコンテンツが作れないからだとしている
残るのはドラマだけだとなる、私もドラマはBSとかじ見ているからだ、時代劇が好きだからである、でもこれも時代劇専用のチャンネルでも見れるからその方がいいともなる
つまり今やこれまでのキー局支配の放送に頼る必要がないのである
問題はコンテンツ作りだとなる、これは個人でもある程度はできる
ただドラマとかなると簡単にはできない、他でもできないものがある、だからそこに生き残りの余地が残されているとなる

2022年02月05日

雪の朝、蝋梅、ボケの花(空家の庭の岩−囲炉裏と主)


雪の朝、蝋梅、ボケの花(空家の庭の岩−囲炉裏と主)

snowyrock111.jpg

これは写真で見た感じと違う
秀でた岩がそう見えない、だからやはり人間の眼と写真は違っている
実感と違ったものになる

roubaikomoru1.jpg

これは本が映っていたことが意外だったのである
でもそれが良かったのである、カメラはやはり意外ものを映すことがある、
人間の眼とは違う、でもまた実感と違ったものとして映ることがある
この下に石が二つあるからその全体を映っていないのである



秀いでて岩に雪かな朝の庭

庭の石組まれて堅く冬の朝

冬の日や人去り残る庭の石

ボケの花隣に咲くも空家かな

冬深む庭に動かず石二つ

冬籠もるその土地土地に生きるかな

蝋梅に雪や籠りぬ石二つ


ヒヨドリの蝋梅の花啄みぬ餌のともしやここに生きなむ

冬の日に干し物ありやこの家に住む人なしも石の残りぬ

雪の朝何の鳥なれさえずりのひびきて清し足跡残る

我が父と姉と母との残した家に住みつつ冬深まりぬ


今日の朝は雪景色だった、この辺ではそれなりに積もっている、薄くでも積もっている
それで朝は自転車で外にでる、朝は必ず出て外の景色を見る
そして寄ったのが庭が立派な空家である
この庭は相当に価値があるし一千万とかかかったような庭である
かなり高度に設計されて作られているからだ
目立ったの高い所の秀でる岩である、そこに雪が積もっていた

隣の家も空家でありそこに石が残っている、でもそこに洗濯物を干していたりするとき暮らしがあり石も活きていたのである、でも人がいなくなると全体が死んだようになる
そういう空家が近くにもまた一つ見つけた、玄関も閉ざされているか人がいない
すると庭の枯木も一段と淋しいものになっている
そこは確かに家族の人と知り合いの人の家だった

庭にヒヨドリが来て蝋梅の花を啄んでいた、こんなものが食べられて栄養があるのかとなる、でも何かしら食べ物がありそれで生きている不思議がある
二月でも今年は寒い、浜通りは別に雪とかも降らないし気候的には楽である
それで会津とか日本海の方の冬国のことが実感としてわからないのである
毎日が雪の世界がどういうものなのかわからない
でも今は冬ごもりの季節である

何か囲炉裏があり薪をくべてあたたまる、そして土地の人とあたたま、そこで親交が深まる、それが田舎だった、農民社会の田舎だったのである
今はそういうことがない、農家の存在は希薄なのである、田舎でも実際の農家は一割くらいなのである、だから農民社会ではないのである
だから意外と農家のことが農業のことが田舎でもわからないのである

そのために浪江で原発事故でゴーストタウンのようになり回りの田畑が草ぼうぼうになっていても街中に住んでいた電気関係の仕事をしていた人は補償金もらって良かったと何も感じないのである、人間はその職業で感じ方が全然違うのである
電気関係の仕事をしていれば農業は関係ないのである
そしてこの辺でぱそうして原発とかで電気関係で働いている人が多かったから農業に関心がなかったのである、だからまわりのたはたがくさぼうぼうになっていても何か感じていなかったのである
これは農民が6割とか戦前でもそうだったがそうなっていればそうは感じなかったのである

ともかくこの辺でぱ雪国ではないから雪の感覚がわからない、でも深く雪にうもれた生活がどういうものか知る、でも私は風流として見ているだけなのである
実際の生活を知らないのである、それで生活実感を重んじた人から批判されるのもわかる例えば曲家(曲がり家)がある、するとそこにどっしりと根付いた生活がある
馬と一緒に暮らした生活の重みがある、そこが深い雪に埋もれ閉ざされる
そこに自ずと生活の重みが生まれる、田舎にはもともとそうして生活の重みがあった
大地に根付いたような重みがあった、存在感があった
それが工業化社会になったことき希薄化したのである

そういう生活に憧れて実践したのが山尾三省だったのである
ただ正直パンも贅沢などという生活を田舎でも誰も望んでいないのである
田舎でも都会の生活であり車一人一台もっているとかありぜいたくなのである
原発補償金が入ったら高級な車を買ったりさらに贅沢したことでもわかる
もう田舎でも金第一であり金を求めているだけである
昔の様な人間のつながりなどないのである、だからこそ簡単に街でも村でも原発事故で崩壊したのかともみる、昔の田舎と今の田舎は全く違ったモノなのである
でも日本が貧困化してくるとそういう生活を維持できなくなる
電気水道ガス代でもまともに払えない人が二割くらいいるとしたは多い
そうして困窮してくる社会で生活自体を見直さざるをえないのである
ただ電気水道ガスもない世界に戻ることはできない
でも困窮して来たら日本はどうするのかとなる


囲炉裏と主

囲炉裏に主の座が動かずあり
どっしりとして威厳を保つ
赤々と火は燃えてその顔を照らす
茅葺の家で長い冬を過ごす
巌のように主の座がある
外は雪が積もり足跡を残す
前の畑の冬菜が雪の中に育つ
囲炉裏に燃える火は体を温める
主は黙して威厳を保つ
しんしんとなお雪は降り積もる
雪国の冬は長く春は遠い・・・



こんなふうになるのであるそこに都会にはない、現代にはない人間の重みとか威厳があったともなる、ただ現実は生活は厳しいからあくまでもイメージしたものである
自分の場合はただイメージしているだけなのである

2022年02月06日

自己責任とは何なのかー権力をもつ者が責任がある (最終責任は神にある-人間の責任の限界)


自己責任とは何なのかー権力をもつ者が責任がある

(最終責任は神にある-人間の責任の限界)

●侍の責任は切腹だから庶民は侍になりたくなかった

自己責任のことを良く言われるようになった、自己責任とは何かということが問われる
それはあなたの責任です、あなたが悪いのですとなる
それは民主主義社会になったときそうなったのである
民主主義では自由でありでもその自由には責任がともなう、だから何でも自由でも事故責任にされる、でもそもそも人間はあらゆることに責任などとれないのである
また他者にしても自己責任は問わない
何かこれは罪を問うのと似ている、罪を犯した女性に「罪なき者はうて」といったとき
誰もその場にいなくなった、みんな罪を犯していたからである
罪を問いうるものとはそれを問い裁ける権能を持つものだとなる

責任もそれと似ている、誰もあらゆることに責任を持てないからである
ただあらゆることに人間は責任が問われる存在である
また確実にあらゆることで責任が負わされて問われる
民主主義社会とは平等な権利があるというときみんな平等に責任も問われる
意外とその責任を自覚していなのである
江戸時代とか封建制とか君主制とかだと責任は庶民にはない、江戸時代だったら政治にかかわることもできないのだから責任は侍にある

だから庶民は切腹などしたくないから侍になりたくなかった

侍の責任は切腹してとれとなっていたからである
つまり侍が威張っていられるからいい、得だからいいとかにならない
それだけの責任をまかせられるからそうなる、その時庶民に責任はない、自己責任もあるにはあるにしても本質的にはないのである
だから確かに侍をうらやむことがあっても侍になりたくなかったのである

庶民はもともと責任はなかった、責任を持つものは何か必ず権限を持つものである
侍は行政組織であり権限をもっていた、逮捕したり刑罰を与えたりする
その責任は相当に重くなる、今でも裁判がむずかしいのは人間には人を裁ける権能がないからである、罪なき者は打てというときがそうである
裁判官でも普通の人でありその人が人を裁くときやはりできないとなるからだ
そこに常に複雑な事情がありそれを酌量すると人を簡単に罰せられなくなる
だから警察とかは一番権力があるのだから責任も一番重くなる
でもその権力故にかえってその権力を悪用するとなる
つまり権力を持つと必ず悪用するものがあり権力は絶対的に腐敗するとなる

●権力をもつ者は責任が大きい

ローマの官僚のピサロがキリストを十字架にする判断をしたとき「自分には責任がない」と言った、でもそういう権力を持つ場にあったから後で責任が問われたのである
つまり権力を持つ立場にあればそれだけで思い責任が課せられていたのである
なぜなら十字架にしないこともできる権力を持っていたからである

そして一旦権力を持つとその権力者を罰することは簡単にできなくなる
権力が大きくなるともう罰することはできなくなる、かえってその権力の悪を追求ずると罰せられる、原発事故が起きたのは「原子力村」という権力集団ができたためである
その権力は安全神話まで作ることができた絶対的なものとなる
政治家、官僚、御用学者、科学技術者、マスコミが一体となり安全神話を作った
そこには海上保安庁とか司法関係の官僚も天下りしていたのである
もうこれだけの権力で固められたら誰も批判はできなくなっていたのである
そこに権力の恐ろしさがある、
神話というとき日本神国神話の戦争もそういうことがあった
今度は宗教が権力を作るのである、天皇は現人神(あらひとかみ)だから負けないとなって三百万人も死んだのである、それで広島を訪ねた昭和天皇がその責任を問われたときしどろもどろになっていたのである、あなたは神なのになぜ負けたのかと問われたことにもなる、その時天皇もその空恐ろしい責任を問われたのである

そういうことは創価とか他のカルト教団にもある、政治と一体化して権力化しているからである、創価などは選挙が聖戦とも位置付けているから常勝だとして信仰の力で勝ったとかなりそれで成仏するとかまでなっている、それは日本神国戦争と似ているのである
だからこそ政教分離がヨ−ロッパで生まれたのである
何かカルト教団に入ってだまされたとして裁判沙汰になった人もいたようである
それも自己責任に成るのか?
政教分離をしていない創価などは確実に法律で禁止されることをしているのだからそれが社会で通用しているのだから自己責任にはならないとなる
いくら政教分離を言っても現実にそれは容認されて自民党が利用しているからである

こういうことはいろいろある、つねに人間社会では責任が問われる
だからこそ契約こまかく責任をとりませんとして契約させるのである
それだけあらゆることで責任が問題になるのが人間社会なのである

●自己責任も必ずあるが何でも責任を問えない

JA東びわこ(滋賀県彦根市)による2016年開催のイベント内企画「おにぎりの早食い競争」で、参加者の男性(当時28)が喉を詰まらせて死亡したのは、主催者側の注意義務違反に原因があるとして、両親が同JAを相手取り、約8300万円の損害賠償をもとめて裁判を起こした

こんなことまで責任をとらされる、これはこんなエベントに参加したこと自体自己責任だとも思う、早食い競争などそんな馬鹿らしいことに参加すること自体常識でそれがどんなことかわかる、それに参加したこと自体が自己責任だともなる
ただ自己責任となるとき本当にどこまで自己責任になるのか判断できないのである
あなたが貧乏なのは自己責任だというの簡単である
実際はその人自身の問題は必ずある、怠け者だと努力しないとかいい加減だとかいろいろある、でもすべてが自己責任とは言えない、そうしてこの世の中は不可解だからインドではカースト制が生まれた、前世の宿縁でそうなったとなる、カルマでそうなったとなる
それが必ずしも理不尽ではないのは人間はみんな明らかにカルマをもって積んで生まれてくるからである

いい親に生まれたのもカルマだとなり悪い親に生まれたのもカルマだとなることがあるからだ、それは確かに不公平なのだけど人間は完全に平等にはできないのである
だからこそ共産主義がいいようで失敗したのである、なぜなら人間は努力することがなくなった、いくら才能があっても働いても結局同じ収入にしかならないとして能力のある人でも馬鹿らしいから働かなくなったからである
どうしてもその家でもやはり何らか徳を積んだり努力する家であってそれを受け継ぐことで豊かになる、そういうことは必ずありみんな働く者でもしないものでも才能あるものもない者を平等にすることはできない、そうするとかえって不平等になるのである
代を積み重ねることとは時間軸で積み重ねる努力があり豊かになることである
だから人間は一代では豊かになれない、だから強制的に共産主義のようにすることは失敗したのである

いづれにしろこの自己責任とか責任問題は様々なことがありそれを問うことはむずかしいのである
ただ侍は権限をもっていたから責任があり庶民にはなかったとなる
今でも権限を権力も持つものは大きな責任がある、だからその責任は厳しいものとなる
ただ得するからと権力を持つことはできないのである
そうなると戦争で3百万人死んだとかなりその責任は誰にあったのかと今になり問われるからである、原発事故でもそうである、その甚大な被害の責任でも誰もとっていない
でも地元の人は故郷に住めなくなったという責任をとらされたのである
政治家とか官僚とか御用学者とか科学技術者とかマスコミでも責任は問われない
でもマスコミでも相当な責任があったのである
これまでは勝手に放送する報道する権利など庶民になかったからである
すると庶民はやはり責任があまりないとなっていた
知りえようかないし発言もできないとなれば責任がそもそもないからである

●責任は万能の神しかとりえない

ただ責任というとき本当はもう人間では責任がとりえようがない、人間は万能でもないし必ずミスがあり事故だってあるしさけられないのである
医療ミスだって必ずありそれもさけえようがない、それをいちいち問うしていたら誰も医者にならないだろう、手術に失敗したら切腹だと成ったら誰も医者にならなくなる
そういうことは他でもある、つまり人間は責任を負いきれない、それは人間が万能ではないからである

すべての責任を負えるのは万能の神しかいない!

実際はこうなっいる、神が人間を創造したというときその責任は実は神にある
創造責任がある、機械でも作った人に壊れたら責任があると同じである
第一神が人間でも作ったとしたらその製作責任がある
だから最後にキリストが十字架で「神よ、神よ、我を捨てたもうた」と神に訴えてその責任を神に訴えたとのである、それで神はその責任をキリストを蘇らさせることで果たしたとなる、つまり人間にはそもそもあるゆることで責任は負えない
なぜなたら万能ではないからである、だから必ず何らか事故になったり問題が生まれる
その責任を自己責任だとして神がその責任を人間に負いとしても無理である
人間にはそんな責任を負える能力などないからである

ただ自己責任であれ責任は人間にありそれを全部問わないということではない、問われるべきものがある、特に権力をもったものには厳しく問われるべきなのである
つまり権力を持つものと持たないものでは責任の度合いが違うからである
権力を持つ者の責任は重いのである、だから簡単に地位あるものとか権力を持ちたいとなるのは問題なのである、そういう重い責任を自覚せずになることは危険である
そうなるとその権力の悪しき利用で甚大な被害になる、戦争で何百万人死んだとかまた原発事故で故郷に住めなくなったとかなる
だから侍のように切腹して責任をとる覚悟ないと本当はできない
ただ得して楽して威張っていることとかを望んでそういう権力を持つことは危険になる

そして現代の一番の権力が金なのである、金を多くもっている人はやはりその金の大きさに比例して責任が生じている、それで江戸時代でも十両盗んだから死刑になっていた
つまり金を持つことも責任なのである、金がもてない貧乏な人は現代でぱ責任がないとなる、何であれ金を多く持った人は責任が生じる、それを浪費した遊興費とかにしたら責められる
そしてグロ−バル化社会になったとき金を一番もっている権力を一番持っている国が今ならアメリカが一番責任があるのだ、原爆でも落とす権力をもっていたし核も持っている
つまり核兵器を持つ国は人類に対して責任がある
軍事力は最大の権力だからである、それを悪用されると人類滅亡にもなるからだ
だからそれだけの責任が生じている、ただ強ければいいとはならないのである
強いから何でもしていいとはならない、そこには必ず責任が生じている
その責任はカルマとなってのしかかる、アメリカげ原発を落としたということでカルマとなっている、その責任が余りにも重かったのである

●宗教も権力化する、聖なるものの権威の悪用の危険

例え戦争に勝ったとしてもその責任はカルマは重く消えることがないのである
だから権力をもつことは責任でありその責任が必ず問われるのである
それから逃れることがてきないのである
だから侍のように切腹でも覚悟しないと権力は持てないとなる
結局でも権力の濫用が常にありそのために被害がある、だからいかに権力を抑えるかが人類の課題なのである、それは宗教でもそうなのである
宗教も結局宗教の濫用であり神の権威の濫用であり神が味方しているとか仏が味方しているとかなり相手を恐れさせて戦争もしている

確かに旧約聖書時代はそういうことがあった、でもよくよく聖書を読んてみると権力の否定なのである、軍隊を持つことでも民衆の数を数えることでも否定された
そしてみどり子に治めさせよというとき権力の否定だったのである
つまり神は弱い者の味方なのである、弱い者が強い者に勝つ物語なのである
出エジプトでもそうである、強大なエジプト軍に対して海を割る奇跡で逃れたとか
ダビデがゴリアテに勝ったとか弱いも者が強い者に勝つ物語である
権力とは強い者となるために持つ、でも権力は絶対的なものではない、権力とはこの世のものであり権力を永久に維持はできない、常に権力争いがあって権力は変わるのである
維持出来ないのである,アメリカの権力ももう維持できない、中国でも維持できない
内部分裂したりして維持できないのである

宗教が権力と一体となることは最悪なのである、それが証明されたのは日本の神国戦争でもあり宗教戦争でもそういうことがあった、神が味方するとして正当化される
でも人を殺すなというとき何であれ人を殺すことは宗教では否定される
でも宗教ではかえって人を殺すことでも宗教によって正当化されてきたこともある
宗教が戦争を肯定することはありえない、ただ自衛とかなにかそういうことではありえるがそもそも人を殺すことは罪だから戦争は大量殺戮だから否定される
戦争というときそれも強い者が権力あるものが権力で優位にたつものが勝つとなる
でもそもそも強い者が権力だけで軍事力だけで人を治めることは国を治めることはできないのである

ともかく自己責任というときとても人間は責任を負いきれるものではない
それが必要でもあまりに責任を言うと何もできなくなく、だから最近で子供に話しかけることもできない、常にどこかでマスコミで児童への性犯罪とか言われる
すると必ず責任問題になりもう何もできなくなる、子供と接することもできなくなっている、それは常に責任を問うからそうなる
でも全員がそういう人ではない、でも一人でもそういう人がいたとして今は情報社会でそうなるのである
民主主義とは誰ても逆に責任を追及てきる、侍が責任をとったというとき民衆から批判されるからではない、君主に殿に責任をとらされたのであり民衆が責めるからではない
現代は大衆でも民衆でも絶えず責任を問う、事件があれば報道されて責任を問うのである他者の責任を問うことは楽しみでもある、自分自身に被害はないからである
でも「罪なき者は打て」となりそんなに自分自身をふりかえって責任を問えるものかともなる、その責任を問うことでブーメランのように自分の責任も問われるのである

●報道でも出版でも権力に左右される

出版とか報道するにしても権力がないとできない、今まではそうである
勝手出版したり本屋に置けないのである、図書館にも置けない、自分の本は創価を批判したのか個人というだけで地元の図書館に置けなかった、それを管理していた役人はそれだけの権力をもっていたのである
つまり報道とか出版とかでもトランプ大統領すらツイッターとかで発言されなくなったことでもわかる、メデアは中立ではない媒介するだけのものではない
権力機構として機能しているのである
だから権力をもつものは常に監視しなければならない、でも権力者は必ずその力を行使してくる、つまり何かを禁止する力をもっているのである

だからこそ権力を行使できる人は監視する必要がある三権分立になったのである
権力の横暴を止めるものとしてそうなったのである
民主主義の基本がそこにあったからだともなる
共産主義政権にはそれがなく一党独裁となり反対するものは権力で抹殺されて殺されたとなるからだ
権力は大きくなれば監視することも抑制することもできなくなる
そして遂にナチスともなりカルト教団でも席巻されて甚大な被害になる、戦争で何百万人死んだり反対者が千万人殺されたとかも言われる、共産主義だと粛清される
権力とはそういうふうにその使用を誤るともう甚大な被害になる
だから政治の理想は無権力だとなる、それは結局この世では実現しない
来世の神の国で実現するのである、この世は結局そうて権力争いで自滅するのである
それが人間のカルマであり宿命なのである

2022年02月08日

地理が歴史を作る (初夢(はつゆめ)内村鑑三よりー世界を見る)


地理が歴史を作る

(初夢(はつゆめ)内村鑑三よりー世界を見る)


めぐみのつゆ、富士山頂にくだり、
したたりてそのふもとをうるおし、
あふれて東西の二流となりぬ。


その西なるものは海をわたり、
ペクトュをあらい、クンルンをひたし、
テンシャン、ヒマラヤのふもとに水注ぎ、
ユダの荒野に至りてつきぬ。


その東なるものは大洋を横断し、
ロッキーのふもとに黄金崇拝の火を滅し、
ミシシッピー、ハドソンの岸に神の聖殿をきよめ、
大西洋の水に合してきえぬ。


アルプスのみねはこれを見て
あけぼのの星と共に声を放ちて歌い、
サハラの砂漠は喜びて
サフランの花のごとくに咲きぬ。


かくて水の大洋をおおうがごとく、
エホバを知るの知識全地にみち、
この世の王国は化してキリストの王国となれり。


我は眠りよりさめ、ひとり大声によばわりていわく、
「アーメン、しかあれ、
みこころの天になるごとく地にもならせたまえ」と。

worldmap111.jpg

内村鑑三は日本のアブラハムだった、聖書を解読した始祖でもあった
地理論も書いた、なぜ江戸時代に生まれ明治になりそれだけの世界的視野をもてたのか?意外と明治は世界的視野をもっていた人がいたしまた明治が現代と違っていたのは
江戸時代に育まれた鎖国三百年でも日本の精神が醸成された時代だったのである
だから和魂洋才の時代だったのである、日本という伝統的に育まれた精神でも活きていたのである、すると西洋化したとしても日本という伝統精神は色濃く残っていた
それが内村鑑三の場合は武士道だったのである
それでキリスト教に武士道が接ぎ木されたとなる、もう現代になると日本では接ぎ木されるものが残っていないのである

特に戦後は日本的精神はアメリカ化されて物質化されたから残っていないのである
例え民主主義でもそれはあくまでも表層的なものとしてしか受け入れられず日本には本来の民主主義もない、西洋文明がキリスト教文明と指摘したときそのキリスト教でも日本には根付かなかった、ヨ−ロッパから取り入れたの科学技術であった
洋行したとき関心したのは機関車とか科学技術げありキリスト教は受け入れなかった
つまり西洋文明とは科学技術機械文明だとして取り入れたのである

内村鑑三が明治時代にグロ−バル化した世界をすでに見ていた
でも実際に留学したのはアメリカである、アメリカしか行っていないのである
でもその経験がその当時でいかに大きいものだったかわかる
今でも日本を語りうるものはたいだい留学した人だとなっているからだ
つまり外国で暮らすことによって日本を比較して見えるからである
ただ明治と違うのはもはや日本には江戸時代の遺産が消失してしまった

明治はまだ江戸時代が現実に活きていたのである
だからこそ武士道キリスト教というのが成立ったのである
その後は武士道は明治でも消失してわからなくなっていったのである
そして大正時代から戦争へと突入する暗い時代になったのである
内村鑑三が薫陶を受けたクラークの時代はアメリカはホイットマンに詠われた素朴ないい時代だったのである
ところが十年くらい過ぎてアメリカは変わったとしている、別なアメリカになったとかいう人がいる
やはり時代は常に変わっているということである
それでいい時にアメリカに留学したからアメリカのいい面を体得したことが影響した結果人も作られたとなる
人間はどんな人でも時代の影響を受ける、これはどうにもならないのである
現代からとても人物は出にくい、大衆社会とか物質化して世界中が求める者か金しかなくなったからである
それはどこでも同じなのである,グローバル化して世界が均質化したからである
旅行してもたいがい都会は同じようなものに成っているからだ、大衆社会というのも世界的に同じなのである


めぐみのつゆ、富士山頂にくだり、
したたりてそのふもとをうるおし、
あふれて東西の二流となりぬ。

この詩では富士山を世界の中央のように見ている富士山からめぐみのつゆが下り東西二つに分かれるというとき西洋と東洋を二つの川として表現している

ペクトュをあらい、クンルンをひたし、
テンシャン、ヒマラヤのふもとに水注ぎ、
ユダの荒野に至りてつきぬ。

ペクトュをあらい、クンルンとか北京とかなのか、中国でありヒマラヤが世界の尾根としてありそれがイスラエルのユダにつづく、明治時代にはまだイスラエルは作られていない第二次世界大戦の後に建国されたからである
ユダだとういときシルクロードとかユダや人が秦氏とかが弓月という国が中央アジアにありユダや人が日本がに古代に渡ってきたともみる
イスラエルが誤解しやすいのはそこは半分砂漠でありそもそも一神教は砂漠から生まれた砂漠の荒野から生まれた、イスラエルには隊商宿がありラクダをつなぐ場がある
つまりシルクロードであれ砂漠が道となり東西が結ばれていたのである

西安の長安の始皇帝は白人とされているしヨ−ロッパ系でありギリシャ文化も伝わっていた、仏教にギリシャのヘレニズム文化が伝わり仏像が生まれた、そしてインド人はアーリア人とドラビダ人の混血であり目鼻立ちがくっりきりした人が多い
すでに東西文明は交わっていた、そして日本があたかも世界の中心のように地理的にしたのはやはり明治に世界が結ばれたとき地理的に直感したのである
それはやはりアメリカに留学したことでそういう地理の感覚を得たのである
でも行ったのはアメリカだけであり船で行ったのである

つまり明治時代に内村鑑三は日本を地理的にどういうふうに見ていたかというと
東西文明の合流する統合する国だと見ていたのである、だから富士山が世界の中心と見たのである
ただヒマラヤを詩にしても実際に行っていない、わしはヒマラヤに行った、でも春であり高い峰が雲がかかって見えなかったのが残念だった
ただヒマラヤを見るには飛行機からしか見えない、その頂上は飛行機から見たのである
まさに天空に聳える峰なのである
ヒマラヤは三千メートルのトレッキングコースから見ると圧巻である、その高さに驚嘆する、三千メートルは富士山でありそこから8000メートルの山を見るのだから本当に天に聳える山なのである、その感覚は全然違ったものとなる

日本の山は実際は矢間とかあてられ谷間とかでもある、高い峰ではなく谷間を意識していたのである
世界を俯瞰的に見ることはそれは映像で見てもわからない、ただイスラエルがなぜ地上の神の国として定められたのか?、それは地理的なものである
イスラエルが中央アジアの砂漠地帯から地中海に面してそこがヨ−ロッパ大陸に向かっていた、一神教がやがてキリスト教でもヨ−ロッパに伝播して広がる地域にあったのであるつまり地理と神の定めた者であり世界史は地理がわからないと理解できない
地理は上か造ったものだからである、その地理は歴史がはじまってから変わることがなかったのである

でも世界を俯瞰することは神の眼をもつことでありできない、でも世界旅行が簡単になったときある程度は普通の人でもできるようになったのである
とにかくとんでもない場所に日本人でも行っていたからである
ということはこれから世界を詩にする人や絵にする人が出て来る
ホイットマンでもアメリカを詠うことで終わった、でもそのアメリカ自体が広大であり
大きな世界と同じである、中国もまた一つの世界である、インドでもそうである
だからまず世界を理解するときもう地理的に理解することが不可能になる
50歳からバックパッカーで世界を回ったことで多少世界の地理がわかった
でも本当に世界となると広いからとてもその広さゆえに理解できないのである
まず中国に三回行ったとしても広すぎてわからなかったからだ

ただ日本が明治時代にすでに世界的視野を持った人がすでにいたのである
それで東西文明の結節点のような地理に日本があることを指摘したのである
だから現代の政治情勢でも地理から見ると日本は中国とアメリカが対立するときその中間にあって双方を結びつけるものとしてある
つまりアメリカはヨ−ロッパの延長だからである、ぐるっと地球を一周してアメリカがヨ−ロッパ文明の延長でありそれが日本へめぐってきたのである
そしてアメリカは西へ西へと西部開拓に向かった、その西部開拓でも今のカリフォルニアで終わらなかった、アジアへ日本へ向かっていたのである
そして日本とアメリカの戦争となり次に米中対立となってきたのが現代の歴史だったのである

ただ明治以降はグロ−バル化して世界戦争の時代になった、平和的東西文明の融合はなかったのである、ただ地理的に日本は東西を結ぶ国として今でもある
そういう地理を理解することが政治でも経済でも文化でも基礎として必要なのである



地理が世界の歴史を作る

ヒマラヤは天空に聳え屹立し
下界は雲に隠れて見えず
その頂上は天より望む
畏るべき神の業かな

大草原は展かれて遠く
奔馬は本年の力に駆ける
遠くへ遠くへ限りなく
熱を帯びて歓喜して疾走する

大河は悠々と流れ尽きず
二つの国を分かち境界となり
文化を育み歴史を作る
上と下とを結び交易し文明を作る

砂漠は一なる神の棲む場
偶像崇拝を拒否した厳粛な場
シナイ山頂よりモーゼが下る
強靭な山より十戒を授ける

砂漠はまた道にして人結ぶ
オワシスに都市が生まれて結ぶ
その広大な延長の先にイスラエルのあり
神の定めし世界の中心なり

地中海に面してやがてヨ−ロッパへ向かう
地中海は交易の海にしてギリシャは栄える
植民都市のネオポリスの各地に
その船は帆を張りすすむ

やがて地中海より太平洋へ
コロンブスはアメリカへ渡る
地理の定めにより歴史は作らる
広大なアメリカに新世紀は成る

そして極東の東の端の日本の開国
日本は世界に門戸を開き
アジアの歴史の先兵となりぬ
西洋と東洋を結ぶ要の国なれ

陸が草原が河が海が山が歴史を作る
20世紀は海が歴史を作る
日本は海の戦いに敗れたり
中国は今陸を離れ海の戦いへ乗り出す

世界は地理の定めにより地理に成る
海を制するものは世界を制する
陸の帝国は地に埋もれぬ
始皇帝は地下の帝国に眠る

海は展けて新天地を見出す
アメリカの西海岸に陽は没り
日本の東海より陽は昇り
中国の西に陽は没り東西を結びぬ

地球の歴史の興亡は地理による
天地創造の神の定めし業による
今人は世界と交わり生きる
日本よ、その地理により再び興隆せむ


自己と他者を知る者は、
ここでも了解することだろう:
東洋と西洋は
もはや分けることはできないのだ。ゲーテ



現代はすでにそうなっている、もう切り離せない一体なのである
その一体の先駆けとなったのが日本だったのである
そういう地理的位置にあったしこれからもあるとなる
馬が駆けるというときこれがどうしても車だとなるとロマンがないし躍動感がなくなる
この馬は今はないが自転車に乗るとき走る時馬に感じるのである
馬は風を感じるし自然を感じるからである、それで走っている時熱を帯びて躍動感を感じるのである、だから機械に頼る時本然の生き物の力を失っているのである
動物は本然の力で生きているからである、それで躍動感があるとなる

Geography makes the history of the world

The Himalayas rise and soar in the sky
The surgeon is hidden in the clouds and cannot see
Its peak is seen from the sky
Awe-inspiring work of God.

The prairie is spread out and far away
The wild horse runs with the power of this year
Far, far away, endlessly
With feverish joy, it gallops on

The great river flows endlessly
It divides the two countries and forms a boundary
It nurtures culture and creates history
It connects the upper and the lower, trading with each other and creating a civilization.

The desert is the dwelling place of the One God.
A place of solemnity where idolatry is rejected.
From the top of Mount Sinai, Moses descended.
Giving the Ten Commandments from a mighty mountain

The desert is also a road that connects people
A city is born in the oasis and it connects
At the end of its vast extension is Israel.
The center of the world, ordained by God.

Facing the Mediterranean Sea, it will eventually head for Europe.
The Mediterranean Sea is a sea of trade, and Greece prospers.
In the colonial cities of Neopolis
And its ships sail on.

From the Mediterranean Sea to the Pacific Ocean
Columbus crosses to America.
History is made by geography.
In the vastness of America, a new century was born.

And the opening of Japan on the eastern edge of the Far East.
Japan opens its doors to the world
It will be the vanguard of Asian history.
Japan will be the key country connecting the West and the East.

The land, the steppe, the river, the sea, and the mountains will make history.
In the 20th century, the sea will make history.
Japan has lost the battle of the sea.
China has now left the land and embarked on the battle of the sea.

The world is a geography by geography.
He who controls the sea controls the world.
The empire of the land will not be buried under the earth.
The First Emperor sleeps in an underground empire.

The sea will open up and find a new heaven and a new earth.
The sun sets on the west coast of America.
The sun rises over the East Sea of Japan.
The sun has set in the west of China, and the east and west are connected.

The rise and fall of the earth's history depends on geography.
The rise and fall of the earth's history depends on geography.
Now we live in harmony with the world.
Japan, through its geography, shall rise again.



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夕暮れになりました、そろそろ帰ります

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2022年02月09日

学校、社会で挫折しやすい陰の性格の人 (引きこもりにも効用があるー沈黙して自然と一体化する)


学校、社会で挫折しやすい陰の性格の人

(引きこもりにも効用があるー沈黙して自然と一体化する)


人間には性格があるし好みがあるしそれにあった生活をしないと歪められる
でも家庭でも学校でも社会でもいちいちその人の性格など見ていない
そして外交的な人、コミニュケーション能力がたけた人が人気者になり目立つのである
内向的な人は好かれない、その女性はいつもにこにこと笑っている
だから店で働く接客に向いている、もともとそういう性格だからである
私自身そういう女性とかに好感をもつ、それは全般的にそうだろう
内向的な人間は学校でも社会でも好まれない、陰気臭いとかなる
積極性もないから何か率先してやれないので目立たないのである

でもそういう性格を無理やり外交的な積極的な性格にはできない、それは生まれついたものだからである、人間には生まれついたものがベースとなって作用してゆく
不思議なのはフラワーアレンジメントで気づいたことは花を挿して飾っておくと時間の経過のなかでその花の特徴がにじみだしてくる
それから花はいろいろな花があってもどんな花とも調和して咲いている不思議がある
目立たない花でも例えば葉牡丹など目立たなくでもそれもぜんたいの中で調和して必要なものとして咲いている、これは滋味だからいらないとかならないのである
滋味な花は滋味なりに全体の中で働きがあり調和しているのである
人間世界にはこういうことがない、根本的に人間社会は調和しないのである
絶えず何らかでいがみあいけなしあい衝突して調和しないのである
人間の性格でも素質でもいろいろあっても認めない、こいつは陰気な奴だとかなり排除される
まず教育でもその人の特性に沿った教育などされない、ただ一律に同じように見て機械的に対処するだけである

そしてその人の興味にそって教育などしない、EDUCASTIONが引き出すという語源があるときその人にあった性格素質を引き出す教育などないのである
どうしてヨ−ロッパには天才が多いのだろうかとなる
それは貴族社会であり貴族社会だと個々人に家庭教師がついていたのである
すると個々人にあった教育ができたともなる、だからそこで天才が生まれやすくなったのかともみる

ただ貴族社会には貴族がいても労働者階級は含まれていない
だから「アテネィの学堂」というラファエロの絵には哲学者と弟子がいるし知的探求する天才はいても労働者階級はいない、庶民はいないのである
ギリシャでもソクラテスとかプラトンとか弟子がいても奴隷が支えていたことは語られないのである
奴隷というとき家事をする召使とかがそうである、そういう人は家事労働が機械化されないとき必要だったのである
もし家事労働に追われていたら知的探求などできないからである
それで私は学校では大学でも何か興味をもてることがなかった
でも大学卒業してから自由に旅行して地名とかに興味を持ち地理に興味を持つようになったのである
人間は自由な時間があれば必ずこの世界に興味を持つ、学校で興味をもって学ばなくてもこの世界は神が創った世界は驚嘆すべき美がありそれに目覚めるのである

つくづく学校はスコーレから暇が語源になっていたことが自分の人生で理解した
高校まで受験勉強とかであり強制されるものだった、ただ大学になると勉強は強制されないのである、むしろ授業に出る者は真面目で面白くない奴だとされていたのである
それで一日マージャンしていたりパチンコしていたりする人がいた
そのつま一生が遊び人、ギャンブル人生になった人も大学出ていたのも当然だとなる
何か文系大学だとレジャーランドとかされていた、自由なのである

でも暇だからその暇をいかに消化するかが問題になったり遊び人になった人もいるのがわかる、学生運動でもそれはマスプロ大学で千人とか入る講堂で授業していたからである
授業がつまらないから学生運動に入ったりカルト教団に入った自分の様な人もいる
暇であること何か空白の時間が生まれたのである
でも自主的に興味をあって高校まで勉強していないから何か研究などできないのである
私は大学出てからの方が自主的に勉強しつづけてきたのである
勉強とは自主的に勉強しないかぎりつづかないし継続できないのである
そもそも点数をとるために勉強とか学問はするものではない、何か必要性があり興味がありするものである、試験のための勉強は教育ではないのである

ただこの暇が意外といいようで普通の人には危険である、暇をもてあますからである
それでよからぬ方向へ向かうことがある、そこでギャンブル人生になった人もいる
ゲーム人生とかにもなる、そしていかに人生で時間の浪費が最大の問題だったことに気づくである、時間は本当に貴重でありあっというまに40才ですでに白髪となりおっさんになる、ふりかえると20代が盛りであり30過ぎるとすでに下り坂にもなる
つまり老人に向かっている、そして死に向かっているのである
だから人間は20代で決まるとまでなる、20代で社会からはずれたり引きこもりになると一生引きこもりになってしまう恐怖があったのだ
なぜなら自分自身がそうだったからである、それも怖いと思った
別に引きこもりにならなくても20代でその人の方向が決まり骨格ができる
そして30くらいでその人の人生は決まるとまでなる
人間の時間は限られていることを老人になると痛切に感じるからだ

まず人間の一生となる恋愛したり結婚したり家族をもったりするとその負担が時間をかけることになるから何か自分のあった知的探求の時間がなくなる
その負担が大きすぎるのである、追われてしまうのである
だから天才とか何か芸術家とか学者でも業績を残したのは8割が独身だったとかなる
それもわかる、人間はそんなにいろいろなことはできないのである
そんな時間がないのである、女性に費やすエネルギーも膨大でありそれで時間が失われるのである
そんなことで浮かれているとあっという間に時間は過ぎて白髪の老人になり今や死ぬだけだとなってしまうのである

理系の工学部とかで機械マニアがいてその人たちは機械マニアでありそこに没頭して優秀である、でも英語とかは得意ではないしだらしいなとか社会常識もないが日本にとって貴重な存在だとしている、そういう人達はやはり機械に対する情熱があり新しいものを作りだす可能性があるからだ、でも社会常識的に見たら異常だとなる
それも問題があるにしろ何かに異常に興味をもって没頭するとそうなりやすいのである
社会常識から外れてしまうのである
ベ―トベンとかでもそうだったとかある、つまり音楽の創作に没頭した結果そうなったとなる、でもそこは天才だから大目に見られていたのである
そういうふうに興味に没頭することは何か新しいものを作りだす人となる
引きこもりがこれだこけ多いとしたら何かそういう人が生まれるのかもしれない
ただ

おそらく最大の人生の誤算は意外と人間はすでに20代でその方向が決まりあとはその余禄みたいになる
それで「若きうちに神を知れ」となる、なぜ若いうちに神を知れとなるのか、そんなこと老人になってでもできる、それができないのである
求道は命もっとも盛んな時にするべきことなのである
病人になったり老いてからするものではない、それはすでに時遅しとなっているのだ
すると20代までだからそれもあっという間に過ぎてしまうのである
そして神を知る機会を失うでのである
だから若い時神を求めない限り神を知ることは不可能に思いるのである
それで朝に道を聞けば夕べに死すとも可なりとなる
その後の人生は余禄のようになってしまうのである
なぜなら30過ぎたら40になり白髪がでてきておっさんになるからだ
すぐに50くなっけ初老となり老人となるのである
そこで少年老い易く学成りがたしとかなる
結局結婚して家族を持ち雑用に追われていると時間が奪われでそうなるのである

そういうことで高齢化というのは悪いことではない、たいし才能がなくても時間をかければ積み重ねがあると雑学であれなんであれ自分の興味にあったものを開発できるからである、そのために私は抽象画を始めたのはパソコンを覚えて60過ぎてからなのかもう70に成ってから本格的に作るようになった
全然が絵の才能がないのにソフトを操作して偶然そのコツがわかったからである
たから長生きすることはこうして何かを発見したり学ぶことで自己開発ができる時間が長くなることで天才でなくても普通の人でも何か発見したり創作できるようになる
つまり技術は日進月歩だからその技術に適合して今までにないものが生まれるのである

それで必ずしも陰の性格でも悪く働くとはならない、引きこもりが批判されるが陰の性格の人はどうしても社会に適合しにくい、でもマイペースで自分の性格にあった環境で好きなことをしていると何か発見するということ創造することがりうる
そして引きこもりでいい面に働くのはいつも他人の顔をうかがったり御愛想笑いしたり
何か会社で上司にごまをすったりとかすなくてもいいことである
私はまるで禅僧のように沈黙業をつづけてきた
するとどうなるのか?自然と一体化してゆくのである
自然を知るには一体化するには沈黙が欠かせないのである
なぜなら大地でも山でも木でも石でも沈黙しているからである
ということは自然と一体化することは沈黙しなければ一体化できないのである
でも社会でそんなことしていたら異常だと見られるのである
でも引きこもりだったらそういうことはないのである

禅寺か自衛隊にブチ込めばよかった
引きこもりだから生産性のない奴は根本から対処せんと

引きこもりは禅寺に入るのが向いている、そこだったら別に社会に適応できなくても修行することで布施されて生きることになるからだ、でも現代でぱそういう場所がなくなったのである、不思議なのは貧乏な時代にこそ古代からでも寺が多かったことである
そういう場所にいれば職業につかなくても良かった
そもそも職業は業となるように何か悪いことをすることでありそれでさけていたのである
そういうことは職業には必ずある、何かしら社会の悪とか権力にとりこまれるとか悪いことがあるからだ
知っている人の息子は勉強が嫌いで自衛隊に入った、それで訓練されるからいいともなる私自身は家族の中にいても禅寺にこもっていたと同じだったのである
ただ一日成さずば食わずとはなっていなかった、食事でも毎日与えられていたし家事もしてくれたしただ暇だけがあったのである
だから好きなことをしていたのである、これはただ特殊な事情で家族に恵まれた結果なのである、それで家族には今でも感謝して供養しているのである
介護の時でも必死になってしたのはそれだけ家族に良くされた何でも自由にやりなさいということでそうできたことで感謝している
引きこもりだから親に殺されることもあったからだ

いづれにしろ人間の不思議はマイナスがプラスに働くしプラスもマイナスに働く
陰の性格は社会的にマイナスである、でもこれも実はプラスに働く、家に籠っていても
それで沈黙業を続けると自然と一体化してくる、それで未発表の詩を百遍以上書いた
それは沈黙業をつづけた結果なのである
だから精神修養には禅宗のように座禅して沈黙することが不可欠である
なぜなら人間は口から悪いものが出るからだ、その口からでる言葉の害は恐ろしいものなのである、その言葉によって人でも殺せるし呪いとなり子の世界を汚す、それが人間の特徴なのである

「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」。聖書

人間は最も言葉を慎むことがてきないのである、もし言葉をつつしむことができたらこの世はどれだけ住み心地が良くなるのか、それが見落とされているのである
言葉の害は恐ろしいものなのである、ある哲学者は心で殺意をいだいたら必ず殺すことになる、それだけで他者を殺すことになると言っていた
その殺意は殺意を向ける人だけではない、誰かの弱い人も関係ない人もその殺意によって害を受けて死ぬこともあるとしている
そのために中国でも韓国でも日本人に戦争で被害を受けたと日本人に敵意をむき出しにすることがある、それはすでに心でそう思うことが現実化する
日本を攻めて今度は復讐するのだとなる、それは口で言っているだけにはならないのである、それが現実化するから怖いのであく

posted by 老鶯 at 17:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など