2022年01月01日

2022新年の詩(フラワーアレンジメント)


2022新年の詩(フラワーアレンジメント)

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新年の詩

思わずに海底の山の噴火して
新しき島の現る
陸地も海となり
山は噴火してさらに高くなり
自然も激しく流動する
世もまた常に変化する
新しき技術の生れ
新しき未来を展望する
変化に適応せぬものは滅ぶ
新しき道を拓け
そして未だ見ぬ展望を得よ
先人の苦労を思い担いつつ
老いて成すべきことあり
老いて盛んなることあり
人生百年時代、変化を生きよ
日本も再び蘇えることあらむ
大洋を望み山を仰ぎ登り
大地を踏み川の流れを伝い
激流となりて海にい出なむ
また川にそい上る滝を上る
鯉のように天にも登らんかな
太陽はさらに輝きを増して
日本なれ旭日旗をかかげよ
大洋の波はうちひびき高鳴り
日本の真の栄の来たるべしかな



恵みはめぐる

水はめぐりめぐる
田から田へと水はめぐり
大地を潤しめぐる
分けへだてなく
水はめぐり潤す
太陽は田毎に輝き映り
一つの家に恵みあれば
その恵みは回りにめぐる
富は一か所にとどまらず
世界の富もはめぐる
めぐりめぐって豊かさを増す
めぐる水をとどめることはできない
恵みはめぐりほどさされる
あなたの恵みは回りの恵み
その土地の恵みはとどまらず
他の土地にもめぐってゆく
神はめぐみをめぐらせ
一か所にとどめない
一人占めする者は呪われる
太陽はかくして微笑み
神は満遍なく恵みのめぐるを見て
太陽はさらに増して輝き喜ぶ
今年も富はめぐる
富を留めむとするなかれ
その水は豊富であり
水は尽きることがない
神は水を恵みとしてめぐらす
かくてなみ豊かになるを知るべし




今年は自分としては何かバイオリズムがいい、介護十年とかで疲弊したが回復してきた
だから力が湧いてきた、そして最後に有終の美を飾る
人生百年は成果を出すのが遅くなる、なぜなら70代でも百才となればまだ序の口だとさえなるのである
ただ病気になったり体が弱るといくら金があってもだめである
いかに病気にならないか、健康であるかが勝負だともなる
もうすでに脱落している人も結構いるからだ
人間は老人になって突然変わったりしないのである
人間の体でもこれまでの積み重ね体験が現れるのである
それは心だけではない、体に現れるのである

だから青春時代でも放蕩とか欲望のままに生きたとかなるとそれも老人になると後悔となり回復できないものとして真善美も見えなくなるのである
カルト教団で運動していたものなどもそうである、それはただ奴隷として生きただけであり何か蓄積するものもないからである、そして自分自身の人生を失うことは怖いことである
人間は最後は偽ることはできない、人格でも人生の中で作られてきて顔に刻印される
心に刻印されるのである、人生の結果として老人がありもう人生をやり直すことができなくなっているのだ人間突如何ものかになることはないのである
ただ青春時代とかは激動であり行動の時代だから人生の方向を決めるものとなる

とにかく自分のバイオリズムは最高に上昇している、最後の集大成に向かっている
そして恵みはめぐるである、一人の人間に一つの家にとどまらない、国単位でもそうである、富はめぐらないとととこおると腐ってゆく、富を一人じめするようしなことはできない、富でも活かさないものは奪われる、だからアメリカは極一部の人が富を一人占めしている、そこに莫大なし富が集められている
そのためにアメリカはかえって衰退するのである、富はめぐらないと腐るのである

何か福島市郊外に米俵を蔵に積んでいたのだがその米俵が蔵から飛んでゆく空っぽにらなったという伝説があった
これも何か貯えていても使わないとそうなる、水がめぐるようにと富もめぐってゆくからである
富は有効に使えるものでないと持っていても腐るしそれがかえって害になることもある
そしてその富も消えてしまうのである、そき富は持つものにとっても呪いとなってしまうのである

今年は自分のバイオリズムはいい、でも日本自体は貧困化がさらにひどくなる
個人と国とかとなるとまた違っている、でも国自体が衰退すると全体に影響して個々人に影響してくる、全体的に運気が下がってくる
だから全体の運気を上げないと個々人でも良くならないのである

とにかく変化の年にはなる、自然でも常に変動している、それはこの辺の津浪で経験したまた新しい新島ができたことでもわかる、自然も変動しているのである
変動していることは新しいものが生まれるということである
自然は固定されたものではないのである
いづれにしろ激動がそこに生まれるとなる、そして新しい時代が来る
新しい時代を創るのである

今年も創作は続きます、佳境にもなっています、よろしくお願いします

祝ー真野川にサイクリングロード完成


祝ー真野川にサイクリングロード完成

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サイクリングの花文字


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これは美観的には良くない


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新しき道に小花や枯芒老若男女行き来するかな

ここは近くでありサイクリングロードと花文字を作った
ここを通っているのは近くの人であり歩いている人である
遠くの人は来ない、土手の道は遠くからサイクリングの人がたまに来る
でもここはわからないから通らないだろう
だから近くの人が利用するために作ったのかとなる

ただサイクリングロードとなると私は自転車が好きでいつも乗っているから
これはいいと思った、真野川の岸辺は広いから道にできた
他では宇多川とか新田川ではこうして道は作れない

最近サイクリングロードがかなり作っているのかもしれない
車社会になっていて自転車も六号線のはじを走るのは危険である
田舎では歩道を行けるからいいのである

もう一つの土手の道には花を植えた箱を並べたが何かかえって美観を壊したとうい感じにもなる
地植えにしなかったので不自然なのである、ただ箱が並んでいるという感じになる
何か宣伝なのかその箱に団体の名前とか個人名が書いてある
すると団体と個人の寄付としたのでそうなったのか?
でもこんなに箱が並んでいるのは美観的にはいいと思えないのである

北海道には長い専用のサイクリングロロードがあった
そこは本当に自転車が通らないからもったいないとみた
震災以後東京の方から移り住んだ若い女性が飯館村の方にサイクリングで行くと楽しそうだった
田舎はサイクリングには向いている、車がそんなに通らない所がまだまだあるからだ
ただバイクで吹っ飛ばす若者がいる、その音が嫌なのだがバイク乗りの人はその音に快感を覚えていたのだ、だからバイクも電動化することを嫌っていたのである

サイクリングするなら福島中央道になって車も通らなくなった前の道がいい
相馬市から霊山町まで行くと結構長いから達成感があった
そして車が通らないから走り安かったのだ
要するにあそこは今やサイクリング道路になったともみる
ただバイクも行く、車はほとんど通らなくなったのである

寅(虎)年のこと-トラの名の女性(千里旅した回想)


寅(虎)年のこと-トラの名の女性(千里旅した回想)

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花は枯れてしまうし季節も移ろうという理由から、いつまでも元気で健康な子に育ってほしいという親の願いから「くま」や「とら」など強い動物の名前が好んで付けられたとされています。

明治時代の女性の名前はキラキラネームが多かった?
https://www.meiji-jidai.com/society/post-141

このサイトが面白い、明治時代には花の名前がつけることを嫌った
それは花は枯れるとかあり嫌われた、その頃まだ早死にする子供が多かったからである
「子」がつく名前は上流階級の女性に限られて付けられていたというのが理由なようです
これも不思議である、とういのは実家の母の継母はトラという名の人だった
そしてこの名のように気が異常に強く母はいじめられた、それが悲惨だったのである

この女性は自分のおばあちゃんに当たる人だったがそういう意識がなかった
母はひどくいじめられたことを語っていたからである
そして字が読めなかった、それで字を書いてもらうのに遠慮して肩身の狭い思いをしていたのである、つまり明治時代には字が書けない人がまだいたのである
また子供でも早めに死ぬ人も多いから子たくさんになっていたのである
それは生物界でも子孫を残すのを第一としているから多くの子を産むとか卵を産むとかなる、自然の摂理だった
そして子を女の子につけていない、上流階級の人だけがつけていたというのも不思議である、子など誰でもつけているからである、やはり名前も時代を反映しているのだ
子がつけていないというのは意外だったからだ

明治という時遠い感覚になるが自分の父親は明治生まれだった、そして酒屋の丁稚だったのである、母は大正生れだった、だから明治となる確かに遠いが明治まで何か祖父母の時代であり身近に感じるものがある、江戸時代になると実感として何かイメージしにくくなる
とにかくこれまで書いてきたけど母の実家は継母が入ってきて乱れたともなる
ただこれも良くわからないが何らかの事情があってそうなった
警察署長だったという父親が何もできなくて入れた経緯がある
実の母親は病気になったからである
何かその辺の事情が良くわからないのである

トラというときブレークの詩の虎は有名である、夜の虎を詩にした

虎よ、夜の森に
お前の怖ろしい均斉を敢えてつくったのか。
どんな不死の手、あるい眼が
お前の怖ろしい均斉を敢えてつくったのか。

虎は夜に徘徊するのか?ライオンは昼間のもの真昼の王者ともなる
虎というときブレークとか天才である、ニーチェとかもそうである
日本でも上野霄里氏とかも天才であり虎にもなる
そういう天才にして作りえた詩だとなる、そういう人が天才がまれにいるのだ
ただそういう人を理解することは普通の人にはむずかしいのである
天才とは異常なほどのエネルギーを生来持った人だとなるからだ
ただそういう人を理解することがむずかしいのである

虎が千里を行き千里を還るというのはやはりそれだけのエネルギーがあるからだろう
ライオンはそんなに移動することはない、ただ虎がどこに住んでどういう生態なのか良くわからない、虎は陰なのかもしれない、だからここで夜の森の虎を詩にしている
ライオンは陽の王者だとなる、ただ陰陽があり虎が陽だと

ただ自分が虎に感じたことは虎が千里行き千里還るということである
それが私が旅しつづけたことで感じたのである、つまり自転車で千里を行き千里を還るともなっていたからである
それでも長くても一か月だったから本当に長距離をしたとはならない、もっと長く自転車でも旅している人は普通にいるからだ
でもこれだけ旅していると家にいても旅がつづいている、回想する旅として続いている
それで思い出して俳句とか短歌と詩にしている
それができたのは主に自転車で旅したことで記憶に残ったのである
どうも虎の生態はわからないが森が深く暗い所を行く、夜行性だったのか?

一晩あたり10 - 20キロメートルを徘徊し獲物を探す。獲物を発見すると茂みなどに身を隠し近距離まで忍び寄り、獲物に向かって跳躍して接近する

20キロとなると相当な距離になるのか?縄張りが20キロあるのか?
猫もまた肉食でありライオンとか虎の小型化したものだから夜行性である
ただ夕方に徘徊して獲物をとるとある

この2つの組み合わせである壬寅には、「新しく立ち上がること」や「生まれたものが成長すること」といった縁起のよさを表しているといえそうです。
https://raksul.com/magazine/column/new-year-card-zodiac/

物事が他の物事を促進したり、育てたりする関係」を意味し、「土生金(どしょうきん)」は、「金属類は土の中の鉱脈の中に有り、土を掘ることでその金属を得ることができるということを表しています。
https://piyoko0426.com/archives/1825

虎年の今年は何か自分のバイオリズムとマッチしている、介護とかで疲弊してなんとか立ち直り盛んな気になっている、そして人生最後の仕上げに向かっている
丑年だと遠くには行かない、大地にどっしりと定着する感覚になる
虎だと遠くに行く、だからまた遠くに行く年になるかもしれない
まだその気力が出てきているともなる、でもコロナウィルスとかオミクロンでどうなるのかわからない、ただまだ動ける、気力は充実している
だからこうしたものが縁起を担ぐとかあるけど自分のバイオリズムには一致していた

虎は千里行き千里を還る

今年もやはり遠くに行くことになるのか、遠くにしてもやはりそんなに遠くには行けないだろう、でも福島県とか宮城県とかには行くとなる

茨城県の八溝山の森を通ってなぜ白河の関にでてきた、白河の関は森の細い道を通り白河市内に入る、だからこの辺は森がつづいている
今わからなくなっているのは日本はもともと森の国で深々と森に覆われていたのだ
だから暗い所を行く、今のように道だらけではない、細い道をたどって行っていた
この感覚がわからなくなっている、相馬藩の境も森で覆われていて夜ノ森になっているがこれは余の森であり相馬藩主の森のことだった、ここも明治以降開墾された場所だった
でも江戸時代にも人は住んでいたのである

いづれにしろ日本全国が森でおおわれていた、すると相当に暗い場所があり明るい場所に出るのはあまりない、縄文時代になるともう森だらけであり道すらないのである
これはヨ−ロッパでも同じなのである、ドイツなどは樅の木に覆われた暗い場所だったのである、そういう森の感覚が消えている、虎とはこうした深い森に棲んでいたのである
森は本当に人を隔てるものであり障害となり境界にもなっていたのである

黒々と森の覆いてさえぎりぬ虫の音かすかみちのくに入る

さえぐとういとき佐伯(さえき)とかありこれは蝦夷と関係して生まれた姓である

古代豪族の姓で、もともとは「さへき」。大和国(奈良県)をルーツとし、大伴氏の一族西日本に移住した蝦夷からなる部門である佐伯部(さえきべ)を率いて宮廷の警備などにあたった。
その職種柄、外敵からの攻撃を「遮る」者という意味で「さえぎる→さえき」となったとする説もある。
「景行記」によると、蝦夷を播磨など五ヵ国に配したのを佐伯部の始まりとしている。

蝦夷にも由来した姓である、敵をさえぎるものから佐伯となったがそれだけではない
さえぎるものとは森であれ山であれさえぎるものが日本には多くそうなった

ともかく今年は虎のように何か変革する時でもある、だから虎はそういう年にふさわしい虎年生まれの人は強いから自分の主張を通すということがあるからだ
やはり虎年は大きな変化の年になるのだろう、それは内外ともにそうである
そうして激変になると相当に虎のように強さがないと乗り切れないともなる
まだ気力と体力はある、最後の仕上げに向かっているともなる

では今年もよろしくお願いします

変動する時代を乗り切る力をたまわりますように自他ともにお祈りします




posted by 老鶯 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年01月02日

ひろゆきと田原総一朗の対話 (既得権を持てば老人でもそれを手放さない)


ひろゆきと田原総一朗の対話

(既得権を持てば老人でもそれを手放さない)

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【ひろゆきvs田原総一朗】闘争か逃亡か?失われた30年の断罪【パンダ呆然】|Re:Hack

田原総一朗は88歳だから良くまだ現役だとなる、限界でもある

書評『創価学会』(田原総一朗著)
https://konmanki.blogspot.com/2018/09/blog-post_16.html



この対話でわかることは田原総一朗でも85歳とかなってもどうしても朝ナマの司会者をやめろといってもやめない、それはなぜなのか?
結局人間は権力の座を失いたくない、権力の座から離れたくないとなる
それが人間の習性である、要するに老人になれば特に権力も金もない人を相手にるだろうか?
その人間性がなんであれ権力と金とか地位を手放せない、それが既得権者であり保守なのである
いくら司会者をやめろと言ってもやめない、それがテレビ局が許しているのは背後に大きな権力がありそうさせている

なぜなら田原総一朗は創価を讃美して池田大作を讃美する本だしている
今回の討論でも公明の子供を持っている所帯に10万円給付することを若い人を応援するとしているとほめている
それもこの人は創価のプロパガンダなのである
創価を讃美すると創価の会員が本を買いとなり売れる、本屋でももうかるとなる
それは幸福の科学でもあったし他でもある、一般の人が買わなくても会員が買うから書店でも置くとなる
つまりこの世の中必ず権力があってそれで内容などどうでもいい、権力の操り人形に自らなる、佐藤優もそうである、巨大な権力の操り人形となりそれで金になるということである

だからこういう人達を放っておくとどうなるのか?

それは戦争の時のようになる、朝日新聞が創価よりになっているということでもわかる
朝日新聞が戦争をあおったとしているからである
マスコミは原発事故でもわかったように全部のマスコミが朝日新聞から読売新聞でも全部東電によって中国に招待されているとき事故になったのである
マスコミとはこうしてさらに巨大な権力の東電とかに金をもらえば言いなりになる
そういう構造ができあがっていたのである
金をばらまけばマスコミでも東電であれ政府に従うとなっていたのである
それは地元民でも金をばらまいて反対させないようにしたし地元民にも問題があった
こうして常に社会は権力によって既得権化する
それが目に見えて原発事故にあったことを追求した、御用学者でそういうプロパガンダになっていたからだ
検察と警察と海上保安庁とかまで天下りしているからである
つまり検察とか警察とか海上保安庁とか自衛隊でありまさにこれは戦争の時と同じではないか、戦争に反対すれば特高が来て逮捕されるのである

そんな巨大な権力に対抗できるのか、もうできない、でも津波によってそれが暴かれたのである、福島民報など全く既得権者であり県で半分を出資しているし創価の聖教新聞も刷っているのである、こんな新聞が全く不正を暴くことなど不可能である
また政経東北でも新聞と違って福島県の不正を正す暴くようなことをしている
それは確かにそうでも全部がそうではない、相双リテックが除染の何十億の金を幹部が山分けしていたのにその雑誌で宣伝していたからである
つまり新聞とかテレビでも雑誌でも結局金がかかりすぎるからその金を得るのが宣伝費であり東電とかなるとその電気組合の電事連合会から800億円の金が出ていた
それだけ電力関係の金は莫大なものが流れていたのである

田原総一朗はもう引退すべきだと言ってもしない、でも不思議なのはあのような年になっても悪人でも悪役としてでも社会に存在力があることは認知症にならない
会社を引退して何もしないでいる人は認知症になるのも不思議である
要するにあのような老獪な年よりになっても悪役を演じている
こういう人は正義面ずらして社会の公僕のように見せる、愛国心があると見せる
でもこの人は娘がアナウンサーしていた、自分の身内の家族のために既得権者だからそういうことができる、福島県では渡部恒三がその息子をアメリカのGEに就職させていた
いかにも福島県民のために働いているとか見せていたが自分のために働いていたにすぎないのである

明らかにこの人は既得権者側でありだから自民党を援護して経団連でも援護する
マスコミでもそれでやめさせないとなる
ひろゆきとかも問題である、この人はまさに日本などどうでもいい、もう日本がだめだから外国に逃げる準備をしろと言っているからだ
では日本が外国に攻められたら自分だけは助かり逃げるのかとなる
これも無責任だとなる、ただその全体像は一個人でもなかなかわからない、だから人物を批評するのは本当にむずかいのである、もう確実にどんな人でも誤解するのである
ひろゆきでベーシックインカムとかには自分も賛成するし引きこもりでも責めないのはいいともみる、そういう人は許されない人でも時代が変わってそうなったのである

いづれにしろ人間の習性として既得権をもてば権力とか地位とか金をもてば手放したくないのである、だからいくら老人がどうのこうのと言っても既得権を手放さない
習近平でも終身で最高権力者となりそれを手放さないようにする
それが人間なのである、だからそうしした既得権者が握っている権力を若い世代が倒さない限り新しい時代が作れないとなる
創価というのは最初はそうした既得権者を倒す権力を奪うものとして過激なものだった
武装集団としてもありえた、とにかく権力に対する執着が強いからだ
でもこれも既得権化すると自分たちの権益を既得権を守る方になるのである
一部の幹部がそうなっている、もともと権力を得ることしか眼中にないから別にそうした権力をもてばそれで満足するとなるからだ

いづれにしろ日本の未来は暗いというときどうしても老人が多すぎることである
そしていくら老人を批判しても既得権を手放したくない、それが人間なのである
だから選挙でも若い世代は勝てない、数が少ないからである
そこにシルバー民主主義になっているのである
明治維新は命を賭けるものだったから20代の人でも活躍した
また明治維新が成功したのは既得権者ではなかった人達である、下級武士が主役だったのである、地位のある侍は既得権者であり保守になり体制派になるからだ
そしてなぜ明治維新が成功したのかというと侍が明治維新の主役であり侍が新しい日本を作ったのである、侍はもともと指導者として訓育されていたしエリートの自覚をもっていた、だから明治になったときあらゆる分野で指導者になったのは元は侍だったのである
庶民の革命ではなかったのである、ただそれもその後は堕落して指導者として育たなかった、それで太平洋戦争となり指導者が悪いから敗戦であり失敗したとなる

何か変えるとなると相当なエネルギーが必要になる、それは老人では無理だとなる
でも若い人がすべていいかというとそうはならない、若い人は見識が持てないからだ
深い洞察とか見識をもてないのである、これは老人になると持てるのである
何か特別の人でなくてもいろいろ経験して人間はこういうものだとか悟るからである
だから老人は賢者に見えるのである、とにかあらゆることに理解力が深まるのである
私自身も本を山ほど買ってびっしりと印をつけていたが理解していなかった
でも誰でも意外と老人になると理解できるようになる
それはいろいろ経験したりして見聞したりして知識が身につくからだともなる
老人になることは死ぬことも身近でありそこから人間を見て人生をみるから違ったものになる、要するに達観すると

彼らがパロと語った時、モーゼは80歳、アロンは83歳だった
モーゼが死んだ時、120才だった、眼はかすまず、気力は衰えていなかった

80歳で過酷な出エジプトの指導者となった、そして120歳で死んだ
それでも元気だったのである、この年齢は本当なのかどうかわからない、その頃果たして年齢が正確かどうかわからない、ただ言えることは確かに相当な年であり老人だったのである、それでそんな過酷なことができたのかとなる
だから老人でも指導者になれないことはないのである
ただこれは神の命に従ってできたことでありまた現実の世界に起きることとは違う
ただ120歳まで生きて衰えなかったというのはどういうことなのか?
それは神の霊を受けた人だったからなのか良く理解できない
要するに神が力を与えたからできたことだとなる,モーゼは剣をもって戦ったりしない
ただ一本の杖をもって指揮していただけである、その杖をあげて海を割ったのである
それは神の力がその杖に加わったからである
これはあくまでも聖書の物語である、モーゼは若い時はへブル人が労役で苦しむのを見てエジプト人を殺している、過激なことをしていたが後年は全く無謀なことをしていない、それは若気の至りだった、それでミデアンの地に逃れて羊飼いの娘と結婚したのである
それから自重して神の命に従い大事業を成し遂げたのである

ともかく激動の時代になるとかえって若い人が全面に出ることがある
若い人の活躍なしで改革できなからである
でもまた老人になると深い洞察や見識をもつようになる
そうなって神の命令に従うだけで大事業を成したのである
だから必ずしも若いというだけで改革したり大事業はできない、それが無謀なものになるからだ、革命とかなると性急になるからだ、それで失敗するのである

要するに機が熟するということが大事なのである、それは80歳になった時だったというのである、若いから何でもできるとはならない、それが無謀になるからだ
だから老人がみな無用のものになるとかにならない、ただ一般的には既得権者となり保守的になるのである、そして既得権を手放したくないから改革できず国全体でも衰退してゆくとなる、高齢化社会どうしても保守的になる
老人が多すぎるからである、戦後復興できたのは若い人が子供が多かったからとういのも原因していたのである、丁度団塊の世代が高度成長時代になったからである

いづれにし世代間の対立は常にありむしろないことが社会の停滞を産む
何かこの世に関して矛盾とか憤りとかを感じないとしたらおかしいからである
それは既得権化すると感じなくなるのである、なぜなら不満もないし今の状態がいいものだとなり革命など望まないからである
それは革新勢力でもそうなのである、創価でも議員になったりするとすでに権力を得ているしこれでいいとなる、議員になった賄賂をもろいいい身分だとなるだけだである
だから自民党と一体になりそこからぬけられなくなる、同じ既得権者になるのである

posted by 老鶯 at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年01月03日

東海道の新春俳句20句 (東から西への春の旅)

 
東海道の新春俳句20句 (東から西への春の旅)
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西伊豆や菜の花映えて富士の峰

東海道小田原城や花盛り

茶畑や新幹線に春の富士

駿河湾魚打ち上げ春の富士

春日さす岸辺の広し大井川

東海や紅梅映えて電車行く

街並みの道真っすぐに燕来る

にぎやかに東海道や花の宿

海の風橋をわたるや春の城

春の日や天主望みぬ名古屋城

関ケ原越えて近江や春の山

朧月大津に一夜我が泊まる

京の日や枝垂桜の水映る

京の辻鐘鳴りあわれ春の暮

大阪城夕日に映えて花の散る

明石城春の夕日に染まるかな

波静か春の細月洲本城  

西の城いくつたずねて花の宴

宴の後西の栄や城いく

花散りし栄華の跡や今日も暮る

潮流の瀬戸の島々花咲きぬ

春の日の海に反射し瀬戸田かな

島々の重なり暮れぬ瀬戸の春

春日さす福岡城跡街の中  

海近み福岡城跡春に来る

桜咲く平戸の入江外国へ

城二百日本の栄花盛り



釜山なる松によりにつ春の暮

みちのくゆ慶州までや花咲きぬ

春の日や洛東江を沿い下る  



東海道-吉田(豊川橋)俳句短歌の紀行文
http://musubu.sblo.jp/article/29701995.html

東海道というときやはりここが日本の幹線道路だった、それは今でも同じである
東海道から瀬戸内海から九州に行き韓国の慶州まで電車で行った
青春18切符で行った、その時韓国の慶州まで桜が咲いていたのである
つまり韓国まで一連のつながりがあるものとして旅したのである
洛東江を電車で沿い下ったのは醍醐味だった
大陸になると川は大きいのである

洛東江
https://www.travel.co.jp/guide/article/40562/

旅をこれほどしたが今は思い出す旅である、この思い出す旅で大事なのはいかに記憶しているかである、人間はとにかく忘れやい、それでいかに思い出として残すかが問題になる今ならやはりデジタルカメラで記録するから楽である
写真はやはり記録としては一番効果的になる
その写真が今ではインタ−ネットで豊富であり見れる、するとその写真を見て思い出すのである、人間は旅してもその人によって見るものが違う、景色でも違ったものとしてそれぞれ記録されている、ここは電車と川を写しているから秀作である
外国ではなかなかいい写真を撮るのがむずかしいだろう、場所とかが問題になるからだ

韓国の桜
https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=01597024028&GroupCD=0&no=&rtm=likeimage


淡路島ゆききの舟の友がほにかよひなれたる浦千鳥かな(藤原定家)

明石を詠んだ歌としては. 天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば. 明石の門(と)より 大和島見ゆ.

ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ 柿本人麻呂

明石という場所がもともとこういう場所だった、船の行き来がすでに多くあった場所である、でも万葉時代の船がどんなものだったか、それを思う時、今の船の感覚とは違う
だからこそ梶でこいではるばる来て明石の戸に来たときに感懐はより深いものとなる
フェリーにのんびり乗ってくるのとはあまりにも違っていたのである

生き死にを船にたくして天離る鄙の長道を大和島につく(自作)

当時の舟だったら本当に怖い、常に死の危険を感じていた
それでも万葉集の歌は雄大である、古今集になると定家のように何か近くを親しく行き来している歌である、天離るという感覚はなくなっている

明石城が印象に残ったのはその城は夕日に映える城だったからである
そして瀬戸内海を船を行き来している、絶えず行き来している
そこが東北とは全然違っている、東北では広い海でも一日行き来するのは本当に二三艘しか見えないのである
瀬戸内海でも狭い海峡に大きな船が汽笛を鳴らして入ってきたときは驚いた
大きな船がそういう場所にまで入ってくるのに驚いた
つまり瀬戸内海は船の道になっているのだ、水道というときそうである
水の道が瀬戸内海にある、そこは船が古代から常に行き来して村上水軍とかも生れた
瀬戸内海は交通路であり潮流は早いのだが天然の港が自ずとできた所である

旅で何か印象に残る場所がある、そこは常に思い出す場所なのである
明石城はそうげある、そこは夕日が輝いて沈む、海が側だから船が絶えず行き来しているそれから淡路島も見える、そういう光景は東北には見ない、東北の海は荒寥として船は一日二三艘しか通わないのである  
船の旅は中国までも船で行ったし韓国にも二回とか行った
船は相当に乗っている、電車の旅もしたが船の旅もした
とにかくそれだけ旅をしたのが自分だった、自分はだから旅人になっていたのである
旅人となると常に旅している人であり遂には旅が人生ともなった人だとなる
そういう人は日本では西行とか芭蕉とか山頭火とかである

ただ現代は交通がこれだけ発達したのだから昔の旅とは違う、何度も行けるし旅する範囲も外国まで広がるのである、そして江戸時代までは歩く旅だったが今は船でも電車でも自転車でも車でも旅をする、ただ車で旅したことはないからここはわからない
旅と言っても何か現代は移動しているだけだともなる
昔は普通の人でも歩いて移動するから旅になっていたのである

東海道をテーマにしたがやはりここは日本の幹線道路である
街の中でも街道がまっすぐに長くつづく道があった
あのような繁華な街並が残っているのは東北にはない
東海道はやはり栄えた道である、瀬戸内海の山陽道でもそうである
瀬戸内海は交通の海でありこれも全く東北の海とは違っている
だから海と通じた城があり港にもなる、船が実際に城に入る水路があり入ってきているのもある、明石城なども相当に海に近いのである

俳句は何か今や一句としては芸術として成り立たない、こうして連作にすると一つの作品として連続したものとして鑑賞できる
奥の細道でも連続したものとして鑑賞するからそれでそれが古典にもなった
だから前にも単発的に出したのはそれをまとめてまた連作にする
それで一連のものとして鑑賞できる、今回は韓国の古都の慶州に行ったからそこでも桜が咲いていたから連続していた、韓国だと日本の歴史と連続しているから地理だけではない日本で桜が咲けば韓国でも咲くとなる、韓国も栄えるとなる
現実に韓国が技術的にも日本の模倣であり中国でも日本の技術の模倣があり発展したのである、韓国の古代の伽耶などはむしろ日本だったらしい
なぜなら縄文時代から日本人が行き来して縄文人のDNAと似ているとか研究者が発表したからである、北方系があるとして南方系は照葉樹林帯の文化圏でありその文化が似ているからだ、肉食ではなく精進料理のようだというときもそうである
肉食はモンゴルの征服でもたらされた、今でも韓国で海苔を作っているのも日本をまねたのである、まねたにしても海に面しているから同じことができたのである

いづれにしろ日本で一番いい季節は桜が咲く時である
私の場合はこれだけ旅したからコロナウィルスで旅できなくても満足である
こうして旅できたのも平和の繁栄の時代に生まれたからである
そして長生きの時代にも生まれたからこうして旅を回想したして作品にする
そういう点でいい時代に生まれたしまたそういう境遇に生まれたから幸運だったとなる
これからコロナウィルスで旅できないとか何か暗雲になり経済的にもいい未来が見えないのである、まず交通がとめられて電車さえ人が乗らないというのには驚いた
こうなると閉じこもる、地域ごとに閉鎖された江戸時代に戻るようにも思えたのである





人生のコースが親に選ばれてしまう恐怖 (親ガチャでなくても親の言う通りにされた人生‐カルト教団の二世の問題)


人生のコースが親に選ばれてしまう恐怖

(親ガチャでなくても親の言う通りにされた人生‐カルト教団の二世の問題


人生の怖さというのはいろいろある、ただ何が怖いのかもわからないのだ

人生をどう生きるか?

これは本当は各自違っている、人生とは実際は時代によっても相当に違ってくる
だから親と話が合わなくなったり対立が世代間で生まれのは当然なのである
もし対立がない方がおかしいしそのまま親の言う通りの人生を歩むことは自分の人生を失うことにもなる
これは別に親と子の問題だけではない、社会でも世代間の対立がある
だから学生運動などがあったがそういうことが起きるのが普通なのである
若者が社会の不正とか何か不満があって抗議しないこと自体おかしいのである
親と子でも宿命的に対立するから反抗期がある、反抗期がないと人間はまともに育たないのである

私は父親が明治生まれであり酒屋の丁稚奉公だったのである、でも中学の時死んだ
そして自分の人生は親とはまるで違った人生を歩んだのである
それは母親でも働き詰めの人生であり遊びも何もない、花にも興味がない、金を使いたくないという人生を送った、だから人間味もなかったとなる
そして貧乏だから金があるようになっても使わないのである、貧乏に育った人は何かケチになる、金を使わないのだ、金があっても使わない、ただためるだけなのである

それで60歳で国から年金三万をもらった、別に年金を払わなくてももらっていたのである、5年待っているともっともらったとして悔やんでいた
それで百才まで生きたが金を使わないので一千万以上ためた、でもその金の大方が盗まれたのである、これも因果だったなと思う、何も使わないうちに盗まれて終わったとなる
金は使える時使わないと使うこともできなくなるのだ
つまり人生とは百才生きても限られているからである
使う時間がなくなるのである、金をためるのはいいとしてところがその金を使う時間がなくなるのである、いかに時間が貴重なものか老人になると意識するようになる
あと何年生きるのだとなることを考えてみればわかる
一日一日が貴重になる、もういつ死ぬかわからないからだ

人間は親の影響が非常に大きい、親によって人生のコースが決められる
もう親に決められてそれ以外ないとも一方的に決められる、医者の家に生まれたら医者になることしかないと強制もされる、それは開業医であれば医院があれば継いでもらいたいとなるからだ
でも医者に向かない人もいる、でも親の都合で強制されるのである
江戸時代辺りだと侍は侍の子として親の跡を継いでいた、そうしない禄をもらえないからだ、それで人生のコースに悩まないということにもなる
すでに決まっているからだ、その決まった通りに生きるほかないからである
でも明治以降職業選択が自由になったとき自分がどういう職業に就くか悩むようになったのである、それもまた苦しいとはなる
自由というのは意外と苦しいことになる、自分の適性にあった職業を選べるとしても簡単にそんな職業がないからである

例えば怖いのはカルト教団の家などは確実にそのコースが決められる、それは人によるが子供の時から家族ごと信仰していると完全に洗脳されてその他のことは見えなくなるのである、そしてもうカルト教団のロボットのようになり何も他のことを考えないのである
これは何かおかしいと疑問ももたないのである
それは親が家族全体がそうなのだからその方向は決まってしまうのである
そこに宗教というか家族全体がはまりこんでいるから逃れることもできないのである
特に素直な真面目な人だと余計にそうなるのである
だからそういうカルト教団の二世とかはそこから脱することが難しくなる

おそらくすべてではないにしろ医者の家に生まれていい医者になりそれが合った人も多いことは確かである、それはそれでいいとなる
でも合わない人がいるのだ、すると合わないことを一生することになる
それは患者にとっても迷惑だとなる、そういう人は優れた医者になりにくいからである
何でも好きこそものの上手なれとなるからである
医者は何か理論だけではない、手術するのに手が器用でないとうまくならないとかあり天性ものがあるらだか、何でも天性のものがありそれと合わないものをいくらやっても上手になれないということがある

自分の場合はまず父親とはまるで違った人生を生きたことになる
酒屋の丁稚奉公で貧乏だったと親が考えられない人生を生きたことになる
それはもし親が生きていたらとても許されないものだったのである
ただ早い時期に死んだから対立しないだけだったのである
引きこもりとなったり今は相当数いる、そして旅ばかりして就職もしなかった
だからこんな人生もありえたということが時代が変わったことなのである
それは親にとって想像もできない人生を送ったことになっていたのだ

親の言う通りになる人生は自分の人生を失う

つまり時代が変わるから親の言う通りになる人生は自分の人生を失うことになる
カルト教団などでもそこに親の言う通りになっていたら人生そのものを失うことになる
ただ親に逆らわないと結構楽だからそのままその道を行くことになる
なぜなら親と対立することは相当なエネルギーが必要になる
医者になれと言われても自分になれないとかあり別な道を行きたいとしても親に強制されるからだ
でも親に従っていると楽なことがある、親にいい子とされるからである
親と対立すると経済的に援助もしない自分で稼でとかなるからだ
あなたの人生は自由に生きなさいとうい親はほとんどいないかもしれない
自分の場合いは特殊な環境でそうなっていたのである
大学出ても職にもつかず放浪していたりして引きこもりであり後は旅ばかりしていたとなる、でも親にとがめられることもなかったのである
今は引きこもりが普通にいるからこれも時代が違ってきたからそういう人が普通にいるのである、もし時代が違っていたら何であれ働かざるを得ないかである

とにかく人生とは一回しかないのである

こんな人生失敗だった、別な人生がありえたとしてももう二回生きることはできないのである、そこで痛切に親の言う通りに生きて失敗したと後悔する
でももう人生は一回しかないからどうにもならないのである
その方向が決まるのは30までなのである、だから青春時代は人生の方向が決まってしまうから大事だとなる
例えば青春時代に享楽にふけり放蕩などしていると後でもう真善美とか追求できなくなるそこで向上する精神とかが奪われているからである
カルト教団に入った人は一生奴隷として終る、精神的奴隷として終わる
ただ親にしてみればそういう子はいい子だったとなるのである

親ガチャとか親のために駄目にされたとか言うけど別に医者とか恵まれた親でも親によって自分自身の人生が奪われることがあるのだ
親と全く違った人生を生きることが実はその人の人生を生きたともなる
なぜなら次代か変わると全く違った世界とか価値観に生きることがありうるからだ
親が生きた時代とはまるで違った世界に生きる
それが明治生まれの親をもった自分の人生だったのである

一見親の言う通り生きた人は親にとってはいい子なのである
それは逆に親によって子供の人生が犠牲にされたともなるのだ
また親ガチャというとき親が貧乏とかで何もできなかったとかなる
でも親が裕福でも医者の子供でも親ガチャはあるのだ
親とは全然違った社会になっていることがあり価値観も変わるからである
明治時代になったとき侍はなくなった、すると親の言う通り生きることできない
みずから自分の職業を探して自立するほかなくなったからである
また戦後でもみんな戦争のために国家のために生きていたがそれが敗戦でまるで変ってしまった、国家より自分の個性を生きろとかなったからである
明治になり戦後で社会が極端に変わったのである

それで70年周期で社会は極端に変わる、その時期が今なのである
その変わり目だから信じられないことが起きる
今までの価値観が通用しなくなる、そうした激変の時代になっているのだ
会社のために生きていてももう会社がなくなるとか終身雇用もなくなる
だから個々人で自立して生きろとかいうのもそうである
これまでの価値観が通用しなくなるのである
ただ若い人はそこから今までにない世界が開けて新しい人生を生きるともなる
70年ごとに大きな変化がくる、それが今なのである

だから今は明治時代でありまた戦後の焼け野原から立ち直った時代とも似ている
そういう大きな変わり目でありそこで大きな事件とか自然災害も起きるのである
津浪で村ごと流されて消失したというのもそうである
この辺では原発事故にもなり信じられない変わり方をしたからである
そういう激変が起きる、コロナウィルスでもそうである、何か世界的にも大きな変化が起きる、そこに相当な痛みも戦後の焼け野原のような状態にもなる
その後に新しい時代を社会を世界を見るとなる
でも戦後の焼け野原のように絶望的な状態になるかこともありうる、それは日本の貧困化ですでに現象化している
つまりどん底の貧困になり日本が飢餓状態になるということもありうる
戦後の焼け野原で食糧すら得られないということもありうる、そういう激変の時代が来ているのである


人生のコースが親に選ばれてしまう恐怖 (親ガチャでなくても親の言う通りにされた人生‐カルト教団の二世の問題)


人生のコースが親に選ばれてしまう恐怖

(親ガチャでなくても親の言う通りにされた人生‐カルト教団の二世の問題


人生の怖さというのはいろいろある、ただ何が怖いのかもわからないのだ

人生をどう生きるか?

これは本当は各自違っている、人生とは実際は時代によっても相当に違ってくる
だから親と話が合わなくなったり対立が世代間で生まれのは当然なのである
もし対立がない方がおかしいしそのまま親の言う通りの人生を歩むことは自分の人生を失うことにもなる
これは別に親と子の問題だけではない、社会でも世代間の対立がある
だから学生運動などがあったがそういうことが起きるのが普通なのである
若者が社会の不正とか何か不満があって抗議しないこと自体おかしいのである
親と子でも宿命的に対立するから反抗期がある、反抗期がないと人間はまともに育たないのである

私は父親が明治生まれであり酒屋の丁稚奉公だったのである、でも中学の時死んだ
そして自分の人生は親とはまるで違った人生を歩んだのである
それは母親でも働き詰めの人生であり遊びも何もない、花にも興味がない、金を使いたくないという人生を送った、だから人間味もなかったとなる
そして貧乏だから金があるようになっても使わないのである、貧乏に育った人は何かケチになる、金を使わないのだ、金があっても使わない、ただためるだけなのである

それで60歳で国から年金三万をもらった、別に年金を払わなくてももらっていたのである、5年待っているともっともらったとして悔やんでいた
それで百才まで生きたが金を使わないので一千万以上ためた、でもその金の大方が盗まれたのである、これも因果だったなと思う、何も使わないうちに盗まれて終わったとなる
金は使える時使わないと使うこともできなくなるのだ
つまり人生とは百才生きても限られているからである
使う時間がなくなるのである、金をためるのはいいとしてところがその金を使う時間がなくなるのである、いかに時間が貴重なものか老人になると意識するようになる
あと何年生きるのだとなることを考えてみればわかる
一日一日が貴重になる、もういつ死ぬかわからないからだ

人間は親の影響が非常に大きい、親によって人生のコースが決められる
もう親に決められてそれ以外ないとも一方的に決められる、医者の家に生まれたら医者になることしかないと強制もされる、それは開業医であれば医院があれば継いでもらいたいとなるからだ
でも医者に向かない人もいる、でも親の都合で強制されるのである
江戸時代辺りだと侍は侍の子として親の跡を継いでいた、そうしない禄をもらえないからだ、それで人生のコースに悩まないということにもなる
すでに決まっているからだ、その決まった通りに生きるほかないからである
でも明治以降職業選択が自由になったとき自分がどういう職業に就くか悩むようになったのである、それもまた苦しいとはなる
自由というのは意外と苦しいことになる、自分の適性にあった職業を選べるとしても簡単にそんな職業がないからである

例えば怖いのはカルト教団の家などは確実にそのコースが決められる、それは人によるが子供の時から家族ごと信仰していると完全に洗脳されてその他のことは見えなくなるのである、そしてもうカルト教団のロボットのようになり何も他のことを考えないのである
これは何かおかしいと疑問ももたないのである
それは親が家族全体がそうなのだからその方向は決まってしまうのである
そこに宗教というか家族全体がはまりこんでいるから逃れることもできないのである
特に素直な真面目な人だと余計にそうなるのである
だからそういうカルト教団の二世とかはそこから脱することが難しくなる

おそらくすべてではないにしろ医者の家に生まれていい医者になりそれが合った人も多いことは確かである、それはそれでいいとなる
でも合わない人がいるのだ、すると合わないことを一生することになる
それは患者にとっても迷惑だとなる、そういう人は優れた医者になりにくいからである
何でも好きこそものの上手なれとなるからである
医者は何か理論だけではない、手術するのに手が器用でないとうまくならないとかあり天性ものがあるらだか、何でも天性のものがありそれと合わないものをいくらやっても上手になれないということがある

自分の場合はまず父親とはまるで違った人生を生きたことになる
酒屋の丁稚奉公で貧乏だったと親が考えられない人生を生きたことになる
それはもし親が生きていたらとても許されないものだったのである
ただ早い時期に死んだから対立しないだけだったのである
引きこもりとなったり今は相当数いる、そして旅ばかりして就職もしなかった
だからこんな人生もありえたということが時代が変わったことなのである
それは親にとって想像もできない人生を送ったことになっていたのだ

親の言う通りになる人生は自分の人生を失う

つまり時代が変わるから親の言う通りになる人生は自分の人生を失うことになる
カルト教団などでもそこに親の言う通りになっていたら人生そのものを失うことになる
ただ親に逆らわないと結構楽だからそのままその道を行くことになる
なぜなら親と対立することは相当なエネルギーが必要になる
医者になれと言われても自分になれないとかあり別な道を行きたいとしても親に強制されるからだ
でも親に従っていると楽なことがある、親にいい子とされるからである
親と対立すると経済的に援助もしない自分で稼でとかなるからだ
あなたの人生は自由に生きなさいとうい親はほとんどいないかもしれない
自分の場合いは特殊な環境でそうなっていたのである
大学出ても職にもつかず放浪していたりして引きこもりであり後は旅ばかりしていたとなる、でも親にとがめられることもなかったのである
今は引きこもりが普通にいるからこれも時代が違ってきたからそういう人が普通にいるのである、もし時代が違っていたら何であれ働かざるを得ないかである

とにかく人生とは一回しかないのである

こんな人生失敗だった、別な人生がありえたとしてももう二回生きることはできないのである、そこで痛切に親の言う通りに生きて失敗したと後悔する
でももう人生は一回しかないからどうにもならないのである
その方向が決まるのは30までなのである、だから青春時代は人生の方向が決まってしまうから大事だとなる
例えば青春時代に享楽にふけり放蕩などしていると後でもう真善美とか追求できなくなるそこで向上する精神とかが奪われているからである
カルト教団に入った人は一生奴隷として終る、精神的奴隷として終わる
ただ親にしてみればそういう子はいい子だったとなるのである

親ガチャとか親のために駄目にされたとか言うけど別に医者とか恵まれた親でも親によって自分自身の人生が奪われることがあるのだ
親と全く違った人生を生きることが実はその人の人生を生きたともなる
なぜなら次代か変わると全く違った世界とか価値観に生きることがありうるからだ
親が生きた時代とはまるで違った世界に生きる
それが明治生まれの親をもった自分の人生だったのである

一見親の言う通り生きた人は親にとってはいい子なのである
それは逆に親によって子供の人生が犠牲にされたともなるのだ
また親ガチャというとき親が貧乏とかで何もできなかったとかなる
でも親が裕福でも医者の子供でも親ガチャはあるのだ
親とは全然違った社会になっていることがあり価値観も変わるからである
明治時代になったとき侍はなくなった、すると親の言う通り生きることできない
みずから自分の職業を探して自立するほかなくなったからである
また戦後でもみんな戦争のために国家のために生きていたがそれが敗戦でまるで変ってしまった、国家より自分の個性を生きろとかなったからである
明治になり戦後で社会が極端に変わったのである

それで70年周期で社会は極端に変わる、その時期が今なのである
その変わり目だから信じられないことが起きる
今までの価値観が通用しなくなる、そうした激変の時代になっているのだ
会社のために生きていてももう会社がなくなるとか終身雇用もなくなる
だから個々人で自立して生きろとかいうのもそうである
これまでの価値観が通用しなくなるのである
ただ若い人はそこから今までにない世界が開けて新しい人生を生きるともなる
70年ごとに大きな変化がくる、それが今なのである

だから今は明治時代でありまた戦後の焼け野原から立ち直った時代とも似ている
そういう大きな変わり目でありそこで大きな事件とか自然災害も起きるのである
津浪で村ごと流されて消失したというのもそうである
この辺では原発事故にもなり信じられない変わり方をしたからである
そういう激変が起きる、コロナウィルスでもそうである、何か世界的にも大きな変化が起きる、そこに相当な痛みも戦後の焼け野原のような状態にもなる
その後に新しい時代を社会を世界を見るとなる
でも戦後の焼け野原のように絶望的な状態になるかこともありうる、それは日本の貧困化ですでに現象化している
つまりどん底の貧困になり日本が飢餓状態になるということもありうる
戦後の焼け野原で食糧すら得られないということもありうる、そういう激変の時代が来ているのである


2022年01月04日

公明党の闇、遠山議員の逮捕のyoutubeの解説 (新聞、テレビは権力と結託して利益を得るもので衰退)


公明党の闇、遠山議員の逮捕のyoutubeの解説

(新聞、テレビは権力と結託して利益を得るもので衰退)

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遠山議員一個人でしたのもはなく公明党組織がかかわりしたことだと説明している
ということは創価でも組織的にかかわったことにもなる
なぜなら創価と公明は一体だからである
だからこそ外部から今度は罰当たる地獄に落ちろとか言われるのである
日頃常にそういうことを言っているからである



このyoutubeはわかりやすかった、要点は突いている
元ジャーナリストのプロだからだろう、公明党議員が遠山が逮捕されたことを説明していたがななほどなと納得した
公明党が長い間自民党と一緒に活動している内に自民党と同じくなったという
私はそう見てない、そのことは前から言ってた
そもそもここで説明では公明党が組織的にしていたのでありそれは創価学会も組織的に加担していたと同じなのである
公明党は創価学会とは別だというけどそのことは前に書いてきたけど創価というのは選挙が信仰の戦いであり選挙に勝つことが仏法の勝利と位置付けている
だからあらゆるか活動が結局は選挙に勝つことであり堂々と幹部は権力を奪取すると公言しているのである
それが理論的にも王仏冥合として正当化されているのである
だから権力をとることは教理に反しないのである

そして不満分子を集めて御利益、御利益、権力、権力とか地位を奪いとか金になるとか
御利益御利益しかないのである
こういう団体が当然遠山議員のようになるのは必然である
365日そうして活動しているのだからその延長として当然賄賂でもなんでも御利益になることを容認することになる
ここでは実際一個人ではなく公明党ぐるみで行っていたことなのである
それを説明していたからわかりやすかった

そういう地位にあるといろいろ相談に来る人がいる、するとその人に利益を与えるのには権力をもっていないと地位を持っていなとできない、それが自民党は元々できていた
だから自民党と一体化して権力をもち分けてもらいその権力で御利益を配分する
そもそもそういうために組織化して団体化したのである
それが宗教団体になっているから偽善になりおかしくなっているのである
何か御利益があるんだとみんな入ってくれるからそうして利益を配分することでも強いられる、何か信心など関係ないのである

ただ関係あるのは罰当たると地獄に落ちるとか絶えず言っている
そうした悪党でもそういうことを常に言うし集団でも脅すから悪質なのである
つまり創価とは悪僧集団なのである
ただもし自民党のようにあからさまに権力を利用して政権を維持するというのであれば
その悪はわかりやすいのである、創価とかカルト教団のわかりにくさは宗教を看板にしていることである、もしここは暴力団ですよという看板を出していればわかりやすいが宗教を看板にしているからわかりにくくなる
またそこに入ると人も御利益を権力を得たいという人達が入ってくる、動機は信仰など求めていないのである、ただカルトだからいろいろな人がいる

人間の社会がわかりにくいのはこうした偽善とうのがあり何がなんだかわからなくなる
そうして結局陰謀論になって終わるのである、悪は見えないからそうなるのである
悪でも美名の下に隠されているからだ
それでこの世を支配するのは闇の主ーサタンだと言われるのである
日本の戦争でもどうして戦争になったのか、それも明確にわからなくなっている
いろいろ追求してもそれも闇の中にあり闇に葬られるとなる
戦争でも宗教になると聖戦とか日本は神の国であり勝つとかなる
でもどんな戦争でも戦争自体は人を殺すのだから否定される、ただ旧約聖書の時代は神が関与したものとして別だったのである
でもモーゼの十戒でも殺すなとしたが他民族はこの法は適応されなかったのである

人間の複雑とか問題はこうした偽善が多すぎることなのである
何か善を装うからわからなくなる、だから親鸞のように俺は大悪人だというときそういう人は宗教家だったとなる、でもみんな善人になっているからわからなくなるのだ
人間は本当にジキルとハイドである、特にカルト教団と宗教に関係している人はそうなりやすいのである
信仰を説いても裏ではただ権力をとることであり自分の欲望を実現したいだけだとなる
そこに自己矛盾になっているのである、表は善人ぶり実は悪人だとなる
だから私は大悪人だというときそういう人は本当は大善人だともなる

いづれにしろここのサイトも急所をついている、山口県の自民党の争そいでもわかりやすかったし大阪で読売新聞が大阪府と役所と結託して収入を得ようとしている
それもわかりやすかった、新聞はもうネットとかに宣伝費をとられて経営できなくなっている、それで役所と結託して収入を得よとしている
それは福島民報がそうである、県で出資が半分していて後は創価の聖教新聞を刷っているこんな新聞社が何か県民の命にかかわるようなことを報道などしない
だから原発でも何らその危険性など報道しない、むしろ県がすすめているのだからそれに従うだけだとなる、大阪でも読売新聞が福島民報と似たようになっているからだ

原発の父」と呼ばれる正力松太郎は、独占的な通信網欲しさから原発を日本に持ち込み、田中角栄は利権目的で原発を利用した。こうして日本の原発は、その本来の目的とは乖離した、いわば不純な動機によって増殖を続け、そしていつしかそれは誰も止めることができないものとなっていた。
www.videonews.com/marugeki-talk/532

このyoutubeでも意外と急所を突いているし報道している、こういう報道が意外と今までのメデアはマスコミはしていないのである、だから報道はこんな二人くらいでもできるものだということだったのである
私でもプログでも一応報道できているのだ、すると自分が何かメデアもって力を持てたともなり何か報道しているうち使命感のようなものが生れてくる
何か社会にとって小さいにしても役割があると思えてきたのである
今までのネットだとそういうことはあまりなかったと思うがyoutubeとかで相当に普及したのである
誰でも報道できる報道局になれるということこれが報道で大きく変わった
今までだと報道は六局とNHKしかできなかったからだ
この変化は大きいと思った、公明党の内部ことなどあまり報道しないだろう

常にマスコミには権力団体から圧力がかかるからできなかったのである
このyoutubeでは読売新聞であれ仲間となると批判はしにくい批判できないとしている
仲間とな利権を得るから批判できなくなる
つまり原発でも東電とか政府とか電事組合とか専門家とか一体化した権力であるからこうして強力な原子力村が形成されたから誰も批判などできないようになっていた
内部告発もできない、だからこそ「安全神話」が生れた
また戦争では天皇を神として勝つとして三百万人が死んだのである
こういうふに批判を許されない強力な権力ができあがるとそれが国民に恐ろし災いをもたらすことを本当は国民が自覚すべきなのだがそれに対して無関心だった
そしてナチスなどが席巻して信じられない犠牲者が死者が出たのである
つまり権力を監視して権力の肥大化するのを止めることが必要なのである
でもマスコミもメデアもその権力と一体になり加担していたからもう批判はできない
批判したものは特高が来て刑務所に入れられたとなる

でもどうしても権力側につくと得だから権力を操作する者になりたいとなる
だからこそ創価は常に権力奪取とか公然と叫んでいたのである、だから遠山議員のような人が出てくるのは必然だったのである、革命で権力をとったら重要な地位につきいい暮らしができるとして活動しているからである
それは共産党でも同じである、それは中国を見ればわかる、結局人間は権力にこの世の栄華が欲しいから権力に魅せられるのである
それを公然と宗教の仮面をかぶって求めて日々運動しているのが創価なのである
創価と公明党が別のようにみるが全然違う、全く一体なのである
そもそも政治と権力は切り離せない、政治家が権力を握るものとなるからだ
そして権力腐敗する絶対的に腐敗するとなる

たがら報道する職業は権力と癒着しなことが求められる、でも実際は新聞でもテレビで
莫大な金がかかるからできなかった、それがyoutubeだと個人でも報道局になれる
プログだって新聞にもなる、だから自分自身こうしてプログで書いているうちにジャーナリスト精神が生まれてきたともなる
ジャーナリストでも今までは新聞社とかテレビ局とかに属していない限りなれなかったからだ、それが二三人でもまた一人でもテレビ局になり新聞社にもなることが変わったのである
ただ取材とかなると相当に手間であり権力がないとできないともなる
だからこそ権力と癒着して権力者と仲間となった真実が報道されなかったのである

つまりマスコミとかマスメデアは権力側につくものであり癒着していてただ利益を得るということだったから真実は報道されない、するとそのことで県民でも国民でも原発事故で大損害を受けることになったのである
だから奇妙なのは報道に向いているジャーナリストは隠者がいいというのも不思議だったでも隠者だったら情報を得ることがむずかしい、必ず人と接しなければ得られないからである、ただ利益と関係ないということで中立になり公平になることはありうる
また人間の習性として仲間をもてば仲間が優先となり忖度して仲間の利益を計ることになる
すべての団体でも組織でも会社でも公的なものでもそうである、どうしても仲間意識身内意識をもちその利益が利権が優先される
それはそもそも家族というのもそうである、家族も一つの強固な仲間であり団体であり組織でもあるからだ
だから意外と家族でも公平になりえないから家族だと犯罪でも証人になりえない、家族に忖度するからなれないのである
だから公平であることはほとんど不可能にもなる、だから神しか公平になれないとなるのである
つまり仲間を持たない組織団体に所属しない隠者が公平になりうるというのも逆説である


posted by 老鶯 at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年01月05日

人間の一生の評価(個人は残るが集団組織は消える) (人間の一生が無益だったとなることのショック)


人間の一生の評価(個人は残るが集団組織は消える)

(人間の一生が無益だったとなることのショック)

●集団組織の価値は消える

人間の一生の評価が老人に対して起る、この人は一体何をしてきたのか、何を生きてきたのか、この人の一生の価値はなんだったのかと自らも問うし他者も問う
私の姉は認知症になり最後に千回も従軍看護婦としてマレーシアのジョホールバルで地獄を生きたことを語りつづけて死んだ
死ぬ間際までそのことを語っていた、それが余りにも過酷であり青春時代だったから老人になっても忘れることがてきなかった
そしてそのことを最も伝えたいことであり語ったのである

このことは日本の戦争で死んだ犠牲になった3百万人の一人のことである
要するに人生を一人一人でみても自分の生きたことはしてきたことは価値があり無駄でなかったとしたいのである
たからこそ靖国に祀られて国のために死んだ英霊としているのだ
この人達は戦犯だったとか言えないのである
それは一人の人間の一生でもお前の人生は何の価値もない益もないものだったと言えないと同じなのである
例え社会では評価しなくても家族で評価される人がいるしその価値は多様である

ただ個人としての価値と集団組織としての価値がある
現代は集団組織に属す人が大半だからその価値は会社とか組織集団の価値にある
だから会社を退職するとその人の価値はなくなる、大企業に勤めていたとしても価値はなくなる
かえって何か趣味を追求していて写真でも絵でも俳句でもなんでもいい、それが優れていると評価されたりする、会社で重役していたとしても退職すると価値がなくなる
その価値は会社に勤めていたときの価値だったからである

だから戦争を評価するのがむずかしいのがそれは日本国家に尽くしたという価値であり
集団組織の価値なのである、その価値をどう評価するのが本当にむずかしくなる
つまりそれを全く無駄だった、そんな戦争するべきではなかったという人の方が多いからである、すると戦争で死んだ人達もただ無益に死んだとまでなってしまう

●集団組織のために一生尽くしても無益となるショック

でも何か現代でも組織集団に属しているのが普通である、会社人間ではあり組織集団人間なのである
会社の組織の集団の価値がその人間の価値にある
たとえば創価のことを批判してきたが共産党でも組織集団に一生を捧げた人はいくらでもいるのだ、カルト教団でも間違っていてもそれに人生そのものを捧げた人はいる
そしたらそんな一生は何の価値もない社会にとって害になるだけだったとされたらどうなるのか?現実はそうでもそこに所属して一生を費やした人は認めないだろう
例えばオウムには優秀な理系の若者がいたけど死刑になった、その集団は犯罪集団にすぎなかったのである、するとその価値は無益化された、それより犯罪集団として処刑されたのである、悪の集団だったとなる
そういうことはナチスとかでも起きた、それは犯罪集団だったとされたのである
これと日本は違っていても日本では戦争で死んでも無益だったとか何の価値もない
犯罪集団だとか言えないのである

だから組織集団に一生を捧げた人も同じである、いくら社会的に批判されても価値あるものとして働いたと主張する、それは組織集団内でそうなる
でもその組織集団が消失したらその価値を伝えるものがなくなる
創価でも共産党でも他のカルト団体でもやがてその組織集団が消えたら価値も喪失する
でも社会というのは継続されてゆくのである
そして歴史的に評価される、その時そうした組織集団はなくなっていたり客観的にく評価される、そういう集団が現実に権力をもっているときは簡単にできないが権力を失うと客観的に公正にみるようになる、つまり歴史的評価とは長い時間の中でその価値が判定されるかことである、だからその長い時間の中で評価されるものは確かな価値があったとなるでも実際は組織集団でも一時的であり消えるものは価値ないとされる

その時その価値は虚しくされる、何の価値もない、ただ実際は社会に何の価値ももたらさなかった犯罪集団だったともされるのである
でも現実今内部にいる人達に対してお前らの価値はない、無益だなどと言えないのであるそういうことを気付いてもあくまでも価値があるものとして主張しつづけて死ぬことになる、無駄死になどと戦死者に言えないのと同じである

でも組織集団とはいづれ消えてゆくのではないか、もしかしたら国家とか民族すら消えてしまうのではないか?
ユダヤ人は国家を失い離散した、でもユダヤ人は国が無くても残りイスラエルを再び建国した、でもイスラエルの価値はイエスキリストを神の子を出したことでありユダヤ人集団より世界に広まったのはキリストの信仰だったのである
集団組織の価値は長い時間の中で消失してゆく、でもイエスキリストの価値は永遠に残る
また組織集団の価値は時がだてば消失する、何か墓に上等兵とか記された墓がそちこちにまだあるけど誰かその価値を認めて偉い人だったとか今思うだろうか?
でも戦争の時はみんな偉い国に尽くした人だとしていたのである
墓に軍隊の位を示すことはそれを社会で認めていたからである
でも今になるとそうした位を墓に記していてもこの人は偉い、国に尽くした人だとか見ている人がいるだろか?何か虚しいとなる
ただその位だけが大きく墓に記されているのである、その位の意味が今あるのかとなる
これが組織集団に生きた価値が消失していると見えるのである

●この世に生きる限り権力に左右される

権力というのはあくまでもその時代で権力をもっていたから評価される、無視できない
それを認めないことは生きてもいけなくなる、弾圧もされる、戦争の時逆らったために権力にみって殺された人もいるし預言者はたいがい殺されたことでもわかる
だからこの世の権力を否定することは生きることもできなくなる
なぜなら組織集団が数が多ければそれは経済的にも十人が買えば売る方では無視できない本でも出版するにしても本屋では売れない本は起きたくないし置かない
もし大勢の人が買ってくれるなら置くのである
それで仙台の書店で入り口に幸福の科学の本が山ほど並べられていたことでもわかる
それは会員が買うから書店でも置くのである

出版とかでもマスコミでも必ず権力が働く、だから大きな権力を持っている組織集団は圧力をかける、創価が藤原弘達の「創価学会を切る」を置かせなかったのもそうである
創価はそれだけの権力をもっているからだ、創価に逆らう者は排斥される
原発でも原子力村が権力化して安全神話を作った、それに逆らうことはできなかった
出版でも確かに危険を言うものはいた、でも書店の片隅に目立たないように置かれていたのである、だから原発が危険だという報道はほとんど地元の報道機関でもしていない

それが大きな事故となったのである、またナチスが席巻したのも危険な権力集団を放置していたら無関心だったからそれが巨大化したとき全国民がその組織集団に席巻されたのである、つまり警告もしない、すると危険なものが巨大化して社会を支配するようになっていたのである
つまりこうして実は組織集団は権力化して危険なのである
それは経済だと独占法違反だともなる、ある会社が商売で独占してしまうことは社会にとって危険だからその法律ができた、それがGAFAだったのである
トランプ大統領まで発言させないようにしたからである

●権力組織集団の価値は消失する

おそらく組織集団とかの価値は消える、でも個人の価値は消えないのである
でも個人はこの世でば認められないのである、なぜならこの世で認めるのは権力だけだからである、権力ある者しか相手にしない、権力とはいろいろある、今の時代は数が権力なのである、数を集めれば票を集めれば権力となりそれを社会では認める
何百万人も会員が信者がいるのかとなり恐れもする
そしてこの世で個人は認められない、発言すらできない、何か一見個人が発言しているように見える、でも個人は発言できない、この世に認められて発言しているようでもそれは必ず背後に集団があって組織があってその集団組織が後押して発言できるのである
純粋の個人は発言できない、社会では認めない、地元の図書館でも個人というだけで自分の本は置けなかったからである

つまりこの世から個人は抹殺されるのである、でも十人でも数を集めて信者でもあれば
認める、十人集まっても権力になるからだ、一人だったら何の権力もないのである
だから公的機関でも完全に無視して認めないのである
この世で存在させられなくされる
でも不思議なのは歴史に残るのは個人である、組織集団は消えるのである
民族すら消える、国家すら消失する、もちろん会社組織でも消える、現実に日本の大企業でもなくなっているからだ、組織集団は一時的なもので消えてゆくのである
もちろん大衆とか群衆などはもう何もなくなる残さない、砂のように影のように消えてゆくだけである

日蓮であれ親鸞であれキリストであれ開祖は個人は残るがその組織化した団体は残らないのである、要するに何の価値も残さないのである
ただそれは権力集団だったのでありその権力とは時代によって変わる、そこに価値を認める人はいなくなる、日本の軍隊でも戦争の時は最高に価値あるものであり軍人は一番偉い者だったのである、今になるとそれは全部無価値とはならないにしてもそんな価値あるものと見ないのである

いづれにしろ人間一生の価値が最後に問われる、あなたは何をしてきたのか、何を求めてきたのか、何を残したのか・・・とかいろいろ問われる
そしてあなたの一生は何の益もなかったとされるほどショックはないのである
でもそういうことが最後に起きて来る
その価値が無価値にされる、結局空の空だったとなる
いくら価値ある主張しても結局誰も認めない、それは権力ある時だけのことである
ただそして最後は茫然として死んでゆくだけだとなる
様々な世界の帝国も結局滅び栄枯盛衰の跡なのである
永遠に栄える国はない、それは神の国にしかありえないのである

●文明は墓場となって終るーしかし不死鳥のように蘇る個人のロゴスの声

とにかくその一生は徒労だったとなる、その努力も徒労だったとなる
文明そのものでもそれが墓場になるというときもそうである
残ったのは墓だけだったとなる、エジプト文明で残されたのも実際は墓だけだったとなるからだ、文明自体が墓場と化してしまったということである
つまり人間の真実の価値はこの世で認められないし実ることもないのである
それは神の国でしか実らないのである、そうしていくらでも価値あるものが消失させられたからである戦争でも病気でも貧乏でも才能は開かず終わった者も多いのである
この世とは常に権力闘争の場所でありそのために人々がある
会社でも何か会社の派閥闘争に敗れて海外旅行している人がいた
会社とか小さな世界でも常に人間の権力争いはある、集団組織でも一枚岩ではなく常に派閥争い権力闘争がある、それは人類が始まって以来ある
それが人間の業(カルマ)なのである、だから最終的にそのカルマによって人間は滅亡すると聖書では予言されているのである、欲によって滅びるとされるのである

その逆説として権力をもたないもの権力自体が否定された
みどり子に治めさせよとか老子の治めずして治めるとかである
つまり欲のないみどり子や自然のままに治める、上に立って支配する人もいない世界である、それこそ理想社会たとしている、結局それは神の国でしか実現しないのである
この世には限界があるのだ、新しい天と地を望むことでありこの世はいくら科学技術が発達しても政治でも治められない、必ず災いが生まれ権力闘争が生れ争いがやまないので
上に立たないで下僕になりなさいというのが実行できない、俺はお前より上だとして争うのである、国同士の覇権争いもやまないのである、米中戦争になるというのもアメリカに従いアメリカが世界を支配するとなり争いがやまないのである
そして最終戦争ハルマゲドンになり人類は滅亡する
ただその後に神の国が来るのである、そこに望みがある、つまりこの世は終わりつつあるただその終末にはこの辺で起きたように信じられないことが起きる
それがもしかしたら今年かもしれないのである
しかし神に選ばれた者は救出されるのである、それがノワの箱舟なのである

組織集団人間は消失する
群衆大衆は砂のように
影のように消失する
無数の者が虚しく消えてゆく
しかし個人の声は消えずに
全地ににひびきわたる
その声は大地に岩に山に
ひびきわたり反響する
真実の日はロゴスはそこにある
不死鳥のように蘇り
そのロゴスの神殿は不壊なり

ともかく現代とはもう言葉も通じない、ロゴスは破壊されている、それを統一するものがもない、カオスなのであり必ず迷路に入り出れなくなる
そこに何かサタンの魔殿ような偽善団体があり権力をもって支配する
そこに真実は語られることはない、ただアウトサイダーがその文明圏から除外されて
神の声を聞きロゴスの中に生きるのである
しかしそれは文明から除外されているから見ることもない、隠されているのである
しかし不死鳥のようにその個人の声はよみがえりロゴスの神殿にひびきわたるのである
そこに神の実現したいものがあり神がそこにありたいとなりそうなる
ただ文明の世界はカオスでありバビロンでありそこから除外されている
だから見えないしその語ることも聞こえない、文明とは雑音の世界だからである
雑音の中で真実の声はかき消されるのである
自分が引きこもり(隠者)となって追求したのはこの自然のロゴスであった
それは文明から離脱してないと聞こえないものだったのである
文明の雑音から離れないと聞こえない見えないものだったのである