歩く旅の喪失と保養としての宿の変化
(福島中央道から地域を考える―車が通らなくなった道)
旅も交通の変化で変わる、しかし旅が行程にあり道草にあり宿にあった
とにかく歩く⇒自転車⇒バイク⇒電車⇒車⇒飛行機と変わる時見える風景も違うのである旅という時江戸時代まで歩くことだったのである
宿というときあくまでも歩く旅の行程で休む場所であり旅の行程の中に必然的にあった
宿がなかったらとても歩く旅はつづけられない
だからホテルとはホスピタルから病院の語源になっている
つまりトラベルというとき苦労を意味している、旅とは難儀なことだったからそうなったまず歩く旅だったら苦しいからそうなる、それで宿に着いたら足を洗うというのはそれだけ汚れているし疲れているからである
江戸時代に街灯などなく、江戸のような街中でもかなり暗く、町はずれにもなれば足元も見えないほど真っ暗。
というわけで旅人は「7ツ立ち」といって夜明けの少し前に旅立ち、夕方前に宿場に入って宿を探した。
何か江戸時代でも誤解するのは現代からイメージするからそうなる
街灯がないとか暗いというのもそうである、その感覚がわからない
もう夜になった怖い世界である、歩くこともできない、すると早めに歩き出して宿に着くことを心掛けなければならない、そういう当たり前のことがわからなくなったのである
一日40キロ歩いたというのも信じられないともなる
城下町の相馬市から原町までくらいなら30キロにもならない、でも原町は宿場町であった、浪江とか双葉の方でも宿があった、参勤交代とかあり必要だった
ただそれが地域の農民の負担になっていた、無償の労働でもあったからだ
現代では交通が発達して歩く旅がない、だから歩く旅がどういうものかわからなくなったそれは電車から車社会になったとき何か電車というのがノスタルジックなものとして実用があっても見るようになった、何かなつかしいとなる
そして駅が人の出合いと別れの場所であり人生の織りなす一つの活きた場所だった
人間臭い場所だったのである、今やそういうのも薄れ駅は無人化してゆく
田舎駅だとぽつんと一人くらいしか待っていない
そこで駅員がいなくなり自動化したときたまたまボランティアで駅のまねをしたことが貴重だった、人間はともかく何でも経験することが貴重だった、なぜなら人間は経験することがわずかだからである、いろいろなことを経験できないからである
それで福島中央道ができたとき今までの道を車も全く通らない、人も通らない、これは何なのだろう不思議だった
つまり福島中央道ができたとき旧道化したのである、その道沿いの店はすたれた
何か廃屋が目立った、でもサイクリングするにはいいしサイクリングロードになったのかとも見た、そこはもともと家は少ない所であった、でも車はそれなりに通っていた
今の福島中央道を見るとひっきりなしに車が通っているからだ
交通量が増えたのかもしれない、最速三〇分というのは早い、前はバスが通っていたが
大分前にバスは廃止された、でも玉野村では一日数回くらい子供のせたバスが走っているそしてバス停がありそれが過去の遺物のように残っている
相馬市から霊山を通り霊山町の小国の方に行った、その道が旧道化して不思議だった
この辺では前の街道の旧道でも結構車が通っている、でもあそこは車が通らない
ただ原発事故で牛を飼って牛乳を作っていた農家が放射能汚染でやっていけないと自殺した場所でもあった、今はソーラーパネルが問題であり反対している
実際に玉野村へ行く宇多川を上って丸森の方に行く川の上の山はまるごとソーラーパネルになっているのに驚いた、あれだと木がないか保水力がないから川の水が増すことになるただ人家がないから目立たないから気付かない人もいる
森の木材が利用されないからあのようになった、江戸時代は木材の利用で相馬藩と米沢藩と伊達藩でその木材資源をめぐって熾烈な争いがあった
それだけ木材資源が豊富な場所だったのである
いづれにしろ相馬市から宇多川をさかのぼり玉野村に出て霊山の方に行き霊山町に出る
道は旅するにはサイクリングするにはいい道だったと思う
八木平とか犬飼というバス停が霊山町の方にあった、これは安曇族の系統のものであり
霊山町の方まで移住して住んだのである、途中隠されるように山津見神社があったからだもちろん本元は飯館村の佐須村の山津見神社だから近いのだから霊山町の方まで移って行ったということはイメージできる、でもその海洋民の安曇族のことを誰も調べていないし語られていないのである、それも何か奇妙なのである
まず原町区には特に綿津見神社がやたら多いからである、でもその謂れもは語られていないのである、これも郷土史を調べていて奇妙でありおかしいことだと見たのである
八木沢とうげというのも八木氏の姓に由来している、この一族も安曇族の同族であり系統だったのである、だから意外だったのである
現代では旅はなくなり保養観光になった、常に宿で保養するとなると食べることに関心がありあとは温泉につかり日ごろの疲れをいやすということでもともとトラベルという苦労する旅はなくなった、第一数日では歩く旅は不可能である、一日歩いても疲れるからである、それを歩きつづけるとなると本当に苦行になるからだ
ただ江戸時代とかの宿場町は観光ではなく物を運ぶ中継点としての役割があった
最も重要な役割として、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を、次の宿場まで運ぶという業務がありました。そのため宿場は、本陣、脇本陣、旅籠などの宿泊施設と、継ぎ送り業務を行う問屋場が中心となっています。
https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0201.htm
要するに宿場とは当時の生活で欠かせないものだったのである、それは物見遊山で旅するのとは違っていたのである、もともと電車でも北海道などでは他でも石炭を運ぶものとして作られていたからである、常磐炭田などでもそうである、常磐線は東京に石炭を運ぶものとして作られていた、今になると東電が原発を作り送電線で東京に電気を送るというふうに変わったのである、やはり東京が百万都市であり消費の場になるから地方から資材を運んでいたからである
最近温泉街が飯坂でも会津東山温泉でも廃墟化した映像をyoutubeで見て驚いた
有名な温泉街が廃墟化している、それもビルのホテルが建ち高度成長時代に会社の団体旅行でにぎわった一時代が終わったことを象徴していた
何か高度成長時代の名残として団地も廃墟化している、そして日本で全国でこれから空家が二千万軒になるというのもいかに空家が増えて日本が衰退してゆくことがそれで象徴されているのだ
仙台市の人口は増えているがそれでも宮城県で六五歳の人口が三分の一とか多いし意外と丸森は12パーセントくらい人口が減っている、山の中にやはり空家が目立った
丸森は鉄道でも仙台市に行くのが乗り換えがあったり不便なのである
ただ自然には恵まれているから好きである、でも過疎化しているのである
また南相馬市で人口が増えたとしてもそれは浪江町とか双葉町とかからの原発事故関係の移住者が多いからである、地域全体を見れば人口は減り衰退しているのである
飯館村などは廃墟の村と化しているしそういうことでも相馬藩とされた地域全体では相当に衰退してしまったのである
これまで財政的に援助があったが十年過ぎてその援助もなくなった、すると財政的に相当に厳しくなる、福祉関係の予算でも相当にけずられるのである
相馬市から霊山町までの地名の旅 (簡単な案内と説明)
http://musubu.sblo.jp/article/189154950.html
なぜ南相馬市と相馬市に綿津見神社と山津見神社が多いのか?(1ー前編)