2021年10月06日

飯館村の村議会選挙の問題(2) (よそ者は関係ないから邪魔だ、かかわるなで考えた民主主義)


飯館村の村議会選挙の問題(2)

(よそ者は関係ないから邪魔だ、かかわるなで考えた民主主義)

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民主主義の根幹は選挙である、誰でも一票を持っていることである
その一票を持つことの意義が理解できなかった
でも飯館村に行ったとき村議会選挙でよそ者はかかわるなとか邪魔だ、目障りだと言われたことで自分はこの村について何の権利もない、何も言えないのだと実感した
制度上は飯館村は飯館村の人でないと選挙権を持てないのである
こうした村議会では6000人くらいしか人口がないのだから一票にも重みが出て来る
だから一人一人に票を得るためにあたるのである

ところが南相馬市とは飯館村は地理的一体である、新田川は飯館村の中心を流れている
真野川も鹿島区に流れて来る、それで放射性物質の検査を環境庁の人が常にしていたのである
また放射性物質のフレコンバックが破れて流れ出したのである
それは確実に南相馬市にも流れてくるのである
それで隣の川俣町で風力発電の風車を山に作ったら景観が乱されると抗議があったのである、つまり飯館村だけのものとして何でもやれないのである
隣の自治体があり迷惑だともされるからである

ともかく飯館村は南相馬市と合併しなかった、でもそれが原発事故以後補償金を飯館村だけでもらうようになったから億の金をもらった人もいる、飯館村は被害が大きいから補償金も大きくなった
それはいいとしてただ飯館村の問題はもはや飯館村だけの問題ではなくなっている
特に南相馬氏とは地理的に一体であり放射性物質の処理で深くかかわっているからだ
今になると飯館村は広域社会となったとき自分たちは合併しないというのは地域エゴだったかもしれない、現代どうしても広域化グロ−バル化した世界だから互いに関係が生まれて分離できないからである
江戸時代なら自給自足でそれぞれぞれの飯館村だけではない、狭い地区単位で自給自足していたからかかわらないでも生活できていたのかもしれない
それで大倉村と佐須村が民情が違うとして明治以降合併しなかったのである
そんな小さな村でもそうだったのである

でも相馬藩内であり飯館村が飢饉の時相馬藩内では支援したのである
飯館村は実際は相馬藩内として役人もいたし特に塩役人が多くいたのである
飯樋村に塩役所があり60人も働いていた、塩の道を通り松川浦から運ばれていたからだ
そういうふうに飯館村は歴史でも地理でも一体化した地域である
川俣町も地理的に隣だが歴史的には別なのである
飯館村は鎌倉時代でも鹿島区の岩松氏の所領でもあったから歴史的にも一体なのである

そして不思議なのはこの原発事故は相馬藩内で一番被害があったことである
大熊とか双葉でも相馬藩内だったからである、すると相馬藩全体として見ることにもなる地理的に歴史的にも見ることになる、だからこそ飯館村がその全体の一部としてあり俺たちは俺たちだとか合併しないというのは地域エゴだったともなる
そして現実にもう飯館村に住んでいる人は三割くらいだという、それもほとんど老人なのである、子供は放射線の被害があるから住んでいない、外から通っているのである
学校も何十億とかかけて施設も立派にしたが生徒はわずかしかいないのである

だからそもそもこういう村が成り立つのか?

それが疑問なのである、ただ原発事故以後は補償金をもらう場所であり多額の利権の場所になったように見える、村議会員選挙でもそうした利権狙いかもしれない
議員となっていれば利権を得やすいからである、実際議員に立候補した人でも住んでいないかもしれないからである
つまえそこは住む場所ではなく利権を得る場所になったようにも見える

それは他の原発避難民も同じなのである、近くに浪江の復興住宅かある
でも南相馬市の市民とはなっていない、一票は持っていないのである
だから市政に対して文句や要望を言うこともはばかれる、そもそも一票がないから議員だってその人達をよそ者と見てしまうからである
それは飯館村で自分に成されたことと同じなのである
それで鹿島区の仮設住宅に入っていた小高の人達に鹿島区の議員がかかわり親切にしていた、それは小高の人は合併して南相馬市民であり一票をもっているからそうしたのである別に南相馬市民だったら南相馬市内に住んでいれば一票の権利を持っている
狭い範囲だと一票の重みがあると思った

それで浪江町民は今でも南相馬市民ではない、他でも依然として原発避難民は元の町であれ村であれそこの行政に属していて時々役所の人が回ってくるのである
ただ県でもかかわっていて県の役人の人が回っていた
復興団地とか住宅は県で建てたからである、ここに県という大きな行政としてかかわっていた、県も予算が大きいから金を出すから自治体に対して力をもっている
ただ県会議員とかなると直接かかわる度合いが低いから一票の重さも感じられないのである

何かこの原発事故とか津浪ではいろいろなこさとを考えさせられた
それは科学技術のことか政治のことからマスコミとか報道のこととかあらゆることとかかわっていたのである、それは総合的な問題であり科学技術だけの問題ではなかったのである
ただ広域社会になったとき飯館村のように小さい村だけではとても成り立たない
それは地域エゴになっていた、おらが村がいいければ良いということだけでは成立たない実際にその周辺に南相馬市でも飯館村の人が住んでいたりしているからだ
不思議なのは飯館村の周辺に住んでいる人達に対して私が言われたようなことをここは俺たちの村だからかかわるな、邪魔だと言われたらどう感じるのか
自分が感じたこと同じことを感じるだろう
ただ江戸時代でも村同士で水争いとかで争い木材利用の入会権とかで戦国時代にもなったとされている、だから必ず村同士でも利害が対立して争うことがある
それは人間が存在したとから動物の縄張り争いのようなものがあったからさけられないともなる

いづれにしろ狭い範囲だと民主主義が身近なものになる、国政選挙とかなる百万単位の票でありどうせ一票などなんの影響もないとなり投票もしないともなる
でも身近な問題になると関心があり今回のように故郷に住めなくなるとかなり住んでいるだけで重い責任があることを自覚したのである
そもそも民主主義とはギリシャのポリスから始まったのでありそれは一万足らずの規模であり狭い範囲で行われていたのである
だから直接選挙であり身近なものとなっていた、一票が重いものとしてあったのだ
それで規模があまり大きくなると成り立たなくなる
現代では規模が何百倍以上になっているから成り立たなくなっているともなる

とにかく酷な言い方をすると

原発避難民は故郷にもどり住め、住まない人はその土地であれ権利を放棄しろ
そして別な自治体民になれ、どうせ戻らないのだから

ただ補償金を得るためには元の町村に籍を置かねばならないとかなる
でも自分が飯館村の議員の運動員に言われたようによそ者は選挙の邪魔だからかかわるなうざいから消えろとまでなる

何かこれは今世界で難民があふれているけどそれと多少似ている、原発事故の避難民もやはり 難民だからである
でも避難民はここは俺たちの国であり入ってくるなとなる
数が多いので引き受けることもできないからである
要するに人間の権利と何なのか、市町村であれそこに属して権利が生まれる
でも国籍とかない、市町村にも属しないとすると権利もないとなる
そして難民となって他国に住む権利などもともとないのである
ただ人道的に引き受けるとして限度がある
つまりそうして難民化した人達にも責任がありそれを自分たちで負うべきだともなる

何かこうして市町村でもそこに住むことだけでも責任が課せられていたのである
自分たちの国は市町村は自分たちで守れとかなっていたのである
原発事故は実際はその一地域だけの問題ではない、周辺を広範囲にまきこむものだから
そんな一地域で決められるものでもなかったのである
環境問題になると世界とかかわる、そのためにトリチウムを海に流すなと世界から言われるのである

だからこうして事故後は故郷に住めないとか責任を地元の人達はとらされた
故にそのことを深く考えて原発の是非を決めるものだったが一土地の所有者とか地元で金になるかとかで簡単に決められたのである
是非論があるにてもほとんど議論などされなかったのである
それはみんな金になるから利益になるからとして引き受けたからである
そういうことがあってもやはりせめてみんなで真剣に議論すべきだったとはなる
そういうことで新潟県の巻町が原発を町民の話し合いで決めたということは稀有のことだったのである
posted by 老鶯 at 19:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

原発事故における理系と文系の問題 (総合的な知が必要でありそれは不可能だった)


原発事故における理系と文系の問題

(総合的な知が必要でありそれは不可能だった)




だから日本にとって必要なのは分業化でなく「協業化」なんだよ。
お互いの仕事を知ろうとしないとってこと。
分業なら昭和時代からガチガチにやってるから。
昭和時代でそれで済んだのは、ものが少なかったからどんなものでも売れたからにすぎんよ。

建国以来できなかった民族がこれからできるようになると期待するのが間違っている
日本の国民性は多様性の一つと諦めて、技術を伸ばしたい人は日本を捨てるのが近道

実は問題の本質は日本人の気質にある

業務にしろ技術にしろ、物事を俯瞰して扱える人間がすべての業種・職種で極めて少ない神経質で目先のことに夢中になる人間は腐るほどいる
そして近視眼すぎて自身の能力も自覚できていないから簡単に自惚れる
数学って基本的に人文科学であって、敢えて言うなら『文系』学問なんだけど
記事みたいなことを本気で言ってる日本社会の時点で、海外から笑われるような現状ってのがわかってない

情報系は理系ではないと思うんだが。もちろん文系でもないが。
機械や電気が出来るかとプログラムが書けるのかは全く別の能力

文系が悪いってか日本人の理系技術者は経営的才能がある人がほとんどいないって事なんだよ
アメリカだとプログラマがそのまま経営者になって大企業にまで成長させてる
マイクロソフトやフェイスブックだってそうじゃん
そういう意味では理系の人が無能だったというだけでしかないな
自分も理系だからよくわかる

文系がという書き方をしたけど
技術ってのは最終的に手先の器用さだけが重視されるのではなく
それがもたらす影響とかも考慮する必要があるわけ

それって何よって話になると哲学に行き着くわけ
なんでコレはここにあるんだろうとか別な場所にコレがあったら良いかもなって発想は哲学的発想の領域になる
今は文系に寄りすぎて変なことになってるけど理系ばっかりもダメなわけ



原発のことで追求して来たけどこれほど総合的知が要求されるものはなかった
私は文系だからほとんど原発のことがわからなかった
ただ事故が否応なく原子力のこと核のことなどを理解することが求められたのである
まず原発事故ではもう専門家でも吉田所長ですら原発の肝心なことを理解してなかった
この人は相当な優秀な人だった、でも復水器のことを知らないと言っていたのである
私は素材部門だからですとか言っていた
その復水器とは事故になったとき対応する重要なものだったのである
でもそれすら知らなかったのである、トップの人が知らないとしたら事故に対応できないのである
事故になった時、実際は全くお手あげになっていた、どうしていいかわからなくなっていた、それで放射線量を計るスピーディをあっても最初に連絡したのは日本政府ではない
アメリカだったのである、アメリカに頼りアメリカの支持を仰いでいたのである

日本人では何もできない!

それでこんな危険なものを作っていたのだから余りにもずさんだったのである
それで日本がの技術は優秀だから事故にはならないと吹聴していたのだからあきれるとなる、原発内で働いていたのはほとんど理系である、理系の技術者である
そこに素人の文系の人など立ち入ることもできない、政治的には原子力村を作り文系の人は官僚でも政治家でも地元の人でもその理系の技術者の下で恩恵を受けていたとなる
実質に力をもっていたのは理系の技術者である
ただ社長とか幹部は文系の人だった、その社長はコスト削減で成果を上げた文系の社長だった、その人は原子力の技術のことなどわからないのである
でも経営するトップは文系の人達だったとなる、だから事故が起きた時何か起きたのか理解できないし対処もできなかったとなる
会社を経営するとして今でも経営者は社長とか文系になっている

一方で理系の問題もある、理系の人は機械マニアとかなり社会全体のことを関係なくマニアとなり没頭する、だからこそそういう人は機械に通じて重要な役割を持つとなる
ただ何かそこに偏ったものが生まれることは確かである
でも別にもし経営者ではなくただ機械マニアとしてそこで励んでいれば問題はないのである
でも何か経営となると別な問題が生まれて来る
原発というのはこれを作る前に原発は安全なのか安全を維持して操作できるのかとかが問題になっていた、でもそのことはあまり追及されなかった
文系の人達は素人は専門家の言いなりになる、核のことを専門用語で言われれば何も言えないからである

専門家が安全だといえば安全になる

こういうことしかなかったのである、だから原発内に立ち入ることもできないし疑問をぶつけることもできない、マスコミには電事連をふくめて800億円とかの金が流れていたそれは全マスコミにその金は流れていた
創価の潮とか関係の雑誌にも流れていた、原発は安全だとしてその金を得ていたのである創価などはただ何でも御利益になれば食いつく、頭にそれしかないし毎日一票のために
利権と御利益を得るために祈っているだけだからである
そして福島民報は県で50パーセント出資して聖教新聞を刷っているのだからもう原発に関しては何も言えない、だから原発は土地の所有者がいて県が許可できれば建てられたとなっていたのである、これほど危険なものがそんなことで決められていたのである
何か不思議なのは双葉町辺りで創価の会館があった、廃墟の街にあった
それも何なのだろうと見た

原発はとにかく国で決めた国策なのだからこれに逆らえないのである、理系の技術者はそれに従うほかない、例えば北朝鮮でミサイルを打つ、それを作るのは理系の技術者であるでもそれを命令するのは文系の政治家だともなる
そこで理系の技術者が疑問になり嫌だと拒否したらその国で生きることもできない
これは原爆を落とした後にそれにかかわった理系の技術者がアイシュタインなどが反省したのである、それが大量殺戮に使われたことで反省したのである

つまりそもそも核というものから核兵器が生まれた、それは空恐ろしいものだったのである
するとそんな危険なものを使用していいのか、それを発明した人は悪魔だったともなるのである
ただ科学技術というのはそれ自体危険かどうかとか関係なく開発がすすめられる
だから遺伝子操作した食糧でも今は作られ売られている、そこにも危険が指摘されているワクチンでも遺伝子操作しているから危険だという人もいる
科学技術には何かそうした危険性が常につきまとっていたのである
だからゼウスから火を盗んだプロメテウスは過酷な罰を受けたのである
そういうことが核にも言えることだったのである
プルトニウムの毒が二万年消えないとういのもそうである、それだけ恐ろしいものとしてあった

すると原発はそもそも必要なものだったのか?

ここから発想する必要があったのだ、それは理系と文系の相違だともなる
理系は核のことを研究する、それが社会にどう影響するかは考えないのである
その機械が大量殺戮兵器でもかまわない、それが社会にどう影響するかなど考えない
機械のことしか核のことしか考えないからである
そこに理系と文系の根本的が相違があったのかもしれない

電気関係の優秀な技術者が会社を経営するようになった、でもその人が会社を経営する動機はただ自分が技術者として優秀だから金を持っている都会の人から金を得るためだと言っていた、経営の動機がそれだけだったのである
ただ何か技術者と経営となるとそれがまた別なことになる
その人はコンピュターに詳しくその方面でも独自にサイバーのようなものを作っていた
でもその人がなぜ事業に失敗したのか?

その動機が余りにも社会というのもを考慮しないものであった
技術的に優れているから自分の優秀さを社会に見せてやるとかが動機だったのである
だからこれは一身上のことになるがその人はまず他者を助けるとか他者のためになるとかは全く考えない、それが自分自身介護とか病気になったとき苦しんでいる時でも商売のことを考えていた、借金していたから余計に借金を払うために自分に要求したのである
その人の問題はモラル的なものであった、技術だけではない、経営となりモラルが関係していたのである

その人は経営者としては会社を経営する資格がなっかたのである
ただ人に使われていれば問題なかったのである
だから文系理系で理系は文系に使われるだけだとか不満を言うがこういうこともあるのである、また東大出の理系の鳩山首相でも何か宇宙人だとか変なものになっていた
政治家とは国家を運営する者であり機械マニアとか技術だけが優秀ではできないのである
ただ原発でも新潟の巻町では町民全員で相談して作ることをやめた

これは本当に例外的である、原発はいくら国策でも一地域で町で拒否できたのである
でもこれは例外でありあとは原発は拒否されていないのである

それって何よって話になると哲学に行き着くわけ
なんでコレはここにあるんだろうとか別な場所にコレがあったら良いかもなって発想は哲学的発想の領域になる
今は文系に寄りすぎて変なことになってるけど理系ばっかりもダメなわけ

原発は理系の技術者だけでは処理できないものだった
それがそもそも必要なものがどうかということから哲学的な問題としてもあった
例えばオリッピックでもする意味があるのかどうか問われた
今になるとオリッピックをする意味が失われていたからである
結局一部のオリッピック特権者の利益のために行われていたことが判明したからである
JOC会長はぼったくり会長と世界から批判されたからである
二百万の部屋のホテルに泊まるとかまるで国賓並みであり国王を招待すると同じだったからである

いづれにしろ原発を考える時、郷土史などこれも一部のマニアのもので理系的技術とは関係ないものと見ていた、でも津波のことなど実際はその記録もあり関係していた
そもそも郷土史とかなると実は郷土全体をみるのだからあらゆることが関係していたのである、総合的に観ることだったのである
なぜアメリカでは原発が東側に主に作られていたかというと地震がないからでありまた
竜巻があり竜巻を防ぐために地下に電源を設置していたのである
日本では地震が多いのだから海岸に作れば津波も来る、そういうことを考慮しなかった
それでも科学者集団が津波が来るとして警告していたのである
それもかなり早い時期に来るとしていたが東電では無視したのである
それは金がかかるから防潮堤を作らなかったのである、今になると作ったのであり作れないことはなかったのである
また高い場所に作ったのにわざわざ削って低くして電源を地下をにもってきた
でも津波でやられて使えなくなった、そしてメルトダウンになってしまったのである

これは理系の技術者のミスでもあった、一方でコストダウンばかりを考えていた文系の社長の問題もあった、こうして理系文系にかかわらず原発は総合的な問題としてあったのである

業務にしろ技術にしろ、物事を俯瞰して扱える人間がすべての業種・職種で極めて少ない神経質で目先のことに夢中になる人間は腐るほどいる
そして近視眼すぎて自身の能力も自覚できていないから簡単に自惚れる

俯瞰的総合的に観ることが大事にしてもそれは一個の人間の能力を越えたものだったのである、つまり原発は人間にとって操作不可能なものでもあったのだ
核もそうである、人間の能力の限界が露呈する、それで人類が破滅するような代物だったのである
そうなれば別な安全な技術を開発したりまた多少貧乏でもやむをえないという選択もありえたのである
そもそも結局原発は人間が操作する能力を超えたものだからである
もし全能の神だったからできるがそうでないからできないのである
私自身にしても郷土史とか郷土のことを学問にしても全部のことなどわからない
理系的視野が欠けていたり狭い郷土でも全部を知ることなどできないからである
そこに人間の限界があり必然的に事故になり大惨事となり故郷に住めなくなり修復不可能となってしまったのである

人間には限界がある

限界を心得よ

全能なるは神しかいない

科学技術も災いがもたらされる

全能ならざるがゆえに・・・

やはり人間の限界を知らないと大惨事になる、技(わざ)はわざわいに通じているのだ
ただ科学技術でもそれが良いものとして便利なものとして追求してゆくと災い(わざわい)がもたらされる、それを原発事故でも原爆でも示したのである
他にも科学技術は全部いいものとして作用しないのである
必ず人間のすることにはいい面と悪い面が生まれる、そして今回のような大事故になりとりかえしし、かないものともなる
それは結局人間の奢りに対しても罰なのである、過酷なる罰だったのである

事業の経営で失敗した人もまた日本の戦争でも負けたのは奢りからでもあった
あることに人間は優秀だとして技術的にはそうでも経営ではまた別でありそれで失敗したのである
人間には何か常に奢りが生まれる、それが一番危険なのである
日本が技術的に優秀だから事故が起こらないとか言われたのもそうである
原発安全神話は全く科学的根拠もなにもない権力者が人をだますために作られていたのである、それを作ったのは文系でもあり理系でもある
配管など老朽化して危険だとすでに警告していた、それも東電では取り合わなかった
その幹部が取り合わなかった、だから幹部の責任は重くても誰一人責任をとらなかった
ある意味で死刑になってもいいくらいの責任があったのである
その責任をあまりにも軽く見ていたのである

第一原発は東京に作るのが筋だったのである、それほど安全なら東京に作った方がコストでもかからないからである
なぜわざわざ福島に作ったのか?そのことがペテンだったのである
これだけの被害があったのだからその責任も重いとしても誰もとらないのである
ただ地元の人は故郷に住めなくなったという責任をとらされた、それも避難区域になった所は距離に比例して責任があったからである、ただ飯館村はそうではなかったから同情されることはわかる、でも今になるとやはり南相馬市に放射性物質が流れて来るとか広域的に避難してかかわるのだから事故後はやはり責任が押し付けられたとはなる
それで飯館村の村会議員選挙で村の者以外のよそ者はかかわるなというのはありえないことである、南相馬市はよそ者ではないのである
飯館村は今や議員になるとても利権の場のようになった、補償金を得るための利権の場のようになったのである、昔のまでいな村とかはない、それは飯館村の人の責任ではないにしろやはり現実に責任をもたされたとはなる
posted by 老鶯 at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連