2021年10月17日

引きこもりだった自分の人生 (文明が異常でありそのレジスタンスに生きた アウトサイダー)


引きこもりだった自分の人生

(文明が異常でありそのレジスタンスに生きた アウトサイダー)

無職の男性に向けられる社会の目の厳しさがあげられます。彼らには、不審者や無能力者を見るような、偏見的差別を含んだ視線が送られがちなのです。そして、この傾向は、地方圏ほど顕著だと考えられます。

藤里町は白神山地のふもとの人口3800人の小さな町。町の社会福祉協議会の人たちが先頭に立ち、自治会や民生委員、PTAなどのネットワークを活用して、一軒ずつしらみつぶしにまわって調査をしたというから驚きですし、頭が下がる思いです。

その結果、ひきこもりの方の率が人口全体の8.74%にものぼることがわかりました。65歳以上の高齢者が人口の4割を超えている町で、11人に1人がひきこもっていたのです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8e5ecfd06702fa48f248f5127088ad5f6823011e?page=1

これは意外である、こんなにいるのかというとき私も無職であり引きこもり人生だった
だから異様だったともなるが自分自身そのことについて気づいていなかった
というのは自分は女の親が二人いて責められることもなかったからだ
この特殊な環境が別に引きこもりでもいいものとして遂に人生が引きこもり人生になってしまった、ただ私は旅することが仕事となり家に外に出ず引きこもっていたのは違っていた
ただ家庭環境で特殊なものになっていたが気づかなかったのである
普通だったら親から責められて殺された人もいるからだ

とにかく私はそういう引きこもりの人と良く逢うのである、それで田舎でも必ずそういう人が今ではいるのである、そういう人はまた田舎だと目立つのである
今は昼間に人がぶらぶらしているのは見かけない、みんな会社員だから勤めているからだろう、だから昼間ぶらぶらしている人は田舎だと目立つのである
でも驚きなのは藤里町とかで人口3800人の町にそんなに引きこもりがいるのかとなるこれだけ今や引きこもりが常態化している
団塊の世代などそんな人極々まれでありそんな人いたのかとなるが今ならこうして引きこもりが普通にいる時代になったのである

田舎で引きこもりになりやすいのは確かに仕事がないのである
都会だと多様な仕事があるが田舎にはもう知的な仕事は限られている
公務員とか農協とか銀行とかが知的な仕事であり事務である、あとはなかなかないからである、あとは建築工事関係とか肉体労働になる
都会と違ってそれが引きこもりになりやすい、都会だと何かしら仕事があり少ないというのはそのことなのだろう
大学を出てても何か知的な仕事にありつくことがないのである

ただ引きこもりは実は危険なものかもしれない、社会からはずれたものでありそれはアウトサイダーになる、でもその人たちは天才芸術家だったり何か特別な人であり今の日常化した引きこもりとは違っていた、その人たちは歴史に名を残す人だったのである
でもゴッホでもニーチェでもヘルダーリンでも狂気となり閉じこもってしまったのであるつまりこういう危険性がアウトサイダーになるとある
社会で仕事をもって働くことはやはりそこで社会性が身につくがそういう機会がなくなる
ただ自分の場合は特殊な家庭環境で自ずと仕事が嫌いで会社員とか団体生活もできないのでそうなったのである、そこでただ自分の好きなことを追求したのである
だからこういうことはみんながなりえないことだった
でも今になるとそうした特殊な人が普通にもなったということである
数が多ければそれが正常であり普通になる、ナチスでも全員がナチスになればそうでない人は異常となり殺されることにもなったと同じである
カルト教団も異常なのだけど数が多いから正常となり批判する者が異常とされるからである、この世の中何が異常か正常化わからないのである
キリストが十字架になったのはそのためである、神の子が現実に現れたとき誰もそれを認めなかったからだ、つまり神の子からみたこの世が異常でありそれを叱責したら十字架にかけられて殺されたとういことである

また社会でも会社でも適合している人達は自ら社畜というように自ら奴隷化しているからそれも異常でありその異常性を社会ではかえって正常としているのである
そしたら引きこもりとは必ずしもマイナス面ばかりではない、実はもしかしたら現代文明社会のレジスタンスとしての生き方かもしれない、でもまたそれは社会の敗残者であり
何の役にもたたない穀つぶしともなる
アウトサイダーになった人たちは特別に優れた天才である

ニーチェとかミラーとか上野霄里氏とかがそうである、その人たちは余りにも個性がありぬきんでた人だから文明の組織化団体化した一員となることに耐えられなかったとなる
ただ今の引きこもりそういう高いレベルのものではない
むしろ人間的に欠陥があり職にもつけないもともとそうした特別な天才とかとは比べようがないものである、なぜならアウトサイダーが人類でも極まれな人達であり歴史に残る人物となっているからである、そもそも歴史で宗教とか思想とか芸術家となるとアウトサイダーだからである、それは今の引きこもりとは比べようがないとなる

私の場合は無職の人生であり旅の人生であった、何をしていたかというと自然を見て自然と一体化することをしてきた、自然と一体化することは沈黙することが常習にすることである、なぜなら山でも木でも石でも沈黙しているからである
でもそれは社会生活からすれば異常となる、それが実際できる場所は禅宗とかで座禅を組み瞑想しているとかなる、でもそれは社会では許されない、寺に籠もることでできる
自分の場合は家にいてもそうしていたのである、それでとがめられることもなかったのである
そこで詩作したり学問したり一人でしていたのである
それが70過ぎて実るようになった、発表ししていないが百遍以上の詩を書いているからだつまり自然と合一するには社会生活しているとうまくいかないとなる
農民とかなる自ずと生活が自然に依拠するからできるが肉体労働になるからそれも知的な仕事となるとなかなかできないとなる

ただ自分は農業しなくてもただ観察することはしていたのである
自分は自然の観察者だったのである、そして自然と比べると文明社会はかえって歪(いびつ)であり異常だと気づく、文明には根本的に美がないロゴスも自然の秩序もない
東京を見ればわかるただ醜悪な怪物都市なのである
そんなものを讃歌できるだろうか?そんなところが人間の住む場所なのだろうか?
そうした中で生活している人間そのものが異常なのである
そのためにそこから異常な人達が生まれてくる、カルト教団とかがそうだった
ナチスもそういうものだった、文明からそうした異常なものが生まれて大惨事になったのである

とはいえ田舎の人達が素朴だとかない、醜悪なことは変わりない、でもその暮らしを神が隠したという時、自然の中につつまれ隠されることで良かったのである
人が顔を出す時蛇のように見えるからである
ただ自然の中に黙して隠されつつまれているとき讃美するものとなっていたのである
ただ原発事故以後は人間の醜悪さが露骨に現れて嫌悪するようになった
自然の美すら田舎の人達に関係ないのである、ただ補償金をもらうために争い利権の場のようになったことでもわかる
田舎に住んで住んでいてもその美とかに関係ない、求めているのはやはり金であり
別に田舎の自然とは関係ない、だから多額の補償金をもらったとき仙台市とかに出て行ったのである、故郷とかに好きで住んでいたわけでもないからである

とにかく文明とはもはや怪物であり誰も制御できないものであり異常なのである、そこに生活している人も異常だとなる、、その行きつく先はバベルであり混乱なのである
そしてバベルの塔のように崩壊する、原発事故でもそういう文明の所産であり文明崩壊のようなことがここで現実に起きたのである
原発とか核は文明の最高の産物でありそれが無惨にも崩壊してしまったからである
それも自然のある田舎で起きたのである、そして空気も水も土も汚染されて住めなくなったのである
その原因は大きくみれば文明そのものにあったとなる、文明から起こるべくして起こったとなるのである

posted by 老鶯 at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年10月18日

原発事故でなぜ一挙に町や村が崩壊したのか? (広域化グロ−バル経済で共同体のつながりがなくなっていた)


原発事故でなぜ一挙に町や村が崩壊したのか?

(広域化グロ−バル経済で共同体のつながりがなくなっていた)

飢饉の時などは比較的余裕のある藩でも「津留」といい禁輸措置をとりました
自分のところに波及するのを過度に恐れたわけです
結果としてしばしば食料が不足地帯に流れず飢饉が不必要に激化する傾向がありました

川とか海の港で行われた、相馬藩でも飯館村が飢饉の時相馬藩内では援助したが伊達藩ではむしろ関所でとりしまり支援しない、それが江戸時代だった
こういう社会とまるで逆なのが現代だけどやはり国内ではこういうことがなくてもグロ−バル化すると外国から品物が入って来なくなる、最近ではコロナウィルスでマスクが自国で生産していないので中国から輸入するほかなくなったとかある
つまり現代ではグロ−バル化すると外国から品物が入らないと致命的になる
最近では円安になり小麦の値段があがるなどして影響が大きい
どうしても自国優先になるから食料が何かの影響で入らなくなると窮地になる

一方で地域の繋がりが希薄化した、米でもなんでも食料でも外部からいくらでも入ってくるとなると地元でとれるものにこだわらない、野菜にしてもみんな外から九州でも北海道からでも入ってくる、すると地元に頼らないのだから地元の農家でも別になくても食料は入るとなるから関心が薄れるのである
米でも様々なブランド米がありただ金があればどれでも選んで買えばいいとなる
ただこの辺で天の粒とかは500円くらい安かった、それは別にうまくないものではない
だから安さで買った、野菜でも地元のはわずかでありみんな外部から入ってくる
それは専業農家が大量に安く作って売っているものである
約八割は専業農家がキャベツでも何でも作って売っているのである
だから農業がもうからないというがキャベツ農家は一千万の収入があるとかされている
ただその労働力がたりないので外国人労働者を安く雇っているとなる
つまり労働力を安くして安く売れるとなる、これもまた広域化グロ−バル化経済だとなるのである

でもこうなると地域とかのつながりは希薄化する、何か昔の村とかとはもう違っている
昔の村だと自給自足が基本にあった、なぜなら戦前でも戦後まもなくでも農民が八割とか戦後でも六割とか多かったからである
すると農民社会であり農民は今でもそうだが結びつきが強い、それで三代でも農家でないと仲間になれないとか言われる
それは江戸時代から村の結束は強かった、人間は共同体というとき生産共同体であり消費共同体というのはない、米でも共同の労働があってそこで村の結束が生まれた
だから農家が前は大きな票田となっていたのである

現代経済は消費社会ともなっている、消費者は王様だともなる、何か店でも農家でも米を買ってくれとなる、買ってくれる人がお客様となるからだ
米でも今年はコロナウィルスで消費が減って余り米の値段が下がったとかなり買ってくれとなる、でも消費するだけだと仲間にはなれない、人間の結びつきが生まれない
だから何か地域の結びつきは希薄化してきた、農家でも全体の生産の一割にも満たない
いくら
回りが田畑があっても現実の経済では田舎でも経済の比重が前より相当に下がっている
それで原発事故で仮設に住んでいた人がここで買い物したりして金を使うから地元の人達を助けていると言っていたのである、それが何かおかしいのだけどここに現代の社会を象徴したものがあったとみる

消費者は王様だとなっている社会だからである、そこで地元の人に助けられているという感覚はなかったのである、かえって外部から来たボランティアは毎日来ていたから外部の人に助けられている、なぜ地元の人は不満なのかとかえって地元の人達とは一体感もないのである、地元の人達は冷たいとなっていたのである
これも何か矛盾していたがこういう社会で起きた現象だとも見る
こういう社会だったら別に金があれば他に移り住んだ方がいいとなる、地元はかえって冷たいとなるからだ

でも例えば原発事故以後この辺で荒地化したが農業をやる人はなかなかない
そんな小規模の農業はただ骨が折れるだけだとなる、そして高齢化しているから知っている人の畑で野菜を作っていた人も体が弱りやめた、回りも病気とか高齢化でやめた
でもその後も誰も畑で野菜を作る人はいない、放置されているだけである
戦後は引揚者が働く場所もなくどんな不便な場所にも開墾に入った、そういう時代なら
そうした空き地は利用されていたのである
その原因は広域化とグロ−バル化経済にあったともなる

このことは飢饉になったら外部から物資が入ってくる、外国からも入ってくる
でも遠くから外国から物資を入れることは頼ることは入らないと危険になる
どうしても自国優先になるからである、地元優先になる、だから広域化グロ−バル化経済はすべていいものとして働かないのである
そして地域の結びつきが弱くなったという時こうした広域化グロ−バル化経済が影響している、食料でも外部から入り頼るとなると地元の農家などでも存在感がなくなる
外部からいくらでも食料が入ってくるではないか、地元のうまくない米など食べる必要がないとなる、

そこで一番肝心なものは何か

金があればいい

こうなったのが現代である、金があれば外部からいくらでも買えるからである
そうして地域のつながりが薄れるとどうなるのか、何かあると地域が簡単に崩壊する
それが起きたのが原発事故で町や村が一挙にゴーストタウンにビレッジになったことである、これは放射性物質汚染で住めなくなったこともある
でももともと農業でもそれが主産業ではない、だから東電で電気関係の仕事をしていた
浪江の人は補償金もらって老後も安泰であり良かったとしている
あれだけ寂れた街に住んでいてもそうである、回りの田畑は草ぼうぼうでもその田畑に無関心だったのである、もともとその人は電気関係の仕事だから田畑が草ぼうぼうになっても関係ないのである、別に金があれば一応何でも買えるからである
確かに買い物が不便でも品物は外部から入ってくる、要するに金さえあればどうにかなる最も怖いのは金がないことである、それで最底辺層は毎月ガス、電気、水道が止められることで窮地に追い込まれるのである
そううい人は金が得られるならば地元に執着しないだろう、第一そこまで貧乏なら外部に移って豊かに暮らせるならそうするからである

原発事故でなぜ簡単に村でも町でも崩壊したのか?それは放射性物質に汚染されて住めないともなった、でも不思議なのは地元でももともと米でも野菜でも外部から入ってくるものを食べていた、だから放射性物質に汚染されないものを買って食べればいいのである
そうすれば地元に住めなるとなる、ただ空気とか水とかまで汚染されたから住めないともなった、でも別にもし放射性物質汚染でも気にしなければ住めるのである
食料は外部から入ってくるし車があれば買い出しもできるからである
だからすぐに飢え死にしたりしない、江戸時代の飢饉だと飢え死にしている
外部から食料が入ってこないからである、津留とかは外部に食料を流出しないように止める役割があった、飢饉の時などは流出しては困るからである

何か現代は外部とのつながりはこうして強くなった、それもグロ−バル化すれば外国とのつながりでもそうである、でもかえって地元の地域のつながりは希薄化したのである
原発事故では仮設には毎日のようにボランティアが来て援助していた
こうして外部とのつながりが強調されたのである
そして内部のつながりは奇妙なのは補償金で分断されたのである
こっちが多くもらったこっちはもらえないとして分断してしまった
あとは多額の補償金をもらった人たちは外部に流出した、仙台市とかに資本金ができたので商売して成功した人達もいる、つまり金があればどこでも移住していいし一旦村でも町でも荒地になりゴーストタウンになったら他に移った方がいいとなる
その資金も金も得たからである

私は別にそういう人達を批判するのてはなくそういう社会で起きたということを考察しているのである
だからこれは別に原発事故という特殊なことでもなくても他でもありうる
地元のつながりは希薄化しているから地元にこだわらない社会である
金さえあれば便利な所に移ればいいとなるからである、例えば老後でも東京に住まずに金さえあれば地方でも住めるとなる、その選択は自由であり問題は金があることである
広域化したグロ−バル化した社会の矛盾がある、私は車をもっていないから原町に買い物に行く、でも量販店の電器店でも他のチェーン店でも配達すると配達料がかかる、それが三千円とか高くなる
奇妙なのはインタ−ネットで注文したとき配達料が無料で送られてくることである
だから重いものは自転車で運べないから通販の方がいいとなってしまうのである
現実にケーズデンキでもインタ−ネットで通販しているのである
そこでは配達料は無料であり実店舗になると配達料がとられるのである
それは配達は委託している場合が多いからそこに払うからそうなるともみる
これは広域化グロ−バル化した社会の矛盾なのである

ただこうした社会は村でも町でも市でも簡単に崩壊しやすいともなる
外部とのつながりの中で生きているから別に今住んでいる地元にこだわる必要ないとなるからだ

金がすべていいものとして働かない

これも現実なのである、結婚するにしても金持になると相手が金ばかりを見て寄ってくるとか金を目当てにするのが多くなる、自分の家族の介護でも来た人たちは金を得たいためであり現実に大金を盗まれたりした
兄は交通事故で死んだけど雇い主は働いている時はいい人だったが保険金がおりるとなり豹変した、身よりがないものと思っていたから保険金の受取人になろうとしたのである
原発事故でも多額の補償金をもらえるとなるとそれしか頭になくなったのである
そうして町とか村の復興など念頭になくなる、ただ金が欲しいとなるだけであった
あとはその金で外に出て新しい家を建てればいいとなる
現代社会の怖さはすべて金になり金に追われ金に狂う社会なのである
確かに放射性物質お汚染があるのだから仕方ないと見る、その放射性物質でも30年とか消えないとかなっているからだ、そんな所に住めないというのもわかる

でも代々住んでいた場所にこだわりがあり何かそれだけが理由とも思えないのである
たとえそうであっても簡単に町でも村でも捨てられることがあっていいのかとなる
それが一部の人ならいいが全体でそうなってしまうことがあっていいのかとなる
でも現代は町でも村ですらそういうふうにつながりが希薄化しているから簡単に町や村でも捨てられるとなったのかと見る
やはり広域化グロ−バル化経済の中でこういうことも起きて来たとみる
共同体とは基本的に生産共同体であり消費共同体ではない、その生産共同体が農民を中心とした第一次産業を基本とした共同体が町や村を構成しなくなった
そもそも消費だけの共同体は成り立たない、消費するものが王様となりえない
その土地で生産するものがあって共同体も成り立つからである
だから一時的には補償金で成立つとしても継続しては成り立たない、何かしら生産して金を得なければ生活できなくなる、ただ現代はベーシックインカムなどが言われるから
消費に重点が置かれる社会にもなる、生産しないで金をもらえる
でも消費共同体とかはありえないだろう、何か生産しないで消費するだけの社会はありえないからである




posted by 老鶯 at 11:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

実は日本人が「他人を助けない不親切な国民」になっていた… (日本は村社会が規範を作ったーまた余裕がないと人は助けられない)


実は日本人が「他人を助けない不親切な国民」になっていた…

(日本は村社会が規範を作ったーまた余裕がないと人は助けられない)

https://news.yahoo.co.jp/articles/3a40db6f45418461163b63127a2fa48e7656aec0?page=2

(パート4)ここが読みやすい
https://chururinews.blog.jp/archives/11121407.html

●日本人が不親切になったとみんな思っている(5ch)

近くの人の忘れ物に気づき係員に届けようとしたら窃盗の疑いでブラリ入り
どの店に行ってもマークされてる
それ以来落とし物を見つけても素通り
親切で誤認されるくらいなら自衛最優先

今の日本は、親切心で何かすると勘違いやでっち上げで公務員が一般国民を逮捕する国になっているから無理です

要は自分の事でいっぱいいっぱいの奴が激増したって事だろ、俺は生き残る、俺だけ生き残るみたいな
人になりふり構ってらんねえっていうか、景気も関係あるんだけど

それは国民性と関係無いよ
民族に関係なく、金に余裕がある人は他者を助ける余裕もあるというだけ
今は経済的に貧しい国民が多くなってしまった
それだけこの国が大衆からむしり取ってきたことの証左だし

お客さんに愛想良くするだけで昔から親切でも何でもないぞ
田舎に住んでる連中なんて他人に嫌がらせして喜ぶのばっかだし
2chが出来た頃から何かの被害者が国から賠償金貰うなんて
ニュースが出たら烈火のごとく怒って叩きまくってきるし
基本他人が得する事は阻止するように動く奴ばっかやん

日本人の世間体からくる善意のポーズを真に受けてる奴の多いこと
本質はめちゃくちゃ醜い民族だよ

だからルールをガチガチに固めたり、同調圧力やらで身動きできないように抑え込むのよ
集団行動に支障が出るレベルに醜いから

財布届けても職質されるからな
落とし物は二度と届けない

東京はみんな忙しいし通勤時間帯などだと、
時間がなくて手を貸したくても貸せない人は多いと思う
だから見て見ぬふりをしてそそくさと通りすぎる

今の日本は善良な人間ほど損をするように出来てるからな
一人また一人と自分の善意が誰かの金儲けに利用されてると気づいて
他人を助ける人がいなくなり現状に至る

昔なら近所のおばちゃんに子守りお願いしたり、旅行するときにペット預けたりとかできたけど、今そんなん絶対無理だしな。

落とし物を拾ってあげて声かけたら通報されそうだもんな

日本人は親切にされる事も嫌うよね
席を譲られたり話しかけられるだけで嫌がるんだから

宗教団体が政治を牛耳ると信者獲得のために人の弱みに付け込むからな

近くの人の忘れ物に気づき係員に届けようとしたら窃盗の疑いでブラリ入り
どの店に行ってもマークされてる
それ以来落とし物を見つけても素通り
親切で誤認されるくらいなら自衛最優先

助けようと声掛けたら通報される時代だもんな

下手に声掛けると、ヘンな人として警察呼ぶ親とか、子どもにも知らない人に声掛けられても、
相手にしないことなど言われた居るんです。
他人に不親切では無く、そうしないと疑われる事も有るんですが?
それでも声掛けたりして、リスクを背負うと言う事でしょうか。

人々の助け合いを強めたいなら、
社会保険料や社会保障を撤廃することだよ。
あれで可処分所得を奪われ、寄付がやりづらくなっている。
おまけに寄付をもらう側も、国が暮れる者と勘違いして、感謝を忘れる。
社会保障を撤廃して、福祉は人々の寄付のみとやるべきだね。

少し前の中国に似てきたな
関わると面倒だから人が倒れてても無視

幸福をわけあうのが嫌い
(血縁主義、身内贔屓、福は内鬼は外)
苦しみは平等じゃないと許せず、幸運を掴んだ人の足を引っ張る

政府は貧しい人々の面倒を見るべき」という項目に「同意する」と答えた日本人は
調査対象の47ヵ国中、最低の59%だった。

総中流層だらけの時代は余裕があったから他人に親切に出来た
今は奴隷層が増えたせいで他人なんて構う余裕がない

小学生が下校後に歩いていると
一定距離を保って成人男性が後ろを歩いてきた
小学生が立ち止まるとその人も立ち止まった
小学生は怖くなって走って帰宅しました
親は通報しましたとさ
犯人扱いされまくりだろ
自意識過剰です

泣いてる子供が座り込んでいていかにも助けてほしいって感じだったけど
不審者に間違われる危険性もあるからガン無視して
颯爽と立ち去ったよ
心は痛んだけど警察さえいなければ

中国で道端で倒れてる子供を周りの人がみんなスルーしてるニュースがあってコメンテーターや5chでも中国は異常みたいに言ってたんだけど今や日本も変わらんよ
みんなトラブルに巻き込まれれたくないのさ

新宿で道に倒れてる人がいてもみんな無視していく。
それが普通なのね〜。

人助けようとすると逮捕されるよね

貧困増えて余裕無くなったからだろ?外国人だっておなじだ。心にゆとりが無いとギスギスして荒んでくるんだよ。

なんかこの対話を知ると悲しくなる、日本人ってもうかつての日本人ではない
まるで違った日本人になっている、互いに信頼もないし疑心暗鬼で生きている
社会の変化もありへたに他人とはかかわるなとなる
ただやっかいだとなる、だからボランティアなどすることは相当に危険になる
これも暗い話になる、自分もそれを経験したからそういう社会になった、日本人変わったことを意識していなかったためである
これらがすべてではないにしろどうしてもネガティブな意見が多くそれが真実と見る

●日本はもともとよそ者に不親切だった

現代の日本はこれだよ、いちいち納得する、知っている底辺層が何度もここで倒れても誰も助けないというのはもう一部の人ではない全員がそう思っているともなる
日本人が親切だとか落とした財布は必ずもどってくるとかは確かにある
でも様々なことで日本人は人に対して親切ではない、江戸時代の人間が何か貧乏でも親切であったとかいい顔していたとか言われるがそういうものはもうとっくにない
そういう社会があり時代の影響でそうなったからである

江戸時代だったら村社会であり狭い村社会で日本人のアイディンティティは作られてきたそこで村八分とかがありよそ者と内部の者と区別してきた
村の外から来た人は村人全員で監視していた、それで与那国島に行ったら木陰で休んでいただけで怪しい奴として警察に通報された
与那国島は簡単に島を一周できる小さな村である、そういう場所だからよそ者はすぐわかるからである、もともとそうした島で人と交わらないよせつけないことがあったからだ
そういう感覚が日本全国で江戸時代だったし明治になっても全国の人が交わるようになった、そこで大きな変化が起きた、汽車でもそこの中で見知らぬ人が一緒に同席することが何かなじめない、異様なことに感じていたのである
つまり見知らぬ人と一緒にいることはなかったからそうなった

日本人はこうしてもともと国自体が島国であり300年も外国人と交わらない世界で唯一鎖国した国である、その歴史は日本人の血ともなっている
戦前だって地方の田舎では外国人と直接接することはまれだった、今のように外国人が田舎でもどこでも普通にいる時代ではなかった
外国人と田舎でも普通の人でも接するようになったのは高度成長時代が終わりグロ−バル化した時代だからその歴史が浅いのである

今だって外国人と付き合うことは抵抗がありなかなかできないのが日本人である
ただ一部の者は外国人と接することが抵抗がなくなったのである
学生だったら外国人の学生はどこにでもいる、でも私の大学時代でも外国人に逢うということはまれだったのである
それで日本人は英語を習ってもほとんどしゃべることでは活用できなかったのである
私は50過ぎて外国旅行してはじめて英語を使ったともなる、英語を実際に使う機会がないのが日本人だったのである

日本人はそもそも村人間であり外部の者には冷たい社会だったのである
例えば遊牧民だと客人を大切にする、そうしたのは情報を得るためである、通信技術がない時代は人が情報を伝える担い手だからそうなっていた
ただ親切にするのではない、情報を知るために不可欠でありそれで親切にしたのである
人自体が情報伝達者になっていたからである
農民だと定着しているから近間のことを知っていることだけで足りることがある
でも遊牧民になると定着しないんで移動するからそのために情報が必ず必要である
それを知らないと生命の危険にもなる

●定着する農民と移動する遊牧民の相違

定着する農民だったら近間のことを知れば足りるのである
だから外部から来る人間は受け入れないのが基本になる、怪しいとなり警戒するのが普通である、つまり定着する農民社会ではそうなりやすいのである
ただ中国とかは巨大だから遊牧している人もいるし定着した農民もいるし入り交ざっているのである、そして中国人が商売上手だというとき遊牧民は移動する商人でもあるから
そういう人達が入り交ざっているから文化も遊牧民的なものがある
そこが日本とは相当に違っているのである、あれだけ広ければ人種が混交するし文化でも混交する、大陸的文化と島国の村社会の日本とはそこが根本的に違っている

日本人が財布を落としたら帰ってくるとか親切だとか言うが日本人はもともと狭い村社会で生きてきたから村内だと何か子細なことでもわかってしまう、村内で竈の中までわかるとかなり村内では悪いことができないことが犯罪の歯止になっていたのである
今でも田舎では周りから監視されているのである、外部の人ならさらにその監視が厳しくなる、それが犯罪の防止ともなる、江戸時代の村だったら余計にそうなる
よそ者だとはっきりわかるからだ、それも歩いていると余計にわかる
今たと車で通るから誰が通るかもわからないということで犯罪が増える
村内に入ってもそこから車で出て行けば遠くに行ってしまうからわからないとなる
江戸時代は歩いているのだから逃げるにも時間がかかる、だから犯罪になりにくいのである、また関所もありそこで調べられるから犯罪することは簡単にできないのである

日本人がそもそも他者に親切でなかったのである、犯罪が少なく安全だというのはそういう村社会内でそうだったのである、日本ではそうした犯罪者は目立つし村内で犯罪者になると何代もそのことが言われつづけるのである
この辺で起きた500年前の主君殺しの家臣の子孫はまだ生きているのである
だからその主君殺し、幼児まで殺したことの残虐さは語られれば嫌だとなるのである
500年前の話でもまたそれは生々しいものにもなっているのである
だから日本では犯罪を犯しにくいのである

大陸的文化と日本的島国文化との相違は大きい、大勢は大陸文化である、中央アジアの砂漠地帯から世界史が始まっているからである、誤解しているのはイスラエルは半分は砂漠の国なのである、だから今でもエジプトまで広がる広大な地域が砂漠でありそこは一神教の世界になっている、そこで形成された遊牧民の文化が世界の常識でありスタンダードだともなる
でも日本の島国的閉鎖村社会文化は異質だったのである
日本人には見知らぬ他人に親切にする文化がそもそもなかったのである
だから他者には冷たいとなる、でも内輪のものでは助け合うとなる
またそうした狭い村が世界になると陰湿になり村八分とかなる
日本人が村八分の制裁が生まれたのは村から出れないからである
村から出ることは死ぬことにもなったからである、だから陰湿ないじめとかになる
大陸だと遊牧民だと定着しないから別な場所に移ればいいとなるからである

そういう歴史的文化的背景はともかく日本人は親切ではないし冷たいというのは本当である、それはどうしてそうなったのか?
こういう歴史的文化的背景もあるが人間はまず余裕がないと親切にできない、人を助けることができないのである
また忙しくてもできない、東京のような人が混雑している所ではいちいち人がどうなっているか見ていられないからである

●マスコミ通信の発達で事件は隣村で起きた感じる

今の時代はそのちょっとした親切も危険になる、何か子供に近づいたりすると性犯罪者とかにも見られるからだ
そしてすぐに警察に連絡されるからだ、そういうことを駅のボランティアで自分も経験した、外部から来た人に道案内しているだけで怪しいとして誰かが警察に通報してみんなの前で職務質問されたからである
こういうことがあるからはここで議論されているようにみんなもそうだったのかと今の社会を理解するようになる、それでネットは役ににたつ、自分だけのことではないとなるからだ

それからテレビとかのマスコミの影響も大きい、毎日事件のことが放送される
するとその事件が必ず隣の村で起きたように感じるのである
地球の裏側で起きたことすら隣の村で起きたように感じる
それをマクルハーンが指摘していたのである、すると何か犯罪があるとすぐ身近に起きると感じる、それが人間の心理だとなる
それによってもうこの世は犯罪者だらけだと感じる、現実に確かに犯罪は日常的に起きている、でも遠い所のことは今までわからなかった、それが外国まで事件が毎日のように放送されるとみんな危険人物に見られてしまうのである

つまり通信の発達が外国でも隣村で起きたように感じるのである
通信の発達も大きな影響をもたらしたのである
日本の戦争も朝日新聞があおったためだとかナチスはラジオから生まれたとか通信の発達が社会を変えたのであく
もし遠くの犯罪でも報道されなければ感じないからだ、情報の過剰はかえって人間を不安にする、余計な心配が増えるだけだともなる、それも問題にしても情報過剰により人間同士が身近でも信じられなくなるののは問題なのである

こうして日本人が親切ではないというときその背景がある、日本人はもともと外部の者には親切でとなかった、そういう国柄である、大陸文化と島国村社会文化は根本的に違っているからである、同調圧力が強いとういのも村社会がアイディンティティだからそうなった、何か独創的発明が出ないのも同調圧力が強くみんな同じでないと許せないという村社会が基本になっているからだともなる
新しいものを受け入れにくいということがある
一方で日本人は新しいものを受け入れることに機敏だったということもある
だから明治維新でもありえた、江戸時代からの明治の変化は驚くべきものだったからである、だから日本人は新しいものを外部のものを受け入れないということはない
ただ基本的には島国の閉鎖的な村社会の歴史と文化が日本人のエートス(雰囲気)を作って来たとなる

●戦後アメリカをまねて金第一になった(日本のモラル消失した―銃社会のアメリカになる)

明治に来た外国人がいい顔していたとか日本人をほめているがそれもそうした社会背景がありそうなった、だから社会が変われば時代が変われば人間も変わる
広域化グロ−バル化社会も日本人を相当に変えてしまったし戦後のアメリカ化とか過度な資本主主義社会や情報化社会もそうである
その変化は余りにも大きかったからである、日本がアメリカ化することはアメリカと似た国になることである、日本の文化とか日本人的な良さも失われたということである
内村鑑三はアメリカに留学してアメリカはすべて金の国である、金なしでは何もありえない国だと言っていた、でも日本は違っていたという時まだ日本人的なものが残されていたからそうなったのである

現代ではそういう日本人的良さというものはなくなってきた
戦後はただ物質的繁栄のみを望んで高度成長時代があったからである
そこで日本の文化としてあった精神的なものは失われたとなる
日本の太平洋戦争が悪いものとばかりみているがその時挙国一致であり日本人は協力して戦ったともなる、その時は日本人同士では助け合うということがあった
これも問題があるにしろそういう時代に生きていたということで評価しいる人もいたからである、ただ人間は過去の時代を生きることは経験できないから誤解するようになる

日本が不親切な国民だというのは本当だと思う、これだけ自分だけではない、みんなが感じいたことなのである
それはやはり社会全体であり戦後からアメリかを習った結果だともなる
アメリカに負けてからアメリカがすべていいものとして受け入れた結果だからとなる
日本の良い面が結果的に失われたためだとなる、すべて金で計られるのもそうである
何か親切にすることはかえって怪しいとされ犯罪者とも見られる
それはもう互いに信じられない疑心暗鬼の世界になったのは通信の発達でマスコミの影響もあった
それから日本が貧困化して自分のことで精一杯であり他者のことなどかまっていられないというのもある、余裕がない人達が増えたのである
でも別に日本はそもそも貧しい国だったから貧しくても親切な人はいる
インドで乞食とかに与えるのは貧乏な人だというとき貧乏を経験している人はかえって同情心があるからいくばくの金でも与えるとなる

貧困な人は余裕が無いから人に頼まれても助けることができない、自分自身のことで精一杯だからである、金銭的にもそうなのである、金銭的に余裕がない人は人を助けることはできない、それで自分自身が両親の介護になったとき来たのは事業に失敗して借金している人とがぎりぎりの生活をしているとか何か問題をかかえていたからもともと助けることなどできない、相手が弱っていたからチャンスとなり金を得ようと盗んだり金を得ようとするだけだったのである
何でも余裕のない人は助けることがてきない、自分自身のことで精一杯だからである
もし人を助けようとすると負担がかかる場合がある、それも避けようとする
ただちょっとした親切ならいいのである

親切というときそれは軽い親切であり負担が大きくなれば簡単にはできない
ただ問題は軽い親切でもこうしたもろもろの事情でできなくなったことである
それは駅の道案内とかのボランティアで感じたのである
人は人を信じられなくなった、そういうことがこれまでもあったがその度合い強くなったそれで日本人が世界で他者に親切でない国として統計でわかったとなる
日本人のモラルは戦前よりも相当に低下していることは確かである
戦前まではまだ日本人のモラルがあり義理人情とかもあった
でも今はそれすらない、モラルがない、ただ金だけがすべてであり物質的な繁栄のみがすべてとなったからである

それはカルト教団とか宗教でもすべて御利益しかないから同じだった
日本人の宗教はみんな御利益宗教であり本来の宗教はない、つまり日本人はモラルなき民族になったのである、ただ金をすべてでありモラルはなくなったのである
資本主義も強欲資本主義でありモラルは喪失した
もはや日本であれモラルなき道徳無き経済であり獣化したのが今の世界であり日本だけのことではないだろう、特に日本がそうだというき日本にはもともとキリスト教とか根付かなかったし宗教でも仏教でも御利益宗教だからそうなったともなる
弱肉強食のモラルなき道徳なき社会経済というのは人間が食うか食われるのか社会にしているともなる、他人に親切にするとかどころではない、相手を食わなければ生きていけない社会だともなる、それはまさに地獄だとなる
ただ地獄というとき常にこの世は江戸時代でも地獄だった、だから「世の中は地獄の上の花見かなー一茶」になっていたし地獄が一定の住処(すみか)なりという親鸞の言葉が今でも生きているのである、地獄の無い時代はなかったのである
むしろ戦後は戦争が無かったのだからましだともなる、戦争は殺し合うのだから最悪の地獄だったからである
日本にはかつての安心はなくアメリカのように銃をいつももっていて殺すか殺される中で生きるようになるかもしれない、
他者は信じられくなっているからである


2021年10月19日

習近平がなぜトップになれたのか?天皇と同じだったー天皇の是非 (優秀でもない、権力基盤もないのにトップになった)


習近平がなぜトップになれたのか?天皇と同じだったー天皇の是非

(優秀でもない、権力基盤もないのにトップになった)

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妙佛 DEEP MAX
https://www.youtube.com/watch?v=_SMauomrHZY


この意見は面白い、実は共産党内部で有力な首相候補がいたが排斥された
その人は優秀なのでまた実力者なのでその人になれると他の人が這いあがれない、上に上がれないとみたから押されなかった
習近平の評判はそういう人ではなかった、何か平凡な人でありそんな人がトップになると思えなかったとも言う
また権力基盤がないのに首相になった

それはなぜなのか?

人間は出世争いでも有力な人がいればその人が上に立ち他の人は上に上がれない
出世できなくなる、でも平凡な人がなればいづれその人を倒して上に上がれるとみる
また実力者だと権力基盤をもっているとそういう人もトップになったらもう対抗できないともみる、そのトップを倒すには実力行使となり暴力にもなる
これも何か人間の心理である
あまりに有能な人間はどうしても回りの平凡な人達にとっては危険人物になる
そういう強力な人がいたらとても平凡な人たちは上に上がれないからである

何かこれは日本の天皇とも似ている
日本の天皇はなぜ国家のトップで常にありえたのか?

それは別に何か特別な能力があったとか権力があったとかではない
むしろ権力もないし軍隊を持っているわけでもない、なんでトップにいるのかわからないのである
つまりそうして権力ももたない、派閥にも属していないからトップになっているのであるもし特定の派閥とか権力集団に属していたらやはりトップにいることはむずかしくなる
公平でありえなくなるからだ

それで天皇には姓がないのである、姓があれば・・・一族となるからである
藤原であれ源氏であれ平家であれその一族に属するとなる
姓がなければどこの一族にも属さないとなり公平だとなる
どこかの一族に支配されることもないのである

天皇は何の権力ももっていない、だから継続できた

こうなるのである、権力ももっていない、ただ何の能力もないとしてもその地位を継続できた、もし強力な権力を持っていたら別な権力集団にとってかわられて天皇というのはこの世から消えていたとなるからだ

天皇は何ももっていなくても一つの神輿だった、明治維新だった薩長軍がかつぎあげた神輿であり敵対する者は賊軍にされたのである
そして靖国神社には西南戦争で賊軍になった西郷隆盛すら依然として賊軍であり祀られていない、官軍のみが祭られている墓地がある
これも今になると不公平に感じるのである
天皇といってもそうして権力争いにかかわるから汚れたものになる

ただ自らは権力を行使しないできない、だからこそその地位を維持できたとなっているのだ、それはあくまで神輿であり実際に権力をもち権力を行使できるのは天皇を持ち上げた権力集団なのである、だから権力集団は錦の御旗を得るために天皇をとりこもうとするのである
天皇とは権力ではない、権力をもった王様ではない、神輿なのである
でも日本の歴史では天皇が二人いて古代でも壬申の乱とか南北戦争でも熾烈な争いがあった、南北朝の争いは本当に全国隅々まで争いが拡大して国家を二分して争いがつづいたのである、その影響は明治になってもつづいた、今の天皇は南朝系譜であるということでもそうである、明治になっても南北朝の争いが継続していたのである
天皇の役割はこうして日本国内で争いがあるときそれを治める役割があった
だから天皇が二人になったとき熾烈な争いとなったのである

天皇はもういらないということや天皇は何であるのかとかになって真子様の結婚問題で騒動になる、なんで税金で維持しなければならないのかとなる
また昭和天皇は戦争犯罪人だったとかもなる、天皇の権威は戦争に負けて失墜して現人神の権威も失ったとなったとなるからだ
日本が世界史の仲間入りしたとき世界の中で天皇が問われるようになったのである
これまでは国内問題であり世界の問題にはならなかったからである

習近平が平凡な人だったなのになぜ首相までのぼりつめたのか?

このことは天皇と通じたものがある、天皇には何か特別なの能力があるのか実際はなかったともみる、ただ何も力をもたない故にかえって担ぎ上げられるものとなった
もし権力をもっていたらまたある一族に属していたら天皇も戦争になれば殺されともなるからだ、天皇は殺されることはなかった
ただ日本が太平洋戦争になる国内だけのことではないからアメリカによって戦犯とされ処刑されることがあったのだ、それをアメリカでは日本の統治のためにしなかったのである日本を統治するためには天皇は必要だと判断したからである

奇妙なのは天皇とは何の能力もない権力も力もないからこそ継続されたともなる
ただ古代だと何か神の様な能力が奇跡でも行うようなものにも見られていた
でもその後はただの神輿になっていたのである

人間社会はどうして治めることができるのか?

これは必ずしも強力な権力をもっているものが治めることともならない
ただ力をで治めようとすれば必ず反発があり権力争いになり熾烈な戦争になり殺し合いになるからだ、そこでなんらか仲裁機能となるものが必要なのである
それが日本では天皇だったともみる

わたしはわらべを立てて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる イザヤ

なぜこんなことが聖書に記されているのか、これも不思議だとなる
みどりごとは赤子なのである、赤子は何んの力もないものである
だからこそ治められるという逆説である
そしてなぜそうなるかのというと肝心なのはみとりごは赤子は何の欲もないことである
そのために治められるとなるのである、自ら欲をもったら治められない
中国皇帝のように強欲であり人民を奴隷にして酒池肉林とか贅沢の限りを尽くす
そんな人はまた必ず反発が大きくなるから必ず王朝は倒される、治められないのである
そういうことで常に王朝は変わってゆく、長くは維持できないのである
でも天皇はそういう権力をもたないからこれまで維持できてきたのである
つまりトップに立つ人は権力を行使したりする人ではなく欲のないみどりこでも赤子でもいいとなる、その方が治められるとなる
そうでないと外国のように常に王が権力をもっているから対抗する集団がでてきて王朝は絶えず交代することになるからだ

これも政治的知恵であり日本がそれで熾烈な内戦が生じなかった理由だったとなる
また島国だから外国勢力が攻めてこないから天皇制も維持できたのである
大陸だったら異民族が絶えず侵攻してくるから天皇だって維持できなくなる
天皇だって殺されるということである
ただ今天皇はいらないとかなるのも世界の中で日本でも対処するようになるからそうなるでも今度は大統領制になったらこれも日本にとっていいのかどうかわからない
韓国のように他の国のように熾烈な内戦にもなる

つまり韓国のように露骨に権力争いになり前の大統領は逮捕されたりする
権力と権力が歯止めなく露骨にぶつかりあうらそうなる
天皇はそういう権力争いを和らげる仲裁する働きがあったことは確かである
それは一つの国を統治する知恵だったことは確かなのである
それでも世界の中でどうなのかとなるとまた天皇の維持はむずかしくなっている
第一遺伝子がどうのこうのとかが大事なのかというのも疑問になる
なぜなら明治天皇は血のつながりもないどこからかわからないが作られた天皇だとされているからである、そういう血のつながりより天皇というのは統治の機能として必要としていたともみる

松田源治文部大臣は、天皇は国家の主体なのか、天皇は国家の機関なのかという論議は、学者の議論にまかせておくことが相当(妥当)ではないか、と答弁していた。岡田啓介首相も文相と同様に、学説の問題は学者に委ねるべきだと答弁した。菊池議員はこの前年にも足利尊氏を評価する記事を10年以上前の同人誌に書いた中島久万吉商工大臣を「日本の国体を弁えない」と非難して辞任に追い込んでいる。

菊池議員はそもそも、南北朝時代に南朝方に従った菊池氏の末裔だとして貴族になった身で、天皇を神聖視する陸軍の幹部でもあり、また、右翼団体の国本社とも関係があった。
単なる機関なのかということで問題になった、

天皇機関説では、「天皇」は国家に属する一機関と考えるわけです。
一機関というのは、例えば、警察が国民の安全を守る一国家機関である、というように、何かの役割を持った組織といったような捉え方です。

昭和天皇は天皇機関説を支持した、なぜなら一機関組織として天皇があり天皇が全責任をとすることはない、天皇は全権をもち命令することはないとしている
でも統帥権があり全権が明治にはあった、でもそうなれば戦争責任は全部天皇が負うことなるのである、天皇が神であり戦争に負けたからアメリカによって死刑にもされことになった、だからこそ天皇機関説を支持したのである

菊池議員はそもそも、南北朝時代に南朝方に従った菊池氏の末裔だとして貴族になった身で、
天皇を神聖視する陸軍の幹部でもあり

これも不思議なのは野馬追いに自分の町から野馬追いに出る武者がいる
それが菊地氏なのである、その旗印は菊の紋なのである天皇の紋であり南朝なのである
南朝は霊山城で滅びてここに逃れてきたのである、その末裔が野馬追行列に出ているのである、そもそも南蘇馬氏とか相馬氏に南朝の落ち延びた人達がいた
鹿島区となるとその南朝の落武者の末裔が多いのである

すり替え後の明治天皇は大室寅之祐(おおむろとらのすけ)という人物である」
と、言っています。
この大村寅之祐という人は南朝の
血筋だそうです

遺伝子にやけにこだわるけどこういうこともありうる、ただこのすり替え天皇は運動にもたけていて優秀だった
短歌もうまかったのである

正直もう天皇というのが維持できるのかという瀬戸際にきているのかもしれない
それが真子様の結婚騒動に現れたのである、天皇機関説をとれば?遺伝子とかは問題ではない、誰でも天皇になれるともなる、有能でなくてもなれる
だからこそみどりごに赤子に治めさせよとなったのである
それが統治する知恵となったのである、ただそれに反発したのが右翼だとなる
ただこの右翼にしても都築詠一氏は死んだけど昭和天皇を戦争のことで何度も批判してきたのである、戦争責任をとらなかったからである、だから右翼でもいろいろあって複雑なのである


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明治維新で北朝ではなく南朝を継続した (野馬追いに出ている南朝の旗)
http://musubu.sblo.jp/article/187080077.html
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2021年10月20日

IT化が進まない理由 ( 日本文化がITとコンピュターと相性が悪い‐メデアの変化)


IT化が進まない理由

( 日本文化がITとコンピュターと相性が悪い‐メデアの変化)

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●メデアの相違で感じ方が違ってくる

ただこのコンピュターになると頭脳と深く関係している
第二の頭脳のようになっている、AIとかもそうである、それで翻訳ではAIの方が優れていると感心した、学校の英語の先生より優れている、となると英語の先生も失業するともなる、AIは頭脳と深く関係しているからかえって事務とかはコンピュターに変わられて人間はいらないとなる

そしてメデアというとき仲介するもののことであり仲介するものによって表現するものが大きく変わる、今の時代の大きな変化はITとかAIによるメデアの変化に直面しているのである
これまでもいろいろな変化があり技術の進歩があった、現代を最も象徴する変化は通信の変化なのである、それにともなってメデアが変化したことの影響が大きいのである
メデアというとき仲介するものである、例えば乗り物も仲介するものでありそれによって感じるものが違ってくる
なぜなら人間が移動するときは歩くことしかなかったからである
馬とか馬車とか船でもあったにしろ基本的に移動するのは歩くことしかなかった
江戸時代の旅は歩くことでしか移動できないのである
すると歩く感覚から外界を自然でも何でも感じていたのである

菜の花や普通列車になまりかな

タンポポや一挙に着くや新幹線

電車でも急行があり普通列車がある、この普通列車は地元に根ざしているのが多い
通学とかに使うからである、そこで外を見ると菜の花が一面に見えた
高校生がその土地の訛り(なまり)で話していた、それが普通列車にふさわしいものだった、急行だというそれが感じないのである
さらに新幹線だともうその土地とは関係なくなる、一挙に遠くへと一瞬で行く感じにもなる、そしてタンポポが咲いていたのである、ただ途中は飛ばされて視界に入らないとまでなっている

また車だと自然を感じない、鋼鉄で覆われているから風を感じないし雨も感じない
時雨が降っていてもわからない、でも自転車だと必ず風を感じる、東風でも北風でも感じる、今年は早く北風が吹いて早く冬が来るのかと感じた
車だと風を感じないから風流がないとなる、それで私は自転車が好きなのである
それは自然を感じるからである、自然を感じなかったら俳句も短歌もありえないからである

●マスコミ支配の終わり

ともかくメデアの変化は大きい、通信の発達は現代を象徴するものである
通信でもメデアでも新聞がありテレビがありこの時代は長い、新聞だともう百年以上でありテレビでも50年もつづいている、テレビの影響は大きかった、テレビに映るだけでみんなテレビに食い入るようにしして見ていたのである、中味がなくてもテレビに映ることで見ていたのである、それが茶の間の主役となったのである
つまり茶の間に中心にあるということはいかに影響が大きいものだった
それにともないテレビを通じて番組を作るマスコミの影響がどれだけ大きいものだったかをふりかえる、テレビの時代はマスコミが教育者となり扇動者となり裁判官にもなり大衆を導くものとなっていたのである
だから第三の権力をもつようになりあらゆることで支配的役割を担ったのである
そこで相当に歪めれたものがあったがそれは見逃されたのである

メデアを持つということがどれだけ大きなことかインタ−ネットが生まれてホームページでも次にプログでもそれからyoutubeとかにもなりそこで個人発言でき表現できる時代になったとき発信者になったときみんな感じたのである
自分自身でも今はプログで発信しているけどこれは写真も絵でも載せられる、視覚的にも表現できるから表現力がある、それも簡単にできるということでこのことは大きいメデアの変化だったと感じた、何か表現するには必ず仲介がメデアが必要だったがそれは新聞であれ雑誌であれ本であれ簡単にはできない、そして不思議なのは必ずそうしたメデアは大きな権力をもっていて取捨選択するのはメデア側にあり発言する方にはなかったのであるでも直接発言することがてきるということが不思議なものになっていたのだ
そこに検閲もないのである、だから問題も起きたのである

ともかく個人の自由な発言とか表現は許されていなかった
本だったら出版社を通してしかできないし普通の人はできない、他でも同じである
それらはまた権力がないとできない、なぜなら出版するには金がかかるからである
また売れないと出版社では経営が成り立たないから売れるものを出したいからである
そこで出版する時は背後に大きな組織がないとできない
創価とか他の幸福の科学とか天理教とかなんかいろいろな宗教団体がありその団体の会員が買ってくれるとなるとある
インタ−ネットだとそういう団体に所属していなくても応援がなくても一応発言できる
ただそれに目をとめる人は極めて少ないというだけである
マスコミで顔を出すだけで百万人以上の人が見るということがありそこで顔が売れる
すると中味が何もないのに国会議員とか東京都知事になったりした芸能人がいたのである全国区になると顔を知られることが第一になるからである、中味より大勢に知られることが第一になるからそうなったのである

インタ−ネット時代は何なのか?それは個々の表現の時代になったのである
だからしきりにyoutubeでも表現力がないものはこれから役にたたないとか金にならないとかまで言う、今まではそうした表現力はマスコミが担っていた
そしてゲストとして呼ばれるコメンテーターも飾りのようなもので主体はマスコミにあった、それで武田邦彦氏とかがアナウンサーに怒っている
つまりマスコミのテレビの主役はあくまでアナウンサーだったのである
いつも真ん中にいてアナウンサーが全面に映る主役だったのである
そして呼ばれたコメンテーターの自由な発言を許されなかった

マスコミの言う通りに発言させられるだけなのである、だからこそ自分の言いたいことを言えないで怒ったともなる、マスコミとは単に仲介する機械のメデアではない
意志をもったメデアなのである、だからマスコミの主張を通すために番組を構成するのである、中立ではないのである、それでNHKでもそうだった
上の人達が番組の方針を決める、だから下の人は何も言えない、従うだけだと言っていたからだ、ただ一見中立のように装うのでわかりにくいのである
特にNHKはそれが中立のように見えるように構成するから簡単にわからないことがある
でもNHKの意志があってその意志を主張を通すために番組作りしているのである

●個々の多様な表現の時代へ

ともかくインタ−ネットでもこのITとかAIでも何か人間の頭脳と深く関係している
だから現代とはインタ−ネット時代とは個々の表現の時代だともなる
表現力を磨くことが要求されている、youtubeだと話しがうまい人が人気になる
その話し方もいろいろであり何か話し方がわかりにくいと見る方もいやになる
明確に言葉で話せないとまずいとなる、ただ人の話し方もいろいろあるからその話し方で見る人と見ない人もでてくると見た
これが文章ならそういうことはないのである、もちろん文体とかあるにしても話すのとは違ったいるからである

それでyoutubeを見ていてただ話すだけでは理解しにくいものがあると思った
人が話す時、youtubeだとテレビのように必ず顔を見るのである、すると顔の印象から話すことを聴くのである、ともかく話し方がみんな違っているのである
ただyoutubeが伝えるものとして万能かとなると違っていた
youtubeだと過去のものが記録したログがもう一度見る聴くということがあまりないのである、文章に記録されていればそれを読むとこういうことを言っていたのだとか再確認できる、また文章だとキーワードでその内容も検索できる
それがyoutubeではしにくい、不思議なのは自分は膨大なものを文章で書いている
プログで書いている、それを読み直すとこんなことが書いていたのかと自分で感心している、これも本当に不思議になる、自分の書いたものが自分が書いたと思えないことがあるからだ、いいこと書いていたな自分自身が書いたものに感心しているのである
それだけ人間は常に忘れやすいからそうなる
だから文章で残すということは大事になる、話すだけでは記憶に残らないとういことがあるからだ、それで文章の力は大きいと再認識したのである
自分の場合はそもそも話すのが下手だから余計に文章重視になる

いづれにしろ人間の感じ方はいろいろあるということである
だから歩いて感じることと自転車に乗って感じることと電車に乗って感じることは違ってくる,それはメデアが違っているからである、だから人間の感じ方はいろいろでありメデアによっても多様になる
インタ−ネットだと必ず編集して読むべきだとなるとき多様なものを結びつけることでそうなる、あることで様々な見方がある、一つの見方はないからである
それを一つにしたのがマスコミだったのである、だからそれは偏った見方であり多様な見方を許されなかったのである
第一人間は住んでいる場所がみんな違う、そこからして見方が違ってくる、感じ方も違ってくるからである、この辺では原発事故になってそのことから取り離してみることはできなくなったからである

このITとかコンピュターのインタ−ネット時代は世界中でも多様な見方がありそれに触れるという時代になる、日本国内でも多様な見方がある、マスコミのように一つの見方になることはなくなった
もう新聞は過去の物でありテレビのマスコミ支配も終わりつつある
多様な見方からそれぞれ感じたことで判断する、ただそうなるといくら個々人の発言が表現が自由になっても数が多いとどうしても見るのは限られてくるのである
見られない人は全く見られないとなる、それも問題になる
ただ自分にとっては自由に表現できることが魅力であり発信しつづけることになる
それができるのは金がかからないことである、ただ手間はかかる
またプログだけでは表現しきれない、でもワードフプレスになるとめんどうだとか前のホームページもそのままてあり放置してある、何かめんどうだからそうなっている
ホームページでは分類するのが向いている、それも手間でできていないのである
簡単にアップできればいいのだがそれがめんどうなのでできない
無料でも手間だけがかかるのが問題なのである

●日本文化がIT化を受け入れのを拒んだ

技術と文化は関係している、技術をとれいれるとき、その国の文化があり歴史があり
便利だからと無条件に取り入れることができない
文明でもそうである、西欧文明がキリスト教文明でありキリスト教を取り入れなければ
西欧文明を取り入れることができないと内村鑑三が指摘した
でも日本ではヨ−ロッパに行ってみてきたのは宗教ではない、様々な技術だったのである蒸気機関車であれ建築であれ医術であれ様々な科学技術に驚いた
それでその技術を取り入れることが文明を取り入れることだと見たのである
技術だけに注目したのである、この傾向は今でもつづいている

「テレワークの方がオフィス勤務より仕事がはかどる」と答えた人は、グローバルで平均69.1%だったのに対して、日本は42.8%と、調査対象国の中で突出して低く、7カ国中唯一、「テレワークだとはかどらない」人が多数派だった

一方、日本型企業が得意とする人的ネットワークによるインフォーマルなコミュニケーションは、過度に依存すると、簡単なやりとりで済むはずの日常実務においてすら、濃密な人間関係や地理的近接性、時間的同期性が要求されやすい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/71fe114c7cbf59d1fcfa208135f733695c09322b?page=2

日本でITが進まないのは話せばわかるとか腹でわかるかとか狭い村がアイディンティティとなっていてそれが文化となった、属人的的であり直接人と合わないと信じられないとかなっていた、だから法律でも苦手である、理屈だからである
でも大陸文化は異民族と絶えず交わるから人種とは関係ない公平さとかを追求する
それを数式のように決めて判断して判決するともなる
そこに文化の相違がありそれが壁となってIT化がすすまないとなる
自分自身でもパソコン通信で文章で見知らぬ人が語りあうことがなじめなかった
そういうことを今まで経験していないからである
でも事務的なことなど別に直接合わなくても処理できるのである
ただ面と向かって合わないとできないこともある

そもそもITというとき英語になる、すると英語圏の人は有利なのである、プログラムでも英語だからである、そして英語は横書きであり日本語は漢字交じりで縦書きである
縦書き文化は漢字圏であるが他ではないのである
でも中国はいち早くIT化したから言葉の相違でIT化できなかったことでもない
中国には日本の様な村がないというときもそうである
そこからして中国大陸の文化と日本は同じようで相当に違っているからだ
ただ文化の相違がありそれは障壁となって日本ではITになじめず遅れることになった
技術と文化も一体だから取り入れることができなかったともみる
文明とはcivilzationでありそのcivilとは市民のことである、でも日本には市民というのはいないから理解できなかった
西欧文明を取り入れてもそもそもそうして理解できないものがありそれがIT化に遅れた原因にもなる、文化には根強く変わらないものがある変えられないものがある
便利な道具を取り入れても国々の文化が違っていてそれで受け入れられないということがある、文化には様々な要素があり風土なども関係している
そのために原発は地震とか津浪とかあり日本の風土に向かいないものだったのである
風土と文化も一体になっているからである

2021年10月21日

abstract mountain and vally


abstract mountain and vally


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写真の合成も創作である、アレンジしたものでも創作になる
これも湖はそのままだが背景の山は創作だからである
全くオリジナルとは別なものだからである

Compositing a photo is also a creation, and even an arrangement is a creation.
This is because the lake is still there, but the mountain in the background is a creation.
This is because it is completely different from the original.

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人生を後悔しないために (道徳無き経済の異常性ー人格を歪める資本主義文明社会)


人生を後悔しないために

(道徳無き経済の異常性ー人格を歪める資本主義文明社会)



人生を後悔しないために

高い地位、儀礼、富、学識など、そういうものに到達した人々について
わたしが思うには、彼らの到達したものは彼らの体と魂に結果を残すものではない限り
すべて彼らの身につかず、浪間に消える‐ホイットマン

身につくものが何だったのかになる、それが老年に現れる、身につくものを残らないとしたらそれを追及したことが無駄だともなる、その身についたものは金では計れないのである

あなたは神を知るべき時に知ることを逃した
それは盛りの若き時に求めるべきものだった
その貴重な機会を逃してしまった
その日は遠く帰ってこない

あなたは元気な若き時に冒険すべきだった
若きは短く青春はたちまち過ぎる
きついことは若き時にすべきだった
老いて体力もなく気力もなくなり
果敢にいどむことはできなくなった

あなたは学ぶべき時に学ばなかった
あなたはただ享楽に時を費やした
あなたは何かスキルを身につける時にしなかった
あなたはそこで鍛錬して身につけるべきだった

あなたは遊ぶべき時に遊ばなかった
遊びの時も必要でありそれも人生の内
あなたは広く見聞すべき時にしなかった
外国でも実地に知るべきだった

あなたは人を助けるべき時に助けなかった
あなたは苦しい人に無関心だった
またあなたは近くの危険なことにも無関心だった
そして大事故が起きて身に及んだ

あなたは節制すべきだった
あなたはただ放漫でありただ怠惰だった
外に現れずとも内なる心に実るものがある
享楽にまかせず節制していれば
内に心に実るものが外に現れる
それは隠せおうせず現れる

あなたは何か有益なことをせず
何か学ぶべき時に学ばなかった
学ぶことは限りなくあり
神の創りし世界は多様で広大
しかしあなたはそれを見逃した

あなたは成すべきことを成さなかった
学ぶべき時に学ばなかった
あなたの才能ではない
あなたはただそうした貴重な時間を活かせなかった
その時間をもう取り戻せなくなった

みんな老いれば残るのは後悔だけだ
特に貴重な何かをする学ぶ時間を失ったこと
その時間が取り戻せないことを痛切に悔いる
あなたが費やしたものが無益だったこと
それが最大の悔恨となる知れ

集団の馬鹿騒ぎに己を失い費やされる
あなたの貴重な時間は奪われていたのだ
奴隷ということは時間を奪われたことである
会社であり宗教団体であれそこで奴隷にされる
何かただ使役される、それが金のためだけでも

金を使うのではない、ただ金に使われている労働
そこに真の実りはなく何か実りとして残らない
人は金のために働くのではない
真の実りのために働く時、充実感がある

こうして時間を虚しく費やされると悔いる
例え有り余る金を得ても虚しいとなる
老いて病気になりその金すら使えない
また時間もなくなり使えなくなる

あなたの日はもう終わった
あなたの与えられた時間はもうない
あなたはあとは死ぬだけである
人生の経験で成したことを天にもってゆく

それは財産でも金でもない
この世で経験して学んだことを天にもってゆく
老いて真の実りは現れる
何に時間を使ったかその成果が確実に現れる

それ故に時間を有益に使わなかったものは
老年はみじめであり過去の過ちも闇黒となる
それは罰せられなくても心に現れる
それを偽ることができない

金があっても心が歪んだもの
人格が歪み心も曲がったものが多い
何かそこに異様な奇形な姿を見る
その人は金があっても人格形成に失敗した
もはやその人格は矯正できない

その姿をもって地獄に行くともなる
集団は関係なく個々がそうして問われる
人生はもう結果として現れた
もうそれを是正することはできない!

あなたがあなたの人生を培い作った
あなたにはあなたの時間が与えられていた
時間はみんな平等に与えられていた
ただ時間を活かせなかった!
そしてみんな人生を悔いている

時間はもとにもどらない
そこに人生の厳粛さがあった
人生は一度きりであり
チャンスも一度きり
そのチャンスも逃した

最後にあなたの経験と学びの実りが現れる
個々に違った実りが現れる
それを収穫するのが老年である
そういう実り豊かな老年のために
あなたは時間を無駄にしてはならない
それは人生を無駄にすることだったから

●それぞれの経験と学びが老年に現れ結実する

どんな人でも優秀な人でも人生は後悔に終わる、結局人間の学ぶことでも経験することでもわずかしかないからである
すると何か足りないものとして終わる、自分だと経験したものは旅だった
だからその旅のことをふりかえり俳句とか短歌にしてふりかえる
それは無駄なことではなかった、でも人生はいろいろ多様であり学ぶことも経験することも多様である、普通だと結婚して子供もちとか経験する、もしそういうことでも経験しないと何か欠けたものになる、自分の場合まともな社会生活していないから欠けたものになる、社会性が欠如した人間になっていた

でも普通に結婚して子供を育てた人でも何か必ず欠けている、どう見てもその人はそうして普通の結婚して子供を育てても奇形化した人間になっていた
まとも人格ではない、もう信じられない薄情なものともなりこれが人間なのかとも疑ったただ本人はそんなことを気付いていないのである
その人の人格も長い間の結婚生活とかでも作られて来たのである
ただ付き合いがなかったからわからなかっただけである

ただ確実なのは最後に老年になってその結果が自ずと現れる!

何か学んだものでも経験したものでも確実に老年に現れる、そして最後に偽ることができない、もうそうしてできあがったものを直すことができない
人格でもそうだしその人なりの個性でもそうである
個性とか才能でもその人なり資質があっても天才でない限り人生の時間の中で作ってゆくものだからである
だから老年にはそれぞれの経験したこと学んだことが否応なく現れる
それがむずかしいものではなくても雑学のようなものでも役に立つものとして現れる
また老年になると理解が深まる、理解できないものが理解できるようになる

あのことはそうだったのかとかわかる、またこういう解釈があったのかと理解できる
だから老年は含蓄が深いものになる、それで老人は普通の人でも悟ったようにも見えるのである、賢者にも見えるのである
つまりこういうふうになるのは若い時はなりえないからだ、壮年でもなりえない
老年になると自ずと成るのである、何かが解読されてゆく、理解できなかったものが理解できてからまる人生の糸がほぐれるように理解できるようになる
別にそれは特別の人だけではない、普通の人も人生をふりかえりそうなるのである
あのことはこういうことだったのかと理解するようになる

どんな人生でもそれぞれ違っていて経験も違っていてそれが実りになる
まず何かを経験しない人はいないからである、だから誰しもその経験を老人は語る
遂に千回も認知症になっても語っていた
老人はこうして人生を語ることが仕事にもなる、そこに必ず人生の教訓がある
失敗したことでもこうして失敗したとかなりそれが後の教訓となるのである

●後悔しない人生はない

確かなことは後悔しない人生などないのである
それは人間一個の経験とか学ぶことが極限られたものだからである
例えば会社員の経験がないものはそもそも会社のことがわからないのである
では自分の様に自由に旅した経験は会社員として過ごした人には理解できないとなる
こうして経験するものが違うから理解できなくなる、理解することは自分が経験して学んだことだけだとなるからだ

今退職とかして学び直している人が増えているというときそのことが痛切にわかる
つまり学ぶことをしなかったことを悔いてそうなったのである
もっと学ぶべきことが山ほどあったができなかった、それで退職して時間ができてそうなったのである、でも実際は退職しても学べることは学べる
でも若い時に学ぶこととは違う、むしろ老人になると今まで自分が経験したことを学んだことを深化することであり知識を広げることでもないし新しいことをとりいれずらなくなる、だから老人の学びとは何でも広く浅くではなく狭く深くなるのである
それは自分の経験と学んだことからそうなる

ともかく本を山ほど買っても読んでもびっしりと印しをつけていても理解していなかったでも今になると深く理解できて自分の文脈の中で活かすことができる
そうなったとき実は本当に他者の知識でも思想でも経験ても理解したことになるのだ
老人になって本当の実りがある、ただ若い時はがむしゅらに経験することであり学ぶことである、それは後で雑学でも活きてくるのである
ただそのためには詩にしたように節制が必要であり享楽に費やしたりしていたらそうはならない、意外とこの節制ができない、性であれなんであれ時間は奪われ費やされるのである

●心でも体でも節制が必要

体も節制が必要なのである、何かしら放逸に体でも使っていると必ず老年になるとその積み重ねが体にでてくる、酒とか煙草でもしていると何らか体に影響してくる
また過重な肉体労働をつづけるとそれも老年になるとその積み重なったものが体に出てきて具合悪くなる、ただ必ず老人になると体の故障がどこかにでてくる
でもやはり体でも節制していなと老人になるとその積み重ねで異常がでてくる
スポーツマンでもプロの人も体に負担をかけすぎて早めに死んだり病気になる
それでも何か冒険もしないとか慎重に行き過ぎるのも問題なのである
身体が丈夫な人はやはり常人のできないことができる、それがその人の人生を作るともなるからだ、でも不摂生に酒でもなんでも無理なことを体に良くないことをしているとやはり必ず老年になると不具合がでてくるのである
そして十年くらい同じ年齢でも違ってくる、同じ年齢でも本当に70以上でもこの人は若いなと驚く人がいる、老けている人は本当に体も弱っているからだ

節制でも心の節制も意外と大事なのである
心の節制とは何かとなるがそれは口をつつしむとかである、何か人間はしゃべりすぎることは心を無駄に費やして汚すということもある
悪口を言ったり何かしゃべりすぎることは心をけがし消耗させることにもなる
自然ど合一するには山や樹や石のように深く沈黙することが必要になる
でもこれは社会生活では異常者になるからできないのである
引きこもりだったから自分にはできた、禅僧のように沈黙行をしていたとなる
ただそこで社会性がなくなり異常化していたのである
だから社会性も必要でありそれがないと何か異常化して社会のことすらわからずに苦労することになる、結局人間はなんらかで偏る、社会生活を正常にしていてもそれすら偏ったものとなる、会社員とか公務員でも何かそこでの人生も偏ったものになる
それは社会の一部であり全体ではないからである

心の節制が必要だという時心を汚す無益に消耗することにはあまり人間は気を使わないのである
まずカルト教団などは肝心のこうした心の修行のようなことは一切ない
社会活動であり集団活動であり御利益追求だから会社員とも同じであり世俗社会より世俗的な場所であり宗教的なことは一切ないのである、巨大な企業と会社と同じなのである
それでなぜ宗教の看板をかかげているのか全くわからないとなる
禅宗の沈黙行などはない、真宗とか日蓮宗などは一日題目あげているから世俗社会より騒々しいところでありまた団体化して集団示威行動する、そして社会を威圧する
それはナチスとたいして変わりないのである
そのために危険な団体でありそれが社会を席巻してナチスのようにもなる恐怖があるのだ
ともかく老年には人生の結果ができる、もう偽ることのできない結果がでる
それは恐ろしいことにもなる、青春の放逸なども後悔となり苦しむ

そのために推理ドラマでも必ず若い時の過ちが尾を引いた事件になり悔やむとなっている若い時は過ちを犯しやすいからである、節制でできないからそうなる
それも後悔となるしいろいろなことがただ後悔として苦しめるのである
だから実りある老年になるにはどうするのかを若い時知らねばならない
でも若い時みんな老人がそういうことを言ってもわからないのである
若い時老人の気持ちとかがわからない、理解できないのである
何か青春でも終わりないように見えるし人生でも終わりないように見えるのである
でも人生は終わってみればあっという間だったとなる
こんなに早く終わるのかと驚くばかりになる、それはみんな老人になるとそう思うのである、つまり老人になってみないとわからないことなのである
そこに人間の弱点が盲点があったとなるのである

●会社人間は資本主義社会の奴隷(社畜)ー人格は無視

会社員が資本主義社会で商品であるというときもそうである
つまり人格など関係ない、商品としてして見てないない、会社にとって有能な有益なの商品としてしか見ていない、人間としてどうのこうのは関係ない
そういうふうに人間を見ること自体すでに人間は奴隷であり社畜だとなる
ところが人生は人格を磨き形成して完成するものだと見れば会社員で働くことは人生としては全くそんなことで働いていたら最後に後悔しかないともなってしまうのである
そんな人格まで無視して働いていていいのかともなってしまうのである
でも今の社会は会社員であることなのである、それ以外の道は提供されていないともなるそれも異常だとなる

例えば江戸時代とか戦前までは職人は会社員ではない、会社員となったのは戦後のことなのである
職人は一人で物つくりしていて売っていたのである、会社などなかったのである
小規模のものがあっても会社はない、それでいいものを作るために職人気質とか生まれたそして武士道とか職人道とか商人道とかその道を究める者としてあった
そこに人格など歪めるものがなかったのである、だから本当に資本主義人間とかは何なのだろうとなる、そんな生き方していいのかと疑問になる
そして金がすべてとなり人間はすべて金で計られるようになったのである
そんな社会は人間の社会なのかともなる、そうなら資本主義などやめた方がいいなる
株式などはただ金を右から左に流して巨万の富を得ているとかであり公正の市場でもないのである、それで銀行員とかはそのグロ−バル経済のギャンブル場の賭博場に雇われた人なのかとも見てしまうのである

資本主義はこうしてモラルもなくなったのだからそれを維持することはむずかしいとなる道徳無き経済である、そういうものが維持できるのか?
グロ−バル経済とは世界市場は巨大なギャンブル場でありそこに人格など関係ない
ただ金を唯一の価値としてすべてを商品化して人間も商品化して奴隷にするといことである、この人間はいくらの値段だとかその人に張り付けられている
それは人間そのものを無視したものである、そこに実際は恐ろしい社会の荒廃になる
でも資本主義社会に生きていればみんながそうなるしかない
そうならもう会社員であることでも拒否した方がまともだとまでなってしまう
でもそうなると生きる術がないとなってしまう、でも人間の人生の目的は何なのか?
それがただ財産と金を得ることだとなればそうなってしまう
じも人格の完成だとかなればそんな社会に会社に属していること自体拒否しなくてはならないとなってしまうのである

いづれにしろ株式で生活している人など何か異常なのである
それはまともな生業でもないとなる、そういう仕事が何か人格を歪めていたら老年になって真の実りはなくなる、これも怖いことではないか?
でも人格がどうだとか見る人はまれである、すると現代社会は現代人は何のだとという疑問になる、文明人とは何なのだろうとなる、モラルなき道徳無き人間とは何なのだろうとなる、それが獣社会になってしまわないか?
モラルがないから食うか食われるのか世界でありすべては金で計られ商品化されて値段をつけられる、ところが人生は値段をつけられない金で計れないものに計りしれない価値があることも最後に思いしらされるのである
それは人格が歪んた人は地獄人間になっているのだ、ダンテの地獄編に体が歪になり奇形となっている人間である、つまりそういう地獄人間になることが目指しているのが今の文明なのかとなってしまうのである

そんな人間を作ることが資本主義社会でありまた文明社会だとすると拒絶して生きていた方がいいとなる、ニートの方が増しだともなる
資本主義社会の勝者とは何者なのか?地獄人間でありサタンともなってしまわないか?
ただこの異常性に気づいている人はその中で生きているとき気づかない
それが普通でありそれからはずれた人は異常だとなるからだ
異常な社会に生きている人はそれが異常だと気づかないのである
それでナチスが社会を席巻したときそれが異常だとも気づかない、むしろそれに適合しない人が異常ことされたのである
それはカルト教団ではそうなっている、異常だとすると異常だと見る人は異常にされるのである、数が多ければ正常だとされるのである

でも社会全員が異常だとか見る人はいない!

たいがい会社からはずれた人が異常とみられる、だから何が異常なの正常なのかわからないのである

人間を派遣しているのではなく、人材を派遣しているこの意味ー鈴木傾城

人材とは一部を材として切り取ったものである、人間とは全体のことである
人材とは人間を一部分として材として切り取ったものとして商品化されているというのはわかる、ここで道徳が語らないが道徳無き経済はもう人間社会ともならないのである
獣社会となっている、そんな社会自体何なのだろうとなる、それは地獄社会だということである


2021年10月22日

記憶したものが宝となる (老人は記憶に生きるー老人の心に映し出されるもの)


記憶したものが宝となる

(老人は記憶に生きるー老人の心に映し出されるもの)




老人の心に映し出されるもの

神秘な透明な水に写ったもの
隠された森の沼に湖に写ったもの
知られざる花の写り消えぬ
また天より神の御顔の写り消えぬ
しかしその消えたものは
その水に記憶されている
その水に神秘の花は記憶されている
それ故にまた花は映しだされる
時に霧が深く覆い記憶も消えたと思う
でも霧が晴れてまた記憶したものが
その湖に美しく映し出される
ただ醜いものは消える
神の鏡の湖に写ることはない
記憶されるものと記憶されないもの
老人は記憶をたどり生きる
でもそこに醜いものばかり写るなら
その記憶を消したいとなる
でもその悪しき記憶も消えない
だから良きものを記憶するように
その心を正しくして澄んでいなければならない
さすればあなたの老後は美しい記憶で
次々と花園を歩むように美で充たされる
終わりなき記憶たどる旅となる
確かにその湖の平静な水面も風に嵐に波立つ
でもそれは一時であり過ぎて行く
そしてその静まる水面には花々が
次々に色を変えて映りあきない
老人はそうして記憶に生きる
美しく蘇る記憶に生きる
そうしてその記憶を天国にもってゆく
その天国にそのつづきがある



すべては誠実な記憶のなかに持続され、言葉に絵に歌になって保存される

追憶の絵本を、体験したものの宝庫をもたなければ、どんなにつまらなく、みじめなものだろう‐
「人生は成熟するにつれ若くなる)ヘルマン、ヘッセ

老人は記憶に生きる、でも問題はあなたはどれだけ記憶したものを持っているかとなる
誠実に記憶されるというときやはり誠実に生きないと記憶もされないとなる
心に記憶されのはやはり不実なものではない、誠実ならば不実とならず実りとなり記憶される、ただ何らか人は必ず罪を犯すしそれが悔恨となって苦しめられる
人生でも最後に記憶の絵本のようになったら成功だったともなる
でもいくら金を残しても何か思い出したくない嫌なことがありそういう生き方も普通にある、金のために不誠実となり嫌なこともしたとかなる
現代ではそれが多いのである、それは老人になったとき消えるのではなくその嫌な記憶に苦しめられるともなる
その時は老後は地獄だともなる、いくら金があってもその心に映したものが悪ければ醜いものしか映らないとなり地獄となる

だからどうしても現代では金のためにそうして心が汚れる人が多い、でもそれが老人になったとき消えるのかとなると心に刻印されるのである、それが怖いのである
ただそういうことを深刻に考える人はまれである、金になればいいとしかなくなっているからだ
現代の資本主義社会はそれが問題なのである、みんな金で汚されてゆく
何か戦前でも江戸時代でもこんなに金で汚されることがなかったと思う
もちろん貧乏であり時代が違っているから比較はできないにしろ現代ほど金に追われ金のために心が汚されている時代はなかったと思う

ともかく人間の記憶は不思議である、どうして記憶がよみがえるのか不思議なのである
ただ忘れることも本当に多い、だから記録しておけというのもわかる
今ならデジタルカメラでもスマホでも膨大なものが記録できる、そこから記憶がよみがえることもある、第一自分の書いたものを忘れて読み直すとたんなこと書いていたのかと忘れているからだ、人間とは常に忘れてゆく、人も次々死んでゆく、それは次々に人も忘れられてゆくということである、それだけはかないということである
記憶にとどまるのはわずかであり歴史でも名を残し記憶されるのはわずかである
あとは忘れられてその名も覚える人もいなくなる、それは老人になると実際に知っている人が次々に死んでゆくのだから嫌でも自覚させられるのてある

老人は記憶に生きる(記憶の宮殿)
http://musubu2.sblo.jp/article/186530838.html

ここの続きとして書いた、この記憶の宮殿はみんな人によって違う、経験したことも学んだことも違っているからだ
でも人間は最後に記憶となり記憶を生きることになる、でももし記憶されるものがないとすると退屈ともなり老後の時間が長いと耐えられないともなる
何か行動するにしても体が弱りできなくなる、どうしても老人は行動力がなくな家に閉じこもり記憶に生きるようになるからだ
豊かな老後は金を必要だけど記憶に生きるようになるから記憶されたものが大事になる
その記憶されたものとは日々の生活で積み重ねたものなのである
ただ自分の場合家族をのぞいて人間を記憶しているということがない、また逢いたい人もない、自然との合一を追求してきたが人間は嫌いだったからである

2021年10月23日

20代で土地を買い家を建て立派な庭を作った80代の人 (新しい産業が生まれないと日本は豊かになれない)


20代で土地を買い家を建て立派な庭を作った80代の人

(新しい産業が生まれないと日本は豊かになれない)


信じられないだろうけどバブル時代は、

16歳の中卒土方でも給料が100万円あった

佐川急便のトラックドライバーの求人でも月給80万円以上あった

anや新聞広告にもよく載ってたから覚えてるやつもいると思う

おれの友達も佐川に2トントラックのドライバーやってたけど22歳で月150万円もらってた
今の若いやつはみんな月給20万円以下


今の時代の差が大きい、知っている人は20代ですでに新しく土地を買い家を建て立派な庭まで作った、20代でそんなことまでできた時代だったと思った
その差は大きい、その頃日本経済はうなぎのぼりで成長していた
その人はトラック運転手であり人より二倍働いた、荷物を運ぶにしても歩合制であり二倍の収入になった、それもあるが収入が今とは二倍くらい違っていたとなる
要するに働けば働くほど収入は増やすことができた

まず貯金していれば金利が7パーセントなのだからそれも信じられないものとなった
今や銀行にあづけるだけで手数料がとられ金利はゼロなのである
地銀などは投資信託をすすめるが実際は素人と同じであった
ただ自分の銀行の利益を上げることしか考えていない、だからとにかく転売をすすめる
その度に手数料が入るからだ、それで株でもリーマンショックで半分になった株が元にもどり上がり始めたとき転売した、それをJーreitに回した
そのJーreitをその地銀の営業の人が信用できなくなりやめたのが良かった
そのあとコロナウィルスで急落したからである

特に田舎の地銀など投資のことなど何も知らないしただ手数料を取るだけの商売である
だから知識のない人はカモになるだけだと知った
ただ今の時代は投資をするなとは言えない、知識のある人はすべきである
でもその知識でも株に通じることは並大抵でないからできないとなる
結局銀行がどうのこうのと言っても自己責任になる
田舎では証券会社でもないし選ぶことが限られているからうまくいかない
それがハンディキャップとなっている

ただ今の時代は本当に給料でも30年間日本でも上がっていないとか日本経済がこれほど落ち込むことは考えられなかった
こういう時代では今の若い人は夢ももてない、自立できないから結婚もできないともなる銀行員など前は公務員と同じく地方ではエリートだったが今や悪徳商人のようにも見られる、銀行は堅い職業と見られていたからである
田舎ではもともと証券とか株は嫌われていた、なにか胡散臭いものとして見ていた
それは別に利子が高いのだからそんなものにかかわる必要がなかったからである
大学の経済学の先生まで株はするなと言ったいたからである
そういう時代は恵まれていた時代だったからそうなっていたのである

20代で結婚して土地を買い家を建て立派な庭を作ることができた
田舎のことでもそういうことは都会でも全国的にそういうことができていたとみる
貯金すれば十年で倍とかなって投資とかめんどうなことにかかわる必要もなかったのである、投資は知識でもむずかしくハードルが高いからである

日本はどうしてこれほど経済が落ち込んだのか?
それは産業の転換が新しいものに転換できなかった
戦後は焼け野原になっても財閥が解体されたとか地主が消滅したとか大改革があった
そして電機産業が起り世界に日本製品が売れた、それで高度成長時代が生まれた
その時それだけではない何もない時代だから地方でれ小さな町工場であれあらゆる場所で起業すると成功していたのである

私の家でも子供相手の駄菓子屋のようなものから始まり小さな店をして売れたのである
物を置けば売れたのである、でも私の家族をみても商売上手とかではなかった
ただ角に店があったから地の利で売れただけだとなる
その店を開くのに5万ほどの金を借りるのに苦労した、銀行でも貸してくれなかった
でもたいした設備もなくて店など開くことができた、そういうふうに簡単に店をもつことができたのである、そういう時代は活気があった
何か起業すると成功しやすかったのである
それはみんながそうであり活気があったとなる
その時子供でもわんさといて神社の境内で遊んでいた、その声がうるさいくらいだった
でも今になると遊んでいる子供もみかけないのである

なぜこんなに日本の経済が落ち込んだのか、その一つの大きな原因が戦前は絹織物生糸を作ることが全国の産業であった、それで私の母親は十年間原町の紡績工場で糸取りとして働いていた、それは全国でそうだったのである
養蚕農家が全国的にあった、それは兜の形をした屋根が今でもいたる所に残っていることでわかる、ここも養蚕農家だったとかわかる
養蚕が日本を支えていたのである、それはアメリカへ輸出されていたのである
でも戦後は焼け野原になり養蚕は終わり電器産業に変わった
その産業の転換に成功して高度成長時代になったのである
あとエネルギーでも石炭から石油に変わったことで大変換になった
鉄道はもともと石炭を運ぶものとして作られた、常磐炭田でもそうだし北海道は石炭の産地であり石炭を運ぶために作られた、夕張とかでも石炭の産地だったからだ
でも石炭から石油に変わると寂れてしまったのである

結局日本が貧困化しているのはこうして産業の転換ができなかった
IT時代になってもそれも韓国や中国より遅れをとった、やはり時代は技術でも変化する
今になると新聞など一軒一軒配ることがどれだけ手間になるか、コストがかかる
もう続けられない、インタ−ネットならもう数人でできることを百倍の手間とコストをかけているとなる、それで大手の印刷会社がやっていけなくなり会社を売るようになったとかある、新聞のコストがかかりすぎるのである
テレビ局でもyoutubeで個人ですら局をもつことがでる

これを比較すると徒歩で旅する時代と汽車で旅すにうよになった時代のように変化している、だからもう新聞とかテレビ局とかは終わりになる
そうしてマスコミの力も相当に弱まった、テレビ局はその装置だけで莫大な金がかっていた、だからこそ第3の権力になっていた、でも残ったのは取材力とか放送する内容になったのである、もともとそこが報道でも重要なものだったのである
だから取材力とかコンテンツを作る人材は必要であり残るとなる
それは別にテレビ局でなくてもyoutubeでも放送できる
現実に教育番組になるとyoutubeがいいとなる、そして大学でもつまらない講義を聞いているよりyoutubeで学べると思った

何かこうして技術の変化があり産業の変化がありそれについていけないと廃れてしまうのが社会である、日本ではそれができなかった、なぜできなかったのか?
日本は物つくりはもともと伝統的に優れていてもITとかの分野は日本の文化と相いれないものがあり苦手でありそれで取り入れることができなかった
明治維新でも物造りではいち早く追いついていたからである
つまり産業の転換ができないためにこれほどまでに落ち込んだとなる
だから経済を回復するために産業の転換が必要になる
電器産業でも韓国に中国に追い抜かれた、すると同じ分野では価格が同じであり差がないから勝負できない、安い方がいいとなるからだ

いづれにしろ時代が変わり養蚕が絹織物産業が興隆した時代から電器産業が興隆して高度成長時代になった、その次なる新しい産業が出てこないと日本がはジリ貧になる
それがITだったのだがそれに遅れた、ただその次なる産業は新たに起これば日本も回復するとなる、でもそれが簡単には今度はできない、それで今度は観光立国とかなったのである、それは落ち目の国がすることである、それで経済が回復することはない
ただ日本には独自の文化がありそれで観光客をひきつけるとういことはあった
でもコロナウィルスでまたそれもそがれたのである

そして今度は負の負担が増える、少子高齢化で老人ばかりふえて福祉関係に金がかかる
何しろ老人は病気になる人が多い、するとそれが負担になる、数が少なければいいが
数が多いから負担になる、若い世代の負担にもなる
結局悪いことは重なる、何かいい面がありそれを見出そうとしてもなかなかない
日本は資源が無いから教育だとか明治から言われた
日本ではそういう基盤があった、寺子屋教育があり読み書きできるとかあった
識字率が高かった、でもそれだけでは今やグロ−バル化するとやっていけない
おそらく日本の弱点は何かまねは上手でも創造力発明がないことである
西欧文明というときそこに発明があったからである

中国文明に習ったのも漢字などを取り入れたのもそこに発明があったからである
日本は独自に発明したものがない、電器産業はそれは独自に発明したものではなくただ先んじて成功したものであり日本独自のものでもなかったのである
それは中国でもアメリカのまねであり中国独自のものを発明していない
だから日本も中国のヨ−ロッパとアメリカのコピーだとなる
それで中国も最近ゆきづまってくる、ただアメリカでも衰退してゆくから次なる興隆する国はどこになるのか?それが見えていないのである

それより世界がもう開発とか限界であり物の生産でも限界でありそこで持続可能社会が言われるようになった、資本主義も限界になった
資本主義は常に資本を投下して成長するシステムでありそれがなくなると終わりになる
後進国があってそこで成長してゆくことによりグロ−バル化資本主義が成立つ、それがなくなると終わりになる、だから世界自体がそうした限界状態になってきているともなる
次なる投資国がないからゆきづまる、そこで中世時代のようになる
それは物を無限をに生産して売る世界ではなく心の内面の追求になる
哲学宗教の時代にもなる、ただカルト教団とか宗教団体はこれは全く資本主義に組み入れられた物欲拡大のものであり心の内面など何にも関係ない、物欲宗教でありそのために毎日祈っているだけである

宗教とか哲学とかは最も離れたものでありだから数だけは増えたとなる
要するにこれからの世界は物欲の追求ではない世界になる
第一ITがコンピュターが人間の頭脳と深く関係しているものであり情報社会とは今までも物欲社会とは違っているからである、そういう時代に生まれたものだからである
だから物欲社会を目指すものは限界に来ているから日本でも高度成長時代はもうまたないつまり物質欲望社会から精神を追求する社会になる、世界で物は飽和状態になる
物を作っても売れないとなる、何が売れるのかとなると今までのような考え方では売れないとなる,アメリカでも金融で支配しているとかなるとそうである
輸入大国にもなっているのだから物を売っても売れない、ただコンピュターを発明してソフトを売っているとなる,ソフトは今までの物つくりとは違って頭脳と深く関係したものだからである
もしかしたらそうして知的遊戯とか精神の遊びの世界が広がる
ゲームとかがそうである、つまり物造りだけで発展した時代は終わったということである



posted by 老鶯 at 15:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

大輪の白菊、秋薔薇(フラワーアレンジメント)


大輪の白菊、秋薔薇(フラワーアレンジメント)

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一村や農家の古く柿に蔵

石一つ十輪ほどの秋薔薇

新しき家も幾年秋薔薇

大輪の白菊映えし広間かな


大輪の白菊御前に我が家かな今日も勤めぬ心正しく

大輪の白菊にそえ色違ふ小菊いろいろ映えにけるかも

大輪の白菊活けて塵つかず今日も御前に勤めけるかも


今年は秋がなくて冬になった、今日も寒い、こうなると季語も合わなくなる
北海道で鮭かとれなくてブリが大量にとれたというのも日本の気候が変わり季節が狂うとなる

秋薔薇というとき田舎町であり十輪くらい咲いているのが心にしみる
つまりこの十輪とは人間をイメージするのである
人間の付き合いも親しくなれるのが10人くらいかとも見る
だから何百万とか会員のいる宗教団体などはもうただの数になってしまう
庭に石一つがありそして十輪ほどの秋薔薇が咲いている、それで落ち着くとなる

この辺では震災以後新しく移り住んだ人が多い
十年過ぎてもやはり新しい感じになる、でも徐々に土地になじんでくる
でも土地になじむには時間がかかるのである
だから都会から田舎に移っても老人になると60以後になるとなかなか土地に親しむというかなじむのがむずかしいとなる

大輪の白菊を活けて飾る、その大輪の白菊が家に映える、広間に映える
この生け花は目前で花を見ることで心と一体化するのがいいのである
そしてこの花は何を意味しているかというとやはり中心に大輪の花がありその花はあたかも祭壇なのである
花を礼拝するのではないが花を中心にして人もあるとなる

それは社会でも会社ならそうして穢れの無い花を飾る、それが中心となり人もつとめ働くのがいいのである
でも実際は会社でもそうはなっていない、おそらく花ではなく金の神を祭壇にしているともなる、マモンの神だともなる
ただ神社であれ寺であれ結局汚れた場所になっている
金儲けの場所でもある、だから汚れない場所はないとなる
人間がいることで必ずすでに汚れたものになる

本当の祭壇は自然そのものにある、そこには人間はいない、そうなれば汚れない神域だとなる
とにかく生け花でも中心がありそこに大きな花を挿すことになる
大輪の菊がふさわしいとなる
ただここでは花屋が一軒したなくなり花をそろえられない、スーパーでは生け花するには花がたりないのである