2021年10月01日

これからの教育はどうするのか (思考脳、感性脳、遊戯脳の育成)


これからの教育はどうするのか

(思考脳、感性脳、遊戯脳の育成)

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明治維新以降の教育はヨ−ロッパ文明をまねることだった、何かを日本人が独自に産みだすことではなかった
だから暗記脳で良かったのである、江戸時代でも暗記脳教育だった
「読み、書き、そろばん」で良かった、それは自ら考えることではない、暗記することである、それで子供の時そろばんが得意だったけど何の役にも立たなかった
父親が酒店の丁稚だったので子供にも同じ教育をさせようとしたのである
つまり江戸時代でも教育は読み書きソロバンである
第一文字を読めない、書けない人がいたのだから文字を読めるということだけで知識人にもなる、侍は武道だけではない、読み書きをできていたからエリートとなっていたのである

それでタリバン兵には読み書きができない人がいるというとき権力を奪っても行政になるとそれもできないとなる、字が読めないし書けないとなると何か飛行場に入る時の検査もできない、事務ができないからだ
ただ日本人は寺子屋で読み書きを習っていて読み書きができる人が多かったのが違っていた、でも明治になっても読み書きができない人がいたのである
その人はハガキとか手紙を読めないし書けないから人に頼んでいて肩身の狭い思いをしていたのである、大正生まれの母とかなると尋常小学校で一応読み書きはできたのである
その差は大きいとなる
だから読み書きは必要である、でもこれだけ高度な知識社会になると読み書きだけではもう成り立たない、コンピュター社会になるとプログラムができないとエリートになることは不可能とまでなってきている
それで小学校の時からプログラムを教えるようになる

明治維新以降の教育は基本的には画一的に暗記させる教育である、読書百遍自ずから通じるとかなる、暗記脳教育でありそれで間に合ったでいたとなる
近くの寺があったところに小さな碑が埋もれていた、そこはどうも暗唱しろということが記されていた、そこは寺子屋がありそういうものが残っていたのかとなる
例えば漢詩とかでも文学的なものでも暗唱することが教育でありその中味を理解することよりまずは暗唱することが教育だったのである
なぜ自分が勉強が嫌いになったのか、それは確かに能力がないということもあった
でも確かなことは高校まで自分で一回も考えたことがなかったことである
試験でも暗記したことで暗記脳がいい点数をとることにもなる

それでなぜ自分が数学嫌いであり興味がなかったのか、それは何でも暗記することだったからつまらないとなっていた
でももし算数でも数学でも自ら考えるものとして勉強すれば興味あるものとなったのである、そもそも足し算の意味はわかるにしても掛け算とか割り算の意味がわからないのである、そういうことを考えたこともないのである
そして意外と与えられた問題を解くより問題を自ら作り解くことが考えることに通じて
興味を持つことだと死ぬ時期になって理解したものも遅かったとなる

要するにこういうこは能力の差があっても訓練が必要なのである
ただ特別優れた人は訓練など必要ないともなる、天才とかなるもう教えなくても理解できるともなるからだ、私が言っているのは普通の人を対象にしたものである
図形などでもそれは相当に様々に考えて理解することがある
それがただ数式を暗記するだけでは興味が湧かないのである
だから算数でも数学でも図形遊びのようなことをしていれば積み木遊びでも何か具体的なものから理解して抽象的な数字を覚えるといいのである

そこで次に必要なのは遊戯脳なのである、人間には遊ぶということが基本的にある
子供の時遊ぶ時代であり遊ぶことで様々なものに関心を広げるのである
何か遊びを作り出すことは創造的な行為である
ただこの遊戯脳は学校ではそがれのである、学校だと一つの軍隊であり集団であり一律的行動が求められるからである
また学校は工場だというときその建物を工場を模したものだというときもそうである
現代の工業社会に適応させるものとして作られたからである
それで寺子屋では学校のような整然として机が並べられていない
ばらばらになっていて先生が個別指導するようにもなっていたのである
学校という形態は明治以降に作られたものなのである
大勢の人間の規格化であり一律にして工場で大量生産するものの備えとして作られたのである
これも明治以降はヨ−ロッパに習うことだからまねることだからそれでも良かったのである

それは戦後もつづいたのである、一見日本の高度成長が電機製品が売れたことで日本がは特別優秀な民族だと世界に誇ることになったがそれは何か独創的なこと発明したことではなかったのである、日本では何か独自に発明したことがない、ものまね民族だと言われていた、それは今中国でもアメリカのコピーだと言われるのと似ている
コンピュターはアメリカが発明したものだからである
そのためにバブル崩壊以後は日本は30年間停滞しして賃金も上がらない、貧困国家になってしまったのである
つまりヨ−ロッパ文明をまねて成長したのはいいが日本独自のものを産みだせなかったことが停滞の原因だったとなる

これからの教育は思考脳と遊戯脳と感性脳を育てることである
遊戯脳というときただ遊ばせるかのかと反対されるが人間の本質として遊ぶことが重要な要素としてある、ただ動物でもそうだがチンパンジーに数を教えさせた、そしたら興味をもってしていた、チンパンジーでも遊ぶことがありそれを自ら楽しむことがある
ところが数を覚えることでその度にご褒美でバナナをくれたりしていた
そしたら関心がバナナの方に移って数字を覚えることに関心がなくなったという
何かこれは遊び自体で楽しんでいたのにバナナというご褒美をもらうことが目的になって興味を失ったとなる

これは人間にある、画家でも絵を売ることが目的になりどれだけ金が得るということが目的となり肝心の絵を追求することがなくなる
何かそういうことが人間の仕事には多い、肝心の仕事に興味を覚えるより金のためにするとういだけになり歪められる
そういうことは人間社会に日常的にあるからである
人間にとって関心とか興味が大事であり遊びも大事である、でも金にならないなら利益にならないら無駄だとされてしまう、利益が上がらないからやっても無駄だとなる
人間には本当は社会の中でも遊ぶ空間が必要だとなる
その遊ぶ空間でも遊園地とかなると遊ぶことが利益の追求になる
ともかく人間はどれだけ常に利益を求めることで本来の目的とは違って歪められるからである
第一宗教とは利益とは関係ないものであった、それがただ御利益追求となり権力となったことでもわかる、利益を得るために肝心なものが必ず歪められるのである
だから私はベーシックインカムに賛成する、つまり各自利益だけを追求するものではなく各自の興味を追求して各自の個性ある人生を生きるためにいいとなる
ただそれは理想論であり実際はそうならないにしてもその思想には賛成するのである

ともかくこれまでの教育は暗記脳しかない、創造脳をもつには思考脳、感性脳、遊戯脳を開発促進することである
感性脳となるとこれはコンピュターにはないものでありこれから重要なものになる
コンピュター化できるものはもともと創造脳とか感性脳とか遊戯脳とは必要ないものとて作られている、まずコンピュターには美の感覚をもつことができないからである
確かに計算脳があっても人間的なものとは思考脳、感性脳、遊戯脳にある
これはコンピュターにはもてないからこれからの時代では重要になる
だからこれまでの工業化の大量規格製品を作る時代の教育とは違ったものになる
そうしなければイノベーションも興らず日本は停滞したままだとなる

おそらくその見本がオランダにあるのかもしれない、オランダの教育は世界でも優れているとされるからである、少人数で自由な教育をして思考脳、感性脳、遊戯脳を高めるものとして評価されている
団塊の世代などは一クラス50人とか教室がないとか騒いでいた、それだけ人数がおおかったからそうなる、そういう時代は一律な規格品を作る教育でも良かったとなる
第一学校に行けない国とかもあり学校に行けるだけでいいともなるからだ
実際に私の家には本一冊もなかった、もし家に本があり自ら読んでいたら考えることもしたかもしれない、家で読んでいたのは貸本屋から借りた漫画本だったのである
ただ今になると知識を探求する場が拡大した、インタ−ネットとかのyoutubeの教育番組がそうである、これは相当に勉強になる、無料で学べる
だからこれから自主的に思考脳、感性脳、遊戯脳を鍛える環境が整う時、日本でも何か発明する人がイノベーションを起こす人が出てくるということはありうる

とにかく自分が本格的に勉強したのが大学を出てからだった、そこで旅をして地名に興味をもったり地理に興味をもった自ら学習することになったのである
本だけ読んでもいても今日を持つとはならない、外国を知るには百聞は一見にしかずであり実地にその場に行った人が一番実感として理解するからである
いづれにしろ日本は少子高齢化であり今までの様な大量規格製品を作り出す時代でもない創造的な能力を高めることがこれから大事になる
少数精鋭主義になる、それでオランダの教育に習うのがいいとなる
オランダは小国でも貿易では大国になったりしている、小国でも大国にもなる
ポルトガルでもスペインでもイギリスでももともと小国でも大国になったからである
中国とかアメリカは大国なのだからそこから優秀な人が必然的に出て来る
でも小国でも優秀な人を才能を育てることができるということでオランダが見本になる

100校あれば100通りの教育がある国」オランダ 日本が学べるものは?

そもそも机の配置が自由である、それは日本の寺子屋と似ている
posted by 老鶯 at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

医原病とは (医者も病院も病気を治せない、かえって悪くする?)


医原病とは

(医者も病院も病気を治せない、かえって悪くする?)

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【武田邦彦】病院に行くと病気になります
https://www.youtube.com/watch?v=ZpHoR-JKyoM

医原病
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%BB%E5%8E%9F%E7%97%85


知っている人は病院に半年くらい入院してかえって悪くなった
その原因が食事にあった、毎日同じオカズであり食べたくなかった
そのために栄養不足になり体力がなくなった
確かに糖尿病だから食事の制限があるにしても栄養不足してはまずいとなる
その人はかえって家に帰ったら運動したり食事も自分の好きなものを食べて回復したという、これも医原病なのかもしれない、もうその人は病院に行きたくないと言っている
ただ娘は離れて暮らしているので病院に入れたいのである
病院に入れて世話する人は楽になるのである
私も介護していて入院したとき楽になった、そしてそのまま病院で死んだのである
また施設に入れると金はかかっても楽なのである
在宅介護は患者にとってはいいものでも介護する家族にとって負担になるのである
在宅介護がいいとしてもそれを負担させられる人は苦しいのである

ただ家族に何人かいてそういう体制があれば別にいいのである
私の場合は一人で二人の介護とかにもなりその時自分自身も病気になり二回も入院したのである
だから一人は一時介護施設にあずけて病院で自分は手術したのである
そこで孤立無援になり死ぬほど苦しみを味わった
そこで大金を盗まれるとか脅迫じみたこともされた
相手が事業に失敗したりとても助けられる人ではなかったからだ
苦しい時来た人は何かこっちが苦しいという時、チャンスとなり金をとることしか思わなかったのである
ただそれは自分自身のカルマだったのである
助けてもらえるような関係になかったということである

ここで問題にしているのは病院とか医者のことである
病院でも医者でも病気をすべて直せる訳ではないことである
ただその判断は素人ではむずかしい、だから医者でも病院でもまかせるほかないとなるでもすべてを医者や病院にまかせることも危険だとなる
この辺の兼ね合いがむずかしいのである

日本の医療が金だけも目的にするようになったというとき、過剰な医療で金をとるというときそれは問題である
だから医者とかは本当は公務員にした方がいいようにも思う
開業医の組合が医師会でここは力をもつのは開業医だからとなる
そこで医療でも強力な利権団体となり歪められる
また開業医は開業するにも金がかかり機械とか用意するのに金がかかる
何かと金がかかるから過剰な医療でもする、金儲け第一になる
中国でもヨ−ロッパでも医者は公務員なのである
開業医がこんなに多いのは日本だけだとなる

公務員になれというときそもそも警察であれ消防であれ自衛隊であれ何か国家公務員としての仕事となる
安全を守る者が国家公務員となる、すると医者でも看護師でも健康を守る者として国家公務員がふさわしいとなる
なぜなら今回のコロナウィルスでも開業医の団体がこの機会に金儲けをたくらみうまく機能しなかった、ベッド数は十分にあったとしても国家では何もできなかった
それだけ日本では私立の開業医が多いからそうなった
つまり公務員だったらそうはならなかった、政治家が命令できたとなるからだ
中国とかでは強力にトップダウンで決めたからである
それは医者や病院でも公務員となっていたからである
日本では開業医中心であり政治家が命令できなかったのである
医師会とは私的な営利団体であり開業医の利益を守るものだからそうなっていた
公務員だったら命令できたのである

ともかく医は算術になった、それは金がかかりすぎるからである
高価な機械を買えば金がかかる、その元をとるために金がかかる、だから開業医だけでは今や患者に対応できない、最近ではAIが医療にかかわるというときむしろそうしてコンピュターを操作して医療にかかわる人が求められる
それは開業医では無理になっている、それだけ医療も変化している

要するに今回のコロナウィルスでも国自体でもその体制を見なおすことが強いられた
だから医者でも病院でも公立化して公務員にするのがいいとなる
給料はそれなりに高くする、そして開業医の問題は必ずその子供を医者にしようとなる
その子供に受け継がせようとする、するともともと医者に向いていない人も相続するために金をかける、だからまた金が必要となる
医者になる人とか教育とか安全を守る警察とか消防とか自衛隊とかは公的な役割があり
それを私的なものとしにくいことがある
私的な営利事業にするとうまくちいかないものがある
仕事の性質が利益を離れて行うものだからである
今苦しんでいる人がいて「金をいちら払うなら診てやる」そんなはした金では診ることはできないとかなったら困るのである
でも現実には今や医は算術でそうもなっている
コロナウィルス騒動では病院にも入れず自宅療養で死んだ人がいるからだ
コロナウィルスは国家的戦略で対処しないとうまくいかなかったのである

国家の役割は安全を担うことだった、原発事故でもそうだった
これはせ国家的なものであり安全を担うのは一私営の東電ではなかったのである
でもその国家の役割を果たせなかった、保安院は不安員であり飾りに過ぎなかったのである、そうして大事故になりその責任は誰もとらなかった
東電でもとらてかったし国でもとらなかった、それは国家的犯罪でもあったがそれを罰することはできなかった、司法でも検事でも東電に天下りしていたからである
高級官吏でも天下りしていたから追求できなかったのである
国家的犯罪になると誰も罰することができない、日本の東京裁判があったが外国人によって罰せられたからである、そのアメリカにしてもまた犯罪者であり犯罪者が犯罪者を罰することなどできないものだった
だから巨悪は誰も罰することがてきなくなる

いづれにしろ自民党にしろ地域の有力者である開業医の医師会に逆らうことはできない
選挙でも重要な役割を果たしているからである、だから医師会自体が問題であり解体して国家運営にするということも考える必要がある
そもそも医療は警察とか自衛隊とか消防とか安全を受け持つものであり仕事として私的にするより公務員になるのがいいとなる
現実に公立の病院がどこにでもありそれは市町村で運営していて看護師でも給料を払っているからである、つまり一部は公営化しているからである

ともかく医原病というのはある、医者にかかり入院するとかえって病気が悪化する
それはいらない薬とかを飲まされたり治療してかえって悪化する
それは全部ではないにしろそういうことは結構あることでありみんな経験しているのである、病気をかえって悪化させるのが医者であり病院だとなると怖いとなる
でも実際は全部がそうではない、そこで素人は判断しにくいのである
医は算術となったことが問題なのである

教育でも算術となるとき問題になる、何かこうして私的利益を追求することが特に問題な分野がある、そうして常に人間は歪められるのである
常にどこでも金に支配されて本来の役割を果たせなくなる、尾身会長の病院が工作してコロナウィルスで巨額の国家の金をせしめたというときもそうである
つまりその先頭に立つ医者でも自分の経営する病院をコロナウィルスがチャンスだとなりもうけることを優先するのである
原発も巨大な利権となりコロナウィルスでもこれも巨大な利権となる
製薬会社では莫大な利益を得たからである、それでこれも陰謀論になったりするのであるその使われる金が得られる金が莫大なものになるからである

確かなことはウィルスに対応できる国家体制を作らねばならないことは今回のコロナウィルスで判明したのである、医師会とかは対応しないことがわかったのである
そこに政治で変革しなければならないと見た
ただ今度の新しい政権が実行するのかわからない、でもまたウィルスが周期的に襲ってくるとすると国家的体制を作っておかないと対応できなとなる
要するに日本は医療だけではない、様々なことで制度疲労とか起きていて経済は衰退するのもそうである、大きな変革が必要なのである
そうしないと日本は経済的にも凋落して貧困国家になりあらゆることで後進国となり世界での存在感もなくなる

でも変革する力が生まれない、おそらく明治維新のような変革が望まれるとなるかそれができない、自民党議員は既得権者でありそういう人達は現状を守ろうとする
明治維新では下級武士が革命を担ったことでもわかる
既得権者が変革したり革命になると損するから自らはしないからである
また野党も力なく日本は政治的にも衰退を進める、何か新しい力が起きることを期待するのだが高齢化ということが足かせになる
簡単に政治体制でも変えられないということである
老人はどうしても保守的になってしまうからである、既得権者もまた現状維持がいいからである、ただそうしているうちに日本全体が衰退して沈没してゆくともなる
そういう時に中国が攻めてきたりして支配されることも考えられるのである

2021年10月02日

内発的動機と外発的動機で仕事や勉強の態度が変わる (継続できるのは内発的動機をもつ者である)


内発的動機と外発的動機で仕事や勉強の態度が変わる

(継続できるのは内発的動機をもつ者である)

お金を貰えるから、嫌な仕事でも頑張る。
仕事をサボっていると、怒られるから、真面目に働く。
クラスで1番の成績を収めて表彰されたいから、勉強を頑張る。
テストで低い点をとって恥ずかしい思いをしたくないから、一応最低限の勉強はしておく

常識を覆す、やる気を引き出す科学的方法

ここに書いてあることは自分の思うことと一致していた
前に読んでいたが忘れていた、でもプログを読み返してなるほどなと思った
内発的動機と外発的動機のこともそうだった
内発的動機だと芸術家でも成功する、外発的動機だとか報酬を第一とするから成功しない一時的に有名になったり金が入り成功したように見えても芸術家としては成功しない
肝心の内発的動機がないから報酬をもらうとそれで目的が達成されて終わる
でも内発的動機でつづているものは最後に自分自身の芸術の完成に向かう
ただその時内発的動機だとしても誰にも認められず金銭的にも恵まれないとするとつづけるのはむずかしいとはなる

これは芸術家だけではなく教育にも言える、内発的動機として勉強すればそれは継続するし終わりなき知的好奇心として独習でも勉強しつづける、でも外発的動機だと試験とか外部の評価とか有名高校大学に入ることが目的だとその目的が達成される勉強もしなくなる内発的興味から勉強するならそれは一生でも継続するのである
ライフワークになるのである

内発的動機というとき動物でもそれがあった、チンパンジーに数字を覚えさせようとしたときそれにチンパンジーは夢中になった、チンパンジーも遊ぶことができてそれが面白いからしていた、でも必ずそこで報酬としてバナナとかを与えていたらそのバナナが欲しいということになり数字を覚えることに興味を失ってしまったのである
そういうことを子供でも実験したことをここでは書いている
私自身の経験でも教育とはすべて外発的動機からしていた
また高校まで一回も自分自身で考えることをしなかった、ただ試験のためとか親に認められたい、みんなに頭がいいとみられたいとかしかなかった
つまりすべて外発的動機だったのである、何か知的好奇心から勉強していたのではない
常に試験の点数をあげるためとかあらゆることか外発的動機でしていた
そういう勉強はつづかない、内発的動機でしているのもは一生継続するのである
人間の知的探求心は無限だからである

人生何をするにもやはり内発的動機から始めないと失敗する
でも実際はみんな外発的動機で仕事でも何でもしている、日々の糧を稼ぐためにしている内発的動機と外発的動機は対立する、必ず金にならないからやめる、認められないからやめるとなるのが普通だからである
金にならないと事業だって何でも継続できないからである
この両方を備える仕事とかなかなかないだろう、現実社会ではまずは利益だとなる
利益がでないならやめるとなる、また会社でも認められない
だから例え不正でもノルマを果たせば上司に認められ会社に認められる

でも考えてみると会社でもどういう動機で働くのかが問題になる、内発的動機が問題になる、それがないとモチベーションもあがらないとなる
ただ利益になればいい、売れればいいとしかならないといづれは会社もだめになる
現代は何かこうして意味を求められる時代になる、ただ利益を上げればいいとはならない内発的動機は外部に左右されないことである、その人にとって価値があり意味があることを継続することである、ただそれを全く外部的に認められないし評価されない金も与えられないことがある、そうなると継続することが困難になる
会社経営などは利益があがらなければやめるほかないからである

外発的動機というとき事業を始めた人はただみんなに自分は優秀だということを見せるためにした、確かに会社に勤めいたときは難しい資格をもっていて優秀だったのである
エンジニアとして優秀だったのである、でも事業を始めたときその動機は自分が優秀なのだから会社経営しても成功すると思っていたのである
そこに内発的動機が欠けていたのである、外部に優秀だと見せたいと言うだけだとなる
外発的動機になり内発的動機には欠けていたとなるからだ

つまり人間は常に外部を気にしている、みんなに知られて認められたいという願望が強いでも内発的動機を持つものはそういうことがあってもやはり内発的に継続するものが大事なのである、外部から認める認められないにしろ内発的動機から追求して来たものを一生追求する、特に芸術家となるとそうなる
価値とは相対的なものでなく絶対的なのである
唯一無二になる価値になる、花でもいろいろあってもそれぞれ個性があり相対的に価値があるのではない、その花にしかないものがありそれが価値となっているのである
みんな同じだったら価値がないからである
だから誰でも作れる大量生産できるものはやがて価値がなくなる
それが日本の電器製品とかだったのであり今では韓国でも中国でも同じものを作れるから価値がなくなり売れなくなり日本は衰退したのである
もし日本でしか作れないとかまねできないものだったら依然として価値を持っていたからである

ともかく現代のようにある程度豊かになるとそうした個性が求められるようになる
なにもない時代は個性より同じものでも作って売れる、でも器でも同じものがいいとなっていたのは貧乏な時代なのである、器一つにも個性あるものを求めるようになるからだ
同じもの大量生産する時代なら個性は必要なかったのである
日本の教育もやはり同じであり工業社会に適応する規格品を作ることが教育だったのである、思考脳、感性脳、遊戯脳は必要ないものだったのである
それは大量規格製品を作る時代だったらそれで良かったのである

これからそういうことが通用しなくなった、それでみんなアーティストになれというのも時代が変わったなとなる、そういう時代の変化は老人になるとなかなか理解できない
ベーシックインカムとかでもそうである、働かないいで金がもらえる、そんな馬鹿なことがあるのかとふざけるなとなってしまうのである
ただ自分の場合はそういう生き方をしてきたのは違和感がないのである
ただ企業戦士として働いてきた団塊の世代とかバブル世代とかはそういうことが理解できなくなる、教育だってそうである、大量規格製品を作るのがこれまでの教育だったからである、第一個性を引き出す教育は結構手間になりめんどうになるから先生でもしたくなとなるからだ、一律に教えているのが楽になるからである

ただ正直教育にしても別に先生がいなくても教えなくても自発的動機でしている人は自主的に学べる環境を与えてやればそれだけでもいいとなる
まず家に一冊も本がないとか子供部屋もないとかそういう環境ではいくら自発的に勉強するなってもできないのである
読み書きそろばんくらいの時代ならいいが今は高度な知識社会になるとき対応できないとなる、家にそういう環境があれば自ずと内発的動機で勉強できるとなるからだ

いづれにしろこれからの時代を生きるには今までの感覚では通用しなくなる
社会自体の価値観も変わってきているしグロ−バル化しているしそれは物流だけではない知的なものでもグロ−バル化しているからである
それに対応する能力をつけないとついていけないのである
私がグロ−バル化に反対したというのは過剰な物流のことであり知的なものではグロ−バル化した方がいいのである、それがインタ−ネットで世界的な知の交流時代になったともなる、テレワークの時代になったとなる
大学でもかえってテレワークの方がいいとなるとき実は教授でも教える方でも今度は生徒によって選ばれるのである、それも飛び切り優秀でいなと選ばれないとなる
なぜなら別に個々の大学で人を集めて講義するのと違うからである

その人の興味によって最も優秀な先生からyoutubeとかテレワークで学べばいいとなるからだ、かえって講堂で多人数で講義を受けるよりわかりやすいということもあったというのは別に大講堂で講義を受けるより身につくとなる
教えるも先生も淘汰され時代にもなる、AIの授業にもなる、実際ある分野では翻訳とかではAIが優れているともなるからだ、それで普通の先生は失業する時代になる
ただ創造的に教える先生は残るとなる、創造的なことができる分野は残るとなる
先生はもう選ばれた人しかなれないとか医者でもAIが発達するとそうなる
あらゆる分野でAIとは違ったものをAIにできないものをできる人が生き残るとなるからだ
ただ友達を作るとかその他の人間的なことが育めないことがある
そのマイナス面ももあるがプラスの面も大きいしそれが時代の流れになるとき無視できなくなる、知らないですまなくなるのである
車時代に車を持たないことは時代も社会も知らないことになるから問題なのである
例え車をもっていないくても車社会だから車の知識が必要になる
それで自分自身が車ももたいなで車を知らないことで失敗したのである
身内が交通事故になって自賠責とかでも知らなかったからである
こうして自分は社会から離れて暮らしたのはいいにしてもいろいろなことを知らないことで失敗したのである


posted by 老鶯 at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2021年10月03日

田舎でも農民の生活が主なものではない (農家はほどんど自給する生活だった―長野県生坂村、八坂村)


田舎でも農民の生活が主なものではない

(農家はほどんど自給する生活だった―長野県生坂村、八坂村)


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田舎の夕暮れー尾崎喜八

村の質朴な学校は
もうとっくに授業が終わって、
青葉に包まれた運動場には
小さな木馬が隅の方でおとなしく、
その涼しい校庭で、宿直の先生が
年寄りの小使さんと何か話をして笑ってゐる。
三本の背の高いポプラが無数の葉をそよがせている。
もうぢき暑中休暇の来る楽しい七月の、
美しい空、美しい雲ですね。

麦打ちが済んだあとの、
金いろの麦の穂が散らばってゐる
農家の踏みかためられた仕事場で、
若い百姓の女達が筵をかたづけたり、
からだをはたいたりしてゐる。
健康な生き生きした目、太い腕。
黒くすすけた母屋(おもや)の台所から
竈(かまど)の煙が紫に立ち上る。
暑い一日の熱心な労働がねぎらはれる時の、
美しい空、美しい雲ですね



どうしても昔の生活が失われたので田舎でもわからなくなった
子供の時はまだ明治時代とか大正時代でもそのつづきのような生活があった
特に戦後十年くらいはそうだった、高度成長時代を経て余りにも変わりすぎたのである
村の学校というときそれはなにか今の学校とは違って素朴な感じのものだった
特に木の校舎だからコンクリートの校舎よりあたたかみを感じていた

長野県の奥深い山の村の学校が教室に泊まったことは不思議な経験だった
八坂村とかでありその時も木槿の花が一杯咲いていた
八坂村というとき本当に八つの坂がある山の中の村だったのである
そこを自転車で上り下りしたのである

八坂村木槿のあまた隠されぬ

廃校の校庭に飛ぶオニヤンマ

虫の音や遠く来たりて分去(わかれさり)

ただ記憶としてはあいまいになる、どうしても何十年後にかなると記憶があいまいになる遂にはそんな所に行ったのかとまでなる
自転車ではトンネルが怖い、車の音がトンネルにもの凄い音でひびくからである
そういうことを覚えている、80歳で戦友の代わりにと日本全国を自転車で旅した人がやはりトンネルで死んだのである
自分もそういう恐怖をトンネルで経験している
その人は近くの新地の旅館にも泊まっていたのである、それは一時話題になったが忘れられたとなる

ともかく人間はあらゆることが忘れられる、70過ぎる死ぬ人も多くなり忘れられる
あの「必殺仕事人」の有名な俳優も藤田まことも十年前に死んだことを知らなかった
テレビで再放送しているから生きていると思っていたのである
テレビドラマで再放送している俳優で死んでいる人が結構いるのである
ただその人はテレビの画面だけで知るからその人が生きていると思っていたのである

旅したとしても何十年も過ぎれば記憶もあいまいになり思い出せなくなる
だから旅する時は記憶に残る旅をしないと損なのである
まず車だとどういう道を通ってとか記憶されないだろう、ただ通り過ぎてゆくだけでありその過程が記憶されないのである、もし峠でも歩いて越えたらどうしても苦しいから記憶されることがある、それにしても何十年と過ぎると思い出せなくもなる
それだけ人間の記憶があいまいとなり定かでなる

これが50年も過ぎるとまさに遠い過去となりそこで人に逢ったとして経験でも幻のようになってしまう、そんな人がいたのかとまでなる
現実にもうそんな人がいて逢ったのかも定かでなくなる
それは60年一緒に暮らした家族ですらそうなる、それだけ一緒に生活していたのにあいまいなものとなってゆく

常にこうして時代でも過ぎてゆきたちまち過去になってしまうことが驚きである
それは老人になると嫌でもそれがわかる、人間がこの世にあるは一時なのである
人の出会いも一時でありそれで(さよならだけが人生だ)となるのが今になるとしみじみわかる、みんな結局この世に一時出会い後は永遠に別れるだけだとなる

宿直の先生とお小使いさんとか確かにいた、それが学校の裏方として働いていたのであるそれを記憶している、何か今頃稲刈りの頃、小学校で稲刈りをする頃イナゴを校外で採っていた、それは蝗か食料で売るためだったのである
その頃何か貧しく金にするためだったらしい
戦後十年は戦前とか明治でも江戸時代の生活の続きだったのである
だから燃料は炭だったり江戸時代と変わりないものがあったのだ

麦打ちが済んだあとの、
金いろの麦の穂が散らばってゐる
農家の踏みかためられた仕事場で、
若い百姓の女達が筵をかたづけたり、
からだをはたいたりしてゐる。

農家の庭は広くそこは仕事場だったのである、それは今でもネパールとかベトナムとか遅れた国に行けば見られる光景である
農家という時、そこは一つの自給自足の場だったのである、すべて一通り暮らしができるまかなえる場だったのである
それで農家の出の女性は家で納豆を作っていたとか萱の実から油をとっていたとか油でも菜の花の油とかまた椿油は普通にとっていて女性が髪に使っていたのである
その時代はまず外部から日本でも物が入ってこないからそうなっていたのである

家で自給するほかない生活だったのである、回りのものを利用するしかない生活だったのである、機械も使っていないから人間が労働している姿が目立つ風景である
田植えでも大勢でしていたからである、そういう光景もなくなったとき何か田舎でも生活の匂いがしなくなったのである
だから村の学校でも廃校となり淋しいものとなる、これから少子高齢化でこうした山村はさらに淋しくなる
ただ日本の場合隠されたように村がある、山が多くどうしても人との交流ができない
すると結婚でも村内の男女でするとかなる、閉鎖的になるのが日本の風土である
それも今や車社会になったりすると全く変わってしまったのである
むしろ遠くの人と結婚する、それも日本の果てのような人とも結婚しているのである
その風景があまりにも変わりすぎたのである

田舎でも何か田舎らしい生活が匂いが感じられないのである
肥え溜めは田舎の香水とか言われたがその肥え溜めとかもなくなった
何か田舎でも都会化している、農民は田舎でも一割に満たないとかなる
だからこそ原発が作られ事故になってこの辺はさらに農村的なものが消失して荒廃したとなる
そもそも田舎を知るには農業を知らないと実感できないものである
そういう自分自身が農業のことを知らないとなる
それで小さな畑をしていた女性の話を聞いてそういうものかと自らは何もしないかある程度理解したのである

その女性は本当に生粋の農民の家に育ったからである
一方で野馬追いにも出るような古い鎧が博物館に飾られている家の女性は他から嫁いでも農家の人ではない、田んぼでも貸しているだけであり全然農民ではない、夫も工場勤めのサラリーマンであり農民ではないのである、ただ紙漉きなどをしていた家であり古いのである、ただその女性に全く農家の生活感はないのである
要するに農家の生活感が全体的に消失しているのが現代である、それは田舎でも同じなのである
それで浪江の電気関係の仕事をしている人が回りが草ぼうぼうになっているのに全く関心がなかった、何にも感じないのである、かえって老後の資金を補償金をもらって良かったとかいって何にも原発事故のことで憂えてもいないのである
まさにこの人は田舎に住んでも農業のことなど関係なく原発とかで生活していれば田舎でもそうなってしまうのである
だから田舎だからといっても昔の素朴な風景とかを人でも素朴ということはないのである農家でもみんな車一人一台とかもっているのだから全然違った風景なのである

物を運ぶのは荷馬車だったことがある、子供の時その後ろに乗って遊んだことがあった
馬車屋があったのである、そして梨を作っている農家が鹿島から相馬市までリヤカーで運んで売っていたというから驚きである
15キロくらいある、これは遠いし相当に疲れる、そういう時代は外から物を運ぶこと自体が大変な労力が必要としていた、だから簡単に交流できないのである
それが車時代になって全く変わってしまった、むしろ遠くが近くなり近くが遠くなってしまった、物でも外国から入るからその遠いとういことは地球の裏側にすらなるのである
その変化があまりにも激しかったのである




八坂村の宿

犀川のうねりつたぎつ 流れを沿い下り 
大岡村や生坂村や 八坂村の山深く
あまた咲きしは木槿の花 その花におおわれ
我は入りにき 今日の一夜の宿はあわれ
廃校となりし村の 小学校の改築の宿
ここに六年生の教室と なつかし泊まる卒業生
窓辺に流れのひびき 校舎の廊下をきしみ歩みぬ
窓辺に寄りて外ながむれば 赤とんぼとぶ山の学校
かすかに虫の音や 校舎は古りて生徒はなしも
その山の道の辺 刈り入れの農婦ありにき
道の辻には地蔵や 昔なつかし何語る
童の遊ぶ声もひびかむ 野に山に川に
祭りの太鼓も笛の音も 野に山に森に
村の墓所には女郎花 我がしばし佇みぬ
山々は打ち重なりて 村は閉ざされしかも
八坂村の坂をし上れば 誰そその墓の主や
我を見送る影のありや 我は汗かきかき坂上る
ああ また来てくれと その影は分かれを惜しむ
ああ なつかしき日本の国の 昔の村を思うかも
旅人はるか大町へ 坂を上りて去り行けり





この辺は大町市に近いしその市内である、合併してそうなった
インタ−ネットの写真で見ると廃村地帯にもなっている
その写真が多い、10以上村が廃村になったのか?
これも日本の深刻な現実である
廃校利用があり宿として利用もある、この廃校もまた多いのである
生坂(いくさか)村から八坂村へ行く辺りは廃村が多かった
ただそこが良く思い出せなくなったのである
やはり山々に閉ざされている所は地理がわからなくなるのだ

ikusakavvvv1.jpg

ここも人口は半分に減った

八坂村の宿
http://musubu.jp/jijimandai8.htm#toyo





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2021年10月04日

インタ−ネットの通信時代で一番怖いこと (記録したものが一瞬にして消える)


インタ−ネットの通信時代で一番怖いこと

(記録したものが一瞬にして消える)

ネットの時代で一番怖いことが何かというと記録したものが一瞬にして全部消えることである
それを自分は経験した、突然危険な病気になり開業医に行ったらすぐ入院しろと言われたのである
胃カメラで胃が悪いと思っていたら腎臓が悪くなっていて腎不全になり死ぬところだったのである
なぜそれを放っておいたかというと家族の介護とか誰も自分を心配するものがいなくなかったからである、だから素人判断でたいしたことがないと思い放っておいたのである
だから一人暮らしはこうして危険がある、連絡する人もなく死ぬ人もいる

それで緊急入院した結果一か月は病院から出れなくなった
その時家には母ともう一人いたかその人は自分のいない間に屋探してその時運悪く貯金をおろしたのが家にあって大金を盗まれたとなる
病院を一時的に出たいとしてもそれが許可されなかったのである
親の介護になってからこういう苦しいことの連続だった

そして怖かったのはさくらのレンタルサーバーでログが記録したものが消される寸前だった、その時電話連絡して消さないように頼んだのである
もしその時連絡しなかったら次の日は消されてせっかく書いてきたことが全部ぱーになった、その時電話連絡できたから良かったのである
今はさくらの電話連絡は予約制であり一週間後くらいでないと連絡できない
これだったらもう間に合わなかったのである

今日はその支払いの確認をするためにチャットした、これもどうなのかと思ったが意外と個人に対応して答えるのが早かった
これは緊急時はいいなと思った、自分はパソコン通信の時からチャットとかでもしていたのである、経験があるからそのことがわかっていた
でも経験がないならこれもどうしていいのかとかわからない
つまり通信の世界も経験であり慣れなのである
第一文字だけで会話するということが今までにない経験であり戸惑うからである
でも経験していればそういうものかとなる
このネットの世界は慣れだと思う、だからフェスブックとかツイッターがめんどうなので答えていない、この世界もわからないからである
こうしたコミニケーションは今までにないものだから理解できないのである

なぜ日本でITが普及しなかったのか?

それは日本の文化と関係しているようにも思う
日本は話せばわかるとか面と向かった対面的なもので信用する、そうなると相手の顔も見えない人とコミ二ケーションをとるのがむずかしいのである
つまり日本人の文化は腹でわかるとか言葉を通じないでわかたあうという文化である
村という狭い範囲で生きてきたからそうなる、みんな顔見知りの狭い範囲で生きてきたから見知らぬ人とのコミニケーションが苦手なのである

日本の文化は師弟不二とか師と一体化するのもそうである、師が地獄に行くなら弟子も行くとかなるのもそうである、人でも直接に接する人とで信用してコミニケーションする
だからそこに現実の人がないいと信用できないとなる
また書類だけではなく直接会うことが要求されるのである
例えば法治主義というとき法で治めるというとき人と人が面と向かって決めるのではない法律を基にして判定する、基本に法があってその法を基にして決める
それは人と人が面と向かって判断することではないのである
法とはいわば数学の公式のようなものでありそれで公正に判断するとなる
人より法の方を信用して判断するのである

インタ−ネットの世界とは相手直接会う世界ではない、相手は見えないのである
確かにズームとかで顔が出てコミニケーションもとれる
でもそれも直接合って話すのと違ったものとなる
そういうことで何か日本人にとってはなじめない世界でありITが普及しなかったのかともみる、それは単なる技術に遅れをとったというより日本にはそういう文化がなくなじめなかったからだともみる

別に通信だけで全くコミ二ケーションがとれないということはない
意外と一対一のチャットだとコミ二ケーションがとれた、何回も念を押して聞いて答えてくれて安心したとなる、ただここが人数が多いと混乱してくるからむずかしくなる

いづれにしろ通信の世界でいろいろ問題が起きるのは信用することとかそういうことがネット上で確立していない、だから一瞬にして記録でもログでも消されるのてはないかという不安がつきまとうのである
クラウドというのもこれだって本当に記録されているのか、一瞬にして消えるのではないかという不安がつきまとっているのである
そういう記録でも誰が保証してくれのかとなるとわからないのである
ただ安心を得るためには一か所に記録をログを保存することは危険である
三カ所くらいに記録を保存しておく必要がある
それもめんをとなのだがそれしか安心する方法はない
結局紙に記録する本て記録するというのが一番安全だともなる
ただ記録するもが膨大になるから本にすると金もかかるから大変だとなる

ただ都築詠一氏のプログのログは消えたのである、なぜなら死んだからである
これもただインタ−ネット上だけで発言して書いて消えたのである
一部は残されたが大部分は消えたから残念だったとなる
ログが消えるとふりかえることができなくなる
それで不思議なのは自分自身の書いたものを読み返すとこんなことを書いていたのかと自分自身で再認識する、自分で書いたものも忘れているのである
だから人間ほど忘れやすいものはないと思った
肉親だって死ぬと忘れる、何か書き遺したものでもあれば思い出すことがあるがそれがないと忘れてゆく

だからインタ−ネットはプログでも記録としてあとで役に立つのである
前に書いたものは活かすことができるのがインタ−ネットなのである
連続して継続しているのであり生きている限り終わらない世界である
インタ−ネットとは知的共同作業の場にもなっている
調べるにしても図書館だとめんどうになる、インタ−ネットだったら家にいながらテレワークできるから便利なのである、家が図書館にもなっているから便利なのである
それで今では5年以上も図書館に行っていないのである
忙しいせいもある、家事に追われるから図書館で調べものする時間がないからである

とにかく今日は安心した、消す時は必ず連絡してくれとか連から々する方法がチャットでもできることがわかったからである
だから意外と事務的連絡などでチャットは役に立つと思った
ただこれは経験していたからできたのである、そうでないとチャットは何かもわからなくなる、今はラインとかで普通になっているからわかるがそれもしていない人は通信の世界になじむことはむずかしいとなる
要するに人間にとっていかに経験が大事なものかわかる
はじめての経験になるとあらゆることでわからないのである、ネットの世界は意外とこうした経験を積まないとなじめないのである

ただネットの世界でも文章だけでもわかりあえることはある
だから何かコミ二ケーションをとれないということはない、信用できないとういこともない、体面的なチャットは意外と相手のことでもわかりコミ二ケーションがとれるかもしれない、意外と事務的なことはかえってできるかもしれない
他のことになると何かめんどうになる、例えば自分の書いたものでもどこまで理解しているのか?そういうことで対話するとめんどうになる
なぜそうなるのか、それは相手のことが全くわからないからである
その人がどういう人でどういうことに関心がありどこに住んでいるのかとか年齢とかいろいろな属性もわからないから深い対話はできないしまして真剣な対話は不可能だとなる
だから自分の場合一方的に書いているだけだとなっている

でも引用するときは相手のことがわかるから引用する、その人の主張がわかるから引用する、それは短文でもわかるのである、そのために結構私自身は他人のプログでもニュースの解説でも引用しているのであi

2021年10月05日

隼(はやぶさ)が鷺を襲う写真


隼(はやぶさ)が鷺を襲う写真

hayabusa2222.jpg

hayabusa1.jpg

隼は大きい鳥なのか、ここでは大きく見える

食性は動物食の猛禽類で、主にスズメやハト、ムクドリ、ヒヨドリなどの体重1.8キログラム以下の鳥類を食べる[3]。獲物は飛翔しながら後肢で捕えたり、水面に叩きつけて捕える

これはノスリだと思ったが違う、ノスリは常に見かける
ノスリはネズミを食べている、この辺の田畑が荒地になったときネズミが増えたからノスリも増えたのである
これは胸の模様などが特徴があり違っている
隼はなかなか見れないだろう
たまたま深野の方に行ったら近くで見たのである
なかなかこんな光景には合わないだろう

だから常時カメラが必要になる
これがすぐ近くであり隼は逃げなかった、餌としてとらえたので逃げなかったのか?
鳥はすぐ逃げるから写真がとりにくいのである
自然にもドラマがありそれがこんな近くでも見れたのは意外だった

こういうときは自転車がいいのである、車だとわからないからだ
ただこの年になっても隼を見たことがないからこれは貴重な写真である

2021年10月06日

原発事故における理系と文系の問題 (総合的な知が必要でありそれは不可能だった)


原発事故における理系と文系の問題

(総合的な知が必要でありそれは不可能だった)




だから日本にとって必要なのは分業化でなく「協業化」なんだよ。
お互いの仕事を知ろうとしないとってこと。
分業なら昭和時代からガチガチにやってるから。
昭和時代でそれで済んだのは、ものが少なかったからどんなものでも売れたからにすぎんよ。

建国以来できなかった民族がこれからできるようになると期待するのが間違っている
日本の国民性は多様性の一つと諦めて、技術を伸ばしたい人は日本を捨てるのが近道

実は問題の本質は日本人の気質にある

業務にしろ技術にしろ、物事を俯瞰して扱える人間がすべての業種・職種で極めて少ない神経質で目先のことに夢中になる人間は腐るほどいる
そして近視眼すぎて自身の能力も自覚できていないから簡単に自惚れる
数学って基本的に人文科学であって、敢えて言うなら『文系』学問なんだけど
記事みたいなことを本気で言ってる日本社会の時点で、海外から笑われるような現状ってのがわかってない

情報系は理系ではないと思うんだが。もちろん文系でもないが。
機械や電気が出来るかとプログラムが書けるのかは全く別の能力

文系が悪いってか日本人の理系技術者は経営的才能がある人がほとんどいないって事なんだよ
アメリカだとプログラマがそのまま経営者になって大企業にまで成長させてる
マイクロソフトやフェイスブックだってそうじゃん
そういう意味では理系の人が無能だったというだけでしかないな
自分も理系だからよくわかる

文系がという書き方をしたけど
技術ってのは最終的に手先の器用さだけが重視されるのではなく
それがもたらす影響とかも考慮する必要があるわけ

それって何よって話になると哲学に行き着くわけ
なんでコレはここにあるんだろうとか別な場所にコレがあったら良いかもなって発想は哲学的発想の領域になる
今は文系に寄りすぎて変なことになってるけど理系ばっかりもダメなわけ



原発のことで追求して来たけどこれほど総合的知が要求されるものはなかった
私は文系だからほとんど原発のことがわからなかった
ただ事故が否応なく原子力のこと核のことなどを理解することが求められたのである
まず原発事故ではもう専門家でも吉田所長ですら原発の肝心なことを理解してなかった
この人は相当な優秀な人だった、でも復水器のことを知らないと言っていたのである
私は素材部門だからですとか言っていた
その復水器とは事故になったとき対応する重要なものだったのである
でもそれすら知らなかったのである、トップの人が知らないとしたら事故に対応できないのである
事故になった時、実際は全くお手あげになっていた、どうしていいかわからなくなっていた、それで放射線量を計るスピーディをあっても最初に連絡したのは日本政府ではない
アメリカだったのである、アメリカに頼りアメリカの支持を仰いでいたのである

日本人では何もできない!

それでこんな危険なものを作っていたのだから余りにもずさんだったのである
それで日本がの技術は優秀だから事故にはならないと吹聴していたのだからあきれるとなる、原発内で働いていたのはほとんど理系である、理系の技術者である
そこに素人の文系の人など立ち入ることもできない、政治的には原子力村を作り文系の人は官僚でも政治家でも地元の人でもその理系の技術者の下で恩恵を受けていたとなる
実質に力をもっていたのは理系の技術者である
ただ社長とか幹部は文系の人だった、その社長はコスト削減で成果を上げた文系の社長だった、その人は原子力の技術のことなどわからないのである
でも経営するトップは文系の人達だったとなる、だから事故が起きた時何か起きたのか理解できないし対処もできなかったとなる
会社を経営するとして今でも経営者は社長とか文系になっている

一方で理系の問題もある、理系の人は機械マニアとかなり社会全体のことを関係なくマニアとなり没頭する、だからこそそういう人は機械に通じて重要な役割を持つとなる
ただ何かそこに偏ったものが生まれることは確かである
でも別にもし経営者ではなくただ機械マニアとしてそこで励んでいれば問題はないのである
でも何か経営となると別な問題が生まれて来る
原発というのはこれを作る前に原発は安全なのか安全を維持して操作できるのかとかが問題になっていた、でもそのことはあまり追及されなかった
文系の人達は素人は専門家の言いなりになる、核のことを専門用語で言われれば何も言えないからである

専門家が安全だといえば安全になる

こういうことしかなかったのである、だから原発内に立ち入ることもできないし疑問をぶつけることもできない、マスコミには電事連をふくめて800億円とかの金が流れていたそれは全マスコミにその金は流れていた
創価の潮とか関係の雑誌にも流れていた、原発は安全だとしてその金を得ていたのである創価などはただ何でも御利益になれば食いつく、頭にそれしかないし毎日一票のために
利権と御利益を得るために祈っているだけだからである
そして福島民報は県で50パーセント出資して聖教新聞を刷っているのだからもう原発に関しては何も言えない、だから原発は土地の所有者がいて県が許可できれば建てられたとなっていたのである、これほど危険なものがそんなことで決められていたのである
何か不思議なのは双葉町辺りで創価の会館があった、廃墟の街にあった
それも何なのだろうと見た

原発はとにかく国で決めた国策なのだからこれに逆らえないのである、理系の技術者はそれに従うほかない、例えば北朝鮮でミサイルを打つ、それを作るのは理系の技術者であるでもそれを命令するのは文系の政治家だともなる
そこで理系の技術者が疑問になり嫌だと拒否したらその国で生きることもできない
これは原爆を落とした後にそれにかかわった理系の技術者がアイシュタインなどが反省したのである、それが大量殺戮に使われたことで反省したのである

つまりそもそも核というものから核兵器が生まれた、それは空恐ろしいものだったのである
するとそんな危険なものを使用していいのか、それを発明した人は悪魔だったともなるのである
ただ科学技術というのはそれ自体危険かどうかとか関係なく開発がすすめられる
だから遺伝子操作した食糧でも今は作られ売られている、そこにも危険が指摘されているワクチンでも遺伝子操作しているから危険だという人もいる
科学技術には何かそうした危険性が常につきまとっていたのである
だからゼウスから火を盗んだプロメテウスは過酷な罰を受けたのである
そういうことが核にも言えることだったのである
プルトニウムの毒が二万年消えないとういのもそうである、それだけ恐ろしいものとしてあった

すると原発はそもそも必要なものだったのか?

ここから発想する必要があったのだ、それは理系と文系の相違だともなる
理系は核のことを研究する、それが社会にどう影響するかは考えないのである
その機械が大量殺戮兵器でもかまわない、それが社会にどう影響するかなど考えない
機械のことしか核のことしか考えないからである
そこに理系と文系の根本的が相違があったのかもしれない

電気関係の優秀な技術者が会社を経営するようになった、でもその人が会社を経営する動機はただ自分が技術者として優秀だから金を持っている都会の人から金を得るためだと言っていた、経営の動機がそれだけだったのである
ただ何か技術者と経営となるとそれがまた別なことになる
その人はコンピュターに詳しくその方面でも独自にサイバーのようなものを作っていた
でもその人がなぜ事業に失敗したのか?

その動機が余りにも社会というのもを考慮しないものであった
技術的に優れているから自分の優秀さを社会に見せてやるとかが動機だったのである
だからこれは一身上のことになるがその人はまず他者を助けるとか他者のためになるとかは全く考えない、それが自分自身介護とか病気になったとき苦しんでいる時でも商売のことを考えていた、借金していたから余計に借金を払うために自分に要求したのである
その人の問題はモラル的なものであった、技術だけではない、経営となりモラルが関係していたのである

その人は経営者としては会社を経営する資格がなっかたのである
ただ人に使われていれば問題なかったのである
だから文系理系で理系は文系に使われるだけだとか不満を言うがこういうこともあるのである、また東大出の理系の鳩山首相でも何か宇宙人だとか変なものになっていた
政治家とは国家を運営する者であり機械マニアとか技術だけが優秀ではできないのである
ただ原発でも新潟の巻町では町民全員で相談して作ることをやめた

これは本当に例外的である、原発はいくら国策でも一地域で町で拒否できたのである
でもこれは例外でありあとは原発は拒否されていないのである

それって何よって話になると哲学に行き着くわけ
なんでコレはここにあるんだろうとか別な場所にコレがあったら良いかもなって発想は哲学的発想の領域になる
今は文系に寄りすぎて変なことになってるけど理系ばっかりもダメなわけ

原発は理系の技術者だけでは処理できないものだった
それがそもそも必要なものがどうかということから哲学的な問題としてもあった
例えばオリッピックでもする意味があるのかどうか問われた
今になるとオリッピックをする意味が失われていたからである
結局一部のオリッピック特権者の利益のために行われていたことが判明したからである
JOC会長はぼったくり会長と世界から批判されたからである
二百万の部屋のホテルに泊まるとかまるで国賓並みであり国王を招待すると同じだったからである

いづれにしろ原発を考える時、郷土史などこれも一部のマニアのもので理系的技術とは関係ないものと見ていた、でも津波のことなど実際はその記録もあり関係していた
そもそも郷土史とかなると実は郷土全体をみるのだからあらゆることが関係していたのである、総合的に観ることだったのである
なぜアメリカでは原発が東側に主に作られていたかというと地震がないからでありまた
竜巻があり竜巻を防ぐために地下に電源を設置していたのである
日本では地震が多いのだから海岸に作れば津波も来る、そういうことを考慮しなかった
それでも科学者集団が津波が来るとして警告していたのである
それもかなり早い時期に来るとしていたが東電では無視したのである
それは金がかかるから防潮堤を作らなかったのである、今になると作ったのであり作れないことはなかったのである
また高い場所に作ったのにわざわざ削って低くして電源を地下をにもってきた
でも津波でやられて使えなくなった、そしてメルトダウンになってしまったのである

これは理系の技術者のミスでもあった、一方でコストダウンばかりを考えていた文系の社長の問題もあった、こうして理系文系にかかわらず原発は総合的な問題としてあったのである

業務にしろ技術にしろ、物事を俯瞰して扱える人間がすべての業種・職種で極めて少ない神経質で目先のことに夢中になる人間は腐るほどいる
そして近視眼すぎて自身の能力も自覚できていないから簡単に自惚れる

俯瞰的総合的に観ることが大事にしてもそれは一個の人間の能力を越えたものだったのである、つまり原発は人間にとって操作不可能なものでもあったのだ
核もそうである、人間の能力の限界が露呈する、それで人類が破滅するような代物だったのである
そうなれば別な安全な技術を開発したりまた多少貧乏でもやむをえないという選択もありえたのである
そもそも結局原発は人間が操作する能力を超えたものだからである
もし全能の神だったからできるがそうでないからできないのである
私自身にしても郷土史とか郷土のことを学問にしても全部のことなどわからない
理系的視野が欠けていたり狭い郷土でも全部を知ることなどできないからである
そこに人間の限界があり必然的に事故になり大惨事となり故郷に住めなくなり修復不可能となってしまったのである

人間には限界がある

限界を心得よ

全能なるは神しかいない

科学技術も災いがもたらされる

全能ならざるがゆえに・・・

やはり人間の限界を知らないと大惨事になる、技(わざ)はわざわいに通じているのだ
ただ科学技術でもそれが良いものとして便利なものとして追求してゆくと災い(わざわい)がもたらされる、それを原発事故でも原爆でも示したのである
他にも科学技術は全部いいものとして作用しないのである
必ず人間のすることにはいい面と悪い面が生まれる、そして今回のような大事故になりとりかえしし、かないものともなる
それは結局人間の奢りに対しても罰なのである、過酷なる罰だったのである

事業の経営で失敗した人もまた日本の戦争でも負けたのは奢りからでもあった
あることに人間は優秀だとして技術的にはそうでも経営ではまた別でありそれで失敗したのである
人間には何か常に奢りが生まれる、それが一番危険なのである
日本が技術的に優秀だから事故が起こらないとか言われたのもそうである
原発安全神話は全く科学的根拠もなにもない権力者が人をだますために作られていたのである、それを作ったのは文系でもあり理系でもある
配管など老朽化して危険だとすでに警告していた、それも東電では取り合わなかった
その幹部が取り合わなかった、だから幹部の責任は重くても誰一人責任をとらなかった
ある意味で死刑になってもいいくらいの責任があったのである
その責任をあまりにも軽く見ていたのである

第一原発は東京に作るのが筋だったのである、それほど安全なら東京に作った方がコストでもかからないからである
なぜわざわざ福島に作ったのか?そのことがペテンだったのである
これだけの被害があったのだからその責任も重いとしても誰もとらないのである
ただ地元の人は故郷に住めなくなったという責任をとらされた、それも避難区域になった所は距離に比例して責任があったからである、ただ飯館村はそうではなかったから同情されることはわかる、でも今になるとやはり南相馬市に放射性物質が流れて来るとか広域的に避難してかかわるのだから事故後はやはり責任が押し付けられたとはなる
それで飯館村の村会議員選挙で村の者以外のよそ者はかかわるなというのはありえないことである、南相馬市はよそ者ではないのである
飯館村は今や議員になるとても利権の場のようになった、補償金を得るための利権の場のようになったのである、昔のまでいな村とかはない、それは飯館村の人の責任ではないにしろやはり現実に責任をもたされたとはなる
posted by 老鶯 at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

飯館村の村議会選挙の問題(2) (よそ者は関係ないから邪魔だ、かかわるなで考えた民主主義)


飯館村の村議会選挙の問題(2)

(よそ者は関係ないから邪魔だ、かかわるなで考えた民主主義)

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民主主義の根幹は選挙である、誰でも一票を持っていることである
その一票を持つことの意義が理解できなかった
でも飯館村に行ったとき村議会選挙でよそ者はかかわるなとか邪魔だ、目障りだと言われたことで自分はこの村について何の権利もない、何も言えないのだと実感した
制度上は飯館村は飯館村の人でないと選挙権を持てないのである
こうした村議会では6000人くらいしか人口がないのだから一票にも重みが出て来る
だから一人一人に票を得るためにあたるのである

ところが南相馬市とは飯館村は地理的一体である、新田川は飯館村の中心を流れている
真野川も鹿島区に流れて来る、それで放射性物質の検査を環境庁の人が常にしていたのである
また放射性物質のフレコンバックが破れて流れ出したのである
それは確実に南相馬市にも流れてくるのである
それで隣の川俣町で風力発電の風車を山に作ったら景観が乱されると抗議があったのである、つまり飯館村だけのものとして何でもやれないのである
隣の自治体があり迷惑だともされるからである

ともかく飯館村は南相馬市と合併しなかった、でもそれが原発事故以後補償金を飯館村だけでもらうようになったから億の金をもらった人もいる、飯館村は被害が大きいから補償金も大きくなった
それはいいとしてただ飯館村の問題はもはや飯館村だけの問題ではなくなっている
特に南相馬氏とは地理的に一体であり放射性物質の処理で深くかかわっているからだ
今になると飯館村は広域社会となったとき自分たちは合併しないというのは地域エゴだったかもしれない、現代どうしても広域化グロ−バル化した世界だから互いに関係が生まれて分離できないからである
江戸時代なら自給自足でそれぞれぞれの飯館村だけではない、狭い地区単位で自給自足していたからかかわらないでも生活できていたのかもしれない
それで大倉村と佐須村が民情が違うとして明治以降合併しなかったのである
そんな小さな村でもそうだったのである

でも相馬藩内であり飯館村が飢饉の時相馬藩内では支援したのである
飯館村は実際は相馬藩内として役人もいたし特に塩役人が多くいたのである
飯樋村に塩役所があり60人も働いていた、塩の道を通り松川浦から運ばれていたからだ
そういうふうに飯館村は歴史でも地理でも一体化した地域である
川俣町も地理的に隣だが歴史的には別なのである
飯館村は鎌倉時代でも鹿島区の岩松氏の所領でもあったから歴史的にも一体なのである

そして不思議なのはこの原発事故は相馬藩内で一番被害があったことである
大熊とか双葉でも相馬藩内だったからである、すると相馬藩全体として見ることにもなる地理的に歴史的にも見ることになる、だからこそ飯館村がその全体の一部としてあり俺たちは俺たちだとか合併しないというのは地域エゴだったともなる
そして現実にもう飯館村に住んでいる人は三割くらいだという、それもほとんど老人なのである、子供は放射線の被害があるから住んでいない、外から通っているのである
学校も何十億とかかけて施設も立派にしたが生徒はわずかしかいないのである

だからそもそもこういう村が成り立つのか?

それが疑問なのである、ただ原発事故以後は補償金をもらう場所であり多額の利権の場所になったように見える、村議会員選挙でもそうした利権狙いかもしれない
議員となっていれば利権を得やすいからである、実際議員に立候補した人でも住んでいないかもしれないからである
つまえそこは住む場所ではなく利権を得る場所になったようにも見える

それは他の原発避難民も同じなのである、近くに浪江の復興住宅かある
でも南相馬市の市民とはなっていない、一票は持っていないのである
だから市政に対して文句や要望を言うこともはばかれる、そもそも一票がないから議員だってその人達をよそ者と見てしまうからである
それは飯館村で自分に成されたことと同じなのである
それで鹿島区の仮設住宅に入っていた小高の人達に鹿島区の議員がかかわり親切にしていた、それは小高の人は合併して南相馬市民であり一票をもっているからそうしたのである別に南相馬市民だったら南相馬市内に住んでいれば一票の権利を持っている
狭い範囲だと一票の重みがあると思った

それで浪江町民は今でも南相馬市民ではない、他でも依然として原発避難民は元の町であれ村であれそこの行政に属していて時々役所の人が回ってくるのである
ただ県でもかかわっていて県の役人の人が回っていた
復興団地とか住宅は県で建てたからである、ここに県という大きな行政としてかかわっていた、県も予算が大きいから金を出すから自治体に対して力をもっている
ただ県会議員とかなると直接かかわる度合いが低いから一票の重さも感じられないのである

何かこの原発事故とか津浪ではいろいろなこさとを考えさせられた
それは科学技術のことか政治のことからマスコミとか報道のこととかあらゆることとかかわっていたのである、それは総合的な問題であり科学技術だけの問題ではなかったのである
ただ広域社会になったとき飯館村のように小さい村だけではとても成り立たない
それは地域エゴになっていた、おらが村がいいければ良いということだけでは成立たない実際にその周辺に南相馬市でも飯館村の人が住んでいたりしているからだ
不思議なのは飯館村の周辺に住んでいる人達に対して私が言われたようなことをここは俺たちの村だからかかわるな、邪魔だと言われたらどう感じるのか
自分が感じたこと同じことを感じるだろう
ただ江戸時代でも村同士で水争いとかで争い木材利用の入会権とかで戦国時代にもなったとされている、だから必ず村同士でも利害が対立して争うことがある
それは人間が存在したとから動物の縄張り争いのようなものがあったからさけられないともなる

いづれにしろ狭い範囲だと民主主義が身近なものになる、国政選挙とかなる百万単位の票でありどうせ一票などなんの影響もないとなり投票もしないともなる
でも身近な問題になると関心があり今回のように故郷に住めなくなるとかなり住んでいるだけで重い責任があることを自覚したのである
そもそも民主主義とはギリシャのポリスから始まったのでありそれは一万足らずの規模であり狭い範囲で行われていたのである
だから直接選挙であり身近なものとなっていた、一票が重いものとしてあったのだ
それで規模があまり大きくなると成り立たなくなる
現代では規模が何百倍以上になっているから成り立たなくなっているともなる

とにかく酷な言い方をすると

原発避難民は故郷にもどり住め、住まない人はその土地であれ権利を放棄しろ
そして別な自治体民になれ、どうせ戻らないのだから

ただ補償金を得るためには元の町村に籍を置かねばならないとかなる
でも自分が飯館村の議員の運動員に言われたようによそ者は選挙の邪魔だからかかわるなうざいから消えろとまでなる

何かこれは今世界で難民があふれているけどそれと多少似ている、原発事故の避難民もやはり 難民だからである
でも避難民はここは俺たちの国であり入ってくるなとなる
数が多いので引き受けることもできないからである
要するに人間の権利と何なのか、市町村であれそこに属して権利が生まれる
でも国籍とかない、市町村にも属しないとすると権利もないとなる
そして難民となって他国に住む権利などもともとないのである
ただ人道的に引き受けるとして限度がある
つまりそうして難民化した人達にも責任がありそれを自分たちで負うべきだともなる

何かこうして市町村でもそこに住むことだけでも責任が課せられていたのである
自分たちの国は市町村は自分たちで守れとかなっていたのである
原発事故は実際はその一地域だけの問題ではない、周辺を広範囲にまきこむものだから
そんな一地域で決められるものでもなかったのである
環境問題になると世界とかかわる、そのためにトリチウムを海に流すなと世界から言われるのである

だからこうして事故後は故郷に住めないとか責任を地元の人達はとらされた
故にそのことを深く考えて原発の是非を決めるものだったが一土地の所有者とか地元で金になるかとかで簡単に決められたのである
是非論があるにてもほとんど議論などされなかったのである
それはみんな金になるから利益になるからとして引き受けたからである
そういうことがあってもやはりせめてみんなで真剣に議論すべきだったとはなる
そういうことで新潟県の巻町が原発を町民の話し合いで決めたということは稀有のことだったのである
posted by 老鶯 at 19:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年10月08日

洞窟暮らしの流行 (文明の生活に疲れた現代人は生物的本能に目覚める―時代による時間感覚の相違)


洞窟暮らしの流行

(文明の生活に疲れた現代人は生物的本能に目覚める―時代による時間感覚の相違)

 元来、急ぐのが苦手で、冬でもシエスタ(午睡)をし、午後はほとんど働かないこの国の人たちにとって、スピード、効率、便利さといった、生産性を最優先する生き方に、多くの者が疲れている。


「洞窟暮らし」を求める欧米人が、近年増えているのはなぜか

コロナウィルスで巣籠り生活になった、それは洞窟暮らしと似てもいる
洞窟は外の世界を遮断してシャカとか瞑想した、そういうことは禅宗にあった
だから私は禅宗にひかれる、座禅とかそれをしてきたのが引きこもりの自分だったからである
どうしても人付き合いが苦手でそうなった、そうして30年間も家にいたのが自分だったからである、そして異常化したことは確かである
だからこういう生活がすべていいとはならないのである

ただ人間というのは生物なのであり生物の本能がある、これから逃れられない、いくら文明的生活をしていても深い内面で生物の本能が働く、動物はどうしても危険から逃れるために洞窟とかに隠れる、そこで安心するのである
安心して眠れるとなる、そういう生物としての本能は人間にもあるからだ

別に洞窟に入らなくても家という機能は洞窟のようになっている
四方を壁で区切り外を遮断してそこで安心をえて一人の時間を得る
外との交流を断ち一人の時間で安らぐとなる、家は洞窟の一種なのである
こういう傾向が世界的に出てきているのは文明生活に疲れているということである
夜さえ煌々と電気で明るい世界も生物的にはありえないしそこで夜の休息がなくなる
「眠らない都市」というのがそうである
やはり夜には夜の世界がありそこで人間は昼の明るい世界から沈思黙考する夜の世界に入る、夜は想像力を自ずとかきたてる、だから詩とかの創作にいいのである

おそらく文明的生活ももう限界にきていた、大衆的群衆的生活に人は疲れる
機械的数字的効率的生活に疲れる、そういうとき洞窟に籠もり外の世界と遮断した所で
安らぎを得る、安心を得る、田舎自体が実は都会から離れて喧噪から離れた世界であり
生物的には安らぎを得る世界である、ただ田舎の人間が素朴とか今はなっていない
農業とか従事するのが一割にも満たない田舎でもみんな会社員だからである
ただ田舎は生物的には本能的には安らぐ世界である
一種の文明から隔離された世界である、洞窟も隔離された世界である
何かそういう場所に魅力を感じるのは文明的世界に疲れているということである

私はもともとそうして田舎で自然と一体化するアイディンティティすることをしてきた
それを詩にしたりしていたのである、山とか石と木とかと一体化することをしてきた
山とか石と岩と木となると常に感じるのは時間の感覚が違う、文明は絶えず時計によりせかされ計られて休みがない、でも自然の時間の感覚は実際はとてつもなく長い
千年単位とかで長い、悠久の世界である
この悠久の自然と一体化すると長い時間が必要なのである、とても即製的に理解できるものではないのである
ただ文明的時間は短すぎる、今の時間に瞬間的時間に費やされて終わる
時間の感覚が短いゆえに今の時に瞬間にでも消耗されるし刹那的になる

生態系というか植物的時間でも長い、木の成長に50年かかるとかになるも長い
そうなると一代では木が成長できないから次の代で利用するとなる
その果実は次の代まで待たねばならない、何か野菜とかでも必ずすぐに成長しないのである,二十日大根とか四十日大根とかあり種を蒔いてもすぐに成長しない
必ず待つ時間がある、文明人はこの待つ時間が無駄な時間とする
だからとても50年もかかり木の成長を見る育てるということはもう時間としては計れない時間になる
時間の感覚は江戸時代とかと明治でも大正でも昭和でも感覚的に違っている
江戸時代の時間は一分ごとに区分して計るような時間ではない、おおざっぱである

江戸時代に於ける時刻制度には、不定時法が使われていました。不定時法とは、一日を夜明けと日暮れを基準にして昼と夜に分けてそれぞれ6等分し、その長さを一刻(いっとき)と呼んでいました。一日のうちでも昼と夜の一刻の長さは異なり、


おおざっぱな時間であり日の入りと日没が基本だから時計になっていたのは太陽だともなる
そうなると何時から何時までとかきっかりと働く時間が決まっていたともならない
時間感覚でも適当になる、現代だったら電車とか乗るのに一分でも遅れると乗り遅れるとかなるのとは違う悠長なのである
現代では待つ時間が失われている、電車だと今でも必ず待つ時間がある
その待つ時間が人間的なものを作りだしていたのである
人が来るのを待つとか人を見送る時間とか駅で出会い別れを惜しむ時間があった
だから汽車とか電車の時代は駅は人間的な場所だったのである
必ず待つ時間があったからである
それより戦後まもなくは家でも柱時計でありこの時間感覚も今とは違ってかなり遅く感じられる時間だったのである、チクタクチクタクという機械の音であれ何かその時間間隔は遅いのである

冬に外に風が唸り吹く
粗末な家の柱時計
振り子にチクタク機械が刻む音
その音だけがひびいて
時を打つ機械の音がひびく
ボーンボーンと心の底にひびく
何時なのか何回鳴ったか確認する
そして田舎の家は眠りにつく
その頃車も通らない
田舎の道は舗装されず
貧弱な街灯がともっていた
家には裸電球一つしかなかった

ここに柱時計の音と時を打つ音が聞ける

この時はまだ機械でも人間的だったと思う、デジタルになると時間の感覚が数字てあり違ってくる,アナログの時間は砂時計とかあり時間の感覚が遅いのである
現代はともかく時間に追われるのである、それも一秒間隔にもなる
だからみんな疲れるのである、江戸時代に外国人が日本人がいい顔しているというとき
それは時代が作りだしていたのである、日本人がみんな別に善人でもなかった
ただ今のように不正する人は少なかった、貧乏でも少なかった
今は銀行でも会社でも何か不正する、金に追われている、そういう時代の相違があり
江戸時代の人達はのんびりしていてそういう顔になっていたのである

もとは1923年(大正12年)4月29日から『報知新聞』の「日曜漫画」欄[2]で不定期に連載されていた『呑気なとうさん』という題名の8コマ漫画(同年5月27日号から『のんきな父さん』と題名を改め、同年の10月28日号から6コマ漫画へと変更した

こんなものがでるのも時代だったのである、今のとうさんはみんなうつ病的になりみんな時間であれ金であれ追われている、だから人間の幸不幸は簡単に計れないのだ
何か現代生活は科学技術で進歩したからいいとなるがそれで幸福になったかというとまた失われものがある、ただ昔がすべてはいいとはならない、でもでは昔がすべて不幸だったともならないのである

いづれにしろ老人になると回顧することが仕事になる、子供の頃は特に戦前から江戸時代のつづきでありこの経験は貴重だった、竈があり炭が燃料であった、街でも炭を使い囲炉裏だったのである、これもだから振りかえると不思議になる
その時水道もなく近くの井戸水をもらって暮らしていたのである
今は貧乏になったとき毎月電気水道ガス、携帯が必要でありそれを払えない人がいる
今の貧乏はここでわかる、でも戦後十年だったら糞尿は農家の人が肥料としてもっていったしそういうものにかからなかったのである

今日本が貧乏になるときそういう暮らしがあったこともふりかえるのにはいい
そもそも今や日本ではそういう文明的な生活すらできないような人が増えているからだ
すると電気や水道やガスがなくても人間は暮らせていたということをふりかえる
実際は電気水道ガスとか使っているのはここ五十年くらいでありその前はみんな炭が燃料であり水道もガスもないのである、現代文明生活は日本だったら50、60年くらいのなのである、だから別に電気ガス水道がなくても人間は死なないし暮らせるのである
でも今は電気水道ガス水道を止められると死ぬことにもなる
水がなくては生きられないし電気でもガスがないと生きられないからである

電気にしてもどうして作られているかというと原始的なものである
石炭とか石油を燃やすことで電気が作られるからだ、それは化石燃料に頼っている
ただ原発はそうしたものと違って電気を作りだしていた
燃料としたら炭は木材から作るから持続的なものとてサスティブルなものとして使える
枯渇することがないからである、絶えず植林していけばそうである
ただ文明が栄えると森も喪失した場所が多い、かつて森であったところが砂漠化したのが中央アジアなどの砂漠地帯だとされているからだ
電気水道ガスとか文明の根幹を成す、これがなくなれば文明は持続できない
それで中国とかで石炭がなくて大停電になったとかなり文明機能が麻痺するのである
日本の戦争も石油を断たれた経済封鎖から起ったとされるのも燃料が生命線になる
後は水なのである
そのために三陸だったか津波被害で裏山で清水をくみ裏の山の木を燃料にして命をつないだというのがそうである
つまり原始的生活ができれば実は人間は持続的に貧乏でも生きられるということなのである、一応電気がなくても生きてきたのが人間なのである

いづれにしろ20世紀とかグロ−バル経済に工業化した結果として地球的環境問題にもなり地球は限界がきた、このままでは地球の生態系は破壊され生きられなくなるとかにもなるコロナウィルスでも何かそういう人間の警告として生まれたのかもしれない
すでにアフリカでも人口は増えないとなり地球人口は限界に来たからこれ以上の経済成長はグロ−バル経済でも望めないのである
それで資本主義というシステムも限界に来ているのである
資本主義には大航海時代とかアメリカ大陸の移民とか大規模なフロンティアが必要なのである、しかしもうそれもなくなった、だからグロ−バル経済も資本主義も成り立たなくなってきた、もう経済成長は望めないのである

そしたらそれに適した社会に変えるほかないということである
ただそれで人間が滅びることはありえないのである、なぜならこんなにエネルギーを消費しているのはここ百年くらいだからである
文明が滅びるのは文明的生活が拡大増長して滅びるとなる
食糧が全くとれなくなったりはしないからである
文明は滅びても人間は地球の生態系が維持されていれば滅びないのである
神が滅ぼさない限り滅びないのである
するとそういうことより神が人間はことごとくその心が悪に充ちているからとノワの洪水のようにして滅ぼされる方が怖いともなるのである
地球を滅ぼすことができるのは人間ではなく神だともなるからだ
そういうふうに考える人はまれである、科学的なものとして考えるからである
ただ科学を越えた所に全能の神がいることも肝に命じねばならないのである

千年の大木

大地に深く根を張り動かざれ
千年の大木のごとく
内に年輪を刻みて長く
内に力の充つるもの
自然は焦ることはない
千年黙して動かざれ
大岩の如くに黙して
汝は成さずしてただ待て
かくてあれば自ずと
神の御意なる世界は顕れる
かくあればその周りに花々は咲き満ち
神がパラダイスを作りたもう
そこに忌まわしきものは消えて
天使の遊ぶ庭ともなれ
千年の大木のごとくあれ
悠久の時を刻みて
千年の大木のごとく倒れむ
その後百年の余韻は残らむ
森の主のごとく倒れむ
大きく深く息をして
悠久の時に生きむ
汝はこの世とかかわるな
世はいつまでも世なり
その様は変わらず
カルマは延々と繰り返す
賢者は洞窟に隠れ住むが習い
不浄を拒み一人楽しむ
実りは百年後にあらむ
実りをあせるなかれ
今にのみ消尽されるなかれ
宇宙の地球の時間を知れ
その悠久の時に事は成るべし
posted by 老鶯 at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層