2021年09月13日

家族遺棄社会 (親が子を捨てる、子が親を捨てる)


家族遺棄社会

(親が子を捨てる、子が親を捨てる)

孤独死の現場が凄惨なら、子に捨てられた親の末期も残酷だ。業者は姥捨ての尻拭いだと言う。子の薄情さを責めたくなる。だが菅野氏の筆は親を捨てた子たちの告白に及ぶ。読めば多くの読者は子に同情する。自分であってもそうすると思うだろう。親の末期も悲惨なら、生前の親との生活は増して凄惨だ。

 暴力的虐待は少ない。単に孤独死しかねない親なのだ。借金で蒸発した父と、身を持ち崩した恥晒しの母。子には親の愛の記憶はない。家出した母と、帰宅しない父。幼稚園から弁当を自分で作った。子には親の愛の記憶はない。そんな親でも死にかけたり孤独死すると行政や世間から何とかしろと責められる。

家族遺棄社会というとき老人が遺棄されるのが増えることは確実である
その女性は実の子どもでそれなりの生活をしていても同じ町内に住んでも顔を合わせてもあいさつもしないという、なぜそうなったのかわからない
その母親は常に金に困っているしまた体も悪い、でもかかわらなのである
どういう事情でそうなったのかわからない

もう一人は近くで最近妻が死んだ、夫婦で息子夫婦と同居していても食事でも何でも別々に暮らしていた、だから同居していてもかかわらなかったのである
それで妻が死んだ時、夫は病気持ちであり家の人が何もしてくれないという
ゴミなげをしてくれないという、心臓に機械をつけている、だから何するにも苦しい面はある、でも家の人が何もしてくれない、私が介護などしない方がいいと言ったのは重い介護で寝たきりとかなったらのことである
そういう重い介護は本当に他のことが何もできなくなる、介護が仕事になる
すると若い時すべきこともできなくなるのである

もちろん介護でも学ぶべきことはある、だからなんてすべて悪いようには働かない、でも何か青春の貴重な時間を奪われるとみるからだ
ヤングケアラーは過酷だと見た
叔父にあたる人がガンになり手術するとき輸血を頼まれた、その時自分は断った
なぜなか、その時登山をして体力がないから死ぬほど疲れていたからである
ただふりかえると登山したことは貴重な経験だった、登山は自分には体力がないので厳しくてできなくなったからである
何でも常にできるとはならない、過酷なことは若い時しかできないからだ

とにかく自分は今になると自転車でも自由に行けない、疲れるのと熱中症になりやすいから夏は行けない、でも夏だと本当は運動に向いている、でもできなくなった
つまり何でもいつでもできるとはならない、海外旅行もできなくなった
それは相当に疲れるからである、精神的にも言葉がわからないのだから疲れる
それで50からバックパッカーをしたのが良かったのである
その後60から介護になり十年すぎたから海外旅行もできなくなったからだ
これだけ時間が与えられた自分でもやれることはわずかだったからである
何かをやろうとしてもやれなくなる、退職したらいろいろやろうとしてもできなくなることがある
そういうことでた若い時から介護したりすることが何か有益になるかという疑問になるのだ
まずそうさせられた人は後で親でも祖父母でも恨むとなるかもしれない、貴重な若い時の時間を奪われたとか気づくからである

家族遺棄社会というとき特に老人は捨てられる、ただ老人でもみんな違っている
家族での立場もみんな違っているから一様ではない
でもどうしても親とか祖父母の介護とかなると過重になり捨てるともなる
もともと親でもありきたりの飯を食わせるだけとかのことをしても子供でも感謝はしないからだ
よほど特別のことをしないかぎり親も思わないのである
かえって親に苦しめられたと恨まれるのも多いのである
私の場合は本当に特殊な家族で特別良くされたから親に感謝しているのである
二人親がいたとして60まで食事の用意とか何でもしてくれたからである
あなたは何でもしたいことをしなさいということだったのである
それは特殊な事情でそうなっていたのである
だからそれくらいのことをしたら親に自ずと感謝する
そのために認知症になっても必死になって介護したのである

近くの人は一人は遊び人のようなことしかしていない人生だった、だから老人になると何をしてきたかが問われるカルマになる
家族にどれだけ貢献したかとか問われる、毒親とかなっていたら介護などそもそも子供でもしないとなるからだ、そして捨てられるともなる
ただ金持ちの親でも実は子供は自分で介護したり世話しない、金があるから介護施設に入れるだけだともなる、だからなかなか親を介護したりる動機がある子供が少ないから
親は恨み節になる、もともとそういう人が多いのである
要するに当たり前の育て方とか子供にしても子供は感謝などしないとなる
でも親にしてもなかなかそうして子供に尽くすことができないのである
自分は特別親に恵まれたのである、ただその負の面もあった、死んでしまうと独りぼっちになってしまったからである、それも問題だった
でも自分は親を特別今でも感謝して思っているのである
ただこういうふうになるは少ないと思う

ただこれだけ老人が増えると家族遺棄社会になりそれが当たり前になるかもしれない
なにしろ老人だらけの社会になるからだ、その老人のために国がつぶれるという感覚にもなるからだ、若い人からみれば老人は負担になるだけだともみる
実際に経済的にも労力もかかるから捨てるというのが普通になる
そのために家族遺棄社会になる、これも老人のカルマだからどうしようもないともなる
でも問題は家族が親を遺棄しても誰かがめんどうみざるをえないともなる
それが福祉でめんとうみたりするほかないとなる、すると家族遺棄するのはいい
では誰かがそのめんどうをみる、そのことを家族遺棄する人は考えないのである

老人でも様々でありその生きざまも様々である、別に社会的に貢献しなくても家族に貢献して大事にされる人もいる、家族内の価値はまた別だからである
でも親のために苦労させらればかりいたとかなるととても親に感謝できないし介護となると苦しいから負担が大きすぎるからしないとなる、でも放っておくわけにもいかないから誰かが他人がめんどうみることになる、でもそのことを親を捨てる人は思わないのである不思議なのは今日食い物がないから何か食べ物をくれとか子供に頼んでもできないとなるのも非情だとなる、そして他人に恵んでもらうのもおかしいとなる
そうなると家族とは一体何なのだろうとなる
ただ現実にこれから親は捨てられ介護されないということが相当に多くなる
それも自業自得としてカルマとしてとらえるかその判断はむずかしい

ただ子供にしてもそれだけの金銭的余裕も労力もないとなる
生物は子孫のために親が犠牲となるのが普通である、それが親のために祖父母のために犠牲となるのは自然の原理に反しているともなる
そきんなことしていたら人間の社会でも歪んで衰退してしまうとなる
子供をもつこは子供の犠牲になることも強いられる
ただそういう親はまれである、何か親にはエゴがあり自分が子供を自慢したいとか自分の見栄とかエゴのために利用する、そのことで親に反発する人も多いのである
自分の場合母親が二人いてそういうことにならなかったのである
だから奇妙なことだったのである、もし一人だったらもう自分は何もできなくなっていたただ親のために働かされるだけだったとなる、実際に一人の親は親のために働かされて一生働き詰めだったからである
おそらく自分も中卒で働かされて大学なども行けなかったことは確かである
そうならなかったのは二人の母親がいて自分に尽くしてくれたからだつくづく思い感謝しているし介護も非力でもしたのである、そういう動機があったからできたのである

ともかく老人の価値というときそれぞれがどう生きたか問われる、ただ子供に苦労させただけであり親に苦しめられただけだったらとても介護などできないのだろう、どこまで迷惑かけるのだともなるからだ
ただ家族の事情はみんな違っているからわかりにくいから一様には言えないのである
やはり何かまともに生きないと老人になると必ずカルマとなり苦しむ
たいがいどうんな人でも人生でカルマを積んでいる、それが老人になると苦しみとなって現れるのである

その老人は妻に世話になり何もしない、遊び人のような人生だった、そうなるとその子でもめんどうみたくないとなる
だから自業自得だとしても放っておくにはいないのである
ただそういう老人が膨大に増えてくることは確かである、だから老人はいらない死ねとかなる、そういう気持ちは必ず行為となってこれかられ出て来る、すると大量の老人は捨てられるという事態になる
ここに高齢化社会の暗黒がある、中国でも高齢化社会になり老人は子供に捨てられて自殺している人が増えたとかあるからだ
この高齢化社会は世界的な問題にもなっている、認知症でも世界的な問題になっている
それだけ世界でも老人が増えるからそうなっているのである

情報に過敏になり錯覚して過誤になる (世界が村になるーマクルハーン)


情報に過敏になり錯覚して過誤になる

(世界が村になるーマクルハーン)

今日の朝玄関に出たら風がかなり強かった、木もゆれたし何でこんな風が強いかのかと思った、その時九州近くに大型台風が来ていることをテレビで放送した
だから一瞬その台風の影響が来たのかと思った
でも遠いのだからまだまだのはずだとも思った
でもどうしても一瞬台風の影響で強い風が吹いたと思った
これは台風の影響では全くなかった、なぜなら昼にぱったり風がやんだからだ

このことでいかに人間は今情報に左右されるかである
いくら遠いとわかっていてもテレビとかの情報に左右されるのである
台風は実際はかなり遠いとしてすぐ近くに感じるのである
だから(世界が村になるーマクルハーン)このことが情報社会で常に起きているのである遠い世界の果てに起ったことが隣の村で起ったことのように実際に反応するのである
過剰に反応して怯えるとなる

そういうことはこうした天候だけではない、何か事件があると隣の村で起きたように思うのである、犯罪でも毎日のように放送される、するとそれはすべて隣の村で起きたように感じるのである
子供の性的犯罪が報道されると大人が近くの人でも犯罪者に見られる
だから駅で自分がボランティアしていたというそのように見られて誰かが警察に通報してみんなの前で職務質問されて犯罪者扱いになり駅にも出入りもできないようになった
つまり自分だけのことでは情報社会になるとみんな遠くに起きた犯罪でもみんながそういう犯罪を起こす人と見られるのである

ただ実際に自分が近くの人に大金盗まれたとか泥棒が入って金庫をあけられたとかあり
これは事実である、だから人を見たら泥棒と思えというのは本当なのである
たいがい雇う人でもそうして盗むことなど日常茶判事だからである
そういうことがあたっているけどみんな性犯罪とはならない、大人がみんな悪い人でもない、犯罪を犯す人でもない、そうしたらもう子供とも接触できない
現実に今はそうなっている、だから子供と大人を接触させないようにさせている
何かそれで現代は窮屈な世界になっている、絶えず疑いの目で人は見られているからである

情報社会の怖さはいろいろある、ラジオがナチスを作ったということを指摘した思想がいた、ラジオですら抜群の宣伝効果があったからそうなった
朝日新聞が戦争をあおったというのもそうである、今は一番テレビの影響が大きいものとなった、だからこそテレビが第三の権力になったのである
ただテレビに出るだけで何の能力もない芸能人が青島とかが東京都知事になったからである、そして選挙運動もしないと威張っていたのはマスコミとテレビが作り上げた虚像だったのである
マスコミとかテレビはこれまで多くの虚像を作り上げてきたのである
そういう人は当り障りのないどうでもいい芸能人がなりやすかった
専門家でもないのに何かを言わせるのである、そう仕向けているのはマスコミだったのである、どうでもいい奴に発言させるだけだとなる
実際はマスコミが主張したいことを言わせているだけなのである

ただインタ−ネットが出てきて変わった、youtubeが個人のテレビ局になっている
だから個々人が放送する時代になったからである
それでテレビはあまり見ないし新聞も今は地元のでもとっていない、それで困ることもないのである、だからマスコミの時代は終わったとなる
ただ情報が多すぎて困る、どれを選んでみていいかわからなくなる
ただあらゆることに様々な見方があるのが現実社会なのである
それを一面だけを取り上げて放送していたのがマスコミだったのである

世界のことはさらにわからないからイラク戦争で油まみれの一羽の海鳥の映像がどれだけ影響したか、世界中の人が感情的になり怒ったのである
イラクは悪い奴だとして怒った、フセインは悪い奴だと怒った
でも実際は化学兵器とかはなかったしアメリカが難癖をつけて戦争してフセイン大統領を抹殺したのである、これも情報操作だった
情報というのは容易に操作されやすい、映像社会になると映像のインパクトが強いから余計にそうなる、過剰に反応しやすいのである
そして様々な情報に混乱させられしフェクニュースもある
ただこうして地方でも霜とをベースにして情報を発信できる時代になった
こういうことは今でありえなかった、だから相馬新報として地元をベースにして津波と
原発事故を報道したことは意義があった
確かに他にも報道したが個人として感じたことを報道したことは意義があった
それは今までできなかったことだからである

ともかく情報化社会の問題がいろいろでてきている、インタ−ネットでもそうである
そこで何が真実なのか事実なのかを知ることさえ容易ではない
だからインタ−ネット上での会話とか対話は誤解が生まれやすいのである
対面的でもないしそこで誤解が生まれやすいのである
それで私は今プログで毎日書いていても対話はしていない、コメントにも答えていないのである、対話するにもその人のことを良くわからないと対話できないということがあるからだ、人間が対話すること互いに理解し合うことがいかにむずかしいかを知るからであるただ一言二言その場でインタ−ネットの画面から消えてゆくというのが人間の存在としてはあまりにはかないともなる

いづれにしろ情報社会の問題はインタ−ネットがでてきてさらに複雑化して混乱して来るしかしこれまではテレビ局六局にしきられていたからこれはもう言論の自由もない状態だったのである、それだけマスコミが力をもった時代だった
お前を何か言わせてやる、でも局の言う通りにしろ、勝手なことはしゃべるなとなっていたのだから言論の自由はマスコミの幹部たちにあってそこでは自由な発言なと許されなかったのである、つまりマスコミにコントロールされた発言しかできなかったのである

ただインタ−ネット時代になっても様々な問題が生まれている
結局数が多すぎると選ぶの大変だしyoutubeで顔出して放送してもほとんど見られないプログでも読まれないというのが大半になる
だから情報というのはどうしても放送するにも限度があり限られてくるとなる
そんなにいろいろ時間をさけないからである
ただ専門分野とかでは検索して知識が深められているのも確かなのである
インタ−ネットは共同学習の場にもなっている、だから映像で教育の場にもなる
ただ出版社が本を出すというのではなく専門的なことでもyoutubeを通じて放送することができる、それはかなり効果的なのである、テレワーク学習になる
家にいて学習でるし自ら発信できることも大きな力になり変化なのである

インタ−ネットの強みはリアルタイムに放送できることである
今風が強く吹いた、これは九州に近づいてきた大型台風なのかと一瞬思ったことがそうだったのである、それをその日のうちに発信することができる
その時インタ−ネットは大きな力を発揮できるとなる
でもリアルタイムで見ている人は限られている、個人だと本当に読む人見る人は限られているのである、だから何百万人がテレビで一斉に見ていたメデアとは相当に違う
わずかの影響しかないということである

ただ専門的なことで学ぶことがあり知ることがあり有益なのはマスコミ時代とは違っている、古代史とかで歴史でも地域のことを発信できるからそこで専門的な学者のようにもなれるということがある、それがインタ−ネット時代で変わったことだとなる
つまりローカルな情報が全国に放送できるということである
まずテレビだと福島県のテレビ放送を見れないがインタ−ネットだったら全国でも世界でも観れるからである、だから私の抽象画で世界の人が特にアメリカで十人くらい見ているようだから世界的に見られるということがある
特に音楽とか絵画では世界に通用する、詩となると言葉の壁がありむずかしいが音楽と絵画は世界共通で理解てきるからである、写真でもそうである
だから膨大な世界の写真と絵画とか抽象画でもインタ−ネット上に出ているのである
それを加工して抽象画にしている、それがインタ−ネットの効果でもあったとなる