2021年09月07日

秋の蝉、虫の音、桔梗、秋柳( 秋の相馬市に行く)


秋の蝉、虫の音、桔梗、秋柳( 秋の相馬市に行く)

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街中に二つほど聞こゆ秋の蝉

女一人一本松に桔梗咲く

我が家に一人聞き入る虫の声

城下町六万石や秋柳

誰が家や城下町に咲く桔梗かな

秋の蝉いくつか聞こえ城下町

秋の雲影を落とすや城下町

紫の木槿に暮れぬ旧街道

旧街道虫の音聴きて帰りけり

一本松残りて暮れぬ実りかな


女一人寄るべく人もなかりしに松一本に桔梗咲くかな

宇多川の流れに秋の日の光りつつ暮るるもあわれ久々に来ぬ

親しくも松に寄りつつもの思ふ秋は来にけり虫も鳴くかな



女一人で住んでいる人がまた近くに何人かいる、これも不思議なのである
女性でも一人暮らしが多くなっている、老人でも多くなっている
子供と一緒には住まない人が多くなっている、老人の一人暮らしが相当に多くなったのである、庭に松一本がありそこに桔梗が咲いている

6月の始めに相馬市に行った、それから二カ月以上行っていないだろう
というのは梅雨になり暑くなったら行けなかった、7月には暑いとか8月の後半は秋雨になるとか季節が変則的になる二カ月以上相馬市に行かないというときめずらしいともなる暑いと自転車だと熱中症になりやすいから行けなかった
それから何か雨がふりつづいてことで行けなかった
原町も行けない日が続いたのである、まさに巣籠り生活である

相馬市に行く途中の五本松は三本松があったが一本しか残っていなかった
それも淋しいが一本でもあればいいなと見る
五本松から三本松となり一本松となってしまった
これは何か家族を象徴している、家族がみんな死んでいなくなったとか見るからだ
松は人間のように見えるのである、だから古来松は短歌でも俳句にもなり安いのである
田た松並木はかなり少なくなっている、相馬市への旧街道は松並木が残っている
やはり旧街道を行くと道が狭いからそこで自然でも感じる、今回は木槿が咲いていたとか虫の鳴き声とかを感じる、だからこそ「奥の細道」だったのである
細道だから車も通っていないから自然を感じていたのである

ともかく相馬市の不思議は原町では感じないものを感じる、一応六万石の城下町ということで違ってるともなる、ただ外部から来ても城もないし感じにくい
碁盤の目のように細い路地がありやはり城下町なのである
高いビルがないもの影響しているのだろう
公共の建物も入母屋作りに統一しているのも風情を作っている
でもどこが城下町とかになるのか外部から来ても感じにくいだろう
一応石垣などは残っているが他はなにもないからだ
もしビルとか高いものを建てたら違って城下町ということを感じなくなっていたかもしれない、ただそうした雰囲気をかもしだすのはやはり歴史があるからだとなる

秋になったから気持良く相馬市に行けたので良かった
暑いと今は出かけられない、日射病になるからだ、またコロナウィルスの影響で遠くに行きにくい、すると運動不足になるのだ
日本は狭い国であるが四季がありそれが変化をもたらし旬の食べ物がありそれが日本の文化なのである、それがなくなると日本の良さまでなくなってしまう
だから温暖化の影響は大きい、でせ実際は温暖化はないとしている
人工的に温暖化になったのでありコンクリート化した都市とか地方でも道路のコンクリートの反射とかで暑くなった、クーラーの使用でも暑くなった
二酸化炭素が出し過ぎるというよりコンクリート化の影響も大きいのである

秋はやはり芸術の秋になる、プログだと今経験したものをすぐ書いて出せる
こういうことは今までできなかった、雑誌に投稿しても一か月後だったからである
ただこうして自分はプログに書きつづけている、結構これも疲れる
それでコメントに答えられない、プログに書くことを優先するから答えることができていない、後は家事に追われているのである、今は一切の家事を一人でしているからである







秋の蝉、虫の音、桔梗、秋柳( 秋の相馬市に行く)


秋の蝉、虫の音、桔梗、秋柳( 秋の相馬市に行く)

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街中に二つほど聞こゆ秋の蝉

女一人一本松に桔梗咲く

我が家に一人聞き入る虫の声

城下町六万石や秋柳

誰が家や城下町に咲く桔梗かな

秋の蝉いくつか聞こえ城下町

秋の雲影を落とすや城下町

紫の木槿に暮れぬ旧街道

旧街道虫の音聴きて帰りけり

一本松残りて暮れぬ実りかな


女一人寄るべく人もなかりしに松一本に桔梗咲くかな

宇多川の流れに秋の日の光りつつ暮るるもあわれ久々に来ぬ

親しくも松に寄りつつもの思ふ秋は来にけり虫も鳴くかな



女一人で住んでいる人がまた近くに何人かいる、これも不思議なのである
女性でも一人暮らしが多くなっている、老人でも多くなっている
子供と一緒には住まない人が多くなっている、老人の一人暮らしが相当に多くなったのである、庭に松一本がありそこに桔梗が咲いている

6月の始めに相馬市に行った、それから二カ月以上行っていないだろう
というのは梅雨になり暑くなったら行けなかった、7月には暑いとか8月の後半は秋雨になるとか季節が変則的になる二カ月以上相馬市に行かないというときめずらしいともなる暑いと自転車だと熱中症になりやすいから行けなかった
それから何か雨がふりつづいてことで行けなかった
原町も行けない日が続いたのである、まさに巣籠り生活である

相馬市に行く途中の五本松は三本松があったが一本しか残っていなかった
それも淋しいが一本でもあればいいなと見る
五本松から三本松となり一本松となってしまった
これは何か家族を象徴している、家族がみんな死んでいなくなったとか見るからだ
松は人間のように見えるのである、だから古来松は短歌でも俳句にもなり安いのである
田た松並木はかなり少なくなっている、相馬市への旧街道は松並木が残っている
やはり旧街道を行くと道が狭いからそこで自然でも感じる、今回は木槿が咲いていたとか虫の鳴き声とかを感じる、だからこそ「奥の細道」だったのである
細道だから車も通っていないから自然を感じていたのである

ともかく相馬市の不思議は原町では感じないものを感じる、一応六万石の城下町ということで違ってるともなる、ただ外部から来ても城もないし感じにくい
碁盤の目のように細い路地がありやはり城下町なのである
高いビルがないもの影響しているのだろう
公共の建物も入母屋作りに統一しているのも風情を作っている
でもどこが城下町とかになるのか外部から来ても感じにくいだろう
一応石垣などは残っているが他はなにもないからだ
もしビルとか高いものを建てたら違って城下町ということを感じなくなっていたかもしれない、ただそうした雰囲気をかもしだすのはやはり歴史があるからだとなる

秋になったから気持良く相馬市に行けたので良かった
暑いと今は出かけられない、日射病になるからだ、またコロナウィルスの影響で遠くに行きにくい、すると運動不足になるのだ
日本は狭い国であるが四季がありそれが変化をもたらし旬の食べ物がありそれが日本の文化なのである、それがなくなると日本の良さまでなくなってしまう
だから温暖化の影響は大きい、でせ実際は温暖化はないとしている
人工的に温暖化になったのでありコンクリート化した都市とか地方でも道路のコンクリートの反射とかで暑くなった、クーラーの使用でも暑くなった
二酸化炭素が出し過ぎるというよりコンクリート化の影響も大きいのである

秋はやはり芸術の秋になる、プログだと今経験したものをすぐ書いて出せる
こういうことは今までできなかった、雑誌に投稿しても一か月後だったからである
ただこうして自分はプログに書きつづけている、結構これも疲れる
それでコメントに答えられない、プログに書くことを優先するから答えることができていない、後は家事に追われているのである、今は一切の家事を一人でしているからである







思考脳を育てない教育-抽象化とは (暗記教育は奴隷人間を作る―学校は全体主義教育)


思考脳を育てない教育-抽象化とは

(暗記教育は奴隷人間を作る―学校は全体主義教育)

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人間の能力は抽象化能力だった、この世に具体的な事物があってもそれを理解するには抽象化能力が必要になる、抽象化能力とは外界のものをどうして理解するかとなる
例えば話する時でも実際は抽象化しないと話しができない
対話もできない、そこに山があるとしていちいち山がなんであるか説明していたら話しもできない、川があるのに川という言葉がないと話もできない
山という言葉があり川という言葉があるとき別にじかにそこに山がなくても川がなくても話しできるようになるからだ

ただ山と言ってもいろいろある、ネパールのように8000メートルの山もあるし川でも外国の川は長大である、だから山であれ川であれ多様である、ただ基本的に山とはこういうものであり川とはこういうものだという共通認識がないと話しもできないのである
一応外国人と川について共通認識があるから対話でもできる
それが言葉の力だとなる
例えば砂漠というとき日本にはない、それをどうして理解するのか?
どこまでも砂しかない世界というのをどうして理解するのかとなる
そこで外国を理解するのが不可能にもなってしまうのである

基本的に数字と文字は抽象化されたものでありこれが文明の基本にもなった
漢字だと象形文字であり具体的な外界のものを絵のように理解してそれを記号化したのである、だから漢字の方が具体性がある、他の言葉はみんなアルファベットが基本である
表音文字になった、漢字は世界では特殊なのである、韓国のハングルでもやはり表音文字化したものである、漢字は絵画的なものであり具体性があり表音文字のアルファベットなどより抽象化されていないから理解しやすいとなるか反面抽象化されないことで覚える漢字が多すぎるから複雑になる、それで韓国ではハングルにしたのである
漢字だけ覚えるだけ相当な労力が必要になるからだ

いづれにしろ人間の能力は抽象化能力でありそれが文明を作ったのである
例えば数字自体が抽象化能力であり何でも数で数えるという時、その属性を無視する
人間が一人いるとして男女がいるし背の高い人もいるし太った人もいるし黒人もいるし
見た感じはみな違っている、でもそういう属性を消去してただ一個として数字で数えるのは数字によって抽象化したということである、それは究極の抽象化なのである

それは四角があるとするでも四角ということでも面積が違ったりする、ただ四角ということでA=Bとなる、でも実際はA=Bはない、石があるとして全く同じ石はないからである、一つの属性をもって同類として分類する、それも抽象化なのである
数字化することは最も抽象化する作業である、だからエジプトでは穀物の量を計算して数字化した書記が神のように崇められ権力をもったのである、それは今の官僚に通じている抽象化能力が数字で数学で一番わかりやすく現れるからである

ただ抽象化の危険は実際はあらゆるものを数字化するとき人間の実体現実から離れたものになる、この人間の数量化抽象化から何が起きたのか?
それは人間自体が抽象化され数字化されてしまった
人間は数字であり番号であり人間という実体が抽象化されて喪失した
村の様な単位て生きているときは感じないがその生活する範囲が規模が大きくなると
日本のGDPはいくらだとか今年の経済成長率はいくらだとかあらゆるものが数字化するからである
カルト教団なども宗教とは関係ない常に数で計られ数が多ければそれが権力に結びつく
民主主義は選挙で決まるのだからすべて数で決まるから権力を得るために数なのである
人間一人で主張しても相手にしない、10人でも集まれば必ず相手にする
ボランティアでも20人集めないとできない、つまり権力をもたないとボランティアもできないのである

ここから何が起きてきたかというとナチスが生まれたのであるファシズムが生まれたのである、様々な人間の属性の多様性を無視してただ人間は数となった、すると人間は番号となもなり数と処理されるものとなり大量殺戮になっても何も感じなくなったのである
しょせん人間も数であり番号に過ぎないとなるからだ
それは民主主義でもそうであり数の民主主義であり百万票を得なければならないとなれば人間を数として見る、一人一人のことなど見ないのである、要するに人間は数であり番号にすぎないとなる、だから簡単に数として処理されてガス室送りにもなる
ガス室に送る事務官は人間を人間と見ていない、数として帳簿を見ていただけだとなる
でも一人一人の人間が苦しむのを現場で見ていたら恐ろしいとなったろう
でも別にそういう現場を見なければ人間も番号であり数として処理するだけなのである

例えば原始部落のような少人数のコミニュティで暮らしていたら日本の村のような所で暮らしていたら人間を数字で処理することはない、一人一人が別であり数として見ることはないそもそも数として見ることは非人間的なことである、でもそれが文明を作ったのだから
抽象化するということがすでにナチスのような大きな災いを産む原因があったともなる
それで文明自体が滅びるということにもなる、現実の実体から離れて抽象化されてすべてを数字化することがそうなるのである
だから原発でも常に問題になるのが放射線量で数値化することでありコロナウィルスでも感染者を数値化することであり数で判断するのである
実際はすべての感染者が同じ感染者ではない、症状も違うし同じ感染者はいないともなるただ現代文明はあらゆることが数化する、数でみて人間は番号化されて管理されるのである、一人一人は番号にすぎないのである

文明社会はどこでも常に数の計算している、つまり常に数値化しているのが日常であり
そこで人間はただ数にすぎないとなっている
だからそうした文明が世界で共通化した、グロ−バル化したとき戦争になったとき何千万人も死んだとなる、それも人間が数字として処理されるだけのものとなったからだともなる、そもそも中国であれインドであれ十億の人間がいるというとそれは理解不可能になるそれはただ数とみて脅威だとなる
聖書では数を数えて神から罰せられたことがあった、数は結局常に権力となるからである十人より百人が集まれば権力となる、だから民主主義では数が権力なのだからカルト教団でも数を集めることが第一目的となる、その内容など関係ないのである
だから暴力団だろうが有象無象のものが雑多に入り込んでくる
一人一人などどうでもいい、数が集まれば選挙に勝てるとなるだけである

結局こうして現代文明社会でまともでありうるのは人間でありうるのはアウトサイダーになる、後は百万分の一とかの数にすぎないのである、数として番号として処理されるだけだとなる
ただ人間の能力は抽象化能力であり学問でもそうである、抽象化して思考できないことからその差が大きくなる、人間の学力の差は抽象化能力の差なのである
思考するのも抽象化できないから思考できないともなるからだ


私は数学とか苦手でありそのために劣等生であり大学を出たとしてもFランに近い
その原因は数学が苦手だったということである、それは学校が暗記ばかりの勉強だからそれで学問に興味をもてなかったのである
数学でもやはり暗記しているだけでは思考脳が身につかない、数学は高度なものでもないにしろ暗記脳ではできない、身につかない、応用となると思考脳が必ず必要になる
だから思考脳の訓練をしないとだめなのである、それが学校ではないのである
学校は軍隊であり工場なのである、ただ暗記して上の命令に従うだけだとなる
こうした学校教育が全体主義をナチスを産んだ素地としてあったのかもしれない
その学校からドイツのヒットラーユーゲントとか生まれたのもわかる
学校は全体主義を育てる場所ともなる、民主主義でありながら学校は全体主義てある
ただヨ−ロッパとかアメリカの教育はデベートとかあったり何か個性を育てるということがある、でも教育にしてもやはり大衆教育となると全体主義的になる

だからなぜヨ−ロッパから天才があれほど生まれたのか?その原因は貴族社会であり個人に家庭教師をつけていたからだともなる、学校がなければそうするほかない
学校ができたのは近代化されて大衆教育になったからである
そうなると一対一となると相手をの個性を見て教育するとなるからそこから個性を才能を伸ばした人達が生まれたともみる
そして何より教育される環境があったとなる、書斎があり本が家庭にあるのとないのとは相当に違う、私の子供の時高校までも家に一冊の本もなかった
ただ鉄腕アトムとか鉄人二十一号とかの漫画を貸し本屋から借りて読んでいたのである
つまり家で読んでいたのは漫画だったとなる
私が本当に勉強したのは大学出てからの方だった、それは日本全国を旅して地理に興味をもったからである、本の世界ではない実物の世界に接して興味をもったのである
だから教育は学校でも本からだけでも学べない、実物から経験から学ぶのである
それがないとただ本だけの世界とか学校のような無味乾燥なものの中では興味を覚えないのである、外国のことならいくら本を読むより一回でもその外国に行った人の方が実感をもつから知っているとなる、百聞は一見にしかずとなる

ともかく教育というと教えるというとき実はそれが創造的な作業である
どのように教えるかはその教師によってみな違ってくるということありうる
つまり教師が思考脳をもたないと実際は創造的教育はできないのである
ただ暗記教育だけになってしまうのである

学歴による社会の分断 「日本人の3人に1人は日本語が読めない」

【1】日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない(正しく読解できない)
【2】日本人の3分の1以上が小学校3〜4年生以下の数的思考力しかない
【3】パソコンを使った基本的な仕事ができる日本人は1割以下しかいない
【4】65歳以下の日本の労働力人口のうち、3人に1人がそもそもパソコンを使えない

数式として抽象化できていると解きやすい、それを図形化するとめんどうだともなる、ても具体的図形化するわかりやすいのである、図形には具体性があるから数字だけではない図形化して思考する
それが絵画は世界共通化している、絵の価値は世界で理解できる
言葉となるとむずかしくなる、それで私の抽象画でも理解されて世界で見ている人がいるとなる、それは全く絵の才能がなくてもソフトで変化させてできるのである
これはコンピュターがうまれてできたart(技術)だったと理解したのである
これは結構むずかしい、つくづく自分は数字に弱いから文系なのである
ただ抽象的思考と思考脳が人間の能力を作ったことは確かである

正直文系は数字に弱い、ところが文系でも言葉の抽象能力は優れている、ただ物を考えるというとき数学でも同じものがある、抽象化することで同じなのである
だから数学でもそこで思考脳を鍛えるものとしてやると興味をもつ、ただこれも先天的なものかもしれない、どうしても高度なものになるとついていてなくなる
ただ確かなことは思考脳を鍛えることが訓練することが大事なのである
でも学校教育は暗記脳一点張りだから思考脳が育たないのである
そうして理系の優秀な人でもオウムのようにロボット化奴隷化されたのである
ただあのようになるのはナチスとかまた現代的な文明社会から生まれたものだったのである、理系文系と分れるのではなく総合的思考脳が育ちにくいからである
もはや全体を総合的に見れる人はいない、だからコロナウィルスでも理系の細菌学者とか文系の政治家とか官僚がいてもそれを束ねる人はいない、そんな両方の知識を持っている人はいないからである