マラソンと人生
(最後に二位集団に追いつけなかった大迫選手)
大迫が二位集団に迫っても追いつけなかった、何かもう少しで追いつけるようにも見えたでも実際は相当に厳しい距離だった、というのは最後でありそんなに力が残されていないみんな最後の力をふりしぼって走っている
大迫もぎりぎりで走っていたから追いつけるようで追いつけない
何か人間をマラソンに例えるともう最後になったら老人になったら力を出すことができなくなる、勝負は決まったとなる
ただ人生はマラソンにも似ている、特に高齢化社会になると長寿社会になると人生百才となるとマラソンである、長距離を走ることが要請される
人生50年とか60年となれば退職してぶらぶらしていたら後は死んでいたとかなる
でも退職してらか先が30年とかあるとなると人生は長距離でありマラソンになったのである
それで成果を出すのはあせる必要はない、60からでも70からでもいい
そして長寿になるということは学問とか芸術の分野だと有利である
「少年老い易く学成りがたし」というとき学問にしてもその分野が広範囲にあるからだ
第一中味のある一冊の本を理解すること自体が一生かかるとまでなる
人間それだけ一分野でも理解するのに時間がかかるのである
例えばギリシャを理解するとき実地を踏んで本を読んでとかして理解する努力をつづけないかぎりできない、知的な分野だと理解するのに時間がかかるのである
老人になると評論に向いているのは何でも理解力が深まるからである
そういう点で長寿社会はプラスなのである、特にグロ−バル化社会になると外国のことについて理解を強いられる、外国のこととなると本当に言葉の障害もあり理解することが困難になる、でも持続して時間をかけるとそれなりに理解力が深まるのである
ただ正直本を読むより一回でも外国の土地を実地に踏むことが第一となる
それで私は50歳で海外旅行したのが理解力を深めた
もしその時行かなかったら親の介護とかなっていけなかったからもう外国について語ることもできなかったのである
スポーツだと盛りの期間は短い、大迫選手でも今回で終わりだというときそうである
30歳でもう終わりになる、でもその人の人生はこれから百才までもつづくのである
ただマラソンでも最後の方になるともう簡単に前に追いつけない、すでに差が開きその差を埋めることができなくなる、もう前でも後ろでも限界に達しているからだ
ただ見ていれば前の集団に追いついてもらいたいとしても本人にすれば限界なのである
ただ知的な分野だとたいして才能がなくても積み重ねであり集積が効果を発するのである継続していればやはり素人でも専門家になれる
でも正直人間は深いをことは簡単に理解できない、私自身むずかしい本を買って読んでいた、重要な所に線をびっしりひいていた、でも今読みかをしてみるとその線を引いたところでもほとんど忘れているし理解していなかったのである
本も積読(つんどく)になりやいのである
現代は長寿社会になると百才を走りきらなければないとなる
でもすでに同級の人でも死んでいるしまた病気になった人が多いのである
つまりすでに70越えたら二三割は脱落しているかもしれない、だから老後は健康が大事になる、最後はマラソンのようにサバイバルゲームになる
健康でない者と病気になった人の差があまりにも大きすぎるからだ
私の場合は汗が出なくなったり熱中症になりやい、熱がこもりそうなる
すると今までのように外に自由に自転車でも出歩けないのである
それで今まで経験したことを回想して作品化することが仕事になっている
いづれにしろ最後は前を走っている人を簡単にぬくことはできない、相当に自分自身をも疲れているからだ、その順位をくつがえすことは簡単にできない
老人になると何かを身につけようにもできないのである
ただこれまでしてきた積み重ねたものが力を発揮するだけなのである
人生は短距離ではない、百メートル競走だといくら努力しても資質がないものは勝てないそれは生まれつきにもなっている、でもマラソンとなるとこれも資質であるにしろ訓練したりして才能がなくても伸ばすことができる競技かとも見る
ただアフリカ勢が常に勝つのはやはり資質がありそうなっている
人生になれば短距離ではない、長距離でありマラソンなのである
でも最後になるとわずかの距離でも縮めることは至難になる
だからマラソンはひたすら走りつづけるのだがもうある程度差がつくとその差を埋められないのである、人間でも何かこうしてひたすら走りづつけて何か積み重ねてきたものと
何もしないで時間を無駄にしたものの差が大きくなり埋め合わすことができなくなるのだ天才でないかぎり積み重ねが大事だとなる
とにかく例えば身近なことでも郷土のことですら理解するのに時間がかかるのである
すると多様な世界をグロ−バル化して世界を理解することはさらに時間がかかる
例えば江戸時代辺りだと500人くらいの村で暮らして顔見知りの人たちの中で一生終える、でもグロ−バル化した世界となる外国を理解することとなると何百倍もの時間がかかるとなる、だから空間が拡大したときまたそれに応じて時間も増えないと理解ができないのである
それにしても北海道大学の広い、あのような所で学ぶならいいとなる
北海道大学は農学校でありクラーク博士は農学校の教師だった
そこで内村鑑三などがキリスト教を教えられたのである
何か北海道は広いから清新な空気があり明治にはフロンティアにもなっていた
そこで優秀な侍だった師弟が学んだのである、そもそも優秀な青年たちが学んだからこそクラークの教えも伝わったとなっていたのである
ただ本当にキャンパスが広い、白樺の木もあり煉瓦の校舎にも伝統の重みが感じられる
エリート養成の学校にはふさわしいとなりうらやましいともなる
東京の大学にはそうしたものは感じられないのである
今回のマラソンで印象に残ったのは大迫選手が最後に二位集団に追いつけなかった
もう少しで追いつけたとか見たがその差がマラソンになると大きい
もう疲れ切っていて差を縮めることができなかったのである
人生も最後になるともうそうして知識の差でも経験の差でも縮めることができない
これまで積み重ねた経験したことの差を縮めることができないのである
そこに突然力が出て奇跡的に追い抜くことはできないのである
人間も老人になると何か突然前の人を追い抜くようなことはできない
二位集団はいいとしてその後方との差はさらに大きいのである、差のつき方が激しいのである、人生でも老人になるとこうして大きな差がついて縮めることができなくなる
何か理解するにも積み重ねでありあることについてすぐに理解するということは不可能なのである