2021年08月16日

墓はなんであるのか?(墓の効用-恨みを残し死んだ人の墓)


墓はなんであるのか?(墓の効用-恨みを残し死んだ人の墓)

我が墓に誰か知らぬも花を挿す人のありしもありがたきかな

お盆ならみんな墓参りする、だから必ず墓を意識する、墓を意識するということは死んだ人を意識することにもなる
一年に一回か二回死んだ人を意識する、死んだ人を偲ぶ、そのために具体的なものとして墓がある、ただ別に墓がなくても死んだ人を偲ぶということはある
家で遺影が飾ってあるからいつも見ていて死者を偲ぶことは普通にしている

自分の家の墓に誰か花を挿していた、それはいつも挿す人がいる、今日見たら枯れた花をとりはらっていた、でも誰がこんな心使いをしているのだろうか?
それは一人は知っている、私が花を挿していると自分に言ったからである
でもその女性は私の家とそれほど深い関係もないし世話した人でもない
何でそうしているのか不思議だったとはなる
そもそも私の死んだ家族は必ずしも他者に尽くしたという人ではない、ただ自分だけに本当に良くした尽くしてくれたのである
無条件で尽くしてくれたのである、だから普通の親とは全く違っていたのである
でも他者に冷たいことがあり何か意外と病気になっても思う人もなく死後もないと思った
たたで考えたことは墓はなんであるのか?

墓は死者のためにあるとは限らない、なぜなら死者は墓にいるのかどうかも本人でもわからないだろう、死んだら後のことがどうなっているかなどわからないだろう
でも死者に対しては偽れないということはある
何か冷徹に生者を見ている、そういうことで死者が全くいないとういことでもない
何かいるということを感じるからそうなる
例えば生前親でも死者に冷たくした人は墓参りができるだろうか?
墓参りは実際はみんなに見せびらかすものでもない、誰も見ていない所で墓参りする
でも死者は見ているのだ!
すると生前冷たくしたとき恨みを残した人の親でもできるだろうか?

その親戚は育ての親にひどいことをした、それは自分はかかわらないから知らなかった
そんなに実の親ともめたことも知らなかった、第一付き合いがなくほとんど自分の家では交際しないし争っていたともなるからだ
でも最後に「ひどい娘だわ」と自分に電話してきたのである
それもなにか付き合いがないからわからなかった
それがわかったのは自分の家にきて母親が病気で寝ているとき、「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えて去って行ったことである
そのこと以来私もそんなひどい娘がいるのかと恨みとか怒りとなり消えなくなったのである、もしそういうことがなかったら何も思わなかったのである
その人は何にも自分の家に来てしていないのである
ただ別に付き合いがないのだからしかたがないとなりる何も頼んでもいないのである

それから母の実家の長男が死んで墓を守ってくれと3百万もらった、それはいいとして
これもなかなか大変な責任があると今では思う、もちろんそういう人だから墓でも捨ててもいい、実際捨てるだろう、何かその実家の墓に埋まっている人など思う人ではないからだ
しかしその人には別に実家から分かれてもう一つ墓がありそこに父親と育ての親が埋まっている、だから二つの墓参りをすることになる
でも「ひどい娘だわ」と一言言って死んだ育ての親の墓参りができるのだろうか?
別にそれは墓参りしようがしまいが誰も見ていないしそんなこと詮索する人もいない
でもその恨みは相当に深いことが自分の家族に対してした異常なことで自分自身も自覚したのである、本当にあれほどひどい娘はいない
何もしないのに母が苦しい時、百万くれたのである
でもその女性は何もしないのである、ただ母が苦しいからそうしたのである
第一近くに住んでいないから何もできないのである
それを私が返してくれと言ったら夫の方で返してくれた
実際何もしていないのに受け取ることは普通できない
断るのが普通なのである

その女性は人非人だった!

にん‐ぴにん【人非人】 の解説

1 人道に外れた行いをする者。ひとでなし。

2 インドの俗神、緊那羅 (きんなら) の通称。その姿が人に似て人ではないのでいう。

もう人間ではないと思った、どうしてそうなったのかわからない、たてだ金では苦労していないしそんなに悪い境遇ではない、ただ三人母親が変わったということでそうなったのか?それにしてもそんな苦労はしていない、むしろ三人の母親に良くされたからである
とにかくどうしてそんな人非人になったのか不可解だとなる

その娘はまた5歳まで暮らした実の親を認知症になった親を施設にあずけている
それも全く金のためなのである、その実の親は金をもっているからだ
でも認知症になっているのだからわからない、金しかその女性は眼中にないから最後に悲惨な結果になったとなる
何か母親の実家は警察署長していたとしても不和分裂の家でありそれは死後もつづいていて自分にもふりかかったのである、カルマとなったのである
だから今は恐ろしいから母親の実家とはかかわらない、墓参りもしないのである
ただ兄が埋まっていたので自分の家族の墓の脇に墓標を作った、交通事故で40才で死んだからである

墓とはななんのためにあるのか?それは遺された人のためにあるともなる
死んだ人はもう無意識でありわからないからだ
ただ残された人が死者を想う時墓参りしたりする、そこで死者と通じ合うとなる
その媒介として墓があるとなる、何もなくなれば海に灰をまくとかなれば何も残らなくなるから墓参りもできないので残された人が困るとなるからだ
ただなんか誰か知らない人が墓に花を挿してくれているというのはうれしいとなる
それは無償の行為だからである、墓参りは実際無償の行為である
何かそれで利益になるということもないからだ

でも偽りの心で死者を想わないのに墓参りで装うことはできない
なぜなら死者はその人を冷徹に見ているからである
だから「ひとい娘だわ」と言って死んだ人の墓参りなどできるのか?
ただ別にそのことはわからない
いづれにしろ恨みを残して死なれると後が怖い、それが自分にその恨みがのりうつりあるインドの哲学者はそういう恨みの念が他人にうつりその人が殺人まで起こすと説いていたそういうこともその一言で自分も感じたから怖いと思った
念は一人にとどまらないのである、怨念でも誰かにその念が移ってゆくから怖いとなる
念の力は意外と目に見えないとしても人間にとっては大きいものなのである

それで介護にもいろいろ問題があるが何か恨まれてしなれると嫌だなとなるのだ
私の場合は一応懸命になって介護したから最後にわかってくれたことで救われた
そうして死後も供養できるのである
ただ自分の場合は特別良くされたことでそうなったのである
それを他者には要求できない、みんな親に兄弟でも良くされないからである

ともかく墓がなんであるのかとなると残された者へ死者を偲ぶためにある
ただ墓があってもそうして怨念となっているとき墓参りができるのかともなる
死者はいないようで冷徹に見ているからだ、それは見えなくても感じる
そうしたら怖くて墓参りもできなくなるのではないか?
「あんたはひどい娘だ、見殺しにもした、私はあなたを永遠に恨む」
こうなって死んだ人の墓参りできるだろうか?
それももう他者にはわからないにしろ偽ることができなくなる

いづれにしろ墓はやはり残された人のためにあり何かひっそりと墓参りする時、誰も知らない見ていないのに墓参りするとき、その人には何かそうした墓参りしなければならないものがある、死者に対して懺悔する人もいるかもしれない、だから墓は具体的なものとして死者のいる場所となり遺された人がかかわる場所になる
そういうことで墓の効用があり簡単に墓がいらないともならないのである

とにかくこうして人間は罪深い者である、ただそれを自覚している人はいない、その真の姿を見たら恐怖になるだろう
動物の霊が憑依したような姿になっている、ただ本人にはわからないのである、自覚できないのである
そんな人がいるというのも子供の時一回くらいしか逢っていないからショックだった
ただ大人になれば遺産をめぐって骨肉の争いになるから同じことがある
人間は金をめぐり修羅となり悪魔ともなる、それがこの世の実相だったとういことに引きこもりの自分は驚き唖然としたとなる
だから自分は人とつきあわないとき幸せだったとなるし人間嫌いなのである
あまにも恐ろしい醜い人間に恐怖するとなったからである

2021年08月17日

月見草、秋の蝉、雨の日(巣籠り生活と家のこと)


月見草、秋の蝉、雨の日(巣籠り生活と家のこと)


雨ぬれて買物に行く夏燕

霧雨にぬれて草深く月見草

雨の日や外に出られじ秋の蝉

雨しとと石を濡らして秋の蝉

八畳の間に姉の寝るかな我も寝る悠々として心地良しかな

この天気は変である、秋雨にしては早いけどそんな感じにもなる
ここは十年以上変な天候がつづいている、北海道が本州より暑かったりとか気候の異変がある、ただ都会だとアスファルトとかクーラーの熱で暑くなっている
田舎でも街中だとやはり暑いのである
それでこれまで農家の土間があったが土は冷房装置でもあった
熱をさましたりまた冬はあたたかくしたりする自然の冷房装置としてあった
それが自然な生活だった、だから意外と茅葺屋根でもそうした自然の作用が住みやすいということもあったかもしれない、現代は何でも機械化して人工化するからそれが作用して都会だと異常に暑くなることはある
ただ北海道がなぜあんなに暑くなるのだろうとなる
それは梅雨の時いつも北海道に行っていたからありえないと思ったからである

草深くというとき月見草があっている、それが霧雨に濡れている
庭の石が雨に濡れている、今は下の部屋にいる、蝉が一匹鳴く声がひびいてくる
何かこの蝉の声も季節的におかしい、夏の季語なのに夏はあまり蝉の声が聞こえなかった今年は蝉の声があまり聞こえないとも見る
確かにお盆過ぎれば秋なのだがまだまだ夏のはずである
だからこれもおかしい、季節感がおかしくなると俳句などを作るのに困る
ただ短歌ならそれほどではないだろう、別に季語を入れる決まりなどないからである

八畳の間は姉が寝ていた、広い部屋である、そこに今自分が寝ている
何かこれも不思議である、そこにをとしても姉がいるという感覚になる
姉は子供の時から一つ屋根の下にいて最も親しい人になっていたのも不思議である
母はそういうふうにならなかった
だからそこに姉がいてあたたかく死んでも感じるのである
だから家というのは家族が死んでもやはりそこに依然としている感覚になる
その部屋に60年とか寝ていたからである、そこにまた温かみが残されているともなる
ただ姉が死んでもう十年も過ぎたのである、でも依然として家には死者がいる感じなのである、ただその感じ方は人によって違うのである
親でも全然感じない人もいるからだ

何か巣籠り生活というとまさに雨にもなりこの頃ずっと遠くに行かない、庭の石が雨にしとしと濡れてまるで梅雨である、そして秋の蝉の声がひびいてくる

外は雨茶室に籠もり秋の蝉

こんな風流の感覚になる、ただ巣籠り生活だと広い家が必要になる
家の影響が精神に与えるものは意外と大きい、だから老後は広い家が必要だと思った
ただ二階となると上り下りでめんどうになるし体が弱ると平屋がいいが平屋でも広い部屋が必要だと思った
とにかく家は単なる箱ものではない、そこに長く住んでいたということで何か死んだ人でもそこに依然としている感覚になるとつくづく感じたのである
ただ母の場合は自分の部屋もなく何か女中のようになっていたのである
それはまた問題であったがそうなったことを今や変えることはできない、だから死後も
この家での居場所はどこだったのだろうかともなる
でもそういう事実をもう変えることはできない、そういう変わった家族でも変えることはもうできないのである、それが自分にとって悪いとはなっていなかった
家には何か語り尽くせないものがある、それは単なる箱ものではなく家族の思い出とか
何か精神的な目に見えないものが家には残っているためだと思う





2021年08月18日

コロナウィルスの基本的対策が間違っていた (人流をとめることをまずするべきだった)


コロナウィルスの基本的対策が間違っていた

(人流をとめることをまずするべきだった)

現代社会で一番むずかしいのは人の行き来を人流をとめることである
そしてウィルスから守るのには人流を抑えるしかない、確かにワクチンも必要である
でも感染症の基本的対策は人流をとめることなのである
県境を越えて出るなとかなるべく人と交わるなとかになる
でも現代社会はそれが一番苦手なのである
江戸時代だったら関所がありなかなか藩の外に出れないのである
それで関所も有効なものがあったと認識したのも不思議である
国境もまた必要なものだと認識した
そこで水際作戦を行えるからである、だから相馬藩の玉野村には若木神社とかあり感染症を防ぐ神を祭っていたのである

何か政府のコロナウィルスの対策自体これに反したものだったのである
GO TO トラベルとかかえって旅行することを奨めた、それもまたコロナウィルスより生活がかかっているからそっちが大事となりそうなった
それもわかるしそれをネットで大学教授とか科学者がコロナウィルスはインフレインザインザより怖くないということも言うしそれも説得力があったからそうなのかとも考える
正直自分にはわからない、専門家自体もまだコロナウィルスについてはわからない

でも確かなことは最初から感染症に対処する基本的なものが欠けていた
それは最初からそうでありその後もずっと同じなのである
GO TO トラベルとかでもありえないことである、またオリッピックで世界中から人が来るのにそれも止められない、今度高校野球で感染者がでてせっかく東北学院が出たのに
出場辞退でがっかりした、なぜならやはり高校野球はいつも常連しかでないから新鮮だったからである、高校野球はもううプロ化していているからもう本来の素人の野球でもないとも見る、だからもう今までのように持続じてきない時期に来ているというのもわかる

とにかくこうして感染症の基本的対策を実行していない、五輪とか高校野球はとめることができたが政府でもしない、結果的にデルタ株なのかどうか外国から入ってきて広がる
怖いのはメキシコなど南アメリカで流行している変異株がもたらされることだとしているそれで死んでいる人が多いからである
でも五輪は強行したし高校野球も強行した、そして雨とコロナウィルスでさんざんなものになった、とても楽しめないともなった

要するに感染症の対策はそもそも過去でも歴史をみればわかっている、人から人へうつるのだから人流を減らすことなのである、それを人流を増加させる方の対策をしたというのが現代社会のやむにやまれぬ事情があったとなる
ヒトでもモノでも自由に流通することは全面的にいいことだとされ世界的にヒト、モノが流通するグロ−バル化が促進された
しかしコロナウィルスではそれが負の面として意識されたのである
ただ一旦ヒトでもモノでも自由に地域を越えて流通する世界になったときそれを止めることができなくなったのである
それを止めると生活ができなくなるとかなっていた

でもオリッピックなどでも高校野球でもしょせんそれが中止されても飢え死にすることはない、遊びにすぎないのではないかともなる
だから中止してもいいともみる
緊急事態なのだからしょうがないともなる
しかしそれふらできなかったのである、変異株が入るとかわかっていたのにく中止しなかったのである、それは今の政権の責任だったとなる

ただ正直江戸時代のような隣村さえ交わらない異国のようになっていた時代とはあまりにも違っている、それが常態化した社会で人流をとめることはほとんど不可能になっていた江戸時代なら貧乏でもその土地でとれるもので基本的に生活していた
燃料でも食料でもそうである、すると外と交わらなくても一応貧乏でも生活はできたとなる、現代ではそれができなくなった
つまり長所と見えるものが短所ともなるのが人間社会なのである
江戸時代にもどることはできないにしろグロ−バル化世界というのは異常に過度になっていた、そこで失われたものもあり大きいものがあった
ただそれに気づかされることがなかった、コロナウィルスで気づかされたとういことである

グロ−バル化というときなぜ近代では世界大戦で何千万も死んだのかという問題もある
まずこんなに戦争で死んだことは経験していない、世界的に人が交わることはいいこととして全面的に肯定されていたからである
もっと世界を見ろと世界に出ろというのが共通の合言葉だったのである
それは一面ではそうでありそれも必要だった、でもその負の面がコロナウィルスで露わにされたのである
G TO トラベルにしても五輪の開催にしても高校野球にしてもこんなき感染を広めるようなことをすることはありえないともなるからだ
ただそういう社会だからありえたとなる
観光に打撃でありどうにかしてくれとなり政府でも動かざるを得ない事情があった
ただ感染症に対処する基本ができなかったことである

県境をまたいで往き来するなとかなるべく人と接するなとかなると現代社会では一番むずかしいことである、それは江戸時代にももどることである
その江戸時代ですらコレラとかの流行をおさえられなかった、長崎から北前船とかで新潟に入り阿賀野川から会津若松に広まったからである
結局安全だったのは桧枝岐とか交流のない秘境だけだったとなる
最近福島県より宮城県の感染者がまた増えたのはやはり仙台市となると東京からでも人が来る
するとどうしても仙台市から広がる、青森とかで広まったのも仙台市の人が移動して広まったのである
だから今になると仙台市に行くのは危険だとなり行っていないのである

また個人的には引きこもりが安全だともなるのは皮肉である
遠くに行かず外に出るのもはばかり家に籠っていることは感染症にはいいからである
だから現代では禅宗のような寺に籠もり座禅を組んで黙想するとかして人と交わらない
世界に変わるのかともなる、そもそも東京とかは異常な超過密な世界である
とても人流をとめられない、三密をとめられないのである
だから都市的超過密の社会を変えねばならない、その契機にコロナウィルスがなるかのかもしれない、するといい方面にコロナウィルスでも作用したとなる
posted by 天華 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

日本製紙の釧路工場が廃業へ (日本の今を象徴している北海道‐郷土の歴史と重ね合わせて)


日本製紙の釧路工場が廃業へ

(日本の今を象徴している北海道‐郷土の歴史と重ね合わせて)


「日本製紙」釧路工場は大正9年に操業を開始し、およそ100年にわたって新聞用紙などの生産を続けてきました。
しかし、デジタル化の進展や新型コロナウイルスの影響などで紙の需要が落ち込み、去年11月、紙・パルプ事業から撤退する方針を決めました。
そして、16日午前、紙を作る「抄紙機」2台を止めて、生産を終えました。

釧路は釧路湿原である、でも日本製紙の工場がある、大正9年だから早い
北海道に十回くらい行っていたから思い入れがある
ただ釧路湿原を見に行くのであり釧路市には注目していなかった
でもここが意外と今の日本を象徴していた
紙の需要が減ったのは電子化したためである、これが相当にひびいているのも現代を象徴している、新聞紙の需要があっても新聞自体が消滅してゆく状態になる
本でもそうである、雑誌でも電子化して読んでいるから紙を使わない、また紙の材料の木材も外材にしていた、値段が安いから外材にしていた
すると北海道にある木材も利用されず地元にとっては経済の活性化にはならない
農業がいいとみるが釧路は農業に向いていないというのも意外である
いい土ではないとある

酪農家数は釧路町を除く4市町村で50%以上の割合を占めており、これは北海道の平均(16%)と比較すると突出しています。

畑作より酪農中心である、北海道というとき一面のジャガイモ畑の風景である
十勝平野とかでも一面のジャガイモ畑を見た、その広い畑があり小さな社があったが何か本州の風景とは違いそぐわないと思った
北海道には開拓で移住した人が神社をもたらしたが何かその風土に似合わないのである
釧路地方はやはり寒いということもあり畑作に向いていない
酪農でも牛乳余りで捨てていたとか見た、なかなか農業でも厳しいから北海道の人口は4割くらい札幌に集まる

1995年、569万2321人)に比べ約30万人減り、旭川市に匹敵する人口規模が消えた。道内179市町村の9割超の171市町村で減少。一方で札幌市は2.1%増の195万3784人と、一極集中が一段と進んでいる

これは人口としては偏っている、札幌市では農業をしていない、広大な地域があっても札幌市ではしていない、すると農業にたづさわる人は意外と少ない
何か地方だと田舎だと田んぼとか畑とか広がる、北海道だと牧場があり牛がいるから農業に従事して農業で成立っているように見える
でも現実はこの辺でも農業にたずさわる人は一割りくらいなのである
前は農業にたずさわる人は六割とかありそれが田舎だったのである

中国から船で帰るときモンゴルで羊飼いを習い北海道で羊を飼うという人に出会った
その人は農学部とか出た人である、何でも冬になると体が一回り小さくなると言っていたモンゴルは冬が厳しいのである、ただモンゴルと北海道の風土は似ているともなる
草原ではないにしろ広さでは似ている

とにかく釧路でも他の都市でもシャッター通りとかで釧路は特にさびれいてるというときやはり北の果てだからそうなる、観光だけでは経済的に苦しい、でもニセコのスキー場が外国資本に買われて外国人の別荘ができたりしてそこが外国の特区みたくなった
そして中国とかが北海道の土地を買っているというとき危機感を訴えるのもわかる
広大な土地が利用されずそのままにしては金にもならない、そこでやはりソーラーパネルが多いというのもわかる、土地が広いから向いている、山だと自然災害の危険があり問題があるからだ

北海道もやはり今の日本を象徴している場になっている、鉄道も私が行ったとき20年前以上で半分の線がなくなっているからだ、一両の電車もある、それで高倉健のぽっぽ屋という鉄道に生涯を過ごした鉄道員の映画が話題になった
鉄道はそもそも北海道でも石炭を運ぶために作られていたのが多い、常磐線でも常磐炭田の石炭を東京に運ぶために最初はあったとなる、乗客ではないのである

大正生まれの母が言うには松川浦の親戚に汽車に乗ったがそれはめずらしいことであった汽車賃が高かったからあまり地元でも利用しなかったのである
子供の思い出として長い貨物列車が行くの見ていたから鉄道は物を運ぶものとしてもともとあった、それで日本のいたる所に森林鉄道がある、その時外国から物は入ってこないから石材でも木材でも日本国内を利用したからそうなっていた
浪江の高瀬川から葛尾村の落合までも森林鉄道があったようだ
そこで山をくりぬいて森林鉄道の線路をひいた跡がありそれほど森林鉄道は全国にあった
北海道の現状は日本を象徴していた、日本製紙が廃業になるもの電子化の影響であり
また大きな問題が広大な無用化した土地が外資に特に中国に買われていることは重大な問題である、日本の防衛として重大なのである

日本が経済的に衰退するときそれに乗じて中国が静かな侵略を開始している
ロシアでも北方四島は返さない、そこをアメリカの基地にされると困るからである
でもアメリカ自体がアフガニスタンから撤退したようにいづれ日本から撤退することが予想される、そういうことを示したものでもあったのだ,アメリカに守られる時代は終わり
日本は日本で守らざるを得なくなることをそこで現実として見たのである

こうして北海道は日本の今を象徴した場所でもあった、福島も原発事故で日本の技術力がいかに信頼できない者かを示した、日本がいろいろな方面で衰退してゆくのである
コロナウィルスの対応でもそうである、政府は指導力を発揮できない、日本の劣化は相当に大きいものとなっている、それは一部ではなく全体的なものとして現れているのである政治であれ科学技術であれ教育であれ経済であれあらゆる所で衰退して劣化している
そういうとき中国が静かな侵略をすすめる、そしていつのまにか中国の配下にされていたともなる、アフガニスタンでわかったことはアメリカの衰退でありアメリカが意外と頼りにならなくなっいることなのである

製紙工場というと南相馬市の原町の丸三製紙は有名である、この辺では大きな工場となっている、私の叔父も課長として勤めていたとかあり道の駅の公園で休むと煙が出てくるのですぐわかる、街中にあるのでそうなる、鉄道の駅のすぐそばにある
不思議なのは戦前の原町紡績(はらぼう)から駅から引き込み線があり生糸を横浜の方に出していたのである、鉄道は物を運ぶものとしてあった
原ノ町駅は今のいわき市の平と同じように機関区になっていて大きい駅だったのである
だからここから相当な物が東京に運ばれていたのである
そして無線塔が見えてそれが原町の象徴だったのである

このたび竣工したライナ用8号新抄紙機は、環境面からニーズの高まる段ボール原紙の薄物化に対応するとともに、さらなる品質向上と、徹底した省エネ・省資源化が図られています。
今般新設備の竣工により、当社グループの東日本地域における段ボール原紙供給体制がさらに充実し、製紙・段ボールの一貫生産体制が強化されることとなります。
丸三製紙(株)は、当設備更新により今後とも立地する福島県南相馬市経済の一翼を担い、継続的な産業振興と雇用の場の安定確保を通じ、地域の復興、再生にも大きく貢献してまいります。

今はダンボールが紙より主な生産物となっている、やはり紙の需要が減ったからである
だから将来的に丸三製紙でも危ないかもしれない、そうなるとここも経済的に相当落ち込むとはなる、この辺は原発事故で落ち込んだからこれ以上落ち込むと悲惨になる
いづれにしろ北海道は自分にとって親しい場所であり興味がある
北海道はやはり東北とつづきの地としてある、ただ北海道は日本では大陸的でありそれが魅力なのである、外国人が北海道にひかれるのもわかる
ただもうすでに二十年以上を行っていないのである

posted by 天華 at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

夏野、夏の月、雲の峰  キツネノカミソリ(小山田村)


夏野、夏の月、雲の峰  キツネノカミソリ(小山田村)

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キツネノカミソリの名の由来
https://kurashi-no.jp/I0017882

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街の中朝よりひびく蝉の声

夕日さし競いて険し雲の峰

古墳にそ赤き花咲く夏の夕

烏群れ夏野に夕月安らぎぬ

一村や小山田村の実りかな


ひそかなる小径に一羽黒き蝶舞いさリ消えて行く人もなし

影なして庭石涼し籠もりつつ今日も暮れにき逢う人もなし


昨日も晴れて夏だった、それで雲の峰が夕べ見えた、しかし今日も晴れたが雲の峰が見えない、やはり季節が変わり見えないのか?
お盆が過ぎたのだから秋にはなっている、ただ夏は残暑がありまだまだであるのが普通である
今日は暑かった、暑いとぐったりして昼間に眠る、暑いというき下の部屋の前が広くコンクリートになっている、これが道のコンクリートからと重なって部屋が暑くなる
クーラーがあるからその部屋にいる

でも天気予報を見ると朝は曇りとかまた雨になっている、温度も下がる
夏はもしかしたら今日で終わりなのか?
何か天候が今年は変である、夏なのか秋なのかわからなくなる
晩夏という季語もあるがこれもなにかしっくりしない、夏と秋が混在したようになっているからだ

暑いから今日は6時過ぎて自転車で一回りした、小山田の方に行く小径は一日一人も通らない、そこを一羽の小さい黒い蝶が飛んでゆき消えた
小山田村は意外と遅く開拓された地域でもある
あの辺をまわるのは気持ちがいい、何か昔だったら一村一村が一つにまとまっていて
暮らしがあった、というのはみんな農家だったからまとまるのである

今はそういうことはない、また米をとるにしても米でもどこからでも入ってくるとなると貴重に見えない、現実自分自身がスーパーで外から入ってくるブランド米を食べているからだ、ここでとれた米を食べていないのである
すると何かつながりが感じられなくなる、それが現代のグロ−バルな広域社会なのであるでも津浪とか原発事故で外から食料が入らなくなったとき古米を配った
これは助かった、やはり外から米でも入らなくなると困るのである
それは日本自体がそうである、外国から食料でもいつも入ると限らないからである
中国と対立したりすると食料でも安いものでも入ってこなくなるからだ

私は巣籠り生活だと人に会わない、ここ一週間逢っていない、ただスーパーには行っている、遠くには行かない、仙台市にも行かない、こういう生活はコロナウィルスには強いかもしれない、相馬地域でも一人二人とか感染者が出ている、一人でも田舎では警戒する
ただ仕事している人は人と接触するから強制的にに職域としてワクチンをする

烏が群れて夏野に夕月がでている、ここで夏野としてたのはこの辺では田んぼが荒地になり夏野化している所が結構あるから田んぼではなく夏野となる
昔だったら荒地にしたりはしない、農業中心の社会だったらわずかの土地でも活かしていかないと暮らしていけなかったからである
今はそういうことがない、とにかく夕べは涼しいから気持ち良かったとなる




2021年08月20日

高校野球もコロナと雨にたたれ転換期に (あらゆることで意味が問われる哲学の時代に)


高校野球もコロナと雨にたたれ転換期に

(あらゆることで意味が問われる哲学の時代に)

高校野球もコロナウィルスの陽性者がでて東北学院と宮崎商業が辞退した
特に東北学院は新顔でありこれまでは育英とか東北高校が定番であり新鮮だった
だから注目していた、そしたら強豪の愛工大名電に買ったので余計に期待していた
つまり高校野球はプロ化していて勝つ高校はたいがい試合する前から決まっている
第一大阪桐蔭とかはまず大阪だけで勝つのが甲子園で勝つよりむずかしい
それだけすでに大阪で勝つことがもう甲子園で勝つともなっている
もう普通の高校では勝てない、プロを選抜する大会とまでなっている

実際に東北でも北海道でも甲子園に出たくて野球のために有力高校に入る
それが大阪出身が多いのである、そしたら地元の生徒ではないのだからそれは高校野球の目的に趣旨に反するものになる
だから高校野球自体今や高校のプロ化したものでありとても普通の高校では勝てない
北海道とかで優秀した高校でも9割くらいがそうして野球留学した人達であり大阪出身が多いのである
それはまず大阪で甲子園に出るとなると最もそっちの方がむずかしいとなるからそうなるそこにもう高校野球の趣旨とは違ったものになっていたのである

そして戦国時代でも勝敗には天候が関係して勝敗が決まったりする
信長の桶狭間の戦いでも嵐になってその時攻撃して勝ったとかある、関ケ原の戦いでも天候が左右したとかある、だから勝敗というのは必ずしも実力だけも決まるものではなかった、天候は人間の力で操作できない、左右できないからである

こうしてコロナウィルスなのに朝日新聞が強行させたとか批判がある、五輪は反対したのに高校野球はすすめた、その危険性を無視したとして批判がある
ともかく五輪でも高校野球でも天候がマラソンなどでも30人が途中でやめたとか天候の影響がある、だから東京ドームでやれとかも言われる
また暑すぎるから夏の盛りにやるのは問題だともなる
そして高校野球は本来の趣旨とは違ったものになっている
もはや大阪桐蔭のような一種の高校野球のプロ集団に勝つことができないからである
つまり始める前から勝敗は決まっているともなる
そうなると見る方でもつまらないとなる
でも東北学院が  に勝ったのは注目して期待したがコロナウィルスの陽性者が一人出て辞退したのである

五輪もそうだったがなぜ高校野球でもその是非すら問われるようになったのか?
オリッピックでもそれが一部の特権者の金儲けのためだと判明してIOCの会長がぼったくり会長として批判された、コロナウィルスの最中にオリッピックを強行することはありえないということもあった、でも菅首相はオリッピックで劣勢を挽回しようとした
でもそれもコロナウィルスの感染者が増加して裏目に出た
政治でも自然災害でも天候でもいろいろなことが影響してくる
特に今は本当にあらゆることでそんなことをする意味があるのか?
莫大な金をかけてする意味があるのかとかが問われる

何か宗教とか哲学の時代なのである、ただ盲目的に信じるカルト宗教団体すらなぜ存在しているのか問われる、それは本来の宗教ではないかとなる
それは創価の様な大きな団体だけではないのである
檀家でも跡継ぎがいないから墓じまいしたいからと言ったら200万の金を払いと要求されたとか訴える、寺は檀家は維持できなくなっているともなる
それは地域社会で農民社会でコミニュティがありその要にあり機能していた
でもそういう農民社会でもつながりが希薄化すると寺の存在理由が問われる
それは他の宗教団体でもその存在理由が問われているのである
なんのためにあるのか?となるからだ、ただ墓の管理のためにあるとなると別に市営の墓地でもいいとかなる、それはその存在理由がわからなくなったからである

他に銀行とか地銀でもそうである、投資信託とか詐欺まがいのものを売りつける
それはゆうちょでもしていて批判があった、これも高度成長時代が終わり利子がつかないことで金をあづけていて何になるのだとなっているからだ
貸金庫なのかとなる、それなら誰でもできるとなる、銀行はもともと起業して成功した人が資金を貯えてまたあらたな事業をするために生まれた
だから起業する会社をはじめる能力が必要にもなっていたのである
ただ金をあつめて借りに来る人を待っているだけの商売はできなくなったのである
そうなるとなぜ地銀でも銀行でもゆうちょでも存在するのかと問われることになった
これは社会全般に起きていることである、教育でもIT化や人工知能化で教師の役割も変わる、すると教育はなんのためにあるのかともなる

奇妙なことは引きこもりとかニートとかが増えたけどそれは機械化してAI化するなど
人間の仕事が減る、すると当然そういう仕事しない人も職を持てない人も増えて来る
それでそういう人のためにベーシックインカムが必要だとなる
つまり働かなくても最低限の収入を与えるという制度である
これもまるでユートピアにもなる、なぜなら働かないで暮らせるとなれば遊んで暮らせるとなればそうなる

でもここでもやはり意味が問われる

あなたはなんのために存在するのか?

あなたは何か価値ある存在なのか?

このことがかえって強く問われるのである
例えばこの辺で原発事故が起り漁業者は魚がとれなくなった、でも漁業組合は漁業権をもっていてそれを東電に売り渡したとかで強い権利があって事故前も手厚い補償金をもらって生活に困ることがなかったのである
でも事故後はそのことが問われた、なんでそんなにもらう権利があるのかと周りの人からも言われるようになったのである
そして仕事をしない漁師は何で俺はここにいるのか?
自ら自問したのである、それは別にその漁師が哲学などわからない、でもそう問うようになった、だからこうなるのは一部のインテリだけではないのである
あらゆるところで起きている現象なのである

マスコミだって今までは放送を独占して世論を作っていた、その権力も巨大なものだったのである、なぜなら六局しか放送する権利がなかったからである
それでマスコミに取り上げられて顔が写るだけでも有名人になり選挙でも有利になる
でもyoutubeのように個々人が放送局にもなれる、そうなると芸能人でも自らyoutubeで
芸を披露するともなる、youtubeですでに極わずかでもマスコミに出れず有名人となり
億の金を稼いだ人がいる、それはマスコミで有名になった人と似ているのである
そうなるとまたマスコミに何か存在意義かあるのかと問われる
マスコミとは何であったのかと問われる、今までは独占状態だったからそんなこと問われないのである

これはあらゆる方面で起きているのである

何の意味と意義とか価値があって存在しているのか?

あなたは何のために働き何のために存在しているのか?

それはあらゆる方面で起きているから一部ではないから現代の潮流であり大きく時代が変わる変わり目に起きている現象なのである
これは別にむずかしい専門的な哲学を学ぶことではない、それぞれの職場で日常の中で一般人でも問われているのである
また易姓革命があったように自然災害とか天候でもその変化をうながしているのというのが不思議なのである
とにかく高校野球はコロナウィルスに天候にたたられてさんざんだった
ただこれも高校野球も変わらざるを得ないものとして自覚させられたということである

オリッピックもそうだが意味と価値が問われる時代 
(何のためにするのかー哲学、思想の時代に)

posted by 天華 at 06:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

日本の戦争はなぜ起きたのか (アメリカの戦争の理由もわからない―意味が問われる時代)


日本の戦争はなぜ起きたのか

(アメリカの戦争の理由もわからない―意味が問われる時代)



日本の戦争はなぜ起きたのか

ベトナム戦争はなぜ起きたのか

イラク戦争はなぜ起きたのか

アフガニスタン戦争はなぜ起きたのか


これらの戦争に共通性はあるのか?それはあるとしたらアメリカの被害妄想意識とかかもしれない、太平洋戦争でも真珠湾攻撃がありそれを契機として恨みとしてアメリカが日本を徹底的に総攻撃でうちのめして最後は原爆を落とした
一見日本側から見ればそれだけのことをしたのだから当然だとアメリカではなる
でもふりかえるとアメリカとはそういう国なのだともみる

ベトナム戦争でも泥沼になった、この戦争の理由は共産主義に対抗するためであり米ソ冷戦があり自由主義陣営と共産主義陣営の戦いだともなっていた
でもこれもまた最後の方になるとなんのための戦争なのかわからなくなっていた
それで(地獄の黙示禄)という映画ができた、ただそこは人を殺す狂気の世界ともなっていたのである

そもそもそんな地獄を作りだしたのは誰なのか、アメリカだったとなる
ベトナムにアメリカが侵攻したときベトナム人は土着精神の愛郷精神でベトコンとなり耐えて勝利を治めた、それはアフガニスタンとも似ている
タリバンはベトコンなのかもしれないからだ、土着している土地を踏みにじったということで戦ったからだ、今でも土を盛っただけのベトコンの墓がそちこち見られる
また負傷した人が傷痍軍人が回って物乞いしていたりした
それは日本の戦後とも似ている

イラク戦争ではアメリカが化学兵器があると難癖つけて戦争になり攻撃した
実際は化学兵器はなかった、ヨ−ロッパとか多国籍軍を編成してイラクに突入した
日本は金だけを払いアメリカから責められた
同盟軍なのだから参加しろと強制されていたからである
この戦争の原因は9・11のニュヨークのビルの爆破で三千人くらい死んだことである
日本人も20人くらい死んだ
これに激怒してイラク戦争になったのである
それは真珠湾攻撃で日本にアメリカが激怒して原爆まで落としたのと似ているのである
そこに正義などないし戦争にそもそも正義などないのである
アメリカは2の被害があったら十倍にしても報復する
それは報復する力があるからその力を乱用する

それでなぜアフガニスタンでもベトナムのように勝てなかったのか?
強大な軍事力をもっていても勝てなかった、タリバンもベトコンなのか地元に土着しているしやはり地元の支援があるからアメリカでも勝てなかった
アメリカに空爆して殺されている住民もいるからである
つまり強いとその強さのためにわずかでも被害があると十倍になってもはねほかえってくる、アメリカを攻撃するものは絶対に許されないとなる

でもアメリカの戦争をみるとそれが正義とかないのである
アメリカの強さを誇示するものでありアメリカに逆らうものは許さないということなのである
確かに真珠湾でも三千人くらい死んだから被害が大きかったし日本は馬鹿だったとなる
アメリカという国がどういう国かわからなかったのである
その強大な軍事力であれ経済力を知らなかったのである
ただ日本側にすれば経済封鎖で石油が入らないとか窮迫していてやむをえず真珠湾を攻撃した、つまり追い詰めれていた結果なのである
そうして追い詰めたのはアメリカだったとなる

何かやはりアメリカは強大な力をもっているからそれが力の乱用になる
それが行き過ぎた結果となる
原爆まで落とす必要があったのか?それが疑問なのだけど日本はそれで完全に降伏した
日本側の問題は戦線を拡大しすぎたことである
日本側でも何の目的でアメリカと戦争になったのか明確はない
アジアの国々の植民地解放といってもそんなことを国民が意識していたのかという疑問である、戦争が終わって結果的にそうなったからそれを盛んに言う、戦争の理由にしているとなる

戦争にしてもそれが何千万人も死ぬ、するとそれ相応の戦争の理由があってもいいのだがそれがはっきりしないのである、ドイツのナチスにしてもそうである
その戦争の理由が明確ではない、ただドイツでも失業者が増大して国民の不満がありそれが戦争に結びついた、ただその理由は何なのかとなる不可解だとなってしまうのである
理由なき反抗とかの映画があったがそれとも似ている

そして戦争が終わって必ずその意味が問われる、なぜ日本は戦争したのだ

それは三百万人も日本でも死んでいるからである、そしたら犬死だった、その死は無意味だったとできないからである、もし明確な意味ある目的ある戦いとして始めていればこういうことはないのである
戦争が終わり莫大な犠牲者が出て一体この戦争は何のために戦争だったとなる
その犠牲が余りにも大きすぎたからである
最初から意味と目的がはっきりしていればそんなことはないのである

ただあらゆることが何かその意味とか目的が明確ではない、江戸時代辺りまでの戦争はただ権益争いであり強い者が勝利してその権益を得たとかわかりやすい、それはヨ−ロッパとかでも同じである、戦争は権力闘争であり権益を得るためだとということでわかりやすいのである
ただ現代文明の戦争はその理由がわかりにくいのである
そして今になるとあらゆることで意味とか意義とかが問われる
オリッピックでもその意義が問われた、高校野球でさえ今その意義が問われる
それはあらゆる方面で問われる時代になったのである
なぜなら日本でも三百万人死んだように犠牲があまりにも大きいからその意味が問われるその意味は戦争が始まる前によくよく考えるべきだったとなる
そうすればみんなその意味に納得して後で後悔することはないからである

アメリカがなぜこれほど強行に戦争するのか、そさは強大な力をもっていて少しでも傷つけられるとその十倍にも百倍にでも報復する
そして原爆まで落としたのである、そういう国だということである
だからいづれそれが大きなカルマとなる、アメリカは戦場になったことはない
日本のようにベトナムのようにイラクのようにアフガニスタンのように戦場になったことはない、だから一回戦場になったみたらその苦しみがわかるはずである
9・11のニューヨークのテロでは戦場になったような気分になった
だからあれほどのイラクとかテロ国家への攻撃となったのである
でも日本であれベトナムであれアフガニスタンであれどれだけの被害があったかみればわかる、その規模があまりにも違いすぎるのである
それで9・11のテロは日本のパールハーバーになったのである

とにかくこうして戦争でもその戦争中はあまり意味を問うこともない
でも終わった後に意味が問われる、なんためにこんなに死んだのかと問われるのが人間であり歴史である
近代の戦争は何かその戦争の意味が明確ではないのである
ただ近代兵器が生まれて犠牲が莫大になったのである
そして古代から戦争があったが近代の戦争では英雄というのは生まれない、日本の戦争でも3百万人死んでも何か英雄として語られる人がいないのである
ただ莫大な消耗戦のようになっている、だからこれも何なのだろうとなる

他にもあらゆる分野で意味が問われる時代になった
オウムとかカルト教団にしてもその時優秀な理系の大学を出た人が革命のために仏教の教義で逆らうものはポアしていい殺してもいいということを信じてサリンをまいた
ただその時こんなことしていいのだろうかと疑問をもったはずである
それもなく死刑にされるときひどく後悔したのである、麻原にだまされたとか無念の内に優秀な人が死んだのである、これも何か意味を問わないではじめた
またカルトだから宗教だったら殺傷は禁止なのにそれも正当化されたのである

創価などでも何のために宗教を看板にしているのかわからない、政治権力を得て権力を掌握することが目的なことは確かである
そうしたら宗教とは相反する、でも日蓮の教義では矛盾しないがそれだって中世のものであり適応されないのである
タリバンでも中世時代の宗教の価値観だから問題がある、おそらく江戸時代でありイスラム原理主義の政教一致なのである


共産主義にしても文化革命で一千万人死んだとかカンボジアで二百万人が死んだとか頭蓋骨が積まれて博物館になっている
この犠牲も何だったのだろうとなる、共産主義の暗黒がまざまざと示された
一応民主主義国家ではそういうことはありえない、反対勢力を一応認めるからである
でも共産主義は反対勢力は抹殺する意外ないからこれほどの被害がでる
それで欧米の民主主義とか法の支配とかが政治として理想でなくてもいいとなった
民主主義はまどろこしいというか手続きとかにこだわり話し合いになると簡単に物事を決められない、だからコロナウィルスでも緊急時には弱いとなった
強力にコロナウィルスに対処できずに感染者を広めたということがある

ただ共産主義にも問題がありそれは反対を認めない、抹殺することである
権力をもったものはどうしても反対勢力を嫌う、すると権力があるからそれで抹殺できるその権力の乱用が怖いのである、権力を監視するものがないからである
だからどうしたら反対勢力でも存在させる仕組みが必要になる
タリバンなどにはないから反対する者は許さない戸なり暴力で排除してしまう
そこで反対するとなる死者が出てそれも多くの死者が出て犠牲が大きくなる
それも大問題なのである

結局こうして社会の大きなことでも何のためにするのか、その意味と意義が問われる
それはあらゆる方面でそうなのである、だから哲学の時代でありどこでもなぜなのか
何のためにするのか、あるのかが問われるのである
それは別に哲学という学問をする一部のものではない、あらゆる方面に庶民でもかかわり問われているのである

とにかく人間個々人でも死ぬと必ずこの人の人生は何だったのか、何の意味があったのかとか問われる、例えは巨額の財産を金を残したからと必ずしもそれが意味あるものとして評価されないこともある、でも財産を残さなくてもその意味や価値が問われてそれが価値あるものとして認められることもある、歴史的価値あるものとして認められることもある何か死んだ後の価値は必ずしも財産ではなくなる
組織団体でも意味が問われ個々人でも死ぬと必ず意味と価値が問われる
それが人間である、動物にはそんなことはないからである
人間の人間たる所以はこうして何のために生きるのかとか何のために生きたのかと意味を問うことにある、だから莫大な犠牲を死者を出してもそれに何の意味があったのかと戦争が終わった後に問われるのである

posted by 天華 at 18:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年08月21日

アフガニスタンで副大統領が北部で反撃 (地理がわからないと世界はわからない―要衝の地としての歴史)


アフガニスタンで副大統領が北部で反撃

(地理がわからないと世界はわからない―要衝の地としての歴史)

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古代ならペルシャ、今はイラン、インドがあり中国が迫る
その影響を受けてここは支配が変わったのである
インドの王朝の一部にもなったことがあるからだ

アフガニスタンの山の高さ

 3000−4000mがほとんどである

ここの地図がわかりやすい



アフガン副大統領が唯一タリバン支配の及んでいないパンジシール州で挙兵

ヒンドゥークシュ山脈(ヒンドゥークシュさんみゃく、パシュトー語/ペルシア語: セF/HゥO4)とは、主にアフガニスタン国内を北東から南西に1200kmにわたって延びる山脈。一部はパキスタン西部にも広がる。

急峻な地形ゆえ、山脈周辺では土砂災害も発生する。1971年7月下旬にはケンジャン峠付近で発生した地すべりが集落を押しつぶし、1000人以上が死亡している[2]。

ヒンドゥークシュ山脈は古来から東西南北の交通の障害となってきた。このため重要な峠が点在する。中央アジアとインドを結ぶ峠道が多数あり、ハワク峠(英語版) (3548m)はアレクサンドロス3世(大王)やティムールが通過している。シバル峠(英語版)(2978m)、サラン峠(3363m) はカーブルと中央アジアのマザーリシャリーフを結ぶ重要な道路が通る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%
82%AF%E3%82%B7%E3%83%A5%E5%B1%B1%E8%84%88

アフガニスタンの主要作物であり、主食の小麦の生産量が今年は440万トンから370万トンに減少。7月25日には緊急援助委員会の委員長を務めるモハマド・カリム・カリリ副大統領が、250万人が深刻な食料不足に苦しんでいると明らかにした。

水不足、干ばつ、自然災害が問題の根源にはあるが、農地の3分の2が灌漑用水に頼っているアフガニスタンにとって、ダムの建設や配水システムの整備が緊急課題である。


このおっさんは単にタジキスタン系なんでは
タリバンはイスラム主義ではあるがパシュトゥーン人主義でもある
だからこんな難しい国の統一を武力でないと維持できない
イスラム帝国でアラビア史上初めて部族の枠を超えた一致を見たのに
それはクライシュ族至上主義の上には立っていたけど
今のイスラムは原理主義でもそうでなくても結局部族単位で行動してるから
いつまで経っても一つになれない

北側も東側も標高7000m級のパミールの高山が続くから包囲なんて出来ないのよ
南側も6000m級の山岳地帯なので実質西側から攻めて来る敵だけ対処してれば良い
それでも山脈の間抜けて騾馬や航空機でタジキスタンと繋ぐ補給路はあったりする



国際政治を理解するには地理が基本にある、地政学が大事になる
アフガニスタンの地理でも理解するのが容易ではない、6000メートル級の山岳地帯ということが理解できない、地理は地図を見てもわからない、地理はまた意外と交通機関が発達するとわかりにくくなる、峠があっても電車でトンネルで行くと地理を実感しないのである
だから私は常に飯館村まで自転車で坂を上って行っていたからそこが高原地帯になって別世界のように感じたのである、標高400メートルとかなれば結構高いからである
八木沢峠でも車で行っても相当な七曲の坂だからである
ただなぜそこが古くから相馬地域の鎌倉から来た岩松氏の支配下にもなっていた
それを受け継いで相馬氏の支配地域となった、確かに山にさえぎられているのだがやはり一体化する地理にあったともなる
また木材資源がありそれを得たいとなり塩の道ができたことも関係しているかもしれない
とにかくアフガニスタンは山岳民族が跋扈する中世の時代だとも言われる
部族が蟠踞して高い山にこもる、となると自然が障壁となり攻めにくい、ゲリラ戦には向いている、だからなかなかロシアでも手を焼いて撤退したりして支配できない
またアフガニスタンでも統一がむずかしい

例えばペルシャとかモンゴルとか平原と草原とかつづいていると大帝国ができやすい
なぜなら遮るものがなくその領土は拡大できるからである
それでモンゴル帝国がヨ−ロッパまでも進出できた所以である
確かに日本でも山が多いからヤマトともなった、でも6000メートルとか7000メートルの山ではない、それなりに越えられる高さなのである
そういう高い山は日本にはないからイメージできなくなる

ナンは現在のイランを起源とし、その後メソポタミア、古代エジプト、インド亜大陸に伝わったと考えられる。語源はペルシア語。

主食としてのナンがペルシャ起源で古い、古代エジプトに広まったというのも驚きであるナン文化圏は広いのである、食べ物から世界を観るとわかりやすい、でもこんな古い時代からあったとなると意外である
アフガニスタンは農業の占める割わい一割にも満たないとかあり盛んではない
平坦な地がなく山岳地帯だからである、そしてその山岳地帯には木がない
一般的に日本のように木に覆われた山はまれである、日本の山は世界から見れば例外なのである、エジプトのシナイ山でも一本の木もなかった、荒涼とした風景だった
岩山であえ砂山である
そして木がないから土砂災害で千人も死んだというときその規模が大きくなる
木は水を貯えるからである、保水能力があるから日本では常に山から水が供給されて田んぼがありうる、アフガニスタンとか砂漠地方だと木がない森がないから雨が急激にふると鉄砲水になり川がたちまち洪水のようになる、砂漠の川はそういうものである
灌漑が水を供給することが大事になる、例えばイスラエルとかも半分砂漠だけど水を供給するシステムを作り果実などがとれるようになった
水をどうして供給するかが問題になりそれが文明を産んだとなる
アフガニスタンの耕地向きが12パーセントでその一パーセントしか利用されていない
だからアヘンの栽培が主たる産業にもなってしまうのである
中村哲氏が灌漑事業の手伝いをしたのはそのためである

そして回りの国々との関係もわかりにくい、実際はアフガニスタンというまとまった国はなく部族がそれぞれの地域で支配している、統一国家となっていないのである
だから北部同盟がありそこに副大統領は逃げてこもりタリバンに抵抗するとなった
これだけ山が高く多いとそれぞれが独立していて統一することはむずかしくなっていた
だから外国勢力でも支配できなかった、ゲリラ戦になると強いということである
ベトナムでもべトコンは地下にもぐりゲリラ戦になりアメリカに負けなかった
ジャングルがありそれで阻まれたこともある、また食料はイモでありこれは意外と早く成長するから食料は供給できたことも勝利の原因だった
結局地の利があり土着愛郷精神がありそこにずかぶかと踏み入ったアメリカは敗れたとなる
アフガニスタンもそれと似たものがあった、地の利があり抵抗がありゲリラ戦に向いていたので支配できなかった

またここは地理的要衝であり中国でも一帯一路でここを通過してパキスタンから海に出れるということでタリバン政府をいち早く承認した
ペルシャとインドを分けるヒンド―山脈やカルバル峠は有名である
ここは玄奘三蔵も越えてインドに向かった、アレキサンダーもここを越えてインドに向かったでもインドではさはに広い国があり引き返したとなる

そしてアメリカの問題はアメリカ本土は日本でもそうだしヨ−ロッパでも離れている
アメリカの本土自体が戦場にならないことが有利になるしそれで本気にならないということもある、もし地続きだったら本土が攻められて侵略されるから恐怖となり戦い方が違ってくる、常にはるか後方にあって安全地帯にあるから戦い方も違ってくる
別に不利になったら戦闘をやめて本土に引き上げればいいとなるからだ
それがまた問題になる、中国とかロシアは陸の大国であり陸続きで隣国と接するから
常に責めて来る恐怖となり万里の長城が築かれたのである
アメリカは遠い島国でありそういう本土が攻められるという恐怖はない
ただミサイルとなる核ミサイルで攻撃されることを一番恐怖している

つまり今回のアフガニスタンは常に自分の国が直接陸伝いで攻められる恐怖がないということで戦い方が違ってくる、真剣にもならないともなる
それで中国が脅威となるときアメリカは果たして対抗できるのかするのか疑問になった
つまり日本の基地でも引き上げるということが見えたからである
アメリカは別に本土にいつでも避難できなるからである
ところが陸続きだったらもうそこから避難できない、そこで戦い死ぬほかないとなる
だからアメリカは簡単に撤退するということが見えたので日本でも自主防衛しなければ中国でもロシアでも簡単に支配されるとなる
つまりいつでも逃げられるから無責任にもなる、でも日本でも他でも逃げる場所がないのである、すると本土決戦とか一億総玉砕とか悲愴な決断になるのもわかる
そういう集団はいくら軍事力が経済力などがあっても戦うとなると相手は死にもの狂いなのだから怖いとなる
そのため本土決戦になるとアメリカ軍の被害が死者も増えるから原爆を落としたのだともされる

ともかくアメリカ軍は同盟軍のヨ−ロッパの人達も助けないとなった
アメリカの信用が失ったともなる、アメリカはあんな簡単に撤退するのだという事実を見てしまったからだ、ともかく陸と海との戦いがありアフガニスタンは陸の孤島のようになっていたのである、だからそこを侵略することは古来から手こずっていたのである
だから世界でも世界史でも地理がわからないと基本的に理解できないのである
この地理を理解することがともかくむずかしいのである
アメリカに一回くらい行ってもその広さをまず理解することは不可能である
そこからすでに理解できないとなるのである
中国でも同じである、あまりにも広すぎてわからないとなるからだ
世界を知るには本とか地図見たりしてもわからない、実地に路査して見聞した方がイメージできるようになる
それで50歳になってやっと世界旅行したバックパッカーになってしたことが今になると活きてくる、ただ遅かったとはなる

アフガニスタンの詩

その谷間は深く雪解け水が流れ
峠のかなた万年雪の高峰が連なり迫る
その山々に閉ざれて侵入者を拒む
独立の気風が養われて古来よりよせつけぬ
ロシアは去りアメリカも去る
唯一の神、アラーの声がひびきわたる
純白の雪に閉ざされた高峰のように
・・・・・・・・

山は独立の気風を養う、平地には人が交流して都市が生まれるけど山は閉ざされて独立する、高い山を見ていると自ずと精神的にそうなるのである
ただこの辺には海があるけど高い山がないからものたりないのである
何か精神を涵養するものがないのである

 山国の欠点にして、国を山間に立つるもの民は狭隘にして遠大ならざる理由なり
 山国の民の特徴として激烈な愛国心を有するにと同時に、嫉妬憎悪の念深く、
 針小子細の過失は百世にわたる怨恨の基となり,郡は郡と争い、村は村に抗して
 外に強敵の犯すなき時は..紛擾の中に日を送るをもって常とす
 
 (内村鑑三ー地人論)
 
 これがまさにアフガニスタンである、このように山岳地帯は個々に山に遮られて独立しているから融和しないのである
紛擾とは乱れるさまでありまさにアフガニスタンはまとまらず分裂するのを常としている
モンゴルは平原だからまとまりやすくモンゴルの大帝国が生まれた原因である
posted by 天華 at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年08月22日

金を残しても死ぬと価値がない (金は実際は紙きれにすぎない-人生の意味と価値)


金を残しても死ぬと価値がない

(金は実際は紙きれにすぎない-人生の意味と価値)

この世の中すべて金になり金で判断する、収入でも金で計算されて価値が判断される
生きている時はみんなそうである、でも死んだ時その人の価値は何で判断されるのか?
一億円残したからこの人の価値は一億円になるのか?
それをもらう人は子供の世代はその一億円は相当な価値になる
なぜならまだこの世を生きるから価値があり親の価値も金の価値にもなる

でも死んだ時不思議なのはあの人は一億円残したから価値ある人だったとなるだろうか?その金をもらえない人はその金で人の価値を判断するだろうか?
死ぬとその人が生前に残した物でその人の価値を判断する
例えば古い特別な家を遺したものを放送する番組がある
するとその金持ちの残した家が文化財のようにもなる
それはあくまでも金ではその人が残した家がその価値だとなる
それは別に家族でなくても文化財のようになれば他の人も見ることはできる
立派な庭でもそうである、その価値は家と庭にあったとなる
金持ちでもその金をどう使ったかで評価される
多額の金をもっていてもそれを子供たちに遺産として残したとしても評価するのは子供たちだけだとなるからだ

人間はすべて金に換算される時代である
でも死んでしまうと何で価値が判断されるのか?

ここのことを思って生きている人は意外とまれだろう、死んでしまったらその人の人生が何であったのか問われる、歴史的にでもその人の価値が何であったのか問われる
なぜ陸軍二等兵とか他でも墓に戦死したのか、位が記されているのが多い
でも今になるとそんな位に何の意味が価値があるのだろうか?
何か軍人であることが価値があるとされた、でも今になるとその墓を見て位を見てこの人は偉い人だったとみんな見ているだろうか?
ただ戦死者か無益だったとかではない、でもそうして今でも墓に記された軍人でありその位に何の意味があるのかともなる
それを墓に記したのは当時だったら社会的意味があり社会でも注目しいたからだとなる
軍人は威張っていたというときそうである、それはミャンマーとかの軍事政権となると軍人が一番威張っている、中国だと共産党が一番威張っている

でも必ずこれも時代によって変わる、共産党でも永続しないからである
それはあくまでも集団として組織としての価値なのである
個々人の価値なら例えば科学に尽くしたとか芸術で貢献したとかいろいろありそれは人類的普遍的価値ともなる、だからそれらは長く残ることがある
でも実際百年後に残るものがどれだけあるのかとなるとほとんどなくなってしまうのが人間社会なのである
時代によって価値は激変することがある、それが戦後に起きたのである
国民全員が鬼畜米英になっていたのにまるでアメリカ様様になった、それを経験した人は何んなのだろと理解できなくる、あまりの変わりようだったからである
白だったものを黒にしてしまったからである

ともかく死ぬとその人の人生は何だったのと問う、歴史的になれば戦争で三百万人も死んだのは何だったのだろうとなる、その意味が問われるのである
第一三百万人を死んだのを無駄死にだった、犬死だったとは言えないからである
それなりの意味と価値をもたせなければ浮かばれないとなってしまうからである
でもどうしても陸軍二等兵という墓があったとしてそれに敬意をもていないのである
他の人でも敬意をもっていないだろう、それだけもう価値観が変わったからである

何か家のことに私はこだわるのは結局残されたものが家だからである
もちろん金も遺されたとしても具体的に残されたのは家なのである
それでこの家は広くていいなとかここに家族が寝ていたなとかふりかえる
また台所に母がいて料理してくれたな、それも60年とか長い時間だったなと
つくづく私は今度は自分で料理したり台所で働くからそのことを一層感じたのである
意外はそんなこと当たり前のことだと思っていた、でも全部自分で家事をするとなると大変だなつくづく思った
料理するにも種類が多すぎるのでいちいち冷蔵庫をチェックしているのも手間で忘れてしまうのである
それからプログとか毎日書いたり本を読んだりするから手が回らないのである
それでありあわせのもので食事はすましているのである

虫の声夜にかすかに我が母の台所にありその日の長しも

私の母親は嫁いできても女中と同じだったのである、働き詰めで終わったのである
そして今自分がその台所にいるのもカルマだとなる
そして死んでから感謝して供養してごくろうさんという、ただ死ぬ前に5年くらい介護したことで喜ばれたので恩返しが多少できたとして救われたのである
そうでないと何か一方的になり母も不満のうちに死んだからである
そこで介護の問題が苦しいけど何か死後にも人間は関係がつづくからむずかしいのである現実に子供を恨んで死んだ人もいるし結構そういう親はいる
せっかく苦労して育てたのに子供に冷たくされたとか普通にあるだろう

ともかしく親が死んで一番感じたのは確かに金を遺してくれたからありがたいともある
でも一番感じるのは残された家なのである、それで家のことを延々と語っているのである家にいるとやはり親のありがたみがわかり家に感謝するのである
他に具体的には残したもので感じないからである
だから家には依然として家族がいるという感覚になるのである
この家を支えて来たという時、家という建物だけではない、家族がいて私は支えられていたとなるからだ、そこで家に感謝しているである

ただその他で残したものはない、庭は狭いしそこに何か感じるものはない、むしろ死んだ後に自分が頼み作ったものだともなるからだ
こうして具体的なものとしては家が残されたものとして意識する
他にその人によるそれぞれの人生がありその人生を振りかえりそこに価値を見出す
その人生をふりかえることは価値があったとてももう金にはならないものである
死ねば人間はやはりHistory-story(物語)になる
ものー語りとなるがやはり死ぬと遺された物を通じて死者を想うからそうなる

それが具体的だからわかりやすいのである、画家だったら残された絵を見てその人を偲ぶとか価値づける、芸術家の場合は残した作品から価値をみる判断するとなる
でも別に普通の人でも生きた一生があり判断される
でもカルト宗教団体とか党派の団体とか会社とかの組織団体に属して生きた人はそれが一生なのだけどその団体組織が消失したときその価値も消えるとなる
百万人会員がいたとしてもその価値は百万分の一なのである
その組織はやがて消滅する、それは生きている間にも起こる、退職すると大企業に属していても価値がなくなるからだその人の価値はすべて会社に属している価値だったからである

とにかく人間の生きる意味とか価値とかは意外と死んでみないとわからないのである
死んだ時純粋にその人の生きた価値とか意味が問われるからである
つまり金をいくら残したとかではない、他者にとってはそれはもらえないのだから関係なくなる、ただその人自身の純粋な意味とか価値が問われるのである
この人はこういうことをして一生を終えたとかになりストリーとなりその価値が判断されるその女性は何か自分にはわからなかったけど大正生れて本当に馬鹿正直な人だったのである、それで私の家族が認知症になったときその女性だけが相手にしてくれたのである
認知症になると親しい人でも相手にしなくなるのにしてくれていたのである

でも別にその人に私の家族が良くしたとはならない、むしろ冷たかったかもしれないのである、でも認知症の介護に苦しんだからその人に感謝することになったのである
この人いい人だったなとつくづく感謝するようになった
つまり自分自身がこの女性の価値を認めてそうなった、それは金とは関係ないことだったのである
他の人は介護になってかえって金を奪うとう金をよこせとか脅迫するような人達ばかりだったから余計にその人を思うようになったのである
だからこうして金だけで価値は計れないである
また何かその男性には世話になったことがありそれを恩に思ってその人が病気になったと世話している女性がいる、それもまた金のことは関係ないのである
むしろいくら金をやっても人間はそれを恩とも思わないし感謝もしないのである
だから人間はすべて金で計るわけでもないのである
それで「金の切れ目が縁の切れ目」になるのが普通なのである

ただいやいやながら金をもらうからしているというとき本心が必ず現れる
絶対に人間は無償の行為はつづかないからである
必ず見返りを要求するようになるからだ
最初から見返りを要求する人もいる、いくらくれるなら助けてやるとかまでなる
でもここに倒れた人がいればお前俺にいくらくれんるんだとか言っていくらなら助けてやるとかなるとそれは脅迫なのである
私は介護でそうして金で脅迫されてきたからである
それは後で世話になったからと金をやるということもある、でも窮地にあるとき金を払うから助けてくれとはなれないのである
それでまず救急車は無料で運び後で金を要求するとなっているのである

いづれにしろ人間はすべて金で価値は計れない、それが死んだ時それがわかる
その人の価値がわかる、この人はこういう人だったなとわかる
それは家族でもわからない、親のことでもわからない、子供なら親が尽くすのが当たり前だと思っているからである、それが自分が親になったり死んでから親の苦労がわかったりして親に感謝するとなる、ただ親でもいろいろり毒親も多いからみんなそうなるわけではないのである
ただすべてを金で計ることはできないし、金は紙きれでありそれが実際の価値とはならないのである、それが死んだ時はっきりするのである