現代文明は互いに人と人が理解しえない社会
(無数の職業と見知らぬ人が交わり意思疎通がてきない)
なぜ他者が理解できないのか?
その理由は職業が違っていると相手をそもそも理解できなのである、人間は何から判断するかとなると職業から判断するからである
外国で「あなたのプロフェショナルは何ですか」と聞かれたときそうである
あなたの専門は何なのですかということでその人を判断する
私の場合は無職だから答えようがなかった
別に現代だから他者を理解できないということはなかった、古代からでもすでに人間は理解し合うことがむずかしかったのである
それで鉄作りする人たちは特殊な人たちと見られて伝説になった
農民などはそういう人を理解することがむずかしくて一つ目とか足が悪いとか妖怪とかに見られていた、神秘的な存在となっていたのである
ただ稲荷神社というとき鋳成り神社であり鉄を鋳る、鉄の道具を作るということでその道具を祭ったからである、農業と道具は不可分な関係にあったからである
農民にとって鉄を作り鉄の道具を作る人は不可解であり神秘的であり謎でありそれで伝説にもなった
木地師でもそれも技術者であり曲げ物とか木の器とか山の奥で作っていたので「椀貸し伝説」が生まれた、技術者はやはりその土地の人でもできないことができるから神秘化されたのである、また天狗や山姥伝説とかでも山の中に何をしているのかわからない
互いに人と人は交わらないからそういう伝説が生まれた
この辺で残っている昔話で隣村から麦付きに来た若い男が蛇だったという伝説が残っている、隣村から来た人もそうして神秘的なものとなっている
それは隣村でも人と人はあまり交わらないからそうなる、こういう社会が江戸時代まで普通だったのである
飯館村の大倉村と隣の佐須村で明治以降に合併しようとしたとき民情が違うからできないとししてしなかったのである、隣の村でさえ理解しえないからそうなっていたのである
それからみると現代はほとんど小さな町でも見知らぬ人と交わる、隣は何をする人ぞとなっている、戦後まもなくと戦前なら農民が多いから何か見知らぬ人はまれである
狭い村内で見知った人たちとつきあい、共同作業していたのである
だからそこは閉鎖的な空間であり容易に他者が知らない人が入りこめる所ではなかった
そういう心性は田舎では村では残っている、よそ者を警戒するからである
何か戦後まもなくでも回りを見ると篭屋とかあれば竹で篭を作っていたとか塗り屋とか漆塗り職人がいたとか大工とか指物大工とか石屋とか何か近間で用をたしていて何をしているのかわかる人が多かったのである
人間は狭い範囲で生活していた、豆腐屋があって豆腐を作っていて近間で売っていたとなる、何か一万くらいの町になるとその人が何をしているかは明確にわかっていた
だから見知らぬ人というのはほとんどいないし交わることがなかったのである
それで戦後十年くらいの体験は貴重だった、第一炭が燃料だった時代だからその炭は地元の木材から作っていたからであり街内でも囲炉裏があったからである
これをふりかえるそれは江戸時代の生活と変わりなかったのである
現代の特徴はとにかく見知らぬ人が多く、近くでも何をしているのかわからないのである30年くらい隣にいる人が何をしている人なのか職業なのかわからないのである
それが一万くらいの町でもそうなのである、それだけ職業の種類が増えてわからなくなったのである、第一農民とかはもう一割くらいしかいないからである
こうして今は田舎だからといって昔のように人情にあついとかはなくなった
それは田舎でも実際は見知らぬ人が多くつながりが希薄化したからである
人間は毎日仕事をしている、その仕事の中でつながりができる、でもあまりにも多種多様な職業に分化したときそのつながもりもなくなったのである
さらにグロ−バル化すると世界のモノやヒトまで入ってくる、まず世界から物は戦後まもなくは入ってこなかった、自給自足が基本でありその土地にあるもので生活する他なかったのである、そういう生活は江戸時代からつづいていたのである
戦後高度成長時代になったときそれが急激に変わったのである
こういうことは都会では東京とかなるとすでに見知らぬ人の中で生活をともにするのが普通になった、電車に乗るにしてもそこは見知らぬ人たちが一緒になる空間でそれで江戸時代から明治時代になったとき違和感を感じたというのもわかる
汽車ができたとことで関所もなくなり一気に遠くに行くことができるようになった
でもそのことは大きな変化でありとまどうことになる、見知らぬ人とか見知らぬ世界に行くことは不安にもなるからだ
だから古代でも
山科の 石田の社の
皇神に 幣取り向けて
我は越え行く 逢坂山を
未知の世界に出る不安があり幣を取り向けて行くとなる、これが人間の心情であり理解できる、むしろこれだけ見知らぬ人と交わる世界は人間として普通ではない、異常と感じてしまうのである、絶えず見知らぬ人と交わるのが常態化しているからである
異郷になるとやはりそこにどんな危険がひそんでいるかわからないからである
コロナウィルスのように疫病が常にあり恐れてもいたからである
現代とは例えは東京の通勤電車でも見知らぬ人がぎゅうぎゅう詰めになって運ばれる
その人たちはみんな見知らぬ人なのである、何をしているのかもわからないのである
そういう生活をしていればそれが当たり前となるが人間として異常なこと異様なことともなる、なぜなら江戸時代にはそんなことはなかったからである
長屋があってもそこで見知らぬ人が浪人など来て住むとかあるが実際は一つの長屋から別な長屋に移ることはなくそこでずっと知っている人と暮らしていたのである
見知らぬ人が交わるような江戸でもそうだったのである
おそらく見知らぬ人とは無宿人となっていたのかもしれない、そういう人は宿なしでありどこに住んでいるのかもわからないから犯罪人にもされていたのである
なぜこんなことを語るのかというと文明とかグロ−バル化社会というのはそもそも見知らぬ人と交わる世界でありそれが世界的に拡大した世界である
外国人こそ見知らぬ人であり理解できない人だからである、言葉さえ通じないからであるでも田舎でも中国人とかベトナム人とかネパール人とかいるのである
それこそ理解できない人たちなのである、こういう社会では何か人間の間で摩擦が起きやすい、要するにもう共同体というのがないのである
様々な職業の人がランダムに交わりカオス化しているのである、そもそもこうして現代は他者を理解しにくい時代なのである
一見広く交わり知らないことでも知るということでいいことのようにみえてその反面マイナスの面も大きいのである
それは人間の精神の安定性が喪失したことなのである
つまりグロ−バル化となると村でも田舎町でも実はその中に組み込まれる
物流でもそうであり炭を燃料としていたものが石油となるときその石油は中東とか遠い外国から輸入する、石油無しでは日本は破産するとまでなっているからだ
でも石油なしでもこれまでは生活できていたのだからそれで破産することはないのであるでも電機がなければもう暮らせないとなる、それで原発でも電気を作るからそれが最も大事なものなり大事故になり故郷にも住めなくなったのである
人間のアイディンティティは狭い範囲で作られて来た、ギリシャのポリスでも一万くらいの規模でありそこで民主主義の起源があり投票で指導者を選んだとなる
日本だと村の規模でアイディンティティが作られて来た、それは500人くらいだとなる、そもそも人間が顔を見合わせて関係を作るのはそのくらいの人口なのである
もう十万とか百万とかなったらそれは見知らぬ人たちの集合であり何かアイディンティティを作ることはむずかしいとなる
ヨ−ロッパの中世の都市でもフィレンツェでも五万くらいなのである
ヨ−ロッパのアイディンティティは小さな都市でありシティズンシップが形成された
それでパスポートにはシティズンシップとして都市名が記すのである
それは今の百万とか一千万とかの大都会ではない、そういう五万くらいの都市からルネサンスが生まれたことは驚異的だともなるが反面そういう狭い世界だからアイディンティティが形成されたとなる
文化とはcultureはcultivateでありその狭い範囲内の土地を耕すことが生まれている
文化とは例えば農作物でもその土地の名を印したものが多数ありワインでもその土地の名がついているものがある、基本的にその土地でとれるものが文化となる
だから土地をもたないものには文化は生まれないのである
文明と文化は違う、でも文化こそ基本的なアイディンティティを作る場所だったのである
江戸時代なら500人くらいの単位の村がアイディンティティを作る場所でありみんな顔見知りの人たちだったのである、だからそこに見知らぬ人など入りこめないのである
それで商人は村の中に受け入れてもらうために苦労したとなる
そして不思議なのは神社で市がたったがそこは無縁の場所として特別に設置されたのである、無縁だということはよそ者が無縁の人でありそこで自由に商売できたとなる
無縁のよそ者が特別に入ることが許されたの神社の市だったのである
そもそも神社となれば土地の祖先とか神を祭るのであり無縁の人は入れないのである
現代では逆に無縁社会になっている、膨大な人が大都会に集まっても無縁の人達であり
そこで孤独死などが必然的に起きて来る
ただ大都会だけではない、田舎でもすでに石油でも様々なものが外国からでも入ってくるのだからグロ−バル化して人間関係からすると見知らぬ人が交わる世界になっているのである
こうして現代の異様性が作られて来た、異常なことが異常でなくなり常態化する、見知ら人と交わるのが普通でありそこに抵抗感はないのである
そこからナチスが生まれたというとき何かつながりが得られない、そこで一つのものとして連帯を求める、それがナチスであり大衆は一体感を感じて膨大な人間が死んだのであるユダヤ人の迫害があったとしてもガス室に送ったとしてもそういう人種差別だけでない
現代文明の異常性が異常を産んだともみる
それはピカートの本でも指摘されたしまたマルクスの思想でも貨幣が神のようになるとか人間が物化して疎外される世界を指摘した
どうしても物の交換とか物流は世界的にでも広がり安い、物なら抵抗なく受け入れられるでも人間が移動してきたり移住するとなると全然違ったものになる
人間が理解しあうことが強いられるからである、物を交換するのとは違ってくるからだ
外国人労働者でもそれは背後にその出身の国を背負っているし文化も違っている
単なる労働力として受け入れることも実際はむずかしいのである
人間は物ではないし人間一人でもそのバックに国を背負い国の歴史を背負いとかアイディンティティがありそこでロボットのように働かせることはむずかしいとなる
現実に低賃金で働かせられて日本人を恨んで帰る人もいるからである
グロ−バル化とは人間同士がグロ−バルに交わりいいこととされてきた
でもそれが全部はいいとはならない、そのマイナス面が大きくなってきたのである
それがコロナウィルスでもそのことが大きな問題になった
なげならウィルスは人から人へうつるのだから人流を減らすほか防ぎようがないからである、だから必ずしも人がグロ−バルに交わるのはいいとはならなかったのである
ただ文化の交流は必要である、日本だっから海に囲まれているから中国から漢字でも取り入れるとかは必要だった、ただその時文化の交流であり日本に外国人が住むということはなかったのである、その前の古代にはあったにしろ日本国家が形成されてからは無制限に外国人を入れることはない、国家ができて国家を維持するためにそうなった
いづれにしろ現代文明の問題はあまりにも無数の見知らぬ人によって交わり作られる社会である、選挙にしてもだから一票を投じてもその人の顔など見えない、10万とか百万の票を得なければならないとなる一人一人の顔をなど見えないのである
ただ市町村議会選挙などはかえって一人一人の票が重くなり一人一人の顔が見えるともなる、こうして巨大化した大衆化した社会というのは様々な問題を産んでいる
選挙にしても半分が投票しないとしたら機能していないのである
それは数が多すぎるからそうなる、地方の市町村選挙だったら一票が重くなるから顔が見えるとなる
現代とはともかく広域化とかグロ−バル化とか社会の単位が拡大してそれで社会をそのものを理解できなくなったのである、そして人間が理解する範囲は実際は顔と顔を見合わす狭い範囲でありそれが現代のようにどこまでも拡大化するとただ人間は数字になるのである、統計的数字なのである
そうしてコロナウィルスでも感染者が数字て示すけど3000人になった5000人になったとかなっても危機感を感じない、それより隣の人が家族が一人感染者になって苦しんだということが実感になる、つまり人間の感覚は狭い範囲でしか実感できないのである
そもそも中国が14億人いるとしてその社会を理解できるのか?
実感できるのは顔を知る人の話であり実際はわからないのである
それはアメリカでもそうだし外国となると余計にそうなる
そこに大きな誤解が生まれる!
それが戦争にもなる!
現代の問題は広域化グロ−バル化して見知らぬ人が交わる世界でありそこで互いに理解しあうことが実際は不可能になっているのである
ある時問題が起きる時コロナウィルスでも原発でもそうして互いに人と人がまず理解できない、感染症の専門家と政治家とかでも意思疎通がそもそもできないとかなり混乱する
原発でもそうだった、そこに働いている人は地元の人にとって理解できない人である
秘密のベールに隠された人たちである、原子力の専門のことを言われても理解できないからである
こうして理解できない見知らぬ人が交わる世界は何か大きな問題が起きると意志疎通がそもそもできないのだから収支がつかなくなる、混乱するだけだとなってしまうのである
そして遂には文明自体が自壊するともなるのである、それはバベルの塔と同じなのである文明とはバベルの塔なのである、天に達するような摩天楼を作ってその下で人間は無数の職業と専門家に分かれ意思疎通もできなくなるバベルの塔は崩壊する
原子力の言葉とか法律の専門用語とかそして外国人とも言葉が通じないとかなりカオスとなり世界が一つになるところではない、かえって分断されるのである