2021年07月24日

オリッピックがなぜ意味がなくなったのか? (グローバル化によって失われた文化の価値)


オリッピックがなぜ意味がなくなったのか?

(グローバル化によって失われた文化の価値)

オリンピックに200か国も参加しているのには驚く、東京オリッピックでは90か国だった
知らない国が小国が多い、そんな国があったのかと見る
ただ民族衣装を着ているとそこにバラエティが生まれ文化を感じる

ただオリッピックでは文化を感じない

オリンピックとは唯一世界中の国が集まる祭典でも文化を感じないのである
それはなぜかとなるとスポーツとはグローバル化したものであり世界共通のルール化して競技が行われるからである
ただスポーツでも文化はあった、その最たるものが日本の柔道なのである

「精力善用」とは、そのような柔道の持つ力や理念「柔よく剛を制す」(柔弱な人が強者に勝つ)を使って、相手をただ倒したり、むやみに威圧したりするために使うのではなく自らが持つ柔道の力を、自分の周りや社会のために善いほうへ用いることを教えてくれる言葉と言えるでしょう。

日本は必ず何でも道を追求する、職人でも職人道があり刀を作るにも潔斎して身を清めて精進して神に祈り最高の物を作るように励む、だから必ず職業でもそれぞれの分野の道を究めるものとなる、そこに日本の文化があった
何かただ利益を得るというのではないものがあった、だかさ商人道もあった
近江商人の三方よしというのもそうだった、武士道などもそうである、必ず道が後ろにつくということは道を究めるものとして職業もあったからだ
日本人は仕事を重視するのは働くことを重視するのは仕事を通じて職業を通じて道を究めるということがあったからだ
だからスポーツの語源が気晴らしとなるのとは相当に違う、スポーツは気晴らしということはとても道を追求するようなものではない、息抜きであったとなる

ただスポーツでも文化と関係ないかというと関係があった、文化の意味がcultureでありcultivateが耕すが語源となっていることでもわかる
その土地を耕すという時、農業だけのように思っているがスポーツでもそうだったのである
イギリスでなぜゴルフが生まれたのか?まずイギリスの風土を見ればわかる、丘が多くなだらかでありまるでゴルフ場にもなっているからである
天然の場がゴルフ場だからゴルフが生まれて当然だともなる
日本の様な急峻な山だったらそんなスポーツが生まれないからである
だからスポーツにも文化があるとなる、欧米のスポーツがほとんど組織的なものとしてルール化したのも模擬戦争ともにているのである
逆に日本人の武道は個人対個人なのである、日本には個人がないとか個性がないとか言われるけど武道に関しては集団的ではなく個と個であり一対一でありそこで武道を究めるとなる

スポーツさえ文化だというときなぜオリッピックになるとその文化でも失われるのか?

それはグロ−バル化すると文化は喪失する、どうししても一律のルールに則らないと公平にならない、そして勝ち負けだで判定する、でも日本のように勝ち負けより道を究めるとなると本来の柔道とは違ったものになる、でもグロ−バル化すれば勝ち負けですべてが決められるのである、すべての結果が勝ち負けでありその他は評価できないのである
それでかえって柔道の精神でも失われるとなる

要するにグロ−バル化するということはかえって文化を失うことになる、意味もなくなることになる、文化とはそもそも国々で地域でも違ったものとして文化があったからであるそれを一律なものにすることに無理があったからだ
ただすべてを勝ち負けで決めるとなると文化は失われる
例えば比べ石とか今でも残ってるけどこれも重い石を持ち上げる今なら重量挙げのような競技だった、その重い石を持ち上げることが競技になったのはその重い石を持ちあげることが村で一人前の男として認められることだったからである
農業社会では力が評価されたからである、米俵でもかつどとか仕事でしなければならないからそうなった、そういう狭い範囲で価値が評価されているからわかりやすいのである

でもそれが広域化したりグロ−バル化するとそこに共同体とか社会として共通の価値観が違ってくるから理解できないしただ勝ち負けですべてを計ることになる
それは貨幣と似ていたのである、貨幣が生まれて広域化グロ−バル化社会が生まれたからである、江戸時代でも仙台銭というのがあった
それは仙台でしか通用しない貨幣ともなる、広域でグロ−バルに通用する貨幣ではない
江戸時代には関所があり貨幣を別な反に

江戸時代も中期になると、為替制度が発達して各宿場宿場に両替商がありましたから、重い小判や文銭を大量に持ち歩かなくても済んだようです。又、有力な藩では、紙幣に当たる藩札を発行していて、両替が出来ましたから不便は無かったようですが、両替手数料はめちゃくちゃ高く、10%〜15%が当たり前だったようです。

ヨ−ロッパ旅行すると国ごと交換レートがありめんどうだった、今ならユーロ―になっているから便利である、それで広域化してグロ−バル化されるのである
ドルはアフリカの果てまで通用しているからアメリカが覇権国になり世界に通用する紙幣となっている

このようにグロ−バル化するということは貨幣がどこの国でも使えるということになる
でもその貨幣ですべての価値を計ることができるのかとなるとできない
それはあくまでも一応の目安なのである、この貨幣はグロ−バル化するためには不可欠である、ただそこでの問題は価値が貨幣ですべて計れないのに計ってしまう弊害である
それがグロ−バル化の大きな問題なのである
価値は実際多様であり簡単に貨幣だけで計れないものだからである

オリッピックでもそうだがこのようにやはりグロ−バル化したものは価値の一様化なのである、すべてが勝ち負けで決められる、負けた者には価値がないとされる
それは実際は価値基準にならないにしろそう強いられるのである
オリッピックの問題もグロ−バル化した結果として現れた
それは一部のオリッピック貴族のための金儲けになっていたことが判明した
スポーツでも文化があり一様化できないのにただ勝敗ですべての価値を決めるからである
要するにグロ−バル化の弊害が大きくなって現れたというのがオリッピックでもあり全体的にもそうである、それは様々な方面でその弊害が大きくなったのである

貨幣で紙幣でもすべての価値は計れない、スポーツでもそうなのである
メダル数でその国の強弱とか価値を計ることはできないからである
むしろ小国でもそこに独特の風土に根ざした文化があるとき尊ぶとなる、そこに価値があるとなるからだ、オリッピックでも大国が有利になるからだ
でも文化になると小国でもそこに文化があり特徴があり興味あるとなるからだ
グロ−バル化となればそうした小国の価値は無視されるからである
それは国内でも起きてきたし世界的になれば余計にそうなったのである
posted by 老鶯 at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層