2021年07月01日

abstract flower-love of the sun-islamic flowers


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inside flower

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love of the sun

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islamic flowers




抽象画はイスラムの紋様の世界でもある
偶像を拒否する世界でもある、それがパソコンのソフトで可能になった
無限の変化がそこに生まれるからである

Abstract painting is also the world of Islamic patterns
It is also a world that rejects idols, which has become possible with computer software.
Because infinite changes are created .
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中国の巨大化は元寇の再来なのか? (日本と中国の歴史をふりかえる―天童寺を訪ねて)


中国の巨大化は元寇の再来なのか?

(日本と中国の歴史をふりかえる―天童寺を訪ねて)



1275(建治元)年、降伏勧告に派遣された元の使節杜世忠(とせいちゅう)以下5名は、上陸と共に捕らえられ、鎌倉に送られて龍口刑場で斬首された。その5人の供養のために建てられた五輪塔が近くの常立寺(じょうりゅうじ)に残されていて、元使塚といわれている。2007年、朝青龍を初めとするモンゴル出身の力士が参拝して以来、毎年の大相撲藤沢巡業の時に、五輪塔にはモンゴルの英雄のしるしである青い布が掛けられるようになった。もっとも使節の5人のうち副使の何文著は漢人であり、二人は通訳の高麗人であるので5人ともモンゴル人というわけではない。

第1回の日本遠征が失敗に終わった2年後の1276年、モンゴル軍は臨安(杭州)に無血入城し、南宋は実質的に滅亡した。フビライは江南を支配すると泉州を拠点とした蒲寿庚などのムスリム商人船団を勢力下に納め、強大な海軍力を手に入れ、江南軍に編入した海軍力を獲得したフビライは、1281(弘安4)年に第2回の日本遠征を実行し、高麗からの東路軍4万の他に、明州(寧波)から10万の江南軍が派遣された。

フビライがハンの位に就いた1260年、日本では日蓮が『立正安国論』を著し、幕府に提出した。そのころ日本では大地震や風水害が相次ぎ、飢饉も起こっていた。日蓮は薬師経にいう、人衆疾疫・他国侵逼・自界叛逆・星宿変怪・日月薄蝕・非時風雨・過時小雨の七難のうち、五難はすでに起きてしまったが、「他国侵逼」つまり外国が攻撃してくる国難、「自界叛逆」つまり国内に反乱が起きる国難もそのうちに起こるだろうと予言した。
http://www.y-history.net/appendix/wh0403-033.html


人衆疾疫・他国侵逼・自界叛逆・星宿変怪・日月薄蝕・非時風雨・過時小雨の七難のうち五難はすでに起きてしまった

この時代と似て来たともしなる、疫病が起り天変地異が起きた
疫病はコロナウィルスであり天変地異は地震であり東日本震災の大津波であった
水害もこの辺で起きた、七難の内の五難が起きたとしているがこの辺でもそうなのである
1281(弘安4)年に第2回の日本遠征を実行し、高麗からの東路軍4万の他に、明州(寧波)から10万の江南軍が派遣された

寧波とか江南は中国の港として入り口としてあり道元が寧波により天童寺で禅の修行した場所である、港から運河があり天童寺に通じている、いかにも中国的な景色になっている

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春日天童寺

日本人寧波入
春日運河舟行
紫山塔高々映
古松参道吾登
道元参禅室在

ここの写真がいい
https://4travel.jp/travelogue/10113583

ただ山寺に上る道がありそこの松がいかにも古い、その写真はない

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これば天童寺ではない、ただ典型的な中国的風景である


北宋の慶暦7年(1047年)11月、王安石は、「遊天童寺」の詩を作った。

村村桑拓緑浮空、
春日鶯啼谷口風。
二十里松行欲盡、
青山捧出梵王宮。

 村々の一面の桑畑が緑色に染まる季節、今日は上天気である。
 麗らかな春の陽光の中、鶯の鳴く声が聞こえ、谷の方から風が吹いてくる。
 村から続く二十里の松並木がようやく尽きようとしている。
 青々と美しい山の中に、私が目指す太白山天童寺はあった
 
ここは風光明媚な地だった、なぜなら海があり長江が近くにあり運河がある
春の日に行ったがそこに行くには運河を行ったらもっといいとなる
山の上にあり紫の山々に高い塔がいくつか映えていた

二十里松行欲盡

ここは松の多い場所だったのである、二十里も松がつづいてあるのはやはり中国的である禅宗という時鎌倉の五山があり中国から学んだものである

中国とは歴史的つながりが長く深いのである、そういうことで創価公明も中国と友好になったのかもしれない、そういうことで日本人は中国に歴史的文化的に親近感を覚えるのである、欧米は日本とはまた歴史的には150年だからまだ交流が浅いのである
何か日本の歴史とか文化をたずねると中国由来のものが多いのである
韓国由来の者はねつ造されたものである、それより中国由来になると韓国自体もそうなのである、南朝の煉瓦作りのドームの円形の日本生まれの武寧王の墓もそうである

ただ歴史をたどると逆に寧波から江南の軍が日本に送られて来た、10万の江南軍というのも驚きである、船団にしても数が多くなる

「高麗史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して
日本を属国にするよう勧めた」との記述がある。つまり、元寇は高麗が積極的に進言した為引き起こされた侵略であった。
https://blog.goo.ne.jp/sumomo_218/e/71081ff9429c2cb70f7005f51dfe448e

この歴史も今からでも日本と韓国の歴史を彷彿とするできごとである
そうしても全く不思議ではない、日本には何か近親憎悪的になっているからである

弘安の役(1281年)

東路軍船舶数 4400隻(高麗が建造)
東路軍兵力
高麗人 25000人
漢 人
女真人
遼 人
トルコ人
安南人
モンゴル人 150人

総 数 50000人

江南軍兵力
旧南宋人 100000人

八幡愚童訓:高麗兵による日本人狩り
《弘安四年の夏頃、蒙古人、大唐・高麗以下の国々共の兵を駈り具して、十万七千八百四艘の大船に
数千万人乗り連ねて襲来す。其中に、高麗の兵船五百艘は壱岐・対馬より上り、見る者をば打殺す。

ここの歴史談義が詳しい
https://blog.goo.ne.jp/sumomo_218/e/71081ff9429c2cb70f7005f51dfe448e

船は高麗で作った、その数に驚く、海を埋め尽くすような数である
私は中国を去る時漁船が尽きず海の上に船から見た、その数が多いからいつまでも漁船群が見えたのである

この兵力はまさにアメリカがイラクを攻めた多国籍軍だったのである
ただその主力は高麗軍でありその高麗軍が日本人に対して手に穴をあけて連行したように残虐なことをしたことは今でも伝説ともなり語り継がれている
日本の残虐性を吹聴するが韓国も残虐だったのである、それは戦争となれば殺し合いなのだから自ずと残虐になる、それで戦争は人間の悪質性が一番現れるのである

今中国が巨大化するとき日本を属国にすることをねらっているとも見る
元冠のときは海が防壁となり日本は救われたが今度はならない、一瞬にしてミサイルが飛んできて壊滅するとなるからだ、それは北朝鮮のような小国でもそれができるから全然違ったものとなる

とにかく日本と戦争となるとアメリカでもそうだったが太平洋戦争となり海戦となる
それで台湾がその防波堤となりそこにまず日本軍がつぎこまれると言うのもそのためである、その背後に日本のアメリカ軍基地があり中国を狙うのである

そして日本は中国派とアメリカ派に分断される恐怖である
すでに自民党だと二階派が中国よりでありや野党でも中国寄りがあり創価公明が完全に中国寄りだから中国様様でありすでに中国に隷属していて中国の一部隊とも化している
それは別に中国が発展する前から中国崇拝だったのである
池田大作がそれを先導したのである、それはなぜなのか理由がわからない
ただ創価公明は政治団体組織であり組織の意志として中国に忠誠を誓うものとなっていただから中国様の言うことには従う、中国様が日本の土地を買っても法律でも規制することにも反対なのである
おそらく中国様にかしづきそこで権力を得ることが目的だともなる
なぜなら創価公明は宗教など関係ない、そこでいつも幹部語るのは権力をどうして得るかしかないからだ、宗教はその隠れ蓑に過ぎない
だから中国様が後ろ盾となり日本も売ることも何の抵抗もないのである

ただ日本は中国の巨大化で脅威でもうそれが現実化してくると深刻化する
二つの勢力によって分断される、中国につくのかアメリカにつくのか
自民党内でも最右翼から分断される、野党も中国寄りだとすると実際はアメリカ寄りのようで中国寄りの方が多いともなる
日本の太平洋戦争は日本のために戦い300万人が死んだ
でも米中戦争になると日本はアメリカのために戦うのかともなる、アメリカではまず日本を中国と戦わせて日本を守れとなる、アメリカ軍は血を流さないとなる
それが太平洋戦争との大きな相違である、ただ理解できないのは中国の共産主義とマルキシズムと宗教は相いれない、創価の日蓮主義は鎌倉時代には通用した
でもマルキシズムと共産主義と法華経とは相いれない、だからそこで衝突して矛盾してくる、毛沢東を賛美することは共産主義をマルキシズムの基に国家を作るともなる
そしたら思想的に相いれないのである
ただ創価公明は思想的に深く悩んだりしない、現世利益だから中国側について権力を得て地位を得て金を得ればいいとなっている
だから中国様に日本を売りわたしても何かとがめることかないのである
思想とか宗教より現世利益だから関係ないとして利がある方につく、

いづれにしろ内憂外患となり鎌倉時代の再来になるのか?
でも世界的風潮として第一次世界大戦とか第二次世界大戦とか経験して戦争をしたくないそれで中国でも若者が寝そべり族とか生まれ日本でもニートとか大量に生まれた
そういう人達は戦争などしたくない、戦争とか生死を賭けることなどしないともなる
日本だって勇ましいこと言っても少子高齢化であり戦争できなるのかとなる
病人と老人ばかりの介護に追われる人が増えて戦争などできるのかとなる
ただ中国問題が最大の外交問題であり日本をゆるがすものとなることは確かである
アメリカはどうしても衰退に向かうからである

posted by 老鶯 at 15:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年07月03日

人間の最期は尊厳をもて死ぬ方が大事 (体より心を重んじるべき―威厳ある死(詩)


人間の最期は尊厳をもて死ぬ方が大事

(体より心を重んじるべき―威厳ある死(詩)


我が家に命を惜しみなほ生きむ重々しくある庭の石かな

苦労して作りし庭の積まる石重々しかな我が家にて死なむ


近くの人が糖尿病で入院しているのが長かった、半年くらいいた、そしてやっと退院したその退院もつかの間また入院して治療した
それでかえって体が悪くなったという、だから家に帰りたいというのもわかる
84歳くらいになっている、そのくらいの年になればみんなどこが悪くなり病気になる
でも何か若い人が病気になるのと老人が病気になるのは違っている
若い人は切実に生きたいと思う、だから若くして死んだ人には無念が残る
でも老人になると70以上とかになると確かに同じようにまだ生きたいから病気を治したいとはなる、でもその病気もなかなか治りにくくなる
でも死ぬ時期なんだからと考え方が違ってくる
とはいえ人間は一日でも生きたいというのが現実なのである
生物であればみんなそうである

「命を惜しみ・・・」となるのが普通なのでありそれを無理やり否定はできない
ただ昔だと命を惜しむというときそんなに長生きしないからそれは回りでもそうなっていた
でも今やこれだけ高齢者が多く百才とかまで生きるとなると事情が違って来た
もう医者でも看護師でも介護士でもそもそも老人を嫌っている
なんで迷惑かけて生きていんるんだとなってしまう
それで私も病院で付き添いもいないから看護師に虐待されたのである
その女性は相当に老人嫌い病人嫌いになっていたのである
だからこれからも老人の虐待はますます増える、それは数が多すぎるからである
また認知症も増えると介護でも嫌になるからである

そして老人にとって何が大事なのか?
それは体より心の方が大事になる、ところが医者とか看護師とかは体は見ている、だから体を活かそうとするがその病人の心は診ないのである
この人はまだ生きられるとして治療する、でももう生きることは苦痛であり延命治療しても苦しむだけだとなると生かしていいのかとなる
また寝たきりとかなり意識もなくなっているのに生かしていいのかという問題もある
老人ならばもう死んだ方がいいともみるからである

ただ正直この問題のむずかしさは他人がもう死んだ方がいいとか決められないことである本人の問題もあり家族の問題もある、もっと生かしたいという家族もありまた死んだ方がいいという家族もある、すでにもう家族でも今は親を捨てている子も多いからである
それで家族遺棄社会という本も出たことでもわかる
もう諸々の事情で親でも負担になり見切れないということである
それが介護の経験をした人ならそういうことをみんな思っているからそれが非情だともならないのである

高齢化社会の死の問題は体だけを見ても解決しない、心を見ることが優先されるようになる、なぜなら体が若い人と違い直らないからである
高齢者の病気は死に通じている、この死から人間は逃れられないからだ
すると生に固執することはいいとはならない、ただどうしても生物だから生きるだけ生きるとなる
ただ象でも死ぬ前に象の墓場に行き姿を消すとか猫は死ぬ前にどこに消えるとか言われる生物でも何か死期が近づくと身を隠したりするのはやはり何か動物でも尊厳を重んじるからかともなる
人間ならやはり死ぬというとき心の方が大事になる
尊厳死の方が大事になる、そしてもう生に執着しないことである
その生に執拗に執着することは醜いとなる
そして大事なのことは人間は死んでも死んでからの方が存在感が大きくなる場合がある
人間は死んでは終わらないのである、普通の人でもそうなのである

とにかく人間が尊厳をもてるのは病院ではない、病院では病気の人であり何か価値ある人とされない、体だけを見ているからである
でも家にいれば依然として家とともに価値ある威厳あるものとなる
私の姉はこの家を作った人でありだからいつも近くの森が切って作った柱のことを自慢していたのである
だから家にいればその人の存在感がある
近くの人は立派な大きな石を組んだ庭がある、その石は大きいものだから金もかかった
相当に苦労して若い時にすでに作った庭なのである
そうするとその庭をながめているとき他の人にも自慢できるし家や石とともにその人間の存在感も増すのである
病院だともう病人としか見ないからである、何かほかに積極的価値あるものとして見ないからである

だから病院とか施設とかは人間の心を見ない、見れないということで大きな問題がある
人間は70過ぎると人によるがすでにこの世を去り幽冥界のような所にいるとなる
半分は死んでいるともなる、この世の執着から離れてもう現世とはかかわらないともなるただ尊厳ある死を望み死んでもさらに存在感のある人になりたいとも思う
死ぬと普通の人でもそうなるからである
人間は死で終わらない、確かに肉体は消える、でもその人の精神は生き続ける
そして死んで一層重いものになる、死者には偽れないという時がそうである
死者は消えたわけではない、物は言わないにしろ冷徹に生者を見つめているからだ
それで墓参りしたしてもあなたは私を冷たく扱いましたね、偽っても私は偽ることはできませんよとなりまともに死者と向き合えなくなる
それが介護とかが苦しくても後で後悔することになる

いづれにしろその人は苦労しして作った庭の石をみてまた苦労して作った家で最期を迎えるのがいいとなる、だから再三言っているが家というのは単なる箱ではない
何か人間の存在感を示すものである、家の方が大きな存在があるようにさえ見える
なぜなら過去の遺物でも二千年前でも建築物は残ってそれで歴史をふりかえることができるからである
人間は百年くらいで跡形もなくなり消える、家は人間が死んだ後も残っているとなるからだ、だから市営住宅とか借りている人は何か存在感がないのである
ただ自分の家は自分が苦労して作ったものではない、親が作ったものでありただ受け継いだものである、それで自分で苦労して作った家とは感覚的に違っている
ただ最後に自分一人が残り家を継いで存在感を持つということである



威厳ある死

重々しく威厳もて岩は大地に沈む
大地の中に岩は長くもあるだろう
人の死もまたかくあるべきかな
威厳をもて死ぬことを望む
それが獣との違いだ
体をもはやいたわるな
肉体は崩れ死すとも
人の心は死なぬ
もはや体に固執するなかれ
そは静かに威厳もて死ぬ
その亡骸に執着するな
人は体を超越することを望む
威厳ある死を望む
しかし死者の声はひびくだろう
重々しくも岩のごとくに
死者は静かに眠る
千歳の眠りにつく・・・・

私は石に興味がある、だから他人の庭でも石をしげしげとみないるのである
この庭にはいい石があるなとか見ているのである


2021年07月04日

集団組織が社会であり個人は無視される (世界はすべて全体主義である)


集団組織が社会であり個人は無視される

(世界はすべて全体主義である)

人間社会というのはどうしても現実になれば一人一人が力となり、すると一人一人でも集合して組織化するものが力となり権力を持つようになる
このことから逃れられない、一人一人を大事にしろというときその集合したものが大事に白しろとなり社会はその団体を組織を優先せざるをえない

人間一人でもその人は民主主義だと一票を持っている、それを多数集めた方が力を持つそれが正しいか正しくないかなど関係ない、数は力となり数が優先される
一人など相手にしない、選挙ではいかに数を獲得するかで決まるからである
個人はむしろ排斥され社会の敵と化す、だから個人が社会を相手にするときバックに必ず団体組織が存在するのである
その個人を見るより背後の団体組織を見て文学賞なども与えるのである

ともかく人間は一人でもその人が飲んだり食ったり買ったり消費活動をする
すると経済的にそれなりの力を持つ、それが団体組織化すると経済的にも力を持つようになる、その団体組織に非買運動されたら困るとなるからだ
そういうということは国の間でも起きる、国が敵対すれば物を買ったり売らないとなるからだ、自国優先となり食料でも入らなくなるのである
つまり経済力とはこうして常に強力な力となる
だから敵対すると経済でしめあげる、それで日本はアメリカに経済封鎖されて石油など入らなくなり戦争に突入したとか言われる、経済的に追い詰められてそうなったと見る人もいる
それが国と国では敵対すると常套手段になるからだ

民主主義でも個人の自由があるとしても一票があるとしても何の力もない、民主主義とは実際は全体主義になる、ギリシャのボリスのような一万くらいの人数で行われていたものとはまるで違った社会になっているからだ
だから世界で民主主義に疑問を持つようになったのはそのためである
田中首相が政治とは金と数だと言ったのはそのためである
政治とはまず一人一人が経済活動する、それがまとまると数として統計的に力となり権力となる
その国の力もその経済活動でGDPで計られる、ただ中国が人口が多くても全体の経済活動生産と消費力がない時はいくら数が多くても弱小国家と見られていたのである
だからすべてを数で計られないことがあった
GDPでも日本の十分の一とかの時代があったからだ
インドではまだ人口が中国と同じように多いのにGDPが少ないから大国に見られないのである

ともかく人間は個人として見ている人はいない、何かの組織団体に属していることからその属性によってその人間を見る
会社自体そうである、どういう会社に属しているかでその人を見る
大企業に属していればその人は価値ある人となり一目置かれる
トヨタの社員ですとなれば一目置かれる、でもその会社の価値が下がるとその人間の価値も下がる、それは国でもそうである
今や日本が経済的に落ちぶれると中国でも物価が同じくらいでありむしろ日本の方が安いとなり日本の価値は低落した
それで今度は日本では外国人をもてなすようになる、中国人様となる
日本が高度成長になり金持ちになったとき日本人は同じようになっていたからである
日本人は上客となっていたからである
政治と経済は密接に結びついている

でも個人的価値というのは人類全体でも別にある、絵の才能とか何か文学でもその人独自の才能がありそれは別に国とも関係なくある、ただ芸術にしてもバックにその国の歴史とか風土とかから生まれるから純粋に個人のものとはならない
そもそも精神的価値となると集団組織から産みだされるのだろうか?
政治経済としては数として価値を持つが芸術とかなると価値は個人が産みだすものとなるその人独自のものとして産みだすものである
だから政治経済とは権力化するが個々人を基にしたもの、芸術でも何か精神的価値あるものはそうはならない、いくら数を集めてもそこに価値を認めないからである

宗教でもすべて組織団体でみる、私は何の団体組織にも属していませんが神を信じていますとしてもそれを認めない、ただ数を集める時社会では認めるのである
つまり宗教でも権力化するとき認めるのである
個人は認めない、排斥されてないものとされているのである
でも「神は人の心を見ている」というとき集団組織を見ているのか?
それぞれ心が違ったものでありその個々人を見る、多数の人々がいてもその個々人を見る組織団体化して信じても実際は救われることはないのである
神にこれだけの数を集めたから認めてください、救ってくださいと言っても神は認めないのである

結局集団組織は政治的経済的なもの数とかで計られる、だから民主主義とはすべて数の多寡で決まる時、全体主義に最もなり安いのである
だからナチスは民主主義から正当な手段で選挙で政党として選ばれて支配したのである
つまり膨大な数を力とする民主主義は容易に全体主義になりやすいのである
それで世界的に民主主義が行き詰まっているということがある
例えば中国では民主主義は結局敵対勢力を産むものとして危険視するのもわかる
反対勢力を容認したらたちまち崩壊してしまうからである
それがソ連でもあり中東でもあり結果的にその民主とは自由とは外国勢力に操作されたという一面があったからだ
中東で起きたことでもそうである、国自体がシリアなどでは社会主義で政治的に安定しても民主主義の自由を取り入れたとしてもアメリカとかヨ−ロッパとかソ連の勢力争いの場になり悲惨なものとてってしまった、自国がなくり国自体が難民化してしまったからだ

政治と経済と軍事力は一体化する、権力化する、そういう宿命がある
宗教もまた政治化して権力化する、だからこそ権力をいかに抑えるかが課題になる
三権分立もそうだし政教分離でもそうである、日本だって神国だとかなって宗教が権力の道具となったりしたからである
宗教となるともともと権力の否定から始まったのである、それは仏教でも老子の教えでもキリスト教でも同じである、だから誰が治めるべきかというときみどり子に治めさせろと聖書にある、幼子だったら権力を悪用することなどできないしそもそも権力などの必要性を認めないしいらないからである
そして欲もないから悪いこともしないからである
要するに人間社会を治めることは至難でありいくら制度を変えても結局失敗しているのである、民主主義とか資本主義とか社会主義とか制度としてあってもそれもまた内部から崩壊してゆく、機能しなくなる、もう資本主義も社会主義も制度疲労を起こしていて賞味期限切れになっている、そしてまた混乱状態になる
70年くらい過ぎるとか必ずどんな制度でも腐敗してまた新たなものを産みだすしかなくなるのである、そういう変革の時代に今来ているということである

人間は人間を治められない

人間は制度があってもその制度が絶対ではない、だから制度は70年くらいすると制度疲労になり機能しなくなる、資本主義も超格差社会になり極わずかの人が富を独占するようになる、それは社会主義でも同じ事が起きる
人間は人間を治められない、例えば家族でも血縁でも必ず問題が起きる
家族すら治められない、だから宗教は血縁を否定したのである
この世は結局こうして常に問題が起きて混乱して来る、宗教だって権力の道具となる
神の国というとき神が治めるかから治められるとなる、人間では治められないとなるのだ

2021年07月05日

梅雨の詩(老鶯鳴く田舎)


梅雨の詩(老鶯鳴く田舎)

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故郷に老鶯鳴く

土手の道老鶯鳴きて草深し
我なお故郷に生を養ふ
歳月はたちまち過ぎて老いしも
70過ぎし齢(よわい)に驚く
かく人生の過ぎる早しも
今死地に入る幽冥の時期そ
雨しとと石は濡れ
黒揚羽一羽庭に舞い去る
常に行く道草深く老鶯は鳴きぬ
我が元に一人の老女来たりぬ
貧しくも我に頼りぬ
我が家族はみな死にたり
人の世の移ろい激しも
津波に原発事故に翻弄されし歳月
今しかし樹々の根のごとく
大地に深く根を張り安定すべし
心乱れず木のごとくあれ
汝を養うもののここにあれ
そが余生のここに安らかなるべし
もはや争いなきを祈りぬ


老鶯というのと夏鶯とは同じ季語でもかなり違っている、感じがまるで違っている
老鶯というと老いたという感覚になる、夏鶯というと明るい感じになる
なぜ老鶯とか言うのか不思議だとなる
老いる鶯というのが良くわからないのである
ただ私の俳号としたのは老鶯は長く鳴いている、春の鶯だと短い期間である
老鶯というのはかなり長い期間鳴いているのである
それで私自身が短歌と俳句でも詩でもいいのが作れたのはずいぶん年とってからなのである
それで長く鳴いているというときそれは歌っている、俳句とか短歌でも詩でも作っているということである

とにかく自分が70も過ぎているということに自分自身が驚いている
そんな年になったのかと驚く、70過ぎるとなると相当な年だからである
だから今はただあとは死ぬだけだということしかなくなっているからだ
人間は年とるのでもこういんう年になっても突然年とったという感覚になるのだ
だから自らその年に驚くとなる

ともかく家のことでも介護でも周りのことでもいろいろ翻弄されているうち十年過ぎたとかなり老いたのである
ただ今落ち着いてこういう詩を書いたのである
梅雨の時期であり何かふさわしいとなる
そして余生は安らかなるべし・・・・とつくづく思ったのである

別に長生きするこは悪いことではない、生を養いなお余生をつつがなく生きたとなる
ただ病気になったらなるべく世話にならず死にたいということである

草深し里でありそこが自分にはふさわしい、私はとても東京のような場所に住めない
やはり生を養う場所は田舎なのである

2021年07月06日

働かなくてもいい社会の未来 (ニート、引きこもりをすすめるひろゆき)


働かなくてもいい社会の未来

(ニート、引きこもりをすすめるひろゆき)

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無能な高齢者やニートは足手まといで邪魔なのでどうぞご自宅で待機なさって下さい
https://www.youtube.com/watch?v=-RIHYtJ7b_0

何か私がひやゆきに同感するのは私自身が引きこもりであり仕事しないで人生終わったようになったためである
団塊のの世代はほとんど猛烈社員、企業戦士となって働いた時代である
だから働かない人とかはほとんどいないからそんな人はいないと見られたし関心もなかったのである
なぜニ‐トとか引きこもりとかが問題視されるのか?
それは結局数の問題なのである、数が多ければ社会でも支障を来すからなんとかしようとする
別に少人数だったらそんなもの変わり者であり放っておけしかならないのである
社会とはなんでも数で決まる、なんでも数で計算している
それは科学的なものでも放射線量も数だったしコロナウィルスでも常に感染者数で数で判断されている
全体を動かすのは数なのである、カルト宗教団体でも数である、中味などどうでもいいのである、それだけの数がいるということで社会に影響を及ぼすから数を集めるのである
数が多いと何かあると社会ではみる、数が少なければそんなもの話題にしもしないとなる民主主義とは選挙でも投票数であり何でも数で決まるのである

能力ない人はかえって働かない方がいいとか言うのは有能な働いている人の足を引っ張るからだとか言う、また老人は働くべきではないというときかえって若い人の職を奪うからだとも言う、無能な人間は足手まといになるから働くなという
それでベーシックインカムを奨励する
働かないで金をもらえないと食べていけないから最低限は補償してやろうということである
そんなことしたら勤勉で成長した日本社会が崩壊するという旧来の人たちが年寄りがいるそこに世代の差が生まれている、そもそも60万以上とか働かないニート、引きこもりがいることが団塊の世代などからすると理解できないことなのである
私自身はそういう人達と違和感がない、というのは自分自身がニートであり引きこもりで遂に人生も終わるとなるからである
ただ自分は好きな勉強はしてきたし旅したことで見聞を広めてその経験を俳句や短歌や詩にしたりいろいろ書いているのである
だから旅したことでもそれが無駄だとはなっていないのである

ただ自分がニートとか引きこもりを見る時、それは何なのだろうと見る
なぜこんなに多いのかともみなる、そして許されているのかということもみる
団塊の世代にはまずそういう人はまれだから誰も気にとめなかったからである
変わり者としてあり社会全体でそんな人はどうでもいいし話題にもしないのである
話題にしているのは経済成長とかでありそんな人はいるか気にもとめなかったのである
ただ堂々と社会にニートだとか引きこもりだとか図々しく言って悪びれないのが違っている、おそらくそれは時代の差なのである
別に働かなくてもいいという余裕がある時代だからそうなった

もともと働くという言葉が端を楽にするということから起きている
家族でも懸命に働く人を見ていると少しでも楽にしてやりたいと家族なら見るからだ
それで貧しい家庭で育った後進国の若者は親を楽させたいということがあり出稼ぎして
仕送りしたりする
今でもそういうことがあるにしろそういう感覚は薄れて来た
たいがい戦前とかは親のために子が働くのが普通だったからである
子供は労働力となっていたのである、私自身も子供の時、店で配達をさせられていたからである、今子供の時カラ働かせるということはない、子供は勉強しろという時代だからである

時代が変わると価値観が変わる、かえって働くことは社会にとって害になる
老人は働くな、若者の職を奪うことになるから働くなということは何かただ働くことが肯定できない時代になっていたのである
それは機械化されたりまたAI化されたり人間以外の労働力が大きなものになると人間は自ずと働かなくてもいい、生産はできるとなる
でも食べていかなければならないから最低のものは与える
それがベーシックインカムだとなる
責任をもって有能な人が働く、あとは働かなくてもいいとう時代になる

老人なってひっこんでいればいい、社会に出るな、ボランティアなどされると働いている人の迷惑にもなる、かえってめんどうが増える、邪魔になるとみられる
仕事する人は仕事するルールがあったりお互いの了解があったりしてしている、そこに何かわからないボランティアとか入ってくるとかえって邪魔だとなる
それは私が駅で道案内したと駅長であれ常にけむたがられて叱責されたことでもわかる
お前は邪魔だから消えろしかなかった、そして回りの人もそこで何しているのかとうるさくてお前はやる必要がないとあからさまに言われた
つまり働く必要は無人駅でもないとされたのである

他の人も退職した人が地域の相談役のようになったときもめ事にまきこまれて裁判沙汰になったことでもわかる
要するに善意であってもすべては受け入れられない、かえってめんなことにかかわって
もめごとをかかえこみ目障りになっただけだとなる

要するに邪魔な老人はひっこんでいろ、何もするな

無能な奴は何もしないでいい、有能な人に仕事はまかせろ

老人は働いて若者の職を奪うな

仕事は機械にまかせろ、AIにまかせろ、人間はいらない

駅は無人駅でいい、コンビニも無人化しろ

こんなふうになる、そこで膨大な老人が無用化してうろうろする時代にもなる
ただ認知症になるのはボケるのは嫁に「ばあちゃんは何もしなくてもいいですよ、テレビでも見ていてください」と言われた人がボケるのである
それで私の家族では同い年親が二人いたともなるが一人は早くに退職して何もしなくなった、優秀な女性だったが何もしなくなりボケのかともみる
看護婦だったからそういう人の世話をする仕事をしていたけど退職してから何もしなくなった、趣味のようなものをしていてもそういう方面には向いていなかったのである
だから認知症になっともみる、その原因はわからないにしろ脳が不活発になって脳の機能が衰えたと見る

なぜならもう一人の親は趣味もなもにもない大正生まれで働き詰めの人生だったがボケなかった、94歳くらいまで家事をしていたからである
趣味はなにもない、庭には花はいらないというくらいで働くことしかなかった
でもボケなかった、家事の仕事がその年まであったからだったのかとなる
家で役割があったがもう一人の親は役割もなにもなくなってただ何もしないそのうち認知症になったのかと見る

確かに社会は有能な人が働く、それで回るようになるかもしれない
でもここでの最大の問題は人間の生きがいなのである
別に仕事をしなくてもいい、ベーシックインカムで最低限の生きるものは与えられる
でも人間にとって社会で認められるとか生きがいを持つことが欠かせないものなのであるそうして社会から何もしなくていい、仕事もするなとなったときそういう人たちが別な生きがいを得られるのか?
それでみんなアーティストになれというのが不思議なのである
自分自身はアートを追求しているにしろみんながそれができるわけではない

そうすると何の生きがいもない人達が増えてくるとどうなるのか?

住宅に住んでいる女性は何か金属のきらきらしたものをぶら下げて回りの人と付き合わない、それでそのことが目障りで嫌だと隣に住んでいる人が毎日訴える
でもその人をどうすることもできないのである
なんでそんなことをしているのかわからない、そんな迷惑人間になっているのかわからない、何かかまってもらいたいなら話しでも愚痴でも言えばいいのだかしないのである
その原因がわからないにしろそんな偏屈な何かわからない迷惑老人も増えて来る
老人でも何か役割をもちたい、社会で持てないなら家族でも持ちたいとなる
でもそれもできないという時代になると何をすればいいのかというのが問題になる
高齢化社会というのはなにかそういうことが問題にもなる
人間はいくらベーシックインカムで食い扶持を与えられて生きろと言っても動物と違うから何か社会で家族でもいい隣近所でもいい役割を持ちたいとかなる
それもできないとするとき何をすればいいのかとなる
そのことがボケになる認知症になるとするとこれも大きな社会問題になるのである

いづれにしろ自分にとっては働かなくてもそのことで責められない社会は望むところだとなる、そもそも働かずに稼ぎもせず遂に一生が終わりとなりつつあるからだ
でも大多数にとってはそうはならないのである
これは人類的問題なのかもしれない、何か戦うこともなくなり人間が惰弱化して怠け者となりそれが人食い人間に食われる、それも抵抗もしないでそうされるというウェルズの小説にあった、人間がもう戦うことがなく惰弱となりそんなふうになったのである

80万年後の世界では、作品が描かれた19世紀末に想像されていた未来の人間社会が描かれます。その社会では人間は仕事をしなくてもよく、遊んで暮らせる存在。しかし主人公はやがてその人間社会がエロイとモーイックという別々の種族で成り立ち、社会はエロイ族が仕切っていることに気づくのです。

本作は、社会主義派であったウェルズが、資本主義社会の行く末と考えられていた「格差社会」を予見して描いたとされています。ウェルズの科学的知識が本作でも抜群に発揮されており、タイムマシンという好奇心を駆り立てる存在と共に、文明に頼りすぎると人間が陥りやすい危険性を力強く描いています。「タイムマシンーウェルズ」

これは有能な働く人と働かない無力化した人間に分化する未来を描いている
それが現代の状況を予言しているともなるから慧眼の人だったともなる

人間が働かなくなり惰弱となり役割もなくなりそれでただ人食い人間に支配されて食われるだけだとなる社会も恐ろしいとなる、人間が二分化してそうなる
ニートとか引きこもりが増える社会はそうして無気力な人間があふれただ今度はそういう人間は食われてゆくだけだとなる
ただ無気力になるというときすべて悪いとはならない
中国の若者の寝そべり族とがでできたのはただ共産党の言うままに奴隷のように働かないということである
そういう若者はとても戦争などしないだろう、血気盛んで勤勉で上の命令に従うだけの人は戦争でもする、でもそれに抵抗する若者が増えることは悪いとも言えない
中国は巨大化して脅威であるからだ、でもがむしゃらに働かないとか、上の命令通りにならないとかなるのは日本にとってもいいことなのである
そんな若者が日本と戦争して中国の奴隷にしろとかならないからである
「戦争なんかやりたくない、、寝そべって方が楽だ」そうなれば戦争は起きないとなるからだ

ともかく高度成長時代が中国でも終わりになりある程度豊かさが充たされると同じ傾向が生まれて来る、そうなれば中国は脅威でなくなるともなる
出世欲がありもっと金持ちになりたいとか物でもなんでも欲しいとか戦闘的な若者が多ければ日本をやっつけろとなり危険になる
ただ寝そべっている若者を見る時変なのだけど安心だともなる
だから自分は自分自身の引きこもりの経験からそういうにもみる
ただ普通は働くことは義務であり働かない人間は非国民だとなるのが普通である
俺たちはこんなに苦労して働いているのにお前はなぜ働かないのだとなるからだ
そういう目で見られるからである
でも価値観が変わるとそういう人もいていいじゃないかとなるとき価値観が変わったためだとなりかえって引きこもりでも無職でもニートでも住みやすいとなるのである
ただそういう人達で社会があふれたときどうなるのかは予想がつかない
社会自体機能しなくなり崩壊するともなる
少数だったら問題ないがこれだけ数が多いということが社会に影響するこもまた大きくなることで問題になるのである

こういう問題が起きているのは現代が日本でも中国ですら高度成長時代があり物不足とか
インフラでもあらゆるものが不足している時代とあらゆるものが備わったしまった社会との相違である
戦後の焼け野原は何もない時代から始まったからだ、それでどこの家庭でも飯台一つくらいしか家になかったのである
道路も土の道路であり舗装もされていない、あらゆるものが整備されていない時代だったそこではだからみんなが働く必要があったのだ
でもあらゆるものが備えられた供給される時代に変わった
するとかえって道路が必要もないのに作られたりする、北海道では熊が通っているだけだとか揶揄された、本当に様々なものが必要なのかどうなのか疑問になる
新幹線は必要であったがリニアは本当に必要なのだろうか?
それは自然を破壊して危険なものになるとか原発でも事故になってそれが本当に必要なものだったのかとか問われる
また宇宙開発とか火星まで大金をつぎこんで行く必要があるのかともなる
そしてオリッピックは結局今や一部の人のためオリンピック貴族のための金儲けのためだと判明した、つまりオリッピックする意味が意義がないとなったのである

結局意味と意義を求める時代になるときそれは哲学とか宗教の問題になる
何もない時代ならそんなこと考えない、橋がなかったら不便だから橋を作れとなりそれに反対する人はいないからである
でもあらゆるものが供給されるとそれが必要なものかどうか問われる
あるべきかあらざるべきとかとか哲学の問題になる
宗教ももともとそういうものだったが現代のカルト教団などはやはり物欲の宗教だった
物欲を満たすものとして宗教があった、だから本来の宗教とは全く違ったものであり

やはり高度成長時代に適応したものでありそれで創価などが巨大化したのである
宗教でももともと現世利益が神道でもありそれが日本的宗教だともなっていたからである
どうしても時代が変わると価値観が変わる、だから戦後70年過ぎて価値観が変わるからとまどうことになる、確かなことは物欲一辺倒の時代は終わったのである
だから高度成長時代のようにがむしゃに働くことが奨励される時代は終わった
そこにニートとか引きこもりとかがこれだけ増えたり中国でも若者の寝そべり族が出てきたりしているのである
中国でも競争が激しく猛烈社員が国家のために働くことが若者に強制されたともなるからだ、いづれにしろ明らかに時代が変わり価値観が変わったことでこういう現象が起きていることは確かである
posted by 老鶯 at 08:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年07月07日

マスコミはスポンサーに忖度して真実を報道しない (民主主義でも報道の自由はなかった)


マスコミはスポンサーに忖度して真実を報道しない

(民主主義でも報道の自由はなかった)


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紙の爆弾8月号



マスコミの問題はここにあった、それは前から言われていたことである
宣伝費で経営が成り立つとしたら金を出すスポンサーの批判はできない
またスポンサーが競争している同業他社の商品の宣伝はしないとなる
ここに明らかにスポンサーに配慮して公平な見方を批判をさせなくさせているのだ
それはテレビ放送となるとその装置だけでも莫大な金がかかっているからだ
もしインタ−ネットメデアとかyoutubeの放送となると手間はかかっても個人でも放送局になる、すると金がかからないからスポンサーに媚びなくても自由に放送できるとなる
だからインタ−ネットメデアとかyoutubeとかでも素人の発言でも真実をついているということがある

それはNHKでもそうである、NHKは別に視聴者から金をもらっているのだからスポンサーから金をもらっていないのだから公平に放送できるがしていない
今度は様々な団体から抗議される、そこには盲人団体とか障害者団体もあり常に抗議がきてそういう団体に気を使いタブーが生まれて真実が報道されないのである
それで差別語に敏感になりめくらだとつんぼだとかは使いなくなったのである
どうしても権力をもつ者、団体組織からの圧力があるために真実が報道されない

今までのテレビ局だと金がかかりすぎたのである、新聞でもそうだし本だってそうであるそういう場所は権力がないと発言もできないのである
だからインタ−ネットでは報道の自由があるというときメデアをもったからだとなる
マスコミというときマスコミで発言させるものと何を言わせるのか決めていた
個人はそうしてマスメデアの管理化にあって発言することが許される
全面的に自由な発言はなかったのである
善悪とかせいじゃたを決めるのはマスメデアになっていたのである
特にNHKは何か裁判官のようになっていたのである
NHKは公平ではない、NHKが裁判官であり双方の言い分を公の場で示さない
発言にしても発言させる人と発言させない人を決めている

それでこの辺で原発事故の避難者と津波の避難者がいたとき同じ仮設住宅に住んでいた
でも双方が争った時、原発避難者が今の話題だとして応援することにしたのである
それで相馬市のトマト農家で原発避難者を飯館村の人と相馬市の松川浦など津波被害者を雇うことで暗にそのトマト農家を避難した
津波被害者を雇わなかったことで避難したのである
でもよくよく地元から見ると津波被害者は特に相馬市となると補償金をほとんどもらっていないのである、すると生活でも困窮するからそっちの方を優先的に雇うのは人間の情として当然だったのである、でも冷たいトマト農家だと暗に放送で批判するようにしたのである、ただその辺の編集がうまいからわからない人もいたのである
別に飯館村のことでは私は特別補償されてもいい、ほとんど原発の恩恵など受けていないからである、そのことはプログで書いてきた
ただここでの公平さを問題にして言っているのである

必ず裁判でも双方のいい分がありそれを聞くし発言させる

でもマスコミではそういうことはさせないで一方的に編集して裁判官になり報道する
民報だとスポンサーに忖度して真実は報道しないのである
その最大のスポンサーになったのが原発では東電とか電事連とかなり800億円の宣伝費がマスコミに払われていたのである
それを象徴していたのが中国に東電でマスコミの幹部が招待されていた、その中には朝日新聞社の人もいたのである、だからこうして利益を得るとなると必ず忖度するから
公平な報道はできなくなる
そういうふうに真実が追及されないことで原発事故とかの大惨事が起きて来る
ただ権力を持つもの金を持つものによって操作されるだけだとなっていた
そういう構造は変わらないのである、権力に対抗する力をマスコミはもっていない
だから権力に媚びて得すればいいとしかなくなる
ただそのことが国民全体からすると大損失になる、生命まで奪われるとなる
太平洋戦争では朝日新聞が一番戦争を鼓舞したとされる、マスコミは新聞でもあおればその影響も大きかったとなる

マスコミがマスメデアが第三の権力と言われるのは民主主義で報道することの影響が大きいからである、報道されなければ知りえようがない、でも報道する権力はマスコミにあり
一般の人にはなかった、ただインタ−ネットでメデアをもたないのでも報道することができるようになった
それは2ちゃんねるを創設したひろゆきとかが現れたりそこで自由な一般の人の発言がありメデア環境が変わったのである
次にyoutubeが生まれて個々人が放送局になった、ここでも大きくメデアが変わったのである
インタ−ネットの発言は無料でもできるからそうなったのである
そこに限界があるにしろ個々人の発言に真実がある、なぜなら大企業とか大組織とかの応援がなくても個々人で報道したり発言できるからである

ただそれでも高橋洋一チャンネルで中国の統計を分析して経済成長していないとか言ったら中国当局から批判され抗議されたという、日本人の発言に対して圧力をかけて来たのである
これは怖いと思った、中国は巨大化して日本人の発言に対して抗議してくる
言論弾圧してくる、そこに中国の一党独裁の危険がある
中国の巨大権力に対抗できなくなる日本はついに中国の属国とされるというのもわかる
中国の圧力に抵抗できなくなるからだ

民主主義において報道は大事である、なぜなら報道されなければ真実は見えなくなる、隠される、原発事故でもその内部は公表されずブラックボックス化して大事故大惨事になったからである、そこに外部から立ち入ることもできない場所になっていた
報道関係もその真実は報道されなかった、結果として大惨事になったのである
その時地元のマスコミも何らのその危険性を報道しなかった
第一民報は出資者の半分が県でありあとは創価の聖教新聞を刷って経営は成り立っているそしたら県とか国の広報と同じなのである
だから何か国でも県でも真実は報道しない、隠蔽されたままだとなる

日本の政治行政の体質が隠蔽にありそのことで後で大きな問題になって露呈する
それが原発事故だったなのである、そこでは隠蔽が権力によって常時行われていたからである、無数の配管でも老朽化して危険だった、でもそういうことを報道されることもない東電とか電事連から800億円も宣伝費もらっているから報道しない
つまり権力に迎合して得すればいいとしかないからである
それでマスコミの人たちの馬鹿高い給料が維持されている
つまり自分たちの損になることはしないとなる
それも結局報道するのは金がかかりすぎるからそうなっていたのである
東北政経ですら相双リテックの宣伝をしていた、その会社は除染で馬鹿もうけした会社である
となるとその金が東北政経に回っていたとしたら東北政経で原発事故のことで十年過ぎても追求しているが本当に追求できるのかとなる
東北政経にも原発マネーが回っていたとなるからだ

マスコミは報道するということで第三の権力を有していた、でもその役割を果たさなかった、それは金がかかりすぎることでそうなった
だから第三の権力として報道が大きな役割を民主主義で持つときそれをどうするかが問題になる、インタ−ネットではそういう自由に報道して発言する場を与えたということで進歩があった
ただインタ−ネットのメデアにしてもGoogleとかがまた独占すると権力をもつことになるそれでトランプ大統領のアカウントを取り消して発言を拒否したことでもわかる
本当に自由なメデアはないともなる、でもそのことで大被害を受けることがある
その犠牲者は今回は原発事故で故郷に住めなくなったとかまた戦争で300百万人が日本で死んだとかその被害が甚大なものになるから報道の自由が必要なのである

あらゆることで意味と意義が問われる時代 (哲学が不可欠になった時代ーオリッピックでもそうだった)


 あらゆることで意味と意義が問われる時代

 (哲学が不可欠になった時代ーオリッピックでもそうだった)

高度成長時代は戦後の焼け野原の何もない時代から始まったからなんのためにするのかとか考えないで良かった、今腹減っていればただ腹を充たしたいとしかならない
ここに橋がなければ橋をかける、それをいちいち考える必要はなかったのである
だからそもそもこれが必要かなど考えなくても良かった
道がなければ道を作る、それはみんなが望んでいたことでありそれに反対する人はいないのである

でも最近つくづく何のためにするのか?

何の目的でするのか?

それがあらゆるところで問われている、それが本当に必要なのかも問われている
オリッピックが必要なのか?なんのためにするのか?それも問われた
結局必要だったのはぼったくり会長と言われたIOCにとって利権になるものにとって必要だったわかった、それで急にオリッピック熱が冷めたのである
何か白けたのでありオリッピックに熱中することもなくなったのである
アスリートは一部のオリッピックの利権者の駒に過ぎなかった、見世物の道具だったとなる

だからそもそも何のためにオリッピックをするのか?

その目的と意味と意義が問われたのである、前の東京オリッピックは日本が戦後の焼け野原から復興したことを世界に示すためとして意義があった
今回は津波とか原発事故からの東北の復興を示すためだとしたがそれはなかった
全然原発事故から避難区域となれば復興していないからである
さらにその意味とか意義が問われたのはなぜコロナウィルスの感染を広げるのにあえてやるのか、それが厳しく問われた、国民の命まで危険にしてやるのかとなり国民の大半は反対しているのにやる、そんなに国民すら無視してやるのは何なのだろうとなる
そこで今の政権に不信が高まり今年中に行われる選挙で自公政権は負けると不安になる
都議選でその傾向が現れたからである

とにかく今起きていることはなんのためにするのか、なんの目的がありするのか何の意味があって意義があってするのか、そういうことがいろいろな場所で問われる
食べ物がない物がない時代はまず腹を充たすことが先決でありそういうことは問わないからだ、でも様々な分野で何のためにするのかその意味とか意義が問われるから哲学の時代だとなる

例えば銀行なども窮地に追い込まれている、それで投資信託とか売り証券会社なのかともなる、でも地銀なら証券会社とは違う、その会社の目的は地域の経済にかかわり地域を発展させるために集めた金を回すことが本来の仕事である
それはこれまではそれが成立ったいた、会社でも金を貸してくれと銀行に頼みにきたからである、そして会社も成長したら利子ももらえてそれが預金者に回っていったのである
つまり銀行は何もしなくても金を貸してくれという会社が来てそれに金を貸せばいいとなる、あとは預金を集めればいい仕事だったのである

でも金を貸してくれという会社が地元でも少なくなり預金者には利子もつけられないとなると一体銀行は地銀はなんのためにあるのか
地域にある理由は何なのか、意味は意義は何なのかと問われる
それで地銀はいらないとかにもなる、だからそもそも地銀の存在意味は何なのかとか問われているのである、信用組合はその存在意義が地元と密着して果たしているという側面がある、地銀はもう証券会社の支店なのかともなっている、つまり役割りが喪失しているのである

こういうことはあらゆる所で起きている、もともと何のためのなのかということは追求されて来た、それが学問になった、学ぶはまねるだけど問うということから始まっているからである、だからあらゆる学問の基は哲学であり宗教もその代わりをしてきた
科学でもやはり哲学を基にしている、ただそれが時代的には食べるものもないとかなると食べ物を確保することが優先される、だから高度成長時代にはそういう疑問はあまりなかったのである、ただ人間は考える芦であり我思う、故に我ありというのは変わらなかったただそれが全体的風潮として様々な分野で会社でも問われるというのはやはり時代が変化したためだと見る

なんでこんな時にオリッピックやるのか?狂気の沙汰ではないか?

それまでにする意味と意義があるのか?ならばその意味と意義を問い正したいとなる
菅首相に聞きたいとなる、でも何か意味とか意義をIOCでも言わない、結局その意味とか意義より金だ利権のためだとなりそんならやる必要はないと世界の人でも見ているのである、つまりやる意義がなくなっている、世界平和に貢献するということでもない
もともとオリッピックが世界に貢献することなどなかったのである
ただ政治に利用されたり利権であったり金のためになされてきた、それが今回は露骨に可視化されたのである

それこはオリッピックだけではない、例えば原発でも電気は必要なことはわかる
でも本当に原発が必要なのか、原発無しでもやっていけるとかなる
電気はいらないとは言わないが原発なくてもやっていけるとはなる
リニアは自然破壊してまで危険を犯してまで作るべきなのかともなる
新幹線は必要だったとがリニアは必要なのか、そんなに早くすることが必要なのかと問われる
また宇宙まで火星まで莫大な金をかけて行く必要があるのかともなる

何かあらゆることでその必要性とか何のためにするのかとか問われる時代になった
科学技術でもあらゆることが研究でも必要なのかと問われる
それは科学の問題の前に哲学的問題となっているのである
だから今は哲学、宗教、芸術とかの時代に移行する、科学技術でもあらゆるものが本当に必要なのかと問われる、そこに危険があり原発事故になり故郷に住めなくなったからである
爆発した時吉田所長が東北に人が住めなくなるというのは原発のことを知っていたから言われた言葉なのである、それだけ危険なものが原発だったのである
そんな危険なものを地震とか津浪とかが襲う日本に必要なのとなる
電気がなくてもいいといのではなく、そんなに危険なものが近くにあり安心して生活できるのかとなる

哲学というと一般人と関係ないとかわからないともならない
この辺で原発事故で漁業関係者は事故前も手厚い補償金をもらっていたのである
だから別に魚かとれなくても良かったのである
補償金で暮らせたからである、でもそこで事故後は魚をとることもなく海を見てぶらぶらしていた、そこでなぜ自分は魚もとらないでここにいるのだろうと自問していたのであるつまり哲学的になったのである、魚を獲ることが仕事なのにそれもしない
すると確かに金は入ってきても何でいるのだろうと自ら棟うになったからである

何か今はあらゆることでこうして存在意義が問われている、その目的とか意義が問われる宗教でもカルト教団になるとなんのために社会に存在しているのか?
内訳はただ一票獲得のために祈って選挙活動しているだけである
すると目的は選挙に勝つことである、そして権力を得ることだとなっている
それが宗教なのかとなる、そんなことが社会にとって許されるのかとなる
その存在意義は何なのかとなるからだ

他にもマスコミの存在意義は何なのかとか様々なことで意味と意義が問われている
これまでは腹が減ったら充たせばいいしかなかった
宗教までがカルトだとそうなっていた、腹を充たすための宗教である
御利益宗教である、それは資本主義社会であれ社会主義であれ金をもうけるのが共同して金をもうけるのが利益を追求するのが会社だとなればそうである
でも今はその利益を上げるいうことだけで社会から容認されない
社会のためにその会社がどういう働きをするのか意味と意義が問われている
「SDGs」とか持続可能社会が言われるのもそのためなのである
ただ利益あげて社員に株主により多くの金を分配すればいいとはならなくなったのであるそれは世界的兆候としてある、中国でも若者から寝そべり族が生まれた時、なんでこんなに働くのか、働かせるのかわからなくなったとしてそうなったと見る
つまり哲学的になったのである


posted by 老鶯 at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年07月08日

自然破壊 全国で公害化する太陽光発電 8割がトラブル抱える 住民悲鳴 (熱海市の土石流被害は中国も関係していた)


自然破壊 全国で公害化する太陽光発電 8割がトラブル抱える 住民悲鳴

(熱海市の土石流被害は中国も関係していた)

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丸森のソーラーパネルはここは本当に危険である
ただ近くに人家はない、だからここまでしたとなる



熱海市の土石流被害が今の日本の問題を集約していた、そこに中国が関係していたことである、今回の崩落した盛土の脇に確かにソーラーパネルがあった
それが保水能力に影響して崩落したのか明確ではない
でも熱海市など地方小都市の土地が中国人に買い占められているというのは意外だった
北海道はそのことが言われたていた
でも今は日本の小都市の土地が買われているという、それで熱海市は標的としてはいい場所だったとなる

何か日本は中国の影響があらゆる場所で受けるようになった
日本浸食が尖閣諸島だとわかりやすいが実は日本中で中国の侵略が見えない形で行われている、熱海市は一時観光客も来ず低迷していた
そういう場所に中国人が土地を買う、中国マネーが入ってくる
それは毒のように日本人に回ってくる、カジノ問題でも富山県とかで中国人が関係してすすめられていた、金が中国人から流れていたのである

やはり国というのは国力が弱ると他国が進出しやすい、別に今は戦争ではなくても自由に人、モノが行き来するのだから住むことも簡単にできるのだから中国人が日本に住みつく現実に近くにも中国人が空家だったところに住みついて仕事しているからである
ベトナム人も住んでいる、それで中国人がベトナム人を仕事させるために連れてきていたというのも現代のグロ−バル化である
中国人の女性と結婚した人も知っている、中国人と欧米人の違い中国人は日本の中に住みつく、欧米人で住みつく人はまれである
だから欧米人は間接的影響であり中国人などは日本に住みつくから直接に影響する
中国人は中国政府の命令に従うというときもそうである
日本人に住んでいても中国人であり中国政府の命令に従う義務があるというとき日本にとっては危険なものになる

とにかく国力が弱体化すると外国の影響を受けやすくなるのだ
原発事故でももともと日本の技術で作られたものではなかった
何か日本人は技術で優秀だとかうぬぼれていた、そして日本人は原発でも事故を起こさないと「安全神話」が作られた、これは日本が戦争には負けないという神国としての神話を作ったのと似ていた
でも戦争で負けてそれも崩壊した、今回も原発事故で安全神話は崩壊した
原発はそもそも日本の技術で作られていなかった
古い型のお古のマーク1の原子炉をアメリカから買ったというより買わせられたのである遅れた国は武器でもお古を売りつけられるのである
日本は不思議に江戸時代の鎖国の時代まで独立国家だったのだが明治維新でも独立国家を維持していたがアメリカに負けてからは従属国家になり独立国家ではなくなったのだ
だからアメリカの意向に逆らうことはできなくなっていた

そして今度は中国が巨大化すると中国の意向に逆らえなくなる、それは日本の国力が弱体化しているからである、戦争する前にすでに日本は弱体化しているから経済的にも他国が進出して日本の土地でも会社で買うとなる
独立していないということはすでに経済的にも独立していないとなり土地でも買われ戦争する前に平和的に侵略されているとなる
熱海市でも衰退しても中国人が入ってきてそれで経済的にも復興したとかなるからだ

だから不思議に熱海の土石流が国際問題であり今を象徴していた災害だったのである
単なる自然災害とは違っていたのである、人災という側面もあった
その人災に中国人がかかわっていたともなる
ソーラーパネルは本当に自然破壊である、丸森では山ごとソーラーパネルになっていた
もう山自体の木をみんな切ってしまったのである
すると土石流になって流れ出す、でもそこには人家がない山奥だから熱海市のようにはならないということはある
でも山ごとソーラーパネルにしていいのか?景観としても問題である
そしてソーラーパネルの材料が中国製でありソーラーパネルは中国の企業が関与して作られている、中国をもうけさせただけだという人もいる

それは原発事故からクリーンな再生エネルギーとして民主党の行った政策だった
でも景観を破壊するし自然災害も起きてくるし廃棄物となるとき有害なもので公害にもなる、だからクリーンな再生エネルギーではないのである
ただこの辺では津浪で荒地化した海岸とかはソーラーパネルで埋まった
何も利用できないからそうなった、山でも木材が利用できないとかでソーラーパネルになった
ただ木材は外材が入ってこないとかウッドショックとかなると国産の木材を頼るようになるかもしれない、だから自給自足的な経済の回帰するかもしれない、何かコロナウィルスとかてもそうして過度なグロ−バル経済からその国の生態系に基づいた経済に回帰するのはいいことである

ただ危険なことは日本はアメリカによって従属国になったとき日本独自の国造りをできなくなっていた、原発を作ったのもアメリカに押し付けられたという側面もあるからだ
日本独自の国造りができない、アメリカに強制されまた今度は中国の巨大化で中国に強制される、その結果として日本の国土自体が破壊される
それが大問題なのである、ただ日本の自然は工業化で破壊されて来た
だからすべて外国のせいだとはならない、でも日本の国土を守るときやはり日本の独立が日本独自でするということが大事になる、それができないと日本の自然自体が守れずに外国に売られるともなる

日本は独立国家ではない、それは戦後戦争に負けてから精神的にも独立を失ったのである日本で独自の方向に向かうということができなくなった
日本の国力が衰退してやがてアメリカが衰退して日本からアメリカ軍が去る
その時巨大化した中国と対峙できるのかとなる
元冠の時は海が防壁となり防いだが今は海は防壁とならない、現実に飛行機でも簡単に日本に来て住みつく中国人がいるからだ
つまり戦争しなくても中国人の侵略は平和裏に行われいつのまにか日本は中国の一部だとかされてしまう
ただ日本は長年70年もアメリカの庇護にあり日本人だけで独立する気概が喪失した
それは国力の経済の衰退でもそうなった

日本一国で中国と対峙して独立の道を歩むことは至難になる
すでに中国の一部と化しているのが創価でありまた自民党の二階派とかもそうであり野党でもそうである、中国様様になって従属しているのである
すると日本の景観が破壊されても中国製のソーラーパネルで埋め尽くす、自然災害より中国様の意向に従うとなる、今まではアメリカ様の意向に従っていたが今度は中国様の意向に従う、中国の場合はより直接的になるから中国の一省となり中国が直接日本を統治するともなる
それがすでに高橋洋一氏が中国は統計で嘘ついているというとき中国政府から圧力がかかったからである、つまり出版すらできなくなるともなる
言論の自由はなくなるのである、これがアメリカとの大きな相違である
アメリカも圧力かけるにしても一応言論の自由は認めているからである
中国は全く認めない、弾圧されてしまうのである
その時日本はアメリカの支配より委縮した国家となり独立もない個々人でも奴隷的従属人間と化すともなる




自然破壊 全国で公害化する太陽光発電 8割がトラブル抱える 住民悲鳴


森林を伐採というよりも、リゾート開発でそのあと打ち捨てられた山間部のゴルフ場跡地や、
採石場跡地、林業用の杉の山(輸入材の安いので切るだけ赤字)、そういうところが多いけどね。

田舎の太陽光発電ってコンクリの基礎作るわけでもなく、丸坊主にした山に
パネルの台座を差し込んで、坊主にした部分にシート貼ってるだけだからな。
恐ろしいよ。
見るたびに位置が下がってきてる気がする

シナチョンにやられて太陽光発電広めただけだしな
なんでアメリカが太陽熱発電が多いかと言うと砂漠が多くて、環境破壊のリスクが低いからなのに
同じ事を森林の多い日本でやるとか、砂漠化加速するだけなのに進めた結果がこれ

雑草が土の流出を防いでいるのに
ソーラーパネルで枯らしちゃ駄目よ
土砂災害に繋がるから
草刈りだって根っこは残すんですよ

パネルも事業母体も中国が多くて、中国人に日本人の再エネ賦課金含む金を
献上してるのが現状

あと、国内の金融機関も積極的に国内の企業に融資しなかったから中国人が
現金で土地を買収しまくった 挙句の果てに金融機関に再エネ関係には
極力融資をしないでくれとまで圧力かけた電力会社のバカもいる

つか今の土砂崩れは大半が土木知識のない素人が起業して価格とか利回りだけで工事したせい。

普通の家用分譲の成形地もここまでひどくなっていない。
建設業許可もってない企業とかが工事してる。

山削ってパネル建ててるやつがほどんどなんだから
そりゃトラブルにもなるわ
まず景観が汚くなるし、反射光も凄いし、大雨降るとダダ流れで
付近の田畑に流入して近隣大迷惑
空いてる土地が山ほどあるアメリカや中国みたいな国ならともかく
日本じゃやっぱり太陽光は向かないんだよな

利益より費用が圧倒的に多いのが太陽光発電
詐欺に近い

ソーラーパネルの会社は日本企業ほとんどいない
カナダとか中国韓国がほとんど
外資系企業が作るだけ作ってあとは放置

建築物というより工作物なんで上流に作られると災害時に注意がいる
昔は近所の山は数日掛けて水路に流れてたが今は泥水の鉄砲水化してる

日本のソーラーメーカーもアメリカのソーラーメーカーも、原材料が殆ど中国からで、しかもその材料が採れるのがウイグル地区なんだよ。だからほぼ人件費もかからずあいつら加工してやがるから儲かってしょうがない。
日本が国策でソーラーを増やしたのは、中国の金のなる木を増やしただけ

ソーラーパネルは、各家庭がとりつけるものであって
大掛かりにやるべきものではない。
なぜなら蓄電率が悪いし天候に左右されるから。
自然破壊してまでビジネスにするもんじゃあない。
各家庭への取り付けを義務づければ、街ごとの停電なども防げる。
必要なものだ

パネルも割と持たんよ
発電してるときは常に電流通ってるから
パネルの何処かがショートすれば
パネル全体がひび割れて産廃化する

20年補償とかようやるわ
半導体メモリや包丁の永年補償みたいなもん

日陰も作ってしまうから植物も育ちづらいし
それを食料にする動物も困るしな
完全な自然破壊か
自然を守ろう
でも二酸化炭素を少なくするのも自然を守ってるのか

ちなみにメガソーラー発電所ではほぼ毎日特殊な洗剤で
大量のパネルを洗浄して汚染された洗剤を処理せずに敷地にばらまき
雑草が生えると発電効率が落ちるから除草剤を大量に散布
土壌汚染のどこがエコなんですか?
賛成派はソーラー発電所の近くの汚染物資を大量に含んだ地下水を飲んでくださいね





丸森のメガソーラーパネルは元はゴルフ場だった
また山全体をソーラーパネルにした、そこの木は全部切られたから保水能力が消失して熱海市のように土石流となり流れ出す、ただ人家がない所だから誰も文句も言わないと成るこうして人家がないいうことはかえって自然破壊がすすむ
誰も文句を言う人がいなくなるとそこは自然に戻るわけではない
今度は飯館村とか原発事故の避難区域の人が住まない所が放射性廃棄物場にされる
だから何か森でも木材でも利用されないとかえってソーラーパネルになったりすることが止められない、人が住んでいることで逆に自然でも景観でも守られる
田んぼがあると生態系の一部になるから自然景観とかも守られる
でもそこが荒地になるとソーラーパネルになったりする
だから人の営みがないとかえって自然破壊される矛盾がある

ともかく原発でも日本だと地震が多いし津波もあるから向いていなかった
ソーラーパネルは土地が無限大にあり砂漠があるような所に向いていた
要するにその土地の風土を無視した科学技術はやはり問題があった
人間はどうしてもその土地に適合して生きるほかないのである
もしそれを無視すると自然から逆襲されるのである
ただエネルギーをどうするかとなると大問題である
地熱発電もこれもなかなかうまくいかない、結局炭の時代にもどるのかとまでなる
ただエネルギー問題は国の根幹にかかわることでありそれで戦争までになる
石油をめぐり戦争が起きたようにである

いづれにしろ原発事故がありその後ソーラーパネルによる自然景観の破壊があり日本の国土の荒廃がある、だから科学技術による繁栄には限界がある

御民我れ 生ける験(しるし)あり 天地の 栄ゆる時に あへらく思へば

天地を基にして日本の栄がある、それをないがしろにしたとき栄がないとなる
それが原発事故でありソーラーパネルの自然破壊でありそこに日本の栄もないとなる
ただこの問題は国際問題化していて中国によるソーラーパネルの企業進出があり日本の富が奪われて中国に静かな侵略が行われていたということが裏にあった
つまり今や巨大化した中国があらゆることにかかってくる
日本の国土が守れない、国土交通大臣が公明党になっているのもおかしいのである
なぜなら創価公明と中国は一体でありすでに中国の一部隊となっている
だからと土地規制にしても公明党は反対なのである、つまり創価公明は日本を中国に売り渡すことに抵抗がないしその手先だとなる、それと自民党の二階も中国と親密であり中国様を優先する
自民党の右派がいたとしても目立たないのである
そこで熱海市の土石流被害でも現代を象徴するものとして起きていたのである


「中国人が持っている北海道の土地面積、静岡を超える」と田母神氏:
グローバリズムとの両立の道は

中国に蝕まれる日本人の土地
posted by 老鶯 at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層