働かなくてもいい社会の未来
(ニート、引きこもりをすすめるひろゆき)
何か私がひやゆきに同感するのは私自身が引きこもりであり仕事しないで人生終わったようになったためである
団塊のの世代はほとんど猛烈社員、企業戦士となって働いた時代である
だから働かない人とかはほとんどいないからそんな人はいないと見られたし関心もなかったのである
なぜニ‐トとか引きこもりとかが問題視されるのか?
それは結局数の問題なのである、数が多ければ社会でも支障を来すからなんとかしようとする
別に少人数だったらそんなもの変わり者であり放っておけしかならないのである
社会とはなんでも数で決まる、なんでも数で計算している
それは科学的なものでも放射線量も数だったしコロナウィルスでも常に感染者数で数で判断されている
全体を動かすのは数なのである、カルト宗教団体でも数である、中味などどうでもいいのである、それだけの数がいるということで社会に影響を及ぼすから数を集めるのである
数が多いと何かあると社会ではみる、数が少なければそんなもの話題にしもしないとなる民主主義とは選挙でも投票数であり何でも数で決まるのである
能力ない人はかえって働かない方がいいとか言うのは有能な働いている人の足を引っ張るからだとか言う、また老人は働くべきではないというときかえって若い人の職を奪うからだとも言う、無能な人間は足手まといになるから働くなという
それでベーシックインカムを奨励する
働かないで金をもらえないと食べていけないから最低限は補償してやろうということである
そんなことしたら勤勉で成長した日本社会が崩壊するという旧来の人たちが年寄りがいるそこに世代の差が生まれている、そもそも60万以上とか働かないニート、引きこもりがいることが団塊の世代などからすると理解できないことなのである
私自身はそういう人達と違和感がない、というのは自分自身がニートであり引きこもりで遂に人生も終わるとなるからである
ただ自分は好きな勉強はしてきたし旅したことで見聞を広めてその経験を俳句や短歌や詩にしたりいろいろ書いているのである
だから旅したことでもそれが無駄だとはなっていないのである
ただ自分がニートとか引きこもりを見る時、それは何なのだろうと見る
なぜこんなに多いのかともみなる、そして許されているのかということもみる
団塊の世代にはまずそういう人はまれだから誰も気にとめなかったからである
変わり者としてあり社会全体でそんな人はどうでもいいし話題にもしないのである
話題にしているのは経済成長とかでありそんな人はいるか気にもとめなかったのである
ただ堂々と社会にニートだとか引きこもりだとか図々しく言って悪びれないのが違っている、おそらくそれは時代の差なのである
別に働かなくてもいいという余裕がある時代だからそうなった
もともと働くという言葉が端を楽にするということから起きている
家族でも懸命に働く人を見ていると少しでも楽にしてやりたいと家族なら見るからだ
それで貧しい家庭で育った後進国の若者は親を楽させたいということがあり出稼ぎして
仕送りしたりする
今でもそういうことがあるにしろそういう感覚は薄れて来た
たいがい戦前とかは親のために子が働くのが普通だったからである
子供は労働力となっていたのである、私自身も子供の時、店で配達をさせられていたからである、今子供の時カラ働かせるということはない、子供は勉強しろという時代だからである
時代が変わると価値観が変わる、かえって働くことは社会にとって害になる
老人は働くな、若者の職を奪うことになるから働くなということは何かただ働くことが肯定できない時代になっていたのである
それは機械化されたりまたAI化されたり人間以外の労働力が大きなものになると人間は自ずと働かなくてもいい、生産はできるとなる
でも食べていかなければならないから最低のものは与える
それがベーシックインカムだとなる
責任をもって有能な人が働く、あとは働かなくてもいいとう時代になる
老人なってひっこんでいればいい、社会に出るな、ボランティアなどされると働いている人の迷惑にもなる、かえってめんどうが増える、邪魔になるとみられる
仕事する人は仕事するルールがあったりお互いの了解があったりしてしている、そこに何かわからないボランティアとか入ってくるとかえって邪魔だとなる
それは私が駅で道案内したと駅長であれ常にけむたがられて叱責されたことでもわかる
お前は邪魔だから消えろしかなかった、そして回りの人もそこで何しているのかとうるさくてお前はやる必要がないとあからさまに言われた
つまり働く必要は無人駅でもないとされたのである
他の人も退職した人が地域の相談役のようになったときもめ事にまきこまれて裁判沙汰になったことでもわかる
要するに善意であってもすべては受け入れられない、かえってめんなことにかかわって
もめごとをかかえこみ目障りになっただけだとなる
要するに邪魔な老人はひっこんでいろ、何もするな
無能な奴は何もしないでいい、有能な人に仕事はまかせろ
老人は働いて若者の職を奪うな
仕事は機械にまかせろ、AIにまかせろ、人間はいらない
駅は無人駅でいい、コンビニも無人化しろ
こんなふうになる、そこで膨大な老人が無用化してうろうろする時代にもなる
ただ認知症になるのはボケるのは嫁に「ばあちゃんは何もしなくてもいいですよ、テレビでも見ていてください」と言われた人がボケるのである
それで私の家族では同い年親が二人いたともなるが一人は早くに退職して何もしなくなった、優秀な女性だったが何もしなくなりボケのかともみる
看護婦だったからそういう人の世話をする仕事をしていたけど退職してから何もしなくなった、趣味のようなものをしていてもそういう方面には向いていなかったのである
だから認知症になっともみる、その原因はわからないにしろ脳が不活発になって脳の機能が衰えたと見る
なぜならもう一人の親は趣味もなもにもない大正生まれで働き詰めの人生だったがボケなかった、94歳くらいまで家事をしていたからである
趣味はなにもない、庭には花はいらないというくらいで働くことしかなかった
でもボケなかった、家事の仕事がその年まであったからだったのかとなる
家で役割があったがもう一人の親は役割もなにもなくなってただ何もしないそのうち認知症になったのかと見る
確かに社会は有能な人が働く、それで回るようになるかもしれない
でもここでの最大の問題は人間の生きがいなのである
別に仕事をしなくてもいい、ベーシックインカムで最低限の生きるものは与えられる
でも人間にとって社会で認められるとか生きがいを持つことが欠かせないものなのであるそうして社会から何もしなくていい、仕事もするなとなったときそういう人たちが別な生きがいを得られるのか?
それでみんなアーティストになれというのが不思議なのである
自分自身はアートを追求しているにしろみんながそれができるわけではない
そうすると何の生きがいもない人達が増えてくるとどうなるのか?
住宅に住んでいる女性は何か金属のきらきらしたものをぶら下げて回りの人と付き合わない、それでそのことが目障りで嫌だと隣に住んでいる人が毎日訴える
でもその人をどうすることもできないのである
なんでそんなことをしているのかわからない、そんな迷惑人間になっているのかわからない、何かかまってもらいたいなら話しでも愚痴でも言えばいいのだかしないのである
その原因がわからないにしろそんな偏屈な何かわからない迷惑老人も増えて来る
老人でも何か役割をもちたい、社会で持てないなら家族でも持ちたいとなる
でもそれもできないという時代になると何をすればいいのかというのが問題になる
高齢化社会というのはなにかそういうことが問題にもなる
人間はいくらベーシックインカムで食い扶持を与えられて生きろと言っても動物と違うから何か社会で家族でもいい隣近所でもいい役割を持ちたいとかなる
それもできないとするとき何をすればいいのかとなる
そのことがボケになる認知症になるとするとこれも大きな社会問題になるのである
いづれにしろ自分にとっては働かなくてもそのことで責められない社会は望むところだとなる、そもそも働かずに稼ぎもせず遂に一生が終わりとなりつつあるからだ
でも大多数にとってはそうはならないのである
これは人類的問題なのかもしれない、何か戦うこともなくなり人間が惰弱化して怠け者となりそれが人食い人間に食われる、それも抵抗もしないでそうされるというウェルズの小説にあった、人間がもう戦うことがなく惰弱となりそんなふうになったのである
80万年後の世界では、作品が描かれた19世紀末に想像されていた未来の人間社会が描かれます。その社会では人間は仕事をしなくてもよく、遊んで暮らせる存在。しかし主人公はやがてその人間社会がエロイとモーイックという別々の種族で成り立ち、社会はエロイ族が仕切っていることに気づくのです。
本作は、社会主義派であったウェルズが、資本主義社会の行く末と考えられていた「格差社会」を予見して描いたとされています。ウェルズの科学的知識が本作でも抜群に発揮されており、タイムマシンという好奇心を駆り立てる存在と共に、文明に頼りすぎると人間が陥りやすい危険性を力強く描いています。「タイムマシンーウェルズ」
これは有能な働く人と働かない無力化した人間に分化する未来を描いている
それが現代の状況を予言しているともなるから慧眼の人だったともなる
人間が働かなくなり惰弱となり役割もなくなりそれでただ人食い人間に支配されて食われるだけだとなる社会も恐ろしいとなる、人間が二分化してそうなる
ニートとか引きこもりが増える社会はそうして無気力な人間があふれただ今度はそういう人間は食われてゆくだけだとなる
ただ無気力になるというときすべて悪いとはならない
中国の若者の寝そべり族とがでできたのはただ共産党の言うままに奴隷のように働かないということである
そういう若者はとても戦争などしないだろう、血気盛んで勤勉で上の命令に従うだけの人は戦争でもする、でもそれに抵抗する若者が増えることは悪いとも言えない
中国は巨大化して脅威であるからだ、でもがむしゃらに働かないとか、上の命令通りにならないとかなるのは日本にとってもいいことなのである
そんな若者が日本と戦争して中国の奴隷にしろとかならないからである
「戦争なんかやりたくない、、寝そべって方が楽だ」そうなれば戦争は起きないとなるからだ
ともかく高度成長時代が中国でも終わりになりある程度豊かさが充たされると同じ傾向が生まれて来る、そうなれば中国は脅威でなくなるともなる
出世欲がありもっと金持ちになりたいとか物でもなんでも欲しいとか戦闘的な若者が多ければ日本をやっつけろとなり危険になる
ただ寝そべっている若者を見る時変なのだけど安心だともなる
だから自分は自分自身の引きこもりの経験からそういうにもみる
ただ普通は働くことは義務であり働かない人間は非国民だとなるのが普通である
俺たちはこんなに苦労して働いているのにお前はなぜ働かないのだとなるからだ
そういう目で見られるからである
でも価値観が変わるとそういう人もいていいじゃないかとなるとき価値観が変わったためだとなりかえって引きこもりでも無職でもニートでも住みやすいとなるのである
ただそういう人達で社会があふれたときどうなるのかは予想がつかない
社会自体機能しなくなり崩壊するともなる
少数だったら問題ないがこれだけ数が多いということが社会に影響するこもまた大きくなることで問題になるのである
こういう問題が起きているのは現代が日本でも中国ですら高度成長時代があり物不足とか
インフラでもあらゆるものが不足している時代とあらゆるものが備わったしまった社会との相違である
戦後の焼け野原は何もない時代から始まったからだ、それでどこの家庭でも飯台一つくらいしか家になかったのである
道路も土の道路であり舗装もされていない、あらゆるものが整備されていない時代だったそこではだからみんなが働く必要があったのだ
でもあらゆるものが備えられた供給される時代に変わった
するとかえって道路が必要もないのに作られたりする、北海道では熊が通っているだけだとか揶揄された、本当に様々なものが必要なのかどうなのか疑問になる
新幹線は必要であったがリニアは本当に必要なのだろうか?
それは自然を破壊して危険なものになるとか原発でも事故になってそれが本当に必要なものだったのかとか問われる
また宇宙開発とか火星まで大金をつぎこんで行く必要があるのかともなる
そしてオリッピックは結局今や一部の人のためオリンピック貴族のための金儲けのためだと判明した、つまりオリッピックする意味が意義がないとなったのである
結局意味と意義を求める時代になるときそれは哲学とか宗教の問題になる
何もない時代ならそんなこと考えない、橋がなかったら不便だから橋を作れとなりそれに反対する人はいないからである
でもあらゆるものが供給されるとそれが必要なものかどうか問われる
あるべきかあらざるべきとかとか哲学の問題になる
宗教ももともとそういうものだったが現代のカルト教団などはやはり物欲の宗教だった
物欲を満たすものとして宗教があった、だから本来の宗教とは全く違ったものであり
やはり高度成長時代に適応したものでありそれで創価などが巨大化したのである
宗教でももともと現世利益が神道でもありそれが日本的宗教だともなっていたからである
どうしても時代が変わると価値観が変わる、だから戦後70年過ぎて価値観が変わるからとまどうことになる、確かなことは物欲一辺倒の時代は終わったのである
だから高度成長時代のようにがむしゃに働くことが奨励される時代は終わった
そこにニートとか引きこもりとかがこれだけ増えたり中国でも若者の寝そべり族が出てきたりしているのである
中国でも競争が激しく猛烈社員が国家のために働くことが若者に強制されたともなるからだ、いづれにしろ明らかに時代が変わり価値観が変わったことでこういう現象が起きていることは確かである