立場が変われば見方が変わる(相互理解の難しさ)
(男女でも見方が変わる)
近くの人が80過ぎた人がしきりにいう、先生になぐられたことを根にもっていたのであるその先生も近くの人だったがじっと前に死んだ
その頃普通に学校は先生は生徒をなぐったり虐待していた
私も学校でそうさせられた記憶がありそれが心に残っている
何か人間を人間として見ないのである、奴隷のように見ているのが先生だった
またそうして厳しい先生が地域でも家族でもいい先生とされてもいた
今は逆に虐待だとか煩くなっている
ともかくそうしたことは意外と忘れない、根をもつことになる
ただ同世代の女性と話ししたらそういう厳しい先生の方がいいのだとしきりに言う
今は子供をあまやかしているという、これは女性から見た見方だと思った
女性はなぐられたり廊下に立たされたりしない、かえって笑っているだけだったとなる
そして厳しいししつけをするのがいいとされた時代だとなる
それで加治将一のyoutubeで団塊の世代の同期の人が子供は口答えするな、何も言えず飯を食えとしか言われないし何かというと殴られたとか言っている
その人は8人兄弟だというからそうもなるのかもしれない
でもそういうふうに地震、雷、火事、親父とか威張っていたのが昔の親だったのである
女の子にはそういうことがないからかえって厳しい方がいいとその母親となって年老いた女性は言ったのである、ところがその人には三人の息子がいるが一人は絶縁にもなっている、母親は苦しんでも何の関与もしない他人と同じなのである
そこには何か事情があるにしろ育て方にも問題があったのかともみる
ただ貧しい底辺の人だからそこにも問題があった
たいがい家庭では父親はこのように威張っていた、それが普通だったのである
だから大人になった時もそういうことを忘れない、それでその恨みを言うようになる
私の場合は早く父親が死んだからそういうことがなかったのである
もし生きていたらかえって恨んだりしたかもしれないのである
教育とは何か?それは自主性を育むことなのだが家庭でも学校でもそれができない
強制と体罰にもなる、人は何らかの才能を持っている、でもそれが伸ばせないのである
それは自主的に学べる環境が与えられないことにある
もしそれぞれか自主的環境が与えられれば自ら学ぶようにもなる、その時こそ学ぶことが身につくことになる
だから私の場合は大学を卒業していからの方が勉強したのである
大学ではほとんど勉強していないかったからである、勉強に興味をもてなかったからである
結局その後どうなったかとういうと就職もできないからアルバイトとか流れ作業のような底辺での仕事しかなくそれが嫌になり家庭環境に恵まれて旅ばかりしていたとなる
別に旅がもともとしたいというのではなかった、仕事に興味をもてないし就くこともないからそうなっただけである
結果的に旅ばかりしていれば自ずと地理に興味をもつようになった
また外国にも50代で行ったからさらに地理に興味をもつようになった
地理はまずいくら本を読んだり教えられたりしても興味をもてないのである
実地にその場に行かない限り興味をもてないのである
例えは詩とか作るにしても意外とその前にいろいろな体験をしておくことである
それで有効なのが登山とか旅とかになる
山を詩にしようとするとき山を知らなければならない、するとその詩を作る前に登山でも必要になる、でも登山となると体力がないので私は40代前にやめたのである
詩を作るというとき意外と体力がないと作れないとういことがある
なぜなら軟弱だったらとても荘厳な山を詩にすることができないのである
自然そのものが軟弱だったら詩にできないことがある
ただどうしても詩人というと体が頑丈な人は少ないと思う
ただ体が頑丈な詩人もいる、そういう人はまた別な感性に欠けるともなる
いづれにしろ立場が変わると見方が違ってくる、それで相互理解がむずかしくなる
男女間でもそうであり地理でもそうである
韓国から見た中国大陸からみた日本と日本から韓国や中国を見る感覚は正反対になる
日本は島国として韓国と中国をみる、それが固定観念となり世界を見誤るとなる
どうしても日本は島国でそうなりやすいのである
地理的に巨大な大陸的なものを理解できないのである
だから日本の太平洋戦争は無謀になった、西安まで日本軍が行っていたことに驚く
そこがどれだけ遠い場所かそんなところまで行っていたことは本当に無謀だったとなる
満州にしてもその広さを知らなかった、またアメリカでもその広さを知らなかった
知りえようがなかったともなる、それはその国の地理とかそこに住む人の立場を理解できなかったからだとなる
結局人間は自分の住んでいる場所がどこであれ中心として世界を観ているのである
だから必ずそこでその住んでいる場所が違うから見方が違い誤解が生まれるのである
人間が意志疎通ができないというときそもそも男女間でそうである
なぜこれほど離婚が多いのか、私の所に来た人が離婚が多いことに驚く
小高の人で二人離婚している、最近では67くらいになって離婚した
なぜか自分の家に来た人は離婚が多い、二回離婚した人もいる
熟年離婚も本当に多いのである、それだけすでに男女間でも意思疎通ができないということである
江戸時代でも離婚が多かったという時もともと男女の間でも意思疎通がうまくいっていなかったともなる
それは男女で基本的に相違が大きく社会でも世界の見方でも違っているからだとなる
その落差が大きいからどうしても離婚になる
また現代だと無数の職業がありその職業が違うと相互理解がむずかしくなる
それで鉄を作る人とか木地師とかは神秘的な存在になり伝説にもなった
天狗とかなんとかにされた人も何か意志疎通できない人だからそうなった
それより江戸時代なら隣の村の人との交流でも麦つきに来た若者が蛇だったとかされる
つまり隣の人すらなじめない異様な人とされたのである
それだけ隣の村同士でもなじめない交流しない世界だったのである
だから飯館村の大倉村と佐須村が明治になって合併できなかったのは民情が違うからとなっていたのである、民情が隣の村同士でも違ったのかとなる
それだけ人間が相互理解することは立場が違うと地理でも隣村ですら離れている相互理解が難しくなっていたのである
現代でも実際は相互理解することは本当にむずかしい、確かに情報が膨大になやりとりすることができても現実問題として相互理解する意思疎通することはむずかしい
グロ−バル化すると油まみれの一羽の海鳥でイラクを誤解したようになる
テレビの映像からだけでは実際は理解できないからである
人間が理解しあうことがどれだけむずかしいかは男女間で三分の一が離婚していることでもわかる、また立場が違うと見方が変わるからである
人間はそれだけ多様な立場がありそれで誤解も多くなる、現代はこれだけ複雑になると職業が多様化するとさらに理解がむずかしくなる
何か専門用語を弁護士でも科学者でも使うと理解できなくなる
まるで外国人と同じになる、現代とはこれほど他者を理解することがむずかしい時代はなかった、江戸時代なら農民が大半だったというときそこで理解しやすかったのである
侍にしても農民から税をとって生活していたから農業を理解することがあったからだ
現代はもう無数の職業がありさらにグロ−バル化すると理解不可能になったのである
ただ物が入ってきても相互に理解しているわけではないのである
そこでグロ−バルな争いにもなり世界大戦にもなったのが20世紀だったのである