2021年06月01日

立場が変われば見方が変わる(相互理解の難しさ) (男女でも見方が変わる)


立場が変われば見方が変わる(相互理解の難しさ)

(男女でも見方が変わる)

近くの人が80過ぎた人がしきりにいう、先生になぐられたことを根にもっていたのであるその先生も近くの人だったがじっと前に死んだ
その頃普通に学校は先生は生徒をなぐったり虐待していた
私も学校でそうさせられた記憶がありそれが心に残っている
何か人間を人間として見ないのである、奴隷のように見ているのが先生だった
またそうして厳しい先生が地域でも家族でもいい先生とされてもいた
今は逆に虐待だとか煩くなっている
ともかくそうしたことは意外と忘れない、根をもつことになる

ただ同世代の女性と話ししたらそういう厳しい先生の方がいいのだとしきりに言う
今は子供をあまやかしているという、これは女性から見た見方だと思った
女性はなぐられたり廊下に立たされたりしない、かえって笑っているだけだったとなる
そして厳しいししつけをするのがいいとされた時代だとなる
それで加治将一のyoutubeで団塊の世代の同期の人が子供は口答えするな、何も言えず飯を食えとしか言われないし何かというと殴られたとか言っている
その人は8人兄弟だというからそうもなるのかもしれない
でもそういうふうに地震、雷、火事、親父とか威張っていたのが昔の親だったのである

女の子にはそういうことがないからかえって厳しい方がいいとその母親となって年老いた女性は言ったのである、ところがその人には三人の息子がいるが一人は絶縁にもなっている、母親は苦しんでも何の関与もしない他人と同じなのである
そこには何か事情があるにしろ育て方にも問題があったのかともみる
ただ貧しい底辺の人だからそこにも問題があった
たいがい家庭では父親はこのように威張っていた、それが普通だったのである
だから大人になった時もそういうことを忘れない、それでその恨みを言うようになる
私の場合は早く父親が死んだからそういうことがなかったのである
もし生きていたらかえって恨んだりしたかもしれないのである

教育とは何か?それは自主性を育むことなのだが家庭でも学校でもそれができない
強制と体罰にもなる、人は何らかの才能を持っている、でもそれが伸ばせないのである
それは自主的に学べる環境が与えられないことにある
もしそれぞれか自主的環境が与えられれば自ら学ぶようにもなる、その時こそ学ぶことが身につくことになる
だから私の場合は大学を卒業していからの方が勉強したのである
大学ではほとんど勉強していないかったからである、勉強に興味をもてなかったからである
結局その後どうなったかとういうと就職もできないからアルバイトとか流れ作業のような底辺での仕事しかなくそれが嫌になり家庭環境に恵まれて旅ばかりしていたとなる
別に旅がもともとしたいというのではなかった、仕事に興味をもてないし就くこともないからそうなっただけである

結果的に旅ばかりしていれば自ずと地理に興味をもつようになった
また外国にも50代で行ったからさらに地理に興味をもつようになった
地理はまずいくら本を読んだり教えられたりしても興味をもてないのである
実地にその場に行かない限り興味をもてないのである
例えは詩とか作るにしても意外とその前にいろいろな体験をしておくことである
それで有効なのが登山とか旅とかになる
山を詩にしようとするとき山を知らなければならない、するとその詩を作る前に登山でも必要になる、でも登山となると体力がないので私は40代前にやめたのである
詩を作るというとき意外と体力がないと作れないとういことがある
なぜなら軟弱だったらとても荘厳な山を詩にすることができないのである
自然そのものが軟弱だったら詩にできないことがある
ただどうしても詩人というと体が頑丈な人は少ないと思う
ただ体が頑丈な詩人もいる、そういう人はまた別な感性に欠けるともなる

いづれにしろ立場が変わると見方が違ってくる、それで相互理解がむずかしくなる
男女間でもそうであり地理でもそうである
韓国から見た中国大陸からみた日本と日本から韓国や中国を見る感覚は正反対になる
日本は島国として韓国と中国をみる、それが固定観念となり世界を見誤るとなる
どうしても日本は島国でそうなりやすいのである
地理的に巨大な大陸的なものを理解できないのである
だから日本の太平洋戦争は無謀になった、西安まで日本軍が行っていたことに驚く
そこがどれだけ遠い場所かそんなところまで行っていたことは本当に無謀だったとなる
満州にしてもその広さを知らなかった、またアメリカでもその広さを知らなかった
知りえようがなかったともなる、それはその国の地理とかそこに住む人の立場を理解できなかったからだとなる
結局人間は自分の住んでいる場所がどこであれ中心として世界を観ているのである
だから必ずそこでその住んでいる場所が違うから見方が違い誤解が生まれるのである

人間が意志疎通ができないというときそもそも男女間でそうである
なぜこれほど離婚が多いのか、私の所に来た人が離婚が多いことに驚く
小高の人で二人離婚している、最近では67くらいになって離婚した
なぜか自分の家に来た人は離婚が多い、二回離婚した人もいる
熟年離婚も本当に多いのである、それだけすでに男女間でも意思疎通ができないということである
江戸時代でも離婚が多かったという時もともと男女の間でも意思疎通がうまくいっていなかったともなる
それは男女で基本的に相違が大きく社会でも世界の見方でも違っているからだとなる
その落差が大きいからどうしても離婚になる

また現代だと無数の職業がありその職業が違うと相互理解がむずかしくなる
それで鉄を作る人とか木地師とかは神秘的な存在になり伝説にもなった
天狗とかなんとかにされた人も何か意志疎通できない人だからそうなった
それより江戸時代なら隣の村の人との交流でも麦つきに来た若者が蛇だったとかされる
つまり隣の人すらなじめない異様な人とされたのである
それだけ隣の村同士でもなじめない交流しない世界だったのである
だから飯館村の大倉村と佐須村が明治になって合併できなかったのは民情が違うからとなっていたのである、民情が隣の村同士でも違ったのかとなる
それだけ人間が相互理解することは立場が違うと地理でも隣村ですら離れている相互理解が難しくなっていたのである
現代でも実際は相互理解することは本当にむずかしい、確かに情報が膨大になやりとりすることができても現実問題として相互理解する意思疎通することはむずかしい
グロ−バル化すると油まみれの一羽の海鳥でイラクを誤解したようになる
テレビの映像からだけでは実際は理解できないからである

人間が理解しあうことがどれだけむずかしいかは男女間で三分の一が離婚していることでもわかる、また立場が違うと見方が変わるからである
人間はそれだけ多様な立場がありそれで誤解も多くなる、現代はこれだけ複雑になると職業が多様化するとさらに理解がむずかしくなる
何か専門用語を弁護士でも科学者でも使うと理解できなくなる
まるで外国人と同じになる、現代とはこれほど他者を理解することがむずかしい時代はなかった、江戸時代なら農民が大半だったというときそこで理解しやすかったのである
侍にしても農民から税をとって生活していたから農業を理解することがあったからだ
現代はもう無数の職業がありさらにグロ−バル化すると理解不可能になったのである
ただ物が入ってきても相互に理解しているわけではないのである
そこでグロ−バルな争いにもなり世界大戦にもなったのが20世紀だったのである

posted by 天華 at 09:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2021年06月02日

なぜメデアがマスコミが問題になるのか? (メデアは仲介するものー直接に聞いて見た情報でないから)


なぜメデアがマスコミが問題になるのか?

(メデアは仲介するものー直接に聞いて見た情報でないから)

massmedia111.jpg

メデアとは仲介するものでありメデュウムというとき中立という意味になる
メデアというとき何か人づてに聞くうわさ話とかもそうである
ある人を通してそれを聞くからである、直接話を当人から聞いているわけではないから
それを全部うのみにすると間違いやすい、それで噂話しは尾ひれが必ずついてだんだん
ありもしないことが大きなものとして広まる
ということは個々人でも媒介する仲介する人となるからである

またメデアというとき何か銀行とかがメデアとも見なかったが
やはり仲介するものだからメデアだとしている
それで銀行の営業を通して株とか投資信託とかを頼んだこと自体があくまでも仲介者する人を頼んだので失敗したともなる
なぜならその銀行であれ証券会社であれあくまでも仲介者であり直接株式に投資するというのではないからである

だから仲介者に手数料がとられる、そこで銀行であれ営業の人はまず手数料をどれだけ多くとるかということしか考えない
それで転売を常にすすめるのである、売ったり買ったりさせるたびに手数料が入るからである、そもそも長期間で株はみないともうからない、でもそうなると銀行であれ証券会社であれ手数料がとれないから転売させるのである
リーマンショックの八年前の株が元にもどり上がった時、その金をJ=REITに回したのもそのためである、それ以来銀行の営業の人を信じられなくなった
ただ仲介してくれるのだから手数料はとられる
そもそも株式市場に参入するには仲介者がいなかったら素人はできない
だからその仲介する者によって左右されてしまうのである

今クラウドファンディングが普及して来た、クラウドとは群衆のことである
なかなか長距離の折り畳みの自転車がない、でもそれが欲しいという人が多くなる
群衆化するとそういう人がそういう自転車を作る人たちに直接投資する
するとそういうことは銀行から金を借りてしていたのだが直接投資になる
それでメデアを介さない生産する者と消費する者とは直接結びつく手法がインタ−ネットで生まれたとなる
銀行に金を借りる必要がないからである、そこでメデアとなる仲介者の役割が喪失して
銀行の役割りがなくなる、投資先も金を借りてくれる先がなくなる
そういうことで銀行は窮地にたたされる

マスメデアとかマスコミはメデアでありそれがマスメデアとなる
そもそもあらゆるニュースはマスメデアによってマスコミによって報道される
個々人が伝達者ではない、でもそれも仲介者だからフェクニュースとかでも広まる
マスコミでマスメデアでとりあげるとそれが個人の噂の伝達より巨大な力をもつから
第三の権力までなった
何か現代社会はこうして仲介するものが大きな力をもった時代である
それは社会が村単位とかではない狭い単位ではない大きな単位になったからとても情報でもメデアを仲介するものがないと伝えられないからである
だから報道の役割か大きくなった、でもそこでマスメデアがマスコミが大きな権力をもつことになったのである
とにかく個々人でも直接接して聞いた情報ではない、仲介者の意のままにも報道される情報なのである
会社が宣伝費を払いマスコミにマスメデアに商品を宣伝してもらう、その媒介となるのがメデアだとなる、だから金をくれる会社の悪いことは言わないとなる

それで商品でも消費者が直接その商品を評価するときはマスコミでもマスメデアでも介さないからかえって的を得ている、信用できるとなる
例えは電器の量販店でも消費者が欲しいものを売るのではない、その店で売りたいものを売るとういことがある、店もやはりメデアであり、商品を売るメデアだともなる
だから常にこうしてメデアによって曲げられる社会にもなっていた
消費者は弱い立場になっていたのである

とにかくこの世で直接の知り合いとか直接に逢って話しして得られ情報は限られている
その他の膨大な情報は何かメデアを通して得られたものだとなる
だからマスコミとかマスメデアを通してしか情報を得られないとしたらメデアが大きな力を持つことになった
ある人が意見を言うにしてもメデアをマスメデアをマスコミを通して言う時、これも歪曲されるのである
仲介するものが無色透明でもない、中立でもない、会社から宣伝費をもらっているとき
その宣伝する会社の商品を悪くは言えないのである

なぜ民主主義がなりたたくなっているのか?
それは民主主義といっても一万くらいのギリシャのポリスで行われていたのである
それは直接民主主義であり顔も知っているしどういう人かも人づてではなく身近に接している人の間で行われていた、それが何百万票とか何十万票とかになるともうその人個人がどういう人なのかわからない、人づてに聞くだけである
だからその票になるまとまった人数が投票してくれる組織団体があって決まるとなる
個々人より自民党とか公明党とか立件民主党とか共産党とか党に投票している
個々人がどういう人なのかなどわからないし個々人の票は無力なのである

それは利権団体民主主義になる、小選挙区制だと余計にそうなったのである
狭い範囲なら個々人のことを知っていたからその個人に投票していた
もう現代のように規模が大きくなると個人は何の力もない、むしろやはりマスメデアとかマスコミが媒介して伝えるものが大きな力をもった
第一名前すら知らないとなり芸能人が参議院議員でトップ当選していたのもわかる
それはマスコミでマスメデアで一番名の知れた人だったからである
それで東京都知事になった青島とかは俺は選挙運動しないと言って選挙運動もしなかったが当選してきたのである、それはマスコミのマスメデアの力でありその人に何かできる能力などなかったのである

いづれにしろ村単位の社会からグロ−バル化社会になると情報に左右される
それを左右するのはマスメデアでありマスコミでありそうなるとNHKがあれだけ力をもったのはまるで神殿で信託を述べるような聖職者ともなる
何かマスコミが重大なことでも決めるとなってしまう、宣託するものがマスコミだともなった時代であった
それでNHKを常に批判している武田邦彦氏がNHKの人はいかにも善人のような顔している
でも実際は違うといういう、確かにラジオの時代は顔が出ないから顔で判断できなかったテレビがは顔が出るから何か悪人に見える顔とか美人でないと出せないともなる
見映えが良くないと出せないとなってラジオで人気だったNHKのニュース番組に出ていた人がやめさせられたということがずっと前にあった
どうしても顔が出ると顔から判断するからそうなったのである

その結果として映像が大きな力をもつようになった、そのテレビの映像でも真実を伝えるものではなくフェクニュースをマスコミでも作って問題になった
油まみれの海鳥が世界に放送されたときイラクは悪者にされて世界に伝えられたのであるそれほどの影響力をマスコミがもった、それは誰も世界となると現実に接することもできない、その当事者から直接聞くこともできないからそうなる
世界が拡大するとかえってフェクニュースでも真実になりやすいのである
そもそも嘘なのか真実なのか確かめようがないからである

2021年06月03日

夏の日の俳句十首(田舎の小径)


夏の日の俳句十首(田舎の小径)



countrylane111.jpg

natuazami111.jpg

 夏あざみ十輪ほどや草深し

oldgate11.jpg

newmidou11.jpg

flower10kind2.jpg


クリック拡大で鮮明に


復興や声高に鳴く蛙かな

十種類花の買いにき夏の雲

門に松庭の奥にそ白菖蒲

黄菖蒲や新築の朝の御堂かな

トオスミの沼にひそむや隠さる径

ホトトギス街中に鳴き夕べかな

野の道に黄菖蒲映えて夕日影

そちこちに老鶯鳴きて田舎かな

人知らぬ木陰の径や田舎かな

畑にそポピーの赤く夕燕

夕燕交差し飛ぶやポピー赤し



田んぼに声高に蛙が鳴くというとき復興を感じた、でも田んぼでも原野化しているのもまだ多い、それは前から農業が後継ぎがいないとか原発事故だけではない
いづれは耕作放棄地になるともなっていたのである
この際あきらめたとなる、あとは耕地整理で広い田んぼにする工事をしている

田舎の魅力が小径にあるというとき田舎にはそうした小径が多い
そこを散歩するなり自転車で行くと涼しいし気持いいとなる

昨日は花丸に花を買いに行った、荷物をつけられる自転車だと原町までも結構楽ではなくなる、それで困っている、あそこは花の種類が多い
シラネアオイとかも売っていた、あれは北海道に咲く大きな花である
でも高山植物は庭に植えても根付かないだろう
花を見るには北海道がいいとなる
それで梅雨の季節にはいつでも北海道に行っていたのである

そのようにいかに自分が恵まれていたかをふりかえる
それも家族に恵まれたからだとなる
だから家族の影響は人間にとって本当に大きい
家族によってその人間形成が左右されるともなるからだ

ホトトギスが街中にも鳴いていた、ということは街があってもやはり自然の影響がある
まわりは田畑であり街中にもホトトギスが来るとなる、それは原町でもあったからそこはそれなりの大きな街でも周りは田畑だからそうなる

大内村のあの家は古風な作りでいい、蔵があり松があり門がありその奥に白菖蒲が咲いていた、その隣に古い御堂が新しくなっていた
この御堂は800年代のものであり坂上田村麻呂に由来しているからこの辺では相当に古い薬師堂だった、ということは大内村はそれだけ古い由来がある
それを証明しているのがこの御堂なのである

2021年06月04日

歴史時代劇「ポロス〜古代インド英雄伝」を見て (人間にとって共通のテーマを追求している)


歴史時代劇「ポロス〜古代インド英雄伝」を見て

(人間にとって共通のテーマを追求している)

polosking66.jpg

porosriver2.jpg

porosriver3.jpg

polosriver55.jpg

porosriver4.jpg


河をめぐっての攻防である、川に誓うということはありえない
山に誓うということはありうるが河に誓うということが理解できないのである


アレクサンドロスはすぐには川を渡りませんでした。川の反対側にはポロス率いる大軍が待ち構えているからです。アレクサンドロスは毎晩、少しずつ兵を送ってポロス軍を撹乱します。ポロス軍が疲れてきたころ。アレクサンドロスは嵐の夜に一部の精鋭部隊を率いて上流に迂回して川を渡りました。マケドニア軍が川を渡ったことに気がついたポロスは息子の部隊を送りますが、返り討ちにあってしまいます。息子は戦死しました。
https://rekishi.sseikatsu.net/poros/

雄牛 oxen 浅瀬(あさせ、英: ford)

オックスフォード大学はここからきている、牛が浅瀬を渡る意味である
イギリスは島国でも河が大きい、また深いから川を渡ることが容易ではない
それで浅瀬を探す、アレキサンダーも河を渡ることで浅瀬を探していた
また川を盾にして守るボロスが言う、いかに河が天然の防御となっていたかわかる
riverはまさにライバルである、両雄が河を挟んで対峙して攻防があった
それがこのドラマで演じられる、それは河が大きいかから河を障害となるからである
日本でも大井川などがあり橋をかけなかったとか橋を作れなかったとかあり防御としての河があった、でも外国のように大きな深い河がないから違っていたのである
とにかく河のことがわからないと大陸のことはわからない
ガンジス河がインドを象徴しているようにナイル河でもそうである、中国の黄河でも揚子江でもそうである、ドイツのライン河でもその河が理解できないということが日本人が外国を理解できないものにしている        

このドラマは何かインドとかの歴史を知るのにはいいと思った
インドの歴史などなじみがないからである、このドラマはスペクトルであり美しい映像で繰り広げられる、80億円もかかったというから一場面を作るのに一億とか軽く使っているそして興味深いのはドラマの内容でも何か人間の普遍的な問題を提示している

porosking1.jpg

ダスユに育てられたプルがパウラヴァ国王となり義理の兄(スメル)に命をねらわれる、それを母の王妃が殺される寸前にとめて殺してしまう
それでプルの王妃となったダスユの娘のラチが兄は謀反者ではない、ダスユの人たちも猛反対する、それで殺したプルの母親を責めて罰することを願う
その裁定はプルにまかせられた、プルにしても裁くのは母親でありラチにしても兄の無実を証明したい、これはまさに骨肉の争いになる
でもプル王はラチに母親の裁定をまかせた、そしたら7日間猶予を与えて証拠を示したら罰するとなった

ここの裁判で何か問題だったのか?それは骨肉を離れて真実を示すことである
そうしなければ双方が納得しない、公平にならない、もしそのままにして公平な裁判が行われなければ国は分断してしまうのである、分裂してしまうのである
またアレキサンダーの外敵に一眼となって向かうためにインドが統一しないと強大な敵に立ち向かうことができない、そこで家族を越えた国家への忠誠と愛国心が説かれる
それは一人の傑出した僧がそれを言って実行する、これは創作でありまたプルの物語も実際は不明である、ただこの物語は人間の普遍的な課題を追求している

つまりどうしたら国をまとめることができるのか?

それをまとめるのが王である、王とはただ力だけでは治められない、公平な裁定が必要なのである、一方的になると必ず不満が残り分裂する
そのために法律が生まれたのである、法の起源は宗教的なものから発している
モーゼの十戒でもそうである、つまり人間集団をまとめるには何が大事なのかである

ただ力で治められるのか?

そういうことが常にある、今起きているマンミャ―の軍事政権に反発するのは力だけで治めようとするからである、そういうところから民主主義が生まれてきたことは確かであるまた法律の起源をそういうことにある

何をもって人民を治めるのか?

暴力なのか?

それではできない

すると何なのか、公平になるにはどうするのか、それが問題なのである
どんなに軍事力があって強くても力だけでは人間社会は治めることができない
それは覇権国になったアメリカでもそうである、何か力があるからその力に任せて何でもできるかとなるとできない、王様は何でもできるものではない、何か理にのっとてっいるとか公平でありそれで信頼さられる
だからここでは一族とか血縁とかを考慮すると大きな国を治めることはできない
その大きな国を治めるのは公平が必要であり法律も必要になる
人間の社会は血縁だけではまとめられない、血縁を脱したもので共同することで団結して国が生まれる、その国をまとめるのは力ではなく公平さでありそこに法律が生まれた
文明というのはcibilizationというとき血縁共同体ではなく市民共同体の意味だからである、それも血縁を越えた大きな共同体になるからだ
そしてアレキサンダーという強大な外敵に対抗するには挙国一致が必要になる
何かそれは明治維新とも似ているのである
天皇には姓がないのは氏族が力をもっていたらその氏族をまとめることがでない、それで平家と源氏が争う、もし天皇がどちらかの姓に氏族に属していたらまとめるとができなから姓がないである

とにかくグロ−バル化するときただ力だけで治められのか?

アメリカは力でなんでも押し通すことができるのか?

中国は力で世界を治めることができるのか?

何かそういうことがグロ−バル化で起きている、グロ−バル経済というときそれは経済の原理だけでありそこに欠けているものがある
つまりモラルがないとかの問題がある、モラルなき経済でありその経済だけでは集団をまとめられないのである、経済の原理だけでは治められないのである
人間が求めるのは常に公平なことである、そこに不平等があると必ず反発があり分断され分裂してしまうのである
そうなるとアレキサンダーのような外敵に大敵に立ち向かうことはできないのである

家族愛があり一族への愛がありでも国家への愛が愛国心がありそこに公平さが問われ
ドラマが展開する、だからこれは普遍的な人間の物語でありどこでも同じことが起きる
ただ地理的に外国の河が理解できないことは違っているが人間の物語はヒストリーは共通したものがある
でもインドとなる理解しにくいしなじみがないのである
中国の歴史だとなじみがありわかりやすい、権力争奪のあからさまな争いであるからだ
それが三国志になったのである、インドは謎が多すぎるのである
ヒンズー教などもわかりにくい、仏教の基になっていたとしてもわかりにくいのである
それは結局河のことがわからないことにも通じているのである


2021年06月05日

原発事故と蛙(童話風に)


原発事故と蛙(童話風に)

この辺は津波と原発事故で田畑は原野化した、草ぼうぼうとなった
それから十年は早くもすぎた、田んぼは耕地整理で広くなった
広くなると機械が利用しやすい、今は何でも機械でする
田には水が張られその畦にはタンポポが咲き水面に朝の光りがまぶしく反射する
苗が植えられた田だもどる
ふるさとの山の影がそこに映っている

そして蛙が声高に鳴く

[ケロケロケロ、ケロケロケロ]

 ここは俺たちの生きる場所なんだ
 ここで俺たちは生きるんだ
 ここに生きる喜びがある
 ここが俺たちの生きる場所なんだ

蛙の鳴く声はひびきわたる、十年過ぎてようやく復興したと蛙の声が喜びに鳴きひびく
それは長い時間だった、今でもまだ回復していない避難区域がある
そのまわりの田畑は草ぼうぼうとして荒地化したままである
でもここではようやく元に回復した
その時蛙はここにまた生きることの喜びに鳴いている
蛙も人とともに生きる生き物である、それが生きられなくなった
その悲しみは深かかった

確かに今は田んぼで米をとることはそれほど重んじられていない、だからこそ電気社会になり原発が作られたのだ
それで電気会社に勤める人は田畑が草ぼうぼうになっても何にも感じないということがあった、それは昔と違って農民が全体の一割にも満たない社会になったからである

でも田舎では蛙も人とと一体となり生きているのだ、生きる仲間なのだ
それが都会とは違う、蛙も田舎に生きる一員なのだ
蛙の鳴く声が聞こえない田舎は大きなものが欠けることになる
都会なら何も感じない、田畑が回りにないから感じない、田舎では蛙も人間の仲間でありともに生きるものなのだ

その蛙の鳴く声はひびきわたる、力強くひびきわたる
  
  [ケロケロケロ、ケロケロケロ]
 俺たちはここに生きる仲間だ
 ここが生きる場所なんだ
 ここに俺たちは生きるんだ
 みなんと一緒に生きるんだ
 ここが俺たちのクニなんだ

こういうふうに感じたのは一旦田畑も草ぼうぼうとなり蛙の生きる場所も奪われたからである、そのために一段と元の田畑に生きることの喜びを感じて鳴いたのである
何かありがたみは奪われたり失われたりしないと感じない、尊ぶこともない
日頃あるものは特別のものにならない、親でも友人でも死んで二度と逢えなくなる
そうしてかけがえないものとして思い出される
人間は失ってみてその本当の価値を知る、当たり前にあるものの価値もしる

 人よ、今生きる場所を尊べ
 ともしきをうれえるなく
 その与えられた土地を耕し豊かにせよ
 神はそれぞれの土地に富を与えている
 それぞれの国に富を与えている
 だからそれを尊び耕せ

外に良いものを求める前にその住む土地土地に良いものを見いだせ、何か良いものがありその良いものがまだ見出されていないこともある
ここで我々は学んだ、何が価値あるべきものなのか、我々は反省しなければならない
我々は外に求めすぎたのだ、それ故にかえって内にある良きものを見失っていたのであるそれで神はこの地にある良きものを奪ったのだ
それはその土地であり放射性物質に汚染されないきれいな水でありまた土地である
それなくして人は住むことすらできなくなったのだ
そして若い世代は子供たちはここから消えた、もう跡を継ぐ人もいなくなった

我々の過ちは何であったのか?それを深く反省すべきである
電気がなくても人は死にはしない、暮らせる、でも空気と水と土と木が汚染されたら生きていけないのである、その土地は放棄せざるをえないのである
我々はその基本となるべきものを軽んじていたのである
それ故に神はこの地を罰したのである、またこの地のみならず地球を汚染するものを罰する、世界の人を罰する、それを知るべきである、神を畏れるべきである

人の技(わざ)はわざわいにもなる、人の技には呪いが隠されている
それが全面的にいいものとはならない、危険がある
それを無制限に信じることは危険である、人間の知恵は神の知恵に及ばないからだ
そこで大きな事故となり大きな災いがふりかかる
そして人類が滅亡すらする、それを畏れるべきである
汚染した土地は元にもどらず次の世代の子どもたちも住まず荒野と化する
神に呪われた地となり人は住めなくなる、そのことを肝に命ずべきである

夜に満天の星がかがやき蛙の鳴く声は大合唱となりひびきわたる
その声は天に向かい神に向かってもひびきわたる
そしてさらに星が輝きをまして空に満ちる、その復興を天も神も喜ぶ



posted by 天華 at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

大学で遊びギャンブル人生で終わった人


大学で遊びギャンブル人生で終わった人

(大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)

gamblelife1.jpg

daigaku11.jpg

70代男性、老後無年金・無貯金でギャンブルまみれ人生の実態
https://www.youtube.com/watch?v=Lk0WLlUHWoc

lofestage1.jpg

30までの時間は長く感じられる
30過ぎる急速に早く感じられる、時間間隔は相当に違っている
子供の一日は大人になったときより十倍も長い感覚になる
30前までも長く感じる、30過ぎると時間は過ぎるのが早くなり40で
おっさんになり白髪がはえて老人に向かっている
もう60を過ぎて70とかなるともう死ぬだけだとなる
明日は死んでいるかもしれないという感覚である



この人は地方から上京して大学に入ってもそこから人生が狂ってしまった
大学のまわりが競馬場とかパチンコ屋とかがありそれでギャンブルにのめりこんだ
学業はそっちのけになった、バーとかでアルバイトしていた人もいた
そしてそれがどっちが本業かわからなくなるからこうなったのである
何か高校から大学への変化が大きいのである、そのギャップが大きいのでこうなる人も多い、変なのは学校というと毎日学校で授業を受けるものとなっていた
でも大学になると授業を欠席しても何のとがめもないのである
ただ一年に一回単位をとる試験がある、それを受かると単位が取れる
その単位をとるにしていい加減なものだったのである
私立の文系となると何か遊びの場になっていたのである

そうなると学校に行かず授業も受けず遊んでいる人が普通にいる
そして授業に出ないことで威張っている人がいる
授業に出ないことが自慢する、だから一日中マージャンしていた人がいた
そんならマージャン教室に入った方が良かったとなる
一体大学に何しに来たかわからなくなる
そういう人が結構いたのである、特に私立の文系などはそうである
団塊の世代ではマンモス大学であり授業でも千人とか入る講堂でしていたとか
高校とは全然違ったものなのである
すると何か暇をもてあましギャンブルに興じるともなる
私もパチンコを覚えたりして遊んでいたのである
こうして何のために大学に入ったのかわからなくなる

私の場合は創価とかカルト教団に費やしたのもそうである
それも何もするこことがないのでそうなったともなる
でも私の場合もともと求道精神があってそうなった
でも創価でもカルト教団など宗教の看板をかかげても全く宗教とは関係ない
ただ毎日が選挙運動の駒として使われるだけだった
あとは御利益を得るために祈る、そしてあらゆる欲は是認される
その欲をかなえるために毎日祈っている、禁欲とか一切なくむしろ欲望を強くして
かなえるために祈るだけである
だからこそ人があれだけ集まるのである、その数は票となり圧力団体となり利権団体となる

ただ青春時代は危険な時代である、変な方向にも行きやすいのである
大学でも自由だから変な方向に行くようにもなる
ギャンブルとか女遊びとかで費やして終わる人もいる
そういう場所が大学だというのも異常だったとなる
理系の大学だったらこんなことありえないのである

とにかく20代頃から変な方向に行ったものはそのまま一生変な方向に行ってもどれなくなる、それが怖いことだったのである
現実この人は大学でギャンブルをおぼえそこにのめりこんでそれが人生になってしまったそれを自分でぱ悔いのない人生だったとしているがそれが他人に誇れるのか?
そんなことが自慢になるのか、誰もそんな人のことを感心する人はいないだろう

ただ本当に20代頃からこうして変な方向に行く人はそのまま一生変な方向へ行き一生そうなってしまう怖さである
大学ですでにギャンブラーになりそのまま一生そうなってしまったのである
まずニートなども良くみかけるけどそういう人も20代でなるとそのまま一生ニートであり無職で人生が終わる
それが自分自身もそうだったからである、一生無職で旅して終わったとなるからだ
ただ自分の場合は学問とか芸術に興味をもち追求していたのが違っていたとなる

いづれにしろ今やそれぞれの人生がなんであったのか問われる
もう団塊の世代でも75となり死んだ人も一割以上いるし身近で同年代の人が死んでいる
78歳くらいの人が近くで二人死んだ
三人の男性はみんな死んだが78だった、何か78歳は鬼門の年だともみた
78歳になると急激に体が弱っていくというからそういう年なのである

人間は20代で30までほぼ決まるというとき30過ぎて40になると白髪がでてきたりしてすでに老人にも向かっていたからである
50になるともう人生も終わりに近づくとかなる、それだけ時間が過ぎるのが早かったのである
その時間の貴重さが若い時はわからないからくだらないことに時間を費やして浪費している、そして老人になってみんな悔やんでいる
急速に時間が過ぎてゆくことが自覚できないからである
それが人生の大きな落とし穴だったのである

そして絶対に時間を元に戻すことはできない

青春時代も二度ともどってこない

右左と分かれ道があり右に行ったものは右の方向に行き左に行ったものは左に行きその方向をもう変えることができない、その方向を決めるのが20代なのである
正社員となるのも20代でありそれ以後はなりにくい、そしてニートとかなると一生ニートなのである、それで最期に親が死ぬと厳しいことになる
そのことを自分は親の介護で経験したからである

ともかく同世代の人が次々に死んでゆく、するとその人生は何だったのかと問われる
弔(とむら)うとはその人生を問うということなのもわかる
一体この人の人生は何なのだったとか問うことになる
カルト宗教団体であれ共産党であれある団体組織に属した人はその属した組織団体が人生だったとなる、でも個々の人生があり何か不思議なのは人が死んだ時は個々の人生が問われる、創価であれ共産党にであれまた他のカルト教団に入っていたということで自慢にならない、そこで評価されたのはただ一票となるとか数として数えられることだからであるでもその人の人生となると個々の人生として評価される
日本民族の一員として死んだといっても誰も世界で評価しないだろう
一例としてもし芸術作品を世界に通用するものでも残したら評価されるとなる

この人の一生は何なのだったろう?

これが問われるのである、でも死に方に成仏することにこだわるがそれはあまり関係ないようにも見える
なぜなら近くで死んだ人はその人生は本当にいい加減だったからであり罪深いともなる
でたらめな人生であったからだ、それでみんな嫌っていて葬式もなく終った
近くでも誰も惜しむ人もなかった、でも死ぬときは簡単に死んだのである
迷惑もかけず死んだのである、だから死にざまより人間はその人がどういうふうに生きたのかが問題になる、成仏するというときむしろその人の人生が有意義なものとなっていたとき成仏する、だから死にざまとは生きざまのことでありどんなふうに死ぬのかとはさほど関係ないとみるのである

それにしても人生も終わりになると本当に短い、あっという間だったとさえなる
そんなに短い時間しか人生にはなかった、そしてみんなわずかの時間この世にいるだけである、そしてこの世から消えていく、すると人はなんのために人と出会ったり別れたり
そもそもなんでこの世にいるのかもわからなくなる
一瞬の泡のように生まれて消えるともなる、人生とはそんなものかとなる
何かもっと重々しいはずであるとなるが現実はその生は何するにしろはかないとなる
有名な人もみんな消えてゆく、何か手にとる本が30年前とかなりその作者はほとんど死んでいるのである、すると死者が残した物は本でありその他その人の人生を知る術もないのである
だから死んで何が残るのだろうともなる
本でも残している人はいい方である、普通人は家族でも死ぬと急速に忘れられてゆく、何か定かでない幻のようになってしまうのである、家族でない人はそんな人いたのとなってしまう
その人の存在すら本当にこの世に存在していたのかも定かでなくなるのだ

石は千年動かない
その場に千年変わらずある
人間は百年くらいで消える
すると石の方が人間より
存在感がある
人間は百年も過ぎたら
みんな消えてしまうのだから

こんなふうになってしまう、それだけ人間の一生は短いからこうなるのであ

2021年06月06日

中国の影響が大きくなる 中国が科学技術で急速に日本に追いついた理由


中国の影響が大きくなる

中国が科学技術で急速に日本に追いついた理由

広角レンズがついているのと軽いのである

デジカメ デジタルカメラ コンパクト 4K 4800万画素 ビデオカメラ 3インチ180度反転スクリーン ウェブカメラ機能 自撮りカメラ 16Xデジタルズーム

FUNSHION ビデオカメラ 2.7K YOUTUBEカメラ ハンディーカメラ カムコーダー 1080P&60FPS 4200万画素数

funsionとは中国の会社である、その会社のカメラを一万で買った
大きいから広角のレンズであり広角に撮れるのがいい、だから意外だった

これが軽いのが良かった!

大きいけれど軽いのである、これだけ大きいと普通重くなる、だから今持っている日本製のソニーの一眼レフのカメラは重くて困っていた
なぜなら写真撮るとなると車がないから自転車だと荷台もない自転車だから困る
気付いたことはこの軽いとういことがカメラでも重要な要素であることにこのカメラをもって気づいた
だから一万でこんな持ちやすいカメラを中国でも作っているうといことで驚いた
中国製は安いけどいいものがないという印象だったからである
一万でこれだけのものを中国でカメラを作っていることに驚いた

何か最近中国の影響がどこでも感じられる、それはグロ−バルにそうなったのである
田舎が関係ないかというとやはり中国人が最近近くの空家に何人が同居しているのがわかった、ただなぜ日本に来ているのか、中国でもう働いた方が金になる時代だと思っていたからである
ベトナム人も何人か一万の町に来ている、それからネパール人の女性はFUKUSOに裁縫工場に来ていた
駅でベトナム人労働者を斡旋していたのは仲介していたのは中国人だった
中国人の女性もFUKUSOで働いていた、それはハルピンとかである、元の満州とかである
そこなら隣だともなるから近い、飛行機で三時間くらいだから中国は実際はかなり身近なのである、ということは中国人は人そのものが気軽に日本に来る距離にもある
グロ−バル化した世界ではモノだけではない、人間も流入してくる
中国人の女性と結婚した人も知っている、その女性もハルピンとかである

もちろん中国人と仕事している人もかなりの数になる
それで大阪の人が中国は一発あてる売れる量が多いからもうけも大きいと言っていた
中国から船で帰る時、同船したのは他に神戸の人で中国語がしゃべるれ人だった
それからモンゴルに一年間羊を飼うことを学ぶために一緒に暮らした人だった
その人は冬は厳しいので一回りやせると言っていた
その人は北海道で羊を飼う仕事をしていた、NHKのテレビにも出ていた
その人は大学の畜産学部をででいてそういう仕事につこうとしていた
結婚する女性も同じ大学なのか一緒だった

ともかく現実問題として中国でかかわる人が増えている、小高の人が中国人の女性と結婚していた、また小高出身で中国人と商売している人を紹介した
千葉県に住んでいる、こういうふうに中国とのかかわる人が日本で増えたのである
アメリカとかかわるとしても遠いからアメリカに行きまたアメリカから日本に来る人は限られている、軍人が一番多いとなる
それで在日の人でアメリカ国籍をもっている人がアメリカ軍の人と接してアメリカを語る何かこうなると本当に今誰しも片田舎で否応なくグローバル化しているのが現実である
おそらく外国人の男性は原発関係の仕事をしているかもしれない、そこは金になるからだ
中国の影響は日本だと密接になる、

コンパクトフラッシュ、SDカード、メモリースティック Proなど、フラッシュメモリー業界において数々の特許を生み出した。

同社のNAND型フラッシュメモリの製造は東芝(当時)と共同で投資を行った、三重県四日市市の「キオクシア 四日市工場」で行っており、パッケージングを中国・上海の自社工場で行っている

このカメラがTFというカードを使えとあり注文した、これはサンデスクの製品だったのか何かわからないかここの会社のものでありアマゾンに注文して買った
そこのコールセンターは中国人の女性だった、Dellのパソコンを買うとき相談したのもコールセンターの女性は中国人だった、その人は本当に日本人と同じくしゃべるのである、かなり専門的な相談にものれるから案内している
何が中国人とどこでも接することになる
要するにパソコンとかカメラでもグロ−バル化して作っているからそうなる
アメリカの技術から日本の技術でも入り中国で技術が進化して安上りに作る
工業化はグロ−バル化社会で発展してゆく
だからもう日本と中国の技術の差はなくなり中国がアメリカでも日本でも猛烈に追って追いついてきたのである

本当に十数年前とか中国に行った時から比べると驚きである、なぜならその時は物価は中国では十分の一とかになっていた、ただ三回目では北京とかでは高くなっていた
もう中国の上海とか北京とかなると日本と物価の差はなくなった
また日本に観光客が増えたのは日本が物価が安いからである、外国では物価が高くなっていたからである、つまりかつて日本が外国の物価が安いと海外旅行した同じように物価の安い日本に観光に来るとなったのである
そして高級品の店に入るのは外国人だとなってしまったのである
日本人は夜の部でスーパーの食品が安くなるときねらって日本人が買いにくるというのもそうである、高い買い物は外国人がするようになったのである
その中に爆買いした中国の金持ちがいたとなる

ともかくこんなに急速に中国が変わる進歩することは驚きである、交通が発達したグロ−バル化では急速に発展した国に追いつく、ヨ−ロッパから船で一月かけて来るような時代ではないからである
そして中国の怖いのは人が流入して日本にもすみつく、北海道で土地が買われてそこにもに中国人が住みつくということがある、そしてやがて中国の領土にする布石だという人もいる、それが中国人の他国をのっとるやり方だとしている

中国で恐ろしいのは人口があれだけ多いから移動するエネルギーがものすごいのである
蝗のように移動して食い荒らすということともにている
地方の農民は家畜のように貨車に積み込まれる家畜だったとしている
なぜなら車掌は鞭をもっていてつめこんだからである
その人口の多さと移動するエネルギーがすさまじいのである、それを盲流というのもわかる、それが巨大なエネルギーとなって中国大陸を席巻するからである

日本は今やこうして中国がかつての中国ではない、新幹線も走っている科学技術大国にもなる,その時日本はまさに龍となった中国に飲み込まれるともなる
それで中国の一省にもなるという人がいるのもわかる
アメリカの一つの州が戦後日本だと言われた、でもアメリカ人が大挙して日本に住むとういことがない、遠いから間接的影響にもなっていた
中国の影響は中国人とも密接に交わるし直接的だから違ったものになる
つまり中国人優位の日本社会になりうるということである
ウィグルのようにもなりうる、そういう大きな時代の変化が急速に来たとなる

右翼だと中国を敵視して排斥する、攘夷となるが明治維新の時代とは違う、その時の中国はアヘン戦争とかで疲弊していたのである、西欧列強のアメリカの植民地になっていたのである、だから全然違った時代になっている
そこを見誤ると日本は苦しい立場になる、ただ日本というのは中国の巨大化とアメリカの衰退とまたロシアの強権な態度で迫ることとか小国化するとき大国の狭間でかじとりを強いられる
最大の脅威は今やアメリカとかではない、中国になったのである
武漢ウィルスとか中国発のウィルスがコロナウィルスだというときもそうである
何でも中国発となりそれが脅威となってゆくのである

三日見ぬ間の桜かな

これがまさに中国だった
posted by 天華 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年06月07日

金まみれのオリンピック(日本の経理部長が自殺)


金まみれのオリンピック(日本の経理部長が自殺)

オリンピックも金まみれになり本来の趣旨とはかけ離れたものになった
世界平和の祭典でなく金まみれの汚れた祭典になった
そこに莫大な金が動く、するとその金を目当てに欲深い人たちが群がる
そもそもオリンピックを主催するIOCの会長がぼったくり会長と世界から批判されたことでもわかる
オリンピック利権になりオリンピック貴族になっていたのである

巨額な金が動くときそこに良く深い人たちが群がる、それは原発マネーとも似ていた
それで相双リテックの幹部に巨額の金が回り何十億という金を幹部で山分けしていたのである、それでタニマチとなって野球にその金を使っていた
何かスポーツとかでも裏で金が動き汚される
どうしても金によってあらゆるものが汚される、宗教さえ金によって汚される
第一賽銭箱などをもうけてそれで金を投げて何か神様から良くしてもらうということ自体間違っている、ただ祭りとかは長い伝統があるから何か意味あるものはある
神様にわずかの賽銭を与えても何も得られない
その金は神社の神主のものとなるだけである

何かオリッピックには崇高な理念があるとして宣伝されてきた、でもそんなものはなくなっている、巨額の金が動きその金に群がる人たちのものだということである
純粋にスポーツで何か人間の理想を追求するものでもない
ただアスリートとか選手は幹部とかオリッピックで金も得る人たちの道具なのである
そこに人類的意義などないのである、百メートルでわずかに早くなったとして何の意義があるのかとなる、明らかにもう限界が来ている
それで一秒ではなくそれより短い単位で優劣を決める、そんなことして何か意義があるのかとなる

何かオリンピックは金まみれになったとき、すでに役目を終えた、アスリートは選手は金儲けに使われるピエロだともなる、そういうふうに見られることがアスリートの本来の
姿ではないだろう、でもアスリート自体が金のためにしているということもある
プロ選手と同じ感覚になる、第一そうして訓練しないととても勝てないからである
それも金のためだとか有名になり金を得るためだとかなる

何かグロ−バル化して巨大化すると巨額の金が動くとなるとそのこと自体が金まみれになり本来の趣旨から離れてしまう
参加することに意義があるとかはもうない、選手を道具にして見世物にして裏で金儲けのために幹部たちがやっている、そこに国もかかわってくる
政治の道具になったりする、だからローマのコロッセオで剣闘士が戦う見世物ともなる
別にプロならそういうふうに割り切ってやっているのだから批判はできない
ただオリッピックには何かきれいごとがありそれで平和の祭典とかされていることに問題があったのだ

東京オリッピックの時は日本が戦後復興したことを世界に示すために意義があったとなる
その後はオリッピックはもう意義を失ったいたのである
金まみれの利権のためのものでありその道具とされたのが選手達だとなる
テレビの放映権が莫大であり会社の宣伝費用も入る、それでオリッピック貴族が生まれた原発でも何億という金をもらっていた人と同じである
原発も金のなる木でありオリッピックも同じだったのである
つまり金まみれになり汚れたものとなってしまった
崇高なものは何もない、ただ利権を金を得るためのものであり選手はその道具となっているだけである、国の威信がかかっているというときも政治の道具として使われたとなる

それでしきりに菅首相とかが苦しい政権運営が強いられているからまた裏金のことで追求されるからそれを隠すために強行するのだというのもわかる
政治家の勝手な都合で強行されるとなると迷惑であり国民にとってもそれでコロナウィルス拡散したり外国人が来て拡散したりする、ただ混乱が目に見えている
それでもなぜ強行するのか?政治家の都合でするのが許されるのかとなる

とにかく人間社会は金で汚される、神聖なものも金で汚される、遺産相続でも骨肉の争いとなる、またハエエナのように死体をむさぼるとまでなる
そういうことを経験したから金によって人間が変わる、金だけが目的となりその屍をむさぼるとまでなる醜さが現れる
死者を弔うということすらなくなる、それは表面だけであり欲しいのは金であり財産だとなってしまうのが人間なのである

オリッピックもそういうものであり自殺者まで出しているのだからもう汚れたオリッピックであり金まみれの利権オリッピックであり本来の趣旨はもうない
何かギリシャではじまったオリッピックは神聖な神に奉納するという側面があった
だからオリンピアに行くと神殿の柱となった石が残っている、それが大きいのである
だからそこに立っていた神殿でも建物でも相当に威厳があるものだったとなる
だからその時代のオリッピックはその社会にとって意義があるものだったのである
それがグロ−バル化して世界のオリッピックとなったときそうした意義は失われた
ただ金まみれのものとして選手が利用されるだけともなった
だからオリンピックはもう今までの様には見ない、何か金まみれの汚れたものであり
一種の選手を使ったショーでありそれで得するのは利権にあづかる人たちだったということが見えてきたからである、また政治家に利用されて悪を隠蔽するためにも使われともなった、だから今までのようにはとても見れないとなったのである



posted by 天華 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年06月08日

戦争、津波、原発事故、オリンピックの失敗 (先が読めずに大失敗、大損)


戦争、津波、原発事故、オリンピックの失敗

(先が読めずに大失敗、大損)

failex1.jpg


start222.jpg

オリンピックのことでもめているけどそもそもなぜ戦争でも津浪でも原発事故でもそうだったけど大失敗大損失となったのか?
この原因が明確なのは先が読めないことだった、戦争するにしても誰も大敗北になるとしてはじめたのではない、勝つと思って始めたのである
それが300万人の死亡となり大損害になった
これも先が読めないからである、そもそも人間の失敗の要因が先が読めないことにある
思わぬことが起り大損害となる

ただそれを始める時点ではそんな大損害になることは予想しないのである
戦争などは相当に危険なものであり殺し合いなのだから戦争を始めたら大勢の人が死ぬということは予想できる、でも日本では奢りもありアメリカと戦争を始めた
結果として300万人も死んだ、それは全く予想外のことだった
もしそういうことを予想したら戦争など始められなかった
でも戦争を始めたときはこんな結果になるなど誰も思っていないのである

結局これらのことで失敗して大損害になったのは先が読めないということである
オリンピックを決めた時は国民は喜んでいたし賛成していた
原発でも実際は金に成る言うことで積極的に誘致されたのである
それは故郷に住めなくなるとまで予想できない、ありえないと思っていたからである
津浪でもあんな大津波が来るとは予想していない
すべて予想できないことで大損害になった

でも津波とか原発事故でも科学者は十数メートルの津浪が来ると東電に警告していた
でも東電は耳を傾けず大損害になった、とりかえしのつかないことになった
ただ本当に戦争であれ津波であれ原発事故であれそれを決めた時はそういうことを予想しないで始まったのである
それで大事なことは先を読んで実行することなのだがそれが人間にはできないのである
ただ科学者は十数メートルの津浪が来るということを科学的に予想して警告していたのである、でもそれに耳を傾けないで何の対策もしなかったのである
それにはコストがかかるとかの問題が常にあり備えることがなかった
今になってやっと防波堤を作ったのである

何か始める決断して始める時、つくづく人間は十分な検討などしない
金になるからいいじゃないかしかないのである、原発でもそうでありオリンピックでもそうである

それをしていいのかどうか十分に検討もしない!

戦争となれば相当な国民的議論も必要だがそれもしない、原発でもそれを誘致するにも地元ですらしない、ただ上からの命令で土地所有者と漁業権者と県の許可で簡単に作られたのである
                                              
戦争になったら3百万人死にますよ

アメリカは核兵器をもっているから一瞬で大量殺戮されますよ

もし事故になったらふるさとに住めなくなりますよ          

これらのことが起りうるとしていれば国民でも賛成はしない、でも国民的議論にもならない、上からあおられてマスコミが賛同して戦争に突入したのである
それをあおったのは朝日新聞だったとされる
原発でもそうだがマスコミは巨大な権力に使われるものであり権力に対抗することをしない、それは今でもそうである
原発事故が起きた時マスコミの幹部が東電によって招待されていたときだった
朝日新聞の幹部も招待されていたのである
そうして電事連からでも800億円とかの金がマスコミに流れていたのである

こういうことはオリッピックでも言えるのである、IOCとかその利権にあづかる
それでバッハ会長がぼったくり会長だと世界から批判をあびた
巨大な利権金儲けとなったがオリンピックになったのである
ただオリンピックでも失敗したのは先を読めないことだった
コロナウィルスを予測した人は世界で一人もいない、過去にウィルスの流行があったとしても忘れていたとなる、それは津波でもそうだった
でも津波については科学者が警告していたのである
仙台の若林とかの地区で津波が来ると大被害になるとか警告していた
でも不動産会社の人にそんなことを言うな土地の値段が下がるとか言われて言えなくなった、そういうふうに常に経済的利益がかかわり危険を言うなとなる

だから大事業を始めるときは相当に全員で検討する必要がある
なぜならその時点では何も問題ないとしても後から大きな問題となることがある
原発などはそうだった、オリッピックだとそこまで大きな問題となるとは思えなかった
でもオリッピックが本当に日本でその時必要なのものかどうかまたオリッピック自体の意義を深く検討するとかしなかった
つまり何か大事業を始める時、それが本当に必要なかどうか深く国民的にも議論などしないのである
国民の税金をつぎこむにしても国民自体で議論することすらないのである

●国民的な合意にいたるものとして意義を深く検討する

●十分な危険のありうることを知ってはじめる

戦争にしてもオリッピックでもそもそもそこにどういうい意義があるのか検討もしない
上の命令に従うだけだとなる
原発の場合はただ利益になるかしかない、利益になるからいいとしかない
ほとんど検討されないのである
だから大事業を始めるときは相当に慎重にしないと大損害になる

戦争をしない

原発を作らない

オリンピックをしない

かえてこの決断の方が否定されてむずかしいということも知るべきである
勇ましく戦争しろとか利益になるから原発を作れとかオリンピックでインバウンドで観光客が外国からいいとか肯定的なことのみが語られる
大事業をはじめるときはそうである、でもそこにもリスクがあることを知るべきだった

ただ人間の弱点は先が読めないとういことである

それが株でもそうである、なぜ今になってこんなに株が上がったのかというのも予想外だった、それで失敗したとなる
人生そのものも先が読めないからあとで後悔して失敗する、時間がこんなに貴重なものだったのかとかは先が短い老人になって気づく
何が大事なのものか気付けないのである
だからたいがい老人になって人生は意外だったとなるのである
つまり予定通りにならないのが人生でありまた社会なのである
予想することをほどむずかしいことはない、もしそれができたら株でも億万長者になっている、機関投資家でも先が読めないから大損するのである

それで聖書が予言の書というとき予言をする人が予言者の言を記録したものだともなっている、ノワの箱舟でもそうである、大洪水が来るとかいうことをノアが神からの宣託があり聞いた、それで箱舟を作りはじめた
それを信じる人はいなかった、だから笑いものになっていたのである
でもそれを笑っていた人たちは水にのみこまれ死んだのである
その予言者が現代では科学者ともなったのである

ともかく大事業をはじめるとき人間は深く検討しない、そんなことやめろということがかえってできなくなる、そして戦争のように暴走して300百万人が死んだのである
何かをしろという何かをするなということが人間にとってむずかしいことなのである
何かをするというときみんな興奮して賛同する
でも何かをするなというとき弱気だとかなり責められる
でも人間は何かを検討するとか考えるとかなると行動できなくなる

あるべきかあらざるべきか

やるべきかやらざるべきか

こうしているとただ逡巡して行動に移す決断ができなくなる、これは個人的なものであるが個人と大事業をみんなでするのは違ったものである
大事業の場合は国民的なものになる、だから本当は国民的なもの全員がかかわり大被害にもなるとしたら相当に慎重にならざるえあいなのである
でも重大な大事業でも深く検討すらなくはじめられて後で大損害になる

本当に戦争をするべきなのかするべきでないのか

本当に原発を作るべきなのか作らないのか

オリッピックをするべきなのかしないのか

こうしてよくよく検討したとき簡単に大事業はすすめられない、でも意外と300万人が死ぬとかも予想しないて原発事故でもこんな大被害になることも考慮しないで大損害になるオリッピックでもそうである、この場合は肯定が多く否定は少ない
それでも今になってこんなに騒いでいる、オリッピックをやめた方がいいとしているのに今の政府は自民党では決行しようとしている
それはオリッピックを誘致するときよくよく検討もしない結果なのである
ただ経済的利益を優先するだけだからである、それは原発でも同じだったのである
それで今になって大損害になると騒いでいるのである

今になるとすでに遅いともなっている、やめられなくなっていたのである
だから大事業をはじめるときは始める時が大事でありそこでの決定があとあと尾をひく
やめれなくなるのである
だから余程大事業をはじめるときはみんなで深く検討しないと後の祭りだとなる
今になってはやめることもできないとなっていたからである
でも実際は大事業でもはじめるときはあまり検討もしない議論もしないのである
その時やめろとかしない方がいいという声はおさえられる
どうしても経済的利益を優先するからそうなる、でもそれが経済的大損害だけではない
原発なら故郷に住めなくなるという致命的な大損失にもなるのである


posted by 天華 at 15:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層