2021年05月29日

人間評価の基準は何なのか (佐藤優を推奨した鈴木傾城の疑問、有力者の背後に組織団体がある)


人間評価の基準は何なのか

(佐藤優を推奨した鈴木傾城の疑問、有力者の背後に組織団体がある)

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前に佐藤優を創価のプロパガンダとして批判した
それがなぜヒットラーを批判できるのか,ナチズムを批判できるのか?
また毎日読んでいるダークネスの鈴木傾城もこの本を推奨しているので失望した
ただこの人の言っていることはまともであり人気があるのもわかる
毎日読むプログはないから読み応えがある
純粋の右翼である、右翼の大物に傾倒しているのもわかる

でも今日のプログでこの本を推奨していることには疑問だったしなぜなのだろうと思った人間は結局どうして人を評価したり判断したりするのか?
どういう基準で判断するのか、個々人はどうして判断するのか?
大勢の人はそもそも何かの判断基準をもっているのだろうか?
また何をもって判断基準にしているのか?

ナチズムとかがなぜ生れたのか?

そもそも個々人は判断基準をもたない、数が多いということが正義になった
だから民主主義から選挙から正当な手続きをえてナチスが生まれて支配されたのである
なぜなら今でも民主主義とは数になってしまったからである
数が多いことが正義でありすべてになったからである

そうなると創価のように何が何でも数を集めることに奔走する
数を集める選挙がすべてになる、一番早く選挙運動するのが公明党である
もう二年前から選挙運動であり日々の活動が信仰でも一票を獲得するための選挙運動なのである
現実に座談会では池田大作先生のためと座談会に集まりみんなで祈り選挙に勝つことを祈願する、それが日々の活動なのである、池田大作はヒットラーと似ている
そこで活動する人はナチスのヒットラーユーゲントともなる
そして会員が何百万いるといっても全く活動しない、座談会にも出ない人がまた百万以上とか膨大なのである、それが幽霊会員でありその幽霊会員を票に結びつけるのがまた幹部の日々の活動なのである

すべては選挙に勝つため!

これしかないのである、信仰とか内面の問題など全く考慮しない、そんなことしていたら票など集まらないからである、あとはすべて御利益なのである
利益になればいいという御利益利権団体になる
つまり創価こそナチスであり池田大作はまぎれもなくヒットラーなのである
その創価のプロパガンダになっているのが佐藤優であり池田大作の礼賛の分厚い本を出している
そういう本を出せるのも背後に創価があって指示されるからだ
会員が買ってくれるからである

何か人間を評価するときどういうことで基準にして評価しているのか?

これが問題である、まず一人の人間を評価すること自体困難を極める
その人がどういう人なのか知ることがむずかしいからである
ただ基準になるのはある団体に組織に所属していることで人間を分類することである
左翼団体もあり右翼系団体もあり宗教団体もありそれでその人を判断の基準にする
鈴木傾城は右翼でありすると右翼団体があり右翼団体としてみる
その発言も右翼団体をもちあげるものとなる
ただそうして左翼であれ右翼であれ団体に所属しても個々人はまた違ったものになるが
一つの色に染める、人間は何の団体組織に所属しているかでみる
会社員だとどういう会社に属しているからでその人間をみる

津田大介とかは左翼でありこの人が推奨されるのは左翼の団体に所属する人たちだとなるまたこの左翼系統は在日と連携しているともなる
在日ネットワークがありこれが良くわからないにしても強固の団体のようである
なぜなら在日と言っても日本人と同じだから日本語も日本人と同じ話しているのだから
日本人なのである、だから在日の人には本を出している人とか大学教授とかマスコミとか主要な分野で力をもっているのである
NHKも在日に支配されているかともいわれる、だから在日というのは裏で操作できる実力者集団とかとされる、ただこれも明確には見えない
とにかくこの在日の人では相当に優秀な人も多いのである
個人的にもそうである、アメリカ国籍をもっていて在日の人がいる
これも私には理解できなかった、こういう人は俳優でもいたし結構いるのかもしれない

ではなぜそうなったのか?

日本人でありたくないということがあったのかもしれない、それでアメリカ国籍にして日本人として生活しているとなる
例えば在日ネットワークがかなり社会的圧力団体になっているのはこの辺で小説家として柳美里とか小高に生活している
その人がアメリカの賞をもらったりまた芥川賞とか直木賞とかもらったりする
そして南相馬市の市役所にその賞をもらったことで南相馬市として名誉あることとして
そのことを宣伝している                      

でもなぜ公の役所でそういうことができるのか?

これも疑問なのである、何かあると小高の人でも動員されると嫌がっていた人もいた
他に原発を訴える詩人とかいてもそれは左翼系統で支持されたりまた何か原発事故を利用して有名になろうとしていた、アメリカとかフランスとかから賞をもらったというときそれはその作品とかとは関係ない、政治的配慮でもらったのである
原発が一番あるのはフランスでありまたアメリカでもある
するとフランスとかアメリカが批判の対象にもなる、でも批判はしない
その責任は追及しない、ただ自分が有名になればいいだけなのである

つまり何か強制されているというのは在日ネットワークが背後にあったりそれで人々はそれに従わざるを得ないということである
ただ正直その人の本は読んでいないから評価できない
つまり公的なことでもそうした団体組織に動かされるのである、そういうふうに佐藤優とか津田大介とかが個人ではない、背後に団体があってそれでその代表として大きな力をもつことになる、たいがいその人の評価は背後の団体で決まっているのである
またその背後にそうした団体組織がなければ発言すらできない
それで武田邦彦氏が原発に反対すると右翼系の組織から排除されると言っていた
というのはあれだけ右の発言をしているのに原発反対だとその仲間になれないとしているからだ、ということはその人は個人として発言しているからそうなるのである
ただ個人として発言すると拒否されて公的な場所から排除されるのである

つまり人間の評価の基準は背後の組織団体があって決まっている

こうみるしかない、それが左翼であれまた右翼であれ創価であれ在日であれ他の宗教団体であれその団体の支援があり個人も主張できるとなる
私は右翼でも左翼でもないのである、右翼的発言もあるし左翼的な発言もある
でもどちらの応援もないし所属してもいないのである

とにかくそもそもナチスというのは今世紀最大の問題でありまた日本の戦争でもなぜ三百万人も死なねばならなかったのか、それが20世紀の最大の問題であった
それはグロ−バルに起きたことであり社会が世界で均一化した結果でもある
だいたい世界的にみんな同じような生活をするようになったからである
例えば戦争でもこれほど大量殺戮化したのは日本がだったら武士とかヨ−ロッパでも貴族とかが戦士となりその選ばれた戦士の戦いだから限られていたのである
それが国民全員が戦士となったのが国民国家となって戦ったのが20世紀のグロ−バル化社会だったのである

当然なそうなると国民全部が戦士として戦うか何千万と世界で死んだのである
またナチスが生まれたのはそうした社会になってそうなったのである
大衆化社会とかゲッベルスの宣伝とかその時はテレビもないのにラジオがナチスを作りだしたというのもそうである
今ではテレビが力ももち大衆洗脳装置となっているとかなる
そういう情報社会になり一見みんな誰でも自由な発言をできるようで実際は個人ではできない、背後に組織団体があってその代表として発言しているのである
第一マスコミでもそうである、誰でも発言は勝手にできない、その人選はテレビ局がしている、また番組をNHKでもNHKの意志があり編集している
必ずマスコミでも何の意志もない発言はしない、それはNHKの幹部が方針を決めるのである
中立なようでそうではない、また報道するものとな報道しないものを選択しているからである

ともかく何かを評価の基準にするのか、それは例えばNHKに出るだけですでにその人は大きな力をもち評価される、その評価はNHKによって決まるともなっているのだ
私の評価基準は創価の内部を知っているから創価をもちあげる人は評価しない
それは背後に団体があり組織があり発言しているからである
田原総一朗なども創価をもちあげる、それはその団体の一員とも化しているのである

いづれにしろ大衆装置として新聞があったりテレビがあったりマスコミが力を持った
インタ−ネットになると確かに個々人が発言しているがこれも背後にある組織団体が左右するともなる
だから名古屋の知事のリコール問題もそうした右翼と左翼のしのぎあいであった
組織団体同士の戦いでありそこに不正があったとなる、その組織団体の代表たちの戦いでありその代表に津田大介とかあったとなる 
とにかく知識人には問題が多いのである、それは結局その個人というのはない、背後に組織団体がありそれに利用されているとことあるからだ、数が多いといことが正義でありそれが民主主義を歪めてそこからナチスが生まれたからである
だからむしろ多数は信じるなともなる、原発事故でもそうだったのである、それで「安全神話」まで作られた
権力とか多数で物事が決められるとき危険なものになる、民主主義が多数がすべてを決めるから最も全体主義にもなりすいものだったである

小竹海広、伊藤春香、津田大介やらをなんとかしろ


posted by 天華 at 09:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年05月30日

分去や追分の地名を偲ぶ(丸森ー大張村の詩) (機械化すると人間の情が失われる)


分去や追分の地名を偲ぶ(丸森ー大張村の詩)

(機械化すると人間の情が失われる)


街道の分岐点をいう。そこまでは一本であった道が二つに分かれ,それぞれ異なる方向に進みはじめるところである。追ってきた牛や馬を,どちらか一方の道に〈追い分ける〉ことから生じた名称と言われている。〈追分〉という地名は今も各地に残されている。その代表例として著名なのは長野県北佐久郡軽井沢町の追分で,中山道と北国街道の分岐点であった

わかさ(逆引き)

ことに昔の本陣だつたままの家作りの牡丹屋や桝形の茶屋の古びた美しさや、その村はづれの分去れのあたりの山々の眺めなどをなつかしんで
ふるさとびと (旧字旧仮名) / 堀辰雄(著)

おえふがまだ二十かそこいらで、もう夫と離別し、幼兒をひとりかかへて、生みの親たちと一しよに住むことになつた分去れの村は、その頃、みるかげもない寒村になつてゐた。
ふるさとびと (旧字旧仮名) / 堀辰雄(著)

わかされ(逆引き)

その翌日、英夫君は二時の汽車で帰るというので、昼飯を早目にすませてから、お別れに村の西のはずれの、分去のところまでぶらっと散歩に行った。
雉子日記 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)  

分れる、去るからこの地名が生まれた、こういう地名が生まれたのは何か人々の思いが残されたものとしてある
追分というのが追ってきた牛や馬を,どちらか一方の道に〈追い分ける〉ことから生じた名称と言われている
これも牛と馬が人間と一体となりあったから生まれた地名だとなる
そういう昔の生活を偲ばないと地名の意味を知ることはできない

つくづく私は自転車で旅するとき必ず道を行くと道が二つに分かれる
そういう場所にどっちに行こうかとなる、だから分かれ道が一つの思案する場所になる
江戸時代辺りだと電車も車もないのだから道を行くから必ず分かれ道がある
その分かれ道が心に残る
そして分れ去ってゆくということ、道行きで道連れがあっても別々の道を分かれ去ってゆく、その時今のように再び逢うということがなくなることも多い
だからこそ分かれ去りには人の思いが残ったのである
そこで人はその後姿を見て見送ったのである

現代とこうした感覚がなくなった、電車でも車でもない、機械は何か人間的なものを奪うことが常にある、それで老子は鍬まで否定したのである
機械は悪いとかではない、人間的なものを奪うのである、鉄道とかに愛着がある
鉄道は何か車と比べると人間的なものとして残されたとなる
それは駅舎に待つ時間がありまた人が出会い分かれる場所としてまだあった
しかしそれも無人駅化するとか鉄道から車時代になると失われたともなる
車は便利でもどうしてもやはり人間的なものを失ってゆく、そして鉄道の駅舎とか鉄道自体が昔の暮らしを偲ぶ回顧的な場所になった
新幹線でもそれが早すぎて何か人が出会い分れるとか見送るとかの時間がなくなるのである
つまり時間の感覚が相当に違ったものになっているのだ
どうしても車で来ても車を見送るという感覚になれない、そこに肝心なのは人間の情が失われたことなのである
江戸時代とかを理想化するわけではないが明治時代でも戦前でも義理人情とかが日本人にあった、でもそういうものも機械化がすすむと失われてきた
それはやはり機械化とかいろいろ文明化して失われたとなる

旅だけではない、農業だったら昔は田植えでも協同作業でありみんなで田植えをした
村総出でみんなで村の田植えをしてそこに人間の結びつきがうまれた
機械化するとそういうものもなくなり村の結びつきも失われてきたともなる
機械化文明化で失われたものが相当にある
ただそれに気付いていないのである、何か現代が情がなく冷たくなったというとき
社会が変わったためだともなる

例えばその人がいつも言っている、道端で倒れても誰も助けてくれないという
それは車社会になると道端に倒れていても見えない、突っ走ってゆくだけだとなる
車だとそれは人間ではない、物体なのである
だから人間と人間が情を交わすことがなくなる
旅しても旅は道連れともならないのである、それは鋼鉄の物体なのである
そこに閉ざされて人間的交流を拒絶しているともなる
だからキレる人間が多くなったという時、車自体がキレるものなのである
それで突然自転車に向かって「馬鹿野郎」とか突っ走ってゆく
それも車から見れば自転車は邪魔者であり目障りになっているからである
歩行者でも車社会になると目障りになることがあるからだ 
人間が車をもつこと車社会が人間をいかに変えてしまったかを知るべきである

 足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも

 袖振らば見ゆべき限り我れはあれどその松が枝に隠らひにけり

 石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか

人が分かれる時こうして袖をふる、それは何か呪術のようなものがある
そういうことになったのは人が別れる時なかなか会えなくなるということがあった
遠く解かれて逢えなくなるということで別れを惜しんだのである
それもその別れる姿とかその景色とかのなかに人と人で出会い別れるからそれが心に残るものとなった
車だったらただ車という物体が去って行くというだけになる
また逢うにしても今ならいつでも逢えるとなり逢うことの重みがなくなったとなる
こうして現代は機械化したりして何か人間的なものが喪失していったのである
要するに機械化することは人間も機械のようなる
そして遂にはロボットが人間の友となる、機械が人間の代わりになる
でも機械にはロボットにはいくら知識があっても情をもてないのである

そもそも古来キリストでもお釈迦さまでも宗教は愛とか慈悲を説いた時、最も重んじたのは人間の情愛のことである、それが機械化で失われたのである
その行くつく先が人間はいらない、ロボットが人間の代わりをしてくれるということなのである、ただロボットには肝心の情が愛情などもてないのである
ロボットがすべての代わりをしてくれないのである
底地機械化の盲点がありそれで情がなくなった世界は最も冷酷な社会にもなりうる
ロボットなら情がないのだから平気で人を殺戮できるマシーンになる 

それも恐ろしいことなのである、だから機械万能社会になることも危険なのである
ただ人間社会はそういう便利なこと機械化から逃れられない、どこまでも追求してゆく
でもそれが人間のパラダイスになることはない
そのことはみんなすでに情なき社会で苦しんでいるかでもわかる
すべて機械にロボットにしてもロボットには情がもていないのである
だから病院には機械装置で囲まれて人間をみるにしてもそこに情がない世界になるから
嫌だとなる
今でも医者とか看護師でも情がないということがありいくら医療が発達しても病院は怖い場所だとなり病因では死にたくないという人も多いのである
最先端の技術で治療されても情がない世界は怖いということである
人間をただ物体のように見ることがあるからだ
そういうことを経験すると病院では死にたくなとなる

いづれにしろ旅でもそうだがそもそもあらゆるところで機械化してゆく、するとそこに欠けたものが何かわかる、すでに見えてきている、情なき冷酷な世界である
すでにそういう社会になっている、あらゆる場所で機械化自動化される、そこに情なき世界になる、人間はみんな物体になり人間として扱われないとなる
人間の相手をしてくれるのはロボットだけだともなってしまうのである
つまりロボット化することは人間もロボット化することなのである
道具に機械に頼ると人間もやはりその道具や機械によって人間性を奪われると警告していたからである 

隠されし村

七曲の道を上り来て
山中分け入りて一村ありぬ
春の日に迷い入るかな  
八重桜咲き山家あり
ほのぼのとして陰に休む
山腹に石によりシャガの花咲く
また一つ山の家の古りぬ  
粗末な墓のいくつか草にうもれぬ
かくして川張り村を初にたずね
一本の木の下に石二つ
夫婦石ともあれ
ここの暮らしのいかに
かなた白石城への道
こなた梁川城への道
旅行けば道は分れぬ
ここに古くも暮らしありしも

大張村で白石の方に行く道と梁川へ行く道に分かれていた
その時二つの道からその方向への街を意識した、分かれ道は旅情を覚えるのである
つまりどっちに行こうかというときまさに未知(道)なるものへ旅しているからである
これが電車だとそういうことはない、規程路線を行くだけである
また車だとそうならない、ただ方向を変えて突っ走るだけだとなる
分かれ道があったとしてもあまり歩くとか自転車と違って旅情を感じないのである
ただ私は車で旅していないからわからないから車については語ることができない

丸森は阿武隈川あり蔵王が見えるし森か深いしそこに隠された村をがあるとか魅力があるただ一山二山とか全部ソーラーパネルになっていたので興ざめした
それよりもし台風などがきたら木がない山だから水が一気に流れだして来る
それで恐怖を感じた、丸森はソーラーパネル化されている、反対している村もある
何かこうして自然も破壊されて人間の情も喪失してゆくのは現代の文明のためである
それに反対しても社会状況で反対できないとなる
                                            
阿武隈高原の回想の旅の短歌 (阿武隈高原の魅力は幾重にも分かれた道にある)


2021年05月31日

丸森に見るソーラーパネルの危険 (山ごとソーラーパネルになっていた)


丸森に見るソーラーパネルの危険

(山ごとソーラーパネルになっていた)

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 山が全部ソーラーパネルになっていた
これは危険である

丸森のメガソーラー建設計画 山林開発に広がる反対論
https://kahoku.news/articles/20210117khn000020.html



鉛などの有害物質を含んだゴミがそれとは知らずに近所に捨てられている――。
総務省は9月、少しぞっとする内容の報告書を公表しました。名指しされたのは太陽光発電用のパネルです。

太陽光パネルは電極やシリコンを何層も強固に接着してできています。分離してリサイクルするのが難しく、20〜30年の寿命を迎えると産業廃棄物の処分場に埋め立てられるのが現状です。
総務省によると、パネルに含まれる鉛やセレンなどの有害物質の情報を処分場に提供していない業者は調査対象の8割に上ったそうです。
https://plaza.rakuten.co.jp/guidedog/diary/201712260001/

平野部に建設するのが理想ですが、日本では土地が限られてしまっているので、そういった場合には森林を伐採して、そこにソーラーパネルを設置する事も多々あります。

人工的に斜面を作ったエリアを法面(のりめん)と呼びますが、「雨が降った際の水路の設計」「植生マットの貼り付け」「根まで伐採しない」等を通常行います。

これらをしないと土砂災害の原因となります。
対策をしていても土砂崩れのリスクは高いものとなってしまいますし。

実は、斜面の草や木の根っこが雨を吸い取り、また 根っこ大きくなるので、地盤が安定するのです。

ソーラーパネルを設置する場合には、どうしても伐採しないといけないので、地盤が緩くなるリスクが高まってしまうのです。

排水溝も作らなければ、土が流されてさらに崩壊します。
https://taiyoukouhatudenrogu.com/dosyakuzure/



丸森で相馬市の宇多川をさかのぼって入ってきた所の山がまるごとソーラーパネルになっていた
山で斜面とか一部なのだが山がまるごとソーラーパネルになっている
そういうものはあまり見たことがない、丸森はソーラーパネルが多いのかもしれない
人間が人工的に作るものは人間の営みはもともと自然破壊なくしてありえなかった
焼畑なども神鳴りなどで発火して森が燃える、するとその灰が肥料になり作物が育ちやすくなる
そういう自然の作用を見て焼畑が最初の農業として広がった
飯館村の佐須は焼畑の意味であり全国にそうした地名が多い
これも大規模になれば森を破壊するのだから自然破壊につながる
農業すら自然破壊だった、森を破壊して田んぼにしたからである
それでこの辺で津波の時、松原が根こそぎ失われた、それは江戸時代からあったもので
幹が太いものだったのである、だからもったいないと見た
でも松原が純粋自然のものではなく人工的な人為的なものとして作られていた
稲作のために塩害から防ぐものとして松原が作られていた

そして自然ではないということは不自然だから松原は津波で全部流されたとなる
なぜなら自然林となると混合林であり一種類の木だけがある森はないからだ
それで津波の後で松原は実際は津波に弱いことがわかった
根を強く張らないからである、また砂地のような所だと地盤が弱いということもある
松原は人工林であり自然林ではなかった
また杉林も人工林であり自然林ではない、木材として利用するためにいいから人工的に植林して作りだしたものである
それでもともと自然林であったものが破壊された
何かこの辺の森でもぶな坂とかありブナの木があった  

ブナの果実は多くの哺乳類の餌として重要であり、中世ヨーロッパではブナ林で養豚が行われていた[6]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%8A

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ブナは腐りやすく分のない木の意味  

ぶなは分の無い木、役に立たない木の意味で和製漢字

ブナは木材としては役に立たないから人間側で無駄なものとされてこの漢字が生まれた
でも自然で無駄なものはありえないのである
それはあくまでも人間側からの見方でしかなかった
現実に果実は熊でも他のものでも役に立っている
ただ木材としては用途がないので無駄なものとされたのである
そういうふうに人間側からの見方だけになると自然の連環を生態系を壊すことになり
危険なものとなる
それが津波で松原が根こそぎ全部破壊されたりする、つまりもし混成林だったら津波を多少防げたとうこともある
津浪に強かったのは竹だった、なぜなら竹は根が強く張るから根こそぎ流れることがないからである、それで助かったという所もあった

とにかくあのように山ごとソーラーパネルにすることは危険である
木がないことは保水能力もなくなる、木は根を張り山に水を貯える
それで雨がなく乾燥していたとき山に入ったらきれいな水が山の奥で流れていたとき感動した、山にはいくら雨が降らず干ばつのようになっても水が流れていたことに感動した
山には保水能力がある、それを山ごとソーラーパネルにしたら保水能力もなくなり
なんらか田んぼとか農業にも影響してくる

ただなぜこれほど全国的にソーラーパネル化しているのか?
それは農業が田んぼなどが耕作放棄地になっているからである
零細な農業などが後継ぎがないとして継続されず放置される
この辺では原発事故以後耕作放棄地が多くなった、もともと跡継ぎなどがいなとか割にあわないとかで放置されるようになっていた、そしてそれに原発事故が拍車をかけたのである
そして田んぼは耕地整理で広くしている、すると余計に小さい田んぼは放置される
そこかソーラーパネルになりやすいのである

丸森でもソーラーパネルが増えたのは木材として利用されないからである
江戸時代などは米沢藩と伊達藩と相馬藩で三つ巴で木材をめぐって熾烈な争いがあった場として知られている、それだけ森が広く木材が豊富にとれる場所だったからである
今でも森が深いのである、それで森に迷い入り出れなくなった恐怖を経験した
ただ最近ウッドショックとかなり外材が入らなくなり家が建てられないとか騒いでいる
そして日本の木材が高騰しているとかなる
そうなると丸森とかでもまた他でも日本の森が見直されるとなる
つまりグロ−バル経済の危険は何かあると輸入できなくなることなのである
だから経済の基本は地産地消なのである、もちろん全部とはならないけど基本はそうしないと何かあると外部から入ってこなくなる、特に外国が相手だとそうなりやすいのであるだから過度なグロ−バル化は見直すべきなのである
何かコロナウィルスとかはそういう過度なグロ−バル経済による自然破壊とも影響している、生態系に反するものとして人間が暴力的に機械でも熱帯の森でも破壊する
そうしてそういう生態系の破壊からコロナウィルスのようなものが出て来る
それでそうした自然破壊に歯止をかけるためにコロナウィルスが神がばらまいたのかともみるのである



posted by 天華 at 09:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層