2021年04月01日

桜満開ー相馬市へ行く(八幡神社ー相馬の城跡ー松川浦−写真で見る)


桜満開ー相馬市へ行く(八幡神社ー相馬の城跡ー松川浦−写真で見る)


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熊野神社


相馬の城跡

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田町通り

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相馬の街道


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パノラマ写真

きれいに見るにはクリック拡大

サイズが大きいのでクリックしない見映えしない





宮の池桜満開金の鯉

着物来て桜に映える少女かな

三々五々は花見の人や城の跡

初燕相馬の城下にぎわいぬ

新しき田町通りの柳かな

紫木蓮相馬へ行くや夕べかな

街道に残れる松に夕桜

走りつつ星の光るや桜かな


いづこへと我は行きなむ分れ道心気ままに春の浮雲

(八幡神社)

朝日さし桜は池に映り映え三匹ほどの錦鯉見ゆ

(熊野神社)

杉高くここに根付きて残りしも社はすたる春になれども

(相馬の城跡の桜)

城跡に咲きし桜や重なりて相馬の栄ここに築かる

城跡に花盛りかな相馬藩新たな栄ともに築かむ

相馬藩いたく傷つくさにあれど春はめぐりて新たな息吹

木蓮の真白く映えて桜咲き連なる山や陽は昇りけり

(松川浦)

松川浦春の光の水面にそはねてまぶしも霞む山かな

天地に海の展けて春日照り日本の国土うるわしきかな

大いなる旅路にあれや我が国土四海に臨み春の陽没りぬ

海広く視界開けて沖に船春日かがよひ海に没るかな

広々と暮れゆく海や春の陽の燃えつつかがよひゆらめき没りぬ

海鳴りの四方にひびきつ春の陽の山にかがよひ没りにけるかも

日本列島四海に望み輝かむ生きてこそあれ天地とともに

山に月没りけあかつき海明けて春陽かがよひ鴎飛びゆく

一二羽の鴎飛び来ぬ松川浦ここに休まむ春の夕ぐれ




相馬市へ桜を見に行った、風は吹いていたが快晴で気持ちよかった
何か今年はすでに木蓮も盛りとなり咲いている、梅が散って匂いが濃く充満していて
桜が満開となった、つまり一時に春の錦となったのである
木蓮は遅く咲いているからである
春が早めに来てすでに春爛漫になったのである

相馬市の入り口辺りで熊野神社があったがすたれていた、参る人もいないようだ
そういう神社も増えてくる、なぜなら農村の共同体の中心として神社があったからだ
それがなくなると神社もすたれる、共同体が喪失してゆくからである
あの熊野神社は杉が高いし相当古いともみる、その杉が古さを語っている

松川浦は見晴しが良くなった、前は松原があってこんなふうに見えなかった
ただ松原があったときはそれが景観を作っていた
松川浦は景観としては津波で消えてはいない、海辺の磯部村は消失した

ともかく春の松川浦は絵になり写真になる、この辺では浦とか入江がないからだ
それで八沢浦が本当に津波で入江になったときは驚嘆した
その入江に波がよせてきらきらと光っていたのである
松川浦ではあのように波はよせない、穏やかでありあのような波は寄せない
浅いこともある、あの時相当に海が入り深くなっていたから波が寄せたのかもしれない
もしあのような風景がもどっていたらここは名勝の地になっていた
今はそうした景観は変わり殺風景にもはなった

松川浦に夕日が没り一二羽鴎が海から飛んできた、松川浦に休むのだろう
休むにはいい場所だと見た
ともかく今は写真をとるにはいい季節である、絵になる風景が多いからである
桜の問題はすぐ散ることである、だから桜の名所が日本だといくらでもあるが実際は見るのは限られているのである
二週間くらいで散ってしまうからである、それで私は日本全国をこれだけ旅してもやはり桜を見たのは限られているのである

相馬市では初燕を見た、この初燕はどこで見るか年によって違っている
今回は相馬市で城下で見た




一人暮らしから考える、感謝なき社会 (自分が自分をサービスするしかないあとはロボットにさせる)


一人暮らしから考える、感謝なき社会

(自分が自分をサービスするしかないあとはロボットにさせる)


一人暮らしというのは何か、それも不思議だとなる、というのは私は何度も書いているように家族がしてくれた、食事の用意もしてくれた、でもそのことで感謝とかもしなかった何か当然のように思っていたのである
それが家族がみんな死んで一人暮らしになり全部家事からなにから自分一人ですることになり気持が変わった
確かに学生時代とか一人暮らししていたことがあった
でも食事つきなのでやはり提供されるだけだから一人暮らしとも違っていた

一人暮らしだと助けるのは自分自身しかないしサービスするのも自分自身がしないかぎり誰もしてくれない、つまり自助しかないのである
何かいたわる人もいないから病気なになったりしたら悲惨なのである
それで不思議だったのは食事を用意する、台所と居間が離れているのでトレーで運ぶ
これは何かレストランとか食堂でされことである
今は運ぶのが客がしているから多少違っていてもやはり他人にしてもらっている
他人にサービスしてもらっている

ではそうして食事の用意でも全部している、家事でも全部していることは何なのか?
それは自助でありそもそもサービスしてくれるのはもう自分しかないのである
何かうまい料理かが食べたいなといいうときそれもない、外で買うほかない
食堂やレストランに行くほかない、でもそれも飽きるのである
だからどうしても自分で料理をしないかぎりうまいものが食べられないのである
結局それがほとんどできないからできあいのものですましているだけである
もし料理にこったら時間がかかりすぎるからである

とにかく自分を愛するように他人を愛しなさいとキリストが言う時、そもそも人間はまず自分自身を愛すのであり他人は常に二の次である
他人のことを第一にして愛している人などいないしできないのである
そして一人暮らしとなると独り身となると家族がいないのだから愛する人は自分自身しかいなくなるのだ
だから毎日食事するでもなんでも家事でも自分を良くする愛することから始まっている
実際に自分自身が自分のために何かしなければもう食べることもできないからである

今日も食事の用意をしました、食卓まで運びました、どうぞ食べてください

それは自分自身がしなければ食事すらできないからそうなっている
でもなんかそうして食事の用意をしてありがとうという相手はいない、自分自身がサービスして自分自身が良かったとなる
でも自分自身に感謝するもの変なのである
ただ自分自身が自分にサービスしないかぎり食事も何もできないということである

では他人のサービスはどうなるのか?他人はただ金のためにサービスしているのである
まずその人のためにサービスするということはありえないのである
不特定多数の人にサービスして金をもらうことでそうしている
ただ常連客とかなると助かるので特別サービスするということはある
サービス=金なのである、でもいくら金をもらってもサービスする心はもていないのである、金もらえるから仕方がないなと嫌でもしているのである
嫌でも笑っているとかなる、心からサービスすることなどないのである
水商売の口先のサービスなど誰も信じないのである

ところが一人暮らしになるとサービスするのは自分自身だけであり自分自身を愛さないものはいない、だから心から自分にサービスするサービスしたいとなる
ただ料理などがめんどうであり手間でありできないともなる
そういいう心があっても今度はできないともなる
人間は自分を愛するように他人も愛しなさいというとき自分を愛することが先であり自分ならこうしてもらいたいということをする
でも他人はしない、ただ金によって強制されてしているだけである
それがわかるのは倍とか三倍の金を払う金持ちにはサービスをする
でも貧乏人にはサービスはしない、金によってすべて差別される
サービスが買いたいとしても金がなければ買えないのである
ただそうして金持ちにサービスするのもは心から自分を愛するようにするのではなく金のためにしているとなる

だから召使とか手伝さんとかいてもその人は粗末な風呂に入っている、一方で雇われてる家てユニットバスで大きな風呂に入っている、その時その風呂でも掃除する気になれのか?
もし自分もその風呂に入れるならきれい掃除しようかなる
でもそでないとした金で働きサービスするだけである、つまり掃除する動機がもてないである
ただそれは金の多寡で図られだけである

人間は実際他人のためには何もしたくないのである、箱一つも持ち上げたくない、それが経営している人を見てわかった、その人は借金しているからこともあったが自分が苦しくても何一つしたくなかった、ただ金をが欲しかっただけなのである
その人が経営者になったのも金が欲しいとか人に偉い能力ある人として認められたいしかなかったのである、会社を始めた動機がそうだったからである

要するに他人のためには何もしたくない、ただ金をくれ!

結局人間はみんな自分も含めてこれではないか、他人のために何もしたくないけど金がもらえるからいやいやながらしているとなる
そこでこうしてそもそも金が介在すること自体が人間を歪めるものとなっているのだ
人を雇ってみればわかる、ただ不満しかないだろう、なぜならその人は他人のために何もしたくないからである
すると雇い主が強制しないと本当に何もしない、雇われても働かなくても何もしない
ただ賃金だけは要求するとなる、これが人間なのである
他人のためには物一つも持ちあげることもしたくない、ただ金は欲しいとなるだけであるだからこの世は地獄だともなる、そこに愛など通わないのである

家族が出す食事は例え貧弱でもそこには愛がこもっているから違っている
ただそれでもそうした貧乏は嫌だとなることも確かである
愛では腹のたしにならないともなる、ただ人間は自助が先にあり共助とか公助は義務のようなものであり本来はない
家の中が汚れても命令しないかぎりしないのが雇われた人である
そこは自分の家ではないからである、自分の家だったら汚れた所に住んでいるのが嫌だからする、それは金とは関係ない、金もらったからするのではない
でも何か自分の家だったらそうだが一歩家から外に出るとそういう感覚がなくなる

要するに今働いている人は社畜だとか言ったり奴隷なんだよというときまさにただ金の力でサービスされているだけなのである、本来は他人のために箱一つでももちあげる気持がない、金をもらいたいということはあっても他人のために尽くすという気持ちはない
それが人間の社会を歪めているのである、つまり愛なき世界にしている
だから殺伐として弱肉強食の世界になる、他者を思いやるとかサービスするとかを心からしている人はいないからである
だから一見豊かな生活をしていても人間社会は不幸だとなる
人間は本質的に他人をおもいやることができない、エゴだからである
他人は自分のために利用するものであり金で使うものでありそれ意外の何ものでもないとなるからだ

だからキリストの使うより仕えないさいと弟子の足を洗うようなことは絶対にしない
その逆が人間の真実である、足を強制的に金の力であれ洗わされる
そして金をはらって感謝もしないのである、常に感謝しろというとき金を払っている方なのである、強い者が弱い者をそう強制させられる社会だから不幸だとなる
俺はお前に金を払って足を洗わせた、だから俺に感謝しろとなる
そういう社会であり人々の中に不満が鬱積している、そこに金持ちがいたとしてもその人たちへの怨嗟も大きいのである、そういう社会たからいつまでも平和はないのである
だから平和というとき戦争がないことではない、普通の日常の中に平和がないのである

結局なぜロボットなどがこれほど発達してくるのか?労働が機械に自動化されるのか?

それは誰も他人には心からサービスしない、気持がもてない、そうならばロボットに掃除でも料理でも何でもしてもらった方がいいとなる
雇う方でもロボットの方がいい、現実に雇っても自主的に何かサービスするということはない、ただ命令されてしかたなくしているからである
それならロボットの方がいい、不満も言わないからである
そして人間は働く場所がなくなる、でも金が必要だからベーシックインカムで生活するのがいいとかなる
それは誰も自主的に働きたくない、他人にサービスしたくないからそうなったのかと思うサービスしてもらいたいがサービスをしたくないからである

でも人間はお手伝いさんとか直接的に雇うというサービスでないにしろ複雑に他人からサービスを労働として与えられている
それは金を通してとか複雑でわからないが他人のサービスなしでは生きられないのである何か食べるもの一つでも苦労して作っているからである
ただそれでも金を払えばいいとしてその作った人に感謝などしないのである
心に感謝があっても金を媒介するときその気持ちは消失する、金払えばいいとだけなるからだ、何かそこで金というのが貨幣が発明されたときから社会を歪めるものとしてあったすべては金だということでギリシャでも嘆いていた、それもキリストが生まれる七〇〇年前とかにそうなっていたのである

posted by 天華 at 21:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年04月03日

奈良の桜の俳句(奈良が語る歴史−京都との相違)


奈良の桜の俳句(奈良が語る歴史−京都との相違)



三重塔雀や奈良に蓮華かな

桜咲き奈良の夕暮れ古き壺

築地塀古りて門あり落椿

大仏に春の恨みや蝦夷鎮む

堂塔の跡の礎石や花の影

奈良なれば掘れば遺物や春の暮

(西の京)

夕桜奈良の昔や西の京

朝たずぬ唐招提寺や燕来る

春日没る薬師寺の塔古きかな  


奈良めぐる近鉄の駅春の暮

秋日和猫の眠れる奈良の駅


奈良俳句集
http://musubu.sblo.jp/article/8619460.html



奈良を旅したのもずいぶん前である、30年とかそれ以上過ぎている
そうなると記憶もあいまいになる、だから今になると記憶することが大事なのである
なぜなら記憶が蘇らなければもうそこに行ったという旅したということもわからなくなるそこにいたということすらわからなくなる
でもこれだけ時間がたつとどうしても記憶があいまいとなる
それが意外と大きな問題だった、結局人間は何を記憶したが人生となる
だから一番印象に残ったことを延々と老人は語る、認知症になると戦争経験したことを千回も聞かされたとなり聞く方もうんざりしたとなる
でもそれが一番印象に残ったことだから語りつづけたのである

ともかく奈良とか京都とか大阪でも歴史が古い、その歴史があって桜が咲く、するとその歴史を知らないと感じないと何も感じないとなってしまうのである
外国から来た人は日本の歴史がわからない、するとなぜ大仏があるのかとその由来もわからない、大仏は鎮護国家のために作られたのである
奈良とは大和が興った場所であり日本国家の起源の場所でありそれが違っている
ローマだったらまさにローマがローマ帝国の起源の場所だったのと同じである

唐招提寺というときこれも名前のごとく唐を招くであり鑑真和尚が中國から海を渡ってきて仏教を伝えたからこの名がある、そういう簡単なことを見逃していた
人間は歴史的なことがつくづく簡単なことでもわからないことがあるのだ
そして大仏には蝦夷制服で殺された人々の魂を鎮めるものだったのである
靖国神社でも戦争で死んだ人の魂を鎮める場所だったようにである
そういうふうに歴史を知らないと何か今だけ見たら感じるものがないのである
ただこれだけ時間がすぎると奈良自体も変わる、朱雀門とかが再現されたりしているからである、平城宮も私が行った時は枯野だった、芒がなびいて何もなかったのである
だからそこがどうしても平城宮があったということが感じられなかったのである

月の出て平城宮跡枯野かな

こんなふうになっていた、だから今度訪ねて見れば感覚的相当に違ったものになる
当時の華やかさが多少再現されるとはなる
奈良とは何か印象として違っていたのは田舎だったということである
回りが田畑であり田舎の風景があった、そこが意外だったのである
それがまた京都との大きな相違だった、京都は千年都とてしつづいた
今にも継続している都である、でも奈良は日本の国家の起源となった奈良時代で日本の歴史の最初のページを飾ったがあとは京都が中心となり平安京となり次に鎌倉時代があり
さらに戦国時代には大阪が商都となりまた秀吉の大阪城が中心となった
その継続として大阪と京都が交通的にも新幹線でも走り奈良ははずれた地域となり実際に関西では田舎になったのである
だから奈良は田舎だよなと関西の人は言っている、実際に奈良から京都はそれなりに距離がある、一時間くらい電車でかかったような気がする
つまりそれなりに離れているのである

だから田舎だという時、奈良のはずれの方に三重塔がありそこは野原であり田畑があり
すずめが三重塔に群れてとまりレンゲが咲いていたのである
レンゲとなると何か田舎的だからである、桜と梅は奈良でも京都でも咲くがレンゲとなる田んぼとか畑が似合うとなるからだ
そもそも万葉集とは奈良時代の遺産だがそれはまさに都会ではない、田舎の暮らしを歌ったものである、奈良の山とか自然を歌ったものである
自然で暮らす人々の歌なのである、平城宮があったとしてもそれは一部の貴族のものである、その貴族にしても平安京の京都とも違う、それはローマの貴族がもともと農民でありその名前に野菜の名が多いというときそうである  

もともと農民だから質実剛健でありローマ帝国の兵士となり大帝国を築いたのである
それと似ていて奈良の貴族は平安京の貴族とも違う素朴なものを原始性をもっていたとなる、だからこそ万葉集と古今集がなぜあれほど違うのかそれを示している
古今集の短歌は何か貴族の遊戯と化しているからである
宮中とか御殿の中での生活である、枕草子とか源氏物語の世界になる
万葉集の主なものはほとんど野に生活する人々を歌っているから本質的に違っていたのだそこに万葉集の価値がある

第一飛鳥でも藤原京でもそこは田畑になっている、藤原京の跡は田んぼであり秋にたずねたときは刈田になっていた、それでここが藤原京なのか都跡なのかそう思えなかったのである、それとにて奈良でもそういうことがあったが奈良はやはり都会であり平城宮跡があった、でもそこはただの空地とあれ荒野になっていたのである

ローマとか昔の外国の遺跡だとその跡が石の建築だから残っている
それで今でもローマでは地下であれいたるところにそのローマ時代の石の建築を利用して建物がある、日本ではそうした古い遺跡は消えてしまうのである
だから奈良の都にしても何もなくなってしまっていたのである
ただ大仏殿は日本国家形成の起源の記念として残ったとなる

いづれにしろ人間にとって記憶がいかに大事か、最後に残るのは記憶したものである
奈良でも京都でもローマでもたずねたから何か比べることができる
それでも記憶があいまいとなりわからなくなる、それが問題になる
歴史を知るというときやはり何度もその場をたずねないとわからないとういこともある
関西に住んでいればそれができるが東北だと遠いからできない
つまり人間の記憶は歴史は場所に刻まれているからである
だからその場所に立たないと記憶が蘇られないのである
奈良と言えばいまでもともかく発掘がつづけられて何かしら新しい発見がある場所である

土うもれ欠片(かけら)の語る昔なれ平城宮(ならのみやこ)の春のくれかな

日本は桜前線とか桜の国だけど桜は一二週間で散ってしまう、するといくら桜の名所が日本中にあっても桜は見れないのである、その見る場所が限られてくる
これだけ日本全国を旅しても桜を見たのは自分でも限られてくるからである
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奈良から京都の色合いはこんなふうになる、京都となるとその色合いが濃くなる
そもそも万葉集には桜の歌は少ないのである、ただ今見ている桜はソメイヨシノでありこれは江戸時代のものであり
もともと桜は野生種であり今見ている桜とは違っていたのである
そこが誤解しやすいのである


2021年04月04日

故郷の桜


故郷の桜



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ふるさとも花に染まりぬ朝(あした)かな

遠くより近くも桜の錦かな

我が家より真野の中館の桜かな

朝桜風のうなりてちりそめぬ

花の影行く人わずか今日も暮る

霊山の岩黒々と夕桜


残雪の吾妻嶺光り阿武隈川たぎち流れて花盛りかな


桜は日本がだったらどこにでも咲いている、意外と注目していないが南相馬市の鹿島区が桜が映える場所がある、全体的にも大きな通りもないし街もない農村風景だからそこに桜が咲き映えている
でも何か原町とか相馬市では桜がそれほど映える場がない、確かに相馬市だと城跡に桜並木があり桜が咲いている、ても市全体となると何か桜が映えるとも見えないのである
ただそれぞれの場所に桜は咲いているからそうして近くでも発見されていないのである
あまりにも日々見慣れた景色は感動しないのである
だから人は旅にでるのである、遠くに向かうのである

ひごろ憎き烏も雪の朝哉 (松尾芭蕉)

何かこれがわかる、田舎だと醜いものが目立つのである、でも朝が明けたら一面に雪におおわれていたとなる、それが桜にも言える、一面が桜におおわれ花の雲となっている
それは日本だったらどこでも見られる景色なのである
それが日本がの良さだとなる、だから桜の名所は無数にあるとなる
名所と言われるところだけが名所とはならないのである
鹿島区だと万葉ふれあいセンターも桜の名所となっている
ただ桜田山の方は桜が枯れてしまっているの名所が変わったともなる

それから自分の家から真野の中館の桜が見える、ここは南朝の武士が霊山から落ち延びた一族が住んだ只野氏はその時落ち延びた侍だったのである
それがこの土地の先祖ともなった、なぜなら只野という姓が50人とか南相馬市に多いからである

桜で圧巻だったのは残雪の吾妻嶺が見えて梁川から阿武隈川を下った時である
桜と桃の花が一緒に咲いて美しい光景になる、阿武隈川が蛇行してたぎつ流れる
それが雄大な景色となっていた
そして丸森を去るときに峠を越える

峠越え丸森去るや夕桜

こんなふうにして自転車で回っていたのが自分だったのである
何か丸森は夕桜として印象に残る場所だったのである
こういうことはまず車だと印象に残らないのである、過ぎるのが早いからである
峠を上ったな越えたなとかの感覚がもてないのである

峠越ゆ人の姿や春の暮

何かそこに人の姿が見える、でも今は車しか見えないのである
それで広重のような絵にならないのである
車が峠を越えて行くとかそれが絵にも詩にもならないのである
私はそうして自転車で坂をあるときは歩いて上っていたからそれが体に残る
車ではそうして記憶に残らない、ある地点から次の地点まで早く到達するかだけになってしまうのである
つまりどこでも今や人の姿がないのである

今日は花曇りになった、桜の時期でも天候は変化する、明日は雨となりもう桜は散るという、花の時期はそれだけ短いのである
この辺の問題はやはり小高とか浪江とか双葉でも人が流出したことである
家はあるのだが人は住んでいないのである
そういう町とか村でも桜は咲いても映えないとなる

さまざまのこと思ひ出す桜かな

命二つの中にいきたる桜かな 芭蕉

奇妙なのは小高でも浪江でも双葉でも桜並木がある、そこを去った人が多い
でも帰ってその桜を見る人がいる、浪江の桜は手入れしていた、でも帰る人は一割もないのである
だから人が住まないと桜も活きてこないのである
命二つとはまさにそこに住んでいた人たちのことである、一つの命ではない、みんなの命がそこの市町村で生きていたからである
そしてその故郷の桜をみると様々なことを思い出すともなる

何かこの辺は本当に不思議である、浪江の復興住宅に住んでいる人と話をする
その人も一か所ではない転々として住んだ、そして今ここに住んで自分と話ししていることも不思議だとなる、そんな運命がありうるのかとなる
第一故郷に住めなくなるとはいうことなど予想もしなかったことである

我が町の浪江の人や帰らざる故郷思ふ桜咲けども

何か流転の人生ともなった、普通はこんなことはありえないことだったのである













2021年04月05日

チャンスを逃す人生 (チャンスは時間は取り戻すことはできない)


チャンスを逃す人生

(チャンスは時間は取り戻すことはできない)

人間は常にチャンスがある、何かをする時間がある、でもそのチャンスも時間もたちまち消失してゆく

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、コヘレトの言葉


神を知るべき時がある
結婚するべき時がある
学ぶべき時がある 
仕事を覚える時がある 
成功するにも時がある
体を鍛える時がある
善を成すべき時がある
苦しむ時がある
楽しむ時がある
出会うべき時がある
旅をする時がある
・・・・・・

こうして様々なことするべきとか学ぶべきとかある、でもそのチャンスを逃しているのだだから老人になるとあの時こうしていれば良かった、あの時学んでいれば良かったとか後悔だけになる
それはチャンスとか時間がいくらでもあると見ているからである
でも何かをすべきチャンスが思った以上ないしまた時間もないのである
だから貴重な時間を逃しているのだ、若き時神を知れというときもそうである
神を知るのは経験を積んだ老人が知るのかと思っている
でも最も血気盛んな時神を知れと言っている
これも意外なのである、そしてその時期を過ぎるともう神を知ることが不可能だともなるのだ、これは怖いことだったとふりかえる
神を知るチャンスとか時期は極めて限られているのである

ともかく結婚でも常に親でも娘とかでも婚期を遅れないようにうるさく言うことがわかった、それは婚期もたちまち過ぎる、そうなると女性としての魅力がなくなり結婚できなくなるということを親は経験しているからそういうのである
男でもやはり婚期があり時期がありそれを逃すともう結婚するのはむずかしくなる
今は何かニートとかまた結婚しない人が氷河期世代とかあり多くなった
その人たちは40とかすぎてゆくと結婚はむずかしくなる
男性でも二十代から30代までが限度だとなるからだ
つまり時間が過ぎてゆくのが思った以上早いのである

人間は何か良いことを善を積もうとしてもその時間がなくなる、ささいなことでも何か善いことをして他者のためにしてみる、そういう時間もなくなる
結局何もせず善を積まずに終わる
何か駅で案内のボランティアをしたけどこれもたまたま駅が無人化して頼まれてしていたそれもまたできなくなった、コロナウィルスで接触しにくくなったからである
だからその時認められなくても何か駅のことで経験したから良かったとなる

つまり何かささいなことでも人はチャンスを逃している
何かすべきことをしないで終わっている
親のことでも親はいつか死ぬ、別れる、すると介護でも苦しいのだけど十分にしていたらなと死んでからふりかえる人がまた多いのである
なぜそうなるのか?それは二度と親でも死んで逢えなくなるからである
それで冷たくしたりすると後悔することになるので介護の問題は難しいのである
この世に出会うということそれは親ですら短いものとなり遂には永遠に合わないともなるすると逢っていた一緒に暮らした時間が貴重だったとなる
たたこれはあらゆることに言える、人間はチャンスも時間でも限られたものしか与えられていないのである

だからこの世で一番無駄にしているのはチャンスと時間である
誰にでもチャンスがある、ただそれを逃しているだけなのである
第一それがチャンスだともわからないことも多いのである
もしこれはかけがえのない人生には二度とないチャンスだと思ったら後悔などないからである
今勉強しなければ後は時間がなくなるとかも思わないのである
こうしてチャンスでも時間でも消失してゆく
そして老人になり誰でも後悔しているのである
それはチャンスとか時間がいくらでもあると思うからである
でも青春などはたちまち夢のように過ぎてしまうのである
そうしてみんな愕然としているのである

一番の後悔は時間を活用しなかった、チャンスを活かせなかったことなのである
そして時間は平等に与えられている、そこに差別はない、ただ貧富の差でチャンスがある人とない人がある、留学となると金がかかるから金持ちしかそのチャンスが与えられないということはある
でも留学だけが人生ではない、他にもいくらでも経験すること学ぶことがあるからその方でもチャンスは与えられている、時間も与えられている
ただなんでもそれを活かすことができないのである
何かを常に活かそうとしていればそうはならないのである
人間は必ず時間を無駄にしている、活かしていないからである

不思議なのは泥棒であれ悪を成すにもチャンスがある、悪事を働くチャンスをうかがう
それも偶然ではなく目的があってする場合、虎視眈々とねらっているとなる
また動物だと獲物を常に虎視眈々と狙っている、それは真剣そのものである
しかし人間そのように虎視眈々とチャンスをねらっていない
何か平々凡々としまりなく時間がただ無意味に過ぎてゆくのである

そこでチャンスがあってもチャンスを逃すのである、動物は獲物を得るチャンスを逃すと餓えて死ぬことがある、だから真剣だとなる
そうなるのは獲物を貯えることができないからである
日々の獲物をねらって食べるほかない、すると日々虎視眈々と獲物をねらうことになる
そこにチャンスを逃すまえという緊張感が生まれている
人間は何かそういうふうに日々生きていない、別に食べるものがすぐなくなったりしないからである、そして日々緊張感もなく生きているとなる
ただ動物のようになっていたら何かまた絶えず獲物をとるために追われて疲れるともなる
とにかく動物はこうして日々獲物をとるチャンスをうかがっている
でも人間はそんなふうにしてチャンスをとらえようとはしていない

要するに千載一遇のチャンスがあってもそのチャンスを逃す、それはチャンスと見ないからである、そして二度とそのチャンスはなくなる
つまり明日またチャンスがあるとして逃しているのである
でもその明日は遂にこなくなるのもまた早いのである
だから求道でも早い時期からしないとできない、老人になって悟るとかは別である
それで若きうち神を知れとなる、でも若いうちは飲めや歌いやとか享楽に走る
また性欲のために費やされる、そのうちたちまちに老いてしまうのである
40になったら白髪がでてきておっさんとか言われるのである
女性でもその美貌もまた衰えてゆくのが早いのである  

例えば料理でもこれが経験していれば家族が失ってもできる
でも全然経験しないとできない、第一買い物が結構むずかしいのである
十年くらい一人でしていても買い物がわからないのである
何を買っていいのかわからない、そして料理もできないとなる
それだけ料理できるようになるには時間がかかるのである
そういう経験をしていればこうはならなかったのである
ただこうしてパソコンで文章を書けるのは親指シフトを経験しているからできる
パソコンだってこれを使いこなすにはそれだけの時間が必要になる
結局何でもある程度経験していれば身につくから一から始めたらできない
老人になればもう何か新しいことができても苦しいとなるのである

世間的なことでも株などは若い時にするべきものだったのである、額は少額でも訓練していれば良かったのである、それが60以上とか70以上になってやるというのはリスクになる、株は十年単位で見れば必ず下がっていてもあがる、また上がっても必ず下がるという規則のようなものがあるからだ、すると10年くらい放っておいてもいいやとかなり様子を見ていると上がるのである、だから本当にリーマンショックの時半分に下落した株をもっていたら二倍のもうけになった
それと最近でも株が下がった時買わないかと来た時買っていればこれもこんなに高くなるとは思わなかったから失敗だった
それは自分自身で株の経験がないから銀行の営業の人にまかせたから失敗だったとなる

もし若い時株をしていたら経験しているからもうけられるということがあったからだ
ただそういう経験していないから銀行でも他人まかせになったから失敗したとなる
こうして何か経験していないことをすることはリスクになる
他人まかせでは成功しないのである、株でも経験する時があったとなる
何かする時があったが逃していたともなる、それはあらゆることに言えるのである
その最たるものが神を知ることを逃していることでわかる

こうして人間は何か成すべき時に成さない、それが後で失敗の元となる
結局何かを成すべき時が限られている、チャンスも限られている
だから様々なこと時間でも無駄にしてチャンスもものにできないのである
日々緊張感をもってチャンスでもものにしようとして時間を有益に使うという心構えがあったらこうはならなかったのである、それはただみんな最後は後悔しない人は一人もいない、そのことがわかるのは遂に死ぬときだとなる
それが否が応でも思い知らされるのである 

死ぬことを老人になってから考えて遅いのである、若き時に死は何なのか知らねばならない、人間はいくらでも親でも他人でも死に接している、すると死のことを一番恐怖するからである、もう老人になると同世代でも日常的に死んでゆく
そして永遠に逢わなくなってしまうのである
死ぬにも時があるというとき人間は死ぬべき時でもだらだらと生き続ける
それが何かいいようでかえって苦しみをもたらしている
人間は死ぬべき時に死なない、現代は長生きになりそうなりやすい、死ねない時代だとなる、それはかえって無益に生かされているから若い人に早く死ねとか言われる
ただ百才まで生きても意味ある生はある、ただ無用化して廃人のようになっても生きている人がいる、それは迷惑だとなってしまう
だから婚期を逃すと同じく死期を逃したともなる、それは本人にとっても周りの者にとってもいいものではない、それぞれの人生が立場があり一概には言えないがやはり死期というのもある、その時を逃すとまたかえって苦しむだけだとなる


菅首相の家族のカルマ (それは国家にも反映されるから問題)


菅首相の家族のカルマ

(それは国家にも反映されるから問題)

日本人が全然知らなかった菅義偉「家の事情」…決して姿を見せない妻と突如浮上した“問題長男”

叩き上げを謳い、「底辺」から「頂点」へ成り上がるには、他人を蹴落とすだけでなく、家族をも犠牲にしなければならなかった。

 その「因果」が、いま巡り巡って菅自身にはね返って来ている―。そして総理の抱える業は、最後は国民が引き受けることになる。(文中一部敬称略)

 『週刊現代』2021年4月3日号より

菅義偉の家のカルマがありこうなった、そのカルマが菅義偉が首相になったことで公となり国家にまで影響した、それが個々の家のカルマと違っていた
国家にまで影響したから国民にも影響したとなる
それだけ首相ともなると大きな責任が生じるからである
それで秋篠宮家の長女眞子さまと小室圭さんの結婚が問題になった
小室圭という家系のカルマが天皇家に影響してくるからだ
好き同士でいいとかならなない問題があった、それ真子様の父親は今の妻と結婚する時自由恋愛を言っていた、それがまたカルマとなっていたのだ
父親が自由恋愛で結婚したのにその娘が自由恋愛で結婚するなということができないからだ、つまりそれも身から出た錆でありカルマだったとなる

何か人間はカルマを軽くみている、でもカルマは相当に怖いものなのである
ただカルマというときどんな家にもカルマがある、プラスとマイナスのカルマがある
自分自身でもなぜこんなに介護で苦しんだとなれば家のマイナスのカルマの結果としてそうなったと思う
家のカルマは長男と長女が一身にそのカルマを負うことになるからだ

家にはまた家風がありクセがあるというのもそうだろう
何かその家はケチな家風なのである、そのケチさはどうして生まれたのか?
それはやはり極端な貧困を親が経験してもうケチが極端になり何か人に与えることでもケチであり計算してする
そんな人が自分の介護している時に来たから最悪だったのである
それもやはり自分のカルマともなっていた、そんな家が商売して成功するだろうか?
もう一円でも損したくない人に与えたくないという家族だからである
ただその家に婿入りのようになったので夫はもともとそういう性質ではなくその家風に悪いクセを受け継いだともなる

そういう私の母の実家は不和分裂の家だった、だからその後に残された人も付き合いもなかったが簡単に分裂して絶交にもなった、それはすでにそうなっていたのだから当然だったともなる
何かそうしたカルマがあって簡単に切れたりしたのである
なにかしらこうして家でもカルマを背負っていてそれがいつか表面化する
なかなか表に現れないとわからないが60以降になると確実に現れる
苦しみとなって現れる、その清算が強いられるのである
そこにカルマの怖さがあるが苦しみとならない限り意識できないのである

カルマとは親とか先祖の借金なのかもしれない、借金だと具体的にカルマを意識しやすいのである、金は具体的カルマとなって示されるからである
ただ天皇でも王様とかは権力争いとかで血にぬらさた歴史をもっている
だからそのカルマは大きなのもともなり呪いともなる、何か必ずその権力を得るには人を殺したり犠牲が出るからである
毛沢東が文化大革命で敵対者を千万も殺したとかなりその呪いが支配者には必ずあった
だから地位ある者は大きなカルマを背負うことになる

人間は個々の家でもそうだが歴史とはこのカルマを積むことでありそのカルマを次代のものが背負わされることにもなる、ただそこにマイナスとプラスのカルマがある
日本の戦争で三百万人も死んだとしても戦後焼野原になっても日本はかえって高度成長したというのもそうである、かえって旧体制が既得権者が一掃されて焼野原から一から出直すことができたからそうなった
革命とは必ず既得権者を一掃することになるからだ、ビルマでもやはり軍人が大きな既得権者となっていたからその既得権者を倒すためには相当な血を流すことになる

歴史にもカルマの法則があてはまる、アメリカが衰退するというとき国には必ず栄枯盛衰がありアメリカという国にもカルマがありそれが苦しみとなって現れる
国が分裂して内乱状態になるとかなり衰退してゆく
アメリカは確かに日本に勝ったとしてもそれもカルマとなっていたのである
原爆を落とすようなことをしたことは本当に大きな人類的カルマを背負うことなになったのである
だから一番核に怯えているのはアメリカなのである、カルマとなれば本当にアメリカに核が撃ち込まれかもしれないからだ
それで小国の北朝鮮でも中国でもロシアでも恐れるのである
原爆を日本に落としたことでそれがカルマとなり現実化することを恐れているのである
カルマとは自分のしたことが自分にはねかえることだからである

首相ともなればそうした私的なことでも問題になる
それが国民全体にも影響する、不肖の息子がいてそこから電波利権の不正が起きていたからである、私的な家の問題が公的なものに影響してそうなった
ただどんな家でもそうしたカルマを背負っている、だからなかなか批判することもできない、ただ家のカルマが国のカルマともなることが問題なのである
ただこの世の権力ある地位につくこと自体が常に闇となるものがある
権力を得るために何か後ろめたいことをしているともなる
だから政治家という職業自体が何か胡散臭いものになる
そこはどこの国でも同じであり権力をめぐる争いが歴史でもあったからである
そこに必ず血が流され犠牲者がいて権力を得ているからそうなる
そういうカルマをくりかえしてきたのが人間だかららである
歴史もまたカルマをいるからである

posted by 天華 at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年04月06日

山桜咲く大原から高倉を回る (生業もなく活気がなく空家が増える山村)


山桜咲く大原から高倉を回る

(生業もなく活気がなく空家が増える山村)

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双子山とかなる

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山桜が結構咲いている

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春来るも前田に空家ここに住む人は死ににき墓はあれども

病院に空家となりし家のことしきりに言いし人は死ににき

山桜錦となすも大原や前田に後継ぐ人なし淋し

清らかに山より水の流れ来て二輪草ここに咲きしも奥の道行く


大原の前田に私立病院で同室だった人がいた、それはS氏である、その病室からは大原の方が見えた、一か月暇でありその大原のことをその人は語った
ただその人は一人で住んでいたのである、息子夫婦はいても住んでいなかったのである
市内に移り住んだからである、それで死んだ後のことはなにかやと話ししていたみたいである
そして心配していたのは飼っていた猫のことだったのである

前田という地名はそこに草分けの人が住みそこから大原村の中心になった
なぜなら現実に大原からさらに橲原の方に上る道の脇に田が隠されるようにありそこが遠田となっているからだ、だからS氏の住んでいた前田は村の中心だったともなる

病院で知り合った人は大原の墓地に眠っている、その通りに空家がまたある
それが煉瓦の風呂があり何かそこは不気味である、幽霊屋敷のようになって残っているからだ、ただ煉瓦の風呂を作っているということはそれは自慢できるものだった
その風呂は家の中にはない、外風呂である、便所も外である
水道もなく水洗トイレがないときはみんな外風呂だったり外の便所であった

そして自分の家でも風呂は父親が手造りしたものだったのである
外風呂であり桶の様な風呂だった、鉄砲風呂であり上から材木屋でのいらなくなった木材の切れ端をもらって新聞紙で燃やしていた
それが自分の仕事だったのである
現実に自分自身がそういう暮らしをしていたのである、ただ子供の時だから記憶が薄れてしまった、炭を使い囲炉裏もあった、それは街中で暮らしていてもそうだった
だからそういう暮らしがあったということが不思議になる
山村でも農村の生活でもそれと同じだったのである
そういう生活は貧しくても金はかからない、金をかけることもできないからそれで生活が一応なりたち飯館村だって一万人も住んでいたときがあった
だからそういうことが信じられないとなる
人間はそういう場所でも実際に今より多くの人が生活していたのである

何か空家が目立つ、ここだけではない、街からちょっとはずれた所でも空家が目立つ
おそらく農業していたのだけどやめた家かもしれない、というのは家の隣に御堂があたりするからだ、御堂は実は縁側があり中でもみんな集まる場所であり公会堂のようになっていた、それは農村社会ではそこが中心となり共同するものとしてあった
ただ農村社会でもそれが壊れて過疎化すると捨てられて廃墟化してゆく
それが大規模になったのが原発事故の避難区域である、空家だらけだからである
ただ農村とか山村の過疎化がありそれが日本では進行してゆく
ここでも原発事故以降山の小規模の農家は田畑を放棄して草ぼうぼうになっている
そこにソーラーパネルを置かれる

大原村の隣の大谷村でも八坂神社があり薬師堂があるがそこでちょっと話した人の家は壊されていた、その人はすでに市内に移り住んでいたのである
何か八坂神社もまた多い、これは疫病を防ぐものとして建てられたとかともいう
その隣に薬師堂があったからだ、ただ薬師堂が村の中心になっているのは病気を治すめたに祈る場所としてあったからである、病気になったらこうして祈るほかなかったからである

それから山間の道を行き高倉のハートランドはらまちに行った、そこは閉鎖状態であり一部バンガローが壊れていた、あそこはあまり利用されずじまいだったのか
震災以後は放置されてしまったのか、一人何かそこに外部から来た人がいた
その人と駅であった、そしたら詳しく南相馬市の神社のことを研究していたのである
その人が今住んでいるかどうかもわからない、第一ハートランド原町は長らく休園しているからだ
こうして何か山村には活気がなく生業(なりわい)も廃れている
そもそも農業だけをしている人は少なくなっていた
でも今の状態より田んぼで田植えしたり稲刈りしたり生業があって一応農村の形があったそれが震災以後は荒地化してしまったのである

南相馬市農業農村活性化施設に係る対応方針
https://www.city.minamisoma.lg.jp/material/files/group/34/7644-3.pdf

高倉に関してはあそこはあまり場所がいいとはいえない、高倉ダムがあり行きどまりになっている、広い土地もない、飯館村だと広い土地がありそこだと山村の空気に今でもふれることができる、ただそこも震災以降は荒地となり人は住んでいない、時々そこに住んでいた人がなつかしんで新しく建てたこじんまりとして家を別荘として利用しているだけなのである、そこにはもう生業(なりわい)がない、何か生業が形だけでもあればやはり活きた村となる、でも人も住んでいない生業もないというときそこは死んだ村になってしまったのである、ただ家があり住んでいる人は大原とかにもいるから原発避難区域とは違っている

とにかくあのように山桜が身近に咲いている、それが山に暮らす人の錦だけども人が住んでいないとなると生業もないとすると村自体が何か活気がないとなる
それから鹿島区の川子の原町火力発電所石炭灰埋立場への道を下るところで知っている人がゼンマイをとっていたのである、そんなところでゼンマイをとれるのかと意外だった、かなりの量をとっていた、ゼンマイは山の方にあると思っていた
そこはゼンマイが集中してあったのである、その人はもともと仕事しないニートである
自転車にのっているから合っていたのである、何か自転車に乗る人は仲間になりやすいのである
奇妙なのはその仕事もしないニートが山菜とりをしている、それがまさに生業だとなる
他にもコゴミとか山に入ってとっている、これも料理するのがめんどうだけどその人はしている、田舎ではセリとか野草でもとる人が女性ではいた、ただ放射性物質で汚染されてからとらなくなったのである、それが飯館村では一番打撃だった
つまり山菜料理が定番になっていたからである、その暮らしが奪われたことも大きな損失だったのである

2021年04月08日

abstract flower city


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abstract city

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丸森の筆甫(ひっぼ)の桜 (宇多川をさかのぼり丸森町の筆甫を回る)


丸森の筆甫(ひっぼ)の桜   

(宇多川をさかのぼり丸森町の筆甫を回る)

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宇多川上流の滝

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山全体がソーラーパネルに

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古田口

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ここでばあちゃんに家の由来を聞いたーその桜


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筆甫の古い家

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この家は山に囲まれ閉ざされていた

ここも幽霊屋敷になる




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辛うじて御堂が残った




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台石

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朝静かこの道一人花の影

花また花において遠くへ走るかな

山桜高きに映えて朝の滝

朝桜映えてとどろく滝の音

(丸森の橋の台石)

散る花を台石とめて鎮まりぬ

台石に椿の赤く花の散る
                 

塩手にそ佐藤氏の由来我が聴きて霊山の方へ春に行くかも

(筆甫)

南朝のいわれを語る桜かな丸森の奥隠され咲きぬ

筆甫なるウバヒガン桜をたずねきし名古屋の人のほめて帰りぬ

筆甫なれ坂上り下り山桜高きに映えて家々のあり

あざやかに枝垂れ桜や五十年すぐと語りけるかな

古材を活かして建てぬ家なれや黒くもあれば古しと見しも

分け入りぬ古田口の一軒の家に桜やなお住みにけり

山深く誰か住みにし隠されて空家に咲きぬ枝垂桜かな

筆甫なに墓所をたずねてその姓やここの歴史の謂れを知らむ

山深く碑は何語る伊達の領春の日たずね由来しるべし

塩釜の碑の多しは伊達の領春の日めぐる丸森町を

筆甫なる道の高きに山桜映えて時にし風のゆすりぬ

山々に閉ざれ筆甫住む人や暮らしを思い春の日たずぬ

(橋のたもとの台石)

重々し台石ここに丸森や川はゆうゆうと春の日暮れぬ

阿武隈川流れゆるやかその岸に桜の映えて丸森暮れぬ

春の日や阿武隈川のかなたへと道はつづくや我は行きなむ


丸森町南西部、内川支流の流域にあたる。北で字不動・字石倉・字薄平・字四重麦五・字四重麦四・字四重麦三・字四重麦二・字四重踏石・字峠橋元・字峠野上・字峠向・字峠革踏石、東で字上滝西・字上滝東・大字大内および福島県相馬市山上、南で相馬市東玉野・玉野、西で福島県伊達市霊山町大石・梁川町白根・梁川町山舟生と接する

丸森に宇多川をさかのぼって松が房ダムから入った
途中工事していて自転車で行けないと思ったが工事している人が通したくれて助かった
今でも去年の台風の被害がありいたるところで被害があり道が壊れて通れないのである
まず車だともう通れない、自転車だとなんとか通れる場合がある
それでこういうときは自転車が便利だか前が突然陥没していたりして危険でもある
この工事は長くつづくから困るのである

松が房ダムを出て古田口とりパス停の表示がある、でもバスは通っていない、でもこのバス停の表示は地名がわかるので貴重なのである
古田とあれば新田ができて古田となる、古町も新町ができて古町ができる
だからそれなりに古いともなるがこの辺には家も見当たらないのである
その一軒だけが目立つ、なぜここに家が残っているのか感心したのは山村は過疎化になり空家化しているからだ、ここも山に閉ざされているから空家が目立ったのである

最初に逢ったのは道で何かしている、そこの枝垂れ桜がきれいだったので聞いてみた

「この桜は古いですね」
「これは50年前に植えたものですよ」
「そうですか、50年でこんなふうになりますか」
「私は古い家からその土地のことを調べているんです」
「それでこの家が古いかどうか聞いたんです」
「そうですか、私の家は古くありませんよ」
「でも家の柱とか何か黒くて古く見えます」
「これは古い家の木材をとりよせて使ってからです」
「そうですか2、もともと古いものだから余計に古く見えるですね」
「こちらは後から継ぎ足したんです」

何かこの家が建ってこの枝垂れ桜を植えたのは50年前というとき私の家と同じころである、オリンピックのことを言っていたから東京オリッピックの頃である
それも昔になってしまった、ここの家は別に古い家ではない、農家でもない、だから新しいのである、新しいと言っても50年過ぎるとやはりそれでも古くなるのである
50年過ぎればこのように枝垂れ桜でもきれいに咲くということである

ただこの家は古くないので歴史を知るのはむずかしい、すぐ近くに寺がありそこに行ってみた、というのは私は必ず墓地によりその土地の歴史を探っているからである
こういう辺鄙な所が姓が限られていて一族が住んでいることが多い
引地とかはそうである、なぜなら金山城にも引地館とかあったからだ
引地一族がかなり力をもった地域である

宮城県白石市沢端町では福島県の会津の塩ノ松にあった引地舘に戦国時代に居住して称したと伝える。福島県二本松市上長折・下長折付近(旧:塩松)が比定地。塩松はシオノマツ。南北朝時代に記録のある地名。地名は「四本松」とも呼称した。宮城県仙台市青葉区川内が藩庁の仙台藩士に江戸時代にあった。

丸森でもそうだが中通り方面とつながる歴史がある、第一霊山は中通りの豪族が集まった地域である、郡山の多田野村は有名である、それが只野氏の由来なのである
南朝が炎上したとき落ち延びた武士の一団が南相馬市の鹿島区の真野に逃れた
それで只野氏は鹿島区に只野という姓が50人くらいもいるのである
それから相馬市の山上の方の塩手山のあるところは実は古い家があった
佐藤一族が南北争いで逃れてここに住みついたらしい
その佐藤氏の由来は医王寺にある佐藤一族らしい、義経と深く関係した佐藤氏である
それから磯部館の佐藤氏であり今の相馬市の道の駅の鬼越館に移った佐藤氏である
この佐藤氏は伊達市が先に支配していた昔の中村、今の相馬市にも勢力があり相馬氏が進出したとき争ったのである
ただ佐藤氏はこれは多すぎるからまぎらわしいのである、ただ医王寺と関係していてそこの佐藤氏一族系統である

それでうばひがん桜の由来がその霊山の南北朝の争そいにも由来していたのだ

高さ約30m、根元の幹周り10mの古木で、樹齢500年以上と推定され、4月の下旬にはひがんざくら特有の淡く小さな花をひっそりと咲かせます。
丸森町指定文化財(天然記念物)。

近くには南北朝時代、北畠顕家が霊山城を築いた際、鬼門であるとして薬師如来を祀ったといわれている薬師堂の小祠があります。

これは親王桜とも言われているからだ、つまりこの筆甫の地名由来自体、筆のはじめというとき伊達政宗と関係して名付けられた、ここは伊達と相馬の境の玉野村に近い
そこに境の桜がある、

伊達と相馬の境の桜
花は相馬にみは伊達に

筆甫は相馬氏との境目でありそこで筆の始めというときここが伊達藩の領地と記したことになる、現実に金山城は相馬氏の井戸川将監が最初に城主となっていたからだ

 

歴史が交差する場所は注目すべきである
何かその土地のことを知るにはその土地の人と他愛のないことでもちょっとでも話すとわかることがある、でも古い家だからといって訪ねて聞くわけにもいかない
ただそこに住んでいる人はその土地のことをどんな人でも外から来た人よりは知っているのだ、第一道自体がわからないからである
たまたま塩手では旧家の人とあって話しできたから良かったのである
そういう人とはなかなか出会いないからである

それから四重麦(よえむぎ)という方向へ向かう案内板があった
この地名は気にかかっていた、ここから入るとそこに行くのかと見た
ただこの由来が良くわからない、麦と関係していることは確かである
麦を作っていたのかとみる、ただ麦といってもいろいろあるからむずかしい
それで子供の時麦御飯を食べていたから思い出す、その麦御飯がうまくなかったのであるでも麦には栄養があり江戸患い(えどわずらい)という脚気にかからない効用があったのだ、白米はうまいにしても栄養がかたより脚気になった
ビタミンB1欠乏症です。 胚芽部分に含まれるビタミンB1をそぎ落としてしまう白米中心の食事が原因だったからである
食べ物は何か偏ると良くないのである、いろいろなものをまぜるといいのである

ただここでどうして四重麦となっているのがわからない、南相馬市の片倉村の坂をおりる所に八重米坂とある、この米は長野県の八重米原と関係あるのかもしれない、なぜなら
そこに初発神社がありそれが長野県と由来しているみたいだからだ
ただこの地名の由来がわからない、こういうことはなぜわからなくなったのか?
それは山村であれ農村であれ何か昔からの暮らしが生活が消失しているからである
今山村でも昔の様な山の暮らしをしている人はいないからである
だから不思議に思うことはどうしてこんな山に閉ざされた所で生活できたのかということである

丸森で有名なのは木材資源を相馬藩と米沢藩と伊達藩で争ったことである
それだけ木材が今の石油のように大事なものだったからである
電気もガスもない時代だと燃料は炭であり炭すら高価なものでありそんなに使いなかったただ山村は炭を売っていたから豊かになった家もあった
丸森はそれだけ木材が豊富だから争いの地になったのである
それで迷って森を抜け出れない恐怖を経験したのである、それだけ森が深いのである
ただその山がソーラーパネルの山になっていたことには驚いた
結局森の木材が外材になったりして利用されないからソーラーパネルになってしまう
電気が昔の炭の燃料に変わったからである、それか景観を壊すしまた台風などきたら住民にも被害がでてくる、そして十年くらいしかもたないとか廃棄物が公害になるとかいろいろ負の部分がある、でも山の木材を利用できないことがそうする
収入がなければ暮らしていけていからである
だから狭い田畑はこの辺でも原発事故以後利用する人がいなくなりソーラーパネルにもなっている、土地を活かせない、小規模の田畑でも労力が相当にかかり老人がふえて跡継ぎもなく耕作放棄地が膨大になっているからだ
だからどうして山村で暮らしが成り立ち過疎化してきたかを知るべしだとなる

私の子どもの頃は水は近くの井戸水をもらっていたし燃料は炭でありまた風呂は外風呂であり鉄砲風呂で木材の端材をもらって新聞紙と一緒にして燃やしていたのである
それが自分の仕事だった
つまり今日本が貧困化しているとき必ず電気水道ガスを止められて困る人が多いのであるそこに具体的に貧困化が見えるものとなっているのだ
今着ているものを見ても貧乏なことはわからないからである
だからなぜそんな辺鄙な場所で生活できたのかという時、人間最低限その住んでいる場で食糧があり燃料がありとかして生活できていたのである
それがわからないということはイメージできないのはそういう生活があったことを経験していないからである

ただ空家が多いというのはまたそういう最低限の生活もしにくいということで住まなくなる
現実になぜ飯館村とかでも原発事故で多額の補償金をもらったときみんな一斉に流出したのか?それはもうそうした山村生活より便利な街へ移った方がいいとなったからである
それで筆甫とかでももし補償金をもらった飯館村のようになったとみる
なぜならやはり空家が多くなっているからだ、それは全国でそうなのである
山村とか過疎地域は暮らしにくくなったからだ
そういう場所で電気水道ガス代を払うことは負担になるからである

麦に関してはいろいろあり私の裏の畑は麦畑があり桑畑があった、桑は養蚕のために必要だった、麦畑もどこにでもあった、ただどういうわけか麦という地名はあまりにも少ないのは何故だろうかともなる、米が主食であり田の地名が多いのはそのためである

『会津農書』にみる麦の栽培と民俗  PDF  佐 々 木 長 生
https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp :  ...

この人は同じ町の出身だった、麦についてこれだけ調べるというとき学者だとなる
米については素人でも研究するが麦についてはわからない、ただ麦は米と同じく重要なものである、大陸では米より麦を生産してきたからである
それでエジプトは今でも麦畑でありビールを作っていたのである、ピラミッドの時代から麦を作りビールを作って飲んでいたのだ、だから米よりも歴史が古いともなる
でも麦の歴史については日本では麦御飯でも食べなくなりわからなくなったのである

丸森は多様な石がある、丸森の阿武隈川をわたる橋のたもとの石は大きい
うば石ではなく台石となっている、台となる石である、そこに盛んに桜が散っていた
そして帰る時は必ず丸森だと夕暮れになっているのだ
朝に出発して夕暮れになる、それで夕桜が心にしみるとなる

ともかく私が興味を持っているのは歴史もあるが自然景観なのである
その点丸森は自然景観が山もあり平地もあり阿武隈川もあり蔵王も身近に見えるから魅力がある
ただ自転車だと紫外線とかを受けたり暑くなると春でも熱中症になるようになったから
前のようには行けない、でも今回とそれほど暑くもないから行けた
筆甫に行ったのは初めてだったのである
それだけ山深いところだった、高い所の道を上り下りしたから疲れる、でも電動自転車だからとか行けたのである、何度も行っているけどヤマハのYPJ-XCは優れものだからである
次は「金山城」について書くのでご期待!