2021年02月28日

権力側の歴史と民衆の歴史 (歴史を作るもの)


権力側の歴史と民衆の歴史

(歴史を作るもの)


歴史の見方となると常に権力闘争の歴史でありそこに欠けているのが民衆の歴史である
津波のことでも相馬藩で700人溺死と二行だけ記されていた
でもそれも忘れられていて津波の後に発見されたのである
そこに誰も注目していなかった、この辺では野馬追いがありまだ殿様が活きている
歴史を伝えている、それはいいとしても津波のことで大きな歴史の欠落があった
それは歴史と言ってもいろいろな見方があり一様ではない
歴史として記されるのは権力側から権力闘争の勝者によって記されたものである
そこでの一番の関心は相馬藩でもいかに相馬氏がこの地を支配したかということであり
戦争の記録は事細かに記されている
でも津波のことに関しては700人溺死しても関心もほとんどなかった
むしろこの辺では海側に旧勢力がありかえって津波でそこが打撃を受けて好都合になっただから相馬藩政期には二行しかた記されていなかったのである
その時戦国時代であり戦争が主な関心事だったからである
戦争に功績があったものが記されても民衆が津浪で700人死んだことより大事だったのである

歴史は一般的にそうして権力側から勝者から記されたものである
民衆からは記されていない、民衆からの歴史は公式な文書に記されないことが多い
ただ万葉集などには民衆の歌をのせてあり民衆の息吹を感じるものがある
でも歴史は一般的に権力者側から記されたものであり民衆側から記されたものがない
例えばなぜ明治維新で会津藩の悲劇が語られるがそれはあくまでも権力側からみる悲劇である
それを象徴していたのがその侍の悲劇と関係なくヤーヤー一揆を民衆がその時起こしていたことである
つまり侍が悲劇的に死んで薩摩長州に負けても民衆には関係ないものとして見ていた
かえって税金を高くとられていて不満がありそれでこの時とばかり一揆を起こしたのである
民衆と侍は一体ではない、侍は税金をとるものとしての侍でありそれで不満だったから一揆になった、なぜなら薩摩長州が攻めてきたらその土地の民衆も一緒に戦うはずだからである、それがかえってなかった、会津藩内に住んでいても侍と民衆は別々だったのであるだからあれだけ語られる会津の悲劇も別にそこに住んでいる農民などにとってはそう見ていないのである

民衆側にたって歴史を語ったのは柳田国男である、そこでは権力側のこと織田信長とか秀吉とか家康でも支配者のことは語られない、民衆の生活を探求したのである
そこで民衆は文書で歴史を残さない、だから口碑として言い伝えられたこと伝説でも重んじた、直接民衆から話を聞いたものから歴史を説いたのである
そういうことは今までになかったことでもある
権力闘争の歴史ではなく民衆の生活を歴史として発掘したのである
そういうことは地味でありドラマにもなりにくい、つまりドラマとして面白いのは取り上げられる、歴史となれば信長とか秀吉が主役となりドラマとして面白いとなる
でもそこで暮らした民衆のことは語られない、でも人間の歴史は営々とそれぞれの土地で暮らしてきた民衆の歴史が基になっている

それで会津藩があったとしてもヨ−ロッパのような市民というものが日本では発達しなかった、つまり会津藩ならヤーヤー一揆があったことでもわかる
もし市民共同体があれば市民が敵から責められたら一緒に戦ったはずだからである
市民はシテズンシップであり仲間である、侍と農民は別々のものとしてあり共同していない、そこにヨ−ロッパの歴史との大きな相違がある
それでパスポートに住んでいる市を書くのである、でも日本だと市としても市のもっている意味が違うのである、日本で市が生まれたのは明治以降だからである
市の門があり市長が市の鍵をもって市壁の中に許可がなければ入れないというのもそうである、市長の権限が大きいのである
歴史とはどうして共同意識を培ってきたかでもある
日本だったら村という単位でありヨ−ロッパだと市という範囲である
だから市を取り囲む市壁がある、それはがヨ−ロッパの歴史の特徴である
歴史的に作られたものでありそれがアイディンティティになる 

そして明治までは江戸時代には国民というのはいなかった
それぞれの藩に属していて国民というのはいなかったのである
それで西南戦争で明治政府の国民軍と西郷隆盛の侍集団の戦いがあり国民軍が勝って国民意識が生まれたのである、侍が支配する国ではない、国民が主役となる社会になったのである、その国民は対外的にもグロ−バル化した結果として国民がどこでも意識されるようになった、そして結果的には国民同士の熾烈な全面戦争となって何千万人が死んだとなる
ともかく歴史は作られるものでありそれぞれの一人一人が作ってゆくものである
それが今までは侍の歴史が歴史となっていたが柳田国男は民衆側にたった歴史を発掘したそこに功績があった、現代は逆に民衆が力をもったというとき民衆に国民一人一人が主役ともなるから責任は国民一人一人にあるともなる
でも依然として権力側と支配される者がいる、それは原発事故でも明らかになった
「安全神話」はあくまでも権力を持つ者立にらって作られたからである

現代の権力者とは官僚であれ学者(専門家)であれマスコミであれ組合であれ別なものに変わったからである、ただ現代では社会が複雑化してそうした権力が見えないのである
なぜなら民衆自体が権力化するということもある
民主主義は数がすべてとなるときそれが力となる時社会は歪められる
多数がすべてとなればただ数を集めればいいとなる、そしてナチスとか大衆ファシズムとかポピュリズムとかになりやすいのである
だから田中首相は数と金で決まると言ったのである
民衆と大衆は違ったものである、ギリシャのポリスとかヨ−ロッパの市民共同体とかは今の大衆とは違ったものとしてあった、市民として自覚は別なものとしてあった



会津世直し一揆(あいづよなおしいっき)は、明治元年10月3日(1868年11月16日)から同年12月1日(1869年1月13日)に旧会津藩領内で発生した世直し一揆。ヤーヤー一揆(やあやあいっき)とも。会津藩が降伏したことで起こった、溜まっていた会津藩への不満から起きた農民の反乱。明治政府は積極的に鎮圧せず、会津藩の元役人に交渉させて一揆勢は要望をいくつか実現させた

posted by 天華 at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)