2021年02月10日

寒木、蝋梅ー写生俳句のこと(死んだ母を想う不思議―万葉集の歌)


寒木、蝋梅ー写生俳句のこと(死んだ母を想う不思議―万葉集の歌)

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ふるさとに根付きて老いぬ冬芒

我が母の百才生きし冬芒

風うなり墓地を囲みて寒椿

蝋梅や我が家に余生くつろぎぬ  

石垣を離れず松や冬の暮  

玄関に枯木の影や籠るかな

十本の樹に寒さのしみいりぬ
                                                

百才を生きにし母や蝋梅の咲きてその後我の住むかな
                                

母のことを語るのは不思議である、母は脇役であり目立たなかったからだ
私自身も母を注目していなかった、嫌いの所があり母を良く思っていなかった
ただ人間は何か死ぬと生きているときき別な見方をするようになる
それが不思議だとなる、死んでからその人を深く想うということがある
だから万葉集の歌が恋愛ばかりだと見るのは間違っている
そうしたら何か浅薄になるからだ
恋は乞うであり死者を想っているのだというときそうなるとその想いは深くなる
もはや肉体として存在しないからこそその想いは深くなるからだ
ただ自分の場合生きている時母を想うこともなかった、むしろ嫌なものにも思っていたのであく、それが不思議なのである


獻舎人皇子歌二首

たらちねの母の命の言にあらば年の緒長く頼め過ぎむや

現(うつつ)には言は絶えたり夢にだに続(つ)ぎて見えこそ
直(ただ)に逢ふまで 二九五九


母に許されれば結婚できましょうという意味である、でもこれも別な解釈があるかもしれない
母が言い残した言葉なればその言葉は重要でありその言葉に頼む、年の緒長くその言葉を伝える重んじるという意味ともとれる
状況からは違うにしろそういう解釈もありうる
それで母が死ぬ間際に一か月前に認知症だったけど正気にもどり言った言葉が忘れられない、それは孫に言い残した言葉だけど孫にはその言葉は伝わらなかった
それも一緒に生活したこともないから疎遠になり伝わらなかった
ただ自分自身は正気になって大声で言い残したことに驚いたのである
最後の言葉はやはり人間にとって誰であれ重みがある
その母の言葉を年の緒長く頼む、守るということにもなる

次の歌も言は絶えたりというとき死んだともとれる、でも夢に見えるとなる
これも必ずしも恋愛の歌ではなく死んだ人を想っていることともとれる
そもそも万葉集の歌が何を意味しているのかわからないのがあり研究が続けられている
それは古代の人の心が今と違っていて理解できなくなったからである
つまり自然の中での原初的心性というべきものが近代人からは喪失したからである

芒というときこれは意外と深く根を張るものなのである、だから簡単に引きぬけないのである、一見芒は木と違うから根を深く張ると見えないのである
実際は深く根を張っている、そうみると違って見える
百才生きた母にはふさわしいものともなる、ただ百才も生きると幽霊のようにもなって生きるともなる、まず百才まで生きるとどんな感じになるかイメージできないのである

蝋梅も咲いたし、梅も咲きはじめた、実は今日はあたたかい、昨日は真冬だった
ようやく春になるらしい、このくらいだと楽である
俳句はやはり写生である、十本の樹に寒さのしみいりぬ・・・というときまさに写生である、十本というところに意味がある、「鶏頭の十四五本もありぬべし」子規・・・これに写生が集約して表現されている、つまらないとなればつまらないがそれが写生俳句の本質を表現したものだから論争にもなったのである
だから十本の樹というのがまさにこれと同じなのである
これは街中の公園にある、ちょうど十本くらいある、十本の樹があり寒さがしみいりここに耐えて建っているとかみる、その解釈はしないのが写生俳句である


寒木

風うなり木に寒さしみいる
椿の赤く真の心に安らぐ
人はめいめいの場に
分かち合いともに生きる
人と人は場に結ばれぬ
信頼で深く結ばれ一つになる
かくて離れざるかな
寒さしみいるともあたたかき
人の心のかくあれば・・・・

(十本の樹に寒さのしみいりぬ)


説明すればこうなる、説明をはぶけば写生俳句になる

とにかく蝋梅というとき母を想い出す、何か百才を生きた母にふさわしいとなるからだ
ともかく死んでから母を想っているというのは不思議である
死んでから存在感を示しているのが不思議なのである
どうしても依然として母が家にいるという感覚になるのだ
これはおそらく夫婦でもどちらかが死んでも依然とてしう家にいるという感覚になっている人がいる、それは家で暮らした歳月が長かったからそうなっているのだ
だからもし息子でも娘でも一緒に暮らさないとそういう想いが起きないかもしれない
70年も一緒に暮らしたことでそうなったからである
ただ正直母のことは私は嫌うところがあり死んでからこうして思うことが不思議なのである

医療・介護などで問題が噴出する「2025年問題」


医療・介護などで問題が噴出する「2025年問題」

2025年は後期高齢者(75歳以上)が急増するターニングポイント
「2025年問題」とは、戦後すぐの第一次ベビーブーム(1947年〜1949年)の時に生まれた、いわゆる"団塊の世代"が後期高齢者(75歳)の年齢に達し、医療や介護などの社会保障費の急増が懸念される問題を指します。

1947年から1949年に生まれた第一次ベビーブーム世代が、2015年の段階で65歳を超えている日本。この3年間に生まれたいわゆる団塊の世代と言われる約800万人の人々が、徐々に介護サービスを必要としてきています。

現に、要介護・要支援認定者数は2000年には218万人だったのが2017年には622万人と、ここ十数年で約3倍になっています。団塊の世代の高齢化によって、介護を必要とする高齢者が、今後さらに増加することは必至。


これも相当に深刻になる、実例では父親が介護になり南相馬市では今介護士が不足してみれない、それで青森の施設に送られている、青森では仕事がないので引き受けている
でせそこでも後から備品とかの請求が来て金は要求されている
それを払っているのが40代後半の独身の息子である
その息子が今は病気になり一か月入院したりしている、建築関係の肉体労働者である
その母親は70才でも金もなく体が弱っている、普通の人より弱っている
その母親も金がない、その負担が息子にかかっている
もう一人息子がいてもその人は縁切り状態になっていてかかわらないのである
おそらく母親でも金をせびられたり負担になるからかかわらないようにした

この状態は自分自身で体験したのと似ていると思った
私も二人の親の介護状態になり助けもなく一人で苦しんできたからである
それを延々とプログに書いてきた
ただ金銭的には問題がなかった、この例では金銭的にも苦しんでいるのだ
ただ介護というのは家族でするとなると金だけではできない
特に認知症になると他人が介護することはむずかしくなる
この息子はすでに2025年問題の実例なのである
それも二人の親をめんどうみなければならなくなる
でも実際はしていない、仕事をしなければならないから多少青森の施設に仕送りしているだけである、でもその仕送りだけでも余裕がないから負担なのである
そして母親は病気ではないにしろ普通より老化して体が弱っているし金もないのである

何かこのように親二人が介護になったり金がないとか援助して負担になってくる
それが2025年問題でありすでにその兆候は現れている
だからこれは2025年になったら悲惨な人が出て来る
現実に南相馬市でも認知症の母親を介護していた50代の人がオムツとりかえるとき母親が騒ぐので殺した
おそらくその息子一人が介護することになってそうなった
それより問題は親二人を同時に介護するようになることである
それを自分自身もなるところだった、そしてその介護する人が病気になることもある
それが自分自身で経験して恐怖だった
その時誰も助けない、回りでは今はかかわらない、逆に苦しむのを見て楽しむとまでなる今田舎だって人情などなくなっている、またそういう家族とはかかわりたくないのである田舎ではかえって人間の悪質性が露骨にでてくるのである

いづれにしろ子供が親を捨てる、家族遺棄社会になるという本を出した人もいる
この実例では一人の息子は関係しないから親を捨てている
でもそうしたとしても一人の息子に負担がかかりまた他の人がめんどうみるともなる
だから家族でもそういう人はもう家族でもない、他人に世話をまかせたともなるからだ
それも無責任だとなる、もう親はめんどうみれない、死んでもいいとまでなっているのだでも放置してゆくわけにいかないから誰かが福祉でもめんどうみざるをえないのである
こうなると家族とは何なのかともなる、もうそこでは家族は他人になっているのだ
その人にとっては楽でも他の人が負担させられている、これも無責任だともなる
「私は親のめんどうはみない、死んでもかまわない、誰かめんどうみてくれ」となっている

いづれにしろそれだけ介護の負担が大きいからそうなる
介護殺人がこれからも増えるのはそのためである
それは一部のものだけではない、社会的問題でもある、これだけ介護する人が増えれば社会を圧迫する、財政的にも厳しくなる
現実になっている、生活保護でも福祉関係へ予算を配分できない、それだけの余裕がすでに国にもないし自治体にもない、日本自体が貧困化しているからだ
そこで二重三重に負担になり援助されない人が増えて来る
そうなるとどうなるのか?老人は捨てられるとなる
姥捨て山ではないが実の息子すら親を捨てている、でも誰か他人がめんどうみざるをえないのである
また老人の単身者の数も多い、自分もふくめそういう人も助けがないとなる
高齢化社会というのは確かに個々人ではすべて悪いものとはならない
長生きすればそれだけ人生でやれることが多くなる、ライフワークを持っている人は専門分野を追求できる時間が長いからそれなりのものを成せるとはなる
でもどちらかというと暗黒面が大きいのである

ともかく夫婦でもどちらかが死ぬと一人になる、隣では突然に妻が死んで夫が取り残された、その夫も心臓の病気であり機械を入れている、これまで妻が世話していたのを自分でしなければならない、その人は家族と一緒に住んでいても食事も別にしていたからだ
こうしてまた家族と住んでいても老人が孤立している場合もある
何か今は家族がこうして別々になる傾向がある
でも介護状態になれば家族がめんどうみなければならなくなる、そういう状態で介護がやれるのかともなる

いづれにしろ2025年問題は深刻である、すでにその兆候はいたるところに現れている
となると2025年になったらさらにひどい状態になることは目に見えている
それは個々人の問題でもあるが国とか市町村の問題でもある
そういう人を放置しておくにもいかない、でも財政的にも厳しい、生活保護でも医療だけが払われているとかもある、菅首相が生活保護があるというけどそれが最後のセーフティネットにもなっていない、生活保護を受けても餓死にもなりうると見た
最低限する支給されていないからである
それだけ国でも市町村でも財政的に苦しいから福祉に回らないのである

日本自体が東北大震災や原発事故や今度はコロナウィルス渦とか災難に見舞われる
それで財政的に苦しくなるのだからさらに福祉の予算は減らされる
つまりもしかしたら餓死に追い詰められる人が増えるということすらある
そういう直前の人がすでにいるとなる、二重三重の苦難と負担が強いれらる時代である
それはすでに自分自身が経験してきたことなのである