2021年02月15日

旧街道の旅の思い出 (車では自然を感じないー風も雨も感じない)


旧街道の旅の思い出

(車では自然を感じないー風も雨も感じない)


街道の細道を行き梅香る


相馬市までの道は昔の道である、日立木から城跡まで行くと昔を偲べる
それにしても狭い細い曲がりくねった道である
あのように細く曲がりくねっていたのである
そこは歩く道だからそうなっていた、その道もとぎれて六号線に出ると国道になる
そこでは頻繁に車が行き来する現代の道となる

細い道を行くと梅が咲き始めそこはかとなく香りが流れた
それは細い道を行ったから感じたのである、それは街道の細い道が歩く道だったからである、そこも車が通っているが狭いのである
車にはふさわしくないのである、車は情緒を壊すものなのである

車で行くとこうして梅の香とかを感じない、鋼鉄に覆われた車が外界の自然をさえぎる
風も感じない、今の時期だと海から東風(こち)が吹く、そしてまた北風になったりする季節である、この東風が吹いて原発事故で放射性物質が飯館村から福島市まで運ばれたのが不運だった、風に影響されたからである
もし北風だったら海の方に流されたから意外被害が少なかったかもしれないからだ
実際に請戸漁港からは原発の煙突が見える、近いのである
そこで放射線量は0・5マイクロシーベルトとか低かったのである
それが不運だったのである、何でもいくら科学時代でも自然の影響をうける、それはさけられないのである

私は自転車で行くから歩くとはならないがそこで自然を感じる、風とか光とか感じる
暑さ寒さも感じる、でも車というのはそうした自然を感じないのである
中は鋼鉄に徒おおわれた空間だから暖房もあり寒さも感じないのである
だから風流がないのだ、風の流れを感じないのである
自転車に乗っていれば風で季節を感じるのである、それがないから快適な空間でも自然を感じない、すると風流がないから俳句とか短歌でも作りにくいとなるのだ
ただ車がだけではない、鉄道の旅も電車の旅も風は感じないのである
だから鉄道は好きでも自転車の旅に乗り換えたのである

バイクは風は感じるから、車よりは自然を感じる、でも車と同じく早すぎるから風景に自然にとけこむとはならない

春光や南へ飛ばすバイクかな

こんなふうになるから自然の中で走っているという感じになる
つまり車だと風を全く感じない、自然を遮断した空間なのである
それが快適でも自然を感じないから旅しても旅ともならないのである、ただ早く目的地に着くという旅になる、その目的地に行くことでは便利なのである
便利なもの科学技術は必ず自然に反するものをもっている
それでソーラーパネルでも風力発電も水力発電でも自然破壊があるというのも納得する
なんらか回りの環境に影響するのである

ともかく街道を旅するには歩くことが一番いいが自転車もその次にいい、その次がバイクになる、ただバイクは車とおなじスピードだから通りすぎてゆくだけになる

みちのくの街道行くや野菊かな

こんな風に道の辺の花に目をそそぐことができないのである
ただ今の時代は本当に旅すること自体演出しなければならないからかえって大変だともなる、何か歩く旅をする人がいるがそれが車の洪水の中を行くから広重のような絵にもならないのである

百輪の椿や往来六号線

この往来とは車であり人ではないのである

とにかく昔を偲ぶとしたら
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松一本茶屋に休むや秋の暮

この風景は秋なのだろうか、稲刈りは終わっている、海も見える、淋しい風景である
ここは二つの宿場の中間であり茶店がない、出茶屋である、道端で店がないがそこで茶屋となる、相の宿でもあるが建物はないのである
なぜこうなるかというとコンビニとか便利なものがない、でも旅人をもてなす需要がありここで店もないのに出茶屋になっている
これも歩いている旅人かいるからである、やはり休む場所が必要でありそこでお茶を飲んで一服することで疲れを癒してまた歩いて行くからである

花咲きておこん茶屋かな旅人の遠くへ去りぬ今はなしかも

庄野という東海道にあった茶屋である、ここに名前をつけいているのがいかにも江戸時代だとなる、江戸時代は何か下駄を作っても簪(かんざし)を作っても手作りであり名前がついている、作った人の名前がついているから人間的だとなる
庄野の白雨は広重の絵で有名である

私は雨の時も旅をした、その時御堂に雨宿りしたのである、御堂には旅人を休ませる機能があったのである、御堂は無料の宿にもなっていた、そこで寝れるからである
だから時代劇には良くでてくるのである

雨宿り御堂をたつや夏燕

こんなふうにして旅をしてきたのが自分だった
そして今は思い出す旅をしている、それがインタ−ネットでしやすいのである
何度も言っているけど思い出す旅、記憶に残る旅をしていないと回想の旅もできないのである、だから人間は便利なもの科学技術ばかりに頼っていると何も残らないとなる
つまり精神的に豊かになれないとなる、それで現代では旅人がいなくなったのである
現代はいかに早く移動するかになってしまったのである
それはかえって貧しいとなってしまうのである

広重の絵が秀作なのはそういう風景が江戸時代にあったからである
今はそういう風景がないから描きようがない、まず歩いて旅している人はいないからである、歩くことは特別なことになってしまったからである
そして田舎で車をもたないこと自体変人になっている
実際車もないのかとなり見下されるのである、そこで自転車に乗っている人は仲間になりやすいのである、自転車仲間になる、退職したトラック運転手は近間を自転車で回ることが仕事になっている、それで良く合うのである
人間回復するには歩くことだともなる、本当に人間は歩かなくなったからである
歩くこと自体貴重な経験になり歩く旅を企画するともなる
つまり現代には移動する人がいても旅人はいなくなったのである


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坂のぼる牛や茶屋にそ休む人旅の疲れを癒しまた行く

これはいつの季節かわからない、牛が坂を荷をつんで登る、人間もまた上ってきた
そして茶屋に休みまた歩いてゆくのである
まず坂を歩くのは疲れる、日本は山が多いからどうしても坂を上る、だから坂が多いから峠があるから峠の茶屋が生まれたのは自然である

2021年02月16日

忘れられる東日本大震災から十年 (でも原発事故被害は継続)


忘れられる東日本大震災から十年

(でも原発事故被害は継続)

人間は本当に忘れやすい、第一一週間前でも何が起きたか何をしたか何を考えていたかも忘れる、覚えていないのである、それでプログでもこんなことを書いたのかと自分で書いたのにこんなこと書いていたのと新たに発見する
それが十年過ぎると十年一昔であり昔のこととなってしまう
だから地元でも自分自身も被害でも関心がなくなる、テレビでも最初の家は食い入るようにしてみていたけど今はいろいろその当時の被害を言っても関心が持てなくなったのである

ただ地元だから津波の跡は家がなくなり回復していないし原発事故の避難区域には人が戻ろないし回りは田畑が回復しないから草ぼうぼうでありそれを見るから地元では復興していないと見て外の人が見るのとは違うのである
そういう現実をいつも見せられているからだ
それでも原発避難区域ではそうでも他はそういうことはない、かえって原町とか鹿島とか相馬市とか新地とかは前と変わりない、前より人口が増えて新築の家も増えた
新しい街が二つくらいできた感じなのである
だから自分の住む所で原発事故の被害は感じないのである
そして今はすべて仮設住宅は取り壊された、原町の道の駅の仮設も今年になって壊されただから仮設住宅はもうないのである

復興というとき原発避難区域になった小高とか双葉とか浪江とか富岡とかは復興していない、帰った人も一割二割とかである、小高は三割とかでいい方だとなるが街自体はさびれている、人の行き来もない、通りを歩いている人はまれである
でも通りはもともと人が歩かない時代である
でも車は通る、その車が通らないのである、だから人の行き来は相当に少ないのである
ここならひっきりなしに街中でも車が通るからである
なぜか自分の脇の道路は前はほとんど車が通らなかった
でも震災以後が車がかなり通る、だから危険にもなる
それはどうも小学校がありその送り迎えとかあり朝には混むのである
この道路をそのために学校に行く道路となりこむようになったということもある
だからここは前よりにぎわっているという感覚にもなる
そして田畑も全部ではないにしろ回復している、海岸の工事も終っている

そして原発避難区域がどうなっているのか?
若い世代は仙台市とかに出て行き帰らない、それで祖母も息子の所に行き残されたの祖父だとなる、そして一人になると祖父といっても60代では若いから女を引き入れているのが意外と多いように見るのである、一時は仙台市の方にフィリンピン女性にスナックとか店をださせてやったとか言う人もいた、それだけ補償金が入ってきたからである
補償金バブルになったからである
また飯館村の不思議は一割くらいしか帰っていない、それも老人である
でも新しい家が古い家に代わってあるので住んでいるのかと見たら住んでいないのであるそこは地元の人は別荘だと言っているという、つまり時々帰ってきて畑などで野菜を作っているともいうから不思議なのである

何かこうして家族がばらばらになりモラル的にも荒廃している、そうした廃墟のような町や村に住むというのも嫌だとなる
ただ復興していないのは南相馬市だと小高区であり原町とか鹿島は田んぼも回復したし復興している、そして南相馬市は30キロ内で補償金が三倍も違っていた
30キロ内の原町は三倍の補償金をもらい、高速も無料で医療費も十年間無料だったのである
30キロをはずれると鹿島区などは半年で医療費の補償も打ち切られてあとは補償金は一人70万もらった、これもいい方だったのである
相馬市などは一人6万で終わった、放射線量はほとんど変わらなかったのである
この差も大きかった、かならず補償金は差がでてくる、今回のコロナウィルスでもそうだったのである
でもこれも十年過ぎて打ち切りになるし国から支援金もなくなる

そこで市では相当に財政的に苦しくなる、現実に生活保護も厳しく医療費くらいもらって支給されない、最低限生活する金が支給されないのである
わずかな国民年金があるとほとんど支給されないのである
それはやはり市でも財政が苦しいからかとみるのである
本当にその人は支給されてかったら飢え死にするような状態なのに支給されないのである
また避難している浪江の人の復興住宅に住んでいる人も夜電気を消しているという
補償金を相当もらっているとしても働かないから金も枯渇してきているのか?
何かこの辺てコンビニ強盗がありその犯人か双葉の人だったというのは驚いたからである双葉となると手厚い補償金を避難解除されていないからもらっていると見たからである

ただ意外と浪費した人も多い、遊びに使った人も多いのである
人間は大金が入ると浪費しやすいのである、手にしたことかない金が入るとそうなりやすい、遺産などもそうなり安いのである、
ただ老人は相当に貧困化しているのが多い、第一まともに年金をもらっている人は少ない国民年金が4,5万の人も結構いる、その人たちはどうして生活するのだろうと思う
それで東京の老人が住むようになった団地では夜に灯が消えているというのだ
現代の貧困は見た目ではわからない、必ず月末に電気が水道、ガスが止められることでわかる、そこで待ってくれととか必死になっているのである
やがてはそうして払えないとアパートでも追い出されるとなり住むところがなくなるのである,今コロナウィルスでそういうことが起きていることでもわかる

原発避難区域に住んでいる人はほとんど老人である、それでも60代だと老人とは今はならないから何かしら働くことはできる、でもほとんど何もしていないのが実情である
そして問題はそもそも老人だけの町が成り立つのかということである
シルバータウンとなり成り立つのか?
南相馬市では介護士がいなくて施設も維持できないから青森の介護施設に入れている
立派な建物があっても働く人がいないのである
立派な学校を建てても飯館村では生徒が5人がむらの外部から通っているとなる
子供の親でも住んでいないからそうなる、小高区では原町に移り住んでいる人が多い
結局あのように荒廃した町に住みたくない、原町がいいとなる
そこの住人すら一旦あのように荒廃すると住みたくないとなるのだから外部でもいろいろ言っても無駄だともなる

私自身最初は復興してくれとなり書いたが今になると何かそれも無駄なのかとみるようになった、でも南相馬市だから小高でも復興してくれないと困る
財政的にも困るから関心はもくつづける、津波の被害への関心はなくなったが原発の被害は変わらないから関心を地元では持つ、復興してくれとなる
でもその内部でも一体として復興へ向かっていない個々ばらばらになり家族もばらばらになりモラルも荒廃している
ただモラルというとき原発事故前からそういうことはあった
すべて金になればいいとしかなかった、その欲がかぎりなく拡大してゆくのが現代であるそれで原発は積極的に誘致されたからである   

農業していた親が農業だけは継ぐなとして子供を殴ったという
その子供は原発で働いた、そして今度は親になり子供は故郷を出て行った
でも別にその子供が親不孝というのではない、なぜなら移りすんで建てた新しい家に親の部屋まで作ったからである、でも親は故郷を離れたくないとして住んでいる
つまり原発事故は家族もその住民もばらばらにしたのである
補償金はもらったとしても住民はばらばらになり家族もばらばらになったのである
飯館村でもそうである、補償金をもらって外に出る組と残る組で争ったからである

そしてそんなところに復興として道とか建物でもインフラをハードを整備しても人が住んでいないのだから無駄だという意見もわかる
そのインフラの維持にも金がかかる、その金は被害者が出すのでもないからだ
それで限界集落はつぶせと都会の人が言う、それは今は電気水道でも維持するのに金がかかるからだ、限界集落とかでも80倍の金がかかるからそれが税金になるから都会の人も払うからそういうのである  
もし自前で炭焼きのようて暮らしをしていれば都会の人も何も言わないのである

ただこれは日本の将来の現実なのかもしれない、少子高齢化で空家が800万軒になるとか日本の人口でも縮小してゆく、すると自治体タでも住民サービスができなくなるとか生活保護でも支給できないとか福祉サービス医療でもまともにできない、そして自治体崩壊も言われているからである、ただこの辺は津波原発事故で先取りして極端化した地域として現れたともなる
そしてこうした地方では原発に頼るのである、そこに大きな問題の根があった
正直地元の人では立派な家が欲しい、車が欲しい、うまいものが食べたい・・・切りなく欲望がふくらんでゆく、そのために原発が誘致された、また上級国民の天下り先として利権として原発はあったからである

そして今でも地元の人でもなぜこんなふうになったのか理解していない
そういう際限のない欲望の追求に原因があったと思わないのである
そういうことを言ったら怒る、何か原発事故の原因がなんであったのか良く反省していないのである、そういうことを地元で言えば嫌われる
だから自分は今は言いたくないのである
でもそういう原因を追究しないとまたすでに原発再稼働とかこの辺でもそうなるかこともありうる、経済的に苦しくなればそうなる、それしか救いかないともなるからだ
それは相当にに怖いことだとなる

だから不思議なのは山尾三省なのである、でも誰もパンが贅沢だというような人についていかない、それは現代では変人だからである、でも何かこの辺では共感するものがあったのだ、そういう人はこの辺でもわずかでもいたからである、部落とかでそういう人がいたのである、そういう人か原発事故で見直されたということがある
なぜなら原発事故の結果としてそういうことがリアルなものとして想像の世界ではない
現実化したからそうなったのである、つまり空想のことではなかったのである
現実に根ざしたものでありそれが原発事故でわかったからである

根本的に間違っている帰還困難区域対応

政経東北二月号

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除染費用となると7兆円かかったとか途方もないものだった、それならここで述べているように一世帯に一億円補償金を支払えばいいとなる
南相馬市なら全体で除染費用をゼネコンに回すのではなく公平に配分できたのである
そしてときたま故郷がなつかしく思って帰る人はにはそれを用意する
それが飯館村の別荘だったのである、結局それが現実的になるからだ
復興にしても余りにも莫大な金がかかりすぎてそれが地元の金でやるならいいが税金だから問題なのである、ただ飯館村は他と事情が違うのだから補償金が手厚いのはやむをえないとなる、つまり原発は距離に比例して地元にも責任があったとなるからだ
飯館村は別に原発の恩恵を受けていないからである

posted by 天華 at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

チャートは正しかった、株が上昇する時買っていれば良かった (銀行の営業に頼ってしまい失敗)


チャートは正しかった、株が上昇する時買っていれば良かった

(銀行の営業に頼ってしまい失敗)

私は株のことなど全くわからないから銀行の営業の人にまかせた、銀行員だからプロだったと思っていた、本人も東京の証券にかかわり働いていたというから詳しいと思いまかせた
それがそもそも失敗だったのである、その人は株式についてのプロではない
そもそも株は機関投資家のプロでも運営がうまくいかないのである
ギャンブル的なものがあり訳わからないのである

銀行の営業が一番気にしているのは自分のノルマを果たすことである
銀行の利益を上げることである、それが常に頭にあり客をもうけさせることではない
第一に客のことは考えていない、自分のノルマを果たすことと銀行の利益をあげることが第一なのである
でもそのことで客は損するのである

それが象徴的だったのは一旦半分まで下がったリーマンショックの時の株が元にもどしさらにこれだけ上がったことに驚く、その理由がわからない、景気はコロナウィルスで停滞しているしとても株が上がるとは思えない状況だからである
実体経済と離れているからである、だからこんなとき株が上がるとして買う人は普通いないのである

でも確かなことはその営業の人はチャートを常に見せていた
でもそのチャート通りに投資していない、それより自分のノルマと銀行の利益を優先するだからリーマンショックで半分に下がった株を元にもどしチャートで上昇しているとき
それをJ=REITに回したのである

なぜそうしたのか?

チャートでみれば上昇しているのだからそのままにしているのがいい、上昇している時は売らないからだ、ただ営業のノルマを果たすことと銀行の利益を計ることしか頭にないから転売して手数料とるとなる、自分の利益と銀行の利益が優先されるのである
だからその営業の人はチャートを常に見せるがそのチャートに従うわけではなかったのである、もしそのチャートに従っていたら損しなかったしこんなに株が上がっていたら大儲けとなっていたのである
ただ自分のは場合は不安になるから途中で売っていたともなる
たた上り調子の時は売るべきではないことは確かだったのである
それはただ営業の人と銀行の利益を優先するからそうなったのである

その後J-reitはコロナウィルスで急激に下落した、でも損しなかった

それは銀行の営業の人を信じられなくなったからだ!

そのために一月に売って損をまねがれたのである
ところが何カ月か前にその営業の人がチャートをみせて株を買わないと来た
私はコロナウィルスでとても景気が良くなるとは見えなかったら買わなかった
その営業の人も信じられなくなったからだ
つまり自分の場合自分の判断よりその営業の人に頼ったことが失敗だったのである
そうしたらその営業の人の判断ですべて決まってしまうからである
そして営業の人は自分のノルマと銀行の利益を優先するからもうかることは少ないともなる

ただチャートを見せることは正しい方法である、ただ銀行側でも営業ではそのチャートと通りにはしないのである、そこに誤算が生じる
だから銀行の営業マンよりかAIの判断の方が株ではもうけられるともなる
そうした私的なことは機械には働かないからである
銀行をもうけさせようとか自分のノルマを果たすとか機械は考慮しないでただ株の上昇を冷静に計算して答えを出すからである
ただコレかすべてに正解とはならい、常に不測の事態が起きるからAIは万能ではない
でも銀行の営業の人のように私的な都合が働かないので公平だともなる
ただ株はチャートが大事でありそれを見ていると何か間違えない方法だとなる
ただその銀行員はチャート通りにしなかったということである

銀行員の営業には頼るな!

それで判断が誤る、そしてその営業の人を恨んだりするし裁判にもなる
銀行というのが今危機になっているのはメデアとなるもの仲介するものは必要なくなっている
それでマスコミの新聞とかテレビが衰退しているという、銀行も仲介業者であり苦しくなっているという、新聞でもテレビでもまた出版でもメデアは仲介するものだからそうだという

今は別に新聞社に頼まなくても自らインタ−ネットでも発信できる
出版さえアマゾンで電子化すればできる、ただ出版社とか書店ではできない
そういう会社はメデアなのだがこれまでは力をもっていたのである
でもインタ−ネット化して衰退して新聞などは十年後に消失すると言われている

つまり今このメデアを発信する人がもつことは大きな変化なのである
このプログなとほとんど無料である、でも表現がこれだけできるものだと自分自身がかかわって理解した
自らメデアを持つことはそれだけ情報社会にとって大きなことになっていたのだ

だから既存のメデアに頼らずとも自分の創作をプログですら展開できる
それは個々人がメデアを持ったことによるのである、それでこれだけプログで書いてきたのである

投資でも最近わかったことは個々人が物を作ったり売ったりする人に直接投資する
それがインタ−ネットでしている

クラウドファンディングとは、「群衆(クラウド)」と「資金調達(ファンディング)」を組み合わせた造語で、「インターネットを介して不特定多数の人々から少額ずつ資金を調達する」ことを指しています。

資金調達といえば、一般的に金融機関からの借入や関係者・ベンチャーキャピタルによる出資などがあげられます。クラウドファンディングは、そういった資金調達にはない「手軽さ」や「拡散性の高さ」、「テストマーケティングにも使える有用性」といった点が魅力的な新たな資金調達の仕組みとして近年注目されています。

中でも、「こんなモノやサーヒ゛スを作りたい」「世の中の問題をこう解決したい」といったアイデアや想いを持つ人は誰でも“起案者”として発信でき、それに共感し「応援したい」「モノやサービスを試してみたい」と思った人は誰でも“支援者”として支援できる、双方にとっての手軽さがクラウドファンディング最大の特徴といえます。

これが新しい投資なのである、これこそ投資の原点だったともなる
そこに仲介するメデアがないからである、銀行は仲介するメデアだったとなる
みんなから金を集めそこで銀行がその金で投資して利益をだす
でもこれだと直接物を作る売る人に投資できる、これはグロ−バル経済の世界的市場でもない、何か小規模の個々人の人を支援するものである
こういうのが本来の投資だったのかもしれない、そこでは投資する人と物を作り提供する人と直接結びつくからであるこれが新時代の投資形態となりメデアー仲介業者はいらないとなるから銀行は役割を失い危機となっている
でも新しいビジネスモデルを銀行は作れるのか、それができないと銀行はなくなるという危機なのである
これもインタ−ネットで変化したことなのである

そして今銀行は福島銀行もSBI証券に合併させられその配下に入ったように大東銀行も
SBI証券が株を20パーセント近くもっているのは驚きである
だからこそSBI証券と合併してその配下に入ると雑誌で書かれたのである
銀行は新しいビジネスモデルとか投資方法を作らないと瀬う経営はできなくなっている
時代に合わず消えてゆくともなる、何か時代が変わる時それを良く理解できないのである金融でも複雑だから理解できない、自分自身も理解できない、ただインタ−ネットにかかわっていたからそれで全般的に社会をインタ−ネットがかかわり変えられていることを知った、技術の変化は進歩はそれだけ影響が大きいのである

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株主を見ると東北電力が東邦銀行の株主になっているのはいかにも東北らしいとなる
東北では一番大きな会社となるからだ
そして大東銀行の株主が東邦銀行になっている
やはり東邦銀行と大東銀行は合併しやすいとなるのか?

一番の問題はSBI証券がすでに20パーセントの株主になっていることである
だから将来的に大東銀行はSBI証券に買収されてその配下に入る
SBI証券は外資でありそき資金がアメリカに流れるとかその仲介者が竹中平蔵だともしている
ただ金融の仕組みは複雑である、カステデイ日本銀行というのはわかりにくいからである金融が常に陰謀論になるのはこうしう金がどう操作されているのかわからないからである

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クラウドファンディングの例

走行距離が短いのが問題である、でも50キロだと長いともなる、もっと長いのもある
そうういものが欲しいというときこのように直接インタ−ネットで投資して買うとなる


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posted by 天華 at 19:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年02月17日

生活保護の女性死亡で検証求める(関西 NEWS WEB) 菅首相「最終的には生活保護がある」


生活保護の女性死亡で検証求める(関西 NEWS WEB)

菅首相「最終的には生活保護がある」

去年2月、八尾市のアパートで、生活保護を受けていた57歳の女性が24歳の長男とともに死亡しているのが見つかりました。
警察によりますと、女性の死因は不詳で死後1か月が経過し、長男は栄養失調などで死亡したとみられています。

生活保護が必ずしも保障しない、最低限の生活の保障もしない、医療費しか払わないとかありまた医療費でも全額払わないとかある
自治体でも国でも生活保護は許可したくないから申請しても受け付けないようにする
これから財政が厳しくなればますます生活保護が厳しくなる
生活保護がみんな働かなくてもいいからとかうらやましがる人もいるがその内訳は一律ではない、最低限の生活が保証されていないのである
交渉力があっても受け付けないとかあり受けてもその後も最低限暮らせる支給がされていないのである
だから生活保護が最後のセーフティネットとなっていない、これからますますそうなる
菅首相がコロナウィルスで困ったら生活保護があるじゃないかと言ったが生活保護の実情を知らないからそういったのである

何か良くわからないけどアメリカだと意外と貧富の差があっても老後が保障されていたり生活保護でも手厚いと暮らした人が言っている
車も持っていて大きな家に住んでいるという、だからとても貧乏には見えないと言っていた、老後でも保証があり日本よりいいとされている 
ただこれはアメリカ国籍を持っている人であり他は日本より少ない
でもアメリカでは比較的生活保護は簡単に受けられるのか、その数が多いのに驚く

現在アメリカの生活保護者は3,500万人で掛かる費用は50兆円に及びます。 日本の3.8兆円とは比較にならないほどの膨大な額です。 アメリカの黒人の中には、155年前の奴隷解放以来、3代4代に亘って仕事をせずに生活保護だけで生活してきた連中がごろごろいます 

フードスタンプの受給者は増え、13年3月で4767万人。
総人口約3億1400万人のうちの約15%になる。
09年の3300万人から約4年で1300万人も増えた

アメリカはこのように超格差社会である、湖の数には驚くからである
5パーセントくらいの金持ちがアメリカの富の50%もっているとか
そんな社会がまともはずがない、それでいづれ破綻するとされている

それで車をもち大きな家に住んでいるということもありうるのか?
そもそもアメリカでは大きな家に住んでいるのが普通だからである
ただ黒人というとき差別されているとかあるが逆に手厚く優先的に保障されていることもある、つまりメキシコなどからの移民とは違っているからである
その辺は複雑だからイメージできない
日本とアメリカを比べてもその背景が違うから理解しにくいのである
ただ黒人暴動があったが黒人そのものにも問題がある
ただ単に差別されているというより自助がたりない面もあるのだろう
それでごろごろ生活保護で生活している人がいるとなる

「アメリカでは、債権者からの保護を求めて、破産を申し立てる高齢者がこれまでになく増えている。1991年以来、破産を申請した人の割合は世代によっては200〜300%増加している」調査報告書は指摘した。

これは日本と同じ状態にあるのか、その背景はわかりにくい、

生活保護というとその本人に問題があることも確かである、でもどうにもならない人もいる、アメリカのように老後が保障されないのは日本ではこれだけ高齢化になっているのに厳しいとなる、それだけの財政負担ができなくなっている
だからますます厳しくなる、支出を減らそうとしているからだ
だから一概に自治体が役所の人が悪いとも言いきれない、なぜなら常に生活保護を断り
支出も減らそうとしているからだ
現実にもう飢え死にする人がいても支払わないのである
それで実際は生活保護だけに頼ることは危険だとなる、そんなにんどう見ない、これからはますます見ない、見捨てるとなる

おかしなのは親でも子供がいてもその子供が親を世話しない、完全に縁が切れている
そうなると親でも子でもないとなる、でも誰かがめんどうみさせられる
それが福祉であり社会でめんどうみるとなる、だから家族とは何なのだろうとなる
家族遺棄社会というのもわかる、でもそうして捨てられた人は他人がめんどうみるのである、そうすると手間もかからない、金も払う必要がないから楽だとなる
でも誰か他人がその負担を引き受けざるをえないのである
もちろんすべてを家族が負担するのは苦しいとなる
でも家族がいても子供がいても一切何もしない、あとは誰かがしてくれとなるのもまた無責任だとなる、それなら楽である、でも誰かがその負担を強いられるのである

この親子は頼る人がいないから生活保護に頼ったけど援助してもらえなかった
そういうことは結構これから増えてくる、それはもともと生活保護は政府でも自治体でも減らそうとしている、したくないからそうなる
私は食べるものがないんですと訴えてもわずかなものしか支払われない
そうして他に家族でも頼るが家族も頼れないとなると飢え死になる
この家族はそういう家族だったとなる

日本では財政が苦しくなると福祉の支出は減らされる、でも老人が増えるし病人も増えるから余計に支出をおさえるようになる、そこで生活保護でも支払われないとなる
そして餓死する人もでてくる、そして高齢化で働けない人が増大するのだからますます深刻になる、そこで最後は餓死になる
日本が豊かなのに餓死する人がんのかとなるとそれは最後の頼りだ生活保護しかなくなっている、近隣の人が助ける訳てもない、すると生活保護に頼るがそこでも最低も保障されないから餓死するとなる

ただ昔の不作で飢饉になり餓死するということはありえない、食料も余っている
だから餓死者がでるといのうは社会の仕組みに問題があるともなる
そういう人を出さない仕組みを作れば餓死までにはならていとなる
でも生活保護はこれから意外と支給されない、すると他に頼ることができなければ餓死になる、おにぎり一個食べたいと死んだ人がいた、それは近隣でも無関心社会であり助けてないからである、いくらなんでもおにぎり一個くらいなら与えていた
昔はオカズをりとりしたとかありそういうことはできたのである
孤独死もあるが社会から孤立して死ぬ人も増えている

ただ自分の隣の人は本当に餓死したのである、家を貸していたが戦後まもなく餓死した
その人には子供がいたが子供が助けなかったのである、そして餓死したのである
その家を貸していた自分の家でどうみていたかわからない、汚れた手でわずかの銭をもってきたりした、ただ幼児の時なので事情がわからない、戦後は今と違い相当に貧乏な人が多い時代である、また生活保護も整備されていなかったのである
おにぎり一個くらいならやることができるが貧乏人とかかわるとかなり損になるからしないともなる

ただこれから飢え死にするとか何か貧困な人が日本で増えてくる、老人でも今や保証できない、そして家族からも捨てられる頼る人がいないとか餓死とかが増えてくるかもしれない、でもまだ豊かな社会だから餓死者が出るということは人間が非情になっているからだともなる、だからそれをすべて役所が悪いともならない
近隣でも完全に無関心だとなるからだ
ではそれが自分の問題になったときそういう人にかかわりたくないのは負担が大きくなるからである、おにぎり一個くらいなら与えてもいいがもし同情して助けるとなると相当な負担になる、金銭でもそうである、自分の財産でもそういう人に与えると見返りはないからてある、利益を産まない投資になるからである

今の社会は他者に無関心である、それで孤独死も増える、家族遺棄社会にもなる
家族から捨てられて餓死する人がいる、私の隣の人がそうだった、そういう人に金を貸しても返してもらえないからである
だから今は家族とは何なのだろうという根本的な疑問が生じる
それだけ負担を負いたくないのもわかるがそうして家族を捨てるとしたら家族でありえないとなる
なぜなら全く親のことに関心もなくなっているのも理解できないからである
その代りに他人が世話しているともなるからだ、生活保護は他人の世話になるということだからである
ただ正直かかわらないのは負担が大きすぎるからである
自分の時間とか金とかその負担のために奪われるともなるからである
だから近くでそういう人がいて知っていても助けないのである、無関心なのである
一旦かかわるとその負担が大きく耐えられなくなるともなるかである
それもおにぎり一個を与えるのではない、継続的に支援をせざるをえなくなる
その負担が大きいのでかかわらないのである

2021年02月18日

ABSTRACT CHINESE PAINTING


ABSTRACT CHINESE PAINTING


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私のしていることは合成写真でもある、上の画は著作権違反になる
洞穴の山水画はコピーしたものだからである
でも下の絵はその山水画を変形したものでありわからなくなる
すると創作したものになる
私の場合は絵の才能は全くない、でもパソコンでこうして創作できることが不思議だとなる

What I'm doing is also a composite photo, the above picture is a copyright violation
This is because the landscape painting of the cave is a copy.
But the picture below is a modified version of the landscape painting, so I don't understand.
Then it becomes what you created
In my case, I have no talent for painting, but it's strange that I can create in this way on a computer.

caveriver1new111.jpg

snowmmmm1111.jpg

rockhideback.jpg
sunrisemmm1.jpg

塩の道から歴史を考える (千国街道ー相馬藩(飯館村)への塩の道)


塩の道から歴史を考える

(千国街道ー相馬藩(飯館村)への塩の道)


人間は時代が変わるとその時代を生きることが実感できない、するとそこに相当な誤解が生まれる
それで冷蔵庫とか洗濯機がテレビがない時代をイメージすることがむずかしくなる
団塊の世代などは戦後十年くらいは水道もない、洗濯機も冷蔵庫もなかった
洗濯は裏の堀でしていたがそれも今になるとイメージもできなる
堀もなくなっているからである
そこで一番生活を変えたのが冷蔵庫だったということをyoutubeで聞いた
その理由は冷蔵庫がないと新鮮な食料を貯蔵できないからその日に買ったものを食べる
それはかなりの手間になる、そのために近くに店が必要だったとなる
近くの店でないといちいち貯蔵できないからそうなる
街自体もそのために小さな店が並んでいたのである
農家になると納豆とかすら自前で作っていた、自家生産していた
そして常に新鮮なものを食べていた、冷蔵庫がないから今とったものを食べていたのである

この貯蔵するということが文明を作ったともなる、魚で塩漬けで保存するといつでも食べられるとなる、だから塩漬けの技術は人間の生活を変えたのである
他にもなんらか保存するということは人間にとって文明を作る基礎技術だったともなる
例えば米は蔵にある年数保存できる、すると保存できるから貨幣の役割りにもなる
保存食となり米をもっている人は権力をもつことにもなる
災害などがあったら米があれば高く売ることもできるからだ
保存する貯蔵する、貯えるということは権力を持つことであり神殿は食料の貯蔵庫としても機能したというのはそのためだともなる
食料があればそれを配ることができるから力をもつことになる
その人に従うとなるからだ

塩というのは塩自体の効能も大きいが塩漬けで食糧を保存するということで貴重なものとなった、塩の道があり塩は山の村に運ばれた、塩は塩自体を利用して料理するが塩漬けにして保存できる、貯蔵できることで価値があった
塩なしでは人間は生活を維持できなかった、だから世界中で塩が貴重だったのである

死海などの塩湖があった地域では古代オリエント文明が栄え、ヨーロッパ文明の礎になったともいわれています。

 サラリーマンの語源はラテン語のsal(塩)といわれています。 古代ローマ時代、兵士の給料は塩(sal)だったそうで、英語のsalary(サラリー:給与)はここから由来しています。    

 金属は交換貨幣として使われる唯一の材料ではなかった。塩もしばしば基本的に個人的な重要性を持つ話題として特別に重要な日用品として述べられた。個人の収入またはローマ兵士の‘サラリー’はしばしば塩(サラリウム)で一部支払われ、そのことからサラリーと言う言葉が生まれた。

 アフリカではサハラで岩塩が産出し、イスラーム商人(ムスリム商人)の手でアフリカ内陸に運ばれ、サハラ南方のガーナ王国で産出する金と盛んに交易されていた。ニジェール川上流域の都市トンブクトゥは塩と金の交換などの交易で繁栄し、イスラーム教のモスクやマドラサが建てられた。 

 中国では、前漢時代より塩の専売が行われており、2000年にわたる皇帝支配の財政的基盤となった。『塩鉄論』のように、塩の専売制度を巡る議論は前漢から行われている。一方で、王朝による高額な専売塩より安く塩を密売して、巨額の利益を上げる者(塩賊)もおり、その中でも唐を崩壊させる黄巣の乱を起こした黄巣は有名である。

塩と黄金が対価で交換されるほど塩は貴重だったのである、それほど塩は貴重だった
黄金はあくまでも装飾として価値があったが塩は日常生活に欠かせないものとしてあっただから人間の生活にとって黄金より塩が価値があり貴重だった

塩の専売という権利は大きな権利だった、近くで塩を売る専売権をもった家があった
それで自分の家でも店を出していたので争ったことがあった
煙草も専売なのである、その専売権を得ることは大きな利権だったとなる

ともかく塩の道は相馬藩でも松川浦で塩田を作りその塩が鹿島区の栃窪を通って運ばれた栃窪の山の中を通る塩の道があったがそこは馬が通るには細い道であり危険なのである
ちょっとずれると谷底に落ちるような杣道なのである
そこでそき山中を通る時,助の観音堂がある、ここに茶屋があり泊めた
丁度この辺が相馬市の松川浦から来ると一日かかって来れる場所だったとなる
塩だけではない、魚でもは海産物が運ばれた、それは山では貴重なものだった

SOLTHISTORY.jpgュ殿様道

塩の道を行く-殿様道(歴史春秋出版)

飯樋では60人も塩の番屋で働いていた、相馬藩は塩をとることでそれが財政を助けた
また飯館村は木材資源がありそれで伊達藩との関係があり争った歴史がある
塩と木材は当時では最も大事なものだった、なぜなら木材でもそれを燃料として炭として利用していたからである

助の小屋というのがありそこで一夜を過ごしたということある
一日で運べないからそういう小屋が必要になった
とにかく塩の道は世界でもそうだが各地にある、塩がなくては生きていけないからである有名なのは長野県の塩の道である、松本城から日本海の千国街道は有名である
そこは牛で運んだのである、山道を運ぶには牛の方が適していた 
途中に牛宿がありそこで牛を休ませて人も泊まったとなる
そこで山中に牛繋ぎ石とか松本市内にもある、塩の道を回想するにはその塩の道がいい
そして上杉謙信が武田信玄に塩を贈ったというのは日本海側では塩がとれたからである
それで敵に塩を送るという諺が生まれたいてある
それだけ塩が貴重だから塩にまつわる話が伝説でも多いのである  

千国街道

黒々と牛繋ぎ石落葉踏む

秋深む山中踏み入り塩の道

馬ととも塩を運びし苦労かなゆえにともにし家族ともなる

曲がり屋でも馬小屋でも家の中にあった、つまり馬は家族の一員のようになっていた
それで馬と娘が結婚したとかの伝説が残る、それは家族の一員になっていて馬に親しんでいたからである、現代はこうしして動物との交流もなくなる、でも今は猫とか犬がペットとして家族の一員になっている
相馬地域は野馬追いがある、でもその馬は軍馬だったのである、ただ耕作にも使っていた馬と人間の関係は深いものがあった、でもそれも自動車社会になると喪失した
そこでも失われたものがある、馬とか牛と接していると情が養われで情深い人間になるいうこともある、相手は動物でも機械ではないからである

その情が動物に通じるからである、それで名前で呼ぶ、飯館村では牛を飼う村だったが
原発事故で避難して十頭の牛に名前をつけていた、それをみんな覚えていたのである
何かこうして人間の生活が変わると時代が変わると失われるものがある
それは人間の心にも影響してくる、何か現代人がかえって便利な生活しても殺伐としている、それは情を失ったからである、この情は機械にはないからである
何でも機械化ロボット化コンピュター化すると情がなくなるのである
駅でも無人化するとそこに情がないものとなる
だから時代が変わると人間の心に影響する、そこに失われたものがある
つまり機械化とかコンピュター化でもそこに必ず失われたものが生まれて来るのである

子供の家から機械ばかりに接していると子供からも情が失われる、それが大人になったとき情のない人間になる、何か戦前とかは貧乏でも情が深い人がいた
それはそういう環境にあったからだとなる、だからその時代がわからなくなる
ただ不便なものとして遅れた社会としてみる
でも時代が変わり失ったものがあることを知るべきである、それは人間にとって最も大事なものだったともなる、機械に囲まれて病院に治療するがそこに情が欠けているのである人間も物体のように扱われる、確かに医療は進歩しても殺伐としているともなる
人間はそこで死んでゆくにしても物体のように扱われるとなるから家で死にたいとなるのである
私も病気で二回入院したりした、でも病院は嫌なのである、そこに情が欠けているということがあるからだ、これは今やどこでも全般的にそうである
情がなくなった世界では便利でも効率的でも科学技術の恩恵を受けても何か情がないからどこでも殺伐として社会になっているのである



posted by 天華 at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2021年02月20日

春の風、春北風(はるきた)春の雲ー震災から十年過ぎる


春の風、春北風(はるきた)春の雲ー震災から十年過ぎる


冬芒根ずき離れず故郷に

寒もどるともに耐えなむふるさとに

春寒しなぐさめあわむ老二人

津波跡十年過ぎて春の雲

春北風(はるきた)に向かいて走る苦ならじも

春風に揺すらる樹々や走るかな


津波と原発から十年過ぎる、やはり十年一昔になる、それで感覚的に自然の見方も変わってくる、最近まででも津波の恐ろしさは消えなかった
海は本当に怖いものだった、それも想像を越えて怖いものとして印象付けられた
今でもそうである、でも十年すぎてやっと何か春の雲が浮かんで平和だとみる

それで十年ということでテレビでもいろいろ企画して被害を言うかそれに関心がもてなくなった、地元でもそうだとすると外部からでも余計にそうである
今やコロナウィルス一色になり津浪や原発の被害が忘れらさてゆく
私のプログのアクセスも半分くらい減った、そのアクセスは津波と原発関係だったことがわかった、つまり外部の関心も減ってしまったからである
ただ原発の被害は避難区域ではつづいている、人は帰らないし回りが草ぼうぼうだからである、それで復興したということはない、ただそれ以外は地元でも復興しているのである
今日は風がいているけどあたたく春になっている
それで原町とか回ってきた、ただ風が強いのですぐに帰ってきた
その風でも春北風(はるきた)であり北風とは違うから楽である
ようやく春になってきたと思う

寒戻るでありストーブから離れられなかった、男女一組でロードで走る人がいた
原町の人だった、原町ではロードに乗る人に良く出会う、原町はそういう仲間がいる
この前は70近くの人がロードに乗って飯館村まで行っていた
ロードとなると老人には向いていない、その人はずっと乗っていたからできるのである

ただ自転車は老人にも向いている、まず登山はきつい、途中て休むにしても自転車のようには休めない、自転車だと途中で休んで飲み食いもできる、店でできる
それで北海道に行った時は一日休んでは進んだ、時間をかければ老人でも行けるのであるだから趣味としてはいい、老人になってもできるからである  

天災は忘れた頃にやってくる、、、先日の地震が大地震を思い出させた
それも十年目だった、忘れつつあるとき思い出させたのである
だから怖かった、それだけまだ記憶から消えるとはなっていないからである

2021年02月21日

文系大学学部廃止論はなぜ (原発事故でもコロナウィルスでも文系と理系の対立)


文系大学学部廃止論はなぜ

(原発事故でもコロナウィルスでも文系と理系の対立)


コロナ禍で加速する「理系専門家の教祖化」にダマされてはいけない
https://news.yahoo.co.jp/articles/ffec6ff44a23a7b952ea6d33e3017bce6c47602b


原発事故でもそうだった、放射線量が常に言われた、それは数字なのである
それで武田邦彦氏が年間一ミリシーベルを主張したとき一ミリシーベル男として批判された、つまりすべてが数字で計られる世界が理系である、だから数学がその基礎にある
コロナウィルスではやはり感染者数が毎日発表されてその数字に一喜一哀する
これは共通している、感染者数とかですべてが判断される世界では共通している
でもその数字がごまかされていることもあった
モニタリングポストの放射線量は低くされていた、その下の土を掘って捨てて設置されていた、だからその周りを計ると倍とかなっていた
それは自分で計ったからわかった、自分は文系だけど放射線量を計る機械があり理系でなくても計ることができたのである

文明が生まれたのは数量化すること数値化することである、それで麦の生産高を計る書記が神の様な力をもつようになった、それは官僚が今ではそうである
国の仕事は税金をとりそれを配分することである、それで財務省が一番力をもっている
学者でも予算を出すのはその財務省なのである
その研究が有効なのか価値があるのかを判定するのは研究者ではなく政府てあり官僚なのである
だから科学者が力をもっているようでも実際はその上に政府とか官僚とかがいる
するとその人たちは文系が比較的多い、すると理系より文系が上になるのかとなる

何か似ているのはいろいろな物つくりとか何か作り出すものが理系だとする
でもその理系が経営者として適しているかというと必ずしも適していない
経営者となると社会全体を相手にするし人を雇いモチベーションを与えるとか何かモラルとかとも関係して来る
経営者になるとまた人間そのものも問題にされる、人を使うことは機械やロボットを使うのと違うから複雑になる、それで会社でも必ず派閥争いがある
それは政治の世界でもそうである、つまり何か泥臭い人間の世界である
物を分析したり機械をロボットを作ったりするのとは違った生々しい人間の戦いがある

その人は理系である、一級の免許も持っている、でも技術者として雇われるているときは問題なかった、優秀とされた
でも経営者になったとき事業に失敗した、経営者になることは機械とかばかりに接しているのとも違う、様々な人と交渉したり営業をすることにもなる
それはまた商売にもなる、でもその人は営業とか商売の面で失敗したとなる
それは技術者というだけではない、人間相手でありそれでうまくいかなくなった
他の人でも社長になった人が仲間に裏切られて事業に失敗して原発事故の作業員としてここに来た、そういう人が事業に失敗したような人が原発事故以後かなり来ていたのである経営者になるとそうして人をまとめるということもしないとうまくいかない
利益配分などでももめる、それは戦国時代の殿様とかにもあてはまる
人を指導するとかなると機械だけに接しているのとは相当に違った世界だからである
それで経営者は文系も多いとなるし政治家でも文系が多い

何かどうしても上に立つ人でもただ自分の利益と出世とか地位とかばかり求める人に人はついてゆくのか?それが疑問なのである
その人は経営者だけど他人のために荷物一つを持つことも嫌がっていた
その人はただ経営者となり社長となり偉いとして世間に示すことで経営をはじめたともなる、自分は技術者として優秀だからはじめたが経営者になることは違ったものだった
経営者とは社会のためになることを必要なことを見出して援助することにもなる
そういう謙虚な心も必要である、経営者の人間性も問われる
あんな社長とは一緒にやっていられないというときそうである
その人間性まで問われているのである
雇い人を奴隷のように思っている人がはたして経営者になれるのかとなる
ただそういうことを実行すると雇う人が雇われる人と変わりなくなる
自分自身がそうなったことでもわかる、雇われる人が次々に要求して来る
そうなると自分自身が雇われるていると同じになる

そもそもなぜシャカであれキリストであれ社会の指導者になったのか?

その人は何か理系の専門家だったのか、その人たちがなぜ社会を導くものとしてありえたのか、それはモラルの模範としてあったからだとなる
何か理系として技術者として優れていたからではない、モラルの模範としてありそれが社会を導くものとして歴史的に重要なものとしたのである
モーゼの十戒とかでもそうである、それは法律にもなった
だから法学部とかが検察とか他でも上に立つのが現代だとなる
社会の規範として重んじられたのである

江戸時代はその模範となっていたのが侍だったとしている
でも侍は貧乏だった、庶民と変わらず貧乏だったのである、でも敬われていたのはモラルを示す模範としてあったからである
モラルの模範となる人は自己の欲ばかり追及する人では困るのである
それでシャカは洞窟で悟りを開き何ももっていない、家も家族もなかったのである
キリストも同じである、枕することなしであり寝る場所すらなかったのである
でもそういう人を社会の模範としたのは人間にとってモラルが一番大事だからそうなったそれでヨ−ロッパの大学では神学部と法学部と医学部しかなかった
そこから大学がはじまった、神学部はまさに宗教でありモラルである
法学部もモラルと深く関係している、医学部は今の理系だとなる

原発事故がなぜ起きたかを追求して来たけどそこにもモラルが関係していた
そもそも嘘ついていたからである、「安全神話」などありえないのに権力によって作られたからだ、嘘ついていたということである
もしそれでも安全のために尽力していたらいいとなるが安全のためのコストを省くために安全神話を作った、事故が起こらないとなれば安全のために努力する必要もないからだ
現実にはコストをかけないためにそうしたのである

一旦高い場所に作るのもわざわざ削って低くして作った

十数メートルの津波が来ると科学者が警告していたのに備えなかった

それはコストがかかるからしなかったのである、もしそういう安全の備えをしていたら
責められない、でもただ「安全神話」を作り肝心の安全計ることはせずコストを減らして利益をあげるためにそうしていたのである
不可抗力だとするが津波でも備えなかった、それは金がかかるからしなかったのである
そういう備えもしないのにただ「安全神話」のみ主張されたのである
そして一挙に崩壊したのである
日本のように地震が頻発するような国土に必要なのかとかも議論されない
アメリカでは西海岸には最初原発は作らなかった、地震があり東の方に作っていたのである、アメリカには竜巻がありそれで電源を地下に設置した
それを日本でまねたのも日本がの風土を地震や津波を考慮しなかったからである
でも科学者が十数年後に津波か来ると警告していた、でもまもらなかったのである
それは一見技術的問題のようにで理系の技術者の問題のようで根本的にモラルの問題だった、嘘をつくなという簡単なことを守れ無かったのである
それが御用学者は百万年に一回くらいしか起こる確率がないと言っていたのもそうである専門家がコロナウィルスでも40万人が死ぬとか科学的合理的でない判断をする

核の問題でもそもそも核が人間に必要なのもかどうか?
それが議論されただろうか、そんな危険なものそのものを作るべきではないということも主張されても良かった、でも科学技術は何であれ是認されるのである
そんな危険なものを作ってそれが武器になったらどうするのか
それが広島長崎の原爆となり現実化したからである

そして武田邦彦氏が言うには機械とか物質の研究ばかりしている人は頭が冷たくなるという、それもやはり本人が理系の研究者であり学者だからそう感じたからだろう
つまり人間の情を失うから頭が冷たくなるとなる、もし感情が豊かで愛とか情愛でもそうはならない、心が良心にはじなければそうはならないのである
そして現代は知、情、意があるとき知が巨大化して頭でっかちになり情が喪失した時代である、機械マニアのような人もは必要である
ただそうなると情を失う冷たい人間になる、人間を人間とみない、物体とみて医者なら研究材料にさえみる、現実にそういうことがあったからだ
それで昔せ馬で曲がり屋とかで家の中で飼って一緒に暮らしていた
動物と接することは情が育まれる、機械と違って動物には情が通じるからである
だからペットブームにもなる、現代の社会が情が枯渇しているからそうなったのである

機械化ロボット化数字化がグロ−バルになる、無人駅も増える、何でも機械化ロボット化数字化数値化して計られる、そこにはもう生きた血の通う人間はいなくなる
病院でも機械に囲まれロボットに囲まれて情なき世界で死んでゆく
一つの物体数字として処理される、非人間的世界である、そういう社会がナチスを産んだというのもわかる、人間が人間ともならない、ただ大衆であり群衆であり数字となる

病院で議員すら番号で呼ばれたということに怒ったというのもわかる
つまり人間はもう数字であり番号なのである、選挙なども非人間的なものでありただ数として人間を処理しているだけである、数がどれだけ集めるかが問題になるだけである
それは規模が大きくなりすぎたからそうなる、ギリシャのボリスはせいぜい一万であり
直接投票である、その規模があまりにも違っているのである
だからもう選挙自体機能していないのである

ロボットに機械には情がもてない!

これが致命的なのである、ロボットには感情がもてない、
感情がもてないというとき限りなく悪魔のようにも人間の大量殺戮にもなる
またロボットには愛情ももてないし良心もてないし善悪もない、だからロボットがAIにでも支配されると
冷酷に人間を殺戮することにもなる、そこで良心の呵責とかも感じないからである
そういう恐ろしいSFのような世界が生まれるかもしれない、そして人類は滅亡するとかもありうるのである、科学技術にはそうした恐ろしい危険なものも潜んでいるのである

不思議なのは認知症の人が人間でなくなったのが知能が低下して馬鹿になって人間でなくなったのか?
そのことを介護して考えた、でも感情はある、悲しいかうれしいとか感じる、そして愛も感じる
介護する人が冷たい人とかも感じる、だから感情的なものは通じている、すると知的に低下したが感情は正常であるから人間だとも見るようになょた、そして最後はそのことをわかっていて感謝して死んだのである

明治以降富国強兵で武器を作るために理系が優遇されて研究所ができて国の予算がを与えられた、戦後は高度成長時代になりやはり理系中心主義となった
グロ−バル化で技術競争に勝たねば日本は凋落するということでそうなった
それで文系大学廃止論がでてきたのである
戦争でも理系の学生は学徒動員されなかった、それと同じように文系廃止論がでている
確かに文系は遊びだというのも本当である、別に大学に行かなくても文系だったら勉強できるからである、だからそこに金を投入するのは無駄だとなる

でもコンピュターとかインタ−ネットにITに技術が変化した、これは何か今までのバードな機械とは違うのである、人間の知的なもの頭脳とか関係してくる今までにない技術である、機械翻訳でもそうなように人間の知的な頭脳的なものをアシストして人間の頭脳の代わりをしてくれるのである、こういうものは今までありえないものだった
それでAIの開発が進むと本当に人間の頭脳にもなる、それも人間より優秀なものともなる膨大な情報処理ができるからだ、それで将棋でも膨大な譜面を記憶して対抗できるから
プロの棋士に勝ったのである、でもAIが万能というと万能にはならない
その癖を読み取り弱点を見出して引き分けにしたという、つまり人間の知で対抗できたともなる

ITの世界はハードな物つくりとかの世界とは違う、人間の頭脳とも心とも関係して来る
だからこれは必ずしも理系のものではない、物つくりは機械は理系のものである
でもコンピュターとかインタ−ネットは理系だけのものではない、プログラムを作るのはそうかもしれないがそれを利用するのは文系とも深く関係している
それで私自身がインタ−ネットでまたソフトで膨大な写真とかを変形して作っている抽象画がそうなのである、全然絵の才能がないのに創作しているという不思議である
またコンピュターを使って小説まで作ったというのもそうである

なぜそれができるのかというと膨大な情報にアクセスしてそれを組み立てると創作品になるからだ、私自身が抽象画を作っているのとも似ている
知識でももう天文学のような知識にグロ−バルに拡大した
するとその膨大な知識から結びつけるとか編集するとかするとそれがまた独自の創作品のようになるのである
ただコンピュターが俳句とか短歌を作れないということはやはりコンピュターの限界だとなる
何か科学技術には無限の可能性があり宗教にもなったのが現代である
ただそうみせかけるのでありそうはならないのである、むしろどこかで原発事故とかなにか大きな挫折がくる
それが核戦争のように人類絶滅ともなりうる恐ろしいものである、そういう警告もあり科学技術万能理系のみ必要だというのは問題がある

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posted by 天華 at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年02月22日

春の日に鹿島区の古墳、新田川ユッサから大原による


春の日に鹿島区の古墳、新田川ユッサから大原による

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ふるさとの古墳に根付く木冬深む

家の脇古墳いくつか春の山


春日さし石あたたかや五つほど

春日さし寄り合う人や石五つ

石五つ変わらずここに春の暮

春日さし老いゆくものや石五つ

春の雲ぽっかり浮きて昼の月

ふるさとの小径を行きて梅にほふ


広き庭いぬふぐり咲くも廃屋や遊ぶ子もなくさみしかりけり

大原に春田やあわれ知る人のここに眠るも残る廃屋

大原の暮らしを語る人のあれ廃屋淋し春の日暮れぬ


鹿島区は古墳の町とされる、古墳がやたらと多いのである
原町区は大きな桜井古墳だからそこがこの辺の中心だった
そこに二人が葬られた棺があるというときそれは同時代に葬られたのではない
二人の天皇が葬られた古墳があり時代的にずれている、時間差があって葬られたのである桜井古墳は大古墳だが鹿島区は小古墳がやたら多いから古墳の町とされる
その古墳に木がねづいているのも古墳の町らしいとはなる
歴史が継続しているという感覚になる、祖先がそこにいて継続しているという感覚にもなる
歴史は継続である、それが原発事故でふるさとの歴史は断たれる危機になった
他に移れば歴史の継続はなるなる、他ではまた一から歴史を作ることになるからだ
つまり移り住んだ人たちはこことは別な歴史を作ってゆくことになりここではその歴史の継続はなくなるのである、墓すらやがて子どもたちが移動した場所に移るからである

新田川ユッサによった、あそこの庭は貧弱でも一応庭である、庭に関心がある
石が好きであある、だから日本庭園のいいものを見たい感じたいとなるがこの辺にはない博物館でも庭がうまく作れていないのである
日本庭園がある旅館に泊まりたいともなるがそこは相当に高くなる
ただ泊まらないにしろいい庭を見たいとなるが見れないのである

ただあそこで風呂に入り休む場所としてはいい、石が五つというときそれは人間でもあるそしてそこに変わらず同じ場所にあるというとき落ち着くのである
というのは余りにもこの辺は変わりすぎたからである
それから年取ると変わることが苦手になる、変化に弱くなる
それで変わらない方がいいとなる、いつも親しい人が同じ人がいた方がいいともなる
それで心の安定がある、石五つつくらいありそれが仲間だともなる
ぽっかり春の雲が浮き昼の月もでていた

何か廃屋がある、その庭は広い、いぬふぐりも咲いたが人がいないので淋しい
そこで遊ぶ子でもいれば活きてくるがいないからそこが死んだ空間になる
何かそういう廃屋が増えてくる、日本で800万軒が廃屋化するというからそれは全国的なものである、第一原発避難区域になったところは廃屋だらけだからである
そこに残されたのは老人だけである、つまり極端な現象として限界集落になったのであるだからそういう老人を誰が世話するのだろうとなる、なぜなら子供の世代の人たちは補償金をもらって仙台市とか隣の市とかに移住して帰らないからである

大原の前田とうところに住んでいた人と南相馬市立病院に入院していてあった
その人は猫を飼っていてその猫を心配していたのである
子どもの世代は原町市街に移って住んでいて家だけがあった
そして死んで家は残ったが誰も住んでいないのである
墓も大原にありそこに眠っている、何か農村でも山村でも空洞化した
それは原発事故で余計にそうなったのである
春になれば春田になるのがでもそこで農業を受け継いで暮らす人は減った
だから子供は農業を受け継がないのである





2021年02月23日

読めない株の変化ー経済は壊れている (自分で判断できる人が株をやるべき)


読めない株の変化ー経済は壊れている

(自分で判断できる人が株をやるべき)

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なぜ自分自身が株をしておかしくなったのか?

それは銀行の仲介者に営業の人に頼ったからだ

株も投資信託もわからないが地銀の営業の人にまかせた、まためんどうだし時間もないからそうした、それでもともと株は複雑なものでありまたその営業の人を頼った結果としてさらに複雑になり混乱した

最初石油があがるからカナダ国債を買った
実際その頃石油が上がっていて石油がとれる国の株は高くなるとふんでいたのである
でもこれも
急激に石油が急降下したように下がったのである
つまり石油が下がるということを見込めなかった
営業の人は適当にカナダ国債をすすめただけだったのである

次にUS-reitを買った、それがトランプ大統領になったとき急激に円安になりもうかった
その時すぐに売ったからである
でも為替差益がありこれが怖いと言うので日本のJ-REITを買った
これは安全志向でそうなった

でも一番の問題はその時、もっていたリーマンショックで半分になった株が上がって来たのに銀行の営業の人が売ってJ=REITに回したことである
これは一番の失敗だった、その時上がっているのに売ることに疑問だったが説明もなく売ったのである
それ以来銀行の営業の人を信じられなくなった
つまりなぜそうしして銀行では転売するのかというと売ったり買ったりして手数料が入るからである、その手数料金も額が多いと大きなものになる
こうして私の場合は株自体よりそれを仲介した銀行の営業の人に左右されて失敗したとなる

結局株自体複雑で予想できないものでありそれが銀行の仲介が入って余計複雑になり失敗したとなる
だから株はとにかく自分でもうけるにしろ損するにしろ自分で判断できる人がやるべきだとなる、それができる人がやるべきだとなる
だから若い時から株で少額でもいいから訓練していることである
でもまたその時間もかかるからめんどうだからまかせることになる
そこに落とし穴があった、これだけ変化するとなるともはうついていけないのである
さまざまな条件で株は変わるからである、最近その変わり方が激しいのである
確かなことは地銀とかは株の専門家ではない素人と同じである
支店長でも株のことは知らないと言っていたからである

では銀行の営業の人がすべて悪いものかとなるとそうでもない

なぜなら数か月前に株のチャートを見せて上がった時、買わないかと言われた
でもコロナウィルスとかいろいろありその営業の人を信用できなくなったし買わなかったそしてJ-REITを去年の一月に売った、それからコロナウィルスが増えてJ-reitは急激に下がったのである
その判断をしたのは銀行の営業の人が信じられなくなったからである
でも実際は別にその営業の人が悪いというのでもない、そもそも株は自己責任の世界だからである、でもその自己責任になるにしても仲介が入るとその仲介になる人が責任者にもなる、だからその責任を問うことになる、ただ銀行では一切責任はとらない
まず銀行の利益を優先するから転売をしたり銀行の都合で売買するのである

でも素人でもわかるのはチャートである、上り調子の時はやはり上がってゆく
そういう時売るべきではない、だからリーマンショックの株が元にもどして上がった時売るべきではなかったのである
ここから営業の人を信用できなくなったのである
それは株を冷静に見て判断したのではない、銀行のもうけのためにそうしただけだからである
だから自分で判断できない人は株はするべきではないともなる
結局自分の判断なら自分の責任だからである
そこに仲介者が入るとどうしても仲介者が責任にもなる
でも一切銀行では責任はとらないから頼るべきではないとなる

そして株でもうけるには長期的にみろということである、リーマンショックから8年すぎたくらいで元にもどりこんなに上がるとは思わなかったからである
倍にもあがりそのまま株をもっていたら大儲けしていたのである
株でも十年単位くらいで見ているともうかりやすいことである
そうなると若い時から株はしていた方が良いとなる、老人なると株は向いていないのである、つまり先がないから向いていないのである、十年後となると死んでいるかもしれないからである

でも昨今貯金は資産として危険であるということが常に言われる、でも老人は投資する
株でもうけようとすることは危険である
だからといって貯金でももっていても今は不安になる
いろいろ投資があっても理解できないしわからないから貯金しているほかないとなる
そもそもなぜコロナウィルスでこれほど騒いで苦しんでいる人がいるのに株が上がるということがどうしても理解できないからである
その理由は金が余っている、資本主義とは常に投資が必要である、投資先があって発展する、これまではグロ−バル経済が遅れた国でも中国のように巨大な投資先があると発展する、それも行き詰まると投資先がなくなり金が世界的に余ってくる
その金がバブルになる、資本主義はそうしてバブルが崩壊して恐慌になる歴史がある
つまり今は余っただぶついた金が株に回っている、株バブルである
何か特別成長している会社があって投資されているわけではない、政府でもコロナウィルスでも金をつぎこんでいる、それで景気と関係なく金が株に回っているだけだとなる
だから株が暴落すると言われるのである

いづれにしろアメリカは衰退する、金をもつことも巨大なカルマとなる
その金は世界から集めたものであり独占したものである
それを国際金融資本家が一手に集めるとかなる、つまりその金には世界の人々の労苦の賜物なのだがそれが極わずかの人によって独占されている
アメリカの富は数パーセントの人が50パーセントももっているというときそうである
それが巨大なカルマとなってアメリカ自体が衰退してゆくのである
一見金をもつことはいいように見える
ところがその金がカルマとなり悪く作用することがあるのだ
それは自分自身が経験している、なんで金のことでいろいろな問題が生まれ苦しんだからである、たいした金ではないにしろ金をめぐって争うことになる
遺産争いもありまた原発事故では補償金をめぐってこの辺はもめて分断された
それも金が悪く作用したからなのである
つまりアメリカは巨大なカルマを背負って自滅してゆくともなる
中国も同じである、中国の歴代王朝がつぶれたのも必ず貧困に苦しみ格差社会となり農民が主体となり反乱して王朝は倒された歴史がある
つまりやはたここでも大きな格差が生まれそれがカルマとなって王朝が倒れるのである
中国共産党もその歴代の王朝と同じであり倒れる危機になっている
それで社会は70年くらい過ぎると社会に歪が生まれ制度疲労が生まれ時の政権でも倒れる、そういう時期が今なのである

常識的にコロナウィルスでみんな苦しんでいる時なぜ株が上がってもうけているのか?
このこと自体経済が歪んでいる、経済の意味は

「経世済民(けいせいさいみん)」という言葉を聞いたことがある方もいるのではないでしょうか? これは、6世紀ー10世紀頃にいくつか残された中国の古典に記載のある語句で、「世を経めて(治めて)民の苦しみを済う(救う)」という意味があります。

これが経済の意味であるけどそうなっていない、株はそれを反映していない
苦しむ人がいて株で大儲けして笑っている人がいるというのはまさにもう経済そのものが壊れているとなる、だからこそ何か大きな破綻が株の暴落が起きて恐慌が再現されるともなる、そしてその巨大なカルマは苦しとなって現象化するのである
それは個々人でも同じであり社会でも世界情勢でもカルマがかかわっているのである
つまりカルマにより大きな苦しみを受けるのである     

中国・習近平が恐れている、米中貿易戦争より「ヤバすぎる現実」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59597

posted by 天華 at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題