2021新年−丑の年(俳句連作)
(水牛の歩みー詩)
中国で買ったハンコ
あきらめず一すじ貫く丑の年
何事も成果急がず丑の年
丑の年動かぬ石の悟りかな
丑の年年を重ねて実りかな
内よりの力に充ちむ丑の年
丑の年大器晩成事成りぬ
70半ば生きる力や丑の年
大木の根付き動かず丑の年
老いてなおともに生き丑の年
母の愛なおも深きや丑の年
子を思うなほ母あわれ丑の年
丑の年一歩一歩の歩みかな
何事も短気は損や丑の年
交わりは長くもあらむ丑の年
あせらずに時を待たなむ丑の年
災いも耐えれば過ぎむ丑の年
水牛の歩み
水牛は重荷追うても
そのことは言わぬ
ただ黙々と歩む
その蹄は大地に食い入り
一歩一歩歩む
暑い日ざしの中を
白砂の眩しい珊瑚の石垣の道
沖縄の屋根低い家
水牛はただ黙々と歩む
そのずっしりとした体に
重荷を受けとめ黙々と歩む
人は騒ぎすぎる
人は解決を急ぎすぎる
人は不満が多すぎる
人はすぐに争いすぎる
人は性急に判断しすぎる
人は待つことを好まぬ
人は早い成功を求めすぎる
人は結果を求めすぎる
人は小さいことにこだわる
人は・・・・・・・
人は・・・・・・・・
水牛の重い体躯は無言の内にたしなめる
一歩一歩水牛は己の道を歩む
そこに惑いはない
地球という悠久の時のなかに
水牛はあせることなく一歩一歩歩む
その力はその角にみなぎり
その瞳は優しく童がその背にのる
水牛は悠々たる大いなるガンジスの流れに
その重い体躯を洗い川にとけこむ
水牛は地球の歳月の長きがごとく
ただ黙々と一歩一歩歩みつづける
丑の年でアクセスがあった、牛の詩では高村光太郎の牛の詩が秀逸でありみんな読んでいる、牛と大地と一体化している、牛の性質に学ぶのは忍耐である
牛の歩みはのろいけど着実に進み成果をもたらす
何か牛年はそういう年になるのかもしれない、牛の年ということは牛はまた反芻する動物である、咀嚼して反芻する、それは良書を何回も読んで深く鑑賞することなどに通じているそこに必ず新たに発見するものがある、古典になればそうである
この自作の詩を高村光太郎が作ったと誤解していた人がいた
インタ−ネットだと何かそういうことがある
今年は牛にふさわしい年になるかもしれない、これまでは馬の年とかであった、またネズミの年のようでもあった、とにかく外へ外へグロ−バルに移動する
それがコロナウィルスで止められたからである
つまり牛の年は外へ外へグロ−バルに広がるのではなく内面化する世界になる
時代的にもそうなる、コロナウィルスで外に出れないから巣ごもりだとか家で快適に過ごすとかでもライフスタイルが変わるのでもそうである
とにかく戦後70年で時代も大きく変わる、牛の特徴は寡黙であり着実に進むということである、また牛は老年にふさわしいともなる、なぜなら若い時は馬だからである
遠くへ遠くへと疾走する、でも牛はそうではない、その住んでいる場所に定着して深耕する、木のように深く大地に根を張る、牛はまた動かない石でもある
定着して深く掘り下げる、そして反芻するのである
それは老人に向いているのだ、世界はグロ−バル化して交わったがコロナウィルスでそれが止められた、それも時代の変化である
中世のように内面化する時代になったのである
そして経済でもグロ−バル化というのは行き詰まっているし金融資本主義とかで国際資本家に富が吸い上げられているとかなる、グロ−バル化の負の面が暗黒の面が増大してもう正当な活動ができなくなっている
それは物質の世界と精神の世界の乖離である、これは大都会でも起きている
精神の物質の融合というとき物質に精神性を付与するのが人間である
木でも石でも山でもそこに人間の心と精神と一体化するのである
そういう作業を自分は引きこもりなり故郷でしてきたのである
その詩をまとめて発表したいとなる
それから本当に小川未明の童話の牛女というのも不思議である
そういう女性が本当にいたのである、その女性は50歳の障害者をかかえていても心配しているのである、体つきもまさに牛なのである
体が太っているし頑丈に見えるからである
だから牛女という童話は小川未明が実際にそういう女性がいて作られたのである
今年はコロナウィルス騒ぎがつづくのか、落ち着くのか?
やはり時代が大きく変わり丑年がその契機になるのかもしれない、外へ外へ向かう力が内へ向かうものとして内面化する時代である、それは中世時代への回帰だともなる
日本なら国風文化の再生ともなる、日本は西洋文明でも技術的な面で取り入れても精神的に内面化していないからである
つまり科学技術と物質の世界を取り入れても精神的に内面的には取り入れて成熟させていないからである
だから牛の年はそういう内面化する精神の世界を熟成させるはじまりの時代だともなる
熟成させるというときそれは老人に向いているのである
今まで蓄積したものを深く理解して表現するということである
深耕易耨
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雨讀頻枕書,天霽出門口。流汗努深耕,易耨。
雨讀 頻りに書を枕にし,
天霽れれば門口を出づ。
汗流し努めん深く耕やし,
易耨(草を刈る)に。
この漢詩は何か本を読む、本を深く理解することに通じている
本の内容を深く理解しなかった、深く耕さなかったともなる、深く耕さないと理解も深まらないのである
今年もプログでさらに励みますのでよろしくお願いします
課題としてこれまで創作したもの、詩などをまとめること、本にしたいと思っています
高村光太郎の牛の詩について
牛女―小川未明