2020年11月24日

津浪は時間軸で見ない結果被害が大きくなった (人間は時間軸で積み上げるもの歴史が大事)


津浪は時間軸で見ない結果被害が大きくなった

(人間は時間軸で積み上げるもの歴史が大事)


空間軸と時間軸でこの世界は構成されている、時間軸で見ることが人間は苦手である
例えば磯部は津波で村自体が消失するような大被害だった、220人くらい死んだから多かった、他でも村自体が消失するような被害があった

ではなぜそうなったのか?

それは磯部とは松川浦の砂州に家が密集したのである、もともとは砂州であった
つまり時間軸で見ればそこは砂州だったのである
おそらく田んぼにする後ろの地域には家が建てられなかった、場所をとるから海岸の砂州に家を密集させた
日本がでは土地が狭いから危険な場所でも家を建てざるをえないのである

そもそも八沢浦でも明治以降に職を失った侍は開拓した場所だった、そこは海だったのである、入江だったのである、だから津波で本当に江戸時代の入江にもどったことに驚嘆した、こんなことがありえるのかという驚きである
比較的家が少ないからごちゃごちゃしたものではなく入江となったのである

ただここでも湊村が40軒ほど海岸線にあった消失した
これも別に漁業するのではないから海岸線に家が集中したのか解せない
海老村が古いからその延長としてそこから移り住んだとなるのか?
たた八沢浦ではそこが一番被害があった、後は被害があっても家が集中した場所はなく
散在していた、だからそれほどに被害がなかったのである

そして大失敗だったのは海老の断崖の上が高いとして津波の避難場所に市で指定していたそこに避難して30名が死んだのである
すぐ近くの百メートルも50メートルでも歩いて逃げれば助かる場所があった
そこを避難場所として指定したのは時間軸でのその土地をのことを見なかったということにあった
第一津波の記憶となるとないに等しいかったからである
津波の記録がこの辺では抜け落ちていたのである
それで津波の後に「生波(いくなみ)で700人溺死という記録が相馬藩政期で発見したのである

つまり時間軸でもの歴史の記録が抜け落ちていたのである、では何か記録できないかというとそうでもない、とにかく戦(いくさ)のことは事細かく記されているからだ
その時の関心は戦国時代であり相馬氏がこの一体を支配することが優先課題だったからである
だから700人溺死としか記されないのは記すのは相馬氏の役人でありそれが戦争の記録より重要ではないということで二行しか記されなかったのである
庶民には記録として残す力もなかったとなる、何か碑を建てるにしても金がかかるからである、それだけの被害があったとき何か記録として残す財力も知力もなかったということである

時間軸でみるというとき地史になると億の年月をみる、それだけ長い年月で地球は変化する、そうなるとその時間軸で見るのはさらに困難になる
でももともとそこがどういう地形なのか知ることから時間軸で見ることになる
それは今回の津浪で海だった所は海に戻ったとういことでもわかる
塩崎の方が低いから船着辺りまで海になった、そこは古代に本当に船が着く場所だったのである、だから地名というのはそれだけ化石のように古いとういことである
それは地史の記録としてあるともなる

ともかく時間軸で見れないという時、不可解なのは磯部の佐藤氏一族が支配していた
でも高潮の被害があり今の相馬の道の駅の鬼越館に移った
そしてその後に大きな慶長津波が起きたのである
ただその記録は何もないからわからない、でもなぜ移ったのかというのが解せない、危険を感じたことはわかる
そもそも磯部とは海岸に接してあるのだから危険を感じたともなる
鬼越館なら津波とは無縁である、でも津波でも近くまでも来ていたのである

そしてもう一つ松川浦にあった諏訪神社である、それも慶長津波の前に今ある所に移動している、そこに津波で流された船がひっかかったとかの伝説がある
そんな奥に船が流されたのか?ただ小泉川があるから津浪は川をまず上ってくるから船でも津波に流されたことはありうる
でもなぜ慶長津浪の前に諏訪神社が移動したのも謎なのである

なぜそうなるかとなる人間は時間軸で起こることを明確に記録しない
そして奇妙なことは江戸時代の年号あるとする、すると時代順にも見れないおかしなことになる
それは明治時代と大正時代と昭和は区別する、でも江戸時代の年号だといろいろあって時間の順序を間違うのである、人間はその時代時代を生きる、明治に生きた人と江戸時代に生きた人はまるで違った環境で生きていたのである
でも時間がすぎるとそういうことすら不確かになる

人間個人でも人間が形成されるのは時間軸である、老人になってもそれまで時間軸で生きた経過がある、そして青春時代がみんなありここで基礎が作られ方向が決まる
だから十代から二十代は人生で一番大事な時だったとふりかえる
そしての時代は永遠に帰ってこないのである

時間軸で作れるたものがわかりにくい、消失しやすい、親でも死んでしまうと何か抽象的存在になる、でも親が作った家があるからその家に住んでいると親が残してくれた家があるとういことで家を通じて親を思い出す、つまり何か歴史で残された物を通じて過去の歴史を時間軸で残したもの自覚するとなる
それで結局古代とかなると縄文時代とかなると文書もなにも残っていないからその人たちが残した物で時代をみる、縄文土器とかかそうである
そこで何かあったのか記録もないのだからそうなる
そういう時代になると時間軸で見ることは至難になるのである

津浪は周期的ち3,400年に一回とか大きな津波がくる、でもその前に時間軸としてその記録がないのである、記録が消失しているのである
その記録が記憶でも失われたことが大被害に通じていたのである
過去の記憶でも記録でも失いやすいのである、津波でも十年すぎると一昔であり何か関心が地元でもなくなる、次々に新たなことが起こり関心がなくなる
常に今に追われているのが人間だからである
そこに人間の弱点があり天災は忘れた頃にやってくるとなる、台風だったら毎年来るから忘れることはない、でも津波となると三百然とか400年になるとそうなってしまうのである     




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磯部の高台の墓地は残った、墓地は高台にあり残るのが多い
佐藤氏の墓が多いのもわかる

諏訪神社御祭神・・・建御名多方神   八重事代主神

奥相志によると、神護景三年(769)信濃の諏訪より宇多郡尾浜村一二ケ所に勧請しましたが、天文七年(1538)四月一九日に黒木に遷座しました。

築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云われる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤伊勢館)に居を構えた。しかし、海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したという

1611年に慶長津波があった、でも諏訪神社は1538年に黒木に移っている

佐藤氏は1563年に磯部から鬼越館に移っている

70年とか50年とかのあとに慶長津波が来ている、でもなぜ移ったのかその理由がわからない、ただ佐藤氏は高潮のためだと明確に記している
この二つが慶長津波の前に移動している
それで慶長津波の被害はなかった、でも磯部にしろ慶長津波の記録は一切なのである
ただ諏訪神社に津波で船が流されてきたという伝説がある
小泉川を津波がさかのぼるにしてもかなり奥なのである
なぜそうした伝説が生まれたのか謎だとなる
つまりここでも時間軸で記録されるものが少なすぎるから不明になる
それで歴史がわからなくなるのである

posted by 老鶯 at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

冬薔薇(時間軸と空間軸で鑑賞する(2)ーみちのくの風土)


冬薔薇(時間軸と空間軸で鑑賞する(2)ーみちのくの風土)

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朝でも背景暗くしないと花びらの赤がでない
でも朝の感じではないのが困る
ただ朝まで残っていた、今日は北風吹いて寒いから散るのかとなる



目覚めればなお一片の冬の薔薇残りける北風吹きし今日の朝かな

時間軸の変化でみるとこうして一輪の薔薇でもすぐに散る訳ではない、それは人間でも似ている、なんでも徐々に変化してゆくからである
時間軸で言えばなぜ芭蕉が「五月雨の降り残してや光堂」とか「夏草や兵どもが夢のあと」とか時間軸で見れたのかとなる

1126 堂塔完成
1694 元禄7年 芭蕉死す

芭蕉が訪ねた時500年も過ぎていたのである、するとそういう感懐をいだくこともむずかしくなる、ただまだ時間軸で見るものがあったとなる
空間軸で見るのは空間は残っているから見ることができる、空間を移動すれば依然としてその空間は同じように残っているからだ
ただ時間軸で見ることは時間がたつにつれてむずかしくなる 

この薔薇にしても毎日見ていればこうして変化があり時間軸で鑑賞できる
空間軸だと旅人が来て旅人が去るという空間の移動なのである
だから空間軸と時間軸で見ることは相当に違う、なぜ歴史はわかりにくいかというと空間軸は今なら世界中移動できる、でもそこで時間軸であるものを見ることができないのである、芭蕉が時間軸でこの句を残すことができたのはやはり日本という空間で時間軸にも生きていたからだとなる
ただ日本人でも城があったしてもそれがすでに150年とかすぎるとこれも時間軸で見るのがむずかしくなる
ただ一応相馬市は六万石の城下町だから時間軸で残された雰囲気が残っている
それで「落葉して相馬の人と語るかな」という句でも生まれる
またお堀に冬の鴨がいるときそれが人間にも見える、忠実に仕える人間にも見えたのである、それは何か時間軸で残されたものがありそれが歴史なのである

ももづたふ 磐余の 池に 鳴く鴨を 今日(けふ)のみ見てや 雲隠(がく)りなむ
(大津皇子)

ももづたふ(百伝ふ)とはももは百年のことだとする、それが磐余の池の枕詞となっている、まさにここに時間軸としての池であり単なる池とも違っていたのである
その時間軸の中にいる鴨である、何か百年でも伝えられるべきものとして磐余の池でありそこに鴨がいるということである、時間軸の中に歌われたものなのである

何か作品を鑑賞する時空間軸と時間軸があり時間軸になると重みが生れて来る
例えばみちのくにしてもそこにみちのくという空間があるのだがまた時間軸でも形成された歴史がある、つまりどこでも空間軸と時間軸で風土は形成されているのである

みちのくの遠山望む冬霞

何かこれでも確かに空間軸で作られている、でもみちのくというときそこに時間軸で形成された風土があり歴史がある、そのみちのくの歴史と風土からこの句を鑑賞する
つまりみちのく・・・というときすでに枕詞であり独特の風土と歴史を示している
だからこれがわからないと鑑賞できない、それで外国の人が金色堂をたずねてもみちのくを理解できない、それが日本人が外国に行ってもその歴史を時間軸で形成されたものを理解できないと同じなのである
                
赤々と夕日は没りぬ大阪城花の盛りの終えて散りなむ

それは大阪城の花盛りに夕日が赤々と沈んでゆくのを見た時、そこに時間軸で見た歴史を感じたのである、その時盛りの花が散っていた、その光景がなんともいえぬ歴史を感じたのである、そこに沈む夕日は歴史を偲ばせたとなる
大坂は秀吉に栄えた、でもそれは一時の夢だったともなる
ただ大阪が栄えのは秀吉だけではない、それだけの時間があって栄えたとなる

いづれにしろ時間軸で感じるものがあればそれは深く鑑賞できる、それがなかなかできない、それが問題なのである