2020年11月27日

人は経験からしか学べない (聖書でもいくら読んでもわからない-農業もわからない・・・)


人は経験からしか学べない

(聖書でもいくら読んでもわからない-農業もわからない・・・)

経験が人間を作るのであって知識とかではない、いくら知識があっても経験しないとわからない、それで失敗したのは海外旅行だった
50歳から海外旅行したので遅かった、それまで外国についての本は読んでいた
でも外国を知るには外国に実際に行ってみることである
百聞は一見にしかず...なのである
例えば日本に来た人が富士山はきれいだよと伝える時いくら伝えられてもわからないのである、写真を見てもわからない、百聞は一見にしかず・・になってしまうのである
だからこれほど海外旅行が盛んになった理由もわかる
いくらテレビで放送されても実感できないからである

経験しないとわからないことがこの世にいくらでもある、結婚していない人にとって結婚とは何かもわからない、子育てしない人でもそうである
そこに経験がないから理解できないのである
職業が違うとその職業が経験しないからわからないのである
医者の人を理解するにしても医者としての経験もないのだから理解しようがないのである患者としてみてもらうだけであり医者の人の気持ちとかその職業がどういうものか理解できないのである
農業でもそうである、農業がどれだけ大変な仕事なのかその仕事をしてみなければわからないのである、ただ農業をしていた人に経験した人に直接聞いたのでその苦労がある程度はわかった、でもこれも実際に農業してみて農業とはどういうものか知る   

こういうことは経験かしか詩にもできない、そこには語り尽くせない何かがある
それは経験者しかしらないものがあるからだ
スーパーでただジャガイモを買っていてはそれを生産する人のことなどわからない
だから食料が貴重なものだということもわからない
ただ安いか高いかうまいかうまくないかとかしか見ないからである
つまりそれを作っている人の気持ちは農業だけではない、何でもそうだとなる

それで山尾三省が東京暮らしから屋久島で極貧で農業をした、その経験を詩にしたりしたそこに農業をしている人は普通にいてもその経験が新鮮なものだったのである
何か畑に実りがある、そのことに深く感激して土地と自然と一体化する喜びを詩にした
まさにそれは経験して理解したのである
本当に自然と一体化するアイディンティティ化するには農業を実地にしてみないとわからないといことである、その時人間は自然と深くコミットして自然を理解するのである
その理解は経験から生まれたのであり経験しない限りわからないのである
つまり本当に大地とは何か自然とは何かを体で知ったとなる
ただ実際は相当な過酷なものであり妻は60前に死に本人も62才くらいで死んでいる
パンは贅沢だとなると普通の生活ではないからだ

じゃがいもを掘る
そのじゃがいもは
わたくしの最終の 悲しみと憤りであり
最終の共感と連帯である
祈りである
はだしの足を 土の中に突っ込んで
びろう葉帽子の下で一鍬一鍬 じゃがいもを掘る


経験という時奇妙なのは私がした無人駅のボランティアだった、たまたま無人駅となり人にわからないことを聞かれたから教えていたのである
それで駅長とかJRの人とかかわったのである
そしてわかったことは駅長とかは駅のことを知らない、現場を知らないということであった、そこにいつもいないからわからない
駅でわかったことは上りと下りのことが意外とわからないのである
だからそのことを良く聞かれた、それで跨線橋にその行く先を記すものを示した方がいいとJRの人に駅長に言ったらそういう表示をするものを作ってくれたのである

それが同じように線路をまたいで向かい側の待合室にも上りと下りの表示をしてくれたのである
都会だと必ずそれは何々行きとして表示してあるが田舎駅ではない場合があるのだ
それは久ノ浜で自分自身が下りて上りと下りがわからなくなった
表示するものがなかったからである、つまり意外と上りと下りがわからないのである
それで不安になる、久ノ浜では今でも誰も言わないので表示されていないのである

この現場とその現場にかかわらないことは東電のような巨体企業でも起きている
現場の電気関係者が千人とか働いていていろいろ現場のことを知っていたのである
技術者もいて配管が老朽化して危ないとか指摘して原発は危険だと警告していた
でも現場の人から言わせると何かを上の人に言えなかったという
なぜなら仕事をもらえなくなるからだと言っていた、決めるのは上の人であり現場の人ではないからである
こういうことは他にある、社長だからといって何でも知っているわけではない、かえって現場のことはわからない、駅長だから駅のことをすべて知っているわけではなかったのである、つまり社長でもすべてを経験できないからそうなっているのである

人間を作るのは経験である、例えば聖書でも隅から隅まで読んでもわからない、神学部に入ってもわからない、そして聖書は学問ではない、何か現実に起こったことを神の事績として記した書なのである、つまり経験されたことを記したのである
だから奇跡が多いという時それが現実に起きたことだからである
まず奇跡がなかったら聖書も成り立たない、つまり神が人間のことに関与して奇跡を起こした物語が聖書なのである、そして聖霊がくだらない限り理解不可能である
そのことによって全能の神がいることを理解するからである

こういうことは別に聖書だけではない、優れた作家とか何か指導者とかでもそうである
何か実地に経験したことから書いているから訴えるものがある
第一悲しむとしても本当に血の涙を流すような経験しないと悲しむということがどういうことかわからない
本当はキリストを理解するとしたら十字架で血の涙を流すほかないという厳しさが要求されるともなる
何か人生でも最も重要なことは経験しなければわからない
なぜ戦争のことがわからないものとなったのか?
それは戦争を経験していないからだとなる、戦争という異常なことはいくら聞いても理解できないのである、人を殺したり殺されたりすることが日常になる世界は理解できないのである

ただ正直人間の経験は極わずかである、職業にしても無数にあるとき経験しているのは極わずかである、すると相手のことが理解できないとなる
自分の場合は引きこもりのようになっていたから社会的経験がなく親の介護で塗炭の苦しみにあった、それは今のニートとか引きこもりが親が死んだ時自分と同じようになる
本当に誰も助けない、そて親子共倒れになる地獄になる
それはすでに予想されるものだったのである
ただこれも奇妙なのは引きこもり一つの経験だったということである
なぜなら社会から隔離して人と会わないという生活はまさに隠者の生活であり
禅僧のように寺に引きこもるとにていたのである
それは精神的修養であった、だから何であれ人間は経験なのである
引きこもりだってプラスに働くものがあるから人生のことは何がいいとか決められないのである

ただ結局人間は何かを理解するには経験しない限り理解できない
津浪でもこれも経験しないかぎりわからないものだった、それを経験した時その恐ろしさを知った、原発でも事故など起きないと安全神話を信じていた
それももろくも打ち砕かれて経験から知ったが時遅しとなっていたのである

つまり結局人間は経験からしか学べない、その経験を伝えるものが歴史なのだが津波に関しては何も伝えられなかった、相馬地域では700人溺死としか記されていなかった
その詳細は全く不明である、つまり誰もその経験した人が語り伝えられなかったのである歴史は簡単に言えば経験を人に語り伝えることなのである
何かしら人生で人は経験する、それを語り伝えることなのである
語り伝えるだけでは歴史は消失するから文書で残すということなったのである
津浪に関してその文書すら二行しか残されなかったのである
そうした経験が語られ伝えられていればこなん大被害にはならなかったのである
だからこの辺で起きた原発事故でも語り伝えなければそんなことなかったとまでなる
そして原発は安全だとまでまたなってしまうのである
やはり十年も過ぎると人間は十年一昔であり忘れやすいのである
何か地元でも関心がなくなるのである、今はコロナウィルス一色だから余計にそうなったのである


無人駅でまだ利用の仕方がわからない人(老人)がいた (無人化で弱者は捨てられる)


無人駅でまだ利用の仕方がわからない人(老人)がいた

(無人化で弱者は捨てられる)

久しぶりで駅によった、昼間には弁当など必ず買うので駅に寄っていた
それで無人駅であり聞かれることがあり案内していた
その後いろいろあってしていなかった、仕事も終わったと思っていた

ただ今日老人が電光掲示板を見ていた、そしてノートにその時間を書いていた
時間を知りたかったらである、つまり時刻表がないからわざわざノートに書いていた
別な場所に一日の時刻表の掲示板があったが電光掲示板の方を見ていた
それで案内した、カメラがあれば写せばいいものだった

そして乗車証明書のあることも知らなかった
たいがいもう地元の人だったら知っているはずだからである
だから地元の人の案内は終ったと思っていたのである
それからコロナウィルスがあり話しにくい、外から来た人もなかなか話しにくいことがあり駅によることもなかった

鹿島駅は高校生の見守り役がいるとしても昼間はいないのである
ただ駅の業務をするなという約束で高校生の見守り役をしているのである
なぜそうなったのか、それは駅の業務をするとJRで金を払わざるを得なくなるからだとみている、それで前の自転車屋までにその高校生の見守り役に何も言うなと言ってきたという、それほど何か駅のことにかかわらせたくないのである
見守り役は特別そうしたのであり市の方で金を払ったりするから仕方なくそうしたのである

とにかく全国で無人駅はこれからも増えてゆく、第一東京とか大都会でも無人駅にしているからである
それで盲人の団体が抗議していた、やはり危険になるからそうなる
でも実際車椅子とか盲人のためにわざわざ隣の駅から呼び出されて案内するというのも手間だとは見ていた
嫌でもしょうがなくてしていたのだろう

ともかく鉄道は赤字路線が多く維持できなくなっているのだ
コロナウィルスも相当に影響した、その損害は大きなものだった、何百億の損失とかにもなった、人との行き来が制限されると交通関係は大打撃になったのである
これはバスとか航空会社でもそうである、
最近また感染者が増えたからまた乗客が減ってゆく

航空会社が鉄道と関係ないようでもしている、なぜなら仙台空港が名取にありそれを利用して大坂とかから来ている人が結構いたからである
仙台空港は直接に仙台駅と結びついているからである
このコロナウィルスの交通の影響が大きかった、ウィルスは人から伝染するから人の行き来することが一番のリスクとなったからである
それで江戸時代のような交通が発達しないと見ている時代でもコレラとかの感染はとめられず拡大したからである
だからこれだけ交通が発達した時代はかえってウィルスにとっては広まり安かったとなる便利なものがかえってウィルスには都合いいものだったとなる

だから何かグロ−バル経済とか交流とか交通が発達することがいいものに見えていた
でも物事には必ずいい面と悪い面がでてくる
グロ−バルに人、モノが自由に国境もなく出入りする、それが限界に来たともなる
そのマイナス面が出てきたのである,ウィルスにグロ−バル経済は弱かったということである、だから社会自体の見直しまで要求されるようになったのである

いづれにしろ前からも言っていたが時刻表がない、配られていないことが問題だった
おそらくその人は老人だからネットを見れないこかちそうなっていたのである
無人化すると老人はITに弱いからそうなる
IT弱者の問題が無人化ででてくるのである
ただコストの面でそうした弱者は切り捨てられるのである

日本は緊急事態に対処できない国になった (医療崩壊は起きないー医者、看護師は十分にいる)


日本は緊急事態に対処できない国になった

(医療崩壊は起きないー医者、看護師は十分にいる)

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絶対報道できない真実※ 皆さん政府の嘘に気づいていますか?日本の対応はもはや中国以下です

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週間新潮12月3日



テレビを見ていると言われるのが医療崩壊する、もう限界だという医療関係の人たちの声である
でも素人的にみても重症者でも死者でも日本は百人以下とか少ないのである
そんな数もこなせない日本がの医療体制なのかと疑問になる
外国だと重症者でも死者でも十倍とか百倍とかにもなる、日本でそんな医療体制がないのか?
それが本当に素人的にみて思う
武田邦彦氏が指摘していることが本当だと素人でも思う

ではなぜ医療崩壊、医療崩壊と言っているのか?

それは医者でも看護師でもコロナウィルスにかかわりたくない、感染するのが嫌だからとなる
それで医者でも高額な給料を国民が払っているのだからこういうときこそ働くべきだとしている、医者はコロナウィルスで患者が来なくて暇なのだからそれができるのにしない
要するに自衛隊とか消防隊とかは戦争になったら真っ先に戦場に行き火事場に行きそこで命を落としても仕事するのが勤めだとなる
そのために国民が金を払っているのだ、だから国家の緊急事態にこそ命をかけて働いてもらわないと困るとなる
特に医者は高級取りなのだからその務めを果たすべきだとしている

おそらく日本という国はあまりにも平和が戦後70年もつづいたので国家の緊急事態に対処できなくなった、国家自体で困難に当たるという経験をしてこなかったからである
だから国家の緊急事態があっても国民が一体となって緊急事態に対処する、戦うということができなくつなった
だから日本はもう戦争があったりしたり中国が攻めてきたりしたら対処できないのではないか?
それを右の人たちが憂いるのもわかる、日本は国民が一体となるから強いと言われて来たでもそういうことは戦前までであり戦後はただ銘々が個々人が経済活動に集中して豊かになることが国家目標になったのである
それで高度成長時代があった、その時国家のことは考えない、ただ各自の利益であり金だけが価値となったのである、金になればいいしかなくなったのである

医者になる人ももともと金になるから医者になるとか家の跡を継ぐために高額な大学の授業料を親に払ってもらってなるとかそういう私的な利益として医者になる
そこに医者の使命感などない、どこでも第一は金だとなってしまったのである
職業倫理などなくなったのである

戦争のことは常に戦後は否定され続けてきた、だから戦争とは何か不明になった
でも私の姉はシンガポールの今のマレーシアのジョホールバルでで従軍看護婦として4年間必死になって働いた、それこたそ命がけだったのである
そこはまさに野戦病院であり医療道具すらもたりない極限の状態だったのである
チフスとかにもなり苦しんだ、第一傷病兵は看護するのだから並大抵のものではない
それはそこだけではない、戦争の時はどこでももう生きる死ぬかであり日本人が火の玉のようになって一体となり戦っていたのである

戦争を美化したりいいとは思えない、ただ国家の緊急事態になればやはり国家のために犠牲になっても務めるということが強いられる
それぞれの職業でもみんなそういうことが求められる、特に医療関係者は第一線に立たされる、それを否定してとにかく安全第一で身を守ることしかない
ただ給料だけは金だけは得るでは成り立たない
だから医者だけは今でも金だけで恵まれるのではない、特別尊敬もされているのである
あとは学校の先生とかいろいろ職業があっても尊敬などされない、第一議員すら尊敬されない、まず今の世の中で尊敬される人は医者くらいしかいないのである
それだけの地位もあり金も得てさらに尊敬される立場にある人が肝心な緊急事態に働かない、コロナウィルスとはかかわりたくない、伝染されたくないということでいいのか?

ただそういうことは日本社会全般に起きていることであり責めるということもできないのかもしれない、日本にはもう国家というのはなくなった
ただ個々人の私的利益の追求社会になった、別に医者になるのも崇高な目的などない
金になるからだとなっているからだ、だから当然命にかかわるとなるとコロナウィルスにはかかわりたくないとなった
それでただ医療崩壊医療崩壊と言っているだけだとなる
それよりコロナウィルスにかかわりたくないからそう言っているのだともなる
だから個々人は家で各自治療しろとまでなった
医者は肝心なとき安全地帯にいて何もしないということである

日本はもうこうなったら国家を守るとかはできない、なぜなら誰も国家のために死んだりするのが嫌だからである、ただ利益だけを追及するだけの社会だからである
国家があったとしてもそれは各自が個々人で利益を得るものとして国家があり国家のために犠牲になることなど常に否定されてきたからである
だから日本の国家自体物的なもの武器があるとかないだけではない、日本を守る精神が消失しているからもう守れないともなる
私自身は右でもないし左でもない、ただ国家の緊急事態になったら右も左もなくなる
国家総動員令のようなものが必要になりそれて国民が一致して戦うことが強いられる
そういう自覚が国民自体にも政府にもない、だから都市封鎖しろとかではない
それはと必要ないと武田邦彦氏も言っている
そのことではなくなぜ医療崩壊のみが声高に叫ばれるのかというのはおかしいのである
マスコミもこのことばかり医師会の拡声器のようにして放送するだけなのである

要するに日本は緊急事態に対処できない国家になったのである
それは原発事故でもそうだった、最初に頼ったのがアメリカだったのであれ、アメリカ人よ、助けてくれとスピーディの放射線量の結果を送ったのである
そして地元の人には避難指示もしない、どこに逃げるべきかも指示しないから浪江では一番危険な山側の津島に町長の命令で避難したのである

何かコロナウィルスでもこういうことが起きているのではないか?

政府の誤った指示が出されて国民は間違った方向に導かれる、それが医療崩壊、医療崩壊と騒いでいることになるのではないか?
それに追随するのがマスコミである、原発の安全神話に参加したのもマスコミだったからである、地元の新聞でも安全神話の加担者だったからである
それに地元住民も追随したからである
とにかく何か歴史は繰り返すカルマである、戦争のことは否定されつづけたけど同じようなことが国家にも起きてくる、これだけ次々にいろいろな災難が起きているのもそうであるだから戦争でも国家でもすべて否定するのは問題だとなる

国家を維持するために命がけで戦った人たちがいる、それをひべて否定することはできない、現実に今は国家のために犠牲になる人はいない、最前線に立つ医療関係者もいない
そうしたら極端になれば国家滅亡にもなる
だから歴史は常に現代を考える時ふりかえることが必要だった、それは津波でもそうだった、それを忘れる時人間はどう対処していいかもわからなくなる
ただ私益のみが優先されて国家が全体が崩壊するともなる

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従軍看護婦の姉と招集令状の電報


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2020年11月28日

未来とは何なのか? (今していることが未来を作っている)


未来とは何なのか?

(今していることが未来を作っている)

willには何かをしたい達成したい作りたいとか強い意志を示している
未来への強い願望がある、だから単なる・・・になるとかの意味はない
日本語だと何かあいまいな言葉なのである
英語だったら必ず主語がありI will make my house とかなる
それは主語があって自分の家を作るということである

willは強い意志として家を建てることを目的としてある、そこに主語もありその主語となる人物が家を建てる目的がありその目的に向かって強い意志を働かせるということである日本語だと何か未来というとき未来は何か・・・だろうとなり未来は何もしなくても人間の意志を働かせなくても棚からぼた餅のように与えられる感覚になる

未来とは何かとなれば今していることが未来なのである、家を建てたいと思えば何かしらそのために資金を集めるとか計画して実行しない限り建たないのである
それをもし自作するとしたら土地を買うとかそこに地盤を作るとかしなければならなくなる、その時家が建つという未来が生れてくるのである
ただ何もしなければ未来は生れないのである

本一冊を読むにしてもそれはその時理解できなくても理解しようとしたその人の意志があり読書もできる、その意志がなければ本でも読まないからである
何か音楽でも楽器を覚えたいとしたらすでに楽器を買い楽器を練習しているだろう
何もしなかったら一つの楽器でも覚えることは不可能である
そこに未来はないとなる、だから今なにをしているのかが未来なのである

奇妙だけど引きこもりでも未来がある、何もしていないようでもその人の好きなことをしていればそれが未来に通じているのである
芸術とかを追及しているとかでもそうである、それは認められないにしろ引きこもりその人が今していることが未来なのである
未来とは今何をしているかなのである
未来があるとか未来がないという時、すでにその人が何かをしていて芸術でも何か萌芽があれば未来があるとなる
現実に私自身は俳句とか短歌を二十代からはじめたとしてもただ五七五とか言葉でも並べていただけなのである、でもそれをつづけいたら未来がありえたのである
今になるとそれなりのものを創作できるようになっているからだ

未来は何か何もしなくてもただ幸運のようにやってこない、今何をしているのかが未来なのである、未来とは今のことなのである
例えば今作られているものはすべて最初からあったわけではない、鉄道にしても道にしても作られたものなのである、建築物でもそうである
それを作ろうとした人がいてできたものでありそれが形となったのである

だから今を無視して未来はありえないのである、時間にしても今があるが過去とか未来の時間はないともなる、それが時間の不思議である
死ぬということは今の時間がなくなることなのである、何かをするということもできなくなるからである

要するに今という時間にしてきたことが積み重ねが知識でも技術でもなんでもその人を作るということである、ある人が楽器をうまくひけるな、絵をうまく描けるなとかいい文章を書くなとかでもそれは一朝一夕にはできない、相当な訓練と積み重ねが必要になる
この人はピアノがうまいなというときそこまでうまく弾けるのはそれだけの積み重ねがあったということである
今の積み重ねによって上達したとなる

例えばこの辺の津浪とか原発事故の復興でももう被害にあった人は十年過ぎても何もしない、ただ他の人が復興してくれるとかの意識になっている
あとは補償金をもっとよこせという運動することであるとかなる
個々に何か復興するということをしていない、土地があってもそこで畑を作り実りをもたらそうとすることもない、ただ荒地になっているだけである
そこに人間の意志(will)が働かないからである、だから未来がないともなる
未来が生まれないのである、未来とは人間の意志が作るものであり誰かが作ってくれるものでもないからである

この辺には未来がない

こういうときその人たちは今何もしない、何かわずかでも努力する試みもしない
もちろんその試みをしている人たちもいる、それは外から来た人たちでもある
そこに未来が生まれるとなる、花栽培しようとかなればそこに未来が生まれているのである
未来は棚からぼた餅のようにやってこない、未来を開くというときもそうである
拓くために力をそそがねばならない、道一つにしてもそれが何もしないでは生まれないのである

だから今何をしいるのか?毎日テレビばかりとか何か無駄なことに時間を費やしていると未来はないとなる、何か勉強するわけでもない、ただ馬鹿騒ぎを見ているだけだともなるからだ、やはり本を読んだ方がいいとなるのである
そして遂にその何かをする今の時間が消失するのが老人なのである
老人は何もできなくなる、ただ今までしたことを時間を費やしたことを表現するとなるだけである
その表現するにしてもただ無駄な時間を過ごしていたら表現することすらないとなる
今の時間に経験をしなかったら将来も老人になっても何も語るものもないとなってしまう時間はたちまち飛んでゆくからである、そして人生に何も残さず死んでゆくともなる

とにかく未来とは漠然としてどこからかやってくるわけでもない、今それぞれか何をしているかが未来なのである、だからこそwillは意志なのである
何かを達成しようとする作る意志なのである、その意志があって未来がありうる

結局時間は限られている、その限られている時間を必ず無駄にしているのが人間なのである、そのことを後悔するのは老人になって痛切にわかる
残された時間がわずかになり後は死ぬだけだとなるからだ、もう何かをする時間はなくなるのである、ただその人がしてきた結果があるだけである
老人に未来がないとはそのことなのである、子供や青年に未来があるというとき何かを今にする時間が豊富にあるということなのである
でもその時間が消失しやすいのである、そして時間は戻ってこない、人生の時間はたちまち切れてしまい死ぬだけだとなってしまうのである

また未来というのは方向でもある、右に行く道があり左に行く道がある
右と左では違った風景が開ける、でもそこで選択しなければならない
それは若い時に起きる、ある会社にとどまるかとどまらないかとか決めるのもそうであるもしその会社にとどまっていればそのまま悪い方向に行くかもしれない
ただ決断して別な道を行けば未来が開けるということもある
それは時間がたってみないと人生をふりかえってみないとわからない
あの時あんな会社やめて良かったとかふりかえるのである

例えば日本航空をハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍とかの若者たちはそれからそこで暮らして二十代の子どもいる、
(よど号はハイジャック事件)そして何か北朝鮮のスパイのようなことをしていたのである、それで日本に帰りたいとなったのである、でもそこで方向が間違っても引き返すことができなかったのである、それが人生の怖さだとなる
間違ったからと何回も引き返すこともできないからだ
その人生は北朝鮮に向かった時決定していたのである
若い時に未来を決定したのである、若い時にはこうしてその人の方向が決まるから怖いのである、間違った道を行けばそのまま間違った道を行きもどれなくなるのである
若い時に未来は決定されたともなるのである



2020年11月29日

コロナウィルスで変わる社会の雰囲気 (禅宗とかがすすめられる―引きこもりの時代にもなる)


コロナウィルスで変わる社会の雰囲気

(禅宗とかがすすめられる―引きこもりの時代にもなる) 

市中飲食店の「カウンターを利用した客における感染伝播」のケースでは、カウンターの奥で調理をしていた店員は感染しなかったが、発症者に接客した店員が感染した。「発症者を中心として距離が近い人は感染者が多かった」としており

店の広さは20平方メートル程度(推定)、カウンターの座席と調理者の距離は2メートル程度で、ついたてなどはなかったと説明。推定された感染伝播の要因については、「発症者と距離が近かったため感染したと考えられた」などとしている。

2メートルの距離をとれば安全だとなる、2メートルを離れる、デスタンスをとる
そしてしゃべらなければ感染しないとなる、感染もされないとなる
だから都会だと人が密着して混雑するからどうしてもデスタンスがとれない密になるから感染を防げないのである

何かこのコロナウィルスがWITH コロナが不思議なのは人間の社会雰囲気を変えてしまようになったことである
喫茶店に行ったら席の配置がまるで変ってしまっていた
対面で話せないようになっていた、グループ化もできない、個々の席となり話すこともできないような配置になっていた、そもそも喫茶店とかはグループとか対面的に話す場である
でもそうだと飛沫が飛んだりしてできない、ただ一人黙々と食べていろとかコーヒーを飲んでいろとかなる
これも不思議なのは私自身はほとんどいつも一人であり喫茶店でもレストランでも一人
黙々と食べているだけである

第一引きこもりなのだから人と接しないで30年くらい暮らしてきた不思議がある
引きこもりは社会の落伍者として批判される、穀潰しとして常に批判されている
ところが引きこもりの不思議は無駄な話をしない、禅僧のように座禅を組み沈黙を守る
それは一見無駄に見えても精神の修養なのである
私自身は宗派となると仏教なら禅宗が好きだし合っている、旅するのも修行である
それは雲水なのである、自然のままに雲のように流れ風のように旅する
もちろんそれはつねに一人なのである

それでコロナウィルスで奇妙なのは島倉大輔のyoutubeで別にGO TO トラベルは止める必要がないという、ただ条件として一人旅にすればいいとしている
コロナウィルスでわかったことは別に旅しても集団でしないとか会食しないとか一人でなるべく人に接しなければ伝染しないからだという
どうしても集団で集まると接触すると話ししても飛沫が飛んで感染しやすい
だから一人でなるべく人と接しない旅なら伝染しないという  

でもそもそも一人旅は旅館でも嫌う傾向がある、一人旅自体受け入れない旅館もある
だから自分は宿は苦手だった、特に自転車とかなるともう汚いこともあるし旅館に泊まりにくいのである、それでテントの方がいいとなる
コストの面でも常に安宿を探していたからホテルとかは苦手である
第一そもそも一人旅とか本当の旅人はホテルであれ旅館であれ歓迎しないのである
今旅館とホテルとかは旅人とかとは関係しない、保養の場所になっているから料理にこだわりグルメ旅だとかなっているのだ,ワインを飲むとか何か旅人を歓迎する場所ではない
江戸時代に旅人が歓迎されたのはとにかく歩いて疲れているからまず足を洗うとかその労をねぎらっていたのである、今は別に車で在り疲れもしない、そこはグルメと社交の場になったのである              

そもそも現代では交通の便が良すぎて旅人になりえないのだ、歩いて旅している人がいたとしても必ず途中で電車を利用したりするからしにくいのである
だから旅人となることは社会自体が受け入れないとなったのが現代である
車で旅する人は旅人ではない、ただ移動している人だともなる
そして意外と車が宿になっているのが多いのである、車で寝泊まりするのがいいとなる
車は一つの家が移動しているのと同じだからである、雨露もしのげるからである

時代が変わることは本当に驚くことになる、小野田少尉がジャングルで依然として戦争状態にあった、戦争が終わってもそうだった、それで日本がに帰ってきたときまるで変ってしまったので驚くばかりだったとなる
あれだけ挙国一致で戦争に没入していたのにみんなそんなことを忘れて贅沢な暮らしを追い求めているだけの姿に違和感がありなじめなかったとなる

コロナウィルスも何か時代の雰囲気を変えることが不思議なのである
デスタンスをとれ、飛沫が飛ぶからしゃべるな、一人旅にしろ、集団で集まるなとかなる自分自身はもともと引きこもりであり集団に交わることもなかった
旅ははいつも一人旅だった、だから今の状態は自分にとっては常態だったのである
だからこういう世界に違和感がないのである

何かグロ−バルに人が交わる、外国人とも交わるとかはいい面もあったがなぜ20世紀が世界戦争の時代であり何千万の人間が死んだのか?その理由はなんだったのか?
それは世界が国々が交わりすぎたということである、そこで軋轢が生じたのである
なぜなら江戸時代辺りだと別に韓国とも中国とも争わないのである
友好的だったのである、それは交通の関係で交わることができないということもあった
でも明治維新後はヨ−ロッパが進出してきたとき世界的争乱に巻き込まれた
日本の戦争が常に否定され批判されるが世界戦争の時代の一環として日本も巻き込まれたのである
だからグロ−バル化というのはいい面があっても全部がいいものとして働かなかったのである、そもそもなぜヨ−ロッパからアメリカがアジアにかかわったのか、そのためにアジアは混乱して戦乱の時代になったのである

それで老子の小国寡民の思想とかが見直される、人と人が広く交わることはいいこととなったがかえって世界の人が交わった結果世界戦争になり何千万人も死んだとなるからだ
全く世界が交わらないというのではなく限定的に交わる、長崎の出島のように交わるのが世界と交わることには適していたともなるのである
日本は別に外国と交わらないことではなかったからである 

WITH コロナ時代とは社会を見直すきっかけになる、デスタンスをとれというときまず東京とか大都会になるとそのこと自体不可能なのである
家と家のデスタンスもなくびっしりと隙間なく詰め込まれているからだ
そういう社会自体が異常であり東京から地方に脱出してゆくというのはいいことである
そして禅僧のように口をつつしむことは精神的に心を浄める働きをする
巧言令色少なし仁とかなる
 でも社会ではそれをしにくい、営業とかで絶えず現代社会は巧言令色になるのが常態だらである、コマーシャルでも何か過剰に宣伝している
もう絶えず何か過剰に宣伝されて嘘も言うのが常態である
そしていらない薬でも買わされるとなる、いらない治療もされるとなる

コロナウィルスの不思議はすべてこれが社会にとって悪く作用しているとは限らないといことである、何かこれまでの社会を人間を戒めるものともなっているのだ
何かを制限するものとしても働いていることなのである
過剰なグロ−バル経済をとめたとか必要のない無駄なオリンピックを止めたとかあり本来の人間の生活を見直すことが強いられたのである
それは原発事故でもそうだった、あまりにも便利をさを追及して来た、富を追及して来た欲望を制限なく追及して来た結果として原発事故も起きたともなるからだ 

だから小川未明の童話の「眠い町」の魔法の砂がコロナウィルスなのかと書いた
そこで何か騒々しい文明の活動が抑えられたからである
人間の活動にはいろいろある、現代文明の活動はもう制限なく無数にある
でもそれらがすべて有益なのか社会にとって好ましいものとはならない
そこに相当な無駄がある、無駄だけではない、害にもなっているのだ
そのやむことのない活動が害にもなっているのである
だから老子の思想に私は前々から共鳴していたのである

不思議なのは来年は牛年である、老子は牛に乗ってくる、まさに牛の時代にふさわしいともなる
ともかく経済活動を止めろとかではない、何か経済活動でも無駄なものがありそれが害にもなることがある、原発などはそうだったのである
そういうものを止めるものとして津浪が来たり何か天変地異が起きるのは神からの自然からの作用でもあるともみる、コロナウィルスでももともと人が自然のサンクチャリーの中にずかずかタブーを無視して入ってきたから伝染したともしているからだ
人間はあらゆるタブーを破りすぎたのである
それは科学の発達でそうなったのである、核を破壊することなどはタブーとしてあった
科学者もそなことするべきでなかったというのは何か人間は科学の力でも何でもできるという神の様な力を持つものとしてそうなったのである

緊急事態宣言!?外出自粛!?ロックダウン!?
朝まで生テレビがとにかくひどかった!


SILENTTREEE.jpg

木と木は暗黙の裡に通じ合っている
深く静かに結ばれている
直接ふれもしないが愛も流れている
大地に強く根を張り
木は動かずもの言わず結ばれている          

私はこういう詩を百編とか作っている、木と石とか山と一体化しようとしたら座禅するように沈黙することが強いられるからである
木と木はデスタンスをとっている、直接触れ合うことはなくても通じ合うものがある
人間は接触してもしゃべっても必ずしも通じ合うとか信用するとかにならない
かえって人間はしゃべることで悪いものがでてくる
つまりウィルスでもでてくる、それを戒めようとしたものがコロナウィルスという側面があったこたとが不思議なのである





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2020年11月30日

電気のアンペアあげることが簡単にできない (近くに電気工事店に頼んでもできない、電力会社はなにもしない)


電気のアンペアあげることが簡単にできない

(近くに電気工事店に頼んでもできない、電力会社はなにもしない)

今使っているのは20Aなある、それでエアコンともう一つ電機器具を使ったらブレカーが落ちた、それは脇の小さいブレカーである
それでアンペアをあげるために東北電力に電話して頼んだ
東北電力が言うのにはその小さなブレカーが落ちたのはアンペアを上げても直らないという、そのブレカー自体に問題があるからだという

そういうものかと思い今度は近くの電気工事店を探した、前に工事してもらった家に行ったらそこに人が住んでいない、廃屋のようになっていたことに驚いた
私の家族の同級生だった人だった、それは街中であるからショックだった
ものが散らかっているから放置されたようなっていた

そのことはともかく近くの電気工事店ではそもそも工事を受け付けない、詳しく説明もしてくれない、何かわからないためにあいまいにして受付もしないのかとも見た
そもそもなぜアンペアを上げることがこんなにめんどうなものなのか疑問だった

そこで次にインタ−ネットでどうしてそうなっているのか調べた
そしたらアンペアを上げることは何かめんどうなことを書いてあった
そういうものかとある程度わかった

それを調べていたら全国を対象にしてそうした電気設備のことを請け負う会社があり電話番号もでていたので電話して聞いてみた
ここはていねいに説明してくれた
東北電力ではそもそもアンペアを上げる受付がしていないという
それは電気工事店に頼み工事が完了したら東北電力では電気を流すというのだ
東北電力ではそのことすら教えないのである
ではなぜその受付があるのかもわからない、電気工事店にまず頼んでくださいということも教えないのである
まず申し込むのが電気工事店なのである、そうならばそれを言えばいいのだが言わないのである、何か不親切だと思った

その全国展開している会社は親切である、聞いたら明確に説明してくれたからである
だから調査して工事すればアンペアを上げてくれると言った
ただ工事費は10万まではかからないがかかるとは言っていた
だからそんなにかかるのかとも意外だった
アンペアをあげることはめんどうな工事だったのである

でも前からしょっちゅう切れていたので困っていた
冬になるとエアコンとか炬燵とか他に電気を使いやすいのである
それが問題だった、だからなんとかせざるをえなくなった
でもこんなにめんどうなものとは思えなかった

ここでわかったことは地元の電気工事店とか頼りにならない!

これが現代社会でもある、おそらく工事店として個々の家庭の仕事はしたくないのかもしれない、こういう種類の仕事はしたくないかそっけなくして終わりにしたいとなっていた現代は仕事でも広域化している、地域地域で仕事がこなせくなっているのだ
第一家を建てるのは地元の大工ではない、大きなハウス会社になっている
その会社が一二週間でプラモデルを組み立てるようにして建てたからである
つまり地域だけでの仕事がなくなっないるのである
私の家は材料が地元のものであり地元の大工が建てたものである
でも今はあらゆるものが地元だけで成り立たない、広域になり全国展開にもなっている
さらにグロ−バル化もしているとなる

それがいい悪いにしろそうなってしまった社会なのである
だから地元の電気工事店に頼んでもできないとなる
そして考えたことはこんなにめんどうなら20Aで節約してまにあわせるほかないのかとも思った
困るのはパソコンが突然切れることなのである、これでパソコンが壊れると怖いのである
ともかく20Aで節約する、制限するということはその中でやりくりするということになる
それは社会全体でもそうして電気を節約することもできる
これ以上の電気は使えませんよなる、つまりエネルギーを制限できることになる
これは一家庭のことだが日本全体でもそうなのである
電気の使用量は制限できるのである
ただ前はガスも使っていたからがガスも併用すれば電気は節約できる
でも全体としてはやはりエネルギーは同じように多く使うことにはなる
なかなかエネルギーは節約しにくいものなのである

いづれにしろ現代社会は一地域とかでは何でもまかなえない時代である
広域社会になりグロ−バル化社会になった、そこで地域のつながりも希薄化したということはある、家一軒建てるのも別に地元の大工も関係しないし材料でも外材である
そういう社会だと何か原発事故でも簡単に市町村で避難区域になったところは簡単に分解して帰らなくなったとかも見る
広域的全国的に散らばってしまったともなる
つまりそもそもの日常でもこうして広域的になっていて成り立たなくなっているからだ
地域の電気工事店ではそもそもアンペアをあげる工事はしないともなっているからだ
できないともなっているからだ

電気では原発事故がありこの辺では火力発電所もあり電源地帯だった、今は風力発電とかソーラーパネルが増えている、だから電源が大きな問題となった地域である
でもどうしても電気製品に頼る

となるとやはり20Aに制限してやりくりするほかないのか?

それが電気を過剰に使わない生活だとなる、自分のような主張をしていればそうなる
ただ正直便利なものに頼る、それは人手だたりないからである
一人になったらあらゆることを家事を全部する、それで追われるのである
もし電気がなかったら一日家事に追われ何もできない
それで戦前などは中産階級、普通の家でも二人も女中を雇っていたのである
私の母親は東京で女中していたからである
家事にそそぐ人手でも莫大なものだったのである
それが電化して一人でもできるようになったのである
だから一人暮らしでもなんとか家事ができる、でも依然として家事に追われるのである
今日もゴミ投げがあった、段ボールを近くの処理場にもっていった
洗濯ものを干したとかなにかかにか家事の仕事がある
その合間になんとかプログを書いているのである

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ここ便利であり親切に教えてくれる それだけのことができる
用意されている、地域の電気工事店ではできない



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