2020年11月21日

人間は目の前の利益しか見えない (津波を警告しても誰も聞かなかった)


人間は目の前の利益しか見えない

(津波を警告しても誰も聞かなかった)

仙台市の海側の若林区なのか郊外の住宅地化した所があった
そこを津波が来るとして学者が警告した、すると不動産屋とかから抗議があった
地価が下がるからそんなこと言うなと抗議されたのである
これも人間は自分の自分たちの利益しか見てないから起きる
学者の人は預言者のようになると言っていた
それは津波は400年前に起きたとしても忘れられていたからである
だから津波が来るというと誰も信じないとなり危機感もないのである
ただ損になるからそんなこと言うなとなるだけだったのである
つまり人間が一番敏感なのは目の前の利益なのである
そのために他でも毎日働いているからだ

原発にしても目の前の利益しか見ない、利益になればいいとかしかない
安全がどうのこうのより目の前の利益が優先される
そこに目の色を変える、その利益を得ることに反対すれば村八分にされる
原発でもやはり利益優先であり東電の社長はコストカッターとしてのし上がったというのもそうである、だから科学者が十数メートルの津波が来ると警告したのにその備えもしなかった、それはコストが金がかかるからである
でも今になって防波堤を作っていたのである

このように安全は金にならない、それが致命的結果ともなる
それは危機感の欠如からそうなる、たいしことないよ、そんな津波など来ないとか原発でも事故など起こらないとか危機感がないのである
現実は現場の人が技術者が配管が危ない、老朽化しているとか事故前もすでに警告していても幹部は見過ごしている、取り合わないのである
「安全神話」は徹底的に安全に配慮した結果できたのではない
様々な危険な要素があったとしてもそれをごまかすために権力で操作されただけなのである、それは政治家と官僚とか検察とか海上保安庁とか官僚とマスコミでも一体となりそれも自分たちの利益を優先して作られたのである
東電は有力な天下り先になっていたからである

だからここでも自分たちの利益優先としてありそれが大事故につながった
そして誰一人として責任はとらないのである
それは戦争と同じだった、でも必ず誰かが責任をとらされる
戦争では三百万人の国民が死ぬという責任をとらされたのである
原発事故では故郷に住めなくなるという責任をとらされたのである 

人間は目先の利益しか見ない、見えないとなる、原発事故後でも補償金をどれだけもらうかしかない、市町村をどう復興するかより個々の利益しか見ない、だから一早く若い世代は故郷を脱出して補償金で他で暮らすようになり生活が別になり老人だけが取り残されたのである、家族でもばらばらになったのである
市町村全体をどうしようとかとか考えない、目先の個々人の利益しか見ないのである
それで目先の利益となれば補償金をいかにとるかしかなくなる
それで原町区では補償金をもっとよこせとなり訴訟になっても鹿島区は30キロ圏外だから除外されているのである

人間は全体を見ることができない、今はあまりにも複雑であり誰も全体を見れる人はいないのである、社長でも見れない、それは一部分しか知らないのである
吉田所長が復水器のことを知らなかったというのもそうである、それは最も肝心なことであっても知らなかったのである、資材関係が専門だとかなり知らないとなる
無数の専門に分化しているからその全部を知る人などいないのである
ただコストには敏感だからいかにコストを減らすかには熱心になるのである

そもそも人間は大きな巨大なものは認識できないのである
何かインドの哲学者が海岸に来た大きな船のことを知らなかったという、認識できなかった、小さな舟は常に見ているから認識できた、でも大きな船となると見たこともないからそれが幻のように見えたのだろう、見慣れていれば別だがその小さな漁港ではそんな大きなものを見たことがないから認識できなかったとなる
人間は自然でも宇宙でもあまりにも巨大だから認識できない、鳥でも大鵬のような巨大なものもは認識できないのである 
そこに人間の限界がある、日々の目先の利益にとらわれて生活している
だから大きなことに対処できないとなる

自然災害でもそうだが何か大きなことになると戦争とかなると理解できなくなる
国にしてもアメリカがどれだけ大きな国だったか理解できない、それで中国の野郎自大国のように漢の鉄器に対して青銅器で戦い敗れたのである
何か大きなことは理解しにくいのである、人間は俯瞰することが不得意である
常に空から下を見ているわけではない、狭い範囲で生活しているからである
それで大きなことに対応できないとなる

つまり目先の利益は常に見ているが大きなものは無視されるのである
でもそれが致命的結果になったのである、個々の利益は見えても全体の利益は無視されやすいのである、その調和を計ることが難しいのである
明治になってから山でも海でも私権が認められて山でも無数に土地が個々人に分割されて所有されて山を共同で利用することができなくなった
それが今でも問題になる、誰の所有の土地かわからないとして利用できないのである
入会権があり村の人が共同で利用していた時とは違うからである
それで家の前の海は自分のものであり補償しろとまでなったのである
海まで分割して私的所有とされる、それは異常だとなるが目先の利益を求めるからそうなる

いづれにしろ危機感を感じないという時、それが日ごろ生活している狭い範囲のものではなく自然という大きなものであり外国でも大きなものだからそれが理解できないからそうなる、アメリカでも中国でも日本の様な島国からするとどれだけ大きいか認識できない
その差が大きすぎるのである、砂漠とか平原とか大河が日本にないからそれを理解するのがむずかしい、その風土から感覚が全く違ったものとなるのである
人間は大きなものを理解できない、だから大きな自然から来る災害でも弱いし他国が攻めてくるということにも危機感を感じないとなる
中国という大きな国を理解することがむずかしいからそうてるのである



posted by 老鶯 at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

耕作放棄地の増大ー三人の老人がやめる (高齢化社会、介護社会、病人社会)


耕作放棄地の増大ー三人の老人がやめる

(高齢化社会、介護社会、病人社会)

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この時はカンナもさいて野菜もわずかとれていた
その時花も活きていたのである

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いかにも荒れ果てものとなった

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知っている女性がしていた畑も遂に耕作放棄地になった
まず隣の畑が娘の車できて這って畑を手入れしていた80以上の人が遂にできなくなり
耕作放棄地になった
次に前の畑は結構広いがその人も腎臓を悪くして透析になっていた
顔が黒くなると死ぬんだよと言っていた、その女性はひどくその人を嫌っていた
田舎だと畑にも隣がありいろいろと付き合いがめんどうなのである
そして隣の畑の影響がある、耕作放棄地になると種とかいろいろ飛んでくる
雑草をとなりから生えてくるとか影響がある

ともかく本当に高齢化社会とは介護社会であり病人社会なのである
同級生でも脳出血になったとかそのために足が悪くなったとかひどい人は口もきけなくなったとかある、ただ脳出血でも軽くすむと普通に生活している
その畑ができなくなったのはその女性が70くらいになりいつも腰が痛いとかなりできなくなった
またその知人も糖尿病で何回も長く二カ月以上とか入院している
何か手術したとかで長引いている、手術となると糖尿病はめんどうになる
他に一軒ある自転車屋の人も60歳以上で病気である、でも仕事は普通にしているから不思議である

自分自身も自転車で大倉の方に行っただけで体中が痛くなったのである
筋肉が弱ってきたためだと思う
こうしてとにかく高齢化社会はなんらか病気になり病人社会でもある
介護社会というとき息子が親を青森の施設に入れている、でもそこでも何か必ず金が要求される、もう一人の母親もその息子に金をもらわないと暮らせない
つまり2025年問題がすでに現実化しているのである
40代とかの人が丁度団塊の世代とかの子どもになるからである

そして超ソロ社会というのもそうである、一人暮らしの人が多いのである
一千万人いるとか多い、だから孤独死も増える、何か社会自体が異常化している
このように病人が多いと病気の治療にかかる金がまた大きいのである
60以降はなんらかで病気になりやすいのである、自分自身もそうだった
それで薬とか医者の費用がかかる、それが馬鹿にならないのである

これはまさに高齢化社会の縮図だった、畑をやろうとしたのは良かったができなかった
70以上とかなると何かしようとしてもできない、いろいろ機械を買っても使いこなせないとかなる、畑をしようとしても体がついていけないのである
農業は体を使う仕事だから体が資本だから高齢者はつづけることができずまさに放棄するのである、それをまさに身近に知った

高齢化社会はただ高齢になるのではない、みんな病気になる確率が高いのである
だから2025年問題は団塊の世代が介護状態になりその子供の負担となるのである
こういう社会が維持できるのか?こんなに高齢者が増えてそれも健康ならいい、何らか病気になりまとせに活動できなくなる
そして介護になったらその子供に負担がかかる
その子供がちょうど氷河期世代とかなり独身が多いしまた収入も少ないのである
引きこもりとかも多い、すると地獄の様な社会になるかもしれない
それを自分自身が経験した、二人の親の介護でもう家族崩壊になり死ぬような思いをしたからである

日本の経済でも弱体化するのは少子高齢化である、耕作放棄地でも若いならやることができる、しかし年になれば体がついていけないのである
つまり一人は透析となりつづけることができなかった、隣は80以上になり這ってしていたができなくなりもう一人は体が悪くなりやめた
そしてそこは耕作放棄地となったのである

こういうことは全国的にあり耕作放棄地が増大する、特にこの辺は原発事故以後田畑でもやめる人が増大した、結果的に耕作放棄地が増えた、避難区域になったところはほとんど回復していない、草ぼうぼうなのである、そこに放射性物質の土を貯蔵する場所となったでも避難区域でない所は10年過ぎて最近土は運ばれて元にもどりつつある
でも避難区域になったところは回復していないのである
膨大な土地が耕作放棄地となり放置されているだけなのである
少子高齢化社会の現実が具体的にこの耕作放棄地に現れている

でも一方で国際的に活躍していた銀行マンが農業を実際に5年くらいしていたとかある
それは銀行業というのに嫌気をさしたことと紙幣がもう価値がなくなる、金に価値がなくなることを実感したからである
食糧飢饉になることも予想して農業をはじめた、銀行員が自ら田んぼで働くということもしている、農業に投資するためである
それだけの耕作放棄地があるのだからそれを活用させるべきだとなる

しかし農地でも勝手にできない、それぞれの所有者がいて許可をとるとか簡単にできないそれも耕作放棄地が増えている理由である
土地をもっていれば宅地化したりできるとか売るために耕作放棄地でももっている
するとそこを農地として貸すとか売ることが簡単にできない
だから何かこれは自治体とか国で国策として強制的に解決する方法を見出すべきだともなる、日本の国土の利用は国の問題であり個々人にまかせていらないともなるからだ

ともかく農業をすることは容易ではない、だから農家でありそれを受け継ぐのが楽だとなる、なぜなら土地という資本を受け継ぎそのノウハウを受け継ぐことができるからであるこの辺では梨栽培が盛んだがいい梨を作るのに十年かかったという
つまりそれは野菜でもそうして時間がかかるのである
だから特産品というときその土地にあったものを時間をかけて作ってきたからそうなったそれは江戸時代からもつづいてそうできたのである
土地はみんなその土地土地によって地味を違っているしまた肥料などを工夫するとかノウハウが意外と大きなものとして農業があるからだ
だから農業は簡単にできないのである     

ただ一方で都会の人でも紙幣とかが紙切れになるとか不安になっている
貯金しても預金封鎖があるとか紙切れになるとか盛んに言う
だから農業が注目される、食料はつねに価値あるものとなるからだ
他に現物をもっている人が強いというのもそうである、また何かを生産している人も強いただ金をもっている人は弱いのである、インフレなれば紙幣は本当に紙切れになる
いくら紙幣を積んでも紙切れにすぎないともなる
その時現物をもっている生産している人が強いとなるからそうなる
そうはいっても農業は簡単にできない、まず農業法人とかに会社員のようにして入る他ないと思う、とても一人でするのは無理がある
農家の後継ぎならそれができるが素人になるとできないからだ
農業も体力も必要だし汚い仕事にもなる、蛇とかアブとかブヨとか動物とかに荒らされるまた盗まれるのも普通にある、その話を菊だけでんざりしたからである

2020年11月22日

寒雲、冬薔薇(御田母神の社)


寒雲、冬薔薇(御田母神の社)

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寒雲の流れずとどまる街の上

寒雲や老婆一人街を行く

寒雲や耕作放棄地に小屋一つ  

家に籠る女性一人や冬薔薇

落葉してゲートボールや山の村 


北風に松一本や紅葉映え御田母の社残りけるかな

冬の薔薇一輪あわれ今しばし我が庭に咲き見取り散りなむ


昨日はそれほどでもなかったが今日は朝から寒いし北風も吹いている
冬らしいとなる、ダイユーエイトの前に御田母神の碑がある
そこに松一本がある、隣の店の紅葉に映える
御田母神とは三春に由来するらしい、そこから移住した人が祭ったともなる

「田母神」姓は福島県に縁のある姓である。福島県郡山市田村町にある山村地帯に田母神地区がある。同地は坂上田村麻呂の母の出身地といわれている。また、福島県内には同じ地名が他にいくつかある。意味は、「田を守護する神」から来た地名で、田村麻呂の子孫が散らばってその神を祭ったことに由来するといわれている。

郡山市立田母神小学校

田母神俊雄 - 航空自衛隊第29代航空幕僚長

田母神は間違いなく三春から発して郡山に移る、だからそこから移住してきた人があそこに祀ったのである
今は田はなくなったけど社は残っているのである
姓にしても自衛隊の幕僚長は有名だったけどそれはまさに郡山の田母神(たもがみ)村から由来しているとなる、姓の基は村だからである

都会にも社があるけどその周りは市街化して元の状態が失われた、田畑もなくなってビルなどが建つともともとあったものがイメージできなくなる、東京とかになるとそうである
寒雲が街の上にとどまる、耕作放棄地に寒雲がとどまる、何か現代社会の風景である
街はさびれているし耕作放棄地も現代を象徴しているからだ

冬薔薇が一輪咲いて散らむとしている、この薔薇の色はいい色である、赤でもないが明るい色である
また60以上で一人暮らしの女性も多いのである、それが現代を象徴している
俳句とか短歌でも現代の社会を反映する、それが逃れることができない
江戸時代だったら江戸時代の社会を反映する、時代を反映する
その時代のことか時間がすぎるとわかりくくなるのである
現実に高度成長時代が過去の物語になったことでもわかる  
その雰囲気は今とは相当に違っていて活気があったとなるがその時代の雰囲気も何か不確かなものになる、私の場合は会社員でないからその時の景気の良さとかはわからない
でも東京で土地が馬鹿高くなったのは覚えている、土地バブルになったのである
金余りになり土地に余った金が投資されてそうなったのである
でもそれは田舎では関係ないことだったのである

冬の日に磯部ー松川浦ー相馬の城下町回る (写真十枚ー俳句、短歌連作)


冬の日に磯部ー松川浦ー相馬の城下町回る

(写真十枚ー俳句、短歌連作)

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クリック拡大-八沢浦
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かすかに山頂に雪が見える

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これは磯部の墓地にあった墓

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ボラが跳ねる

相馬の城下町

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クリック拡大-高い空に白鳥が飛んでいた

白鳥は夕暮れになると群れて飛ぶ



浜通り冬タンポポや望む海

松川浦小春日和や釣りの人

残菊や誰が眠るや墓一つ

とある村墓も根付く冬薊

金華山遠くに望み冬の暮

かなたかな泉が岳も見ゆ冬霞

みちのくの遠くの山や冬霞

城下町忠義に仕ゆ冬の松

城下町六万石や柿に松

城下町お堀に数羽冬の鴨

落葉して相馬の人我が語る

冬の夜の三本松や雲に月

繊細に枯木の枝伸び月光る


三県にまたがり蔵王大なりき相馬しよりも冬の日望む

安政の墓や磯部の古りにしを村は津波に流され消えぬ

ボラ跳ねて松川浦に船あまた小春日和や人多く来る

冬の樹の堀に映して枝々の交差し伸びて城下町暮る

白鳥の夕空高く飛びにけり月光り星いくつか煌めく
                                              

今日は朝が寒かったが昼になりあたたかくなった、それで磯部を回り松川浦を回り相馬市の城下町を巡った
あたたかいから冬タンポポが咲いて海を望む、これが浜通りであり会津とかとはかなり違った風土なのである、あたたかいということである

蔵王は八沢浦から結構大きく見える、今日も見えた、磯部からも見える
実際は冠雪しているのだがそれが今年はまだはっきりしない

みちのくをふたわけざまに聳そびえたまふ蔵王ざわうの山の雲の中に立つ 斎藤茂吉

この歌は山形県と宮城県と福島県からは見える、あとは見えないのだからあっていない
また松川浦の高いところから金華山が見えた、遠くが霞んでいたが金華山は形が三角になっているから判別しやすいのである
さらに遠くに泉が岳も見える、1100メートルになると遠くから見えるのである
400メートルの鹿狼山でもいつも遠くから見えるからだ
ただ山でも常に注意して見ていないと見えないのである
今回は冬霞になっていて見えにくいが私は心の眼で見たとなる
薄い雲がかかって冬霞になっていた、でも冬霞は春まじかにふさわしい季語らしい
でも今日はまさに小春日和だから冬霞になったのである
霞というともともと春であり冬にはふさわしくないがあたたかい冬でも霞になる
季語はいろいろあって解釈がむずかしいのである
                                                        
磯部では高台の墓地によって、ここには安政時代の僧侶の墓があったからここも古いのである、寺島という姓は石巻から移住してきた人の姓である
あとは佐藤氏が多いのは佐藤氏が磯部氏を支配していたからである
相馬氏が支配する前は相馬市辺りを支配していたのである
何か高潮の被害があり今の相馬の道の駅の鬼越館に移ったのである
そのあとに慶長津波が来たのである、だから予兆を感じて移ったとかとなる
いづれにしろ磯部は古いのである、でも津波で村は根こそぎ流されたとなる
ただ高台の家だけが残ったのである

松川浦ではバイクが百台くらい終結していた、何かバイク仲間の会合があったらしい
それでどこもレストランとかは満員だった、並んでいた
新しくできた市場も行列して並んでいた、いろいろ復興はしてきた
ボラが群れなして泳いでいた、そして跳ねた、前は広い海で魚が跳ねるのを見た
その時、生命の躍動感を感じた、広い海原でトビウオが跳ねるのは躍動している

松川浦から相馬市街に入る、相馬の城跡の紅葉が美しかった、ちょうど冬紅葉になっていた、写真を撮った所は一番いい場所だった
城跡の石垣も見えるからである、相馬の城跡は石垣があまり残っていないから貴重だとなる

相馬市の謎は何かいつ来てもしんみりするのである、原町も市街があるのだがまるで違った雰囲気なのである、それがいつ来ても不思議だとなる
城下町の雰囲気を残しているともなる、高いビルなどが建つと雰囲気がなくなることは確かである
ただ城下町といっても城もないし石垣にしてもわずかだし何か歴史を偲べるともならないでもやはり城下町でありその雰囲気が残っている
お堀に鴨が数羽いる、するとそれがまるで忠臣のようにも見えるから不思議である
それが歴史というものなのだろう
何か相馬の人と語る、落葉している城跡で語る、するとそれが歴史を語ることにもなるのである、そういう雰囲気があるからそうなる
何か語る時そうした雰囲気がある場所で語るとはずむ、それはその雰囲気がそうさせるのである

それから冬の樹が堀に夕べ映っていた、それを見て中村草田男の「冬の水一枝の影も欺かず 中村草田男 」を思い出した、ただこの堀の水は濁っているからそうともならない
ただ水に移る冬の樹はそういう感じになる

日は短い、5時で真っ暗になった、月が雲に光っていた、木の枝に月が光る
写真に撮ろうとしたが失敗した、だいたい夜の写真は相当にむずかしい
これはプロ級でないとうまくいかない、いつも失敗している、カメラでもレンズでも夜の写真用でないとうまくとれないのである

ともかく相馬市の道の駅の近くの五本松があった所を帰る、でもその松は三本しか残っていない、だから三本松になったのである、でも三本松でも何かその松に親しみを感じるのである







2020年11月23日

冬薔薇(時間軸と空間軸でみるー鑑賞する俳句)


冬薔薇(時間軸と空間軸でみるー鑑賞する俳句)

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今日一日の変化



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冬薔薇花びら二片残るを見る

冬薔薇花びら一片夜に見る

冬薔薇花びら一片月光る



身近だと人間は時間軸で見ている、この冬薔薇は花びらが二片残り散ってゆく
回りでも葉っぱが徐々に枯れてゆく、色が変わってゆく、昨日はあたたかったが今日は
北風が吹いて寒くなった  
そして夜見たら残った二片の花びらが一片になっていた
それを写真にとった
おりしも丁度三日月がでていた、こういうふうにリアルタイムで報告できるのがインタ−ネットなのである、また写生にもなる、刻々の変化を写生して報告しているのである
だからそれに合わせて見るには日々プログを見るのがいいとなる
でもそこまで見ている人はいない、見るにしても時間がとられるからである

人間は時間軸と空間軸で見る、でもA地点からB地点へ移動しても時間軸で見れないのである
それは短い時間でもそうである、この庭を見ても刻々変化しているからだ
時間軸で見れないことは浅薄になる
時間軸で形成されたものが見えない、理解できないのである
ヨ−ロッパとかは2000年の歴史があってもその遺跡が残っていても理解するのがむずかしいのである

時間軸で形成された街があってもそれを理解しにくいのである
相馬市は六万石の相馬藩の城跡があってもそこが外から来た人が城下町として意識しにくい、城自体も残っていないからだ
ただ地元になると何か相馬市は違うなといつも思うのである
そこがやはり城下町だったということを意識するものがあるということである
何か時間軸で形成されたものが雰囲気としても残されている
でもそれを外から来た人が感じるのはむずかい
それは海外旅行してわかる、ヨ−ロッパは古い歴史があるとしても時間軸で形成されたものを理解するのがむずかしいからである
そもそもどうして2000年もの時間軸で形成されたものを理解てきるのかとなる

京都も千年の歴史があるから日本人だとその時間軸で形成されたものを感じる
それもは人によるがやはり雰囲気として残っているからだ
でも東京には江戸百万都市を感じられないのはなぜだろうとなる
皇居がしったとしてもあそこに江戸時代を感じないのである
それは結局高層ビルとかビルに埋め尽くされた結果、昔を偲ぶものが消失したからだとなる、ただ現代だけがそこにあるのである

いづれにしろ時間軸と空間軸で形成されるの世界観である
だから原発事故で避難して故郷を失った人たちがいる、そこで失ったのは空間もあるが
時間軸で形成されたものである、そこは江戸時代から人が住んでいたからである
そこでも代々時間軸で形成されたものがありそれが失われたのである
ただ時間軸で形成されたものは理解しにくいのである
ただ失ったものが何であったかそれを考えるとそれが金では買えない貴重なものだったともなる、それは意識されにくいからである

ともかく庭の冬薔薇は二片残して散る、でも散ったあとでもここに咲いていたな意識する余韻を残すのである、それが時間軸で見ていることなのである

旅人の平泉去る秋の蝉

これは自作だけどここでは空間軸と時間軸を現した句なのである
空間的に平泉を去る、その時時間軸としては夏から秋になっていた
つまり旅は空間軸で行われるがまたここでは季節の移り変わりも感じていたのである
何か自分の句を自分で鑑賞したとなる、この鑑賞とか評論することも相当に理解力がないとできない、そういうことがインタ−ネットでは欠けている
深く読んだりしない、表面的なもので終わっているのである 

まず創作しなくても評論できる人は芸術家と同じだともなる
なぜなら芸術そのものが鑑賞することがむずかしいからである
また小説などにしてもそれを理解することがむずかしいからそうなる
ただ年になると鑑賞力がついてくるから評論家に向いてくるのである
自分自身の俳句を評論しているのも奇妙だけどそうなる
第一こういうふうに鑑賞している人はいないともみるからだ

そもそも芸術となると鑑賞すること自体むずかしいのである、でも本当の芸術は芭蕉の
奥の細道のようにそれが400年とかの時間を過ぎてもそれが古くならない
深みをましているというのが真の芸術だとなる

2020年11月24日

冬薔薇(時間軸と空間軸で鑑賞する(2)ーみちのくの風土)


冬薔薇(時間軸と空間軸で鑑賞する(2)ーみちのくの風土)

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朝でも背景暗くしないと花びらの赤がでない
でも朝の感じではないのが困る
ただ朝まで残っていた、今日は北風吹いて寒いから散るのかとなる



目覚めればなお一片の冬の薔薇残りける北風吹きし今日の朝かな

時間軸の変化でみるとこうして一輪の薔薇でもすぐに散る訳ではない、それは人間でも似ている、なんでも徐々に変化してゆくからである
時間軸で言えばなぜ芭蕉が「五月雨の降り残してや光堂」とか「夏草や兵どもが夢のあと」とか時間軸で見れたのかとなる

1126 堂塔完成
1694 元禄7年 芭蕉死す

芭蕉が訪ねた時500年も過ぎていたのである、するとそういう感懐をいだくこともむずかしくなる、ただまだ時間軸で見るものがあったとなる
空間軸で見るのは空間は残っているから見ることができる、空間を移動すれば依然としてその空間は同じように残っているからだ
ただ時間軸で見ることは時間がたつにつれてむずかしくなる 

この薔薇にしても毎日見ていればこうして変化があり時間軸で鑑賞できる
空間軸だと旅人が来て旅人が去るという空間の移動なのである
だから空間軸と時間軸で見ることは相当に違う、なぜ歴史はわかりにくいかというと空間軸は今なら世界中移動できる、でもそこで時間軸であるものを見ることができないのである、芭蕉が時間軸でこの句を残すことができたのはやはり日本という空間で時間軸にも生きていたからだとなる
ただ日本人でも城があったしてもそれがすでに150年とかすぎるとこれも時間軸で見るのがむずかしくなる
ただ一応相馬市は六万石の城下町だから時間軸で残された雰囲気が残っている
それで「落葉して相馬の人と語るかな」という句でも生まれる
またお堀に冬の鴨がいるときそれが人間にも見える、忠実に仕える人間にも見えたのである、それは何か時間軸で残されたものがありそれが歴史なのである

ももづたふ 磐余の 池に 鳴く鴨を 今日(けふ)のみ見てや 雲隠(がく)りなむ
(大津皇子)

ももづたふ(百伝ふ)とはももは百年のことだとする、それが磐余の池の枕詞となっている、まさにここに時間軸としての池であり単なる池とも違っていたのである
その時間軸の中にいる鴨である、何か百年でも伝えられるべきものとして磐余の池でありそこに鴨がいるということである、時間軸の中に歌われたものなのである

何か作品を鑑賞する時空間軸と時間軸があり時間軸になると重みが生れて来る
例えばみちのくにしてもそこにみちのくという空間があるのだがまた時間軸でも形成された歴史がある、つまりどこでも空間軸と時間軸で風土は形成されているのである

みちのくの遠山望む冬霞

何かこれでも確かに空間軸で作られている、でもみちのくというときそこに時間軸で形成された風土があり歴史がある、そのみちのくの歴史と風土からこの句を鑑賞する
つまりみちのく・・・というときすでに枕詞であり独特の風土と歴史を示している
だからこれがわからないと鑑賞できない、それで外国の人が金色堂をたずねてもみちのくを理解できない、それが日本人が外国に行ってもその歴史を時間軸で形成されたものを理解できないと同じなのである
                
赤々と夕日は没りぬ大阪城花の盛りの終えて散りなむ

それは大阪城の花盛りに夕日が赤々と沈んでゆくのを見た時、そこに時間軸で見た歴史を感じたのである、その時盛りの花が散っていた、その光景がなんともいえぬ歴史を感じたのである、そこに沈む夕日は歴史を偲ばせたとなる
大坂は秀吉に栄えた、でもそれは一時の夢だったともなる
ただ大阪が栄えのは秀吉だけではない、それだけの時間があって栄えたとなる

いづれにしろ時間軸で感じるものがあればそれは深く鑑賞できる、それがなかなかできない、それが問題なのである

津浪は時間軸で見ない結果被害が大きくなった (人間は時間軸で積み上げるもの歴史が大事)


津浪は時間軸で見ない結果被害が大きくなった

(人間は時間軸で積み上げるもの歴史が大事)


空間軸と時間軸でこの世界は構成されている、時間軸で見ることが人間は苦手である
例えば磯部は津波で村自体が消失するような大被害だった、220人くらい死んだから多かった、他でも村自体が消失するような被害があった

ではなぜそうなったのか?

それは磯部とは松川浦の砂州に家が密集したのである、もともとは砂州であった
つまり時間軸で見ればそこは砂州だったのである
おそらく田んぼにする後ろの地域には家が建てられなかった、場所をとるから海岸の砂州に家を密集させた
日本がでは土地が狭いから危険な場所でも家を建てざるをえないのである

そもそも八沢浦でも明治以降に職を失った侍は開拓した場所だった、そこは海だったのである、入江だったのである、だから津波で本当に江戸時代の入江にもどったことに驚嘆した、こんなことがありえるのかという驚きである
比較的家が少ないからごちゃごちゃしたものではなく入江となったのである

ただここでも湊村が40軒ほど海岸線にあった消失した
これも別に漁業するのではないから海岸線に家が集中したのか解せない
海老村が古いからその延長としてそこから移り住んだとなるのか?
たた八沢浦ではそこが一番被害があった、後は被害があっても家が集中した場所はなく
散在していた、だからそれほどに被害がなかったのである

そして大失敗だったのは海老の断崖の上が高いとして津波の避難場所に市で指定していたそこに避難して30名が死んだのである
すぐ近くの百メートルも50メートルでも歩いて逃げれば助かる場所があった
そこを避難場所として指定したのは時間軸でのその土地をのことを見なかったということにあった
第一津波の記憶となるとないに等しいかったからである
津波の記録がこの辺では抜け落ちていたのである
それで津波の後に「生波(いくなみ)で700人溺死という記録が相馬藩政期で発見したのである

つまり時間軸でもの歴史の記録が抜け落ちていたのである、では何か記録できないかというとそうでもない、とにかく戦(いくさ)のことは事細かく記されているからだ
その時の関心は戦国時代であり相馬氏がこの一体を支配することが優先課題だったからである
だから700人溺死としか記されないのは記すのは相馬氏の役人でありそれが戦争の記録より重要ではないということで二行しか記されなかったのである
庶民には記録として残す力もなかったとなる、何か碑を建てるにしても金がかかるからである、それだけの被害があったとき何か記録として残す財力も知力もなかったということである

時間軸でみるというとき地史になると億の年月をみる、それだけ長い年月で地球は変化する、そうなるとその時間軸で見るのはさらに困難になる
でももともとそこがどういう地形なのか知ることから時間軸で見ることになる
それは今回の津浪で海だった所は海に戻ったとういことでもわかる
塩崎の方が低いから船着辺りまで海になった、そこは古代に本当に船が着く場所だったのである、だから地名というのはそれだけ化石のように古いとういことである
それは地史の記録としてあるともなる

ともかく時間軸で見れないという時、不可解なのは磯部の佐藤氏一族が支配していた
でも高潮の被害があり今の相馬の道の駅の鬼越館に移った
そしてその後に大きな慶長津波が起きたのである
ただその記録は何もないからわからない、でもなぜ移ったのかというのが解せない、危険を感じたことはわかる
そもそも磯部とは海岸に接してあるのだから危険を感じたともなる
鬼越館なら津波とは無縁である、でも津波でも近くまでも来ていたのである

そしてもう一つ松川浦にあった諏訪神社である、それも慶長津波の前に今ある所に移動している、そこに津波で流された船がひっかかったとかの伝説がある
そんな奥に船が流されたのか?ただ小泉川があるから津浪は川をまず上ってくるから船でも津波に流されたことはありうる
でもなぜ慶長津浪の前に諏訪神社が移動したのも謎なのである

なぜそうなるかとなる人間は時間軸で起こることを明確に記録しない
そして奇妙なことは江戸時代の年号あるとする、すると時代順にも見れないおかしなことになる
それは明治時代と大正時代と昭和は区別する、でも江戸時代の年号だといろいろあって時間の順序を間違うのである、人間はその時代時代を生きる、明治に生きた人と江戸時代に生きた人はまるで違った環境で生きていたのである
でも時間がすぎるとそういうことすら不確かになる

人間個人でも人間が形成されるのは時間軸である、老人になってもそれまで時間軸で生きた経過がある、そして青春時代がみんなありここで基礎が作られ方向が決まる
だから十代から二十代は人生で一番大事な時だったとふりかえる
そしての時代は永遠に帰ってこないのである

時間軸で作れるたものがわかりにくい、消失しやすい、親でも死んでしまうと何か抽象的存在になる、でも親が作った家があるからその家に住んでいると親が残してくれた家があるとういことで家を通じて親を思い出す、つまり何か歴史で残された物を通じて過去の歴史を時間軸で残したもの自覚するとなる
それで結局古代とかなると縄文時代とかなると文書もなにも残っていないからその人たちが残した物で時代をみる、縄文土器とかかそうである
そこで何かあったのか記録もないのだからそうなる
そういう時代になると時間軸で見ることは至難になるのである

津浪は周期的ち3,400年に一回とか大きな津波がくる、でもその前に時間軸としてその記録がないのである、記録が消失しているのである
その記録が記憶でも失われたことが大被害に通じていたのである
過去の記憶でも記録でも失いやすいのである、津波でも十年すぎると一昔であり何か関心が地元でもなくなる、次々に新たなことが起こり関心がなくなる
常に今に追われているのが人間だからである
そこに人間の弱点があり天災は忘れた頃にやってくるとなる、台風だったら毎年来るから忘れることはない、でも津波となると三百然とか400年になるとそうなってしまうのである     




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磯部の高台の墓地は残った、墓地は高台にあり残るのが多い
佐藤氏の墓が多いのもわかる

諏訪神社御祭神・・・建御名多方神   八重事代主神

奥相志によると、神護景三年(769)信濃の諏訪より宇多郡尾浜村一二ケ所に勧請しましたが、天文七年(1538)四月一九日に黒木に遷座しました。

築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云われる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤伊勢館)に居を構えた。しかし、海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したという

1611年に慶長津波があった、でも諏訪神社は1538年に黒木に移っている

佐藤氏は1563年に磯部から鬼越館に移っている

70年とか50年とかのあとに慶長津波が来ている、でもなぜ移ったのかその理由がわからない、ただ佐藤氏は高潮のためだと明確に記している
この二つが慶長津波の前に移動している
それで慶長津波の被害はなかった、でも磯部にしろ慶長津波の記録は一切なのである
ただ諏訪神社に津波で船が流されてきたという伝説がある
小泉川を津波がさかのぼるにしてもかなり奥なのである
なぜそうした伝説が生まれたのか謎だとなる
つまりここでも時間軸で記録されるものが少なすぎるから不明になる
それで歴史がわからなくなるのである

posted by 老鶯 at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2020年11月25日

大東銀行の危険 (SBI証券に狙われているーアメリカの覇権は終わり衰退する)


大東銀行の危険

(SBI証券に狙われているーアメリカの覇権は終わり衰退する)

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大東銀行もかなり危険である


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竹中平蔵とかこれらは仲間だとしている


youtubeのオリーブの木という新しい政治団体の説明がわかりやすい、まず金融を理解するのは至難である
福島銀行がSBIに買収された、島根銀行もそうである
零細な地銀はもう経営が成り立たなくなっている、結果的にどうなっているかというと
そうした地銀でも外資のSBI証券に買収されて合併してその持っている金が使われという

それはすでに農林中金でもゆうちょでも危ないCLOとかのジャンク債とかに投資している
その巨額のマネーが消失するとも警告している
それは優良な投資先がなくなった結果としてそういう危険なものに投資する
それは巨額な年金でもそうなのである
それはまた国際金融資本の餌食にされているともしている
国際金融資本とは何か?ロックフェラーとロスチャイルドと言った大財閥だとしている

そして現代の経済の矛盾は労働所得と不労所得があり金融など利子を得る不労所得が倍以上に増大している、つまり金利とか株で稼ぐことが増大している
それで不可解なのはこれほどコロナウィルスとかで経済的に困窮している時なぜ株が上がっているのか?
それは景気がいいからではない、何かここに現代の資本主義の矛盾が現れているのだ
要するに弱肉強食の資本主義でありそれで国際金融資本家が莫大な富を得るとなる

こういうことができるのはアメリカという覇権国家があってできることである
覇権国家というときドルが基軸通貨であり石油でもドルでしか買えない、するとドルの価値が高くなる、ドルが世界中で欲しいとなる、それでエジプトの端でロバに乗った少年がワンド―ラーくれとなるのだ、それはアフリカの果てまでそうなっているのだ
それだけドルは世界で通用しているのである

でも今やアメリカの覇権は怪しくなってきた、大統領選挙でもそうである、アメリカは分断しているのである
第一数パーセントの人がアメリカの富の50パーセントを持っているというのも異常である、そんな国が一体感をもくのかとなるからだ
確かに奴隷はいないにしろ実質的に奴隷にされていると同じだからである

アメリカは何かそうした矛盾があり内部分裂して国が衰退してゆく
それはやはりカルマなのである、これまでは日本がと戦争に勝利したとかアメリカの世紀だったのである、でもアメリカは間違えなく衰退してゆく
それはカルマの法則でもある、アメリカは世界に富をもたらすというより世界からの富を収奪して貯えすぎたともなる、だから本当はそうした金は世界に放出して世界を豊かにするべきものである、そういうこともあったが国際金融資本家とかはそうではなかった
金融を操作して巨額の金を得ていたからである
つまりそれがカルマとなり自らがそのカルマのために崩壊してゆくとなる

みんて金を欲しいというのはわかる、でも金がありすぎるのもカルマとなりそれが個々人でも家族でも国家でも災いをもたらしてゆくのである
たいした金ではないにしろそういうことを自分でも経験したからである
遺産で金が入りそこで大金を奪われたとか災いが生まれた、その金は家族の一人が公務員であり公務員は特権がありそれで金を残していたとなる
家族にとって自分にとってはいいものではあったがそれがみんなのためになったとはならなかった、その金でもみんなのために使うものとしてあったとなる
そのことは天文学的な金を集めた国際金融資本家にも言えるのだ
その規模があまりに大きいからそれが国家を圧迫して災いを生み大きな国家破綻でも起きてくるのである
みんなが苦しんでいる時株価があがりもうけて喜んでいることが人間としてまともな経済なのかとなるからである
経済とは経世済民であ民を救うものだからである
たた私的には株をもっていれば良かったとはなる

ともかく今起きていることは資本主義崩壊前夜として起きているのかもしれない、そして確実にアメリカの覇権国家の役目は終わりアメリカは衰退国家になる
アメリカは世界から富を収奪しすぎたからである、それがカルマとなり衰退してゆく
それがやはりカルマであり逃れることはできない

アメリカの時代は終わりつつある!

これを日本も自覚するべきである、では中国がアメリカに変わる覇権国家になるのか?
それもわからない、共産主義は過去に失敗したものでありその亡霊がまだ生きているとなるからである、それで世界を指導できるとは思えないからである
一応ヨ−ロッパであれそこに世界を主導するものがあった、アメリカでも民主主義とか世界を主導するものがあった、でもそれも消失しつつある
では中国の共産主義がその代りになるのかというとそれは過去に失敗したものでありその犠牲も死者が何千万とか粛清されたとか危険なものだった
だから中国にはついていけないとなる

では次に来るべきものは何なのか?

それはわからない、ただ資本主義は限界にきてアメリカは衰退する、基軸通貨のドルも信用されなくなる、次に代わるものが模索される時代になる
そういうときにコロナウィルスが世界に蔓延したのである
これによっても世界が変わる、グロ−バル経済は後退するしオリンピックは商業主義オリンピックであり平和の祭典などではない、だからこれも中止させられるのは神意だとなる
何か時代が変わる時人間だけの力ではない自然災害とか天変地異が起こり大きな変化が易姓革命が起きる、それに人間は逆らうことはできない、この世は人間の力だけで成り立っていないからである、それは津波で原発事故が起きたように原発をやめろという神の意志が現れたともなるからだ

ともかくアメリカの時代は終わりつつある、これを日本は自覚すべきである
だからアメリカは日本から軍隊でも撤退する、アメリカに日本を守る力がなくなっているからだ、そうなるとき日本はかなり厳しい状態になる
でもアメリカに頼ることはできなくなる、これは止めることはできない
アメリカは分断して衰退してゆく
希望的観測としては中国も分断して国力がそがれるとなると日本にはいいとなる
そういうことが神意として起きるかもしれない、ただ確かなことは資本主義は限界でありアメリカが衰退することは明らかである
そこから金融でも経済でも軍事でもあらゆるものを見なければならないとなる

なぜならSBI証券とか外資に日本の富が奪われるということはアメリカに富を奪われることでもある、それはアメリカが覇権国だからそうできた
でもアメリカが衰退することは経済でも頼るべきではない国となる
だから日本がの富を外資に売り渡すことは危険だとなる
それはただ大損になるだけだとなるからだ、金融でもアメリカに頼らない日本連合が必要だともなる
ただSBI証券とかまた竹中平蔵とかは外資のエージェントでありそれで私腹をこやすものとしてオリーブの木では批判している
そういう事なのかとyoutubeで理解した、説明がわかりやすいので百万以上見ている人がいる、それはマスコミでは一切報道されないのである

posted by 老鶯 at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

南朝亡ぶー霊山城を逃れる落武者―短歌十首


南朝亡ぶー霊山城を逃れる落武者―短歌十首

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野馬追いにでる南朝の天皇の菊の紋



一時の雄姿にあれや顕家の南朝亡ぶ朝散る桜かな    

霊山の巌黒々と夕暮れや桜のここに散るもあわれかな

霊山の滅びてその裔野馬追に出でて翻る旗印かな

南朝の裔の只野家かたわらに歴史を語り秋の蝉鳴く

古霊山の巌黒々と我が入りて落葉の深く踏みて帰りぬ 

霊山に人の入らぬ所あれ落葉の深く午後の陽さしぬ

南朝の滅びし跡を尋ぬれば何か残らむ草の花かな

風に舞う木の葉のあわれ霊山城逃れ落ちのぶ道をたどりぬ

一時に紅葉陽に映え美しき渓流の音下よりひびきぬ

雪厚く我が踏み上る山頂や学問岩のここに埋もれぬ  


今回は霊山まで行けなかった、大倉から通行止めになっていたからである
でも霊山には何度も行ったので回想して短歌を作った
古霊山というのが奥にある、そこはあまり人が入らない場所である
だから何か神秘的なのである、霊山城は十年で炎上して終わった
でもその前に天台宗の僧侶が多くこもっていたとかその歴史が良くわからない
南朝の城の前に寺があったとなる、それで学問岩とあるのはそこで僧侶が学問していたからだとなる
でもそれだけの人数を養える場所なのかとなるとありえないとなる  

霊山は阿武隈高地北部に位置する玄武岩の溶岩台地。伝えによれば、山寺は貞観年間に慈覚大師円仁が開山したという。天竺の霊鷲山に擬して霊山と名付け、山王の社を勧請した。
霊山は自然の要害をなし、山道と海道を扼する要衝の地。しかも顕家が入った頃、霊山寺には大規模な僧坊が組織されていた。延暦寺の末寺として僧兵も抱えており、顕家はその軍事力を頼みにたのじゃろう。

何か寺というと今の感覚では武力とは関係ないと見ているが僧兵もいてそこは一つの城として自立した自治をしていたのである、だから僧侶が武士になったという説がありそれもここでもあったのかとなる、とにかく要害の地だから城にするには適していたのである
そしてその前に寺があり城とするのにはさらに適していた
何もないところから城を作るのは容易ではないからだ

霊山城が滅びる時逃れてきたのが鹿島区の只野氏だったのである、その人は同級生であった、そして鹿島区には只野姓が五十人くらいいるのである
只野一族の町だともなる、その基は郡山の多田野村から発していたのである
ただ相馬市の方にも落ち延びた、そして野馬追に菊の旗が出るのは南朝の旗なのである
菊は天皇の旗印だからである

この霊山城が炎上して滅びたとき落ち延びたときに敵にわからないように扮装したのが
宝財踊りの起源なのである、それはこの辺では広く伝えられている
北海道に移住した人でも宝財踊りをその土地で伝えていたのである