静的と動的なものに分けた世界観
(東洋と西洋ー動物と植物(山や木や石)に分けてみる)
自然をどうみるか?それは中国だと陰陽とかヨ−ロッパだと言葉まで男女に分けて冠詞がある、自然を二つに分ける、男性的なものと女性的なものに分ける
男性と女性ではそれだけ体から心まで違っているからである
男性は動物的となり女性は植物的となる、ただ両方を兼ね備えたものもある
中性名詞とかあるのもそうである
この二つに分けて自然を観るというとき動的なものと静的なものというとき動的なものは動物であり静的なものは植物である、これは明らかに区別される
この二つ分けて自然を観ることもそうだが例えば東西文明をみる、すると一体東と西とは何なのかとなる、東洋文明と西洋文明の相違は何かとなる
歴史的にも世界史でも二つに区分して観る
つまり西洋というか西は動物的であり東洋は植物的である
東洋文明というとき何かとなると思想的文化的に見て植物的静的なものとして追求されて来た、仏教は沈思黙考だから座禅を組んで悟りを開くとなると本当に静的であり木や石のように動かないものとしてある、仏陀は動かない、静止して悟りを開く
菩提樹の下に座りつづけ瞑想して悟りを開く、東洋というときインドから発した仏教に由来ふるものだとなる
インドの思想は植物的であり静止することなのである、それから中国でも老子の思想もそうである、その思想には共通したものがある
宗教は心の内面の追求だから植物的なのである、常に動くものと動物的ではない
ただ動物でも牛は動かないから老子は牛に乗っている
そこに共通したものがある、ただ中国は戦争の歴史であり政治の国である
だから東洋と言ってもそこにインドとは異質なものがある
宗教はもともと静的なものである、キリストでも天国はその心のなかにあるというとき外にない内面を追及するから静的なものである
イスラム教は何か攻撃的であり東洋とも言えないが宗教ということでアジアに属しているそして世界史をみるとき興味深いのは生態史観から文明を見た は納得する
イスラム圏とかアジアでも草原地帯とかは遊牧民の世界でありそこは世界史の揺籃の地帯であり遊牧民は馬で移動するから動的なのである
馬と牛を対比するとこれも赤と白のように違っている、馬は移動するものであり動的であり牛は静的なのである、農耕民はどちらかというと牛である
この砂漠地帯と草原地帯が遊牧民の世界であり絶えず移動する、それで移動するということは攻撃的なのである、だからジンギスカンのモンゴル帝国が生まれ世界を席巻したのである、そこでは大帝国の興亡がありその周辺は攻撃にさらされていた
中国は万里長城を作るとかその攻撃から守るためにそれを作ったのである
そうして遊牧民は動的であり攻撃的でありそこに安定した社会を築くことができず消耗されて文明が衰退した
でもその両端のヨ−ロッパと日本は海に囲まれてそうした遊牧民の攻撃にさらされることなく地力を貯えて資本主義が生まれたというのもわかる
ヨ−ロッパに封建制があり日本にも封建制があったからだ
砂漠地帯と草原地帯は交通が便利になる、ところが中国になると平原もあるが山も多くなる、するとどうしても交通には不便になる、交通が発達する地帯は動的になる
動的になることは攻撃的になる、外に向かう拡散する力が強くなる
それでモンゴル帝国が生まれたのである、また大帝国の興亡が激しいのである
それで力を消耗して近代化する力を貯えることができなかったという説に納得する
世界を二つに分けると分りやすくなる、陸の世界と海の世界に分けるのもそうである
大航海時代があり陸の世界から海の世界に移り世界は変わった
その延長としてアメリカが生まれた、そして海の興亡に戦争も変化した、太平洋戦争というとき海をめぐる興亡だったからである
その二つに分ける思想はコンピュターでもそうである、Tかゼロの二つに分けているからだ、それで作られているというのもその基に世界を二つに分けるということから始まっている
とにかく人間でも二つの世界に生きる、動的なものと静的なものである
じっとしているときもあれば動くときもあるからだ
現代はどちらかというと動的な世界だった、それは交通が発達したからである
鉄道であれ車であれ飛行機であれ動くものでありそれがグロ−バルになり世界が一つのようになった世界である、だから大航海時代から特に20世紀などは動的な世界である
世界を結ぶには交通が発達しなければできないからだ
ただコロナウィルスでそれが阻害されてその世界も変わる、社会は静的な方向に向かう
それは中世の世界にもなる、内にこもる閉ざされた世界になる
ただその時、東洋的な静的なものが復活するとなる
宗教とは静的なものであり内面の追求だからである
つまり宗教の時代とか思想哲学の時代というとき静的なものの追求なのである
私が追求したのは確かに旅ばかりしていたとなる動的なものである
でもまたどちらかというと一か所にとどまり引きこもりとして自然と一体化するアイディンティティ化してきた、だから詩の対象となるのは山や木や石と岩とか動かない静的なものなのである
何かその動かないものに平和があり心の安らぎ得る
それは木は神殿の柱であり建築は静的なものだから建築に興味をもつのである
木を知ることは静的なものを知るには欠かせないのである
木は本当に不思議である、木だけではない、植物には攻撃性がないことである
絶対に他のものを傷つけることがないのである
ある意味で無暴力であり攻撃をしない絶対的平和の象徴だともなる
山でも木でも石でもそれが相手を攻撃して傷つけることないのである
それは当たり前のように見るがそれは感動的なことでもある
人間には他者でも絶えず攻撃してくる性質があるからだ
木とはだから聖者にも見えるのである、他者を絶対に傷つけないものとしていつも静かに大地に根をはり動かないからである、それはまさに仏陀なのである
木と木の間には何か見えないが愛のようなものが流れている、気脈を通じてしいる
互いに触れもしないが目に見えないもので深くつながれている
木と木には通じ合うものがある、それは神殿の柱でありまた聖堂の柱でもある
植物的なものは建築である、山も建築だからである、それは動かないものなのである
ただ水は静止して鏡のようになることもあるが水は流動的であり恐ろしく水は流動的になり常に洪水とか津浪とかなる怖いものである
だから水は安定しない、海は安定しないのである、水は揺れ動いている動的なものだとなる
いづれにしろ動的なものと静的なものとに分けて世界を観る、すると世界を観ると分りやすくなる、それで陰陽の世界観とかが生まれた
東西文明を分けるのも動的なものと静的なもの動物的なものと植物的なものとして分けるとにかく動物でもそうだが肉食動物は攻撃的である、最も攻撃的なものは恐竜だったが滅びた、植物は攻撃しない、全く防御であり他のものを傷つけないのである
それが何でもないようで不思議なのである
なぜなら人間なら他者を傷つけないものはいないからである
そして世界でも攻撃的なる故に戦争が絶えなかったとなる
植物的非攻撃の世界なら戦争もなかったのである、インドはわかりにくいにしろあまり戦争がなかったようだし日本でも縄文時代は戦争がなかったというのも植物的に生きていたからだともなる、ただ狩猟とかもあり完全に植物的に生きることは不可能である
東洋と西洋というとき、植物的なものが東洋であり動物的攻撃的なものが西洋としても分けられる、その思想もそうだからである、だから宗教は非攻撃的な植物的なのである
それとは仏陀でもキリストでも老子でもそうである、相手を攻撃しないということで共通しているからである
キリストになると十字架で無惨に殺されても他者を攻撃しなかったからである
つまりガンジーのように非暴力に終始して終わったのである
とにかくこれまでは動的な世界でありグロ−バル化したがコロナウィルスで世界は静的な世界に向かうとみる、ヨ−ロッパでも大航海時代があり海を通じて動的なものになっていた、アメリカでも広大な土地がありそこで移動する、西へ西へと大移動があった
アメリカは静的な世界ではない、極めて動的な世界でありそれが世界を席巻したのである飛行機や車を発明したことがそうである、それがグロ−バル化を推進したからである
アメリカはまだ文明として成熟したものが作られていないのである
それは植物的静的な文化が文明が作れていないということなのである
だから攻撃的であり世界を力で征服するようになったのである
結局これからの時代の変化はグロ−バル化による経済至上主義から拡大する増産する経済成長の世界から何か内にこもる宗教とか哲学とかの時代になる
この世界をみると余りにも無駄なもの無益なものに費やされ過ぎたのである
人命でもそうだし労力でもそうだし物でも自然資源でもその浪費は膨大なのである
それがただ浪費となるだけではない、公害ともなった、原発事故だって実際は本当に必要なものかどうかわからない、必要でないものでも膨大なものが作られて来た
それが資本主義だともなるがそれがコロナウィルスを契機に変わるともなる
無益なもの無駄なものというけどそれが害になることが問題なのである
政治でも本当に膨大な人命が浪費された、何千万の人間が死んだのが20世紀だった
それも無益なことだったともなる
原発にしてもすまされるとしても作る、リニアが本当に必要なのかどうかもわからないのに作る、ただ技術は自然と社会を無視して技術は進んでゆく
それに歯止めをかけられない、そういうことを2000年前にすでに老子が警告していたのである
だからこれからそうして無駄を省く、禅宗とかがいいとなる、ミニマリストとかは禅宗の思想と同じである、そういうことが若者の間ですすめているのは時代の変化である
高度成長時代はただただ物欲の充足であり企業戦士として働くことしかない
そういう時代はすでに30年前とか終わっている
経済成長を望むのもわかるが世界全体にやはり物でも飽和状態になり暮らしそのものもを変えざるをえなくなっているのだ
それと同時に思想的にも変化してくる、つまり無駄を省いた社会になる
木をとりあげてきたが木とかには一切無駄がないのである
自然には無駄がないのである、人間だけが膨大な浪費をしている
それが経済成長としてすすめられたがこれからはそれはそもそもできない
だからこそ世界的に好景気になることは限界になった、日本は一番経済的に停滞した
でも世界的にも停滞してくる、そもそも自然は地球はもう文明の負荷を背負いきれない
縮小せざるをえないのである、世界的にこれ以上を物を増やすことはできない
もう限界なのである、だから物質から精神面の移行の時代になる
木の神殿
木は大地に深く根を張り
木は内に籠もり沈思する
木は他者を傷つけない
傷つけられても傷つけない
木は大地に深く根を張り
木と木は触れずして通じ合う
木は攻撃しない絶対守勢の力
木は攻撃できないもの
木と木の間に目に見えないもの
愛が流れて気脈を通じ合う
本当の力は静けさの中に宿る
一本の木は聖者である
木と木は連結して
神殿の大聖堂の柱となり
その屋台骨となり支え合う
それをこぼつことはできない
それは非攻撃的であり平和の主である
木は仏陀であり老子である
老子は牛に乗ってくる
牛は歩む大地を踏みしめて
人よ、木に習へ平和を知れ
平和は心の内にあり自然との融合にある
平和は攻撃することではなく
行動することでもなく平穏な状態にあり
武器を捨てよ、暴力をやめよ
我らは大地の上に平和の神殿を形成する
大聖堂を盤石の大地の上に建てる
それは神のとこしえの宮である
そこに豊かな実りを神から与えられる
神の祝福がそこに注がれる
Temple of trees
Trees are deeply rooted in the earth
The tree is trapped inside and ponders
Trees do not hurt others
Even if it gets hurt, it won't hurt
Trees are deeply rooted in the earth
Trees communicate without touching
Absolute defensive power that trees do not attack
Trees cannot attack
Invisible things between trees
Love flows and communicates with each other
The true power dwells in the tranquility
One tree is a saint
Trees are connected
Become a pillar of the temple cathedral
Support each other as the backbone
Can't spill it
It is non-aggressive and the Lord of Peace
The tree is a Buddha and Laozi rides on a cow
The cow tramples on the walking ground
People, let the tree know peace
Peace is in the heart and in fusion with nature
Peace is not about attacking
In a state of calm, not acting
Throw away your weapons, stop violence
We form a temple of peace on the earth
Build a cathedral on rocky ground
It is the eternal temple of God
God gives a rich fruit there
God's blessing is poured there
詩でもグーグルとかの翻訳で基本的に訳せている、だからここではAIの力を本当に感じるつまり人間よりAIが優れているのだ
ただ韻をを踏むとかもっと洗練された詩にするにはこの英訳に手を加えねばならない
そうなるとまためんどうになる
ただこれが英語を使う国でも詩人なら理解できるとなるだろう