2020年10月01日

花の変容(Flower transformation)


花の変容(Flower transformation)

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これはインタ−ネットに出ていた画像から変化させたものである
すると著作権違反にもなる
何かインタ−ネットには無数の画像がでているからそれをソフトで変えると創造したものになる
第二次第三次作品とはなる、これは抽象画に成り安かったのである

This is a variation of the image on the internet.
Then it also becomes a copyright violation
There are innumerable images on the internet, so if you change them with software, it will be created.
It will be the second and third works, which was easy as an abstract painting.

JRは乗客を人と見ていない (お上であり人を運ぶモノと見ているー無人駅のボランティアは排除されるだけだった)


JRは乗客を人と見ていない

(お上であり人を運ぶモノと見ているー無人駅のボランティアは排除されるだけだった)

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武田邦彦

本当にそこは人にサービスするということはない
監視しているのである、刑務所の中のように見回りしている感覚なのである
だから上からの目線で命令するという感覚なのである


ここで新幹線のことで見回る車掌がまるで監視しているとか客として扱わない
国鉄時代と同じで上から目線で命令する感覚だとか不満を言っている
それは武田邦彦氏は前も言っていたのである
何か気軽に話もできない、旅も楽しむことができないというのもわかる

例えば航空会社だと飛行機の中はキャビンアテンダント女性がいてサービスしているし親切である
鉄道の場合はそういうことはない、人間に対してサービスするという感覚がないのであるそれは自分が駅でボランティアしてわかった
いろいろ案内とかしてきた、それはただ偶然に無人駅になったからである
そこで聞かれたのでただ案内しただけである
ゴミ箱がホーム内にありゴミを投げる場所がわからないので私は乗客のゴミをホーム内のゴミ箱に捨てたりした
そしたら監視カメラで見ていて駅長が私にホームに入るなと今は常駐している高校生の見守り役に注意されたのである

そのこともそうだか何かと自分が無人駅でたりないものを言うとなんだこいつは目障りだとしていた、私がそこで何をしていたかはわかっていたのに何もするな、かかわるなという態度だった

無人駅だから何もしなくていいんだ!  

これがJRの基本的態度なのである、つまり人間に対するサービスは全く考えていない
だから新幹線で見回りしていても客を監視しているのでありサービスするという感覚はない、そもそもサービス業と考えていない
あくまで人でもまるでモノのように目的に安全に運ぶことを主眼としていて人に対するサービスは考えていない

人は乗せてやっているんだ、ありがたく思い!

これがJRの基本的態度でありまた国鉄時代のお上の上から目線の態度なのである
ただそれは自分の場合、ボランティアしても誰も認めない、乗客自体が風を吹いて遅れた時、案内したら血相変えてそんなことするなとわめいて怒っていた
そして遂にはあいつは怪しいやつだとして誰かが匿名の人が通報してきたのである
それもみんな集まっているとき公衆の面前で職務質問されたのである

だから別に駅長とかJRの人だけではなかった、結局誰も認めなかったということである
ただ私の目的は駅でいろいろな人と出会って情報を仕入れることだった
だからその延長としてたまたま案内していたのである

ともかくJRの問題はまず人を乗せているのではない、モノを目的地までに時間通りに正確に安全に運ぶことを仕事としている
人へのサービスは眼中にないのである
だから駅は効率的にコスト削減のために無人化する、車内でもサービスする感覚はない
だから弁当食べてもあとかたづけはしない、航空会社とは違っている
そもそも鉄道は貨物輸送からはじまったのであり観光で乗客をのせるというのは付随的なことだったのである

ただ時代が変わるとただ人を安全に運ぶとかではなく、人へのサービスも必要になる
つまり社会が豊かになると基本的に安全に時間通り運ぶのが基本であっても人へのサービスが必要になってくる、それでローカル線でも観光列車になりそこでは人へのサービスが求められるのである、今の時代はなんでもハードからソフトの時代になっている
観光業はソフトである、ソフトとは柔かなとなり柔軟な対応とかなハードとは違っているつまり鉄道が車に押されて客が維持できなくなるというときソフトの面で充実させることがかえって必要になる
鉄道を観光で利用するとなると何かソフトの対応が必要になるからだ

いづれにしろ今回のコロナウィルスで鉄道の客とか航空の客が激減したことには驚いた
鉄道まで激減した、それも何なのだろうとなる
それは自分に対する冷たい仕打ちから罰を与えたともとりたくなる
それも一方的でもJRは全く人間のサービスを無視した会社であるからそうなる
とにかく自分の駅でしたことは全く否定されて排除されただけだったとなる 

ただなにかにやといっても自分の場合はJRにはずいぶん乗ったから世話になった方でありそれであまり文句は言えないとなるがそれにしても自分にされたことはひどかったとはなる
それはなぜか、乗客でも駅長でも誰も認めなかったことである
でもそれなりに役立っていたのだがそれが認められなかった、余計なお世話だとなってしまったのである


なぜ態度が悪い?
このような駅員の態度の問題はJR東日本が発足してから起きたことではない。国鉄時代から続く内容である。

国鉄時代からのお役所体質
黙っていても会社が儲かる構造
もともとは公企業だったため、お客様への質の高いサービスというよりもただ電車を動かすことに重点が置かれていた。

JR東日本の駅員の態度が悪い人、なぜそんなに多いのか?

これはみんな思っていることである、だから今回のようなコロナウィルスで客が乗らないというときこういうことも考え直すこともあるとなる、どうしたら客を増やせるかとなる時、人へのサービスも考えざるを得なくなるからだ
要するに乗せてやっているという態度は収入が減ることもないからそうなっているからである



十五夜の月と電車の写真一枚


十五夜の月と電車の写真一枚

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十五夜や電車の行き来平常に

最初スーパーヒタチの写真を撮ろうとした、満月と写そうとした
広角レンズには収まったが列車はうまくとれなかった
その時満月は薄い雲に隠れて光っていた
だから写真をとるのは動いているとむずかしい、背景でも満月と一緒にとろうとしても雲に隠れたりするからである

今日は十五夜であり満月である、電車の行き来は正常にもどった
ただコロナウィルスでまた乗客は少ないし遠くからも来ない、駅でマスクしているから話すこともできない、写真をとるには困らない、ただ鉄道写真は意外とむずかしい
動いているからその一瞬をとらえるのがむずかしい
そこにスキルとカメラとレンズが必要なのである
夜景をきれいにとるとするとかなりの用意が必要である
そこまでやるとなると金もかかるしめんどうになる  

レンズが高いのには驚く,カメラ本体より高いのである
今のカメラでは夜景はきれいにとれない、ただ写真にこるとやはり景色でも見方が変わってくる、何か平凡なものでも違ったもものに見える
人間の眼とカメラの眼で二つで見れるから視野が広がる
こんなふうに見えてこんな写真がとれるんだとなる
それは近くでも一つの場面を詳しく見る、いろんな角度から見る
それで近くでも結構写真になるものがあると思った

一五夜の満月(川子の溜池)


一五夜の満月(川子の溜池) 

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カシオの月の満ち欠けを示す時計では完全な満月になっていなかった
明日が完全な満月なのである


十五夜や電車の行き来平常に

十五夜や一人守りぬ広き家

一五夜の満月光り実りかな

秋の雲溜池に映し鯉沈む   


溜池の水面にいくつか波紋かな川子の村の秋の夕ぐれ 

秋の蝉声の聞こえずあわれかな季節のすすむははやかりしかな


「十五夜の日は満月」という認識の方も多いかもしれませんが、実は満月は1日ずれることも多いんです。実際、2020年の十五夜は10月1日ですが、満月は10月2日になります。何故なのでしょうか?

それは、月は必ずしも15日ピッタリで新月から満月になるとは限らないから。時期によって13.9日015.6日と大幅に変わります 

時計で月の満ち欠けがでるのがある、確かにわずかに満月ではない、明日が完全な満月である
目測では満月に見える、でも機械の方が今は正確である、目測は誤る、とうしてしも満月にしか見えないからである

川子の溜池を写真にとった、それをどう撮ろうかと工夫する、その前にいろんな角度が撮ってみる、するとその中にこれはいいなとして選ぶのがいい、写真にとってみないとわからないからである
ここはいつも通る道だけど良く見ていなかった、人間はとにかく近くでも良く見ていないのである

ここに鯉がいたこともわからなかった、蛙はいる、何か波紋が静かにいくつか広がる
それが神秘的である、日本には溜池が多い、それはやはり自然ではないが沼のようになっているのだ、この写真だと溜池が村の中心のようにも見える
溜池があって村があるとなる

一五夜の供え物はしなかった、彼岸があり墓参りして花をさす、そういうことを一人でやるのが結構手間なのである
ときもかく季節は常に変わりもう今年は秋が早くすぎて冬になるかもしれない
もう秋の蝉の声は聞こえなかったからだ




2020年10月02日

無人駅の久ノ浜駅で私が経験したことと同じだった (無人駅の案内でたりないものが改善されていない)

無人駅の久ノ浜駅で私が経験したことと同じだった

(無人駅の案内でたりないものが改善されていない)

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原町駅

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双葉駅ほここから海が見える

今日は双葉を見て回り久ノ浜に行った、久ノ浜は無人駅である、そこで30分くらい待っていた
それで私が無人駅ボランティアしたことと同じことを経験したのである
私は良く乗客に聞かれたのである、上り下りの線があっても仙台行きがどこなのか
またいわき行きがどこなのかわからなくなるのである
それは表示がないからである
それで私は階段と駅舎のある反対側の待合室にどちらに行くか表示した方がいいと言ったそれが外からの人がわからないからである
また無人駅だからここで乗ったという証明になる切符をとりだすのがわからないのである
はじめての人にはわからない!

すると聞く人もいないので困るのである、それも最初は地元の人に聞かれたのである
だから教えていたのである、それでも地元の人はそういうことがわかってくる
でも外から来る人はわからないのである
ここに無人駅の問題があった、地元だったら無人駅でもさほど困らない、だんだん慣れてわかってくるからである、でも外から来た人はわからない
外から遠くから来た人はちょっとしたことがわからないのである
地理でもすぐ近くでもわからないということを誰でも経験している
だから地元の人に聞くのである、ただ人間だと親切に教えないのである
だからスマホを見ているのである
もし親切に教える人がいたら直接聞いた案内してもらった方がいいとなるのだ

私はそこにいた人が一人いたので仙台行きがどっちの側なのか聞いたのである
でも聞く人がいないと不安になる、なぜなら単線の場合があり必ず線がどっちになるか決まっていないときがあるからだ
だから外から来る人はちょっとしたことがわからないで戸惑うのである
その時聞く人がいなと不安になる
もし番線が間違ったら困るからである、何か昼間だと12時ころなのか4時間くらい電車が来ないとなっていた、今ローカル線はそういうのがあり困るのである

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これは私が言ってJRの人が設置したのである
だから言えばJRでは要望に答えてくれる
でも何も言わないと久ノ浜などの駅のように改善しないのである
だからJRが客の要望を聞かないということはないのである
お前みたいな門外漢は言うなとはなっていない
とにかく嫌でも設置したからである
他ではそんな無視することがある、原発はもう絶対に何も聞かない
何も知らないお前は口出しするなで終わりだからである


とにかく私は駅長とか水戸管理局の人が回ってくるので言ったのである
仙台行きといわき行、東京行きの表示をしてくれとそうしたらしてくれたのである
ただこれは要望しないとしてくれない、でもそれは最初は地元の人でも遠くの人でも困っていたことだから私だけの問題ではない、みんなの問題であった
だから要望すればJRではしてくれたのである
今日も駅のホームの反対側の待合室の板がはがれていたので直すようである
水戸管理局の人が常に点検している、でも何が困っているかそうして点検する人もわからないのである、私はいつも駅にいたから良く聞かれたから言ったのである
駅の改札する入り口の向かい側の待合室に仙台行きといわき行の表示をすればいいと言ったらそのようにしたのである

これはどういうことなのか?

私は駅長など煙たがられた、嫌がられた、何でお前が一人そんなことを言うのかという感じだった、でもそれは自分一人だけのことではない、みんなが困っているからそう言ったのである、そしたら改善したのである

まず普通何か要望しても一人だったら答えない、そんなのは無視される
でもそれはみんなが困っていることだからそれは一人のことではなかったのである
ただ何も言わなければ何もしてくれない、すると地元の人でも外から来る人でも困るのである、外から来る人はちょっとしたことがわからないからだ

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ここで乗ったという証明書がでる、あとは降りた駅で清算する

私は無人駅で乗った証明書が出る機械のことを知っていたからそれはできた
でもはじめての人は気づかないのである
地元の人は慣れてくるばわかるが外から来る人は慣れていないからわからないのだ
第一今や車社会で鉄道の乗り方すふらわからなくなっている人がいるからだ
だから頻繁に利用していればわかる、利用しないとなんでもわからなくなるのである

こういうことは原発にも言えたのである、原発がすぐ近くあったのだから中を見せて説明してくれとかなんとか言いたくでも言えなかったのである
これが大問題であり大事故になってとりかえしつかなくなった

それが爆発したりしたらどうなるのですか?

そんなことは絶対ない、だから何も言うな!

これで終わりである、だから駅のことに鉄道のことに口出しするなというと同じなのである、そういうことは今の社会に多すぎるのである
それぞれの専門分野がありそこには立ち入ることも何か聞くことすらできないのである
結果的に大事故になったり利用者が不便になったり困ることがあってけも放置されるのである
ただ久ノ浜駅の問題は誰も要望しないから案内板が設置されないのである
誰かが言えば個人でもJRでは設置する、それは私自身の経験でわかる 
久ノ浜駅では誰も言わないから設置されないのである

2020年10月03日

双葉町を十年ぶりにたずねるーその歴史から(1) (私の父親が酒屋で働いていた)


双葉町を十年ぶりにたずねるーその歴史から(1) 

(私の父親が酒屋で働いていた)

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明治4年7月14日(新暦 : 1871年8月29日) - 廃藩置県により中村県が成立する。
明治4年11月29日(新暦 : 1872年1月9日) - 中村県と平県が合併されて磐前県が成立し、現在の双葉町域は同県に属する。
1876年(明治9年)8月21日 - 磐前県・福島県・若松県が合併し、現在の福島県が成立し、現在の双葉町域は同県に属する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行にともない、標葉郡新山村(しんざんむら)と長塚村が発足する。
1896年(明治29年)4月1日 - 標葉郡が楢葉郡と合併し、双葉郡となる。
1898年(明治31年)8月23日 - 常磐線長塚駅(現在の双葉駅)が開業する。
1913年(大正2年)2月1日 - 新山村が町制施行して新山町(し

双葉町は、標葉(しねはorしぬは)と楢葉(ならは)の二つの葉がある。
この周辺には古墳が非常に多く、夫沢横穴古墳の長者原の地名、
標葉郷夫沢村は相馬中村藩領。


地名としての「広野」は天正10年(1582年)の藩主 岩城常隆の時「北迫村に広野立つ」とあるのが初見とされていますが、江戸時代の初期ここに相馬路(南方の岩城平から北方の相馬中村までの浜街道)の宿駅「広野宿」が設けられ、「広野」の名称が使われております。

「浜街道」の名称はすでに8世紀初頭「道(陸)の奥」の国府 多賀城に通じる官道「海道」として敷かれていたことに始まります。

「続日本紀」の養老3年(719年)の条には「石城国始めて駅家一十処を置く」とあり、その一処がこの地に置かれた可能性も考えられます。

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双葉町の歴史は相馬藩からみると夜の森がある、夜の森とは夜は余のことだった
相馬藩の殿様が余の森と言ったからである
この辺は森で覆われていて磐城藩との境目であった
それで領地争いがあり、小良ヶ浜(おらがはま)というのも俺の浜だという意味であり境目だから起きたことである

双葉町は古代からの歴史があり末続(すえつぐ)が須恵、陶(すえ)から由来していて
島根県の出雲に末次(末継)の元があり渡来人が来た道でもある
前にも考察したように韓国の伽耶国のツノガノアラシトが鉄を求めて砂鉄を求めて来た道でもある、だから必ず諏訪神社が東北に多い、蝦夷といわれたとき出雲のことだったということでもそうである、そして島根県とかの方言のズーズー弁が東北のズーズー弁とにているというときそこに深い関係があった、つまり蝦夷というとき出雲と深く関係していたのである、だから出雲と古代は関係ずけられる

そのあと戦国時代になると相馬藩(中村藩)と磐城藩で争いがあった
その境目になっていたのが双葉郡になる、争っていても磐城藩内から相馬藩に移る人もいた、不思議なのは久ノ浜の大久川という地名である
南相馬市に大久氏とか大悲山(だいひさ)という姓がありこれの由来はここから来ているのだろうか?
なぜなら姓の発祥地は地名であり村に由来しているからである
末続(すえづき)は墓地の八割が新妻の姓だった、新妻氏の子孫だとなる、それは磐城藩から移り住んだともなる
要するにここは江戸時代に境界でありそれを知る必要がある

それと双葉郡はもともと新山村と長塚村がありそこが宿場となっていた
なぜ二つの村が宿場となったかというとそれは村で中村藩の人を迎えるのに負担になったから分担したのである、宿場とは村の人にとって負担になっていたのである
常磐線が通った時、双葉駅はなかった、長塚駅だったのである

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この双葉町と私の父親と深い縁があった、なぜなら私の父親は葛尾村(かつろう)から新山の酒屋で丁稚として働いていたのである
今の富沢酒屋店との隣にあった酒屋だったのである
富沢酒屋店には古い煉瓦の煙突があり相当に古いことがわかる
明治時代からもあったのかもしれない、酒屋はたいがい古い、酒屋で働く人が多かったからである

そこで私の姉が良く銀行のことを言っていた、子供の時、父親の酒屋に行き銀行がありそこで遊んだとか言っていた、その当時銀行があることはめずらしいことだったのである
だからそういう話を聞いたから人間はそれで思い入れが生まれる
とにかく私の父親は葛尾村から出て双葉の新山で働き暖簾分けして鹿島町に来たとなる
また母親は原町で警察署長していたが警察だから転勤していた
それで名前はトミ子なのだがそのトミは富岡と関係あるらしい、つまり富岡で生まれたからだとか言っていた、姉はハマ子と名付けられた、浜は磐城か小名浜で生まれたからだという、その土地に生まれたのでそう名付けられた
これも昔となり私の家族はみんな死んでしまった
こうして双葉町とは縁がある、やはり相馬藩内縁戚関係がある
葛尾村でも双葉町でも浪江町でもそうである、新地町とも関係がある
なぜなら私の父親の前の妻は新地の人だったからである、今も私の墓に眠っているからだだから相馬藩内に関係していたのである
昔は近くの人と結婚することが多いから縁戚関係になっているのが多かったのである

ともかく町がゴーストタウンになるとこうした歴史とか思い出が消失してしまう
それは古い歴史だけではない、何かそこで培われた思い出が消失する
そして老人になるとわかるがみんな親でも死んでしまう、すると後に残るのは思い出だけなのである
それで私は一人になり延々と家族のこと家のことを思い出して短歌とかにしている
家に愛着がある、それはどこでも同じなのである
家の愛着はみんなある、そこで暮らした思い出がありその思い出はその土地と深く結びついているのである、だから家がなくなるとまた街全体がゴーストタウンになるとそうした思い出が失われる、それが大きな損失となっていたのである
老人は思い出に生きる、それで老人は帰りたいとなるのである
要するに思い出がしみこんだ町が故郷になるからである

とにかくまるでそこは映画のロケのセットのようになった場所だった、それで写真をとりに来る人が多い、つまり前も小高などでそうだったがそういうことが継続している
興味半分で廃墟の街を見に来ているのである

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新山橋

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昭和22年に作られた、戦争が終わり私の生まれた年だった

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この橋の近くの富沢酒店の隣に私の父親が働いた酒屋があった
でも戦前に倒産してなくなった


それで不思議だったのは出会い橋という石の橋だった、作られた年代も書いてあり
水が流れてひびいていた、でももうここには出会いがなくなった
なんともわびしいとなる、ただ興味本位で見に来る人は多い、こういう街全体が廃墟化したのはなかなかないからである
でも現実は貴重な歴史でも思い出でも失われたことを知るべきである 

石の橋出会い橋かな流る水ひびくも逢わじ秋の日暮れぬ

ここで出会ったが今や逢わない、鹿島の落合橋のことをプログで書いたが何か橋というのは人が出会う場所なのである、ここで人が出会っていたのである
石の橋は新山橋であり出会い橋と名付けた橋は元からあったのではなく何か勝手に出会うからと名付けた
ただ川としては小さい、でも水が結構流れていた、雨が降ったからだろう
自然でも人間が住まないと活きてこないことがある、つまり人間化した自然としてあるからそうなる

我が父の新山働く酒屋あり故ある地や秋の日暮れぬ     

我が父の酒屋に働く双葉町姉は語りぬ虫のなくかな 

私は姉と母と60年住んでいたから忘れられないのである、だから延々と書いているのである、その思い出に連なるものとして双葉町があった
でも双葉町という名前ではない、長塚と新山という名前に親しみかある
何か地名というのは思い出として記憶として心にすりこまれる
双葉町となったときそういう記憶が失われるのである、ここに合併とかで失われた地名の問題があった
人間の記憶が長い年月で作られる、そういう人が生きた記憶が歴史でもある
それで老人は故郷に帰りたいとなるのである
その喪失は思った以上に大きなものなのである
つまりそうした記憶が貴重なのはそれこそ生きたことの証だからである
そういう記憶がもう作れない、あとは死ぬだけになってしまったからである
記憶こそが生きた証(あかし)になっているから姉は認知症になっても昔のことを語りつづけたのである

私の家族が死んだとき本当に悲しかった、でも今になるとだんだん記憶がうすれ歴史と化してゆく、その自分の家の歴史に連なるものとして双葉町があった
やはり親までは深く継続した歴史というのではなく生々しい記憶として残っている

posted by 天華 at 08:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

双葉町の放射線被害 (森が異常に高いーモニタリングポストは信用できない)

双葉町の放射線被害

(森が異常に高いーモニタリングポストは信用できない)

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ふくしまの今 2019


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4キロ離れてこの数字でありえない、0.08なのである

ただ百メートルもない森は10くらいあるのかもしれない

土台をコンクリートの足で固め、その上に鉄板を置き、そこに検出器を載せている。これでは矢ケ崎氏の言うように、地面に落ちた放射性物質から発する放射線が遮蔽され、肝心の検出器まで届かないのである。

国の放射線量デタラメ測定 文科省動かした科学者らの告発

こういうことかもしれない、コンクリートの土台がありそこからは放射線を検知することはできないからだ

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海岸の松は残っていた、多少高台にあり自然の松らしい
でもこれだけ残っていることは不思議である


双葉町で駅の通りなど0・5マイクロシーベルトで低い、でも山田地区から原発方面の森の道を行くと一番高い所で20マイクロシーベルトあるとyoutubeで報告されている
それは東電の人が計ったのではない、一般の人が機械で計っている
それは正確なのである、今や一般の人が放送局のようにして報告しているのが普通であるだからビデオカメラで撮影する人がいた、二人でしていたから放送局の人かと思ったら違っていた
何か双葉町は長く人が入れない地域になっていた、でも今はどこでも入ることができる
ただ入れない場所はアーケードしていて人が守っている
でもたいがいは入れるのである

私が海岸の方に行ったらそういう場所があった、その森の坂の道の向こう側が4キロくらいに爆発した原発がある、だからひっきりなしにトラックが来ていた、4キロとなると一時は死ぬとされた、そのくらいに危険だった

そこで疑問に思ったのが放射線のモニタリングの計測器を見たら0.05マイクロシーベルトと表示してあった、こんなことありえないと見た
それでそこのアーケードで守る人に聞いた
なぜこんなに低いのかと聞いた、その人は結構話できる人だった
何か話できない人がいるし話ししたくない人もいる
なんでもこの辺は津波がきて放射性物質も洗い流したせいだとか言っていた
すると爆発したと同時に津波が来て放射性物質も流れたのか?
これも良く科学的にわからない話である

ただモニタリングポストの値は確実に半分と見ていい、それは飯館村で村民が指摘していた、ごまかしたとしていたからだ
それで私自身も計ったらモニタリングポストの回りは確実に倍以上あった
なぜならモニタリングポストの下の土をとって計っていたからである
低く見せるためにそうしていたのである、そこで大成建設の人が働いていた
そこにごまかすことをしていたとなる

その人が言っていたことはすぐ近くの森は高いと言っていた
それはどれくらいかというとyoutubeでは20マイクロシーベルにもなっていた
それは原発に接近すればするほど高くなっていて最高でそうなっていた
だから原発との距離と比例して高くなっていたのである
近ければ近いほど高いのは当然だとなる
それから森の中の高いのは森に蓄積されやすいということがあるだろう
つた森は除染できないからいつまでも高いとなる
それで7割が森に囲まれた飯館村は森を除染できないので放射線を低くできないのである駅通りとかはやはり除染の効果があり低くなったのか、0.5はまだ低くすぎる
というのは浪江町から双葉町にバスで入った時、浪江町で0・5であり双葉町に入ると
7マイクロシーベルトになっていた、それには驚いた

なぜこうして大きな差が出たのか?

それは原発の爆発で出た放射性物質はブルームとなり雲の塊りのようにして流れたからである、平均に分散するというのではなかった
それとその時の風向きが影響した、東風が春に海から吹きそれが山の方へ向かって吹いたその時運悪く雨とか雪がふり放射性物質が雨と雪とかについて降った
それで山側は高くなったのである
海側は低いということは確かである、それで浪江の東電の人が町長が山の方が安全だからと津島に逃げた、でもそこは一番放射線が高い場所になっていたのである
でも東電の人がいて海側の方が安全だとして町民も従って街の方へ引き返した
つまり海側の方が安全だったのである、海側は低いのである
海の方に放射性物質が流れたからである

だからあそこの海の近くが低いことはわかる、でも0.05というのは納得できないのである
いづれにしろ双葉町にしろ大熊町にしろ回復不可能とも見た
住民は帰ってこない、町は放棄されたとなる、ただ廃炉事業に40年もかかるとしたら
その仕事は延々とつづく、そのための施設が必要でありそこで働く住民が必要になる
原発ができたときから原発の町と化して東電の社員のようになっていた
下請けで働くとかなんらか東電と関係していた、もう東電なしでは原発なしでは成り立たない状態になっていたのである

でも津波であれだけの松が海岸に残ったのが不思議である
南相馬市では特に鹿島区の人工林だった松原は一本の松も残らず消失したからである
あそこは多少高台になっていて残ったのか不思議である
あれは人工林ではなく自然林の松のようだ   
双葉町は津波で死んだのは20名くらいである、だから被害は少なかった
海岸には港もないし人もあまり住んでいなかった
久ノ浜のようだったらもっと被害があった、だからその点で津波だけだったらこんな被害になはならなかったのである

いづれにしろこの放射線の被害は森はほとんど除染不可能であり放射線の量が減らない
森の中で放射性物質が循環する、木の葉が散って落葉になっても放射性物質は消えない
セシウムは30年消えない、プルトニウムは二万年消えないという恐ろしいものだったのである、ただ見えないから意識化することがむずかしい、でも機械があれば誰でも計測できることが違っていた
コロナウィルスとなると計測できない、だからそのことで不安が増すのである
そしてその感染者の数におびえていることは同じだったのである
とにかく数値が問題になるのである、数値に一気一憂する
でもそんなに心配しなくてもいいというのはコロナウィルスの場合であり放射線量は素人でも正確に測れるのである、それは科学に詳しくなくても素人でもわかるのである

だからわからない素人は何も言うなというのは間違っていた
私が駅のボランティアでJRの駅長でも管理している人に仙台行きといわき行の表示を跨線橋にしてくれと言ったらしてくれたからである
原発ではそういうことはありえないのである
だからそこは完全なブラックボックスになっていた、安全神話というブラックボックスになっていた、それがどれほど危険なものか、今になってわかったのである
ただ時遅しとなっていた

この世の中は権力というのは怖いものなのである、権力によって科学でもゆがめられる
社会も歪められる、そのく権力が誰が持つのか、それが大問題なのである
原発の場合は権力をもっている全部で「安全神話」を作りブラックボックス化した
政治権力、官僚の権力、科学者(御用学者)、マスコミ・・・・・
これらが一体となり安全神話を作った、こうなると誰も逆らうことができなくなっていたのである、カルト宗教団体とか創価なども一枚加わっていたし意外と宗教団体は原発に抵抗しない、推進派になっていた、創価の場合は大成建設と富士山の正本堂建設で受注して密接な関係になった、つまり権力と権力は結託して利益を計る
利益でみんな結び合うのである

そして創価の雑誌の潮とか第三文明では原発を宣伝して宣伝費をもらっていたのである
何でも御利益ならとりつくからである、そして利益を配分するということでは同じなのである、第一仏教でも神社でも御利益宗教である、集団化すればみんなそうなる
御利益を配分するには東電のような有力企業にとりつくとなる、それは暴力団ともにているとなる
官僚は天下り先が東電でありマスコミは電事連からでも800億円が宣伝費として出ていた、それでマスコミで反対することはなかったとなる
東電によって爆発したとき朝日新聞ですら幹部が中国に招待されていたからである  

民主主義でもマスコミが報道を独占したように公平な報道もなかった
ただマスコミはテレビ六局で報道を独占していただけである
なぜら他は報道はできなかったからである、なんかyoutubeが生れて双葉町をビデオカメラをもって取材していた、放送局だと思ったら違っていた
別に個人的youtubeで双葉町のことを報道している、それが参考になる
つまたテレビ六局時代の独占は終わったのである
こうしたプログなど誰でもできるしたいしたことないともみる
でも意外と文章でも写真でも主張したり報道できるのである
つまりマスメデアとメデアでありその内容よりメデアであること報道する装置をもっていたことによって権力をもったのである
だからテレビウィルスが強力なものとなったのでてある

このようにあらゆる巨大権力が合体して一体となればそれに逆らうことは不可能である
「安全神話」とか創価の選挙の不敗信仰とかも似ている、戦争中の現人神(あらひとかみ)信仰の不敗神話もそうである、それはあくまで人間が作ったものであり絶対に安全などこの世にないのである
だからこそ津波であれバベルの塔のように崩壊したのである、神によって打ち砕かれたのである、この世の権力がいかに巨大でも全能の神にかなうことはないのである
絶対安全などこの世に人間の力で作りだせないのである
原発というのは確かに事故なのだがそれは巨悪でもありそれが津波によって自然災害によって暴かれたということがあったのだ   

まずこれだけ巨大化した権力になると対抗できないからである
だからこそ神の力によって砕かれたのである、つまり神がどこにいるともなるがなんらか神が人間に作用することがある、コロナウィルスでもグロ−バル経済をとめたようになんらか神の力が働いたのかとも思うからである
第一世界的なグロ−バル経済など止めようがないからだ
そんな力もまた人間にはない、でもこのまますすむと世界中でグロ−バル経済、資本主義経済の横暴が覆い地球自体が滅びるとまでなる、生態系が破壊されるて住めなくなるとまでなる、その実例が原発事故だったのである
一時吉田所長が東北に住めてくなると恐怖したからである
そんな空恐ろしいものを作ったことが問題だったのである、だから罰当たったともなる
神からの警告として津波があり原発事故になったともみるのである 

新しくできた原発伝承館を見た、600円の入場料をとられた、映像がほとんどであり見るべきものがなかった
そういう映像は前に見ていたからである、ただここも建物だけは立派だった
中味はなかった、何か建物とかは立派になった、駅でもエレベーターがあるのでうらやましく思った
それは避難区域になったところは建物だけは立派なのである
でもそこに住む住民がいないのである、そのアンバランスが何か原発事故の復興を象徴していたのである

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2020年10月04日

原発事故は必然的に起こった (無数の配管が痛んで老朽化して地震でも壊れる―素人集団が作っていた)


原発事故は必然的に起こった

(無数の配管が痛んで老朽化して地震でも壊れる―素人集団が作っていた) 

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十一人の死傷者を出した美浜原発3号機事故。直径五十六センチもある主要な配管が破裂するという重大事故です。破裂個所の配管は運転開始から二十八年間一度も検査が行われていませんでした。昨年十一月に協力会社から摩耗の可能性を指摘されていながら、九カ月も放置したまま運転していました。なぜこんなことが起こるのでしょうか

電力会社まかせでは、原発の安全は守れないことを示しています。原発の安全性をチェックするための科学的基準を確立し、それに基づいた第三者機関による厳正な検査を行うことが早急に求められています

福島原発事故でも地震によって配管が破損し重大事故につながったことが立証されている。これまでも頑丈につくられた原子炉本体よりも数百〜数千本といわれる配管の破損が原発の重大事故の原因となっている。しかも長期間運転を停止していた原子炉の再稼働では配管などの劣化が進み危険性が高まることを専門家は指摘している。

素人が造る原発 

筆者「平井憲夫さん」1997年1月逝去。1級プラント配管技能士

これは読みごたえがある

 原発でも、原子炉の中に針金が入っていたり、配管の中に道具や工具を入れたまま配管をつないでしまったり、いわゆる人が間違える事故、ヒューマンエラーがあまりにも多すぎます。それは現場にブロの職人が少なく、いくら設計が立派でも、設計通りには造られていないからです。 

 原発にしろ、建設現場にしろ、作業者から検査官まで総素人によって造られているのが現実ですから、原発や新幹線、高速道路がいつ大事故を起こしても、不思議ではないのです。

 そんないい加減な人の下に原子力検査協会の人がいます。この人がどんな人かというと、この協会は通産省を定年退職した人の天下り先ですから、全然畑違いの人です。この人が原発の工事のあらゆる検査の権限を持っていて、この人の0Kが出ないと仕事が進まないのですが、検査のことはなにも知りません。

 冬に定検工事をすることが多いのですが、定検が終わると、海に放射能を含んだ水が何十トンも流れてしまうのです。はっきり言って、今、日本列島で取れる魚で、安心して食べられる魚はほとんどありません。日本の海が放射能で汚染されてしまっているのです。

 海に放射能で汚れた水をたれ流すのは、定検の時だけではありません。原発はすごい熱を出すので、日本では海水で冷やして、その水を海に捨てていますが、これが放射能を含んだ温排水で、一分間に何十トンにもなります。

 「配管がどうしても合わないから来てくれ」という。行って見ますと、特別に作った配管も既製品の配管もすべて図面どおり、寸法通りになっている。でも、合わない。どうして合わないのか、いろいろ考えましたが、なかなか分からなかった。一晩考えてようやく分かりました。もんじゅは、日立、東芝、三菱、富士電機などの寄せ集めのメーカーで造ったもので、それぞれの会社の設計基準が違っていたのです。



この配管を見ていた電気関係の工事をしていた浪江町がこのことを指摘していた
でも東電に言うこともできないと仕事ができなくなると言っていた
つまり原発はその中で仕事している人ですら何も言えないのである
そしてその管理も危険なものなのにずさんだったのである
だから必ずしも地震とか津浪のせいではない、それを管理していた人たちが知っていたのである、でもは金がかかるとかなんとか安全を計ることはせず、原発は安全だとまるで念仏を唱えるように言っていたのである

それが科学者の態度なのかとなる、だからこそ「安全神話」なのである
科学と宗教があり科学者でも技術者でもその管理があまりにもずさんだったのである
それは手抜き工事でもありそんなに危険なものでも何もしなかったのである
要するに「安全神話」で肝心なことは何もしない、金をかけたくないとしなかったのである、今になって防波堤を作った、それは作れるものだったのである
日本が時の科学技術がこれほどずさんだった、だから日本の技術が進んでいるとか信じられなくなったのである、例え他でも信じられなくなった 

そうしてただ巨大な利権にあるゆる人が群がった、もちろん地元のひとでもそうだが地位ある人がほとんど群がり巨利を得ていたのである
そうしして安全神話が作られて安全は無視されて必然的に起こった事故だっこ
必ずしも津波とか地震のせいではない、それを防ぐことを怠った事故だったのである
最善を尽くしたらなら仕方がないとなる
でもただ「安全神話」を権力で作ったのであり肝心の安全を怠っていたのである
それはコストがかかるとなりそうなっていた
今になるそのつけは何百倍にもなっている、20兆円も廃炉にかかるとか国が傾くほどの金と労力を使うのである

なぜこれほど管理もできない、素人集団がばらばらに集まり作っている原発に「安全神話」が作られたのか?
これほど危険なものが堂々と「安全神話」を吹き込まれて成立していたのか?
それが本当にわからない、こんなことがあうりうるのか、それは事故前からもわかる人はわかっていたのである
そして国の検査官でもそれは分野が違っているとか本当に素人集団なのである
そういう人達がばらばらに集まり無理して作り上げたのが原発だったのである

それなのにのうのうと「安全神話」などを作っていた利権集団が原子力村だった
この責任はあまりにも大きいものだったのである
「安全神話」によってごまかした罪はあまりにも大きい、これは国家的詐欺にも等しい
それは戦争でも3百万人が死んだということがありこれも国家的な大罪でありそういう巨大な悪ともに匹敵するとなる
そもそも元から住んでいた人たちが故郷であれ長年住んでいた場所に住めなくなるほど大きな災害はない、なぜなら日本は戦争で焼野原になっても住んでいたからである
原発事故の最大の悲劇は故郷であれ住めなくなったことである

「自分たちの職場の職員は、被曝するから絶対に現場に出さなかった。折から行政改革で農水省の役人が余っているというので、昨日まで養蚕の指導をしていた人やハマチ養殖の指導をしていた人を、次の日には専門検査官として赴任させた。そういう何にも知らない人が原発の専門検査官として運転許可を出した。美浜原発にいた専門官は三か月前まではお米の検査をしていた人だった」と 

そして国家の管理もあまりにもずさんだったのである、だからこれは国家的犯罪だったのである、となるとこれにかかわった人たちは罰せられるべきだとなる
しかし誰一人として罰せられていない、そもそもわからないのは自治体の役割りである
自治体の住民の生命を守るのが自治体職員の役割りである
でも原発は国家が管理して自治体は手を出せないのである
でも一番被害を受けるのは自治体なのである、ただ自治体でも大熊町長の5億円入った金庫が津波で流されたとか話題になったようにただそういうふうにして利権を得るだけだったのか?
それはそこに住む人たちも利権にあづかり金になるからいいとしていた
それで漁業権のことを再三批判した、海が汚染されて魚がとれなくなったと組合で騒いでもそもそも漁業権を東電に売ったのだからそんなこと主張できるのか?
今度はトリチウムを海に流すということでそれに抗議する、するとまた補償金が上積みされるのか?
事故前も多額の補償金をもらい原発御殿を建てていてうらやましがられていた
ただここで言いたいのはそもそも漁業権の問題である

海は誰の者なのか?

漁業者の組合のものだとなっていた、でも東電に漁業権を売りわたした、漁業権とは資源保護のための権利であり東電に売り渡す権利はないのである
第一事故前でも海はかなり汚染されていたという指摘がある、原発というのはそういうものだったのである

だからここで問題しなければならないのは自治体の役割りである、原発は自治体に住む人の生命の危険にかかわっていたのである
そしたら自治体がなんらかかかわらないのが納得いかないとなった
ただ自治体にはその代償として多額の金が国から出ていた、それにしても今になればその損害は大きすぎたのである
その自治体にしてもその立地した場所の自治体だだけではない、広範囲に福島県全体にかかわることだったのである、それより一時は東北に人が住めなくなると吉田所長が恐れたそれだけ広範囲に被害があるものなのに自治体でも周りの県でも権限がない

権限があるのは国だ!

これはおかしい、なぜならそこに住んでいる人こそ権利があるからだ
なぜならそこに住んでいる人がこれだけの被害を受けたからである、確かに国から金をもらったとしても自治体の住民が一番被害があり責任を否応なく負わされるのである
ただこの自覚が自治体の住民になかった、それは根本的に原発のことはブラックボックスであり知らされなかったからである、知らされたのは「安全神話」だけだったのである
そして県とは何か?それは国の出先機関であり国の方針に従うとなっていた
つまり原発は国策であり国の命令に絶対服従だともなっていた
その国の管理があまりにもすざんだったのである
検査官も分野の違う素人であり何の働きもしなかったのである

ただいろいろ考えるとそもそも原発の責任はだれにあるのか?

これが複雑で多岐にわたるからわからなくなる、それは根本的に国家の責任だった、でも国家の責任とは特定した政治家なのか官僚なのかそれもわからない、結局国家と言っても国家を作るのは議員を選ぶの国民であり国民のせきにんだとなってしうまうのである、戦争でも同じことだったからである
だから原発の問題は一地域の問題ではなく国家が関与する国家的問題であったとなる
でも国家の責任を問いるのかとなくとむずかしくなる、生業を返せ裁判では裁判所がその責任を認めて東電に賠償命令をだした、でも裁判所が司法が国家をさばけるのかとなるとそれもむずかしい
アメリカでは司法の力が強く国家に関与できる、それで最高裁判所の一番上の検事になる人が重要になると報道があった
民主主義の三権分立だとそうなるのが正しいとなる
このように原発の問題は多岐にわたり複雑であり国家そのものを問うことにもなったのである
                       


posted by 天華 at 11:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

秋の暮、秋柳(双葉町が廃墟の街となった不思議ー短歌十首)


秋の暮、秋柳(双葉町が廃墟の街となった不思議ー短歌十首)

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白富士は富沢酒店の酒なのである

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倉だったのを店にした、いつの時代からなのか?

薬剤店にしても字が古いのである、だから古いのかとなる

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初発神社とある、他に妙見神社があるのは相馬らしい

ここに記された奉納者の姓なども歴史を語るとなる

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ゆっくりと電車を待つや秋の蝶

朝顔や数人待ちし駅舎かな

みちのくや車窓に望む秋の山

・・・・・

(双葉町)

石の倉街中人無く秋柳

石の倉街に人なく秋柳

双葉なる古き店かな秋柳 

秋日さし石の倉の店古きかな

人も無く飲み屋もあわれ秋の暮  


久々に電車を待ちて遠く行く秋となりしも旅心湧く

双葉町人の営み絶えにけりかすかに鳴きぬ虫の音聴きぬ

この道を行く人なしやあわれかな石橋わたり秋の日暮れぬ

街中に石の倉あり店屋かな秋の日さして人気なく暮る

辻曲がり初発神社や奉納者の名前刻まれ秋の日暮れぬ

この街に暮らしはつづく今はなし秋の日影に裏の道歩む

草むせし家の跡かな人住まぬ虫の音幽か聴きつ帰りぬ

駅前の通りに銀杏色づくも人は住まじもロケ地に似るかな

その道をなつかしみ行く人影の見えてあわれや秋の日翳る

出会い橋なつかしみ行く人影や柳しだれて秋のくれかな

津浪にも残れる松や根付きけりここを離れじ秋そ深まる


双葉町は私の父親が酒造りの店で働いていた、葛尾村からでて丁稚奉公したのである
そのことを聞かされているからそれで親しいものを感じていた
でもそれほど行ったということではない、何か見るべきものもなかった
ただ姉が銀行があったとしてそことで遊んだとか良く言っていた
銀行があるということはかなりめずらしいことだったのである
それは戦前であり大正時代にもなる

今の富沢酒造店の脇にあった、ただそれは戦前に倒産した、その後暖簾分けここに来た
そして同じ店で酒造りしていた人がいて戦後引揚者として鹿島に来て小池に開墾して入った人を知っている、その生活は極貧だったろう
ただ私の家で店をはじめたから玉子買いに良く行かされたのである
そこには確かに今は開拓の記念碑がある
ただなぜ小池というと街から近いのにそんなところに開墾する場所があったのかとなる
この戦後引揚者は本当に多い、津島とかは集団で入って開墾したから仲間意識が強いというのもわかる、相当な苦労だったからである、飯館村の木戸木もそうである
あんな不便な所でも開墾に入ったのである

いづれにしろそうしたことをじかに知っているので双葉町に親しみを感じていた
ただその割にはそんなに行っていない、それが立ち入りが禁止されたか解除されたので行ってみた、そこは本当に廃墟の街、ゴーストタウンだった
小高とかも一時ゴーストタウンになった、浪江町でもそうである
でも何か双葉町はまた違っていた、それはずっと街の規模が小さいということもある
だから街全体が歩ける範囲にある、そして街中に川が流れて石の橋がありそこが出会い橋とか名付けられたりしたところが新山橋のあるところが印象に残った
そこから富沢酒造り店に通じている
何か相当にさびれた感じになる、それもそのはず十年ももう人が住んでいない街なのである

そこはまた映画のロケ地のような感覚になった、でもそこは作られたものではない現実の街だったのが違う、こういうふうになった街はそんなにないだろう
そもそも古代から人が住んでいたし江戸時代も相馬藩内になっていた
だから野馬追に出る侍もいたとなる
小高に行ったときは人が住んでいる時でありこんなふうに感じなかった
浪江でも住んでいる人がいたのである
ここは人が住んでいないのである、まだ住めないのである、そこが違っていたのかもしれない、だから人が住まなくなった不思議を一層感じたとなる 

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橋にはいろいろある

幽霊橋 思案橋 源助橋 乞食橋 相引橋、・・・・

江戸の橋は時代劇に映る小さな橋である、無数の小さな橋があった、幽霊が橋に出るという時、何か柳がしだれていて真っ暗になれば幽霊が出る感じになる
その時電気の明かりがないのだから不気味だったとなる
相引橋というとき本当に橋を目印として男女があっていた、思案橋なども橋で良く思案していたとなる,当時の橋は人間的だったのである  
乞食橋はそこに乞食がいたから名付けられたのだろう、乞食は本当に多かったからだ

今は橋は車が渡るものであり人間が渡るというより物を運ぶ橋なのである
要するになんでも機械化すると人間的なものがなくなるのである
ただ物と機械だけの世界になり人間がいなくなる、人間を感じなくなるのである
鉄道の無人駅でもそうである、改札でも機械でしているからである

ただ橋には何か情緒がある、それで近くの落合橋のことを語ったのである
つまり人が落ち合う橋としてあったからだ、ただ下になると橋は大きくなりそこで何か出会うとかならない、橋が大きくなると人間的でなくなるのだ
だからここの出会い橋というのは小さい橋だから人間的なものを感じたのである
別にこういう橋はどこにでもある、ただ人がいなくてったので不思議な感じになったのである   


2020年10月05日

秋鴎、虫の音、秋の海(久ノ浜の秋の短歌十首)

                    
秋鴎、虫の音、秋の海(久ノ浜の秋の短歌十首と写真)

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一段と低くくなっているのが前の道である

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遠くに見えるのが原発の煙突

クリック拡大

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つわぶきが自生している、これは秋に花が咲く

この辺は照葉樹林帯でありあたたかいから自生している

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海から昇る月が街なのかにでる、それが赤い月なのである
だからここは海と一体化した街なのである





久ノ浜旅人一人秋かもめ

秋の海連隊飛行鴎かな

無人駅虫の音しげく夜になる 


久ノ浜砂浜歩み流木の形を作り秋の日暮れぬ 

久ノ浜波音ひびき砂浜を我が歩みつつ秋思に暮れぬ

波立の巌に波の飛沫けり沖に船行く秋の海かな 

波立の巌に秋の日さしにつつ波打ちしぶきさらに固しも

久ノ浜巌につわぶき密なりき照葉樹林や秋の日さしぬ

秋の陽は山に没りにしあわれかな砂浜歩む久ノ浜かな

波立に波打ちひびき秋の海鴎三羽連なり飛び去る

久ノ浜老女のあわれ虫鳴きてこの松の育つ歳月思ふ

ひさびさに久ノ浜に来て秋の海波音聴きて我が帰るかな

無人駅一人のみ待つ人のあれ電車を待ちぬ秋の夜かな

海よりし十五夜の月や久ノ浜路地裏の路にい出にけるかな

乗る人もなき駅なりしただ虫の声しばし聞こえて去りにけるかな

十五夜の満月車窓に望みつつ全線開通常磐線かな  
       

久ノ浜は砂浜があり街が隣接している、この砂浜が貴重だと見た
なぜならここからは相馬藩内になっても砂浜がないからだ
一部わずかにあるにしろほとんど砂浜がなくなった、四倉の浜も砂浜が広い
それでその広い砂浜が津波の干渉地帯となり意外と街が被害がなかったのである
だから津波に有効なのは土手であり砂浜であれ緩衝地帯が必要なのである

だからなぜこんなに津波の被害があったのか?

もしかしたら自然の地形が変わり緩衝地帯の砂浜などが消失したかもしれない
直接海に接していたら危険である、自然の状態だったら広い緩衝地帯がありそこには家は建っていないということがあった
仙台の若林とかでもともと海だったところに住宅地にしたから被害が大きくなった
つまり人間は文明が発達すればするほど自然を侵害してしまい、それが災害に弱くなったのかともみる
四倉は別に高い土手はない、でも広い砂浜があり津浪の緩衝地帯になって被害が少なかった

久ノ浜は観光ではいい場所である、砂浜があるからだ、それと波立の巌がありあれがいい
ただ前は岩礁地帯がありそこに海の生物を見ることができた、何か今回は荒く波が打ち寄せて見えない、津波で変わったのかもしれない
この辺は磯とか岩礁地帯がほとんどないのでここが貴重だったのである
そこで熱帯魚などを見たことがあるからだ
海があっても岩礁地帯とか浦とか入江がないと自然景観としては良くない

それで津波で一時八沢浦が本当に入江になったことほど驚いたことはない
もともとそこは海であり入江だったのである、明治になって干拓されて田んぼになったのである、日本でぱ土地がないからどうしても海側でも土地を求めて干拓しているのである
この時十五夜の満月が久ノ浜の街の路地の道に出ていたのもふさわしい、この街は海と一体化しているのである、だから津波の被害にもなった
ただここが砂浜があるのでこの辺の海とは違っている
次はは四倉の方に回ってみたい、浜街道を行くのである