虫の音(夜に相馬市まで行く)
山鳩の二羽来たりぬ実りかな
秋夕焼け六万石の城下町
秋柳田町通りの飲み屋かな
秋の灯や職人の家や城下町
虫の音の松にひびきて夜のふけぬ
夜の道長きや虫の音聴ききにつつ我が帰り来ぬ相馬藩かな
今日は何か月かぶりで5時ころ相馬市に行った、何か暑いとかまた曇っているとか雨とかで行けなかった、やっと涼しくなったので夜に行った
月もでていないから情緒はなかった
でも夕方に秋夕焼けになり夜になり虫が鳴いている
街道の松並木の松は見えないが虫はその松に鳴いている
松は見えず沈黙しているが虫の音を聴いているのである
相馬市だと原町の倍の距離があるから長い、夜の道を虫の音を聴きつつ帰って来た
これが車だと虫の音も聞こえない、全く無視される
ただゴーンと飛ばして去ってゆくだけである
つまり車は自然にやさしくないしまた自然に溶け込まないのである
人間は自然と一体化するとき人間もまた自然の中で映える
たいがい鳥でも何でも自然の中に溶け込み映えているからだ
人間だけ自然と調和しないのである
相馬藩というとき一つの歴史的地理的国だとなる、その中を行き虫の音を聴くとなる
一匹一匹の虫の音を聴く、それはまた人間でもある
狭い範囲だったら虫の音も聞けるとなるからだ
山鳩が二羽くる、そこに今実りの穂がたれる、その時平和がある
鳩は平和の象徴だからである、だから原発の避難区域では田んぼが荒地になって実りがない、それが荒寥としたものを感じる
いづれにしろ相馬市は六万石の城下町である、だから何か目立ったものもない、城さえないが違っている
原町とは感覚的に全く違っているのである、ただそういうことは外から感じないと思う
どこが違うのかとなるからだ、何かそういうことがある
そこに住んでいないとそうしした相違がわからない
田町通りの柳は大きいからいい、すると何か老人が飲み屋に集まり話しているとかイメージする、でもあそこは新しくなったから路地裏の飲み屋ととは違う雰囲気である
ただ秋柳というとそういうイメージになる
何気ないところにいいものを発見する、見慣れた風景が実は他にないものを感じる
それで真野川の落合橋のことを写真にしたりしてそこで語る人がいたことを昨日はプログに書いた
でもここに住んでいてあそこに何か特別なものがある、何か詩的なものでも美的なものでも感じるものがあるとは見ないだろう
ただどこにでもある橋としか見ないだろう
とういのは自分自身が最近までこの橋に注目していなかったからだ
すでに老人になりその橋はいつも見ていて通っていたのにそうなのである
ただあそこで鮎が上ってきて見るようになったりしてあの橋は何かいい橋だなと見るようになったのである
だから人げは近くでも何か感じない、ありふれたものでありそんなものが特別だと見ないのである
それで常に遠くに憧れて遠くに行く、でも近くは見逃しているのである
それは自分自身もそうだったからである