2020年09月06日

秋の蝉、芙蓉(近間の道)


秋の蝉、芙蓉(近間の道)

fuyochou11.jpg

fuyoucouine222.jpg
クリック拡大

moonflower222.jpg


今日の真夜中のノウゼンカズラと月


このベンチまた休むや木陰かな

揚羽舞い芙蓉に実り鳩の来る

この道や慣れにし通う秋の蝉 

昔よりありにし家や秋の蝉   


蝶を追い花を見につつ雲立ちぬもう一夏を我は生きなむ  

注-鳩は山鳩である


ここ十年以上近間を行き来しているだけである、人間は最後は近間が大事になる
ついのすみかとなるからだ、近間は若い時から常に平凡でものたりないものを感じて来た自然でもそうである、この辺では高い山がないからものたりないのである
でも人間は平凡な中に感じるものがあり日常は平凡なのである
ただ70年もいきれば必ず大きな事件でも災害でも起きるものだと思った
津浪や原発事故やコロナウィルスでもそうである
70年ごとに人間社会では大きなことが起きる、そして社会ががらりと変わることがありうる、それが今なのである

ただ私の生活は毎日慣れた道を行くだけである、でもそうして慣れた道を行くと秋の蝉が鳴いていると心にひびく、そしてこの家は昔からあった家だなと何でもないことでも感じるものがある
原町では道の駅の脇の公園で木陰のベンチで休んだ、そこで小高の人と話したことがあった、あそこはいい木がありいい場所である
そうして何かあるなんでもない場所でも愛着を感じる
それはもう死も身近にみえてくると人間はどんなささいなことでもそこがかけがえのないものに思いてくる、場にしても人にしてもここにもういなくなるとか人にしてももう会わないとかなるからだ
その時誰しも何気ないものでもいとおしく思うのである

こういうことをまず若い時は感じない、田舎なんか平凡でつまらない、飽きたとかなっていた、それで私のように旅ばかりして遠くに憧れるだけだったのである   
そして顔を知っていた俳優が二人死んだ、70才だった、こうしてともかくテレビで親しんだ俳優も死んでゆく、あの人も死んだのかとなる
いくら長生きでも70ともなれば死ぬ人が多い、でも高齢化だと70以上でも首相になったり大統領になっている、アメリカも高齢化である、80近くで大統領が勤まるのかともみる

芙蓉が咲く道がある、そこに揚羽が盛んに舞っていた、この芙蓉はあまり大きい花でないのでものたりないとはなる
そこに秋となり実りそめた稲穂が色づき垂れる、自転車で行くと涼しさを感じる
ただまだ夏であり夏も感じる、帰ったらぐったり疲れた、それは陽がさして午後からかえって暑くなったからだ 
それでまたぐったり疲れて寝込んだ、まだまだ暑いのである

やはりカメラは常に携帯する必要がある、シャッターチャンスが近くにもある
ただ正直人に見せるような写真はいいカメラでないとだめだなと思った
でもそうなると写真とることで手間になる、いい写真をとることはやはりセミプロになってしまう、雑誌にのるようなものだともう写真とることに集中しないとできない
ただ今では素人でもいい写真はいくらでもでている
でも残念なことは写真はすばらいしのだが俳句とかそえてもそれがほとんど駄作なのである
写真はかえって若い人がうまい、でも俳句とかなると駄作が多いとなる
両方がうまくなるのは結局人間にはむずかしいのである


芭蕉の奥の細道の解説 (なぜみちのくをこれほど深く理解できたのか?)


芭蕉の奥の細道の解説

(なぜみちのくをこれほど深く理解できたのか?)


芭蕉の謎はなぜ奥の細道でみちのくを深く理解したのかということである
東北というとき芭蕉の奥の細道でその紀行文と俳句でみちのくとはこういうものだとまで世間から見るしまた地元でもそうなのである
だからなぜそこまで深くみちのくと共感したのか不思議になる
確かなことはやはり江戸時代に生きていたのだか別に日本人が別な世界に生きていたわけではない、農民中心の社会で生きていたから農民的な資質が日本人を形成していたのである

まず現代の旅だったらこんなに深くみちのくと東北と共感する旅などできない
第一今は豪華なホテルとかに金持ちはとりりリゾート気分になる、グルメだとかなる
そこで金持ちは4,5万の旅館にとまる、旅館というのはホテルでも高いのである
それでコロナウィルスで外国人でも観光客が来なくなりGO TOキャンペーンで半額とか宿泊料を援助したら地元の人たちが泊まったのである
ということはもともと地元の人たちも利用したかったのだが高いのでできなかったのである、これもグロ−バル経済とか広域社会とか東京中心社会とかで起きたことである
何でも金持ち中心にして金で計られるのが現代社会だからである
地元の人より金を落とす外国人が大事だとなっている

それは日本がだけではない外国でも同じなのである、外国に売るために物でも何でも売るためにそうしている、そういうことは江戸時代でもあった
東北では江戸に米を送るために米を生産していた、伊達藩はそうして石巻港から船で江戸に米を送りかえって飢饉になったのは米ばかり作っていたからだともされる
他の作物を作っていれば地元では餓えることもなっかとされる
それは現代だとコーヒーを売るためにコーヒーばかり作っていたらコーヒーの値段が安くなったりすると地元でコーヒーは食料にならないから飢饉になるのと似ている
こういうことはグロ−バル経済で世界中で起きているのだ

卯の花を かざしに関の 晴着かな

白河の関に入りこの句を詠んだのは何か派手な花ではない、人があまり注意しない花である

世の人の 見付ぬ花や 軒の栗

須賀川で隠者の家をたずねたというのも不思議である、何かそれがみちのくにふさわしいともなる、東北人は寡黙であり目立たない存在だからである
派手なものがない、ただ伊達政宗だけは例外だった、それで伊達政宗は東北人ではないとしている、演技しているし役者のようでもあり伊達者として派手なものの象徴となった

伊達とは「豪華」、「華美」、「魅力的」、「見栄」、「粋」などの意味を表す用語。もともと「男立て」のように「男を立てる」こと、意気を示して男らしく見せようとすることを「だてをす(る)」と言った。[1]ばさらやかぶきに通じ、現代で言えばやんちゃに類似する語感であろう。民間語源説として、秀吉に死装束で面会した伊達政宗のエピソードがよく知られる。この俗説から、旧仙台藩領の宮城県民や岩手県南部の住民は「伊達者」と言われる。派生語として、「伊達男」、「伊達眼鏡」、「伊達巻」、「伊達心(華美や遊興を好む心)」、などがある。

宮城県人は語尾にだっちゃとかなるから言葉自体も何か押しが強いとかなっているのだ

でも芭蕉が注目したのは共感したのはそういうことではない、東北はみちのくの庶民は貧乏である、それは西のように大阪城とかのように京都でも豪華な文化が栄えていない、それだけの経済力とか政治の中心地になったこともないからである
だから卯の花とか隠者の家の栗の花とかに注目していた、それがふさわしいともなる
とにかく人間は時代が違うとその雰囲気ががらりと変わるから理解しがたくなる
江戸時代がいくら元禄時代でも新田開発で全国的に豊かになったとしてもその雰囲気を知ることは不可能である

ただ元禄時代は全国的に新田開発で栄えた時期であることは確かである
それで葛尾村にも元禄の碑があり新田開発を記念したものだったらしい。
相馬市の新田にも元禄の碑があった、そこも元禄に新田開発した地域だったのである
つまり元禄時代は全国的に新田開発がされて豊かになった時代なことは確かである
でも東北となると江戸や京都とか大阪の華やかさはないのである
そもそも貧乏で地味なのであり伊達政宗は例外だったのである
むしろ西の豊かさに対して力に対して虚勢を張り伊達者を装ったとしている

ともかくなぜ芭蕉の奥の細道が古典となりその魅力が衰えないのか?
それはその時代でしか感じ得ないものを紀行文と俳句で現したからだ
それは現代では感じ得ないものであり二度と経験できない時代の産物だから価値が増しているとなる、たいがいはその時代の産物でも価値がなくなる
新しいものが次々に出てくると古いものは忘れられる、芸能関係とか大衆的なものはそうである、歌謡曲でもなつかしんでももうその時をなつかしんでも人も歌も忘れられる
現代のように時代の変化が激しいと余計にそうなる

なぜ芭蕉の奥の細道が古典となりこれほど時代を経ても読まれつづけるのか?

●自然との合一

●歴史の人間の無常

●東北人への共感

この三つがあったからだともなる、平泉では歴史の人間の無常を俳句にした

夏草や 兵どもが 夢の跡

五月雨の降(ふり)のこしてや光堂 

ここに平泉が鎌倉幕府に攻められて堂塔伽藍が消失した、それでも光堂は金色堂は残された、それも芭蕉が訪れたときは500年近く過ぎていたのである
だから500年も過ぎていたらそれは遠い過去であり第一地元の人でも忘れていたかもしれない、その時観光などないから余計にそうなる、ただ金色堂は価値あるものとして唯一残されていたとなる
ただ夏草や兵どもがゆめの跡というときまだそこで戦った侍のことをイメージしている
これは今になるとできない、おそらく夏草が今より広く深く茂っていた
そして五月雨が鞘堂に降っていて自然の風化と時間の風化にも消えず残っていたということになる、ここで歴史の人間の無常を俳句にしたのである

それから自然の合一というとき山寺の俳句で

静けさや岩にしみいる蝉の声

これは自然との合一である、岩に蝉の声が一斉に鳴く蝉の声がしみいる
そこには一匹の蝉ももれなく岩にしみいってゆく、その岩という時山寺だと岩の山だから一つの岩ともならない、今でもこの岩は変わらずにある
それから羽黒山に行った時は

語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな

湯殿山は出羽三山の中では奥之院として位置付けられ、羽黒山、月山で修行又は、参拝した後、最後に行き着く霊地とされます。その為、その霊地は絶対に神聖な場所である必要性から「語る無かれ、聞く無かれ」との戒律が守られ、霊地を見た人は絶対にその姿を他人に言ってはいけない。見てない人は絶対に他人から聞いてはいけない。と決められていました 

こういうことも不思議だとなる、霊地とは聖地とは口を身もつつしみ入る場所である
今はそんなことは全くなくなった、あらゆる人が観光目的ずかずかどこまでも入ってくるからである、自然であれ修行の場であれ禁制の場所はない、もう修行の場はなくなった
そこは観光でもうける場所である、それで京都の寺でもコロナウィルスで観光客が来ないとして政府に援助をしてくれとなった、給付金をくれとなったのである
寺は観光の場所で外国人も来て大儲けしていたのである

ただこの句はそもそも東北人は寡黙でありそれで語られぬとは苦労したけどそのことを語らない、それは大正生まれとかは総じて苦労したから知っている
その苦労をあまり語らない、忍従しているのである、それは見習うべきであるとなる
私の母親も大正生まれでそうだった、気質的なものもがあるが忍従を強いられたからだ
江戸時代だったら苦労はみんな相当なものだった、それで農民は労働の苦労を湯治に来て癒していたのである、つまり温泉は観光の場所ではない、日ごろの労働を苦しみをいやす場だったのである、それで東北には湯殿の碑が多い、それは湯治とかに行っていたからである

晩菊やここの村にも湯殿の碑(自作)

湯殿の碑は東北に多いのである、それは湯治で東北の農民が行ったからである、湯治とは湯で治すともありそこは病気療養の場でもあった、温泉の起こりが鹿が怪我して怪我を治すために温泉につかっていたとかが由来があるから同じである
温泉は場所によって効能が違っているからだ
それはつまりホテルがホステスとなりホスピタルとなったと同じなのである
それが今は観光となってしまってのである
だからコロナウィルスでGO TOキャンペーンで半額とか宿泊料を援助したら地元の人たちが泊まったのである
本来はそうあるべきなのだが観光地化してそういう心自体失っていたとなる
ただ金持ちと外国人のためのものになってしまった

だから旅というときとても芭蕉のような旅はもうできない、その土地と共感しえないのだ歴史と風土とか自然とも共感しない、車とかでも鉄道ですら歩いて旅したときは余りにも違っている、途中はとばされた目的地に早く着くことだけが気になる
辺りの風景とか人間に目をとめない、ただ早く早く過ぎてゆくだけである
そして車だとキレる、歩いている人間でも自転車でも目障りだとなる
それはまた交通事故になるから当然そうなるのであり人間が自体が悪いともならないのである、つまり機械によって人間の性質まで人格まで変わってしまったということである
もう現代に情はない、だからその土地の人と自然でも共感する旅はないのである
歩いて旅したり自転車の旅している人は異端者でありかえって怪しいものとしてマークされたりするのである、犯罪者ではないかとまでなっているのである
でも本当の犯罪者は今はみんな車を使っているのである、でも車はマークしにくいのである