2020年09月04日

コロナウィルスは人の交流度合いと一致している (人から人へ感染するので交流をさけるほかない)


コロナウィルスは人の交流度合いと一致している

(人から人へ感染するので交流をさけるほかない)

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北海道はもともと中国人が多く来ていたから別として他は人と人の交流の度合いに比例している、これは間違えないのである、数学的な問題として割り出されている
最初は宮城県でも少ないとかあった、そして青森から感染者が出たとかあった
その青森とか秋田で最初に感染者が出たのは仙台市から行った人が感染させたのである
だから最初の内は人との交流度合いが明確に出ていなかった

でも予測できたことはまず仙台市があれだけ東京から来る人も多いから東北では一番多くなると思っていた、東北地方を見ると青森が35、秋田50、山形78、福島172、宮城226となっているがこれは人の交流度合いからみれば本当に数学的に比例している
秋田は過疎地域だと常に指摘されていたからだ、青森でもそうである
山形県もそういう地域である

宮城県と福島県は東京と人的交流が一番多い県

東京と人的交流が多いとどうしても感染者が出やすいのである
最近福島県では郡山市が多くなった、郡山市は東京に近い、新幹線で一時間もかからないとかなる、だからやはり人的交流が東京と多いからそうなる
それは宮城県なら仙台市が人的交流が多いのだから多くなる
福島県と宮城県が多くなるのは本当に数学的比例の問題であり予測できたのである
コロナウィルスは何かわからないにしてもそもそもウィルスは人的交流から割り出されることは判明した

当然東京圏内は多いことは最初からわかっていた、茨城県が少ないなと見ていたがやはり多くなった、群馬県と栃木県を見ると群馬県が多い、群馬県の方が東京圏と交通でも結ばれていて多くなるのがわかる、栃木県となると交通的に不便だとなり少ない
これは明らかに人的交流と交通と比例しているのである

ただ日本海側の福井、石川、富山が多いのはやはり大阪圏との交流が多いからかもしれない、東京圏との交流ではなく大阪圏との交流だろう
現実に最初滋賀県が少なかった、あんなに近いのになぜだろうと見ていたがやはり多くなった
初期の段階では明確に数字とならなかったが今になると数学的正確さで割り出されているのである
岐阜県が山の地域でも多くなったのはなぜか?
名古屋中心に広がったからだともみる、つまり人口密度の高い大都市中心に感染してゆくなぜなら三密というように人口が密集している地域は人から人へ感染するのだから当然そうなる、名古屋から人気の白川郷へはかなり山の方に入るがやはりそこには観光客が中国人でも人気で行っていた、それで多くなったのかとみる
他でも四国では少ないのは四国も過疎地域のようになっているからだ
福岡県は福岡市中心に広がった、ただ宮崎県とか鹿児島県が多いのはなんらか理由がある概して人的交流の度合いによってそれも大都市からの交流度合いによって感染者が数学的比例でほぼ正確に割り出されている

江戸時代の末期のコレラの流行でなぜ会津若松市中心に広がったかとなると白河街道と日本海からの北前船が来て阿賀野川の水運があり人的交流があり広がったのである
ほとんど交通も人的交流もない桧枝岐では感染者は出なかったのである
そこは秘境だったからである、田島方面には会津若松市から感染者が広がった
ということは田島方面にも参勤交代で江戸までの街道があったとしても人的交流は少なかったとなる

こうみてくるとウィルスの感染を防ぐ最大の効果的方法は人的交流を減らすこと止めることだとなる

でもこれは現代では最大の難題なのである、それは世界的にもそうでありこれだけ交通が発達して人の交流をとめることができない、それでなんとか観光でも人を呼ばざるを得ない、GO TO キャンペーンになったのである
人の交流をとめることはもう地方でも生活できなくなるからだ
でも本当にこうした世界的にも国内でも人の交流が過剰になるのがいいことだったか見直される
そういう自分でもこうして全国を分析できるのは日本国内を隈なく旅行していたからである、私の場合実感として地理がわかる、地理はやはり地図を見てもわからないからである
結局このコロナウィルスとは何だったのか?

何か人の過剰な人的交流をとめるものとなった、世界的にもそうである、また観光の見直しも迫られた、観光は水商売だったのである、別に地域にも根ざしていなかった
外国人に頼ること自体そうだった、このようにぱったりと来なくなる影響は大きすぎたのである
それで近くの人に安く泊まってくれと政府で金をだしたら近くの人で泊まる人が増えたというときそれが本来の正常な状態だったのかもしれないと気づいた
なぜなら宿泊料が高いからである、でも東京の金持ちなら4,5万でも泊まってくれる
それで商売になる、近くの貧乏人は相手にしないとなる
それは外国人でもグロ−バル化するとそうなる、金を落としてくれる人がお客様であり近くの貧乏人は関係ないとなる
また現代の宿は旅人を歓迎しない、何であれ金のない人間を歓迎しない、江戸時代辺りなら歩いて旅していたのだから疲れたでしょうとなり足を洗ってくれたりみんな金でも安くても泊めるとなる、そこにもてなしが生まれたのである
それは金持ちを特別にもてなすということはない、みんな平等だったのである
旅人をねぎらうものとしてあった、それはホテルがホステルでありホスピタリティであり病院になったことでもわかる

今はまず本当の旅人は歓迎されない、ただ不思議なのは三回くらい歓迎された
それは阿武隈山中を自転車で行った時、山の中に昔の万事屋(よろず)がありそこでご飯と味噌汁を御馳走になった
ただ買いものしたところでそんなことしてくれるのかといぶかった
今の時代そんなことありえないのである、見知らぬ旅人をねぎらうなどありえないのである、むしろ観光客ではない金を与えない者は嫌われる
そこは別に宿でもないのである、だからいかに宿でも今や旅人をもてなすとかねぎらうとかはなくなった、ただ金があるなしで判断される、だからホテルでもそうである
でも山の中のホテルで自転車で行って泊めてくれたことは不思議だった
そもそも自転車旅行では観光ホテルなどで泊めないからである
普通はそんなところに泊まれないとして旅している
たまたま山の中で何もないので寄ったら泊めてくれて親切してくれたのである
そこの女将がそういうもてなしの心があったのである

だから経営者とか上に立つ人が大事になる、駅でも駅長は大事である
無人駅でボランティアしていたのに駅長は受け入れず目の敵にされて排除されたからである、そこに何ら考慮するものはなかった、そしてコロナウィルスで鉄道が大打撃になったそこでもう遠くから人と話すこともできなくなった不思議がある
これは私怨にはなるがやはりもてなすという心がそもそもJRにはないのである
それは他の人も言っていたからである、ただ正確に運行することには努力しているのである鉄道事業はサービス業とみていない、その点私鉄だとサービス業の心があるかもしれない
だから駅でも無人駅で改札でも機械化して効率化を計る、でもそこに人間の情が消失するのである

とにかくコロナウィルスは現代の社会を見直すきっかけとはなった

遠くより近くを大事にしろ

それは近くの人をもてなすことはない、金を落としてくれる人を優先する
それはグロ−バル社会で起きたことである、まず近くの人を大事になる
それが人間としての基本である、今や近くの人より遠くの人が大事になっているのだ
そういうことは必要でも基本的に人間の生活は近くが日々生活する場なのだからそこがだいじになる、遠くとの交流とか経済でも必要である
ただそれが余りにも過度になって近くの交流が希薄になったことも確かである
だからそういう点を見直すということにもなった、別に観光でも旅でも外国旅行でもできることはいいことである、ただそれが過度になりすぎて近くがないがしろにされたということである

それで芭蕉の句の

語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな

この句が不思議なのである、そもそもなぜ奥の細道が古典になったのか?
それは東北という地域への深い共感を芭蕉がもったからだとなる、今の旅人にそういうことはない、ただ今は移動でありあとはグルメだとかなるからだ
この時代に農民が労働でともに疲れた体を癒していた
そういう人達に同情していたのである、そして東北人は寡黙であるということもここにこめられていたのである
でもなぜこれだけ江戸から来たのに東北人に共感したのか不思議だとなる
それはやはり時代のためである、江戸時代を知ることは今やむずかいしからだ
別に東北でなくても農民の暮らしが苦しいことは眼にしているし知っていたからである

結局今の時代は金の時代でありすべては金で計算されて金のないものはもてなしもなにもないのである、江戸時代となるとそういう面はあったにしても何か情的なものが色濃くあって違っていたとなる、まず現代では何か情がなくなったのである
人間の情が通わないのである、それは旅は道連れなどもないからである
旅人同士が情を交わす場とかがないのである、それはまず歩く旅ではないからである
歩いて旅していれば道の辺の花とかもみる、人間的感覚になる、でも車とかで飛ばして行けば目に入らない、キレてふっ飛ばしてすぎさる

それで車から突然「馬鹿野郎」と怒鳴られる、これも自転車だと危ないからそうなるも当然だかこうして人間同士に情が通わないのである
歩いていてぶつかったらすみませんとかなりそこに会話が生れて人間としてのやりとりがあるが車時代になればそういうこともない、交通事故になるからそうなる
そういう車というのがどれだけ人間の心まで変えてしまったかということである
だから機械は人間の心を変えるということがある
ただ機械をすべて否定はできない、ただそれによって失われたものがあったことを知るべきである
みんな情も失うような殺伐として世界になったのである
それがコロナウィルスで示されたことは気付かされたことは不思議なのである













posted by 老鶯 at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層