2020年09月25日

人生も歴史も無念を語る (すべての人が無念で終わるー死があるから)


人生も歴史も無念を語る

(すべての人が無念で終わるー死があるから)

歴史とは何なのだろうと思う、人間の罪の歴史だという人もいる、戦争の歴史だからそうともなる、ただわかりやすいのは歴史は無念の歴史であり無念の集積の歴史である
その無念が怨念ともなる、権力闘争に敗れたり戦争で殺された人が無数にいるからだ
それで日本がの神社は怨念を恐れて祟りを恐れて祀ったというのもわかる
それだけ非業の死とか無念に死んだ人が多いのである
日本だって太平洋戦争で三百万人死んだとかある、それら無念の死であるから靖国神社がある、やすらかに眠ってくださいとなり神社があるからだ
無念を怨念を鎮める神社だともなるからだ

無念という時第一すべての人間は無念に終る、無念というときいろいろある、貧乏で苦しんで無念に死ぬというのが継続してある
また病気とか不慮の事故とかで死ぬのは今でもある、身内でも40才で交通事故で死んだそして病気で死ぬ人も無念になる、特に若い人が死ぬのは無念である
戦前までは肺結核で若くして死んだからそういう人たちは無念を残して死んだのである
母の実家には25歳で肺結核で死んだ人がいた、何かそれでキリスト教に入ったのかもしれない、啄木も肺結核で無念の死となった
いづれにしろ無念の死は数限りなくある

いづれにしろ人間はみんな無念で死ぬ、それはどんな人でもそうである、例えば大金持ちでも地位を得た人であれ美人であれ無念に死ぬ
それはなぜなのか?結局人間はすべて死ぬということにある
人間は誰一人として死からまねがれない、つまり死にたくないのである
すると死ぬことは無念だとなる、死に関しては平等である、どんな金持ちでも地位があっても死からまねがれないからだ、また誰でも男女でも老いる
すると美人でもしわくちゃのばあちゃんになる、それを見た時まるで別人になってしまう
とにかくみんな無念だとして死んでゆく、姉は死んだ「俺は優秀だった」と言って死んだ優秀だったことはわかるが認知症になってそのために馬鹿になったということでそれが悔しくて最後にそう言ったのかもしれない、ただ個々の人生をみればみんな無念に死ぬ
病気になるも無念であり人間には何かそうして無念にさせるものがいくらでもある
かなえられなものがいくらでもあり死んでゆく
私はこうしたかったああしたかったとか後悔して死んでゆく
まず老人になって後悔しない者はいないのである
どんな人生を送っても後悔しない人はいない、何か足りないものがある

後悔しない人生を送れといってもではみんなそうできるのか?
自分を社畜だとか奴隷だとか言っていやいや会社勤めしている人は老人になり後悔する
もっとやりたいことをやっているべきだったとかなる
別に自由に自分のように生きても後悔がある、社会性を身につけるために働くべきだったとなるしまた留学すべきだとかもっと海外旅行すべきだったとかある
特にヒマラヤは一回で終わったからもっと行くべきだった
なぜなら十回も行った人がいたからである
そんなに行けたのかというのが意外だったからである、それはトレッキングコースを行っていたのだから必ずしも登頂するとかではない、ヒマラヤは見るだけでいいともなる

人間の歴史自体数限りない無念の死で埋まっている、非業の死もいくらでもある
第一戦争では日本人だけではない、何千万人とか死んだとかなる
他にも権力闘争は必ずありカンボジアとかでも骸骨が積まれた記念館がある
それも非業の死だった、歴史はそうした人間の過ちの無念の記録だともなる
自然災害の死もある、津波で死んだ人たちも非業の死だとなるし原発事故の被災者も故郷に住めなくなったのだから故郷を離れて死ぬから無念だとなる

無念だというとき一番多いのは貧乏のために願いがかなえられないことが一番多いかもしれない、そもそも学校にすら行けない国もある、ネパールなどはボールペンとかすらないつまり文房具すら用意できないのだからどうして教育ができるのかとなる
世界ではまだそうした貧困な国がある
そういう場所では学校に行くことすらかなえられない、また裕福な国では学校嫌いになり行きたくないともなる、自分自身がそうだった、それは貧困な国になれば贅沢だとはなる私の父親はさしみが食いるようになったが病気で食いたくないとして死んだ
何か食べ物に関してもまともに食べらない無念があった
食べ物の恨みは怖いということにもなる

ただこうした様々な人間の無念も豊かになったり科学技術が発展して解消することがある肺結核は伝染病とわかりかからなくなったから肺結核で無念で死ぬ人はいない
他のウィルスでもワクチンができてかからなくなったから病気で無念で死ぬことはかなり減ったのである、教育でもゆきわたるようになったからそれで無念だということもない
様々なものが改善されて無念で終わることがなくなってはきた
でも人間はどんなことをしても無念で終わる
何か無念を残さないで死ぬ人はいないのである
何か無念だとして死んでゆく、動物さえ犬さえ最後は吠え続けて死んだ、それは最後の断末魔で死にたくない死にたくないと叫んで死んだように思う
つまり人間は死ぬから無念なのである

すると死ぬかぎり無念は解消しないのである、その死から解放するのが信仰になる
死ななくならない限りそれがありえないからだ、死ぬということはみんな無念だとなるからだ、死なない命を与えられない限り無念はなくならないのだ
永遠の命が与えられない限り人間の無念はなくならないのだ
確かにキリストは十字架で無念に死んだけど蘇ったのだからそれで無念は解消されたからだ
人間の無念は結局死ぬことにある、だからどんな人も無念に死ぬのである
いろいろ無念があっても死の問題を解消しないかぎり人間から無念はなくならいのである要するに神の国に行く他、無念を解消する方法はないのである
この世に生きることは結局誰でも死ぬから無念に終わるのである
この世でどんなに恵まれても死ぬときは無念になる
ありあまるほどの富を貯えても病気になって寝た切りになったらその富は何の役にもたたなくなる、ただ天井を見ているだけになる、これも無念だとなるからだ

ただこうした人間の無念が歴史だという時、その無念を知るべきだとなる
そして今の恵まれたことに感謝すべきだとはなる
先人の努力の積み重ねで様々な無念も解消してきたからである
歴史にはいろいろな見方がある、歴史の見方として後世に何をもたらしたかを見ることも大事になる、科学技術でも伝染病を治したということは病気で死ぬ無念をなくしたとなるからわかりやすい、また貧困をなくしたということもわかりやすい
これらが一番わかりやすい、他にも無念をなくしたことがある

自分に関しては家族に恵まれて自由に生きることができたから社畜なんだとかならなかった、ただそれでも後悔は残る、別に社畜だからとそれか全部マイナスにはならないからだ、まず引きこもりとかニートとか何か欠けるようになる
また結婚しないとか子供もたないとかも何か人間的に欠けた人となる
ただ正直あらゆることをすることは人間はできない、芸術家の8割が独身だったということがそれを証明している、何か家族をもったらそれに費やすエネルギーが膨大になり何か考えることもできなくなる、今家事を全部していただけで自分は感じたからである
家事は相当な労力であり疲れることを介護でも一人になっても知ったからである

孤立化する中国? (日本の太平洋戦争へ突入したのと似ているのか?)


孤立化する中国?

(日本の太平洋戦争へ突入したのと似ているのか?)


中国が拡大化して周辺国と摩擦を起こしている、インドとは実際に戦闘して兵士が死んでいる、ロシアともバイカル湖の水資源を奪われるとか中国が嫌われている
ただ国境を接する国は仲が悪くなる、利害が対立する場にもなるからである
何か満州里に行った時ロシア人が買い物して中国人ともめていた
中国に買い物に来るという時、中国は豊かだからである、物も豊富にあるからだ
ロシア側は極東とかなると貧しい地域である、それでハバロスク中心にデモが起きている経済的不満が大きい所ではデモが起きる
極東はハバロスクとなるとモスクワから離れすぎている、第一中国とかロシアが広すぎてそれが一つの国として見るのが日本人には感覚的にむずかしくなる

ただ流氷がアムール川の河口で作られてオホーツクに流れて来るとかある
つまり海があるとしてもアムール川とも通じているとなる、アムール川は長大な川だからである、オホーツク文化もあったから大陸と通じるものがある
ハバロスク辺りの人種はモンゴル系統とかロシア人系統とも違う、アジアと白人の混血とかともなる
モスクワはあまに遠いから統治することも困難になる、それで不満があってデモになっている
中国とロシアの仲が険悪になっているとすると中国は周辺国から孤立しているのかとなるインドとも争い、アメリカとはぬきさしならない対立となり米中戦争もありうるとなる
ただヨ−ロッパも中国と一線を画して離れる
そうなると中国は孤立化する、中国の膨張は世界的に危険だとなり包囲網が生まれる

何かそれは日本がアメリカと戦争になったと時代と状態と似ているともなる
日本も国連から脱退してアジアで孤立の道を行くことになったからだ
日本に味方する国がなく一国で膨張したともなるからだ
欧米と対立してロシアとも条約があっても破られた、その包囲網によって惨憺たるものとなり三百万人が犠牲になった
だから国際政治では孤立化することが危険なのである
中国がいくら巨大化してもやはり国際関係で孤立すると日本のように包囲網ができて孤立して自滅するともなる
ただ中国とロシアが連合したりしたらそうはならないともなる

いづれにしろこれからの国際関係がどうなって戦争が勃発するのか?
それが予断を許さない、ただ未来はどう展開するかわからない
米中戦争になったら日本はまきこまれてシリアのように強国によって分断されて悲惨なことになるかもしれない、アメリカが撤退したら日本は一国で国を守れないからだ
だから日本は中国包囲網に参加するのか得策だとなる
ただロシアとは連合しにくい、インドとかは連合できる
欧米側につけば背後から援助はされる、日本でも孤立したら中国に進攻されて今度は中国の属国になる

この国際関係の政治も難題である、日本人はアメリカに守られてきたからアメリカ頼りになっていたからである、そのために戦後は経済に力をそそぐことができて高度成長が生まれた、国際関係で漁夫の利も得ていたのである
朝鮮戦争では戦争に参加しないで特需となった、ベトナム戦争でも参加しないで特需とはいかないでもアメリカに物資を供給して経済的には得したとなる
今の国際関係は米ソの冷戦でもない、巨大化する膨張する中国が大問題なのである
それにどう対抗してゆくのか?それが問われる
ただアメリカも衰退している、かつての経済力もない、内部では超格差社会である
そういう国は国力も維持できない、戦争するにしても国のためというより超金持ちのために命をかけて戦うのかとなるからだ
それでローマ帝国は中産階級が没落した結果没落したとされるのもわかる

国を守るのは国力を作るのは一部の富裕層でもない、中産階級が国の母胎となる
一部富裕層がいたとしても中産階級が没落するとき国力は弱体化する
日本もまた格差社会になり中産階級が没落すると同じようになる
そういう兆候が見られる、それより中国でも共産党一党独裁で富を独占すると命をかけた戦争ができるとは思えない、つまり格差社会はそれだけ国力を低下させる原因なのである国の一体感をなくすのである
だから中国でもアメリカでも日本でも格差社会となるとき日本のために戦うということができるのか?

とにかく国際情勢でも変化の時である、それが深刻になれば戦争になり日本が確実にまきこまれて悲惨なものになる、大国の狭間でシリアのようになったりした悲惨である
なぜなら太平洋戦争の時、ソ連とアメリカによって二つに分断される、支配されることになっていたからだ、ドイツのように分断されて支配されることが予定されていたからである、それだけはさけねばならないとなる
ただ日本はそういうとき一億総火の玉とかなる国である
ただそうした気迫が今はない、それは平和の時代が長かったからである   

平和になれているしアメリカの属国ともなり平和に甘んじる時間が長すぎたからである
戦後70年そうだった、平和の時代を享受したのである
それがここにきていろいろなことで崩れてきた、明治維新とか戦後の焼野原とか何かそういう大変化が起きる、ただそれでも未来はどういうふうに展開するかよめないのである
ただ正直そういう危険な時代に生きたくはないとなる
もう老人は最後の年月はそんな戦争につきこまれたくない、最後に平和を培う仕事をして終わりたいとなる
でもこれから生きる人は若い世代は厳しい時代を生きることになる
そうした大変化の時代に耐えられるのかとなる

そうはいってもなぜアメリカ大統領が70代でありその対立候補も80近いのには驚く
そんな年で厳しい政治の矢面にたてるのかとなる、日本の菅首相も69才とかである
だから高齢化で年齢の感覚が違ってきたのである
70代でも髪が黒くてとてもその人は同じ年に見えない、普通だったらおじいさんなのである、でもとてもおじいさんには見えない、個人差があるにしてももう70代でも十分に若いというのに驚く、そういう時代になったということもある
人生百年時代となれば別に70代でも一線で働けるとはなる
政治の世界でも経験がものいうということがあるからだ
ただ学問とか芸術の分野だと年とっても成就したものとなり年は別に影響しないことがある、ただ政治の場になるとこれは体力もないと勤まらない、阿部首相も体がついていけずやめたういことでもわかる

まず未来はいろいろ言ってもよめない、コロナウィルスのように意外なものが現れて世界が変わる、そして誰一人としてコロナウィルスを予測した人はいなかったからだ
すると全く予想しないものとして国際関係でも経済でも政治でも何でも変わる
予測できないからこそ未来に対処できないのである
津浪でも原発事故でもそうだった、津波は実際は予測できた、でも過去に起きた津波を忘れて対策もしていなかった、結果として大被害となったのである
ただ世界情勢とかさまざまなものがからんでくると未来は予測できない
意外なものとして未来はありそれで人間の限界があるとなる
つまり未来は神のみぞ知るになっているからである


posted by 天華 at 18:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年09月26日

天才はどうして作られるのか? (ヨ−ロッパにはなぜ天才が多いのか)


天才はどうして作られるのか?

(ヨ−ロッパにはなぜ天才が多いのか)

そもそも天才とは何なのか?常人にはない異常なほどのエネルギーをもった人だとなる
そういう人はどこの国でもまれにいる、そういう人は何か生まれつきであり努力しなくてもたちまち理解できる、小説でも子供の時理解したとかなる
そういう人は実際は模範になれない、なぜならみんな普通の人だからである
そういう突出した人を模範にできないのである
それでキリストは大工として働き人間としての常識を身につけていたし天才ではない
普通の人間の思考をしていたのである
だから天才はクリスチャンにはなれない、それでニーチェのように自分が神だとなり偶像化するのである

ただ天才に魅せられ天才に学ぶことはある、そして人間社会を変えたのは歴史で功績を残したのは天才である、文学だと啄木はすでに中学生くらいから自然にも通じていた
何か青年になって芸者を相手にしているとかあっても自然と通じていたことである
普通自然と通じることは簡単にできない、それができていたのが不思議なのである

不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心

このように自由な心をもち自然と一体化する、そういうことはなかなかできないから不思議なのである、そのあともやはり自然を謳っている
第一そんなに若くしてそういうふうに自然と通じた歌を作れることが理解できない
なぜなら自分等は自然と通じるには老人になるまでかかっているからだ
それで啄木の著書の「雲は天才である」というのがわかる
夏の雲が様々に形を変えて大空に雲の峰となる、それをイメージして雲は天才であるとなった、その表現も的を得ているのである

ただ天才という時、ヨ−ロッパに天才が多い、そこには科学でも芸術でもあらゆる分野の天才が輩出した、世界で学んでいるのはヨ−ロッパの天才なのである
それはギリシャから始まっていた、そこには様々な天才が数学でもそうだし科学の基となるものも生れた、ピタゴラスとかアルキメデスとか多様な天才が生まれたとなる
それを基にして西欧文明が築かれたともなる

ただ西欧文明の前にイスラム文明があり学術的にも優れていた、ヨ−ロッパは中世がありその時はイスラムより遅れていたのである
第一ギリシャの文献とかはイスラム圏の人によって発見されてヨ−ロッパに伝えられたことでもわかる
その後イスラムの学問を代数学などをとりいれてヨ−ロッパは発展した
そして謎なのはヨ−ロッパにどうしてあれだけの天才が輩出したのかということである
それは一つの理由ではない、天才と言ってもその背景があり一人が忽然として生まれたりしないからである、その背景に歴史や文化で形成されたバックボーンがあって生まれる
それがヨ−ロッパにあったとなる

その理由の主なものはヨ−ロッパは帝政国家ではない、巨大な国家ではない、エジプトとかペルシャとかは中国とかは巨大な大陸国家であり強権的な国家となりやすい
イスラムでも一つの強権国家にスルタンの支配になる帝国になる
でもヨ−ロッパは確かにローマ帝国があったとしてもその後中世になり都市国家となり都市が中心の国となった、地域的でありそこに都市ごとに違った文化を育むことにもなる
そこに巨大な国であるペルシャとか中国のような圧制にはならなかった
ルネサンスでもフィレンツェとかの小都市の5万くらいの都市から生まれたことでもわかる、そんな都市からあのようなルネサンスが生まれたのかとなるからだ
そこで綺羅星のごとくミケランジェロやレオナルド・ダビンチとかラフェロとか生まれたそれが生まれのは小都市国家なのである

もう一つの原因はヨ−ロッパが貴族社会だったことである、その貴族が富を浪費するというのではない、学問とか芸術でもパトロンとなり育んだ
キリスト教会でも対立があっても芸術を育んだ、つまりヨ−ロッパの特性は地域社会の充実と貴族社会にあったともなる
貴族社会は特権階級で否定されるとなるがでもヨ−ロッパでは貴族社会なくして学問でも芸術でも科学でも育まれなかったのである
もちろんベルサイユ宮殿のように貴族の浪費とかはあった、でもその富で育まれたものがあった
だからどうして天才が生まれるのかという謎はそういう社会があり天才を育む社会があったことだともなる
貴族だとそもそも先生は個人的に雇われて教えたとなる、学校だと大量の規格品を一様なものを作るには適しているが個性を育むことはできない

だから日本でも天才は生まれない、最初高度成長時代があり電器製品が世界に売れた
それで日本は優秀だと見ていた、でもそれは日本人が発明したものではない、ヨ−ロッパ文明のコピーだったのである
要するに規格化された大量生産して外国に売ってもうけたというだけだったのである
それがわかったのは同じことを韓国でも中国でも欧米からまねてした結果今は経済成長して日本をぬいているからである
でも中国でもIT技術はアメリカの天才のベルゲイツとかジョブスとかがコンピュターを発明して生まれた、中国が発明したものではないのである
ただまねることは悪いことではない、最初はまねることからはじまるからである
日本では奈良時代に中国の漢字を取り入れた、次に平安時代になりかなを発明した
その基は漢字にあったともなる、だから最初はみんなまねでありその後に独創的なものが生まれる

いづれにしろ日本の高度成長は日本が発明した独創的なもから起こったのではない
日本の得意技は改善と改良である、他国の発明したものをまねて改善して改良することに優れていた、でも発明はできなかったのである
だから今になると韓国、中国でも電気製品が作れる、それもコピーだからできる
韓国でも中国でも独自に発明したものがないのである
だからコピーしただけでは国の繁栄も発展もないのである

ではどうしたら天才が作れるのか?

その謎の解明はヨ−ロッパになぜあれほど天才が生まれたのかということである
一つは多様な地域性であり一つは貴族社会があったということである
そこにヒントがある、多様な地域性というときその土地土地は必ず違って個性があるからだ、地形とか歴史が違っているからそうなる
もう一つは貴族社会があったということである、それは特権階級として否定されるがいい面としては例えば家が基本としてそこが学びの場となっていたら有利なのである
家庭教師がついていた方が有利なのである
なぜならその人にあった教育でもできるとなるからだ、なぜ医者の家では子供も医者になるのか?それは環境の影響が大きい、見よう見まねがあり門前の小僧習わぬ経を読むとかもあるからだ
江戸時代ならたいがい親の職業をついていたことでもわかる
第一家に一冊の本もないような所では何か知性が育まれるとは思えないからだ
団塊の世代の子供時代は子供部屋もないし家には一冊の本もなかった
本は鉄腕アトムとか鉄人28号とかを漫画を借りて読んでいたのである
そういうことではいくら知的好奇心があっても育まれないからだ
そういう点貴族社会では家が教育の場になり家庭教師がいて個性が育まれたとなる

もちろん天才は生まれつきがあるとしても環境に左右される
だからそういう環境が備えれば生まれやすいとなる、私の場合そういう環境に恵まれていたとなる、ただ残念だったのは田舎には本がなかったことである
今のようにアマゾンであらゆる本を買えていたらもう独学でも知識は習得できていた
専門書など田舎の本屋には置いていなかったからである
それで仙台市に通うほかなかった、その仙台の書店でも今わかったことは本当に少なかったことなのである、本の量は膨大だったのでありそれを読んでいれば専門家になれたということがあった

ともかく天才が生まれるというとき天才は生まれつきである
ただそうでなくても天才を育むものがあり環境に左右されるのが人間である
例えば今なら留学は普通にできる、金がなくても労働しながらでもできる
すると外国を肌で感じることができる、すると日本を相対的に見れる
だからたいがい日本を語れるのはそうした外国生活をした人なのである
それはささいなことでも外国生活で経験したことと日本で経験したことの相違があり
そこから考える思考脳をもつことができるからである
そこに留学とか外国での体験がないものの差が生まれるのである
ヨ−ロッパの特徴はまたヨ−ロッパ内での交流があり地域性があり多様な世界があり刺激されるものがあり天才が多く輩出したとなる

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成功する人々の法則ほマルコム- グラッドウェル

これによるとビルゲイツが1955生まれ,スティーブジョブス1955年生まれ・・・
ほかのコンピュター関係で成功した人は1954とかその幅が一二年なのである
つまりこの時代に生まれた人がコンピュター成功している
その幅一二年しかないのである、この時代からはずれると成功しなかったのである
だから人間はいかに時代の影響を受けるかを示している
日本でも戦争で才能があった人は20代でも死んでいるからそれか後の損失となったのである
だから現代はニートとか引きこもりとかいくらでもいる、そんなことして無職でいられるのは親に余裕があるからである
そういうふうに余裕があれば才能も育てられるのである
ただニートとか引きこもりは実際は何も才能もないのにただ無職となっている人かもしれない、ただヨ−ロッパの貴族のようになっていれば才能は育てやすい環境にあった
まず毎日非正規でも肉体労働でもこきつかわれていたら才能があっても伸ばせないからである  
そして人間の才能は多様でありそれも埋もれるのが数限りなくある
時代の影響もあるし環境もあるし才能が伸ばせないのが普通なのである

日本の問題は今や規格品の大量生産では豊かになれなくなったことである
人間でも規格品はいらないとなる、でも現実には日本は規格品を同じようなものでも作るのに適した国だった
同調圧力が強いから個性が強いとはじかれる、才能を育てにくい環境である
でもそのことか日本自体の衰退に通じている
だから今までの大量規格製品を作るのとは違ったものとして教育もある
そういうことでテレワークとかyoutubeとかは新しい才能を育てるツールになる
学校では規格品を作るのには適していても個性とか才能を育てるのには向いていないからである
そしてAI時代になると人工頭脳時代になると何かもっと人間の能力が試される
驚くのは翻訳のソフトは優れている、これほどに翻訳できる先生がいるのかとなる
それだけ機械の方がAIの方が優れているとなると人間はさらなる人間の身にできる創造性が要求されるのである
詩となるとAIで翻訳できないようにである、それは高度な人間にしかできないものだからそうなる、そういうことは他の分野でもそうなるのである

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posted by 天華 at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2020年09月27日

警察が民事に介入することは法律違反? (匿名の通報でもただちに強制的に職務質問されるのは法律違犯?)


警察が民事に介入することは法律違反?

(匿名の通報でもただちに強制的に職務質問されるのは法律違犯?)

個人の財産権の行使や私法上の契約、親権の行使等は、個人間の私的関係の性質を有するにとどまるところ、その権利の行使、債務不履行等に対する救済は、専ら司法権の範囲であり、警察権の関与すべき事項ではないとする原則である。

紛争が生じ、市民の通報または警察官自身による現場の目撃をもって、警察権は発動される。しかし、暴力など明確に刑事事案に発展する要件が存在しない場合は、事情聴取などによって情報収集や口頭注意に留まることになる。紛争関係者が自己の都合に有利となるように警察官に強制力を執行するように要求された場合、刑事事案に発展する要件の不存在を理由とする代わりに、民事不介入の原則をもって示すことがあるとされる 

個人間の私的関係の性質を有するにとどまるところ、その権利の行使、債務不履行等に対する救済は、専ら司法権の範囲であり、警察権の関与すべき事項ではないとする原則である。

ここで司法権と検察権とに分けていることである、司法権とはなにか?
警察権はただちに職務質問のように強制できる、逮捕もできる
司法権は違う、裁判でも必ず両方の言い分を聞くからである
警察権は一方の言い分だけを聞いて権力を行使するのである
だからただ怪しいというだけですぐに駆けつけねばならない
でもなぜ怪しいのかと通報した人に聞くこともないのである

これもむずかしいのだけど具体的に知っている人でアパートの隣の人に悩まされている
その老女はなんらか不満があり異常なのである
人の迷惑も考えない、常識もない、何か嫌がらせの様なことを日々している
何か聞いただけでも異常である、普通の人ではない
でもその女性が警察に連絡してその隣人に悩まされている迷惑されている人を逆に訴えて通報してきたのである

それで即座に警察が来た!

つまりこれは通報されるべき人が逆になっていたのである
本当はその通報した人が問題であり警察に通報される人だったのである
ただ毎日迷惑になっている女性は市役所とかに連絡して解決してくれとなっているができない

ここでおかしいのは通報した人が通報される変な迷惑な張本人だった!

だから私自身も無人駅でたまたまいろいろ聞かれて案内していた
そしたらそれを見ていた人が怪しいと通報してきたのである

その通報した人が怪しい人だったこともありうる!

でも通報されたら警察は必ず来なければならないと言っていた
それは問答無用なのである
だから誰でも通報したら来なければならないというのは納得できない
ただ何か緊急の場合があり助けてくれとなれば別だとなる
だからただ怪しいというだけではかえって通報した人に問題がある場合がある
それで職務質問というのは強制的でありそれがすべて認められるのか?
とにかく誰でもいいから匿名でも通報したら警官が駆けつけねばならない
そういう法律があるとしたらそれが社会に通用するものかとなる

迷惑隣人の場合は公衆の面前で職質問したほけではない、自分の場合は公衆の面前でされた、だから名誉棄損で警察を訴えることもできた
何の根拠もない、匿名の人が通報してそうされたからだ

なぜそういうことが起きたのか?

それはともかくいろいろなもめごとがこの世にはありその事情がわからないことである
だからそうしてもめごとに介入すると事情がわからないから一方的になったりする
そして警察の問題は権力をもっているから強制されるし相手を犯罪者にもできる
そういう権力をもっていることが問題なのである
だから権力を持つものは実際は常に監視するシステムが必要でもそれが機能していない
それで東電などでも原子力村が作られて誰もその中に立ち入ることができなくなっていたそれが大事故になった理由だったのである
逆に東電では法律違反だったとして警察が介入してもいいとかの問題でもあった
でも検察自体が原子力村の一員だった、有力な天下り先となっていたからである
だから検察とか警察は公正なものではない、やはり時の権力者側につくのである
それはマスコミでも同じである、時の権力者側についた方が得だからである
また御用学者が経済学者でも金持ち側に富裕層とか時の権力者側につくのは金になるからだとしている、貧乏人についても金にならないからだ

ただ本当に警察とか弁護士でもこれは人間の様々なもめごとに介入するからそこでその問題がこじれるとかかえって不公正になる
弁護士もまた警察と似ている、私の家でもめごとがあり交通事故の仲裁を頼んだ
そうしたら最初から相談料として百万もとられたのである
これも違法だった、ただ私の家ではわからないので親戚の人を通じて頼んだのである
その頼んだ人が何も知らないでそう言われて金をとられたのである
そのとられる理由が全くわからない、相談に行っただけで百万最初からとられたのである裁判にもなにもならいでとられたからこれは違法でありだましだったとなる
なぜそうなるのか?弁護士とはこうしてもめごとに遺産相続とかにかかわりそこで利益を得たりしているからである

まず家庭の事情など複雑でわからないことがある、そこに全然事情も知らない人が介入するとかえって混乱する、だから家庭のことに警察が入りこみたくないというのがわかる
そして田舎になるとまた事情がわからない、それは家庭ともにている
だから田舎ではなるべくもめごとには介入しないとか推理小説では事件があっても介入しない、殺人までうやむやにしたかとある
田舎では有力者がいてそういう人に従うとかになる

いづれにしろ警察は因果な仕事なのである、ドラマで妹の結婚相手の男性を疑った
妹は信頼していたがどうしても疑っていた、その疑心暗鬼が結婚相手の男性を苦しめた
でも信じてくれといって一回だけ信じてくれと言われ信じて事件は解決した
つまり警察の仕事は疑うことであり人を信じないことだからそうなったのである
だから警察の仕事は疑うことであり相手を罪に定めることだからある宗教団体では入会できないともなっている、宗教だとそういうことはしていけないとしているからである
ただその宗教団体もカルトだからまともではないのである

とにかく警察とか法律でも万能ではない、だから法律をひけらして対抗するものも完全ではない、法律をたてにして悪事を働くごまかすものもいるからだ
第一弁護士自体がそういう人が結構いるのである、だから警察のしている事も実は市民の監視が必要なのである、なぜなら警察がすべて公平などありえないからである
ただ権力をもっていることで強制できるから従うだけなのである
だから常に権力は監視すべきなのだがそれがあらゆる面でできていないから原発事故にもなり国民自体が大被害を受けることがある 

人間の問題は権力をもつことにあった、人間が権力によって操作される
その権力に対抗することができない、それが様々な問題をひきおこしてくる
それは大きな事件でも必ず権力が関係して起きて来る、戦争でも権力と権力の衝突だからである、その権力を抑制する子とかできないから起きて来る
民主主義でも同じである、数が権力でありそれが公正でなくても数が多ければ正義となり権力をもつことができる、別に法律に違反しても数が多ければ正義になってしまうのである、そして人はその数に従う、そしてファシズムとなりナチスともなってゆく
それは宗教にもある、宗教も数を集めて団体化すればそれが政治勢力となり権力をもつ
そして数によって支配するとなる、宗教が内心のこと個々人の心のことを問題にしているが数を集めればそれで政治勢力となり権力をもつことで支配できる、権力をもつことになる

警察の問題は権力を行使できることにある、だから本当はその権力をやたら行使することは危険なのである、民事介入が警察に禁じられるとういうとき何か民事になると家庭のことになると事情がわからない、本当に複雑になるからだ
そんなところに権力でもって介入すればかえってややこしくなり解決するどころではない問題を複雑にするだけだとなる、それで仲介する人が警察でも恨まれるとなる
人間に何か裁く力がないのである、それで裁くなという言った
裁けるのが神しかないからそうなる、でも現実社会では裁きがありその裁きが公平にならないのは当然なのである、だからみんな不満になるのである

posted by 天華 at 10:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

コロナウィルスによるマインドの変化も時代の変化 (グロ−バル化や資本主義は終わる?)


コロナウィルスによるマインドの変化も時代の変化

(グロ−バル化や資本主義は終わる?)


コロナウィルスによる変化もなぜこれほど世界を変えるほどのものとなったのか不思議である
でも日本でも高度成長時代がありマインドとしては拡張拡散増産増大である
グロ−バルは世界的拡張でありやはり増産増大であり中国が加わりグロ−バル経済は膨張したのである
でも中国でも成長が一段落した、もう今度は下降をたどる
グロ−バル経済はスピードが早い、中国でも十数年で成長して日本をぬいた
それで日本は凋落した、そのスピードが早いのである
江戸時代だったら国内経済であり農業社会であり変わるスピードも遅いのである
だから急激に変わらないから安定していたとなる

それがグロ−バル化すると凄まじく変わる、劇的に変わる、中国がその象徴である
今は新幹線が走りIT社会となりアジアの先進国となっている
しかしコロナウィルスでもそうだがその前にも成長は止まり停滞時期に入っていた
そのサイクルが早いのである、20年くらいでそうなったからだ
地球規模でみるとグロ−バル化とか大企業の多国籍企業は短時間で地球の資源でもとりつくすとかなる、環境破壊もスピードが早く森が喪失して動物が生息できなくなる
大企業の破壊力が今までの社会とは格段に違っているからだ
機械が発達しているからたちまち森でも切り取られてしまうのである
ところがその木を回復させて成長するには50年とかかかる
この辺で津波で海岸の松林が失われた、それで松を植えても50年とか成長するに時間がかかる、つまり自然の時間は遅い、早めることができないのである
それで二十日大根があり四十日大根がある、それを早めることがいくら科学が発達してもできないのである

おそらく文明は本来の時間を感覚を狂わせてしまった、距離を短縮したことも時間感覚を狂わせた、なぜなら外国まで行くのにどれだけ時間がかかったか、船で行っていたら時間がかかる,ヨ−ロッパまで一か月とかなったら時間間隔まるで違ったものになる
飛行機で8時間とかとは大違いだからである
それでコロナウィルスのように同時間に世界に蔓延したのもそのためである
何かそういうグロ−バル化は時間が早すぎるので影響が大きくなる
例えば外国の文化でも取り入るのに時間がかかる、仏教が日本に入ってきてもそれを日本の仏教とするのには鎌倉時代までかかった、500年くらいかかっている
つまり物は入ってきても精神的な文化となると簡単に同化できないのである

それで民主主義でも日本では理解していない、アメリカから入った民主主義とは何なのか理解していない、だから三権分立でも報道の自由でも日本では確立していない
日本が報道の自由では世界で20位とかなっているからだ
報道の自由がないところに民主主義もない、つまり何でも外国の文化を取り入れても成熟するには時間がかかる、だから原発事故などがありそれで私の住んでいる地域はいろいろなことで問題になった、そのことを指摘してきた
つまり民主主義が機能していないから大事故にもなっていたのである
原子力村とか形成されていて安全神話が権力によって作られたことでもそうである
民主主義は権力を監視するものが必要でもなかった、マスコミは地元でも何の働きもしなかった、ただ東電から政府について宣伝費をもらい利益にあづかることしかなかったのである、だから反省が必要であり民主主義を機能させることが必要だったとなる
ただこうしていろいろあり時間をかけて民主主義でも成熟させるとなる

コロナウィルスの不思議はこうした急速なグロ−バル化とかそれによる弊害が世界的に顕著になった、それに歯止めをかけるものともなった不思議がある
だからこれは神の采配だったのかともみる、コロナウィルス自体は謎である
専門家でもまだ不明である、ただその結果として世界に示したことはグロ−バル化に歯止をかけたことでありまた人間社会を変化させたことである
つまり資本主義でも強烈な物欲が世界を席巻したのである
それに歯止めをかけたとなる

グロ−バル化というときそれは大航海時代からはじまっていた、信長の時代からはじまっていた、500年くらいが大航海時代でありヨ−ロッパの世界進出時代だったのである
アメリカという巨大国家もその一環として成立したのである
ヨ−ロッパ文明支配の時代だったのである
ただその時、日本は鎖国していたというのが特殊だったのである
300年間外国と没交渉だったというのが世界ではありえないことだった、それができたのは海に囲まれていたからだとなる、そしてまだ空輸とか空の交通はなかった
だから鎖国でもありえたし閉ざされ世界でもありえたのである
今はこれだけ交通が発達すれば閉ざすことはできないのである

いづれにしろコロナウィルスの変化はマインドを変化させたことも大きい
何か内向きにさせた、外へ外へ遠くへ遠くへというマインドが内向きにさせた
それは物欲の時代から精神的内面性を追及するマインドの時代になる
それは宗教にもなる、ただカルト宗教団体の宗教は一切そういうものはない
むしろ物欲が過激化した御利益利権集団である
物欲を追及する集団でありもともとそんな内面性など微塵も関係ないのである
つまり資本主義体制の中でより過激化した物欲利権を求める集団だとなる

とにかくコロナウィルスでは交通をとめた、国内でも国外でもとめたことの驚きである
JRまでも止めた、そして過度な人間の交流もとめた、観光と飲食業に大きな打撃を与えたインパウンドもとめた、一時的なのか世界が日本の鎖国のような状態になったのである
だからこれは何なのだろうととなる
そしてこのマインドの変化は変わらないという、継続されるという
つまり世界的にグロ−バル化とかはとめられてマインドが変わる
それは世界的にそうなる、大航海時代から世界はヨ−ロッパ化してそれは現代の過度なグロ−バル化となってアジアの中心地の中国にきて一応停止したともなる

何かそうなるとマインドは内向きになり人間の内面を追及するようになる
それは宗教であり哲学でもある、そういう時代に入ったのかもしれない
自分はもともとそういう内面性を故郷の自然とアイディンティティ化することを詩などを通じてしてきたのである
引きこもりになり内面世界を追及して来たとなる
確かに一方で旅ばかりしていたが内面の追求が主にしていたとなる
だから木とか石とかと一体化する詩を書いてきたのである
団塊の世代は企業戦士となりみんな会社人間になっていた、でも今になるとそうした物欲社会が終焉したともなる

戦後の焼野原では何もなくなった、食べるものもなくなったのだからどうしても物欲社会になり経済成長志向になりそれが運良く日本ではできたのである
でもバブルになり停滞して下降になりコロナウィルスでさらに成長は望めないとなった
これも問題だか何かマインドが変わったらそうした高度成長時代を望まないとういこともある、それでミニマリストとか低欲望社会になる
青年でもそうなるのは時代のマインドの変化なのである
それがいい悪いとかではない、時代のマインドだとなる
それより日本が貧困化してゆくときそうならざるをえないということもある、毎月電気水道ガスを請求されて払えない人がいる
それも5パーセントもいるとしたら多い、期限を延ばしてくれないのは払わずにいなくなった人がいるからだという
取り立てる人も嫌で仕事を辞めたという人もいる、つまり現代の貧困は必ず電気ガス水道が止められることに顕著に現れるのである、そうなると生活すらできなくなるからだ

明治時代には日本は必死になってヨ−ロッパの文明を取り入れ追いつこうとしていた
その気迫は今とは違っていた、留学して英語できないと自殺した人までいる
それだけ必死だったのである、日本は今やそうした気迫も意気も青年にもない
かえってアジアの後進国とされた、ベトナムであれ東南アジアの青年にある、中国もヨ−ロッパに蹂躙されたことで悔しいとしてあれまで成長して欧米に対抗できる力をもったのである、そして意外なのはフィリンピンが成長するとされて投資すべきだとしているのも意外である、なぜなのかというと若い人口が多いからそうなっている
やはり若い人口が多いと経済でも成長へ向かうのである
老人大国化した日本にはもうそれがないのである

とにかく時代のマインドがありそれも大きな変化である、それに逆らうこともできなくなる
今まで感覚とは違ったものとして生きる、物欲だけの追求の時代は終焉する
資本主義でももう銀行でも投資先がない、成長する起業る会社もないから貸す先がないからもう成り立たなくなる、そのこと自体資本主義が先細りになり別な体制をシステムを求めるようになる
では社会主義とかに変わるのかとなるとそれもない、社会主義共産主義は殺戮虐殺主義であり反対する者を許さないのである、それは実際は露骨な権力争いにすぎないのである
政治の本質は権力争そいだからである,権謀術数の三国志でありマキャベリズムなのである、だから菅首相がマキャベリズムだとしている、なぜならその君主論が愛読書だとしているからだ、つまり権力を得るためにそうした本を読んでいたとなる
それが首相となってかなえたともなるからだ



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2020年09月28日

秋の夜、虫の音(亡き家族を偲ぶ短歌20首) (愛は消えず死者も生き続ける)


 秋の夜、虫の音(亡き家族を偲ぶ短歌20首)

(愛は消えず死者も生き続ける)


(母を偲ぶ)

夜の更けて厨(くりや)に一人かたずけや幽かに虫の鳴く声聞きぬ

我が母の厨に長く働きぬその日を思い虫の音を聴く

窓の外に月は傾きうつりゆく虫の鳴く声幽かに聴きぬ

我が家に嫁ぎてあわれ母なりき虫の音幽か厨に聞きぬ

我が母の悲しもあわれ今にして偲ぶや窓に月の見ゆかな   

我が母のしもやけ哀れ厨にそ苦しくもあれ長くありしも  

(姉をしのぶ)

姉と母もの言わざるもなほ我を見守りあらむしのびけるかな

姉と母消ゆるにあらじ悲しかな我を見守りここにしあらむ

我が姉の誇りにせしや柱かな死して我がよりしのびけるかな 

争そうも憎しみは消え三人が深く結ばれ離れざるかも

ほがらかに笑う姉なりこの家に力を与えて我は育ちぬ

(父を偲ぶ)

我が父のこの土地買いぬ苦労かなあしき土地しも尊きものかも

我が父の酒屋の丁稚に勤めけりその苦労に建てし家を思いぬ

遠つ祖(おや)苦労のありて今の富ありしを知れやおろそかにすな

(兄をいたむ)

我が兄の悲しかりけりその痛み思ふがゆえに墓の建てしも

(家族みな逝く)

我が家族みな逝きにけり我一人供養し守る秋の夜ふけぬ

我が家族死してもなほも何をかを語れるものや秋の夜ふけぬ

もの言わぬ死者にありしも残される者の語りて生きるものかも

雨しとと彼岸のあとに我が一人花をさしつつ墓に偲びぬ

人死して偲ぶやあわれうつる時面影浮かび秋の夜ふけぬ

我が家族悲しむものは我が一人世は冷たくも偲び悲しも

冷たき世家族のなきを悲しかな我には深き愛の思い出

人の世の別れし悲し逢わざりき愛に結ばる人は離れじ

悲しみて熱き涙を流せしを愛はたやすく消ゆるにあらじ

人死してもの言わざりしもなほ愛の通いて深く結ばるものかも

この家に我ははぐくまれその日々やかえらざりしも愛は通いぬ



人間は死んでみてまたわかることがある、姉が死んで10年も過ぎたのも早い
次に母が死んで3年以上過ぎた、たちまち時は過ぎる
でも不思議なのはこうしてやはり死んだ人でも思うことである
死者は死んで確かに形姿は消える、でも何かがやはり残っていると感じる
それは何なのか、そうでなければ人は何も思わないだろう
それはやはり家族は愛で結ばれているからその愛が残っているとなる
愛は依然としてそこに残り通じているとなる
ただそれは見えないのである、でも見えなくても何かが通じている
それが愛である、愛は人を結びつける、だから死んでも消えないのである

私の家の場合は特殊であり60年間一緒にいた、それも普通の家族ではなかった
憎しみ合う家族でもあった、でもそうであっても60年も一緒にいれば憎しみも愛に変わっていたのである
私は特に良くされた、こうして家族への思いが深いのはそのためである
そうでなければこうはならない、結婚したりしたらまた別になっていた
60年間私の世話をしてくれたのである、だから楽だったのである
そういう特殊な家族故に忘れられないとなる

ただ不思議なのは母のことはあまり思っていなかった
第一母はこの家に嫁ぎたくなかったのである、でも前の夫が事故で死んで仕方なく嫁いできた、子供の時は継母に育てられ不幸だった
そのあとも不幸があった、だから嫁いできても必ずしもここがいいとは思っていなかったのである、それは仕方なく嫁いできたからである
そしてずっと90過ぎても厨(くりや)に台所仕事していたのである

それで奇妙なのは今度は一人になり自分自身が食事の用意のために厨に立って料理をする家事をする、その時母のことを偲んだのである
つくづくこれもカルマだった、そこで母の気持ちを理解する
店をしているとき常に食事中でもお客さんが来て立っていた
それが嫌だった、でも今になる自分が必ず食事中に何かたりなくて台所にゆく
だから必ず食事中でも立たざるを得なくなった、だから人間は特に親のカルマを受け継ぐ親と同じ苦労を強いられるのである、そうして親の苦労を知るのである

とにかく何か家族にはそれぞれ違った物語があり複雑である
だから他人の家族は理解するのがむずかしいのである
自分の家族を理解することはできないだろう
母親が二人いたともなるからだ、家族とは何か必ずしも夫婦がいて成り立つとも限らないまた家族でも親子で愛し合うともならない、兄弟でもそうである
遺産争いで絶縁したなど良くある話である
それが人間の残酷さである、たいだいは「金の切れ目が縁の切れ目」である
そうしてみんな去った、金になるかならないいかしか見ないからだ
そうなると人間は本当にはかない、死んだら何の関係もないとなる 
ただこんなに人間関係が冷たくはかないということは実感しなかった
だからこそ余計に愛ある家族を思うようになったとなる

ともかく愛で住ばれたものは簡単には消えない、ただ家族の愛でもやがては消える
消えない愛は神への愛なのである、それは永遠なのである
ただこの世では家族の愛が一番の愛なのである

とにかく人間は親を偲ぶというとき代々つながりを自覚する、今あるものは先祖によって作られたものでありそれを自覚して感謝する、だから原発事故とかで故郷が消失したときそこに失われたものはこうした親とか先祖とのつながりになる
それは普通は自覚しないからだ、人間は何か失ってみて深く自覚する、生前はあまり感じないのである
死んでみると惜しいとか深く思うようになる、何が価値あるものか生きている時わからない

生きている時ただ金だけだとなる、死んでもそうなる人もいる
遺産だけが目当てだともなる、それは人により家族により違っている、それだけ人間関係は家族でもそれぞれであり複雑だからそうなっているのだ、ただ死んでから死者を偲ぶということは深い愛があってできることだとなる
なぜなら生きている時なにか装うことができる、金のためでも親に孝行したりする
でも死んでから何も感じない人もいる、金にならないからとなり関係もなくなり関心がなくなるからだ
一般的にはそうなるのが多い、でも私の場合は特殊な家族で家族への思いが深くなったのである


2020年09月29日

親に尽くさせられた時代と子供の犠牲になる親 (時代が変わると道徳さえ変わる)

親に尽くさせられた時代と子供の犠牲になる親

(時代が変わると道徳さえ変わる)

70歳過ぎてからの貧乏は怖い…老後の恐怖のどん底実例集!

こういう人もいる、30歳から親の病気のために仕送りしていた、それが全部で3000万円になったという、これも大変な負担だった
そして70過ぎて貧困化したのは親にもらえる遺産が兄弟にとられたためだった
それだけ親に尽くしたのに兄弟は遺産を要求してきた
金になると兄弟もなにもない、所帯が違ってくると嫁は金を要求してくる
つまり兄弟は他人のはじまりであると良く言ったものである
だから兄弟があって助かることもあるが遺産相続で骨肉の争いになり絶縁したとか良く語られる、金で人間は豹変するというのがわかる
それは原発事故で多額の補償金がもらえるということでこの辺は分断されたとのとにている、一体感はなくなったのである

もともと戦前とかは親のために働く尽くすというのは普通だったのである
それは後進国では貧乏だから親に送金するために日本でも出稼ぎにきて仕送りしているとかなる
貧しい国では子供は親のために働かされるのである
私自身が奇妙なのだけど子供の時一番働いたのである
店で働かされていた、配達もさせらたし卵買いとかもさせられた
風呂焚きとかもさせられた、つまり自分の父親は子供の時から酒屋に丁稚奉公させられていた、それと同じようなことが家族でさせられていたとなる
それは別に苦しいというのではない、他人の家ではないからだ
丁稚奉公は他人の家だから子供にしては辛いとなる

それでおしんのNHK朝ドラが人気になったのである
貧乏な時は親のために働く尽くすが普通だったのである
それで農家では男の子がいいとされていた、なぜなら農家だと働き手になるからである
つまり労働力として子供があったとなる
その時教育するという感覚はなかった、ただ読み書きそろばんくらいできればいいとかであった、母は尋常小学校であり読み書きはできたからである
明治生まれの女性で読み書きできない人がいた
そういう時代であった
母の実家は幼少の時は金持ちの家であり楽だった、でも父親が機織りの会社を始めて倒産して苦しい生活になった
母は原町紡績で糸取りとして10年間働いた、その給料は親に与えていたのである
何か自分の給料で今の人のように贅沢するようなことがなかった
だから母は花とかは贅沢であり興味がない、それで庭に豆などを植えていたのである
要するに働きづめで一生を終えたのである

それで今の70才くらいの人でも親が病気になり仕送りしていたという人もいた
こうして親に尽くして子供が犠牲になるのは辛いものだったとなる
普通は親は子供のために犠牲になる、でも戦前は子供は親のために働くというのが普通だったのである、それが戦後に変わってしまったのである
何か江戸時代からその後も親孝行が徳目としてあった、ただこの親孝行も孝行したいときは親はなしになっていたのである
今は親は必ず孝行が介護が強いられる、親はたいがい60才でも生きている時代だからである
自分は親に仕送り何かしてあげたことがない、ただ60才になって介護になったからそれは当然であり懸命にしたのである

でも30歳からとかまた50歳でもあり孫が介護されて祖父を殺したとかもあった
それは今の時代にはコクである、介護になったらもう何もしたいことはできない
自由が奪われるからである、だから私自身自由に旅をしていたが介護になってから一切していない、もう十年以上旅をしていないからだ
つききりになり世話するようになるからである

何かでもこういうことは増えて来る、近くの知り合いは50歳ちかくなのか、青森を介護施設に送りたりないものがあり仕送りしている
必ずいろいろ備品などで要求がある、それも余裕がないのだから苦しいとなる
親のために苦労するというのは何か苦しい、今は親は子供のために犠牲になるというのが普通になったからである、半分が大学に行く時代だからでもある
介護とは何か自分自身の人生を失うことにも通じている   

それで私は親戚の人が病気になり輸血をたのまれたとき断った
その時登山して異常に疲れていて弱っていたからである、でも30歳なのだから輸血してもらいたいというのはわかる、だからそういうことがありその親戚との縁は切れた
でも何か人間は若い時は自分のしたいことをする、若い人が介護によって親によって犠牲にされるのは本末転倒である、そこで親を恨むともあとでなる
私の場合はそういうことはなかった、それはすでに十分に自分のためにしてくれたからである、だから当然のこととして苦しかったけど介護したのである

だから親孝行というモラルは時代によって生まれたものでありそれは子供を親の犠牲になるのだからいいものではなかった、ただ貧乏だからうそなっていたのである
貧乏で子供が売られるということも普通にあったからである
それは貧乏でそうさせられた時代だったのである
それを今の時代に適用はできないのである
親は子供のために犠牲になる、また子供の世代は親の世代の犠牲になるのは理不尽なのである

それで高齢化社会は若い世代の負担に老人がなり税金でもとられるとかなり不自然なのである、そういう時代を人間は経験していないのである
親のために犠牲になるというのもそれは時代だったのである
こうして時代が変わると必ず価値観が変わる、そういうことで戦前生まれの親は子供の時親の犠牲になったのがら子供でも親のために尽くすべきだと経験から思う
でもその時価値観が変わってしまったから通用しないのである、それで損したとも思うのである

何か時代も変わると価値観が変わる、道徳さえも変わる、親孝行というのは誰も認める勤めのようになっていた、ただそうなったのは時代背景があってそうなったいたのである
人間は時代が違うと本当にその差にとまどうのである
戦争が終わり日本人の道徳も価値観も一変した、国のために死んでいった若者がいた
それはその時代はみんな当たり前のことだった
そうして小野田少尉のような人が戦争が終わって何十年も過ぎてジャングルから出てきて日本に帰りとまどいなじめなかったというのもわかる
まるっきり道徳も価値観も変わってしまったからである

実際は子供が親の犠牲になることは理不尽であり道徳として間違っていたが貧乏なのでしかたなくそうなっていたのである
本来の人間のありかたは親は子供のために犠牲になるのが正常な道徳になる
人間は常に次の時代のために生きるから未来に生きるからそうなる
子供は未来そのものだから大事にされる、それは生物として当然である
老人を大切にしろというのもわかるがそのために若い人の人生が犠牲になるということは生物として自然ではないのである

親のために子供が犠牲になる、それを普通とした当たり前とした道徳としたのは貧乏だったからなのである、子供が働かなければ家の生活も成り立たないからそうなっていたのである
子供はもっと別なことをすべきであったともなる、ただ子供でも働く経験は悪いことでもない、でも本来は子供はそうあるべきではないのである 

自分はしたいことをさせけくれたから親を恨んだりはしないし今でも親に感謝しているし死んでも愛している、それは親がそうさせてくれたからなのである
ただそれは私の家族が特殊なものになっていて親一人ということでもなかったからであるもしそうでないともう学校を出たら働き詰めになっていた
20代は浮浪者でありその後も旅ばかりしていたできたというのが特別だったのである
団塊の世代ではそういう人はまれな人でありアウトサイダーになっていた

いづれにしろ明治維新にしろ戦後の焼野原にしろ価値観ががらりと変わる、道徳が変わらないものではない、親孝行ということも変わる
それで世代間で理解しえなくなるのである、古い親の価値観を押し付けることはできないのである、俺はこういう仕打ちを親に受けたとかそれで親となり同じことを子供にすることは反発されるのである
人間がみんな働くものだというのもわかる、でもベーシックインカムにして各自人間はしたいことをすべきだ、みんいなアーティストになるべきだというのも本当に企業戦士として働いた人なら容認できないだろう
でも自分自身はそうして旅ばかりとかしていたのだからそういう人間として生きていたとなる
今働かない人が若い世代でもニートとか膨大にいる、それは何なのだろうとなる
労働するのが当たり前だというときそれは過去の価値観なのである
時代が変わりそういうことを以前としてあってもそれも否定されてもそれありだとなる時代である

ピーターの法則の実例ー経営の失敗 (人間はあることに優秀でもすべてに優秀になれない)


ピーターの法則の実例ー経営の失敗

(人間はあることに優秀でもすべてに優秀になれない)


工場勤務の優秀な職工が昇進して管理職になると、これまで得た技術が新しい仕事に役立たず無能になる。このようにして「仕事は、まだ適当な地位にまで達していない人材によってなされる」こととなる。

実社会での組織では技術を持った人々は、その技術ゆえに無能な管理職よりもずっと価値があるとも言えるので、ほとんどの組織では、管理職のための賃金や役職を優れた技術者に与えるような、事務系と平行した昇進の道を技術者に対して用意している
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なぜこういうことが起きるのだろうか?

人間の能力が万能ではなく極めて限られているからである、人間の能力というとあまりにも多様なのである、たいして付き合う人もない私でもそういうのを知った
その女性はとにかくしゃべるのがうまいのである、それは女性ならそうだがただ他の女性よりなにかとしゃべるのがうまい、それには感心する
別に老人であり学歴は中卒である、だから学問した知識などないのである
でもいろいろ経験しているからしゃべるのがうまいのである
ただそこには大きな欠点がある、何かしゃべるのだが実行力がないとかなる
でも男性の気づかないことをしゃべる、それが参考になるのである
それで最近孤独な老人の話し相手が商売にもなる
その話相手に向いている、また同年代ということでも話しが合うとなる
若い女性だと話しがかみ合わないことがあるからだ
若い女性の方がいいということがあっても話し相手には向いていないのである

とにかく人間の能力は限られている、全能なものは神しかいない、その限られた能力の集積が人間社会だともなる、個々には優秀な人はいくらでもいる
それはあくまで個別的に優秀なのである、ある分野で優秀なのである
ある人はある分野で一級の免許をとっているから優秀だとされている
技術的に優秀だと他者からも見られていて会社にいたときは月給も高かったのである
それで自分は優秀だとして事業を起こした
でも失敗して借金になった汲汲するようになった
技術者として優秀なのだから会社も経営しても成功する、優秀だとなると思っていたのである

つまりある分野で優秀な人はそう思い込みやすいのである
そして経営者になったのがその経営と技術とはまた違ったものなのである
機械を操作するのと人間に対するのとは違ったものになる
何か経営とはそうした技術だけでぱ対処できない、全人間的なものが要求されている
もちろん技術的に詳しいのは有利になる、ただそれだけではない、理系が何か経営ではうまくいかないというとき経営とは文系とも深く関係しているからである
理系だと物質とか機械と技術と人に対する対処方法とかモラルまで関係してくる
そうすると機械いじりだけが好きで人とは付き合わない、オタクになっていることもできない、それで武田邦彦氏は理系の技術者だから大学生を指導しているから機械マニアの人には英語は必要ないとしている、なぜなら英語の勉強をするより機械についてマニアのようなオタクの人が日本の製造業を支えているとしているからだ
だから人との交際とか英語などに労力を費やすべきではないとしている

これにも一理あると思った、第一武田邦彦氏自体が理系だけではない文系の知識に詳しいそれでyoutubeでも毎日見ている、もし機械のこと科学のことだけなら見ないのである
そういうふうにトータルな知識とかまた人格をもっている人は現代ではまれである
なぜなら現代文明は無数にパーツ化した社会に生きているからだ
もうどんな人も優秀な人でも部品化しているのである
もう複雑すぎて誰もこの社会の全体を知る人などいないのである
それで例えば原発を見ればわかる、これも恐ろしく複雑なものであり社長するその全体を知ることできない、吉田所長が肝心の復水器のことを知らなかったということでもわかるそんな人が所長になれるのかとなるが社長でも全部知る人などないのである

東電の当時の社長は資材係でありコストカッターとしてのしあがったとしている
そのコストカッターの社長のために安全がないがしろにされたのである
高い場所に原発を作る予定だったのに高くした土地をわざわざ削ったのである
原発がいかに総合的なものとして作るものだったか今になってわかった
日本だったら地震があり津浪もあり自然災害が多いからその対処も必要だった
本当にそれは総合的に見て建てねばならないものだった
でも総合的に見れる人などいない、ある部分だけを見ているしまた見れないのである
それを成しえるとなると全能の神のようなものになる
そこに個々に優秀な理系の技術者がいたけどそれを総合的な視点で使用するのが社長だったともなる、でもそんな人がありえなかったということである
そこからして破綻する運命にあったともなる

だからピーターの無能化する法則というのがあてはまる、ある地位でも職業でも担当でも優秀だとしてもそこで優秀だからして別な高い地位について優秀になるとは限らない
かえって無能化する、それは理系の技術者として優秀でも経営者として優秀とはならない理系と文系の相違は理系は物質とか機械とか道具とかそういうものに関心があり追及する文系は社会とか人とか人間の心とかに関心がある
それでその人は何か理系の技術者としては優秀でも人間のことを知らなかったのかとなるその人は自分は理系の技術者として優秀だった、これは間違えない、でもそれが自慢になり奢りになっていたのである
何か経営方針もなにもない、自分は優秀だから経営者になっても成功する、自分の優秀なことを見せてやる、何かそれが経営する動機になっていたのである
その人はだから他人のために尽くすとういう心などない、他人のために一つの荷物も持ちたくないという人だったのである
それは自分が苦しんでいる時それを見てわかった、人の苦しみなど関係ない、自分が優秀だとして自慢して他人に対して優越感をもつというだけなのである

経営とは何かということは自分は経験もないだから言わない、でも人間として何か傲慢になり問題があった、ただ別に理系の技術者として会社に雇われていれば問題なかったのである、ただこういうことはこの世には多い、だから特殊なことではないからピーターの法則が成り立つのである
人間の能力は限られている、全能ではありえない、そこから問題が起きる
あることに優秀でもあることになると無能になる、だからいくらある部分で優秀でも職種とか仕事の内容が変わると途端に無能化するのである
学者がいくら経済学者でも株のことを知っているからと株でもうけるわけでもない実業家として成功するわけでもい、かえって成功しない、実業家と理論家は違っているからだ
自分自身のことを言えば理論家であり実業家にはなれない性格である
家にとじこもって理論的研究をしているのが向いているのである

とにかく人間の能力の問題はあることに優秀でも他のことには優秀になれない、それであることに優秀でもそこで奢りになると必ず奢れるもの久しからずになる
人間の失敗は必ず奢りからきている、これも本当に歴史の法則であり人間の法則である
奢りが滅びに通じている、夜郎自大国のように漢帝国を甘く見て戦争に敗れた
日本でもアメリカを知らない井戸の中の蛙で戦争に負けて三百万人も死んだとなる
そういう例が歴史にはいくらでもあるから法則になる

これもまた私の親戚であり祖父にあたる人も警察署長だった、でも機織り会社をはじめて失敗して家族離散になる悲惨な結果になった、そのために私の母は苦しめられたのであるそして父親は威張っているばかりだったと言っていた
つまりこの祖父でも警察署長となるとそこまで地位をのぼりつめた、何か優秀な面はあったとなる、でも機織りなどは畑違いのことであり経営などできないのである
警察所長だからできる、そういう奢りが結果として悲惨なものにしたのである
その被害は子供たちに及んだ一家離散になったのである

こういうことは人間社会に常に起きている、ある分野で優秀でも他の分野では優秀でありえない、でもある分野で優秀だと他のことでも優秀だという思い込みになる
それで人間は無能化される、そもそも人間は結局いくら優秀でも無能化される
家族のことだが最後の言葉が「俺は優秀だった」と言って姉は死んだ
そう言ったのは認知症になり馬鹿になったということでそれが悔しくて言ったとなる
つまり人間は無能化する、無能にされる
原発でもそうである、そこに様々な人が社会の選ばれた優秀人たちが理系の技術でも科学者でもいた、でも結局は原発事故で崩壊ししてまったのである
それはまるでバブルの塔だったのである、人間の全員の意志で能力で天まで届く塔を建てようとしたががらがらと崩れてしまった
神が砕いたのである、そしてそこにいる科学者でも技術者でも政治家でも官僚でも無能化されたのである
その原因は人間には総合的に優れたものになれない、能力は無数に分化しているからである、それを統一することもできない、そこから破綻してゆくのが運命だとなっていたのである

posted by 天華 at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年09月30日

なぜヨ−ロッパで感染者数が増え死者数が多いのか? (ヨ−ロッパでもドイツとか東欧は少ない謎)


なぜヨ−ロッパで感染者数が増え死者数が多いのか?

(ヨ−ロッパでもドイツとか東欧は少ない謎)

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【武田邦彦 9/29速報】マジかこれ!全てが覆るデータが届いた!やはり私たちはTVに騙されていたのか・・


フランス、スペイン、イタリアは家族の距離が物理的にも近い。

若者と高齢者が一緒に暮らす生活スタイルも、被害が広がるきっかけになりました。アジア諸国の場合とは異なり、感染した高齢者を受け入れる病床も十分確保できていませんでした」

ドイツは、心理的には距離は近い。
ただ、老人は施設に入る方が比較的多い。

家族の若い方が旅行先でコロナをもらってきて、家族内で感染が多い。

なぜヨ−ロッパに感染者が多いのか?
それもイタリアからはじまりフランス、スペイン、イギリスと広まった
ベルギーが特別多い、理由はこれらの国と一帯でありEUになり国境もなくなったからだとなる

ただ武田邦彦氏が紹介したヨ−ロッパの感染死者数はヨ−ロッパ全体が多いというのではない、ドイツは少ないし東欧は少ない、その原因は何なのだろうとなる
不思議なのはイタリアがローマ帝国の発祥地でありローマ帝国が形成された主要な地域に感染者が多く死者数も多い
イギリスでも多いがここもローマ帝国領内に入っていた
ただその人種はドイツ系のゲルマン人である、だからラテン系とは違っている

ここで地域性と人種と歴史からみてみると地域性と歴史ではローマ帝国に早くから支配地域になったところに蔓延した、ドイツのライン河は境界となりローマの支配下に入らなかった
これも何か関係しているのか?というのは東欧が少ないということが謎になるからだ
これは地域性があり交通の関係もあるのかわからない、ともかく交通は現代はどこでもある、ただ日本では空港で水際作戦で外国から入るのを止めることができるのと違って
大陸ではとめにくい、EU内はパスポートなしで行き来できる

興味深いのはブラジルとか南米に広がったのは南欧系統でありヨ−ロッパで死者数が増えたのと共通している、人種的に関係があるのかでもポルトガル系はブラジルでありポルトガル語である、だから必ずしも一致しない
遺伝子からだとアジア型からヨ−ロッパ型へ変異して広がったとされている
つまりアジア型は比較的穏便でありそれほどの被害にならなかった
ヨ−ロッパは変異したものが広がり猛威をふるったとなる

ラテン系の南欧はまたローマ帝国内は何か伝染しやすい因子をもっていたのか?

これは謎である、交通がこれだけ発達していたらEU内は行き来が自由なのだから伝染しやすい、ドイツは人種的な影響なのか、医療体制とか家族が必ずしも大家族でなくてラテン系のように集まらないからなのか、老人は施設に入るのが多いというのも影響しているのか不明である   

ポルトガルの知識人たちは、政府の迅速な決断と行動による早期ロックダウンにより、被害が最小限に抑えられたと考えている。また、ポルトガルの最有力紙の1つ、パブリコのディレクターであるマニュエル・カバロ氏は「その種の『共同体精神』的な反応を得るには、各政党、政府、大統領間の意見の一致が非常に重要である」

ポルトガルは独自の対応ができた、ガバナンスが機能した、それは小さなクニだから共同体精神があったからだという指摘もうなづける
日本なども共同体精神がありそれが悪い方面に働くと同調圧力となり警戒が高い清潔民族であり似ているともなる
だからウィルスは交通と深く関係しているのである
小さい国だったら一体化して国の方針に従い国境でも閉鎖することもできたからである

つまり国境とか関所とかはウィルスに対して有効なものだったのである
また犯罪者でも入ってくるから国境とか関所は必要になる、それを廃止したEUではウィルスが広がり安かったともなる
だから国境というのは見直すべきだともなる、つまりグロ−バル化と国境なき世界を作ることだがそこにも問題があった

なぜならウィルスは風土病であり他の国からその病気をもたらして恐ろしい結果にもなるからだ、人間はいくら自由だ交通発達してどこにでも行けるとなったがそこにも危険があった、だからグロ−バル経済は見直すべきだと前々から私は主張していた
世界がこれほど一体化することは自然から見ると生態系から見ると危険なものとなっていたのである、それぞれの風土に生態系に基本的に依存して生活している
それが破壊されると生活できなくなる、原発事故でわかったように生態系が空気でも土でも水でも放射性物質に汚染されたら住民は住めなくなったからである

問題はなぜイタリアが発祥地になりスペインへさらにフランスからベルギーへイギリスへと拡散したのかそれが謎である
ドイツから東欧は死者数が少ないのである
それが交通の原因なのか、人の行き来の多寡が原因なのか、良くわからない
生活形態も家族形態も医療体制も原因していた、イタリアでは医療体制が不備だった
ドイツは充実していたということはある

いづれにしろ武田邦彦氏が指摘したことはテレビでマスコミで盛んにヨ−ロッパの感染者数と死者数を誇張して伝えた、なぜならヨ−ロッパでもこのように広いからだ
ヨ−ロッパ全体からすると感染者数と死者数が多い国だけを取り上げたからだ
ただ常にマスコミとテレビは目立つものだけをとりあげる
ある一部分を極端なものをクローズアップして関心をひく、その周りの状況は放送しないそれが常に盲点となっているのである
テレビという小さい画面がすべてのように放送する、それ自体に問題がある
イラク戦争での油まみれの海鳥の映像が全世界に放送されてそれが世界中の人に印象付けられた、そこでイラクは悪いという怒りの感情が植え付けられた
それがアメリカの宣伝にのせられたとなっていたのである
つまりテレビではマスコミでは一部分が常に誇張されて放送される
それが誤解する元なのである

ともかく今回のコロナウィルスを解明するのはもっと後にならないとわからない
ただヨ−ロッパですべてが感染者が増えて死者数が増えたのではない
ヨ−ロッパの一部分だともなるのである
だからこそなぜその一部分に広がったのか問題視する、そういう視点が必要なのである



posted by 天華 at 10:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

コスモス、秋の雲(真野川の土手の道の写真) (真野川の鮎は放流されたものだった)

                                  
コスモス、秋の雲(真野川の土手の道の写真)

(真野川の鮎は放流されたものだった)

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落合橋

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クリック拡大-彼岸花

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小池から小山田へ抜ける道

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小山田へぬける道
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ここは二カ所から水が湧いて流れている不思議



落合橋昔を語り秋の雲

落合橋老人と語り秋の雲

我が感ず一粒二粒秋時雨

里の道親しく通う秋あざみ

秋薊この地に生きて老いる女(ヒト)

秋燕もはや去りなむ里暮れぬ

隠されし小径や暮れ虫の声

この道や立ち枯れ木に秋の雲


夏菊にコスモス咲き満ち日は暮れむ土手の道にし語る人かな

溜池に静かに映る秋の雲一人のみ行く細道暮れぬ 

何か落合橋というのが名前が良かったとなる、場所もいい、でも今日会った人は真野川の漁業組合に入っていた、それで鮎は放流したことがわかった
それは県から頼まれて金がでて放流した、その人も真野川の漁業組合に入っていたがみんな年とって死んだとかやめたといっていた
組合員だと5000円とかとられると言っていた、でも鮎を放流すると百万くらい県からもらえるとかその金も組合員で分けるとか言っていた
何かこうして川でも組合を作ると利権になる、百万は使わないからである
むしろ使わないようにすると言っていた
その人の言っていることは間違えない、前の人は新しく移り住んだ人であり前の人も知らないで言っていた、だから何か情報というのは何人かに聞かないとわからない
一か月前頃に鮎が群れて上ることはありえないからだ
それは県から頼まれて放流した鮎だった

その人は80以上になっている、それで川でナマズをとって売っていたとか言うのも今になるとそんなことしていたのかと不思議になる
まずナマズはいない、川にはカジカも見ない、震災前は一応鮎釣りをする人がいた
小さい鮎でただ釣りをして楽しむというだけである、それは釣っても放したりしていた
でもナマズを売っていたというのは前に鰻を天秤でかついで川俣まで売りに行ったということを90才の人から聞いた、川俣まで歩いて天秤棒かついで行けるのか?
あの八木沢峠を越えられたのかという不思議である、ただ鰻は金になったことは確かである
その頃川俣は絹織物で有名だから金持ちがいて高く買ったとなる
江戸時代は天秤棒を担いで物を運んでいた、それも歩いてだから大変な苦労になる
そういうこがイメージできなくなっている
ただ子供の頃、鮎は大きかったし鰻もとれた、ナマズもいたのである
今になる信じられないとなる、日本の川から何か魚が消えている

ただニュースで海の魚は放射性物質のセシウムを排出する、でも川魚はそれができない
それでセシウムなど蓄積されると研究発表があった
それもなるほどと思った、川魚は食べるなと警告したのはそのためだった
ただ上流には山女がいた、それはまだ見られるだろう

この辺で近くでも神秘的な場所がある、それは小池から小山田にぬける細い道である
そこは細い道であり神秘的である、そこで放射性物質の除染をしていたが終わっていた
来年の三月までかかるということが書いてあったがそれはこの溜池ではなく南相馬市の全体の溜池の除染が来年の三月までかかるということだった

この道で不思議だったのは道に水が流れている、でもこの水は雨が降ったからではない
二カ所で水が下から湧いていたのである
湧き水が流れていたのである、するとこの下に地下水の水脈があるとなる
でもこんなところに湧き水が生じたというのも不思議である
自然の不思議がある

何か急に秋めいて寒い感じになった、それで昨日だったか秋時雨があった
早いとなるが確かに一粒二粒手の方に感じたのである
それは自転車に乗っているから感じた、車だとこうした自然を感じない、風も雨も感じないのである

とにかく真野川の土手の道は散歩にいいし自転車で行くのにもいい、そこで写真をとった写真はいろんな角度から数をとることである、その中にいいものがとれているとなる
彼岸花も咲いていた、やはり広角でとれるといい、全体の景色がとれるからだ
急に秋になり冬にでもなる感じになった、季節感がおかしくなった、それはすでに十年くらいつづいている