2020年08月08日

災害で村人が助け合った江戸時代の話に共鳴 (原発避難民は補償金で町も村も家族もばらばらに分断された)


災害で村人が助け合った江戸時代の話に共鳴

(原発避難民は補償金で町も村も家族もばらばらに分断された)

「妻なき人の妻となり…」237年前の土石流、生き延びた村人の決断 「日本のポンペイ」伝える災禍 


〈妻なき人の妻となり〉〈主なき人の主となり〉……。つまり、同じ境遇の93人が一族になる契りを結んだ。

そして、「士農工商」の時代にもかかわらず、身分財産に関係なく、親を失った子には子を失った親を、老夫婦だけになった家には若者を、と家族を補い合って、10世帯に再構成した。そして、村の土地を、短冊状に平等に分けて住むことにした。

今なら、そんな恐ろしい場所を離れ、それぞれに移住してしまうかもしれない。しかし江戸時代は自由な移動は許されない。その場で生活を再建させるしかなかった。


この話は不思議である、これはその時代だからありえたことである
なぜこれに興味にもったかというと一つは津波や原発事故で町とかが一家離散になったとか村民も町民もばらばらになったことがあったからだ
もう一つは一身上の事だが70くらいの男性が妻をなくした
それでそのことをずっと嘆いていた、そこにその女性が来ていろいろと世話やくとかあった、また自分が親をなくしたときその女性が来て世話やいた
ただその女性は金がないのでそれで支援した

だから

〈妻なき人の妻となり〉〈主なき人の主となり〉

ここに奇妙に共鳴したのである、ともかくこの辺で津浪であれ原発事故で結局多額の補償金をもらってばらばらになった、隣同士でも30キロで区切られて隣はもらってるのにこっちはもらえないと泣いて訴える女性がいたからだ
飯館村でも多額の補償金でももめて分断して村に住む人がなくなり5人のために50億で建てた立派な学校があっても村外から子供は通っている
その費用も馬鹿にならないのである、でもその補償費が多額だから村の財政でできるようになったのである

今避難区域では小高とかでは子供たちは流出して他に住みもう帰ってこない
別な土地に家も建て仕事ももち子供もすでに十年もその土地に住めば故郷は移り住んだ土地になってしまう
だからそのことをずいぶん書いてきたけどその原因は何だったのかとなる
もちろん放射線の被害があり住めないということがありそれを言われれば何も言えない
でもまた別な原因があった
それは前から今の社会は金さえあればどこにでも住めるということが最大の江戸時代との相違だったのである
江戸時代は移動が許されない社会だったからである
だから多額の補償金をもらったときいち早く小高でも浪江でも飯館村でも他でもそこで
復興とかめんどうなことよりほかに移った方がいいとなったのである
それで南相馬市でもいわき市でもみんな移り住んだ、そして次々に新しい家を建てたのである
この辺でも新しい街が三つくらいで来た感じになり外から移り住んだ人たちが多いのである

江戸時代が村でも特別に情がある社会だったというのではないかもしれない、長屋では人々は助け合ったというとき助け合わないと生きていけいなという事情があった
福祉とか何もお上で援助したりしないからである、すると長屋に住む人たちが助け合うほかないとなる、それは村社会でも同じだったのである
江戸時代と比べるとあまりにもその背景が違いすぎるから江戸時代を一方的に賛美することは危険になる

それにしても逆に現代社会というのはそういうものが人間の結びつきが失われた社会になっていた、震災以後、絆のことを盛んに言われた、それがどうなっていたかというと地元では補償金で分断されて絆が消失した、でも外部からボランティアが毎日原発避難者の仮設住宅に来て励ましていたのである
だから外部との絆は生まれたが内部ではかえって補償金でもめて絆は失われていたのであるだから金ですべては解決されないと思った
でも金がなければどうにもならないともなっていた
地元でもう食料でも汚染されてとることもできなくなったからだ、水さえ飲めなくなったから買うほかなくなっていたからだ

現代は地方とか田舎でもグロ−バル経済の中に組み込まれている、バナナとか安く入り食べられるのもグロ−バル経済があってこそである
外部との広範囲なネットワークの中で生きている
江戸時代のような狭い村だけで生きるのとはあまりにも違っているからだ
ただそうして江戸時代がまた見直されるのは江戸時代の村の絆は強かったということである
それはは日ごろから農村だったら田植えでも稲刈りでも協同作業が多かったからにもなる機械もないから共同しないとできないからである
そこでそうしてもともと共同して助け合い生活していたからそういうことが自然とできたとなる
今ならどこでも金さえあれば生活できるとなればこれだけの金があれば他で移って暮らした方がいいと即座に判断した人が多かったとなる
だから多額の補償金が村の絆を消失させて外部に移り住んで若い人たちは帰ってこない
残されたのは老人だったのである、その老人でももう子供もいないし若い人がいなくなったのだから跡を継ぐ人もいない、そしたらそういう町村が維持できるのかとなる

人間は金だけを価値としていると何か本当に大事なものを失うということにもなる
でもそういう体制の中で金なしではありえない社会である
現実に空気も水も土も汚染されても金が与えられてここで生活できたとなるからだ
ただ空気が汚染されたとき空気は買えないから住めないとなったのである
空気を入れ替えることができないからである
ただ放射性物質がまじった空気を大規模に吸い上げるという技術があればまた違っていたでもそれはできないものだった

ともかく人間はすべて金だという時代に今は生きている、でも金がなくても村人が助け合ったということに感動する、ただそれは時代が違う価値観で生きていたからである
それはそうしないと村が維持できないという切実なものがあり助け合ったなるから今の時代と比べることはできないのである
そしてグロ−バル化広域社会となるときかえって外部との絆は生まれたが内部の絆は消失したのである
現代は運送社会でもある、もう毎日車がひっきりなしに通る、物でも人でも常に運ぶ移動する時代である、だから人間も何かあったら移動してゆく
車一台あればそれが家ともなり現実にホームレスでも車を家にしている人たちもいるからだ

それでもこうして原発事故で避難区域になった所は人々はばらばらになり家族さえばらばらになった、絆は失われたのである
それを回復することはできなくなった、それは原発事故がすべての原因だったとも思えないのである、もともと市町村でも何かの切っ掛けがあれば簡単に崩壊するという現実を見た、そこに住んでいても人々の絆は希薄であり金があればどこにでも住めるとなると
何かあったらみんな町でも村でも捨てて脱出してゆく
そして全国に散らばりばらばらになるという危険性を秘めていたとなる
市町村とかあっても自治体のつながりは絆は弱いのである
ただ外部との絆があるというときかえって外部に流出しても歓迎されるともなる
江戸時代だったらできない、金さえあれば歓迎されるとなるからだ
それで金持ちはアジアでも移住するのが歓迎されるのである

ただそんな社会でいいのかとなるとそれを私はプログで追及して批判して来た
グロ−バル経済批判をしてきた

金にならないものの価値

これが人間にありそれが失われたのである、それが絆をも作っていたのである
村というときそこで食べて寝るとか雨露をしのぐ場として家があるとかではない
そこで村が一つになりともに生きるという生き死にの場所としてアイディンティティの場としてありまた代々祖先がいて歴史があり継続してその場に生きる
それが絆を作っていたのだが金だけを価値にするとそれが失われるのである
でも現実にはそういう社会に生きている、グロ−バル社会と資本主義社会に生きているということでそういうことが起きて来る

それで不思議なのはコロナウィルスだった、これが人々のグロ−バルな交流を止める働きをしたから不思議なのである、つまりアフターコロナの社会とはそういう社会ではない
人々が東京のように密集する場ではなく、分散して地域地域でなるべく基本的なものを自給する江戸時代の生活なのである
現実に食料だって外国から入らなくなり食料不足になるとか飢饉になるとか言われる
だから都会の金持ちが田舎で野菜など作り自給しろとかなるのはもう金をいくらもっていてもそこに安心がなくなったからである
そしてあれだけ密集していることはウィルスには危険だったのである
また地震でも災害になる大被害にもなる危険な場所なのである

原発事故で起きたことでもやはり過去を参考にする、歴史を参考にする
すると見えるものがある
だから人間にとって一生は短いからそれだけの経験で知りうるものは少ない
津浪がそれを証明した、400年前にこの辺で慶長津浪で700人溺死していた
でもそれは全く忘れられてここには津波は来ないという確信になって大被害になったのである、歴史とは百年ではない千年でも二千年でも長い時間で人間をみることてのである
だからカルマは人間の業は消えずありそれも継続されることが苦しみをとなって現れる時嫌でも自覚されるのである 



悲愁−大和十津川郷から北海道の新十津川へ

十津川町の開拓記念館に忠臣楠木正成の家紋である菊水の旗指物を展示し、菊水公園を造成しているなかもうかがえます。「故郷の残夢」なる詩は、十津川を旅立ってからの道程を詠ったもので、「夢な忘れそわらはべよ 家を富すも君の為め 家を富まして大君の 深きめぐみに報はなん 夢な忘れそわらはべよ 村を富すも君の為め 村を富して大君の 深き恵みに報はなん」とむすび、「恩賜の村」なる誉れに生きんとの思いを吐露しております。


第一條(移住住民は、故郷を去り、親や兄弟と別れ、絶海の地に移住してきて、移住者同士しか頼れるものはいないのだから、これまでにも増して一致団結し、お互いに助け合い、猜疑や軋轢を生むことなく、新村の隆盛と勤王の由緒相続を目指そう。)

このことを追及して来た、この相違はあまりにも大きいものだったのである
なぜ南朝以来の尊王がこの村で活きていたことも不思議である
南相馬市の鹿島区は霊山の落ち延びた南朝の子孫が多い、その代表が只野氏という姓が50人くらいいることである
でも別に南朝の尊王が活きているとかはない、だからなぜこうした小さな村に尊王が活きていたのかとなる
明治になっても江戸時代が継続されて村は協同していたから一致団結して北海道に災害があっても移住できたとなる

ここでは補償金に感謝刷る人は一人もいない、補償金がたりないたりないまたもらえないと争うだけだったのである、自分もその一人ではあった
ただ30キロ内からはずれたからもらったのはわずかである
手厚かったのは30キロ内である、今でも医療費と高速は10年間無料だったからである

posted by 老鶯 at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連