2020年08月20日

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みちのく真野の草原は気候の境界 (シャリンバイは南限であり今日の暑さも境界になっている)


みちのく真野の草原は気候の境界

(シャリンバイは南限であり今日の暑さも境界になっている)

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暑いけど真野の草原の万葉集の歌は境界だった
暑さ寒さの限界地点なのである
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大和王権に服属した地域である、ちょうど真野の草原辺りがそうだった
つまりここが大和王権の支配の境界だったのである
気候でもそうであり歴史的にも大和にその境界として知られたのである
そこに真野の草原の意味がある
この歌はそういう歴史的背景がありただの恋の歌ではないのである
真野の草原の草原(かやはら)まで大和王権の支配地域となりましたという宣言の歌でもあった
そういう境界の場所として奈良の都では認識していたのである


万葉集のみちのくの真野の草原(かやはら)のことを追及して来た
何か前も寒さでもここを境界にして寒さがやわらぐ
今回でも猛暑だけどここを境にしてほぼ温度が低くなっている
ただ中通りはそもそも盆地になっているから暑いのである

それで阿武隈高原を越えて浜通りに帰る時、海から涼しい風が吹いてきたとき
本当に気持ちよくなりほっとした
自転車だと風を感じるのである
浜通りは海から風がふくから涼しいし冬は温かいのである
それが取り柄なのである、福島市とかは夏は暑いし冬は冷えるのである
だから気候からすると中通りと会津には住みたくないのである

それで海老浜が車輪梅の南限の地として有名だった
このマルハシャリンバイは奄美大島が原産地でありここが南限の地として咲くのである
つまり気候と深く関係して植物でも花でも咲くのである
北海道になると高山植物が平地で咲くというときやはり気候の関係でそうなる
植物は気候に敏感なのである 

そしてもう一つ気候の境界線が東北では平泉辺りになる、そこまでは東北でも芭蕉が旅したみちのくの領域になる、さらに北上すると青森とかなり別な世界になるかもしれない
やはとり平泉も一つの気候の境界でありそこに東北の都となったとなる
気候の影響は大きい、照葉樹林文化のことでも追及したがその温帯系文化が中国とか東南アジアとかにつづいていてそれで安曇系統の綿津見神社が南相馬市近辺に多いのである
スダシイ神社が原町区の高地区の多珂神社の隣にあるのもそのためである

ともかく気候の影響は大きい、植物の分布でも気候によって分布する
人間も時代をさかのぼればのぼるほど気候の影響を受ける
ただ南相馬市でも熱帯化した時期がありそれでサンゴの化石が真野川の上流などで発見されたのである,フタバスズキリュウなどは熱帯化した海で生きることができたが寒流では生きられなかったろう

ともかく世界をみるとき気候から見ることは欠かせないのである
気候の変動があり世界が変わるということがある
ただこの暑さは異常である、ヒートアイランドとかクーラーとかの熱とか人工的に暑くなっている、玄関の前がアスファルトであり熱気がこもって外に出れなかった
何か現代は都会のように人工化して暑くなるのである
おそらく風車とかソーラーパネルでも熱くすることがあるだろう
だから家の前にソーラーパネルがあると反射熱とかで暑くなるから嫌である
人工化したものは必ず自然に影響する、つまり風車もソーラーパネルも自然エネルギーではないのである、だから明らかに植物に影響する、葉から水分を蒸発したりすることが過度になったりして影響する

つまりコロナウィルスでも何か人間側に自然に対して人工的に人為的に作用してウィルスが人間にうつってくる、この世に起きることは自然災害でもそれは自然が悪意があってしているのではない、自然には自然の法則がありその法則をさまたげることをすると不自然となり自然災害が起きて来る
ダムでも水が流れているのが自然であり水の流れを止めるのは不自然だから洪水になったりする、つまり人間の技術はなんらか自然にとっては不自然になり問題が起きる

歴史でも天候は常に関係して来た、古代とかなると自然は原始のままの所がまだ多かったすると天候でも自然をより反映したものとなっていた
ただ天気図を見ると確かにこの辺が気候の境界線だということが変わっていないのである暑さでも寒さでも天気図を見ると境界線になっている
だから万葉集の真野の草原は明らかに南の境界線だったのである
そのために奈良の都にでも知られていたとなる


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2020年08月21日

雲の峰の写真(自分で撮った一枚の写真はいろいろ記憶されている)


雲の峰の写真(自分で撮った一枚の写真はいろいろ記憶されている

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はや目覚め仕事をするや蝉の声

のうぜんに揚羽の二羽や舞いて去る

のびやかに草原広し夏の蝶  

夏の雲峠に湧きて越ゆるかな

雲の峰峠を越える若さかな

新築の家また建ちて雲の峰

遠くまで電車の音や夏野かな

遠くへと線路の伸びて雲の峰

夏の雲カメラかまえて電車待つ

ひぐらしや近くを一回り帰るかな
                                                    
夏の雲六号線の夕べかな


夏蝋梅葉陰の広く影をなしトオスミとまり消えにけるかな


今日も暑かった、朝四時頃起きてその時未明なのに蝉が鳴いていた
それから昼間ぐったりして寝た、夕暮れにまた自転車で近くをまわった
写真をとろうとしたが電車を撮るのはむずかしい、ここは一時間置きにしか来ないからである
スーパーヒタチは三回くらいくる
写真は待ってとるのだがその時天候が変わる
雲の峰が夕べ出ていたがその時電車は通らず雲の峰がくずれてゆく
だから写真はテクニックと機械の良しあしもあるがタイミングなのである
いい場面に出会いばいい写真になる
人生もタイミングだった、自然は刻々変わっているからその一瞬をとらえるのがむずかしいのである

雲の峰の写真でも一つの山のように高くなれば雲の峰らしくなる
線路の脇の雲の峰はそうなっていたがまもなく崩れた
雲の峰はくずれやすいのである、「雲の峰いくつ崩れて・・」となってしまう
夏の雲の写真でネットでみたら峠に湧いてるのがあった
夏の雲が湧いているとき峠を越えたら気持いいとなる
ただ暑くても行けない、三回くらい熱射病になって痙攣まで起こして死ぬ恐怖を味わった何か熱中症でも熱射病でも突然倒れるらしい、近くに人がいないと危険だとしていた

若い人ならロードで峠を越える、女性でもそれが醍醐味だと言っていたからだ
ただそういう若い日もたちまち過ぎるのだ
今や近間を回っているだけである
とにかくカメラをとることは場所の設定があり構図をとるとか一瞬のチャンスをとらえるとかむずかしいのである
それで車がないとできないというのもわかる、なぜなら選んだ場所で構えていなければならないからである

カメラのいい点はそこでどういう状態で撮ったか覚えている、記憶していることである
それでいくら他人のいい写真を見ても感動しないことがある
それはその場に立って撮った記憶が他人にはない
その一枚の写真だけではない、どういう時と場所で撮ったかを全身で覚えているから
自分自身がとった写真と他人がとった写真にはかなり相違がある
一枚の写真から自分自身がとった場合それ以上のものが記憶しているからである

2020年08月22日

日本海から会津の古代の歴史(1) (地理が歴史の基礎ー逆さ地図で見る)

      
日本海から会津の古代の歴史(1)

(地理が歴史の基礎ー逆さ地図で見る)

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人間はその住んでいる場所が中心になり支点になる、場所が変わると見方も変わってしまう、そこに地理を見ると誤解が生れる
まず日本だけではない、アジアでも世界となれば地理を理解することは神にしかできない地理は例えば実際その地を踏んだとしてもまたわからないのである
地理は俯瞰しないとまたわからない、それで山形県の小国町に行ったのだがその隣が喜多方がとはわからなかった、それは地図で俯瞰して見た時わかった
こんなに近いのだとわかった、でも小国に一時滞在してもその周りの地理のことはわからないのである、日本は特に山が多くて隣でも山に閉ざされているから山が壁となって地理がわからなくなるのだ

会津を見る時でもやはり地理が大事になる、それが歴史と一体化してし地歴となる
では会津をどういうふうにして見るのか?
それはここに示したようにアジアから逆さ地図でみる、すると会津はアジア大陸から
日本海側から会津が通じている、福島県でも会津は新潟県とか越の国と通じている 

「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を「相津」(あいづ)と名付けた」

大毘古命は先の命のまにまに、高志国にまかり行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古命と共に相津に往き遭ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。
                                
ここで大毘古命(おおひこ)とは出雲の有力者である、それは蝦夷征服にも大きくかかわった人物であり天皇にも連なる族長である
出雲から高志(越国)へと大和朝廷の支配領域に組み込まれてきた、会津の名の起こりがそこから来ている、また会津とは水が会う場所だという意味もある
いくつもの川があり水に恵まれた山国である
それでもう一つ大事なことは交通から見ることである
人間の社会と交通は密接な関係がある、人が行き来することで交通があって統一国家も生れて来る、もし人間が全く交通ができないとしたら何か文明でも生まれなかったろう
なぜなら川があるとするとそれが道になりやすい、それで四大文明が必ず川の側に生まれている、つまり川の港に生まれている
エジプト文明でもピラミッドはナイル河の岸辺から港があり通じていたのである
そうなれば物資もナイル河通じて運ばれることになる
メソポタミア文明もユーフラテス川の交通があり生まれたとなる
外国の川は日本とは違い、運河のようになっている、交通には適していたのである
 ローマ帝国が成立したのも「すべての道はローマに通じる」となり道を作ったことにあった
日本でも外国の玄関口になった横浜が東京より人口が明治の時多かった
つまり横浜から文明開化が始まったのである
横浜から全国の養蚕で作った絹織物が輸出されたからである

だから地理を見る時まず場所を変える支点を変えるとまるで違ったものになる
それで逆さ地図を見ると日本がどう見えるかである
まず日本海があり日本海側にそって交通が最初にあったことが見える
大平洋は見えないのである、日本海でも韓国からみれば東海なのである
日本海は日本側から見ると夕陽が沈む地域だが韓国から見れば朝日が昇る地域なのであるこの相違は大きいから地理から誤解が必ず生まれる
人間は結局自分の住んでいる場所を中心にして見ているのである
それは狭い範囲でもそうなのである
海に面した地域から相馬藩でもありでも飯館村は山に囲まれているからその場所の差は相当に大きなものとなるのだ
見えたが違っているのである
まず山に囲まれた盆地と海に面した地域ではまるで違った世界観になる
日本は海に囲まれているのだがまた山に囲まれた盆地が多い
大和は奈良だけどそこも盆地である、会津も盆地である

そして交通から見る時、韓半島から見ればアジア大陸からみれば交通としてまず日本海側が見える、現実に日本海をわたれば日本に到達するから渡来人が来れたのである
また最初は伽耶(かや)の国から福岡に渡来人が渡って来た、日本からも渡って行った
それでかや山というのが万葉集に歌われた、かやの人たちが渡ってきて住んだからであるまた綿津見神社の綿は渡るから来ている、つまり海を渡ってきた人たちのことなのである次に渡来人が来たのは国引き神話のある出雲だった、その出雲から日本海側を通って越の国へと行き阿賀野川を通じて会津に入る
つまり日本海側と交通で結びついていたのが会津なのである
阿賀野川というと日本では道になりにくいとかある、外国の川のように運河のようになっていないからである
でも古代をイメージしたとき道などないのである、鬱蒼とした森が覆っていて道がない
するとやはり川をたどって行った方が楽なのである
川はやはり道になりやすいのである、小舟でも川を行った方が鬱蒼した森を行くより楽だとなるからだ
それで日本海が比較的冬を除いておだやかだから道となり古代でも阿部氏が船で到達したのがアギタであり秋田となった

出雲から高志(高志)へと出雲勢力が広がった、そして出雲がもともと日本の最初の国でありそれが蝦夷となった、蝦夷は出雲だというのもそのためである
今でも島根県と東北弁がズーズー弁だというとき共通しているとなるからだ
ただ大和勢力が出雲に進出して国譲りがあり出雲の人たちは出雲から逃れて信州に長野県に逃れた、それで諏訪神社の祭神はタケミナカタなのである
そしてこの諏訪神社がどこにでも多いのである
それで鹿島神社はこの出雲に攻めてきて国譲りした建御雷(たけみかづち)の神である
それで島根県に鹿島とあるとき鹿島神社はこの建御雷(たけみかづち)の神なのである
だから全国に鹿島神社が多いのである

建御名方神は、大国主命と高志(越)の奴奈川姫の間の子とされ、書紀、風土記には出てこない神である。出雲の国譲りの際に、天孫側の武神、武御雷(たけみかづち)神と戦って敗れ、諏訪に逃げ込んだ、と古事記にのみ記述されている。諏訪の側の伝承によると、建御名方神は侵入者であり、先住者の洩矢(守矢)神との領有争いに勝ち諏訪を支配したとされる


とにかく地理を見る時この交通を同時に見る必要がある

例えば棚倉町の

とあるときなぜここがヤマトタケルと蝦夷軍の戦争の場所となったのか?
それも交通と関係していた、

久慈川は幸(さけ)くあり待て潮船(しほぶね)に真楫繁貫(まかぢしじぬ)き吾(わ)は帰り来(こ)む」[丸子部佐壮(まるこべのすけを)

この久慈川から潮船で海に出たとなる、日本海でもそうでありそれは江戸時代の北前船となり継続していた、ただここでどういう航路をたどったのか不明である
このように川は交通の道としてあることを古代なら見るべきである

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「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。

ここで佐伯(さえき)とあるが 

佐伯部は日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を伊勢神宮に献上したが無礼を働いたりするので播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖とされています。

佐伯部は平安時代以来、「叫ぶ」に由来するとされてきたみたいでが、『常陸国風土記』に、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されているので、「障(さへ)ぎる者(き)」で、朝廷の命に反抗する者の意味の説もあるみたいです。
又、外敵からの攻撃を「遮(さへ)ぎる者」という意味で「さへき」と呼ばれるようになったとの説があるみたいです。

こういう伝説でもいかにも当時の自然状態を示している、茨(いばら)に覆われていて道をさえぎるような状態が多かった、まず道があるいうことはめったにないのである
ところどころ日常の短い道はあっても遠くから長く通うじている道はない
常に遮られる状態だったのである
それて飯館村に行く八木沢峠に薔薇坂とかあるがこの薔薇は茨のことである
これは棘があるからまた遮るにはいいのである
一時薔薇坂に牛を飼う家があったがそこが原発事故で捨てられて原野化した
そこに茨が生えるようになった、茨があることはこれも通りにくい、茨にひっかかり通りにくくなる、そういう原初的な風景があり当時を物語るのである

会津の謎は大塚山古墳に東北で唯一の三角縁神獣鏡が発見された、それは吉備のものと同はんなのである、ここに吉備が関係していたという時吉備は大きな国であり大和朝廷が生まれる前は日本を分割して支配するほどの力をもっていたのである
だからこそ鬼退治伝説が生まれた、大和朝廷によって手ごわい相手だったから鬼とされて征伐されたのである、蝦夷でもアテルイとか大和朝廷に逆らうものは鬼とされたのである会津はすでに吉備国とかと関係して交流があり日本海から阿賀野川を通じてそうした物品ももたらされた、吉備国の支配の標として鏡が授与されたともなる 
吉備が力をもったのは伽耶(かや)から来た渡来人が集中して住んだ場所だった
そこで技術を取り入れたりして大きな国となった
それは瀬戸内海が交通路となりそれで港となり強力な国となった
その後も村上一族とか水軍が生れて力をもったから歴史は継続している

いづれにしろ歴史を見る場合、地理が先にあり地歴となる
会津は福島県では最初に国として認識された場所である、会津は山国として大きいのである、だからまずこの地理を知ることが容易ではないのだ
それで必ず会津に行くと方角がわからなくなるのである

会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね

会津はすでに奈良時代以前から国として存在していた唯一の場所なのである
ということはそれだけ古いのであり国がすでに成り立っていたのである
浜通りのみちのくの真野の草原(かやはら)は奈良から蝦夷の境界として認識されていた700年頃まではそうである、でもそこに会津のような独自な国は存在しなかったのである
また高志の国も出雲に治水のために移り住んだというとき地名としても出雲に高志というのが三つくらいあり高志も独自の国を作ったいた証拠である
継体天皇も越から生まれていることでも大きな国であり古い国であることがわかる
そして会津には気多神社とか高志国の神社があるから古代は日本海を通じて交流があったまたなぜ山形県に高志神社が多いのか?
それは大和朝廷が古紙を服属させてそれから山形県に移った
その時山形県の方に高志の人たちが移住したのかもしれない、神社はその土地の人が移住してもたらされることが多いからである

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確かなことは福島県でも会津を浜通りからまたは中通りからでも見る見方が違ってくる、磐梯山は浜通りからは全く見えない、吾妻山も全く見えない
阿武隈山脈、高原に遮られて見えないのである
この影響は物心に相当に影響する、だから福島市でも阿武隈高原遮られてた見えないから一体感が生れにくいのである
むしろ宮城県の仙台の方に地理的には一体感を感じる、交通でも電車が通っているから余計にそうなるのである


紀行・聖地巡歴・古道・古社を歩く

ここは実際にその地を踏んで神社から古代史を見ているから参考になる
一つの本のようになっているから読みごたえがある

鉄の産地だった猪苗代湖南地域 
(葦から鉄が作れたー会津にアラハバキ神社がある-梓 今来の謎)































posted by 老鶯 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2020年08月23日

鉄の産地だった猪苗代湖南地域 (葦から鉄が作れたー会津にアラハバキ神社がある-梓 今来の謎)


鉄の産地だった猪苗代湖の湖南地域

(葦から鉄が作れたー会津に荒巾木神社がある-梓 今来の謎)


●猪苗代湖の湖南(福良)から製鉄地名が多い

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湖や湿地に生える、葦などイネ科の植物の根に形成される褐鉄鉱を原料とした製鉄が、既に弥生時代には行われており、後に砂鉄を取り込みながら、古代会津は製鉄の一大生産地を形成したという私見だ。

そして、大陸から直接会津へ伝えられた仏教である高寺の評判を聞くにつれ、堕落した南都から迷わず東国へと旅立ったのだ。

ところで、この鉄の一大生産地の基盤がつくられた時期は、青巌の会津入りの前にさかのぼるはずだ。

そこで注目すべきは、赤井の「荒脛巾神社」、笹山の「須佐乃男神社」、東田面の「金砂神社」なのだ。
萩生田氏は、「それぞれ津軽、出雲、加賀を本拠内とした製鉄集団」とした。
ここでは本拠地を云々する必要はなく、日本の各地から製鉄の技術を持った集団が、猪苗代湖畔に集結したことこそが重要である。


古 代・褐 鉄 鉱 製 錬 の 可 能 性
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古代会津の渡来系集団−「梓 今来」・「秦人」− 菅原祥夫


鎌倉時代の初め頃までは、「大和朝廷が支配する国」と、「出雲王朝の流れを汲む【和】の人たちの国」があり二分していたようです。

【和】とは「出雲の国譲り」のあと、畿内から遠い九州あるいは東北方面に逃れた人々の国で、東北に安住した者は蝦夷(えみし)と呼ばれ、九州に安住した人は隼人(はやと)と呼ばれるようになりました。

 アラハバキ神を祀っている神社の一つとしてさいたま市大宮区の氷川神社が挙げられます。 
 「氷川神社」社伝には、『成務天皇のとき、夭邪志国造である兄多毛比命が出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神とした』とあります。

出雲族だった兄多毛比命=「夭邪志国造」は埼玉古墳群の豪族です。



 
 日本の歴史をみるときいかに鉄生産というのが大事だったかである
鉄と稲は深く関係しているのは稲荷神社があるとしたら稲の神社ではない、稲荷は鋳成りであり鉄を成る、鉄を作るという意味である
そのことで私の住んでいる南相馬市の真野の草原の万葉集の歌はやはり鉄生産と関係して渡来人がツノガノアラシト(伽耶の王子)が来た跡をたどった
伽耶(かや)は鉄の一大産地であり製鉄技術をもっていて栄えた、金管伽耶というときまさに金管の鉄の国だったのである
その同じことが会津にもあった、鉄を求めて渡来人であれ大和であれ会津に最初来たのである
ただ会津というときまだわからないし調べていなかった、インタ−ネットで猪苗代湖の湖南に興味をもって検索しているとここでも鉄をとっていたのかと不思議だった
ここのどこに鉄があるのか?それが理解できなかった
浜通りなら海に砂鉄がある、ただ調べると山でも鉄がとれる、日本は火山国であり鉄が豊富にとれる場所だとされている
それで葦から鉄がとれるということに驚いた、それを説明しているサイトがあったからそういうことがあるのかと猪苗代湖畔の地名を見ると鉄に関する地名が多かったのである

吹屋山、金堀、笹山原、笹山、赤井、赤崎、金山、福良赤津 とかある
福良にある秋山も秋は製鉄に関係しているという
これらはみな製鉄に関した地名なのである、赤とはいかにも鉄が錆びた赤なのである
吹屋山とはフイゴで風を送り熱して鉄を作る場所である
福良赤津とは福良(ふくら)とは吹くでありフイゴを吹くかもしれない
また葦から鉄分をとっていたというとき良し悪しという言葉もその鉄の成分の良し悪しを言っていたのかもしれない、鉄生産に関する用語でも地名も多いからである

スズ鉄と言ってね、葦の根を焼いて精製して、鉄を作りよったと。」
るな 「え〜?葦ってあの植物の葦ですか?水辺に生えている。」
光さん「そう。これで作った鉄は固い。しかし、戦うと折れてしまうったい。
     草薙のつるぎがそうたい。


だからこの辺一体が会津でも鉄を求めて渡来人とかが出雲からでも越からでも来たのである  

猪苗代湖の北(猪苗代町三ツ和)には出雲神社がある。社殿は猪苗代湖を向き、後方には雄大な磐梯山が控える。
会津では、赤井のほかに、会津若松市北町に「荒・あらはばき)神社」がある。


そもそも出雲自体が鉄の王国であり鉄によって作られた国であった
その鉄をねらって大和朝廷が襲ってきたとなる
人間は何もない所には来ない、今の様な観光などしない、何か目的があって移動してくる黄金をもとめてゴールドラッシュがあり人々が遠くからも一攫千金をもとめて移動してくる、古代でも黄金がみちのくの湧谷でとれたというとき奈良の都ではその黄金を使い大仏に鍍金したのである、それで万葉集の歌が残された

天皇(すめろぎ)の御代栄えむと東なるみちのく山に黄金(くがね)花 咲く

つまり黄金があってこそ大和朝廷の人たちもその黄金が欲しくて遠くまでやってきたのである、真野の草原(かやはら)も鉄のとれる場所として知られたのである
また蝦夷征服の境界の地となっていたから知られたのである

●荒巾木神社(アラハバキ)の由来

会津もやはり鉄がとれる場所として出雲から吉備から奈良から渡来人から来たのである
飯盛山でも(飯)は(鋳る)で溶けた鉱物であり飯盛には鋳か盛(さかる)の意味がある飯豊山(いいで)とかもそうである、飯でいいとつくのは鉄と関係した山である
こういうふうに鉄と関係した地名とか山名が多い、それはどれだけ鉄を求めていたかという証明なのである

そして猪苗代湖の湖南地域を赤津の辺りに「荒巾木(あらはばき)」神社があった
この荒巾木神社はアラハバキは有名である、出雲の地主神とかされるしもともと東北でも関東でもあった、氷川神社の基はこの荒巾木神社だとしている
でも神社として残っているのは少ない、実際にこれだけ語られているのに神社として残っているのは私はここではじめて見た、ということはこの地域はいかに鉄をとる場所としてあったかを証明しているのだ
荒とは何か、これはツノガノアラシトのアラであり韓半島の安羅国から移住した渡来人なのである、相馬地域になぜ荒姓が多いのかというとその系統だともなる
そしてアラハバキのハバはなになのか?
憚る(はばかる)とかあり屯するとか遮(さえ)ぎるとかの意味と同じである
それで茨城(いばらぎ)があり佐伯(さえき)がありそれは塞ぐ(ふさぐ)の意味であり憚る(はばかる)と同義語である
つまり渡来人の集団がはばかる場所だったとなる
要するに大和朝廷側から大和族から征服しようとししたとき茨城とか佐伯とかアラハバキとか名付けられたのである、邪魔な存在としてそういう名がついたのである

会津磐梯山は宝の山よ
笹に黄金がまたなりさがる

まさにこれは宝の山とは鉄がとれる山のことだった、笹とは鉄のとれる場所である
それで笹山や笹原がある、この辺一帯が濃厚な鉄に関する地名が多いのである
ただ葦から鉄がとるとなるとこれは相当な技術であり簡単にはできない、ただこうして鉄をとれたとなるとそれは驚きであり崇拝されたともなるのだ
そういう技術力がありそれで渡来人が力ももったのである
今の外国人労働者とかなるとそうした技術をもっていない、ただ下働きしかできないのとは違っていたのである

とにかく古代史は鉄からその謎が解くことができる、会津の古代でもそうだったのである今来と記された木簡が発見されたことでもそうである、秦人とは何ものなのか?

●秦人はシルクロードの弓月国までたどる

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隋の煬帝、気を取り直したのか、この次の年、裴世清(はいせいせい)という役人を返礼のために大和朝廷に派遣しています。
この裴世清は、瀬戸内海を航行し大阪の難波(なにわ)に上陸しているのですが、
途中、「秦王国があった」という記述を隋書東夷列伝に残しています。これは、「秦人(はたびと)の町があった」、「あるいは秦人が話す中国語を話す
人々の町があった」と解釈することができます、この町は、下関あたりにあるというのが定説です。 

秦氏は中国のウィグル地区にあった、中東と関係してユダヤ人説とかでている
この弓月の不思議は「梓 今来」・「秦人」と会津の郡衙跡から発見された
梓とは弓にするのにいい硬い木である、それで梓弓ということで枕詞になる
それで弓月国から秦氏が来たとするとこれと関係しているのか?
梓弓今来なのかもしれない、ただこういう遠くから来たということも謎である

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なぜか日本の古代史はアジア史にもなり世界史にもなる不思議である
それだけ日本が国として成立していないとするといろいろな民族でも入り安かったからだとなる、国ができあがればなかなか入りにくくなるだろう
そして国造りのためにいろいろな渡来人を招き入れたのである
その人たちは製鉄や養蚕とかの技術をもっていたからである
今の外国人労働者にはそういう人たちではない、だから下働きにされているだこけだとなる

今から2200年前,日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていた時、秦(秦氏が作った国)の時代(紀元前3世紀頃)の中国に徐福(じょふく)という人物がいました。 
徐福(秦氏)は中国の秦朝の方士(ほうし:呪術師であり、医薬、天文、他の学問にも精通)で、斉国の琅邪郡(現・山東省臨沂市周辺)の出身で、別名は徐](じょふつ)と言います。 徐福の出身地は、斉国ではなく、越国だという説もあります。 

秦氏の渡来について、『日本書紀』 巻第10「応神紀」に記載があります。

「十四年二月春、百済王が衣縫工女(きぬぬいおみな)を奉った。・・・・・その年、弓月君(これが泰氏)が百済からやってきた。奏上して、「私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし、新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています」といった。それで速やかに新羅に行って、弓月の民を救出した」と記しています。

魏志」において「辰韓人(秦韓人)」と記載されているのです。

ここで言う「弓月の民」とは西アジア地域につながり、最終的にはイスラエルのダビデ王族の血統を引き継ぐ一族に辿り着く可能性さえあるというのです。

ご参考だが、イラン系白人のサカ族は「月氏」と称されていたのです。

奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯(はし)」という名字を持つ役人の名前が書かれていた


秦の始皇帝は何人なのかとかなると明らかに西方系統だろう、秦国は最初は小国だったけど西の文化や人を取り入れて巨大化して中国最初の統一国家を作った
兵馬俑はその力をまざまざと示した、そこにはギリシャ文化の彫塑の技術とか二輪馬車とか技術が西から入ってきたのである
つまりそういう位置にあったことが技術力になり巨大な中国を統一できたとなる
地理がやはり歴史の基本としてある
秦の基は弓月国にもあり西から来た人たちが中枢となり建国したとなる

そしてイスラエルとかキリスト教(景教)が伝播したというとき意外とシルクロードはイスラエルまで通じている、イスラエルに行った時、そこは半分は砂漠でありそれでラクダとともに泊める商人宿があったりする、そこがキャラバンの終着点にもなっていたのである、イスラエルは半分は砂漠でありそこにユダヤ人が入って入植して豊かな土地にしたのである
イスラエルは遊牧民の国家でもありだからこそシルクロードでも通じるとなりキリスト教を秦から秦氏からもたらされたということは空想ではないのである
ただこれだけスケールが大きいとイメージするのがむずかしくなる
私自身はシルクロードで敦煌に行きイスラエルにも行ったからなんとかイメージできるがでもシルクロードがいかに長いかそれを知ることはできない
とにかくその間に長大な砂漠がありそのスケールが大きすぎるからである 

日本へは呉があり呉服となった、越国があり日本海に高志国がある、越と中国の越から来ているともなる、そこは今の上海とか蘇州である、蘇州は仏都であり塔が多い古都であるそして越の国になるのか寧波はニンボーは道元がここから修行するために天童寺にここから運河をたどり行った、だから呉であれ越から日本へ渡るということはここからあったのである、呉はまた呉れる(暮れる)と地としてみた、陽の沈む所にあるからそういう字を当てた

日本の古代史は世界史的になる、なぜイスラエルまで関係しているのかとなるとそれもこのように根拠があってそう言っているのである
中国には三回行ったからなんとかイメージできる、ただシルクロードとなると広すぎでイメージできなくなる
ただ不思議に弓月国というと砂漠の国の旗印は月と星なのである
それはなぜかというと砂漠では方向が一番大事なのである、だからこそ星を見て方向を決める、北斗七星とか北極星が目印になり方向を見る
それで相馬氏でもその信仰するのは妙見でありこれは北斗七星のことであり星印の紋所なのである,中国の文化は遊牧民の文化と農耕文化が合体したものであり最初の始皇帝は馬で騎馬隊で中国の統一国家を建国したように遊牧民が主体になっていたのである

この遊牧民がフェニキア人のように航海の民となったというのもうなづける、やはり船で航行するのに一番大事なことは方向だからである、海で目印になるのは星だけだからである、方向を間違ったらどこに行くかもわからなくなるからだ
まだ羅針盤などがないからである、砂漠でも迷うが途中オワシス都市がありそこをつないでいけば遠くに行ける、海では島があるがそれも不明であり方向を間違うとどこに行くかわからなくなる






posted by 老鶯 at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2020年08月24日

雲の峰(電車の写真はとりにくい)

  
雲の峰(電車の写真はとりにくい)


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スーパーヒタチが去った5分後くらいにいつのまにかこんな大きな雲の峰が出ていた
意外と早く雲が大きくなる、だから夏の雲は変化するから飽きない

鉄道がここを通っているがこの場面でスーパーヒタチを撮れば絵になっていた
電車が動いているし背景も刻々変わっているから写真をとるのがむずかしい


刻々と形を変える雲の峰

場所変わり消えてはたちぬ雲の峰 

ぐんぐんと大きくなりぬ雲の峰  

雲の峰たちまち大きく聳え立つ

向こうにたちこちらに立ちぬ雲の峰

雲の峰燕飛び交い電車行く

草原に風のわたりて雲の峰 

鷺の二羽向かい合いつつ川に暮る
      

にいにいの鳴きてみんみん鳴きひびく近くに昔遊びけるかな    


雲の峰が見える場所がある、それは年によって違う、今年は夕暮れになると山の方に見える
雲の峰は震災の前の年のとき大きく見えた、その時も異常に暑かったのだ
それでいろんな形に雲が変容するのを見た
その翌年の3月に津波が来て右田の松原は根こそぎ消失してしまったのである
何か異常に暑くなることは大地にも影響して海にも地下にも影響して地盤がゆることがあるかもしれない、それで大地震の前に暑くなることはありえる
天候の影響は地球全体を変えるからである

昨日は雲の峰の写真をとるために待っていた、でもスーパーヒタチが去った後に5分くらいあとに大きな雲の峰がいつのまにか出ていた
もしそれをとれた絵になっていた
写真はやはりシャッターチャンスを逃すとあとはとれない、いくらいいカメラでもとれない、そして動いているものをとるのはむずかしいのである
特に電車とかはむずかしい、相当に構えてねらってとらないととれない
それでけ写真をとるということは労働にもなる、疲れるのである

ただ写真撮ることの効用は写真を撮ることにもあるがその場にいて自然の雰囲気を味わうことにもあることを知った、一時間くらいいると辺りの雰囲気にとけこむからだ
だから実際は写真一枚を見ただけではその場にいる経験とはならないのである
その写真をとった人はそういう場にいたことを記憶して写真からその場の雰囲気を思い出すから価値がある、その場にいない人はなかなかいい写真でも切り取った一部しか見ないからものたりないものとなっている 

とにかく映像の時代だから写俳とかうまれた、正岡子規の写生俳句とカメラは合うからである、見たままを俳句にするということはまさに写真なのである
そこに技巧をこらさないことだからである、余計なイメージをしないことだからである

今年は遅れて夏が来た感じである、でも30度くらいだったら夏らしいとなる
でも自転車で遠くに行くことはむずかしい、日射病になるからだ
それにしても自然は刻々変化している、だから近くでも良く観察していると飽きないのである

雲の峰いくつ崩れて月の山 芭蕉

これは雲の峰の名句である、雲の峰は崩れやすいのである、でも崩れてはまたたちまち大きく雲の峰がそびえ立っている
だから一か所にいて観察していると変化するから飽きないのである


 ここで雲の峰と電車を映している










夏の日の電車の写真二枚 (スーパーヒタチと雲)


夏の日の電車の写真二枚  (スーパーヒタチと雲) 

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スーパーヒタチは早いから余計とりにくかった
そして太陽が逆光になってうまくいかなかった
でも二カ所に狙い定めたから一枚はうまくとれた
まず電車とか動くものは構図を決めて待ってとらないとうまくいかない
最初から場所の設定をしてどうとるか決める

でも背景の空は変わる、夏は雲が変わり安い
また太陽も刻々変化して光りも変わる
それで撮るのが難しい
ただ今回は街の中だからとりやすかった
5時にスーパーヒタチが来ることがわかった
だからこの時間も正確に見ていないとうまくとれないのである

自然に宿る御霊(魂)の謎    (万葉集に歌われる死者と交流する日本人の霊(魂) 


 自然に宿る御霊(魂)の謎

 (万葉集に歌われる死者と交流する日本人の霊(魂) 
  


 吾が主のみたま賜ひて春さらば奈良の都に召上げ給はね  山上憶良  (万5、八八二)

 天地の 神相うづなひ すめろぎの 御霊助けて 遠き代に なかりしことを 朕が御世に 現はしてあれば 

 「すめろぎの 御霊助けて」は、歴代の天皇の霊力が聖武天皇を助けて、黄金を産出させたという意味で、憶良の歌の「みたま賜ひて」と同じ観念である。

 稲の魂を「倉稲魂(うかのみたま)」といい、それを神格化したのが「倉稲魂命」(「神代紀」上、第五段一書の六)であり、剣も「布都御魂」(『古事記』神武東征条)と呼ばれ、社に祭られて「石上坐布都御魂神社」(『延喜式』


 
 古代日本人は、あらゆるものに神が宿ると考えていたと思われる。自然宗教に分類されるアニミズムは、物体に生気と動きを与えるのは精霊だと考え、死とは霊魂が永遠に身体を離れ、宿るべき身体を失った状態である。 死によって、魂の抜けた身体は、魔ものが入るとして、危険視されていた。危険を回避し、魂をあの世 に送ることができるのは儀礼であり、とりわけ、あの世からこの世へと再びよみがえるという生の再生のためにも、死者儀礼は重要な意味をもっていた。

 日本語の言葉には日本人の心が精神が宿っている、その日本人の言葉が活きていたのが奈良時代であり万葉集となり結実した
人間であれば言葉は重要である、言葉なくして人間でありえない、だからどこの民族でも言葉はあった、ただ文字は文明の基となったように高度なものである
だから日本には文字がなく漢字を取り入れたのである
その時一段上の文明が中国にあったからだ、その文字さえ何か最初発明した時は神秘的なものでありそれでヒエログリフのように神聖文字となった
それはアジアでもインドで経文となったように同じである
高度な文字の体系ができた地域が最先端の文明が起きた場所であったことでもそれを証明している

日本人とは何かというときやはり日本語から知らねばならない、それで本居宣長が大和言葉と唐言葉を分離して日本人の心を魂を知らしめたのである
日本語の中に古語の中に日本人が尊んだものがあり言葉に化石のように残されているのである
現代はもう言葉は数字なのか化学式なのか神秘的なものではなくなった
でも依然として人間が言葉をもつことは動物とも植物とも違っているのだ
それで言霊信仰になる、何かしら口から発した言葉が自分にも他人も影響するからだ
憎む言葉を発せればやはりその言葉を実際恐ろしいものとなる
人は実際に人を殺す前に言葉で殺している、心の中で殺している、その心が言葉となって現れるから怖いのである
人間のみが心と言葉が一体化しているからである

万葉集は日本語の原初の呪術的なものが残されている
だから日本人の心を知るには万葉集を知らなければわからないのである
いわば日本人の聖典のようになっているのが万葉集なのである
でも万葉集は解き明かされていない、それはなぜかというと古代の原始的心性というべきものが理解できなくなっているからだ
そんなもの科学の時代に迷信的だとかなるが何か第一人間の心は依然として不可思議であり解明されない、心だけはどんなに科学が発達しても解明されないと思う
どんな機械でも人間の心を見ることはできないのである

日本語だと霊、玉というのが心になる、日本人は心を玉と言っていた
魂(たましい)でもそうである

たまきはる、たまかぎる 玉櫛笥 玉衣(たまきぬ)、玉垂の、玉梓(たまづさ)のたまぼこの

玉として美的に詩的に表現されている、

魂(たま)合はば相(あひ)寝むものを小山田(をやまだ)の鹿猪田(ししだ)禁(も)るごと母し守(も)らすも    作者不詳 万葉集巻十二

「空蝉のからは木ごとにとどむれど魂のゆくへを見ぬぞかなしき」〈古今・物名〉

直接は合わなかったけど魂(たま)は合ったとなる、魂は心は通じたとなる

吾が主のみたま賜ひて・・・普通だったら物を賜る(たまわる)であるがみたまを賜るというのが現代では理解しかねるのである
日本人の心が何か?何を重要視したかをこうした日本語から知るべきである
賜るというのが今なら物を賜ることなのである、それが魂を賜るということがまるで違った世界に住んでいたのである
人間は今や物の中に生きている、毎日が物に追われている、そこで心はかえって失われてしまったのである
物がない万葉時代にはかえって魂は生きていたのである

というのは神道には経典がないからこそ日本語とか万葉集から日本人の心を魂に通じるべきだとなる
魂が合うというとき合わなくても魂は通じる、心は通じるということである
そしてやはり現代でもこういうことは不思議に起きて来る
会いたいと心で想う人にまた出会い合うとなる

そしてまた人間は死んで骨となり灰となり全くその姿が消失する、でも本当にすべてが消失したのではない、依然として何かがある、魂(たま)が消えずにこの世にあり生者とともにある、また死んだ人を迎えるその魂を迎える送り火とかがお盆にある
死んだ人の魂は家にお盆に来る、そういうことは理屈ではない、まさに魂で感じるものなのである
何かもう60年も一緒に暮らした人は死んでいない、でも本当にいないのだろうかとなると何か家にいて近くにいるという感じがするときがある
それは家族だけではない、別に親しくもなかったけど隣の女性が突然死んだ時は驚いた
だから何か死んだばかりだと依然としてそこにいてこっちを見ているような感覚になるのだ 

ましてや60年も一緒に生活していたら死んで簡単にすべてが消えるとはならないだろうだから人間の一番の不思議は死ぬことである、肉体も消えてなにもなくなることである
その変化はあまりにも大きいからとまどうのである
そして死者はどこに行ったのかと常に思うようになるのである
それで折口信夫は恋とは乞うことであり死者を乞うことだということは家族が全部死んでそのことがそうなのかと思うようになった
なぜそうなるのかというと死者とは二度と会えないからである
そうなるともう一度でもいいから会わせてくれと乞うことになるからだ
万葉集はなにかすべて恋愛の歌のように読むと浅薄なものになる
もし死者を乞う歌だとなれば深刻になるのである                                      

「空蝉のからは木ごとにとどむれど魂のゆくへを見ぬぞかなしき」〈古今・物名〉

この歌でも蝉の殻が残されて人は死んでしまった、何もない、その魂はどこに行ったのだろうとなる、死んだ人はそもそもどこに行ってしまったのだろうか?
全く何もなくなってしまったのだろうか?
人間はそういうふうに思えないのである、まだ何かがある、それは見えないが何かがあるそれが魂をもった人間だとなる、動物とは違うからである

日本の信仰では、霊魂が人間の体に入る前に、中宿ナカヤドとして色々な物質に寓ると考へられてゐます。其代表的なものは石で、その中で、皆の人が承認するのは、神の姿に似てゐるとか、特殊な美しさ・色彩・形状を具へてゐるとか言ふ特徴のある物です
(折口信夫)

死んだ人の魂は消えるのではない、依然として未練がありこの世をさまよっている
それで祟りの霊ともなるから魂を鎮めるとして祈ったりした
死者に祟れることを日本人は相当に恐れたのである
それから魂が何か自然のものに宿るとした、玉とはその人間の魂が宿ったものとして表現されたのである

ともかく現代とはもう物質文明であり機械文明であり大衆文明でありそこに人間の魂は消失したようになっている、蝉の殻のようになっている
そしてその彷徨う魂の宿る自然も大都会にはないのである
墓にしても団地のように狭い空間に魂は押し込まれているのである
人は死んで骨となり灰となり海にまいたりも今はしている
ただそういうことをしても魂は別なのである、なぜなら魂とは目に見えないものだからである、それで魂合うというときそれは離れていても合うということになる

現代文明とは人間の本来の魂を否定した消失した文明である、だから古代人は現代文明人からしたら遅れたものであり野蛮人なのだとみる
ところが魂から精神から心からみればなにかかえって現代文明人の方が野蛮なのである
たましいが失っている、無数の物質に囲まれていて肝心の魂が失われている
物(もの)というとき物と心は一つのものだった、物に魂が宿るのである
それが西洋的思想と東洋的思想の相違である
西洋的思想では人間の心と精神は分離してみる、日本語では物は心でもある
物には心があり心が宿り魂が宿る
物と心は一体なのである、現代文明は物と心が分離しているからそこで物が豊かでも心は貧しい、病的なものになっているのだ 

つまり現代文明は魂から心から見れば病んでいるし一つの病的なものとなっているのだ
それかカルト教団だとかナチスを産んだのである
現代文明は心の面から魂の面からみれば異常であり狂気的なのである
それゆえに万葉集とか古代の人にかえって学ぶとなるのである
人間の関係でもそれは商品交換のためにあるのではない、物の交換のためにあるのではない、心を通じ合う、魂合うということが人間の人間たるゆえんなのである
グロ−バル経済とかなるともう商品のみがあり物だけがあり心は決して通じ合うことはない、そこに異常性が生まれる、なぜ戦争になるのか?
物と心が実際は分離しているからである
世界自由市場などは株式の世界で作られたものである、数パーセントの人に世界の富が吸い上げられている博打場だというときそうである
物と心は分離している、そこに紙幣とか貨幣が媒介して人間の魂も心も魂合うものとはならないんのである、魂離れになってしまうのである

うつそみの人なるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む

万葉巻二に、大津皇子の亡骸を、葛城の二上山に移葬し奉った時、大伯皇女の御歌二首と詞書きのある第一首目の歌(165)である。 

山を人間としてみている、これは西洋ではなかなかないだろう、ただ自然でも擬人化することはある
確かなことは自然に人間の魂が宿るこということなのである
山は大きいからなかなかそうなりにくい、でも二上山は比較的低いやまだから人間化されたとなる

 我が母の亡き魂宿らむ石なれや影なし涼し今日もありなむ

 我が家に嫁ぎてあわれ百歳を生きて死ににき霊宿る石

 我が母の目ただずありぬ歳月や亡き魂石に宿り鎮まる  

 我が家の庭に静まるその石に母の魂宿り虫の声聞く

死者の魂は石に宿る、私は石をテーマにしてきたから石が心となる、魂となり宿るとなる人間が生きて死ぬ、でも人間の肉体は消えても何か依然として残っている
それで人間が生きた所には伝説となり石でも人間を語るのである
それがまさに人間らしいのである、それで例えば原発事故の避難区域になった町や村ではもぬけの殻のようになった、蝉の殻だけが残っているという感じになった
古い空家などがそうである、そこには人は住んでいても老人だけである
すると死んだ町、村になる、ここで考えるべきは実は死者の魂が生きている
それがそこに人が住まなくなると幽鬼となり彷徨うなるから不気味なのもとなる
そこに生活して生者がいるとき死者の魂もともにいる感じになるからだ

そして死者の魂は石とかに宿り依然としているとなる
伝説の石となり村で語られて生き続けるのである、奈良では万葉集の歌われた場所が残っていて偲ぶことができるのである
それは1300年前のことなのである
でも依然としてそうした大昔でもその場所から偲ぶことができるのである
死者は語られることによって生き続けているのである
これは日本人的死生観であり神道なのかとなる、また日本人の文化なのだともなる
ただこれはキリスト教であゃ仏教であれイスラム教であれユニバーサルなものになりにくいのである
第一砂漠のような所に住んでいるとき、魂でも石すらなく宿るものがないのである
だから
だから魂は天に昇るとなってしまうのである、ただ本当の神は砂漠に住んでいたのであるそこは汚れない場所だったからである、水で禊したとしても水も汚れるからである
砂だと水のように濁ることもないからだとなる
そこを絶対的空間として神が存在したとなる、そこではとても山を人間などと見えないからである、だから日本の自然は親和的であったというのが違っていたのである





posted by 老鶯 at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

2020年08月25日

コロナウィルスにかかった近くの人は他に移り住んだ (いじめ、村八分、同調圧力の日本人の問題)


コロナウィルスにかかった近くの人は他に移り住んだ

(いじめ、村八分、同調圧力の日本人の問題)

すぐ近くで東京のライブハウスに行った人がコロナウィルスにかかった
それは福島県では一番早かったのである
このことは他でもありそれで批判された

それでガラスを割られたと聞いた時本当なのかと疑った
そこまでするのか?それより今日聞いた話ではその人は今ここに住んでいないという
その人は元からいた人ではない他から移ってきた人だと思った
この辺は本当に新しい街が三つくらいできたほど新しい家が建ったからだ
今でもやはり新しい家が建っているのである
それは津波の被害者もいるが原発事故で避難民になった人が移り住んだのだと見る
なぜならある場所では高級住宅街のようになっているからだ

でもそういう人が他にまた移り住めるだろうか?
また元々住んでいた人が簡単に他に移り住めるだろうか?
その辺がかりにくい、これは二人の人が言っているし間違えない
今回のコロナウィルスは何か異常に警戒して日本人の悪い面がでた
コロナウィルスに国民が一切に同調して防ぐのはいいのだけど
その反面自粛が過剰になり一人でも出たら許さないという異常自粛になった
つまりコロなりこうした日本人特有の同調圧力が怖いとなった

学校でもコロナウィルスにかかっているからと親が医療関係者の子どもかいじめなになった、前は福島原発事故で東京とかに避難した人たちが放射能はうつるといじめられたのと似ている
日本人は何か同調圧力が強い、それがいい面に働くと感染も防げるとなる
みんな一斉に警戒してマスクも全員するからである
するとマスクしないと責められる、別に政府が命令しなくても相互監視になる
田舎だと日常が相互監視になっているからだ

とにかく村八分というのが日本人の特性である、どこでもその話を聞くからである
陰湿ないじめが起きる、そして自殺したりする
よそ者を受け入れないとか普通にある、それが村という小さい範囲で生きてきた日本人の特性だとなる
コロナウィルスでも放射能でも何かあるとこうなりやすい
学校のいじめでは実際にバイキンバイキンとしていじめられたからである

ともかくコロナウィルスに警戒過ぎるという意見も今はテレビ以外でかなりでている
何か過剰警戒になりすぎて自粛になりすぎている
ただの風邪だインフレインザでは騒がないのになぜこんなに死者も少ないのに騒ぐのかとなる
それで経済とか精神まで委縮してしまった
そうしたし抑圧された委縮したマインドは変わらない、変えられないというとき
人間はつくづく心理的な影響が大きい
何かマインドが氷河期のように冷え込んでしまったのである
それはあくまでも過剰な警戒の心理的なものでそうなったのである
景気は気持ちだというとき確かにそうである
気持が委縮してしまったことが一番の問題だったのである
コロナウィルスにはつくづくそういうものだということを今回意識したのである
そして一旦こうして委縮した冷えたマインドはなかなか回復しないのである

それでコロナウィルス前とコロナウィルスの後ではニューノーマルな生活をしろとなる
時代が変わるという時、こうして心理的なものからマインドから変わるのかとも見た
そういうマインドが変わり社会も変わる
これは個人的なものでも同じである、人間はこうした心理的なものに左右されやすいのである
つまり気分に左右されやすい、その気分で高揚したり落ち込んだりする
何か現実に実際に起きたことより起きないことでもその前に心がマインドが冷え込んていて景気も悪くなる、景気とはまさに気だからである

ただおそらく株が下がらないのは不思議だけど日銀が金融を操作しているのであり
とても国民の経済が向上しているとはとても思えないからだ
おそらく国民の心が気分がマインドが落ち込まないように日銀が操作している
それは世界経済でもアメリカの株が上がっているのも同じである
株がおちこむとまたパニックになり本当に冷え込んで景気が落ち込み恐慌までなるからだアメリカではすでに各地で暴動が起きている、不穏な情勢にある
それが大きな暴動に発展して内乱状態にもなる

いづれにしろ人間の気持が個々人でも人間の集団でも左右するのが大きい
コロナウィルスは人間の気分をマインドを変えたことが問題だったのである
だから経済でも活気をとりもどすは相当時間がかかる
一旦冷えた心はマインドは簡単に変わらないということである
伝染病は現実としてもそうだが人間の心を過剰な自粛とか他人へのバッシングになる
もう一人でも地方ででたら許せないとなる
それが田舎の地方の異常性だとなる、ただそれだけ警戒するのだから安心だということもある、そうした二面性があり複雑だとなる

この辺の原発事故の放射能問題にしてもそうである
これをどれほど警戒していいのかわからない、過剰になるともう住めないとなる
そうでなくても若い世代は避難して他に家を建てたりし帰らなくなった
この放射線もどれくらい恐れていいのかわからない
ただ地元では補償金ではもめてもコロナウィルスではそうはなっていない
ただ感染した人がバッシングされて住めなくなったということは驚きである
ということは相当なプレッシャーがかかったということなのである   

コロナウィルスは世界共通に症状も現れないとかあり過度に警戒することもこうして心に影響するから問題なのである
なにもないとすることも問題だが地方での過剰な自粛がエスカレートして何か抗議文を張り付けたり過剰自粛になるのは問題である
それで警察もとりしまるとしている、それは犯罪なのである
とにかくコロナウィルスはまだ先が見ない、冬に向かって第二波、第三波が来るのかわからない、人間はやはり未知なものに対してこうして過度に警戒して心も委縮するものだと思った、そして一旦委縮してしまった心はなかなか回復できなくなるというのが問題なのである、死者とか少なくてももう元の社会に戻らないという時、コロナウィルスいかに実被害より心理的な面で被害がすでに大きかったとなる    


2013年7月21日の夜、山口県周南市の山間部にある集落で、2軒の家が燃え、3名が亡くなった。翌日昼、別の2軒の家からそれぞれ遺体が発見される。5名の遺体には、外傷があった。人口わずか12人の限界集落で突如発生したこの連続殺人放火事件で逮捕されたのは、殺害された村人たちと同じ集落に住む保見光成(69)。今年7月、彼の死刑判決が確定した。
(つけびで有名になった)

津山事件(つやまじけん)または津山三十人殺し

今でも田舎で起きる凶悪殺人事件はやはり田舎の闇である、村八分やいじめ体質があり起きる事件である、日本人にはこうした狭い村で生活して来たことで闇の部分として日本人の体質となっている、時々こうして爆発を今でもしているのである

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2020年08月26日

蝶の写真一枚

蝶の写真一枚

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夏の蝶花園に入り蜜を吸う

写真は何か偶然である、だから何枚も量をとることがうまくなるコツだというのもわかる
適当にとっていて数が多ければいいものに当たるともなる
これも偶然だったのである、動いているものは連写になる
偶然に背景がぼけていたのもいい

写真も相当に訓練である、カメラの良し悪しもあるが数多くとることである
それなら誰でもできるとなる、いろいろ考えないで量をとることだとなるからだ
これは実際に見てとったり良かったのである、わからないところも映っていたのである
何か写真の眼が人間よりすぐれた所があるので発見があるのだ

結局私が継続している抽象画もそうである、コンピュターで生まれた新しい芸術なのである
AI時代になるとますます人間の能力がコンピュターによって開発される
すると能力がなくてもそれなりのものはできるとなる

この蝶はあまり見映えがしない、揚羽だったち夏らしかったとなる
とにかく今日も暑かった、川に行ったがそれは明日のせる


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